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雪の門とラベンダー




その日のウィームはなかなかの大雪であった。



朝から白薔薇の花びらのような雪が降り続き、あっという間に雪かきをしてあった歩道も埋まってしまう。

そんな様子を窓から見下ろし、本日はアクス商会にビーズを買いに行く筈であったネアは、窓に張り付き悲しい唸り声を上げていた。



「………ふにゅ」



狩りの獲物をアクス商会で売り捌き、そのお金で傘祭りのビーズを買うという崇高な使命があり、尚且つその帰り道で市場に寄り、美味しい冬キノコのチーズ串焼きを食べる予定であったのだ。


お目当ての串焼きは、特別な冬キノコ狩りの翌日にしか売られていないもので、新鮮なキノコをその場で試食させてくれる為に始まったものであるらしい。


ピリ辛香辛料の漬けだれにくぐらせたキノコを網焼きにする際に漂う香りはたいへん危険で、キノコを買う筈ではなかったお客も、最後に上に乗せて蕩けさせられたチーズの香りまで加わるともう、いつの間にか買い込んだキノコ袋のお会計をしているという事態に見舞われる。


期間ごとに塩バターからクリームソースと味が変わるので、同じ罠にはかからないぞと思っていたお客も、気付けばまた買ってしまっているのがこの時期のウィーム中央市場の風物詩であった。




「うーん、こりゃ祝福が過剰に働いた関係かなぁ。………ネア、今日は難しいかもよ」



隣に立ったノアにそう言われ、ネアはへにゃりと眉を下げる。



二人がいるのは、リーエンベルクの外客棟の客間で、ここからは、リーエンベルク前の並木道の向こうに広がるウィームの街並みが良く見えた。


今日はディノが不在にしているのでノアと出かける予定だったのだが、こうして見てみても、降り続ける雪に薄っすらと灰色にけぶったウィームの街は、まるで激しく振り回したスノードームの中の風景のようではないか。


絵のような美しさは変わらないのだが、外を歩くとなると事情が変わってくる。



「………ビーズを買いにいけないのです?」

「うん。こういう雪は特別なんだ。ほら、これだけ魔術の影響が強いと、雪の中にあわいを開くかもしれない雪だからね」

「むぎゅ。あわいはもうまにあっております……………」



その言葉の響きにぎくりとしたネアは、慌てて首を横に振った。


疫病に脅かされたザッカムのあわいから戻って、未だ数日しか経っていない。

一日にも満たなかった滞在であったが、ネアの中のあわい容量はもう上限を超えてしまっているので、そちらへの招待はお受けできないのが実情だ。


もし、窓の向こうのどこかに既にあわいが開いていたらどうしようと考えてさっとノアの背中に隠れると、青紫色の瞳を瞠ったノアは小さく微笑んだ。



「大丈夫。僕がいるから、どんなものからだって君を守ってあげるよ。でも、こんな日に危険を冒して外に出ていく必要はないと思わないかい?ビーズを買いに行くのは、明日にしようよ」

「……………ふぁい。あわいはとても怖いので、そうしますね。ディノのお出かけ中に行方不明になったら、大事な伴侶にまた怖い思いをさせてしまいますし、大事な家族であるノアに何かがあっても嫌なのです」



そう告げたネアに、一緒に窓辺に立ってくれていたノアは口元をもぞもぞさせて、くしゃりと微笑む。

この魔物の弱点は、近年手に入れた家族であるらしい。

こうして、大事に思っていることを伝えてしまうと、少しだけもにょもにょしてしまうのだ。



そんなノアは、顎先に手を当てて考え込む仕草を見せると、宝石のような瞳を煌めかせてどこか魔物らしい微笑みを浮かべた。


今日は、お気に入りの白いシャツに柔らかな灰色のセーターを羽織り、多色性の氷色の髪は濃紺のリボンで結ばれている。

自分で結んだ髪の毛は少しだけくしゃくしゃになっているが、こうして自分の家の中にいるノアはいつも幸せそうだ。



「近い内に、リーエンベルクの魔術基盤の手入れをしなきゃって思っていたんだ。綺麗なところだから、そこに一緒に行こうよ」

「まぁ、私が付いていってもいいのですか?」

「うん、勿論。最近調整しているところは、雨の日の庭園を模した基盤なんだ。ウィームの古い王家の時代に造られたものだから、覗いてみると少し新鮮な驚きがあるかもね」

「まぁ、それは是非に見てみたいです!お、お弁当は必要ですか?」

「う、……うーん、いるかなぁ。まずは手ぶらでいいんじゃない?」

「はい!では、このまま付いてゆけばいいのです?」




(ビーズを買いに行けないのは、とても残念だけれど………)



ザッカムの一件でやらなければならなかった事が幾つか遅れており、そろそろビーズの腕輪を作らなければならない時期であった。


無事にインヘルも治り、仕事の日を挟んでの休日という今日は、ビーズを買いに行くには絶好の日だったのは確かだ。


とは言え勿論、これまでにネアが腕輪作りをしているのを見てきたノアにだって、そんな事は分かっている筈である。

その上でこの頼もしい義兄が危ういと言ったのだから、ネアはもう、外出を諦めることに異論はない。


予定は変更せねばならないが、あまり訪れる機会のないリーエンベルクの基盤に入れるとなり、こちらの催しも楽しそうだぞと唇の端を持ち上げていると、ノアが、絶対に気に入るよと微笑んでくれる。


いそいそと室内履きを履き替え、さて準備万端というところでその事件は起こった。




(………っ?!)



突如、ずずんという振動を伴った鈍い音が響き、目を丸くしたネアを、ノアが素早く腕の中に収める。


二人は慌てて窓の外を見にゆき、先程迄は特に問題のなかったリーエンベルク前の並木道に、見たこともないような雪の門が聳えているのを見付けた。



(……………大きい!)



竜でも使えそうな大きさの壮麗な白い門は、雪を固めて細工をして作ったような色と質感であるが、青白い輝きの美しさは石造りのものにも見える。


しかし、この角度からでは門の向こうは見えないものの、美しい佇まいのどこかに、ぞっとするような違和感があった。



「ほわ………。ノア、あの門は…………」

「…………ネア、持ち上げるよ。騎士達を近付けさせないようにしなきゃだ!」

「は、はい!」




門の正体を知る前にノアに素早く抱え上げられてしまい、淡い転移を踏んで訪れたのは騎士棟だった。


そこに居たのは、今まさに魔術通信板に手を伸ばそうとしていたリーナで、ノアの姿を見るとほっとしたような目をする。



今日は、リーエンベルクの遮蔽魔術を敷いた広間で、特別な会談が行われている。

その為に騎士達は、エーダリアは勿論のこと、ヒルドやダリル、グラストやゼノーシュにも判断が仰げないのだった。



「ノアベルト様」

「うん。何かあったら僕が指揮を取るよって、エーダリア達と約束しているからね。………外の警備をしている騎士達に連絡が取れるかい?あの門には、踏み込むと危うい領域がある。絶対に近付かないように伝えて欲しいんだ」

「わ、分かりました。エーダリア様へのご報告はどうしますか?」

「そっちにはアルテアがいるから、僕から共有しておくよ」

「…………そんなアルテアさんからは、早速カードのメッセージが届きました。ここで何かお伝えしておきますか?」

「わーお、遮蔽空間の中にいるのに気付くのが早いなぁ。じゃあ、…………こっちは僕が対処するから、そのまま会議を続けておいてって伝えてくれるかい?」

「はい、そのように書きますね!」



すぐさまそんなノアの言葉を伝えたネアだったが、カードに戻って来たメッセージには、下線付きで絶対に事故らないようにという注意書きが添えられており、ぎりぎりと眉を寄せる。



「ノア、アルテアさんからも了承の返事が来たので、安心して下さいね」

「うん。あっちはあっちで、不可侵の誓約があるから、そもそも簡単に出られないしね。………さてと、今度は、あの門をどうにかしなきゃだな」



(……………ノア?)



ここでふと、ネアはそう呟いたノアの眼差しが気になった。

澄んだ青紫色の瞳の奥に、僅かな苦痛と嫌悪のようなものが過ったような気がしたのだ。

けれどもそれは、ほんの一瞬の事だった。



「ノアベルト殿………!」


そこに外から戻って来たのは、アメリアと階位のない騎士の青年である。


この二人が、門の現れた正門付近の警備を担当していたのだろうか。

慌てて雪除けの魔術の展開を解くと、ノアとリーナがリーエンベルクの外周地図を広げたばかりの机に歩み寄り、外の様子などを報告し合っている。



「アメリア達が、今日の正門の警備かい?」

「ええ。我々は戻りましたが、リーエンベルクの守護結界の内側になる門の内部の騎士達と、他の外周の警備の騎士達はそのまま持ち場に残してあります」

「うん。それでいいよ。誰も、あの門を覗き込んではいないね?………じゃあまず、君達は災厄除けの洗浄魔術をかけておいた方がいい」



きびきびと指示を加え、慣れた様子で騎士達と話し合うノアの姿は、如何にもリーエンベルクの守護者という感じがする。

これ迄にもこうしてリーエンベルクを守ってくれていたのだなと感じさせてくれる様子に、ネアは、こんな時だが胸が熱くなってしまった。



すると、そんなネアを腕の中に収めたノアが、心配そうにこちらを見る。



「ネア、ごめんね。何も話せてなくて怖がらせているよね?」

「いえ、今は対策を取ることを優先して下さい。私は、こうしてノアが一緒にいてくれるので、安心して皆さんのお話を聞いていますね」

「うん、もうちょっとだけ我慢していて。後できちんと説明するけれど、あの門は、この辺りの伝承でも残されているものなのかな。………雪の門と呼ばれているものなんだ」

「…………っ、雪の門」



低い声でそう呻いたのは、生まれも育ちもウィーム中央だという青年騎士で、アメリアとリーナも、顔を見合わせて青ざめている。


それが何なのかを知らないのはネア一人であったが、ここは有事であるので、説明を求めて時間を損なわないようにした。


片手を額に当てたまま低く呻いたのは、アメリアだろうか。


「となると、…………この雪が原因でしょうか。門が開けば、内側から災厄を齎す怪物が現れるかもしれないものですよね?」

「うーん、そうとも言えないんだよね。今回は鐘の音が聞こえなかったから、亡霊と怪物はないだろうね。魔物だったらいっそ楽なんだけど、ニエークの守護のあるウィームではそれも考えられないかな。妖精と竜は過去の文献にはないけれど、そちらだった場合も考えて、一応の備えをしておこうか。一番有力なのは、祟りものと凝りの……この場合は獣かな。門があそこまで白いっていうことは、白持ちが顕現すると思っていい」

「…………それは。…………ご訪問いただいている、ヴェンツェル王子の退避を進めた方がいいでしょうか?」

「いや、まだそこまでの段階じゃない。君達には、あくまでも門の向こうから何かが現れたらという備えをして貰うけれど、上手くいけばその前に門そのものを閉じられる。その為には、僕も排他結界で何とか覆いをかけているけれど、門を刺激しないようにして欲しいんだ」

「そう聞いてほっといたしました。では、我々は門が開いた時の備えを急ぎましょう」



騎士達は迅速に行動した。



まずは、リーエンベルクの周囲の排他結界を、祟りものや凝りの獣に有効な守護形態への切り替えを済ませると、街の騎士団には、リーエンベルク前の並木道への交通規制を行うように指示を出している。

うっかり並木道を抜けてきた観光客などがあの門に近付いてしまうと、大惨事になりかねないらしい。



(騎士さん達も、あの門の事をよく知っているようだわ…………)



アメリアも、街の騎士団の伝令役にくれぐれも誰かを近寄らせないようにと重ねて指示を出しているので、誰かが近付くと、あの門を開いてしまうのかもしれない。



「…………よし。魔術の結合面を確認したけれど、問題なさそうだ。門を閉じる作業は僕がやるよ。………それと、さすがにここ迄不確定なものを陽動には出来ないけれど、このような魔術異変を狙われると厄介だから、くれぐれも外周の警備は怠らないようにね」

「外周の警備に立っているのは、ゼベルとエドモンですので大丈夫でしょう。現状については、こちらより伝達済です」



そう答えたアメリアの仕事を見ていたネアは、ノアと無言で頷き合い、全ての騎士達の持つ魔術通信の回線を開放するまでの判断の早さに驚いてしまった。

アメリアが指揮系統から各騎士達の間を繋ぎ、組織を動かす事に長けた騎士であるという評価は、このようなところなのだろう。


襲撃時には敢えての情報の遮断も必要になるが、このような場合は、一刻も早く情報を共有し、それぞれの騎士達が的確な役割を果たす事が求められる。

組織として動けてこそ、騎士はリーエンベルクの守り手たるのだ。



「よし、………じゃあ僕はちょっと行ってこようかな」

「問題や異変がある迄は、連絡しないようにします。こちらの通信端末をお持ちになって下さい」

「うん。アメリア、念の為にミカエルにも伝えた方がいいかな。あの並木道には、森から遊びに来ている妖精達も多いんだよね?」

「ええ。では彼にも伝えておきましょう。………その、あの雪の門の魔術特異点としての規模はどれくらいのものになるでしょうか?」

「あれだけ立派な門が顕現している以上、悪夢で言うところのハイダットだね」

「ハイダット……………」

「でも大丈夫。閉じるだけなら僕一人ですぐに済ませられるから」



その言葉に、指示を仰ぐ為にこの部屋に集まり始めていた騎士達からも安堵の溜め息が漏れる。


ネアも良く分からないなりにほっとしながら、持ち上げてくれているノアの腕から床に下りようとした。

しかしなぜか、ノアはそんなネアをしっかりと抱え直すではないか。



「………む?」

「ネアはこのまま、僕と一緒にいるようにね。あれは繋がる事こそを成す特異点だから、離れていない方が安心だから」

「ですが、ノアはこれからあの門をどうにかするのでしょう?私を持ち上げていて、邪魔になってしまいませんか?」



そう尋ねたネアに、ノアは大丈夫だよと微笑んた。


ふぁさりと揺れたのは漆黒のコートで、魔術で着ていたセーターの上に羽織ったようだ。

ネアも慌てて首飾りの金庫から有事用のコートを取り出そうとしたが、ノアが、衣裳部屋から日常使い用のコートを取り出してくれたのでそれを羽織る。




外に出ると、過分な程の祝福を宿して降る雪は、いっそうの激しさを増したようだった。

以前にもジゼルの降らせた大雪の日があったし、最近もニエークの降らせた大雪を見ている。


しかし、そのどちらとも違う不思議な異端さが、清廉で苛烈な雪のどこかに感じられた。



灰色の空から降る雪の色を重ねた周囲の空気は仄かに薄紫色の不思議な色を帯び、きんと冷えた空気は清涼で清々しい。


不穏なものの出現があったばかりだというのに、なぜか、この雪の中に身を投げ出して深呼吸したいような気持ちにさせる、何とも言えない心地よさがあった。



「雪の門が現れると、周囲の空気がものすごく魅力的なものに感じないかい?」

「まぁ、あの門の効果なのですか?私はてっきり、雪の祝福を感じてしまうのか、或いは騎士棟の部屋が外回りの騎士さん達の為に高めの室温の設定でしたので、この清涼感が心地よいのだとばかり思っていました」



そう言ったネアに微笑んで首を振り、ノアが雪の門について教えてくれる。

ネアを片手で抱えたまま、騎士棟の裏口から外に出ると、正門ではなく通用口からあの雪の門に向かうようだ。



「雪の門はね、……因みに、雪の門と夏草の門があるんだけど、……災いを招く吐き出し口のようなものなんだ。これもまた世界の理の一つなんだけれど、あまりにも一つの土地に天候上の祝福が重ねられると、土地の魔術基盤の負荷を減らす為に災いも招き入れるっていうものなんだよ」

「………むむ、天候によって重ねられた場合だけなのでしょうか?ディノが大喜びの時は、現れませんでしたよね?」

「うん。要因は人外者の気分だったりしても、元々が天候上の要素であることが条件みたいだね。ただ、シルのものはそもそも万象に現れるものだから、一つの要素に比重が極端に偏ったりはしないのかな。今回みたいに、ニエークかジゼルか分からないけれど、降雪っていう自然の仕組みを大きく祝福だけに偏らせると発現の条件が整うんだ。でも、それも毎回じゃないから、蓄積量なんかの見えない条件もあるんだろうけどね…………」



そうして土地の魔術が偏るのはノアにも分かるようで、だからこそ外出を警戒していたらしい。

他にもこのようなものはあり、善きものに偏り過ぎることもまた、危ういものなのだと教えてくれたノアに、ネアはこくりと頷いた。



「でもまぁ、これが最悪じゃなかっただけましかな」

「むぅ。最悪のものがあったのですね?」

「異形の行列系が最悪なんだよね。複数顕現で周囲がそのまま特異点で遮蔽されていて、それぞれが意志を持ってこっちに悪意を向ける系とかはかなり厄介だよ。素性不明の死者の行列に近い感じかな」

「冬夜の行列のようなものなのでしょうか?」

「あれも困った存在だけれど、季節の系譜に属するから、もう少し素性がはっきりしている。あれによく似た、より曖昧で得体の知れないものって感じだと思えばいいよ」

「…………お会いしたくありません」

「だよねぇ。僕もだよ。………うわ、ここからもう境界なんだ。領域が広いなぁ……………」



ネアを抱えたまま、さくさくと積もったばかりの雪を踏み、漸く件の雪の門の近くに来た。



この門は、展開させた足場と呼ばれる領域に獲物が触れることで、扉を開くものであるらしい。

どうにか門の向こう側のものを招き入れないように済ませるべく、この門には近づいてはならないのだ。




(……………でも、綺麗だわ………)



だがしかし、門に近付けば近付くほどに、その美しさは油断のならないものになった。


雪と氷を固めて磨き上げた宝石のような門は、淡い陽光や雪明りの中で淡く淡く煌めく。

こうしてノアに抱え上げられていても指先がむずむずするのだから、一人でいる時にこんなものに遭遇してしまったら、どれだけ危険だったことか。



ネアがそんな事を考えていた時のことだった。



「……………っ、よりによってこんな時か!」


珍しく焦ったようなノアの鋭い声に、ネアはびくりと体を揺らす。

こちらを見た青紫色の瞳には焦燥が滲み、ネアはその暗さにぞっとした。



「ウィリアムを呼んで!」

「は、はいっ!!ウィリアムさん!!!」



言われるがままに、ネアは慌ててウィリアムを呼んだ。



今日のディノの外出は、各種族の高位者の集まりに参加しているので、少し頑強な遮蔽空間のある場所での催しになる。

また、今日は統括の魔物として、リーエンベルクでの会談に立ち会うアルテアも、不可侵などを誓った魔術的な宣誓から容易くその場を離れられない。



勿論そうして伴侶の魔物が離れるということもあり、事前にウィリアムには相談をしておき、有事の際には呼んで欲しいと言われていたのだ。




(鳥籠の中にいるけれど、名前を呼べば来てくれると話してくれていたから………!!)



そうしてネアが終焉の魔物の名前を呼んだ刹那、ばさりと血の様に赤いケープが翻る。

瞬き程の間の訪れを飲み込み、ウィリアムのケープの裏地だと気付くまで、その色は雪景色の中であまりにも鮮烈であった。



「………ノアベルト、状況は?」

「冬の門の最大値の発現と、それを察知した白樫のこちら側の要素の襲撃だね。人間の側の要素じゃない。恐らくはいつもの徘徊で、土地の祝福を削りに来ていた通りすがりだろうね」

「…………白樫か」

「よりにもよってだよ。………っ、」



ざしゃんと雪混じりのものが激しくぶつかる音がして、ネアは顔を伏せさせるようにしてノアの手で後頭部を押さえられた。


ノアの首筋に顔を埋め、もうもうと舞い散る凄まじい雪吹雪の中に飲み込まれる。



(白樫…………)



そんな名前の魔物について、どこかで注意喚起を受けた事があるような気がする。

白持ちだがその要素が季節によって変動するので、公爵位ではない魔物の一人だった筈だ。



(……………あ、)



どこだか分からない雪の向こう側に、暗く鋭い悪意のようなものを持った何かがいる。



先程までは感じなかったその精神圧が、ひたひたと水位を上げる水嵩のようにこちらにも伝わってきた。

それは、あわいの中で遭遇したクライメルのような華やかな悍ましさではなく、どちらかと言えば、人型のものの意識を思わせない異形の気配だ。



だからネアは、そのまま顔を上げなかった。



ノアが顔を伏せさせたのは、もしかしたら視覚的な魔術効果があったり、ネアの容貌を認識させない為のものだったのかもしれないと考えたのだ。


その代わりに全神経を聴覚で研ぎ澄ませ、その向こう側で何が行われているのかを何とか知ろうとする。



直後、あっという男性が驚くような声が聞こえた気がしたのは、気のせいだったのだろうか。

吹きすさぶ雪煙がしゅんと落ち着き、こちらに向けられていた悪意のようなものがさらりと消えたような気がした。




「……………ネア、もういいよ。ウィリアムに気付いて撤退したみたいだ。…………はぁ。やっぱり、雪の門の呼び込みで道が開いたのかぁ。僕の大事な妹に何かをされたらと思って、ひやひやしたよ」

「……………も、もう大丈夫なのです?」

「うん。雪の門の対処はこれからだけどね」

「ぎゃ!」



乗り物になった義兄から降りようとしてしまったネアは、その言葉に慌ててノアにしがみつく。



顔を上げれば、そこには帽子を直しているウィリアムがいた。

その手に握られたままの剣の鈍い輝きに、今更ながらにまたひやりとする。




「ネア、驚いただろう。すぐに俺を呼んでくれて良かった。……………ノアベルト、ネアを連れて外に出たのは、雪の門を警戒してのことか?」

「うん。これは災いを呼び寄せて繋げるものだからね。理として動くから、リーエンベルクの中に隠しておいても、いきなりネアの足元に繋げられたら大変だ。…………でもまさか、ここで白樫とか。……………はぁ、ぞっとしたよね」

「…………俺も今回はひやりとした。あの状態の白樫の襲撃を止められるのは、俺かシルハーンくらいだからな。ノアベルト、ネアは俺が見ているから、雪の門を閉じて来た方がいい」

「うん。そうしようかな。ネア、ウィリアムに渡すから、このまま地面を踏まないようにね」

「むむ、では、ウィリアムさんから下車しないようにしますね」



ネアはそのままノアからウィリアムに受け渡され、ひんやりとしたウィリアムのケープを纏った肩に手を回す。


雪の門に向かって歩いてゆくノアも心配だったが、安堵にも似た深い溜め息を吐いたウィリアムを見上げると、ふっと微笑んで頭を撫でてくれた。



「白樫はな、…………健やかなるものからの反転を意味する魔物なんだ。樫の木の魔物は、国守りやもてなし、財産や愛情の一端をも司る温和な魔物なんだが、そんな魔物の足元の影として育ったのが白樫だ。悪変を懸念する人々の心から生まれた、生まれながらの悪食に近い。今回のように、大きな自然派生の災いの気配があると、その魔術を喰らいに来るんだが、その際に襲撃にも近い形で周囲を一網打尽にしかねない……………何と言うか、大雑把さがある。この場所だと、雪の門目当てでもリーエンベルクを壊滅しかねないと言えば伝わるかな」

「……………大迷惑な魔物さんです」

「剛健さや、凶暴さを資質として持つ者でもあるんだ。それさえなければ、寧ろ雪の門の破壊に役立ったかもしれないくらいなんだが……………おっと、」




ここでウィリアムは、なぜかネアに雪の門の方が見えないようにした。


何か怖いものが出て来てしまったのだろうかとぎくりとしたネアに、災厄を呼び込まれないように、生贄になるものを差し出す必要があるのだと教えてくれる。



「……………生贄、」

「ああ。災いを成すまで、あの門は閉じられないんだ。代替になるものを持たせて、その理を成すという感じだな」




何が捧げられたのかをウィリアムは話さなかったし、ネアも尋ねることはなかった。

けれども、ややあってノアがこちらに戻ってくると、ネアは、蒼白な顔色をしている大事な義兄に驚いてしまった。


慌てて手を伸ばしたネアに、ウィリアムもノアの近くに歩み寄ってくれる。




「ノア?!」

「……………大丈夫……………。うん。大丈夫かな。でも、早く屋内に入って、僕の妹に大事にされたい」

「勿論です!ボール遊びをします?」

「わーお。真っ先にそれが出たぞ…………」



慌ててノアの頭を撫でてやったネアに対し、ウィリアムには慌てる様子がないので、これは予測出来た反応なのだろうか。

振り返ってその表情を窺えば、こくりと頷かれた。



そんなウィリアムは、またすぐに鳥籠の中に戻ることになり、ネアは、お礼を言って仕事に戻る終焉の魔物に手を振る。

ディノとアルテアがこちらに戻れない間は、わざわざ鳥籠の一部を薄くしてくれているので、どちらかが戻った段階であらためて連絡を入れる約束になっているそうだ。


顔が見られたのでいい休憩になったと言ってくれた終焉の魔物は、小さな自治領の中の内乱に立ち会うのだという。


一氏族が根絶やしにされる戦場となるものの、領内の統治を健全化する為のものなので、ウィリアムにとってそこまで心を削がれる仕事ではないらしい。




全てを終えて屋内に入っても、窓の外では相変わらず雪が降っていた。



けれども、リーエンベルクを通して降雪の祝福過多が伝えられているので、先程よりは幾分か小降りになっているような気もする。




「……………ノア、門を閉じてくれる為に、ノアが何かを支払ってしまったのではありませんか?」



騎士達に雪の門の消滅を伝えた後、ネア達は先程までいた客間に戻ってきていた。

ノアはいつものように振舞っているが、やはり顔色はあまり良くないようだ。


心配になってしまってそう尋ねても、大したことはないよと笑うばかりである。



「ああいうものの閉じ方は、幾らでもあるんだ。まだ何も出て来ていない状態なら、ある程度の選別が可能だからね。それに、災いは形を成すものばかりではなくて、心や感情に響かせる要素も多い。そういうもので手を打っておくのが、まぁ、妥当なところって訳なんだよね」

「……………では、ノアは心を損なうような思いをさせられ、そうして門を閉じてくれたのですか?」

「ネア、僕にだって譲れないものはある。何を差し出して、何を守るかは僕の選択だ。……………ここにあるものは、今やもう、どれもが僕の宝物なんだよ。どんな些細なものも一つだって損なわれたくないんだ」




思わず詰め寄ってしまったネアを納得させる為に告げられたその言葉はとても静かだったが、魔物らしい排他的な言葉でもあった。

ネアはそっと頷き、けれどもそんな頑固な義兄に、どしんと体当たりする。



「……ネア?ええと、……………もしかして怒ってる?」

「私の大事なノアに悲しい思いをさせたノアに怒ってもいますが、それが仕方のない事なのも理解はしているつもりなのです。かくなる上は、こうして力ずくでも、ノアの悲しい気持ちを引っ張り出し、何としても大事にしなければなりません!!」



そんな強欲な人間の言葉に、ノアは青紫色の瞳を静かに揺らしていた。


雨の日にそっと揺らぐ水面のようなその色には、どれだけの悲しみや孤独が揺れていたことだろう。

ネアは堪らなくなってしまい、大事な家族を両手でぎゅっと抱き締める。



「ノア、私達は大事な家族なのです。ずっと側にいますし、たっぷり甘えてくれていいんですよ?私に何かして欲しいことはありますか?」

「……………じゃあさ、今日はずっと一緒にいてくれるかい?夜は狐になるから、シルとネアに一緒に寝て欲しいな」

「まぁ、そんな事でいいんですか?体をほこほこにする、スパイスティーも淹れますし、髪の毛も梳かして綺麗に結ってあげますよ?」

「ありゃ。それは贅沢過ぎない?」

「ふふ、家族が悲しい気持ちの時に、大事にする為の作業を出し惜しみなんてしないのです!」




その日ネアは、ノアを大事に大事にした。


戻って来たディノにも事情を話せば、ネアの優しい伴侶はエーダリア達にも事情を話してくれたようだ。

大事な会議が終わった後のエーダリアとヒルドにも慈しまれてしまい、リーエンベルクの家族な塩の魔物はくしゃくしゃになってしまう。




翌朝、ヒルドから雪の門があった場所に、焼け焦げたラベンダーの花が落ちていたと聞き、ネアは、ノアがどんなものを差し出したのか分かったような気がした。



祝福に傾き過ぎた土地の魔術が落ち着く翌朝までリーエンベルクに留まってくれたアルテアが帰った後、エーダリアは、ヒルドと一緒に銀狐のボール遊びに付き合ってくれたのだという。




ネアは尻尾を振り回して走り回る銀狐を眺めて微笑み、白樫の襲撃があったその瞬間、背後に聳えたあの門の向こうに、遠い日の葬列の気配を感じた事はディノにだけしか話さなかった。














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