砂漠の楽団と約束の食卓
黎明の気配に滲む砂丘の端に、小さな夜明けの兆しを見た。
暗く艶やかな夜は緩み、ふくよかな黒と紫の砂漠の夜は、張り詰めた弦を反対側に絞るようにして夜を減退させてゆく。
さらさらと夜明け前の暗闇の中を風に舞う砂塵と、そこに宿り煌めく古い祝福の欠片。
テントを出て伸びをすると、闇色の向こうでこちらの気配を感じたものか逃げ出してゆく黒い鳥がいる。
そんな砂闇鳥達は、砂漠の夜の欠片が祝福や魔術として翼を持ったものだ。
生き物というには曖昧な存在なので、気に留めず歩き出した。
今夜は、不思議なくらいに寝苦しかった。
近くに火の系譜の高位の者が来ていたらしく、夜になっても砂漠の気温があまり下がらなかったのだ。
眠れずにテントの中で夜を過ごし、こうして夜明け前に外に出たのは、この夜明け前の一番暗い時間に近くの泉を訪れようと思ったからだ。
静かな砂漠を無言で歩き目当ての泉に辿り着くと、周囲を最上位の隔離結界で閉ざしてしまい、着ているものを全て脱ぎ、清廉な泉に体を浸す。
「……………ふぅ」
まんじりともせずに過ごした夜の中で火照った肌に、その泉の水は何とも心地良かった。
泉の周囲は夜と砂の系譜の祝福石に転じており、最初に見付けたウィリアムが隔離結界を敷いてからは、訪れない時でも望まない要素の侵入は防いでいる。
泉の周囲に僅かに残った石畳には鮮やかなモザイクがあり、崩れかけた柱にも緑柱石や瑠璃などの宝石の装飾が見られるここは、かつてはこの地に栄えた都の、切れ端のように残った遺跡でもあった。
見上げた先には大きな杏の木があり、泉の祝福で残されたこの僅かな土地は今、ウィリアムの砂漠の住まいの浴場代わりになっている。
暖かな湯に浸かりたいときにはさすがにどこかの町の宿や自分の城に行くが、記憶や心を空っぽにする為にこの砂漠で過ごしたいような夜は、身を切るように冷たい泉の水こそを求めてしまう。
あまりにも疲弊すると一人で砂風呂に出かけてゆくこともあるのだが、最近では、誰かと行く機会も増えた。
ざぶりと水に潜り、髪を濡らす。
滴り落ちる雫を跳ね上げてから目を開けば、夜明け前の一番暗い時間もそろそろ終幕のようだ。
(……………何もなかったか)
そんな事を考えたのは、この時間も一種のあわいにあたるからだ。
在るべきものがなく、ない筈のものが在る時、そんな異変の影響を受け、見慣れないものが現れる事がある。
こんな夜明けには決まって奇妙な者達の姿を見て来たが、今夜は遭遇せずに済んだらしい。
或いは、そのような者達はみな、夜の砂漠の冷気を遠ざける程の火の気配に向かってしまったのだろうか。
またざぶりと水の中に沈み込み、泉の中から星がこぼれ落ちて来そうな砂漠の夜空を見上げた。
(ああ、……………)
水の中で、夜空に手を伸ばした。
水面に上がってゆく気泡と、そこに滲み煌めく星々の中を、一筋の流星が横切ってゆく。
ゆったりと体を冷やすべく目を閉じるつもりであったが、その色に眉を顰め、体を起こして水の中から立ち上がった。
(……………来たか)
濡れた前髪からぱたぱたと落ちる水滴に、泉の淵の結晶石がぼうっと光を宿した。
目を細めて空を仰げば、やはり星の輝きが徐々に弱くなっていっている。
先程の流星は凶兆の色であった。
そうして今度は、正常な夜空が失われてゆくのだから、魔術的な特異点が広がりつつあるのだろう。
辺りは、いつの間にかしんと静まり返っていた。
先程までは静けさの中にも砂の中に身を隠したもの達の気配があったのだが、それが一切感じられなくなっている。
隔離結界の中にいるとは言え、水辺というものは魔術を繋げ易いものだ。
さして楽しめなかったなと小さく溜め息を吐くと、持って来ていたタオルで手早く体を拭いてしまい、衣服を身に着ける。
夜明けの光が差し込んでくるまではあの水の中にいようと思っていたのだが、予想以上に早く上がる羽目になってしまった。
(……………星は、すっかり見えなくなったな)
泉の周辺の土地に上からかけた隔離結界を解いて砂の中に足を踏み出せば、軍靴の下で、砂がきしりと音を立てた。
余程冷え込んだ夜にしか鳴らない音に眉を顰めると、はらはらと降り始めたものがある。
「……………雪か」
小さくそう呟き、深く深く闇色のスープを浸したような砂漠の夜を見渡した。
先程まで感じられた黎明の気配は消え失せ、この一番暗い時間の闇の色だけが揺蕩っている。
念の為に人間のような呼気を再現してみれば、吐き出した吐息は白くけぶった。
ざあっと、どこかで風がうねる。
その風の中のどこかに、遠い昔の賑やかな街の喧噪が混ざり込んでいたような気がしたが、それもすぐに千切れ飛んでいってしまった。
砂漠の殆どは、この世界になってからの亡国の跡地だ。
(だから、このような事は、決して珍しくはない)
この気温であれば、テントでもう一度眠るのにいいかもしれないと考えながら、水晶の粒を踏むような硬質な音を立てて砂漠を歩いてゆけば、どこからともなく狂おしいバイオリンの音色が聴こえてくる。
一瞬、自分の残した証跡が影絵などになっているのかと思いぎくりとしたが、耳を澄ませてみれば、どうやら聴き慣れない旋律であるようだ。
どこか背筋が冷たくなるような調子と、優雅だが悍ましい艶やかさに妖精の気配を感じて、足元の遮蔽魔術に終焉そのものの隔離魔術を重ねがけする。
そして、その一団に出会ったのは、テントにほど近い砂丘の谷でのことだった。
砂丘と砂丘の谷間にあたる暗い場所に、何か光るものがあるなと目を凝らしたところで、漆黒の燕尾服の楽団がいるのが分かった。
黒い燕尾服と黒いドレスは闇に沈み込み、全員が黒髪であるようだ。
男達の白いシャツの色と、楽器の一部が僅かな光を反射しており、その煌めきが目を止めたのだった。
盛装姿の楽団員達は、その半数が妖精だろうか。
どの妖精の羽も黒いが闇の妖精の気配はなく、元々は違う種族だった妖精達が、砂漠の闇の中に凝り、変質して祟りものに近しいものになり果てているのだろう。
とは言え、華やかな舞台での演奏に臨むような燕尾服やドレスの形状は時代がまちまちで、明らかに後からこの輪に囚われたとおぼしき人間達もいる。
どうやら、音楽で旅人を招き寄せ、引き摺り込むようなものであるらしい。
(こちらには見向きもしないのであれば、妖精の侵食魔術にかかった獲物を取り込むのか、或いは資格のある者しか近付けないのかもしれないな……………)
そう考えながら砂丘の上から楽団を見下ろし、とは言えそれ以上の興味を引かれることもなく通り過ぎようとしたところで、ひたりと冷たい指先を背筋に当てられるような感覚に息を詰めた。
歩いている砂山の砂を崩さないように慎重に立ち止まり、眼下の楽団を見つめたがやはりこちらに興味を向けているような様子はない。
眉を顰めどうしたものかと足を踏み替えたその時、罠にかかったらしい獲物の姿が見えた。
「おお、噂に聞いた闇零しの楽団か!白夜の雪山でも巡り合えず、新月の日の海の中の森でも出会えなかったが、漸く巡り合う事が出来た………」
歓喜を滲ませた声でそう呟き、砂丘を駆け下りていったのは一人の痩せた男であった。
この土地の装束を身に付けているが、着慣れた様子はなく旅人だとすぐに分かる。
譜面を纏めたような紙挟みを持ち、肩からはバイオリンのケースを掛けている。
名のある音楽家なのかもしれなかったが、どうやら探し物を見極める目は持たなかったらしい。
愚かな人間が駆け寄ってゆくのは、闇の系譜の銘ある楽器を集めた闇零しの楽団ではなかった。
かの楽団も彷徨える音楽家達であるが、ここに凝ったもののような悍ましさは持ち合わせていない。
ここにいるのは、楽団の形をした何か。
妖精や人間の形をしていても、既にそうではないものになってしまった異形のものだ。
喜色を浮かべて楽団に近寄った男は、次の瞬間ぱくりと割れた地面に呆気なく飲み込まれてしまった。
ぼりぼりと獲物を咀嚼する音が響き、ぞろりと砂の中から這い出したのは一匹の巨大な竜だ。
タールを引くようなべたべたとした表皮は、呪詛と毒に光も通さない闇色をしていた。
これはどのようなものなのだろうかと様子を見守っていると、骨と羽が絡み合うような黒い歪な形の翼を広げた竜は、喉を鳴らして食べ終えた男の骨を吐き出した。
するとその骨の欠片がかたかたと音を立てて組み上がり、黒い燕尾服を着た楽団員となるではないか。
そうして新しく加わった楽団員が、ぎこちない仕草でバイオリンを弾き始めれば、楽団の奏でる旋律に艶やかな厚みが加わる。
現れた竜はその場でぐるぐると回り、また砂の中に戻っていってしまう。
とぷんと水に沈むような音がすれば、砂漠には楽団員達だけが残された。
(…………あの祟りものの竜が、この特異点の主か。あの形状だと、元は夏夜の竜だろうな………)
そんな竜がどのような経緯で祟りものになったのかは知らないが、上の楽団は、犠牲者達の残骸で作られた囮餌のようなものなのだろう。
そんな事を考えながらもういいだろうと歩き始めると、ほんの少し離れただけで、音楽は途切れ途切れにしか聞こえなくなった。
やがて、出現の条件が崩れたものか、ざあっと風が揺れ、漆黒の楽団は砂塵の中にけぶるように消えてゆく。
或いは、風に崩れて壊れてゆくのだろうか。
「…………やれやれ、思い通りにならない一日だな」
そう呟きテントに戻ると、着たばかりの服をぞんざいに脱ぎ捨て、再び寝具に横たわる。
滑らかな毛皮の敷物の肌触りにふうっと息を吐き、贈られてからずっと愛用している枕に頭を乗せた。
片手で前髪を掻き上げ深い息を吐けば、漸く寝心地のいい気温になった冷え冷えとした夜明けの空気に身を浸した。
先程に体を沈めた水面の色が、目蓋の裏に蘇る。
耳の奥のどこかでは先程耳にしたばかりの音楽が揺れていて、星の煌めきが滲む。
夕刻まで過ごしていた、翡翠の王宮のある国の色鮮やかな壁画と、倒れ伏し絶命した人々の姿を思い出した。
あの王宮で災いの香炉を開けてしまった子供は、次の犠牲者が蓋を開けるその時まで、瑠璃色の陶器の呪物の中に閉じ込められる事になるのだろう。
僅かに漏れ聞こえた啜り泣きを思い出しかけ、辿りかけた記憶の橋を外してリーエンベルクの雪景色を思った。
先程までは跳ね除けていた薄手の毛布を体の上に引き上げて深く深く息を吐けば、胸の底まで力が抜けるような、堪らない安らかさが戻ってくる。
(ああ、……………)
この瞬間が好きだ。
眠りの淵に魂を沈め、その安らかさに酔い、抱えていたものの全てを忘れてしまう僅かな時間にだけは、どんな願いであっても触れる事が出来る。
星、雪、砂漠とバイオリン。
くるくると回るその影の中で、眠りの底に落ちてゆく。
肌に触れる滑らかさに、遠くで風に揺れる林檎の木々のさざめきが聞こえたような気がした。
「…………っ」
ウィリアムが、そんな深い眠りから引き戻されたのは、朝などはとうに終わり、昼近くになってからである。
ある程度の温度調節をかけてあるテントの中では、うだるような砂漠の暑さを感じる事はないが、目を覚ますと、寝入った時の心地よい空気の冷たさはとうに消えていた。
テント越しに映る陽光の色は、世界の運行から自分一人が取り残されているような気持ちにさせる白さで、耳を澄ましてみたが、どこかで死者の行列を呼び込むような慟哭が聞こえることはなかった。
勿論、滴り落ちる血の匂いや、終焉の予兆となるようなものの訪れもない。
となると、今日はまだ、ウィリアムが招かれる規模の終焉は必要とされていないのだろう。
であればこのまま自堕落に寝ていてもいいのだが、残念ながらすっかり目が覚めてしまった。
体を起こして暫し考えると、近くのオアシスの町に食事に行く事にする。
どこであれ、食事の手配をしてくれるランチョンマットもあるのだが、あれは、どちらかと言えば鳥籠の中でこそ使うものとして温存しておきたい。
(……………どうせなら、声をかけてみるか)
ふとそんな事を考え、分け合ったカードを開く。
だが、一緒にオアシスの町で食事をしないかという提案をするには至らずに、ネアに、今日はゆっくりと過ごせそうだという事を書いて返事を貰うと、なぜかあっさり満足してしまった。
こうして繋がった向こう側に、いつもの誰かがいるような事はこれ迄なかった。
喪われない誰かに案じられ、その微笑みを翳りなく向けられる事などこれ迄にあっただろうか。
温もりのあるものの動きに触れていたくて、削ぎ落とした魂の断片を城に集めていた事もあるが、欠片も本体もすぐに死んでしまうので管理し続けるのは難しかった。
だから諦めたのだ。
自分には、誰かと同じようなものは手に入れられないのだと。
だが今は、リーエンベルクに行きさえすれば、必ず誰かがそこにいる。
シルハーンの伴侶になったネアもそうだが、ノアベルトと契約したエーダリアも、ゼノーシュと契約しているグラストも、終焉の気配に身を損なう事はない。
そうして、喪われない者がいるという事が、どれだけの安堵であり救いであることか。
「さて、………食事に行くか」
やけに感傷的な思考に苦笑してカードを閉じると、サナアークではない中規模のオアシス都市に移動し、旅の商人に扮したまま小さな屋台に入った。
ここは、花売りと香辛料の商人達の中継地点だ。
市場の西側には幾つもの小さな屋台が集まっており、その中でもウィリアムが気に入っているのは、ラファと呼ばれる白い穀物を炊いたものに、香辛料の効いた惣菜を幾つも載せて出される料理だ。
今回は、茄子と獅子唐、砂豚の肉をココナッツ風味のソースで煮込んだ辛いものと、ブルスカンドリのような山菜と挽肉を甘辛いたれで煮込んだものを選んで代金を支払う。
ぷんと香る食欲をそそる匂いに満足すれば、妙な感覚だが、自分がどこにでもいる取るに足らない生き物に思えていい気分になる。
勿論、この辺りでは水も商品だ。
ウィームのように飲食店に入ると無料で出される事はなく、茶類や酒類よりも高価な飲み物である。
なので、飲み物にはサトウキビを使った蒸留酒を選び、周囲の人々に気付かれないように陶器の入れ物の中の酒を魔術でこっそり冷やした。
こぽりとグラスに注いだ酒は、乳白色のものだ。
その、よく冷えた酒を呷りながら、賑やかな町の様子を眺めれば、無邪気に遊ぶ子供達や、サナアークから運ばれてきた林檎の籠を受け渡す商人達の姿に、人間達の生活の健やかで穏やかな午後の温度に浸る。
市場で働く男達は、食事をしながら午後の仕事の打ち合わせをしていたり、買い出しのついでに食事をしている老夫婦の姿も見えた。
手仕事の休憩時間に昼食に来たらしい少女達がこちらをちらちらと見ているが、それはさして珍しい事ではない。
終焉の系譜は雑踏に紛れる資質が高いが、ウィリアムの擬態は造作までを完全に擬態してしまう事はない。
異質なものだと認識される事はなくとも、見慣れぬ旅人ではあるのだ。
木のスプーンで口に運ぶ料理は、相変わらず味がいい。
数ある世界の料理の中でも、ウィームの料理はかなり好きな方なのだが、ふとした折に食べたくなるのはこのような料理が多かった。
紙に包んで置かれた乾燥させたナツメヤシの実は、酒を買った者に配られるもので、食事の合間に齧り、また酒を呷る。
この程度の量で酔う事はないが、心地良い穏やかさを助けるのは間違いない。
テントの屋根の隙間から差し込む鮮やかな陽光に、近くにある建物の屋根からこぼれ咲くのは鮮やかな赤紫色の花。
木陰を提供して水の祝福を助ける大きな木の根本には、木の生育を助ける為の祝福魔術の陣が描かれている。
命の煌めきと喧騒の中で過ごす時間は、堪らなく心地よかった。
ゆっくりと食事を終えると、町の花売り達から花を買い、作り置きの花蜜水を増やしておく事にした。
砂漠の中で出会う悪しき妖精達を退ける事の出来る花蜜水は、砂漠の民にとっては日々の生活や仕事に欠かせない。
また、香水代わりに花蜜水を髪につける女達もいる。
災厄除けにもなるので、子供たちの髪には大人がつけてやる習わしがあった。
籠いっぱいの色とりどりの花を、丁寧に茎から千切り取り、携帯用の魔術金庫で持ってきていた水晶の瓶に詰め込む。
こちらはオアシスで買うと割高になるので予め準備しておいた水を注ぎ入れ、そこに木漏れ日の祝福石を砕いたものと、僅かな月光の欠片を入れれば、後はもう栓をするばかりだ。
一晩漬けおけば完成する簡単な魔術薬なのだが、如何せん、この辺りでは水の価格が高い。
だからこそ、旅人や砂漠の集落を襲う妖精達は、この花蜜水をかけられると満足して姿を消すのである。
花売り場の近くにある共用作業場で花蜜水作りを終えると、作り終えた七本の花蜜水の瓶は、この辺りで一般的な布袋型の魔術金庫に仕舞った。
作業中に会話を持った土地の女達や、旅人の男に別れを告げ、立ち上がって砂を払うとまた少し町を歩く。
顔を上げればそろそろ夕刻の気配がする頃だろうか。頭に巻いた布を少し持ち上げ、どこからか聞こえてきた音楽に唇の端を持ち上げる。
今度の音楽には生き物の温もりがあったが、砂漠の民達が好む弦楽器の旋律は、どこか物悲しく美しい。
夕刻のあわいに備え、町の兵士達が水場の近くにある香炉に火を入れにやって来るのが見えた。
その中の一際背の高い男は、砂竜だろう。
艶やかな赤の装束に、宝石を使った首飾りが煌めいている。
そんな一団とすれ違い市場に入ると、買い揃えてあった野菜を思い出しながら幾つかのものを買い足した。
オアシスだからこそ手に入らないものもあるのだが、このような土地でしか手に入らない野菜もまたあるのだ。
“まぁ、今夜は自炊なのですね?”
“ああ。得意にしているパスタがあるので、久し振りに作ろうと思ってな”
“……………じゅるり”
“前にネアにも作ると約束していたから、食べに来るかと言いたいところだが、もうそちらの食事の準備が済んでしまっているだろうな”
“むぐぐ、今日はちょっぴりノア絡みで事件が起きていまして、まだリーエンベルクでは晩餐の準備が始まっていないのですよ。私も、使い魔さんのお宅に預けられるかもしれません”
“それなら、こちらに来るか?”
そんなやり取りの後、ネアが、オアシスの町に構えた屋敷に来る事になった。
砂漠のテントで過ごす事も多いが、人々の生活音を聞いていたい夜の為に、オアシスの大都市の中に構えた屋敷は、魔術の仕掛けを施し、近隣の住民達には商人が住んでいると思わせている。
中庭とモザイクタイルのプールもある豪華な屋敷は、元々は近隣の国の王族の別宅であったものだ。
シルハーンが転移で運んできた少女は、そんな屋敷の中で、晩餐の準備に目を輝かせていた。
「ふぁ!………いい匂いでふ!!じゅるり………」
開け放たれた窓から、涼しい夜の風が吹き込んでくる。
僅かな砂の匂いと、庭に咲き乱れた花の香り。
裕福な者の家にはある循環型の噴水の水音に、窓辺に吊るされた、月光の結晶石のシャンデリアの煌めき。
透けるような織り布のカーテンが風にはためき、紫や瑠璃色の色鮮やかなクッションは、この土地の名産品であるビーズ刺繍のあるものだ。
砂結晶のテーブルには、ふんだんに花を生けた花瓶が置かれており、作ったばかりのパスタを載せた皿を置けば、座って待っていたネアが椅子の上で小さく弾む。
「得意にしているレシピは幾つかあるが、この野菜のもので良かったんだな?」
「はい!この、綺麗な色のものは紫大根でしょうか?」
「これは、カーファンという砂漠域でしか収穫出来ない野菜なんだ。見た目は大根に似ているが、味わいとしてはパプリカに近いかもしれないな」
「いただきます。…………むぐ!………野菜たっぷりの、アーリオオーリオなのです!お野菜の味がしっかりしていて、ぱらりとかけたこの黄金色のものが美味しいれふ。………ふぁ、しゃきしゃきの菜の花も入っています!」
振りかけてあるのは、保存食である魚卵の燻製を削り下ろしたものだ。
夜人参とカーファン、菜の花に、星の祝福を受けて育ったウィーム産の大根。
それぞれの野菜の食感の違いを楽しめるようにしてあり、元はと言えば、肉類の支給などが少ない国の騎士団に所属していた時に好んでいたレシピだ。
ネアには物足りないだろうかと思っていたが、目を輝かせて猛然と食べている姿に、気に入ってくれたようだとほっとする。
「………はぐ。カラスミは振りかけてありますが、風味付けくらいで、後はお野菜だけなのに、こんなに満足感があるなんて……………むぐ。美味しいれふ!」
「シルハーン達は、忙しそうだがどうしたんだ?」
「ノアが、百五十年ほど前にお付き合いしていた女性に呪われてしまったので、ウィリアムさんのお誘いにあった私をこれ幸いとこちらに預け、今はその対処をしているのですよ」
「…………百五十年経っても、呪うのか」
「精霊のお嬢さんだったようです。その、……男性的には少し恥ずかしく、尚且つ女性に悪さをするような呪いのようで、私がいない方が対処がし易かったのでしょう」
どこか遠い目をしてそう言ったネアに、くすりと微笑みを深める。
グラスにはよく冷やしたヴェルリアの白葡萄酒を注いであり、砂牛の香辛料煮込みの他に、野菜と羊肉の串焼きや、新鮮な果物なども用意しておいた。
(今の説明で、何となく想像はつくな…………)
聞けば蘭の系譜の精霊であるようだし、恐らくは強力な媚薬効果のある呪いなのだろう。
ノアベルト程ではないが、こちらの尊厳を損なう種の呪いとして、ウィリアムもかつて仕掛けられた事がある。
個人的な関係があった訳でもなく、舞踏会などで挨拶を交わした程度の相手に呪われかなり辟易とした事を思い出し、小さく溜め息を吐いた。
ノアベルトにとっての救いと言えば、ネアがこの手の話題に対して過敏に反応しない事だろう。
恥じらうのでもなく、狼狽するのでもなく、呆れたように遠くを見ている彼女だからこそ、呪いをかけた精霊の思惑は成就することはあるまい。
(自分が手に入れる為に使うのではない場合は、尊厳を貶め、親しい者達からの信頼を失わせる事が目的だったのだろうからな…………)
「…………ふぁ、もうなくなってしまいました」
「足りないなら作り足すか?」
「……………じゅるり。………は!い、いえ、せっかくのお休みのところに、こうしてお邪魔しているのですから、ウィリアムさんもゆっくりされていて下さいね」
そんな提案に一瞬目を輝かせてしまってから、ネアは慌てて首を横に振った。
そんな様子が可愛らしくて微笑みを深めると、伸ばした指先でそっと唇の端に触れる。
「ネア、それは気にしなくていい。食事を強請られるのは、気分のいいことだからな」
「…………むぐ。………こ、このパスタの、お代わりを所望してもいいのですか?」
「ああ。勿論だ」
「そして、今日のパスタがとても美味しかったので、また今度、他のレシピのものも食べてみたいです!唐辛子と砂肝のパスタもそうですし、トマトと蟹の塩味のパスタも気になります!」
「それなら、次は砂肝のパスタの会にしよう」
「約束ですよ?」
リーエンベルクでの騒動が収まるまではと、シルハーンは、今夜はネアをこの屋敷に泊まらせる事にしたようだ。
幸い、ノアベルトは妖精の薬湯と魔物の薬で快癒したらしい。
塩の魔物を呪った紫蘭の精霊は、ノアベルトの報復を待たずして次に呪いをかけた氷の妖精に殺されたそうで、近年になって、関係のあった男達に同じような事をしていたらしいと判明した。
なお、アルテアから、ネアを泊める場所が必要だったのならなぜこちらに連絡をしないのかと苦情が届いたが、ネアはこちらの食事にも満足していると返しておく。
夜には、二人でオアシスの夜の花園にゆき、朝食は市場の屋台で朝粥を食べた。
これ以上とない休暇を過ごせば、また次の戦場が待っている。




