暗い夜と妖精の足跡
“…………あなたは、私を選んだわ”
かつて、そう呟いて嗤った女がいた。
その時に伸ばされた手の温度を思い出し、胸が引き攣れるような痛みに襲われる。
今回、その指先はこちらに触れずに留まったが、かつては好きなように触れさせるしかなかった。
息を飲み、息を潜め、息を止めて心を止める。
あの夜の事を思い出すだけでも悍ましいのに、それでもあの夜に感じた苦痛と覚悟は、今でも失う訳にはいかないのだ。
それは、柔和な微笑みと上品な物腰で、悲し気に微笑む女であった。
慈悲深く手を差し出し、守るように縋り、この身を貪る為に嗤った女だ。
「………っ、」
思い出に触れれば吐き気に襲われ、くらりと翳った視界を戻すまで無言で立ち止まる。
静かなリーエンベルクの夜の闇の中に立ち尽くし、しんしんと降り続ける雪の中で、気が済むまで立ち尽くしていた。
見上げれば、美しい夜が降ってくるようだ。
天鵞絨の灰色と、そこに滲むのは月光の淡い色。
肌に染み入る雪の温度が、乾いた喉を潤す水のように感じられ、ただただ、空を見上げていた。
(あの時はまだ、……………差し伸べられた手に毒が潜んでいることを知らずにいた…………)
穏やかな微笑みと鋭い助言に心を緩め、密かに交わした言葉も幾つかあっただろうか。
けれどもその中で、この身を望まれ手の中に囚われて初めて、周到に敷かれた毒の檻に気付いたのだった。
今でも、王宮の海沿いの回廊に開いた大きな窓の前に立つ、彼女の輪郭を覚えている。
窓の向こうには鮮やかな青い海があって、港を行き交う帆船の帆に陽光が煌めく。
表情は逆光になっていて口元しか見えなかったが、彼女はいつも柔和な微笑みを浮かべていたような気がする。
泥を啜るような日々の中で僅かばかりの清涼さであったその姿が、やがては胸が潰れるような恥辱の記憶に塗り替えられた。
それでもなぜ、その姿を認めてほんの僅かに心を緩めた日の無残な記憶は消えないのだろう。
彼女に心を残している訳でもなく、かつても愛した訳でもない。
そこにあったのはただ、欠片でも善良なものが自分を見付けたのだという、惨憺たる己の有り様を救う為のひと欠片の慰めのようなものでしかなかったというのに。
『まぁ、ヒルド様。ご無沙汰しておりますわ。ふふ、わたくしの事などもう、とっくにお忘れになってしまったでしょうね』
そんな声が聞こえ、無言で振り返ったのは昨日のことだ。
その足でリーエンベルクの床を踏み、微笑んだ女を、今でも美しいと思う事はなかった。
人間らしく年老いたと思ったし、記憶の中の姿よりも細い肩は、かつてのような憎悪の対象にするには頼りない。
それでも彼女が、やっとの思いで手に入れたこの終の棲家の中に入り込み、微笑んでその手すりに触れ、椅子に腰かけたのだと思うと吐き気がした。
(よりにもよって、今は第一王子派の伯爵の後妻か………)
その伯爵がどれだけ賢明な人物であっても、後妻に迎えた婦人の過去までは洗いきれないのだろう。
ましてや政治的な思想や言動でもなく、王宮で女たちの閨に引き回されていた隷属の妖精を、自分も遊んでみようと、労るふりをして狡猾に寝台に引き入れただけのことだ。
彼女にとっては、大人しく従順な女と自分を軽んじる他の女達への当て付けであった些細な息抜きの一晩に過ぎないあの夜の記憶が、ヒルドの中には、耐え難い恥辱の苦痛として残り続けている。
あの夜、ヒルドは選んだのだ。
どの女に使われる事を選ぶかという悪意に満ちた問いかけをしたのはこの国の正妃で、それならばせめて、手を差し伸べてくれた彼女をと考えた。
せめてたった一晩であっても、その優しい嘘の傘の下でただ眠るだけ安らぎを与えてくれるに違いないと信じて彼女を選び、呆気なく裏切られた。
それは恋でもなく、強いられて甘んじて受けたものでもなく、一人の女の虚栄心でしかなく。
皆を見返してやれると嗤う女の手の中で、吐き気と嫌悪で覆ったのは、まだ人間を信じようとした己の愚かさだったのだろう。
所詮こんなものか。
やはり、どこにも行けはしない。
それでもどうかせめてもの救いをと願った夜明けの自分の惨めさは、思い出すだけでも胸を引き裂きたくなる。
(だが、ここはもうリーエンベルクなのだ…………)
そう考えて自分を宥めてから深く息を吐き、胸の中に凝った苦しみを逃そうとしたが、なぜか心は軽くならなかった。
あの女は王都に戻り、もう二度とリーエンベルクに踏み入る事はないだろう。
思わせぶりにヒルドに手を伸ばした彼女の言動のせいで、過去に何があったのかはあの場にいた全員の知るところになった。
(ヴェンツェル王子は、もう二度とウィームとの会談にメイハウス伯爵夫人を同伴する事はないだろう。エーダリア様も、それを避けるのは間違いない)
ダリルについては、必要であればヒルドを餌にもするだろうが、幸いにもあの伯爵家は生粋の第一王子派だ。
当代の伯爵だけではなく、前妻との間に生まれた三人の息子もそうであるのだから、あの女一人の意向でそれが揺らぐ事はあり得ない。
ヒルドは実際にその息子達の人となりを知っているが、どの人物も信頼に足る青年であり、次男に至ってはダリルの信奉者であった。
だからもう、案じる事などないのだ。
親し気に歩み寄ってきた女に事務的な微笑みは返しても、決してその指先が届かないように立ち位置を変えたヒルドの真意に気付き、あの女が何かを感じたとしても、恐らくもう、二度と今回ほどの距離で会う事はないだろう。
(……………そんな事は承知の上だ)
それでも心は古傷を抉ったように疼き、かつて沈められた泥沼の悍ましさに息が詰まりそうになる。
ああ自分は、あの女がこのリーエンベルクに踏み込んだ事が堪らなく不愉快なのだと思えば、理由ばかりは腑に落ちるものの、波立ちひび割れた心が鎮まる事はなかった。
黒い天鵞絨のような夜空を見上げ、じっと立ち尽くしていた。
どこか遠くで雪の割れる音がして、豊かなウィームの森は静謐な祝福に満たされている。
ふくよかな花の香りに、柔らかな魔術の灯り。
(……………二度と、王都へなど戻るものか)
吐き捨てるように心の中でそう呟いたが、鋭く響く筈の言葉はまるで喘鳴のようだった。
やっと芽吹き、健やかな花を咲かせたその上に、かつてこの身をお気に入りの獣のように弄んだ女達の靴跡がつけられてしまったようで、そんな無残さが酷く堪えた。
さくりと雪を踏む音が聞こえたのは、その時だ。
中庭に続く扉を開けたその気配は、いつの間にかもう馴染んだ友人のものなのだから、今更振り返る必要もないだろう。
あの場にいなかった彼がこの場を訪れたのであれば、誰かがあの場での事を彼に相談したのだろうかと思うとまた、堪らない屈辱に胸の奥を掻き毟られるようで、とてもではないが振り返って微笑む余裕はなかった。
自分ですら二度と開きたくない鉄格子の向こう側のものを、再びあの女の虚栄心を満たす為に、公然の場に晒されたこともまた屈辱ではないか。
(……………あの頃の私はまだ、エーダリア様に出会ってもいない)
どんな手を使っても守り抜いてみせると誓った子供に出会った後に受けた恥辱の全ては、ヒルドが、覚悟を持ち必要だと思い、己を削り渡した行為である。
それは、正当な選択であった。
結果も含め理解の上で、それでもより欲したものを手に入れる為の屈辱だ。
けれども、あの女に出会った時には、ヒルドにはまだそのような覚悟はなかった。
ヒルドは、まだこの国の王都に運ばれたばかりの頃であり、残された仲間達との再会を夢見ていた愚かな妖精は、課せられた日々のあまりの悍ましさに判断力すら失い、あんな醜悪なものに足を掬われたのだった。
(ひたすらに、……………浅はかで愚かだった。だからこそ、この傷は醜い…………)
さくさくと雪を踏む音がする。
そしてすぐ背後に、誰かが立った。
「……………やぁ」
「……………今は、あまり話せませんよ。いささか余裕がない」
「だろうね。何でだか知らないけれど、周囲の妖精達が怯える程だ」
「知らずにここに来たんですか……………?」
「そう言うって事は、エーダリア達は君に何があったのか知っているのかな。………僕も、少しだけ余裕がなくってさ。酷い気分なんだ。どこか暗くて静かで、…………けれど、清涼なところで一人で過ごしたかったんだけど、ヒルドを見付けたらヒルドの隣の方が健全かなって思ったんだよね……………」
その奇妙な言い回しに、ふっと目を瞠る。
そんな言葉をどんな表情で話しているのだろうとゆっくりと振り返れば、そこには、ひどく冷たい目をした塩の魔物が立っていた。
魔物らしい精神圧は冷ややかで鋭利なもので、こちらこそ、リーエンベルクの中庭にいる妖精達を脅かしそうな有様ではないか。
「……………あなたこそ、何があったんです」
「ありゃ、僕の事を構う余裕はないんじゃなかったのかい?」
「………そうして、自分の内側から目を背けているのかもしれませんよ」
「僕は多分、…………苦しい時には、黙らないで喋る方みたいだね。ただしそれは、シルと、君とエーダリア限定かな。ネアが絡まない時には、あの子にも沢山喋ると思う。…………僕はさ、そんな男じゃなかった筈なんだよ」
苦痛も屈辱も、その全て飲み込んでしまうともうよく分からなくなってしまい、ずっと馬鹿みたいに笑ってきた筈なのになぁと笑った友人の瞳には、耐え難いほどの苦痛が確かに見えた。
「……………ネイ」
「統一戦争をまだ知らなかった時、………僕はさ、自堕落に遊び回っていたんだよ。愚かにもあの子はきっと僕を選ぶと信じていて、そのくせ、どうして彼女は会いに来てくれないんだろうって苛立って、夜会で大騒ぎしたり、よく知らない女の子達と夜を過ごしていたりした」
一度目を閉じ、そして開く。
青紫色の瞳はどこも見ておらず、その眼窩に揺らぐのはひび割れそうな程の絶望ばかりだ。
「……………僕は愚かな男だから計算した。あの日、このリーエンベルクの前の広場で、ごみ屑のように並べられた焼け焦げた遺体を幾つも幾つも跨いで歩きながら、そこにネアがいないかを探しながら、僕は計算していた。…………あと一日だ。あと一日早く気付けば、あの子を守れたのにって…………」
魂がないから、判別がつかなかったのだとノアは呟く。
全ての遺体は魂を砕かれており、そうなるともう、命に近しいものすら司る塩の魔物であっても、酷く損傷した遺体がどんな人間だったのかを知る術はなかったのだのだそうだ。
「だから僕は、その殆ど全てを広場に残してゆくしかなかった。その中のどこかに、僕の大切な女の子がいるかもしれないのに、持ち帰れるものすら殆どない。…………ネアと出会ったラベンダー畑も戦乱で燃えた。………綺麗なものは何一つ残らなくて、けれどもそれを招いたのは、この僕の愚かさだった」
「ネイ、………彼女は、」
「うん。生きているよ。僕の妹で、今だってすぐにでも抱き締められる。でも僕は確かに一度、あの場所であの子を殺したんだ。……………ごめん、ヒルド。突然のこんな告白で、困らせているんだよね。雪の門はさ、僕からその罪を沈めてゆく安らかさを奪った。……………また一から沈め直しだ」
そう聞いて、ぎくりとした。
この魔物が、リーエンベルクに来たばかりの頃は、たいそう火を恐れたことをヒルドも知っている。
温かな火も明るい火も、その全てを恐れ呪っていた。
(やっと、…………)
やっと取り戻し、その穴を埋めたばかりではないか。
そう憤りかけ、自分の感じる苦痛もそこなのだと、指先をきつく握り込んだ。
壊れたものを埋めるのは、決して楽な作業ではない。
与えられた傷や歪みは、本当の意味での完治というものは得られるものではなく、傷を覆い隠しながら、何とか体裁を整えまた動くようにするしかない。
それでも息を詰めて耐え忍び、やっと体が軽くなったそんな時に。
「…………あなたが、そうして対価を支払ってまで守ろうとしたものは、どれも無事ですよ」
「うん。僕が頑張ったんだからそりゃそうだよね。…………だからさ、ヒルドがこんな風になっているのは凄く困る。君達はさ、やっと僕が見付けた好きなだけ幸せにしてもいいものなんだから、誰かに損なわれるのは許せないんだけど」
どこか軽薄な声音は、おどけてみせても凍えているような奇妙な整い方をしており、かつての享楽的な、或いは狭量で残忍な塩の魔物の心の温度をまざまざと見せつけられたような気がする。
「…………あの日の疫病対策の連絡会議にて、王都からの使者の中に、かつて関係を持った女がいました」
「……………ありゃ。ってことは、引き裂きたいような人間なんだよね?言ってくれれば僕がどうにでもするけれど」
「今の彼女のご夫君は、第一王子派の聡明な方ですよ。彼女との過去が吐き気を催すようなものであれ、それを差し引いてもあの伯爵は惜しいと、私ですら思います」
「だとしても、女を見る目はないんじゃない?」
「かもしれませんし、対等な人間と、そうではない奴隷への扱いは違うのかもしれない。…………兎も角、私はその女が、リーエンベルクに踏み込んだ事が、自分で思う以上に不愉快であったらしい」
「………ねぇ、ヒルド」
その呼びかけに顔を上げると、なぜだかネイにがしりと肩を組まれた。
僅かに顔を顰め、巻き込まれそうになった羽を左側に引き寄せる。
「…………その日に君は、僕とボールで遊んでくれたんだね」
「私が自分の浅慮さで招いた屈辱と、あなたのものは違いますよ。あなたは、ネア様やこの地を守る為に対価を支払ったばかりでした」
あまりにも静かな声でそう言うので、思わず理由を重ねてしまえば、ネイは小さく声を上げて笑う。
「ああ、僕はやっぱり馬鹿だなぁ!………そんな風に、僕が差し出して失ったものがあるからこそ、君達が与えてくれるのだと知る事が出来るんだから、それでまた、こんな苦しみなんて埋めていけばいいんだよね」
「…………ネイ」
「一人で部屋にいるとさ、こりゃやっぱり堪らないって思って、それで庭に出て来たんだよ。そうしたら、ヒルドがいたんだけど、やっぱりヒルドの隣にいて良かったみたいだ。だってほら、一人でいなかったからこそ、こんないい話を聞けたんだからね」
雪の夜の淡い夜の光に、青紫色の瞳が滲むように煌めいた。
この友人は部屋で一人で泣いていたのかもしれないと考えると、なぜか、先程まで胸の中に凝っていたものが剥がれ落ち、何とかそれを掃き出してしまわなければという気持ちになる。
(ああ、そうだ…………)
苦痛や絶望はそこにあり続けるのだとしても、そんなものは早々に捨ててしまわなければならない。
ここには、ヒルドの新しい家族がいて、その家族達と健やかに過ごしてゆく日々は、これからどれだけ重ねてゆくのだとしてもその一雫も失いたくないものだ。
これからを得る為に不必要なものがあるのなら、どんな事をしても排除しなければならない。
(苦痛を逃す為ではなく、不必要なのだ。これからの喜びを得る為に、そんなものの居場所はとうになくなっている………)
「…………ネイ。あなたの言う通りかもしれませんね。我々は、これから取り込まなければならないものがどれだけあることか。……喜ばしくない感情も含めて飲み込むのだとしても、そんなものの居場所はそもそも少ないのですから、過去のものまで残しておく必要はないでしょう」
「…………うん。そうだよね。と言うか、僕達はもうそうなったんだ。だからさ、多少過去が追いかけて来ても、そんなものもう一度捨てればいいんだ」
目を閉じて、静謐な夜の空気を肌に感じていた。
ヒルドの種族は、あまり寒さには強くなかったようで、自室で過ごす際にはかなりの防寒をしてしまうが、こうしてウィームの冬の中に立つのはずっと好きだった。
森は優しく光り、夜はいつも芳しい。
そして、隣には友がいた。
それぞれの道は違えど、互いにここまで歩いて来た道は決して平坦ではなく、苦痛と絶望の喘ぎを飲み込んで、ここに辿り着いた。
(エーダリア様も、ネア様も。………そして、ディノ様や、グラストにダリルも…………)
あの藤の谷で、ダリオの言葉を一蹴してみせたネアにも、それを気に留めずに払い捨てられるだけの過去がある。
かつて復讐の為に身を置いたという権力者達の取り巻きの輪が、どのような場所なのか。
妙齢の女性がそのような場所に立ち入れば、どんな醜悪な欲求や値踏みを向けられるのかは、想像するまでも無い。
(……………エーダリア様にその待ち時間を与えたのは、私なのかもしれない)
かつてのヒルドは、小さな王子の穏やかな眠りを守る為に、この体一つくらい容易く売り渡せた。
けれどもそんな夜の後に訪れた先の部屋で、守ろうとした小さな子供が、涙を堪えた悲しげな微笑みでこちらを見た日が何回もあった。
ガレンに渡り、その長となり、念願の土地とは言え、ウィームで領主となってからの長い日々。
かつてのエーダリアは、どのような思いでこのリーエンベルクで眠ったのだろう。
「……………はぁ。僕は幸せだなぁ」
「ええ。………私は、幸福な男だ」
「うん。こんな風にさ、……………って、ええ?!ちょっと待って、何してるの?!」
ぎょっとしたようなネイの言葉に振り返れば、そこには、がたがたと震えながら虫取り網のようなものを持ったネアがいた。
こちらの声に気付き顔を上げると、ほっとしたような柔らかな微笑みを浮かべる。
慌てて駆け寄ったのは、そんなネアが、部屋着にコートを羽織っただけの見るからに寒そうな装いであったからだ。
ネイが魔術で取り出した毛布のようなものを受け取って包み、すぐに両手で抱き上げる。
「…………ふぁむ。………良かったでふ。二人を探していたのですよ」
「私達を………?」
「ええ。ちょうど、アレクシスさんがウィームを暫く空けるからと、こんな時間ですが色々なスープを騎士棟経由で持ってきてくれたんです。心を素敵に優しく包むような効能のものもあってとても美味しそうなので、お夜食のお誘いに来ました」
そう微笑んだネアの瞳は、こんな夜には、繊細な美しさを持つ宝石のようにも見えた。
腕の中に閉じ込め、指先で丁寧に撫でてみたくなるようなその微笑みに、彼女が冬の系譜の者達に愛されるのがよく分かる。
「ありゃ。……………ええと、その虫取り網はどうしたのかな?」
「これは、ノアが狐さんだった場合に捕まえる用です!」
「……………え」
「ネア様、ディノ様はどうされました?」
「ディノはここで、私の湯たんぽになっていますよ。窓から二人を見つけ、お外に行くのでムグリスになって下さいとお願いしました」
「キュ!」
「わーお。湯たんぽにする為に、シルをムグリスにしたのかな…………」
こちらを見たネアは、不可思議な微笑みを浮かべ、どこか誇らしげに指を立ててみせる。
「今夜のお夜食のスープは、夜想曲の祝福とファーダルクテ…………テ、」
「ファーダルクテーシャかな?」
「はい!そんなお花のスープなのです。これは、怖い思いや胸の中のざわざわを鎮める、安らかなる鎮静と、幸福を生かす祝福のお花なのだとか。お味見してみましたが、しゃくしゃくしていてとても美味しかったですよ」
「わーお。鎮静と静謐の最上位の花だし、一輪見つけても大騒ぎのそれを、あの人間はスープに入れたんだ………」
「うむ。沢山入っています!」
「……………え」
絶句したネイと顔を見合わせ、どちらからともなく苦笑してしまう。
あの、アレクシスというスープの魔術師程に不思議な人間はいないが、そんな男が真夜中のリーエンベルクにスープを届けたのも、ここに彼女がいるからなのだろう。
今後の注意喚起を兼ねて、雪の門の顕現は、隠匿されずに領民達にも卸されている。
それを聞いたあの魔術師は、大事な顧客のもしもを考え、一刻でも早くそのスープを届けようとしたのかもしれない。
(ダリル曰く、彼はネア様を娘にしたがっているらしいからな………)
それもまた謎の理由だが、執着や愛情の渡し方は人それぞれである。
ヒルドにとってのこの家族には、そうした祝福や愛情の恩恵が多いのも事実だった。
「それは、是非にいただかなければなりませんね」
「ふふ、絶対にノアとヒルドさんと飲むのだと心に決めてしまったのですが、ご一緒してくれますか?」
「喜んで。ですが、今後は二度とこのような薄着で庭に出てはなりませんよ。またインヘルにでもなったらどうするのですか」
「…………ふぁい。急いで捕まえなければと、それでいっぱいになってしまいました」
「……………キュ」
なお、そんなスープの魔術師のスープを飲んだところ、不思議なくらいにあの女の事はどうでも良くなってしまった。
ネイと話したところ、そちらは雪の門の対価として差し出した筈のものまで修復されたようなので、あのスープにはどれだけの効能があったのだろう。
スープを囲んだ会食堂のテーブルで、エーダリアは、こちらを見てほっとしたように微笑んでいた。
翌日、そんなエーダリアから、お前を守る為になら出来る限りの事をするので、胸の内に溜め込まずに我が儘を言って欲しいと言われ、驚いた。
ではずっとお傍にと言えば、ウィームの領主は、両手で顔を覆ってしまうのだが、そんな願いはもう叶わなくてもいいのだ。
執務の度に、そして日常的に。
触れたり、手渡したり、或いは食べ物の材料や編み物などの贈り物で。
そうしてエーダリアに増やした守護は、もう如何程か。
ネアにも、耳飾りを含め、妖精の粉や祝福など、事あるごとにその祝福を増やし続けている。
いつかの王都の悍しい夜とは違い、それは、ヒルドが選択し、喜んで差し出す己の欠片だ。
そうしてこの身を差し出す事には、安堵と喜びしかなかった。
だからもう、それで充分だ。
やっと見付けたこの家族を、友を、家や同僚達を。
ヒルドは二度と手放すつもりなど、ないのだから。




