たかがりとボラボラ祭り
「今年のボラボラ祭りなのだが、例年よりもボラボラの数は少なくなるだろう。たかがりが出ているようだ」
その日のウィームは、遅れて訪れたボラボラ祭りの為に朝から賑やかであった。
ネアはボラボラ祭りも延期になるのだなと知って驚いたが、少し前にネア達も巻き込まれたボラボラの集団が公園を不法占拠した事件のせいで、一斉出現の日が遅れたのだとか。
ボラボラ退去の為に招聘された精霊達による捕獲劇を経て、警戒したボラボラ達が大規模な活動を自粛していたのだ。
美味しい雪梨のジュースを飲んでいたネアは、エーダリアの言葉に目を瞠った。
朝食後のこの時間は、例年であればボラボラがかなり活動的になる時間帯である。
例年より数が少ないのであれば、霧が出ているからだと思っていたが、違うのだろうか。
(…………むむ!)
会話の途中ではありますがと、テーブルの中央に置かれたお皿の上の上等なチョコレートを一粒手に取ったネアは、ぱくりと口の中に入れたもののあまりの美味しさに、無言でむにゅむにゅした。
若干隣の席の魔物が儚くなりかけているが、これからの何粒分かも繰り広げられる事になるので、どうか我慢して欲しい。
これは、先日はちょっとした事件に巻き込まれたノアからの、みんなへのお詫びのお菓子なのだ。
「鷹狩りでしょうか?」
「ああ。たかがりがあると、その年は、ボラボラの出現が少なくなる。精霊達に不満は出るかもしれないが、領主の立場としては幸いだな」
「ボラボラは、鷹さんが怖いのです?」
「ネア、た、かがりだよ?」
「むむ、た、かがり?」
ネアとエーダリアの会話の齟齬に気付いたディノに正確な発音を教えて貰い、ネアはこてんと首を傾げた。
すると、たかがりとは、妖精の古い言葉で“タ”と呼ばれる幻の火が霧の中に灯る現象で、魔術的な蜃気楼のようなものである事が明かされた。
しかし人間の会話の中では、タという音が扱い難かった為に、タの篝火が灯る日としてたかがりという言葉が出来たのだとか。
「ボラボラは、同族の認識が出来ないと話をしただろう?」
「むむ、それは恐らく誤情報だと思われます。ボラボラさんは、集落を持ち長老までいるのですよ?」
「ああ。お前達の経験を経て、完全に同族が認識出来ないという訳ではなく、地上に出たボラボラ達の活動状況からそのように語り継がれていたに過ぎなかったのだと判明したのだが、こちら側に現れ、求愛活動中のボラボラが同族を見ないのは確かなのだ」
「…………まぁ、そうなのです?」
そう聞いたネアは、てっきり相手を見ないようにしているのだと考えたのだが、それもまた違うらしい。
ボラボラ達は、地上では互いを認識しないような特殊な魔術的な措置を取っているらしい。
或いは、求愛中のボラボラが何らかの身体的な変化を遂げる事により、限定的にそのような状態になっている可能性もある。
これまで、ボラボラの集落を訪れた人間はおらず、大人になってボラボラから解放された子供達も多くを語らなかった為、詳細な生態が紐解かれていなかったのだ。
(そう言えば以前に、生態の研究にはボラボラが反応を示す子供が必要になってしまうので、人道的な見地からあまり研究が進まない生き物だと聞いた事があったかもしれない…………)
「ディノにも、分からないのですね?」
「……………うん」
「と言うより、ディノもボラボラはあまり得意ではありませんものね」
「ご主人様…………」
「となると、ここはやはり、系譜の王様なアルテアさんに…」
「知らん」
「むぅ。では、そのような事実があるという事だけを、認識しておきます」
「ああ、そうしてくれ。…………その上でのたかがりなのだが、この篝火が霧の中に灯ると、ボラボラ達が、こちらでも同族の姿を視認出来るようになるらしい」
「…………それが、ボラボラさんは嫌なのです?」
「…………どのような心の動きかは兎も角、それを嫌うのは間違いないようだ。たかがりが灯ると、ボラボラ達はすぐに姿を消してしまうからな」
その際に、互いの姿を見てびゃっと飛び上がり荒ぶり出すそうなので、ここでもまた人間達は推理をし、ボラボラはそれが気に食わないのだろうと判断をしたらしい。
そんな会話の折に窓から街の方を見てみると、確かに今年はボラボラの数が少ない。
ボラボラの仮装をして歩いている人間達もいる筈なので、見た限り昨年の三分の一程度ではないだろうか。
「僕さ、ふと思ったんだけど、…………ボラボラの伴侶探しって、主に人間の、それも同性の子供狙いな訳だよね?」
「あらためて聞くと、何と嫌な趣味なのだ」
「でもさ、街中に夥しい数の同族が溢れると、そんな恋の相手って探し難いと思うんだよね。それって、繁殖には不利じゃないかな?」
「ノアが、とうとうボラボラ博士になろうとしています…………」
「ありゃ、その称号は嬉しくないなぁ……………」
「ノアベルトが…………」
塩の魔物の推理はこうである。
ボラボラの伴侶候補達は、とても小さい上に大人達に庇護されて隠れている。
同族が溢れる地上では、そんな伴侶候補を探そうにも極端に視界が悪くなってしまう。
より効率のいい伴侶探しの為に、その伴侶を隠してしまうかもしれない体格の同族達を、視覚的な障害物として認識出来ないようにしたのではないかと言うのだ。
「つ、つまり、ボラボラさん達は、互いの体を透かして向こう側を見ているのですか?」
「透過魔術や透視魔術がある以上、それ自体は出来ても不思議はないものだよ。うーん、奥深いなぁ。アルテア、ボラボラの固有魔術について研究しなよ」
「するか……………」
「でもこれ、選択の魔術の中でもかなり高度なやつだよね」
「ほわ………。ボラボラは凄いのですねぇ」
「独自の道を持ち、集落を形成して個体数を維持している訳だからね。考えてもみてよ。高位の精霊に季節の味覚として狩られながらもあれだけ繁殖してるんだからさ」
「……………いいか、その話題はもうやめろ」
「まぁ、アルテアさんが弱ってしまいました」
「アルテアが……………」
ひどく暗い目をしてそう呟いた魔物は、本日は、光の当たる角度で青みがじわりと滲むようなあまり見かけない紺色のスリーピースを着ている。
赤紫の瞳の印象が強いアルテアには、一見合わせ難い色にも見えるが、こうして見てみると実によく似合う。
決して華美ではなく、どちらかと言えば渋めの印象にまとめた選択の魔物の着こなしの技量によるものだ。
残念ながら、そんな美麗な装いの選択の系譜の王はボラボラが相変わらず苦手なようなので、ネアはそんなボラボラについて思いを馳せる。
今年はボラボラに拐われていないし、ボラボラが出ている街に出る用事もないので、この安全な場所からぬくぬくとボラボラ推理が出来るのだ。
(もしかして、可動域の低い子供を極端に嫌がるのは、それだけ苦労して伴侶探しの為に進化してきたのに、伴侶候補を見付けられなかったことへの抗議なのかもしれない……………)
かつて、ちくちくのセーターを着られなかったネアにも、そんな苦しみを噛み締めた頃があった。
幸せになろうと奮起し、色々頑張ってみたものの、そんな努力が実らない時の苦しみは何もしない時に勝るのだ。
自分が一番可愛いネアは、その苦痛に耐えきれず伴侶探しなどは投げ捨ててしまったが、ボラボラ界にもそのような苦悩や挫折があるのかもしれない。
地面に寝転がって暴れるのは、彼等なりの悲痛な心の叫びなのかもしれないのだ。
「ボラボラさんも、伴侶探しの為に並々ならぬ努力を重ねられているのかもしれません。その脅威に晒されていない今、やっとあの方々の苦しみが分かったような気がします」
「わーお、僕の妹が突然ボラボラ派になったんだけど…………」
「しかし、伴侶探しというものは、とても大変なものですよ?私が以前に暮らしていた場所では、正常な人間は伴侶を得て枠組み通りの人生を送るべきだという価値観がありましたので、何年かは頑張ってみましたが、あれ程心を削る時間もありませんでした………」
そんな事をネアが告白すると、なぜか魔物達がこちらを凝視するではないか。
なのでネアは、こちらにおわすはそれなりの戦歴を積んだ猛者なのだと示す為に厳かに頷きかけてやった。
「……………ネアが虐待した」
「むぅ。ディノと出会う前の事ですし、そもそも、無残に仕損じたものなのです」
「え、………デートとかしたの?」
「なぜ涙目なのだ…………」
「いいか、こちら側に身を置く以上は、そちらでの事は切り捨てろと言っただろうが。強欲にも程があるぞ」
「あら、過去の経験録に過ぎないものなので、価値あるものとして手元に残しておきたいものではありませんよ?」
「ほお、だったら思いなど沿わせずに捨てておけ」
「ですが、得られない者が得ようと努力するにあたって、どれだけの心を削ぎ落とさなくてはならないかは理解しているつもりなのです。なので、ボラボラさん達もきっと、……………む、」
ここでネアが言葉を失ったのは、ムフォーというボラボラ達の激しい雄叫びが窓の向こうから聞こえてきたからだ。
あまりの音量にぎょっとして立ち上がれば、霧の出ているリーエンベルク前の並木道に、ぼうっと篝火が燃えているような灯りがゆらゆらと揺れていた。
それを見たボラボラ達が、一斉に騒ぎ始めたのだ。
あまりの騒ぎにアルテアはすっかり青ざめてしまい、残忍な現実から逃れる為にか、テーブルの上にあったグラスにきつめの蒸留酒などを注いで飲み干している。
ボラボラを見たくないのであれば、自宅に居ればいいのに、近年はボラボラに拐われ過ぎて一人で居るのも不安になってしまったらしい魔物を、ネアはそっと撫でてやりたくなった。
「エーダリア様………」
「あれが、たかがりだ。自然現象なので、魔術的に操作出来るものではないが、現れてくれるとボラボラの被害が少なくなるので、やはり有り難いな」
「…………あんなに嫌がるのだね………」
「その、あまり指摘したくないのですが、今年は伴侶さんを得られなかったボラボラさんが荒ぶり、来年はいつもより沢山来るという事はないのでしょうか?」
おずおずとそう尋ねたネアに、アルテアがゆっくりと顔を上げた。
まるで世界に裏切られた人のような目をしているが、そもそも、あのボラボラ達は同じ系譜の生き物である。
「いや、そうはならないだろうな。たかがりが現れると、その地域にいたボラボラは、遠く離れた別の土地に移動して伴侶探しをするようだ。あの位置にも現れたとなると、今年は完全にウィーム領内を避ける可能性が高い」
「まぁ。どちらにせよ今年の伴侶探しは諦めないので、ボラボラがいなくなった地域は、被害を減らせるだけで済むのですね?」
「ああ。そういう事になる」
とは言え、今日がボラボラ祭りである事に変わりはない。
リーエンベルクの騎士達の一部は、ボラボラスーツを着て街の騎士団の応援に出ているし、万が一にもリーエンベルク内への侵入がないよう、ヒルドの指揮でこちらの見回りも強化されている。
となると、皆もあのたかがりをどこかで見ているのだろうか。
(……………不思議な火だわ)
ネアは、霧の中に揺れている蜃気楼のような灯りを窓から見下ろし、その穏やかで丸い光にほうと息を吐いた。
どこか優しく柔らかな篝火のようなものは、見ていて不安や恐怖を感じたりはせず、寧ろずっと見ていたいような温かな色をしている。
霧の粒子に光が散乱するものか、不思議な十字の煌めきが浮かび上がるのもまた、ただならぬものという感じだ。
「あれは、因果と真実の系譜の、誘導灯のようなものだね。正しい道行を示す魔術としては、灯台妖精達の固有魔術に近いかもしれない」
「だから、ボラボラさん達に同族が見えるようになるのでしょうか?」
「祝福の火に近いもののようだけれど、擬態なども解いてしまうかもしれないから、一概に良いものとは言えないかもしれないけれどね」
そう教えてくれたディノに、エーダリアもこくりと頷く。
その可能性を懸念し、ヴェルクレアでは、たかがりの近くには仕組みを明かされてはならない魔術を近付けないよう徹底されているらしい。
国内で常用されている魔術の中には、その術式を国外に持ち出されたくないものも少なくはないのだ。
ここでネアは、ふと、疑問を持った。
「……………むむ、となると、リーエンベルクの隔離結界に守られているアルテアさんも、ここにいると知られてしまうのでしょうか?」
「やめろ…………」
「前のような釣り糸が投げ込まれないように、気を付けておかなければなりませんね」
「……………これかな」
「……………っ?!」
「わーお。シルが、もう一つ見付けたぞ……………」
ディノが指し示したのは、きらきらと光る細い糸で、以前にネアが巻き添えになった時の釣り糸によく似ていた。
伴侶がまた拐われたら困ると考えたディノが、既にばっさり断ち切ってしまっていたが、系譜の王様を招こうと投げ込まれた事は間違いないようだ。
そろりとアルテアの表情を窺ったネアに、選択の魔物は手を伸ばしてどこからか杖を取り出した。
「いいか、今日はくれぐれも離れるなよ。勝手に事故らないようにしろ」
「…………まぁ、アルテアさんがすっかり怯えてしまいました」
「アルテアなんて………」
「ありゃ。僕の妹を杖で押さえないで欲しいんだけど」
「これはその、…………私を離さないで的なサインですか?」
「やめろ、そんな訳ないだろうが」
「…………このような場合は、お前を指名するのだな」
「むむ、確かにそうです。か弱い乙女ではなく、ディノやノアに掴まっていた方が頼もしいのではないでしょうか?ボラボラの集落へ遊びに来ていた事もあるノアがお勧めです」
「え、僕もあんまり得意じゃない………」
「では、アルテアさんをちびふわにして、ウィリアムさんに預かっていて貰います?もし、諸共拐われても、ウィリアムさんなら心強いのでは………」
「いいか、絶対にやめろ」
顔色の悪い使い魔から強くそう言い含められて首を傾げたネアは、義兄から、ボラボラの手に落ちるかもしれない日に、選択の魔物をちびふわにしてはならないと言われて得心する。
「では、アルテアさんは、そのままウィリアムさんに預けて……?」
「おい、その前提からやめろ。…………っ、」
ここでまた、きらきら光る釣り糸のようなものが現れた。
アルテアは即座に魔術で焼き切ってしまったが、顔色は悪くなるばかりである。
また、エーダリアについては、珍しい召喚の釣り糸についての観察記録を取るのは、アルテアの精神衛生上もやめた方がいいのではないだろうか。
はらはらしたネアが伴侶な魔物を見上げると、ディノは微笑んで頷いてくれた。
ややあって、出来たよと教えてくれる。
「…………やはり、ボラボラは選択の中でも特殊な魔術を扱うようだね。召喚などの魔術の手が伸ばせないようにしてみたけれど、少し時間がかかってしまった」
「わーお。僕にもまだ編めなかったのに、やっぱりシルは凄いなぁ。まぁ、アルテアだけなら年に一度くらいは系譜の集落を訪れるのもいいかなって思うけれど、ネアが巻き込まれそうだからこれで一安心かな」
どうやらノアも、これ以上の釣り糸が投げ込まれないように、対策を取ろうとしてくれていたらしい。
これで使い魔が拐われてしまわずに済むと安堵したネアだったが、異変はそれで終わりはしなかった。
ぱさりと音がしたのは、それから半刻ほどしてからのことだ。
ボラボラは、たかがりの現れたリーエンベルクの周辺からはすっかりいなくなってしまい、安心したネアが、今年のボラボラ祭りはもう終わりかなと、本日のおやつのメニューを確かめようとしていた時である。
柔らかなものが落ちるような音がしたのは部屋の入り口近くで、ゆっくりと振り返った全員が見たのは、床石の上にふぁさりと落ちた、可愛いピンク色の巾着袋であった。
ごくりと、誰かが息を呑んだ。
「……………わーお。呼べないと分かったら、献上品を投げ込んできたぞ………」
「ご主人様………」
「おのれ、私の伴侶がすっかり怯えてしまいました!ディノ、怖くないですからね?」
「くそ、選択の顕現魔術か。あいつ等は、どれだけ厄介な魔術を編む気だ…………!」
「祝福もかけて、生贄の儀式なんかに使う献上魔術の亜種のものもかけてあるね。…………ありゃ。エーダリア、ここでメモは取らなくていいんじゃないかな」
「閉鎖型の試練魔術の打破などには、活用出来ないだろうか?森食い鳥や、領域を指定して行われる雪食い鳥の試練に有効かもしれないと思ったのだが………」
「うーん、その場合は、送り込めるのが今回みたいに品物である事が限定されるから、必ずしも有効とは言えないかもしれないよ?」
「な、成る程…………!」
すっかり魔術教室が始まってしまったエーダリアとノアを一瞥し、ネアは、次々と積み重なってゆく手芸品の数々に慄いていた。
巾着袋だけではなく、可憐な鈴蘭の刺繍のエプロンや、何枚かのセット仕立てになっている布巾、お道具袋に、簡単なシャツや帽子、可愛らしいボラボラぬいぐるみまである。
しかし、そんな献上品を捧げられた選択の魔物の瞳は、もはやどこも見ていなかった。
虚ろな赤紫色の瞳があまりにも痛ましく、ネアは、そっと手を伸ばして肩に触れてみる。
触れただけでびくりと体を揺らした魔物は、どこか寄る辺ない無防備さがあって胸が苦しい程だ。
ネアは、伴侶な魔物を羽織ったまま椅子を寄せると、そっと冷たい手に触れてみた。
今は手袋を外しているその手には、しっかりと嵌められた指貫がある。
迷子防止用の靴も履いていてくれて嬉しいが、よく考えれば本日のアルテアがどれだけの不安を抱えているのかを示すものなのかもしれない。
「その、………今年は拐われずに済みそうなので、このくらいは良しとしませんか?」
「……………そうか。あれは全部お前にやる」
「……わ、私とて、ボラボラに崇められた恐怖が蘇るので、欲しくありません。なぜ思いやりに仇で返すのだ」
「ほお、縄も届いたようだぞ?あれはお前用だろうが」
「にゃわわ…………」
ぼさりと落ちてきたのは、綺麗な紫色と水色の飾り編みの縄のようなものだ。
ネアはとても静かな目でそれを見つめ、そっと首を横に振った。
あのアルビクロムでの学びを経験とするのであれば、それは共に戦ったアルテアにも共有されるべきものだろう。
「アルテアさんも同じ学びを得た筈なので、あれはご自身で使って下さいね。残念ながら、縛って下さる方の手配までは出来ませんので、そちらはご自身で探していただければと……」
「やるか」
「師匠が戻って来てくれれば、師匠に依頼するのですが…………」
ネアは、そろそろこちらへ戻る頃合いのグレーティアを思い、淡く微笑んだ。
梱包妖精のグレーティアは、にゃわなるお作法の師匠であるだけではなく、あのラエタのあわいの最終局面でははぐれてしまったものの、蝕では共に戦った戦友でもある。
共に過ごしたのは短い時間だったが、無事に戻って来たのならすぐにでも会いに行きたい、どこか心を寄せられる知人でもあった。
(ムガルめはさて置き、ウェルバさんにも会いたいな……………。でもまずは、テイラムさんとの時間を埋めるのが先決だから、こちらに戻って来たという一報が入ってから、一月くらいしてからお菓子でも持って会いに行こう…………!)
そんな懐かしさと慕わしさに頬を緩めていたネアは、絶え間なく積み重なってゆく手芸品の山に、アルテアがますます弱ってしまっている事を失念していたようだ。
系譜の王にたっぷりと捧げ物をしたいボラボラ達に心を病んでしまった魔物は、逆にそろそろ手芸品のお届けに慣れて来たディノがネアから手を離したタイミングで、ネアを膝の上に抱え上げてしまう。
「ぎゃ!なぜに突然椅子になったのだ!!今日に限っては、アルテアさんとセットになるのは不安しかないので、すぐに繊細な私を解放して下さい!!」
「お前を野放しにしておくと、事故りかねないからな。安全措置を取ってやっているんだろうが」
「むぐるるる!」
「アルテア、その子は私の伴侶なのだから、手を離そうか」
「……………ありゃ、かなり追い詰められてるぞ。そもそも、ウィームはもうボラボラの危険はなさそうなんだし、この貢ぎ物が嫌なら、併設空間にでも避難しておけばいいんじゃないかなぁ…………」
そんな提案をしたのはノアで、ぎくりとしたように体を揺らしたアルテアは、あまりにも追い詰められていたせいか、もうここにいなくてもいいのだと気付いていなかったらしい。
赤紫色の瞳をはっと瞠り、なぜか、ネアを抱えたまま立ち上がる。
「……………よし、行くぞ」
「なぜ諸共運ぶ気なのだ。私は、この後の昼食で食事の後に出てくる、パラチンケンなおやつを楽しみにしているので、会食堂に向かうのですよ!!」
「おい、それくらい後にしろ」
「正直なところ、この状況でおやつとアルテアさんなら、おやつと言わざるを得ず………」
「ほお、それならもう、俺からのパイが二度と届かなくなってもいいんだな?」
「……………ほわ、まるでこのままだと死んでしまうかのような話ぶりです。大袈裟なのだ………」
既にウィームの主要な都市部や集落のあちこちから、ボラボラの撤退の一報が届き始めていた。
小さな子供達の親は、さぞかしほっとしている頃だろう。
そして出来れば、ウィームなどから離れて、親を亡くした子供達がいるような戦さ場に向かって欲しいとネアは考えている。
(……………まだノアが、得体の知れない魔術師さんだった頃……………)
あの時に通訳をしてくれた少年は、お母さんで求婚相手な同性のボラボラと、まだ幸せに暮らしているのだろうか。
この世界にもきっと沢山あるに違いないちくちくしたセーターの中で、あの二人の結んだ絆は、どれだけ歪に見えてもふわとろの極上のセーターなのだ。
だから、例えば今度投げ込まれてきたフリルのある水玉のエプロンは、あのボラボラの作ったものなのかもしれない。
そしてその隣には、あの少年がいて、目を輝かせて大切な家族を見上げているのかもしれない。
それは、一人ぼっちの部屋や、何か特別な事が起きそうな風の強い日や、雪の降ったクリスマスの日にネアがおまじないに込めた願いのような、きらきらと光る美しいもの。
“…………覚えておいてね、愛しい子。我が家にはとても素敵な隣人がいるの。ジョーンズワースだけが知る、特別な色を持っているわ”
ふと、そんな母の言葉が記憶の頁の中からこぼれ落ちてきた。
“私達の特別な隣人は、優しく白い菫色に、夜の光の色。もし、とても怖いものに追いかけられたなら、…”
(……………その後の言葉は、何と続いたのだろう)
記憶の中のその場所は、真っ暗な劇場前の歩道だった気がする。
まだ小さなネアにはその言葉の意味は分からなかったけれど、あの日から、菫の花は大切なお守りのようなものになった。
それはきっと、小さな子供を持つ親の唱える、古い子守りのおまじないのようなものだったのだろう。
実際に、ネアが生まれた国にはそのようなものが沢山言い伝えられ残されていた。
「…………だからなのだわ」
「ネア………?」
「ディノ、…………ふと思い出したのです。私の育ったところでは、子供を守ってくれるようなおまじないの言葉の中に、二つの色がありました。私は、なぜグラフィーツさんに不思議な慕わしさを抱いてしまうのだろうと考えていたのですが、あの方は、その子供を守る為のおまじないの配色を持っているのです」
「……………グラフィーツが、かい?」
「ええ。白菫色と、夜の光の色。…………だからだったのですね。私の中にもまだ、そんな風にして母から伝え聞いた幼い日の祝福のようなものが残されていただなんて、今迄気付きませんでした」
「それは、君にとっていい事なのかな?」
「ええ。優しい思い出ですから」
ネアが頷くと、ディノは淡く微笑んでそうなのだねと呟いた。
だからネアは、とても繊細で優しい伴侶の為に、今の、この世界に来てからただのネアになった自分のお守りの色は、真珠色と水紺色の伴侶の色なのだと教えてやる。
「ネアが、……………かわいい」
「…………むぅ。遺言になりました………」
「わーお。僕の妹が、またシルを殺したぞ」
「解せぬ」
今年のボラボラ祭りは不作だったと、後にウィームの精霊達はぼやいていたと言う。
季節の味覚のボラボラは、彼等にとって特別なご馳走なので、勿論、ボラボラの現れた国まで狩りに行ったそうだ。




