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箱ケーキと疫病の道




「…………じゅるり」



ネアは、テーブルの上に載せられた箱ケーキを眺めて心を震わせていた。

目の前の青いテーブルクロスの上には、可憐な花輪の絵付けのあるお皿が置かれていて、銀のフォークは宝石のように輝いている。



ここは残念ながらディノと約束したザハの夜カフェではなく、その代わりに、ネアの大好きなおじさま給仕でもある犠牲の魔物が買ってきてくれたザハの特別なお祝いケーキが、銀色のお盆に載ってテーブルの真ん中に鎮座していた。



美しいリーエンベルクのシャンデリアが下がり、きらきらと細やかな光が揺れる。


あの賑やかな港町の宿屋とはまるで違う意匠だが、より優雅で堅牢なものに囲まれて安堵するのではなく、これが自分の家だと分かるからこその安堵がそこにあった。



ネアは今、大事な家族と大好きな家にいて、その馥郁たる雪と祝福の香りの土地は、何にも変え難い幸福感を与えてくれる。


その幸福を胸いっぱいに吸い込み、喜びに弾んでしまうのも、怖い時間が終わり、こうしてご褒美のケーキが目の前にあるのだから致し方あるまい。




「これは豪勢だな。…………グラフィーツ、隣で砂糖を並べるのはやめてくれないかな」

「砂糖を食べるのに、これ以上の席があると思うのか?年に一度あるかどうかの、絶好の観察位置だぞ?」



その席には、ザッカムで一緒だったグラフィーツとオフェトリウスもいて、珍しい事にダリルとウォルターの姿も見える。 



心配のあまり帰ってきたゼノーシュを抱き上げてしまったグラストは、膝の上に座った可愛い魔物からハイフク海老が売っているお店の事や、ネアがあんまりピアノが上手ではなかった事を聞いているが、出来れば後半の話は個室でやっていただきたい。




「無事に戻ってきてくれて良かった。お前の前に犠牲になった者は、やはり、そのザッカムのあわいの生贄にされてしまったようだ。サンフェの村は魔術遮蔽の厳戒態勢にあるが、これから疫病も鎮静化に向かうだろう」

「そのお嬢さんのご家族は、どうされているのですか?」

「…………悲しみに暮れているが、妹を守った勇敢な娘の為にも、立ち直らなければと気丈に振る舞っている。あの子爵家は、仲の良い家族として有名だった。これから暫くは苦しい時間が続くだろうが、それでもきっと乗り越えてゆくだろう」



噛み締めるようにそう話したエーダリアに、ネアはこくりと頷く。



あわいから戻ったネア達が知らされたのは、生贄を探しに来た馬車が他にも子供を拐っていたという事であった。



あのあわいは、十日前後ほどの周期でネア達が訪れた日から疫病で滅びるまでを繰り返していたようだ。

件の少女はその二回目の犠牲者の一人で、四人の子供達が連れ去られ、残りの三人はあわいの中で亡くなったという。


漁猟の魔物がザッカムだった土地に移り住み、そこで再び赤帽子の疫病が芽吹いた事から始まったと思われる今回の事件は、初期の頃から、あのあわいの扉を開いていたらしい。


ネア達が攫われたのは、なんと、三周目のザッカムだったのだ。




「グラフィーツの意見も踏まえると、シルハーンに潰えさせられた魔術こそが、漁猟の魔物の儀式で目を覚ました竜の子供の辻馬車であり、今回の事件で生まれた最初の魔術反応だったのだろう」



そう呟いたのは、グレアムだ。

その言葉に、顎先に手を当ててノアが頷く。



「疫病を鎮める為の生贄を仕入れるという役割を果たすものが、かつても馬車だったのかもしれないね。勿論、クライメルが手をかけた畑だったからこそ、クライメルご愛用の馬車の形で顕現したんだろうけどさ」

「クライメルがウィームの土地に入れないようにしたのも、あの竜の子供の馬車の呪いを国から出す手伝いをしたのも…は、先代の犠牲だが、まさかこのような形で当時の記憶に触れる事になるとは思わなかったな………」



夢見るような灰色の瞳を僅かに険しくしたグレアムは、磨き抜かれたケーキナイフでネアが凝視している箱ケーキを手早く切り分けてくれている。


切り終えたケーキを一つずつ丁寧にお皿に乗せているのだが、一番大きなケーキを載せたお皿をことんと置きながら、ネアの方を見て微笑んでくれたので、ネアはますますこの魔物が大好きになってしまう。



(そしてグレアムさんは、グラフィーツさんとオフェトリウスさんも含めた真実を知らない人達がいるから、少し話し難そうだ…………)



ゼノーシュも目をきらきらさせ、果物たっぷりの白いクリームと、夜の滴の入ったスポンジのケーキを見つめていた。

グラストの膝から下りて椅子に座った見聞の魔物の愛くるしさに、ネアは大切な友達が無事だった事を心から感謝した。



それは、ただ一つなのだ。

恐らく、幼い娘を喪ってからこの魔物に出会ったグラストにとってのゼノーシュもきっと、ネアにとってのディノのようなものだろう。


だからこそグラストは、戻ってきたゼノーシュをぎゅっと抱き締めたのだ。




「その呪いについては、私も文献で読んだ事がある。かつて、災いを招く恐ろしい竜と友人になったウィーム王家の王女がいたが、災いを手懐けた事に目をつけられ、隣国に住み着いていた悪しき者の手で、護衛騎士達や我が子共々、呪いの一部にされてしまったと」

「エーダリアが読んだその文献とやらは、私の書架のものだろうね。とある児童文学作品の題材にもされた有名な話だよ。…………呪いを連れて死者の国に向かった王子が、いつかリーエンベルクに帰って来るかもしれないからと、当時の王家がそのような形で記録を残させたものなんだ」



そう答えたダリルに、ひらりと片手を振ったのはアルテアだ。



「そいつの旅に付き合った商人とやらを知っている。最終的には死者の国に向かうしかなかったが、災いを捨てる為の旅はどこまでも終焉に向かうばかりになりがちな中、道中でかなりの祝福を集めたらしい。ある意味幸運な人間だ」

「…………とは言え、呪いだけが残されて彷徨っていたのなら、最終的には呪いに喰われてしまったのかもしれないな。辻毒の馬車は、獲物がなくなると術者の元に帰るものだ。帰るべきクライメルがいなかった事で、獲物として指定されたウィーム王家の血を求めてリーエンベルクの周囲を彷徨っていたんだろう」



そんなグレアムの言葉に眉を寄せたのは、ウィリアムだ。




「確かに、死者の国のシーヴェルノートには、そんな逸話が残ってはいる」

「まぁ、ウィリアムさんは、その王子様をご存知なのですか?」

「……………どうだろうな。話は聞いているんだが、俺自身も滅多に足を延ばさない土地なのと、シーヴェルノートはこの世界の最も外側にある、世界の境界の土地だ。外周に行けば行くほど、俺達の記憶には残らないものも増える。繋ごうと思って繋いでおかなければ、記憶からもこぼれ落ちていってしまう。実際には会った事もあるのかもしれないが、それはもう覚えていない」




(……………世界の、外側)




不思議な響きに目を瞠り、ネアはこてんと首を傾げた。



グレアムが目の前に大きなカットケーキを載せたお皿を置いてくれたが、待望の箱ケーキを食べるのは、この話を聞いてからにしよう。



「その王子様が向かったのは、主に魔物さんに殺された人間の死者さんが行く、死者の国なのですよね?」

「ああ。その最奥部分は一種のあわいなんだ。俺達にとっては境界の向こう側になる、ここではないどこかに繋がる最外周のあわいとされている。世界の理が届かない場所として、この世界の者達の意識には残り難い」

「……………まぁ」



そう呟いたネアは、思わずディノの方を見てしまった。



ネアは、ディノの手によって練り直しを受けたとは言え、この世界で生まれた訳ではない。

会話に出てきた、シーヴェルノートという場所こそが、この世界において、最もネアの世界に近いところと言えるのかもしれなかった。



視線の先で、大事な伴侶は静かにこちらを見ている。

だがその眼差しには確かに、怯えの色があった。



「……………ネア、」

「むぅ。この世界から落っこちてしまったらとても怖いので、絶対に近付きませんね!ディノ、私がそこに近付かないようにしっかりぎゅっとしていて下さい!」

「ご主人様!!」



この人間がどこかへ帰りたいと言い出すのが怖い魔物は、寧ろそっち側を塞いで欲しいという願いが嬉しかったようだ。

目元を染めてもじもじすると、両手でおずおずと三つ編みを献上してくる。


ここはリーエンベルクの一室なので、ディノは勿論擬態などしていない。

その様子を見たオフェトリウスは如才なく微笑んでいるが、視線が時々助けを求めるように彷徨うので、たいそう困惑しているのは間違いなかった。



なお、グレアムは顔を伏せてそっと涙を拭っているので、幸せそうなディノの姿がとても心に響いたようだ。



「僕が思うに、エーダリアの事も見てはいたんだと思うよ」

「……………ああ。ウィーム王家の者として、私も狙うのは当然だろう。だが、こちらに触れなかったとなると、守護などが退けていたのだろうか?」

「と言うより、エーダリアは血筋が違ったんだろうね。僕の記憶が確かなら、その馬車の呪いをかけられたのは、カインに流れた方の王家だったんじゃないかな」

「その通りさ。あんたとはそもそも、引いている血が異なる。扱える魔術の属性があまりにも違うからと、主王家同士は交わらないようにしていたからね」



ダリルの説明によると、二つの王家は血を混ぜないように、それでも婚姻などが結ばれる場合は、結ばれる者達は王族姓を捨てたのだという。


血が混ざる事で、それぞれの血筋の特性が失われるのを防ぐ為の措置だったようだが、そのことが、今回はエーダリアを守ったのだろう。



「……………で?こいつの周りにいたのは、ダナエの存在が誘導灯になったのか?」

「俺も知らん。そんなものが残っている事にすら、気付かずにいたからな。気付けたのは、ダナエの資質故にだろう。壊せたのもダナエだからこそだ」



そう答えたのはグラフィーツで、ネアの方をじっと見ながらじゃりじゃりと砂糖の山を食べている。

たいそうなおかず扱いにネアはとても慄いていたが、今回はとても頼もしかったので我慢していた。



「ふむ。ダナエさんは凄いのですね」

「グラフィーツも、そのようなものに触れる事には長けている。その彼が気付いていなかったのなら、やはり春闇は、その資質故に得られるものがとても多いのだろうね」

「…………はぁ。僕も呪いなんかは得意なつもりなんだけれどさ、姿を現さないものにはやっぱり出遅れるよね。………ありゃ、ネア、どうしたのさ?」

「うむ。お砂糖とお塩が揃ったので、あの胡椒生物がいればと思わずにはいられません」

「え、……………ヒルド、僕の妹が調味料扱いするんだけど………」



悲しい目をした塩の魔物に縋られた森と湖のシーは、ネアに紅茶のお代わりを注いでくれているところだった。


香り高い夜の静謐と雪かがりの紅茶は、災い明けなどに体に触れた魔術の熱を冷ます効能もある、美味しい薬草紅茶なのだそうだ。

所謂紅茶色ではない綺麗な緑色のお茶は、爽やかな茶葉の甘味があってごくごく飲めてしまう。




「おや、間違いはないでしょうに」

「エーダリア、ヒルドが虐めるんだけど………」

「むぐ!箱ケーキが美味しいれふ!!」

「ネアが可愛い…………」

「僕も、頑張ったからいつもよりケーキが美味しいな」

「良かったな、ゼノーシュ。今夜はゆっくり寝るんだぞ」

「でも僕、グラストに会えたからもういっぱい元気だよ?」

「………っ、」



ここでグラストが目頭を押さえてしまい、室内はとてもほこほことした優しい空気に包まれた。

ネアも急速に心の潤い値が満たされつつあったが、それでもやはり、自分達よりも先にザッカムに落とされてしまった人々の事も考えずにはいられない。


とは言えこの利己的な人間は、喪われた人のことを他人らしい範疇から悼みつつも、妹を庇い連れ去られてしまったというその少女が吐き出されたのが、渓流地の小さな村だった事を密かに感謝してしまう。




(勿論、命に貴賎はないのだけれど………)




けれども、ネアの中の命には貴賎がある。



犠牲になった少女が吐き出された村では、赤帽子の疫病に見舞われ五人の犠牲が出てしまったのだ。


これがもしリーエンベルクであれば、もしくは、ウィームの中心地であったなら、その被害はどれだけのものになったことか。


どれだけ身勝手でも、どれだけ残忍な思考でも、ネアという人間にとって、守りたいものには優先順位があるのだった。




「ダナエがその呪いを滅ぼしておかなければ、かつては犠牲の魔物すら鎮める事が出来なかった最初の辻毒の馬車が帰り道を見付け、近くにいたネアちゃんやエーダリアを飲み込んで、あわいのザッカムに連れ去った可能性もあるって訳だね」

「かもしれないね。再顕現したばかりであっても、土地の守りをすり抜けてここに戻った程のものだ。初版のものはかなりの力を蓄えていたのは間違いない。再顕現から見た限り、この世界では見慣れないものすらも取り込んでいたようだけれど、それは或いは、シーヴェルノートや境界の向こうから得たものなのかもしれない」




(……………境界の向こう側のもの)



ディノの言葉に、グラフィーツの眼差しがふっと揺らいだような気がしたが、そちらを見ると相変わらず砂糖を食べているばかりだった。


もしかすると、その魔術を注視していたという砂糖の魔物は、最初の魔術が取り込んだものについて知っているのかもしれない。


そう考えたネアは、アルテアが購入したという雪白の香炉の館は、グラフィーツが死者の国にあったという屋敷を手に入れた事で手放されたものだということを思い出し、ぞくりとする。



(シーヴェルノートは魔物に殺された死者の国の奥にあって、その馬車の通り道になった………。グラフィーツさんは、なぜ馬車の呪いを調べるようになったのだろう…………?)



ネアは、もしかするとグラフィーツの大切な歌乞いは、馬車に取り込まれてしまったのではないだろうかと考えかけたが、もしそうだった場合はあまりにも悲しいので、その思考にぱたんと蓋をした。



「はぁ…………、これはさ、今回の事は危ういものだった訳なんだけど、それでも言葉を選ばずに言わせて貰えば、ネアちゃんとゼノーシュが呼び込まれた事で、周回を止められて本当に良かったよ。でなけりゃ、そこかしこで子供の犠牲者が出て、その上で赤帽子を撒き散らされた可能性があった訳だからね」




大仰に溜め息を吐いたダリルの隣で、ウォルターが静かに頷いている。

それもその筈で、一周目で連れ去られた子供は、王都の騎士の息子だったのだ。



ネア達が連れ去られた後、有能なウィームの書架妖精は、国内の各所に散らばった弟子達に号令をかけ、同じような行方不明事件を調べさせた。



その結果明らかになったのが、ウィームで犠牲になった少女の顛末であり、ヴェルリアの騎士の息子なのだ。


馬車の誘導人に追われた妹を庇い、菓子店から連れ去られたウィームの少女に対し、その少年は、皆の見ている前で走ってきた馬車に拐われた。

そしてそのどちらでも、生贄として連れ去られた子供は、役目を果たした後の残骸をこちら側に吐き出されている。




「ウィームの犠牲者は、まだ息がある状態でこちらに吐き戻されたのだね?」



そう問いかけたオフェトリウスは、少しばかり王都の騎士としての気配も帯びる。

騎士として生活している時には決して魔物としての側面を反映させないと聞くが、それでも視点はそちらに偏りもするだろう。



「ああ。そう報告を受けている。だからこそ、同時に拐われた者達がいた事も発覚したのだ。その他の子供達についても身元を調べているが、ウィーム領内ではまだ該当者がいないので、場合によっては、周辺諸国も回って子供達を集めていた可能性もある」



生贄として連れ去られた少女は、投げ出された村で僅かに残った息のまま、疫病の町に生贄として連れてゆかれた事を話した。

自分の名前と、生贄の順番が最後であった為に、町が滅びて用無しになった事を告げ事切れたという。



「宰相殿の御子息がここにいるのなら、ヴェルリアも含め、国内での情報共有は済んでいることだろう。ヴェルクレアの他の土地にも吐き出しがあったとすれば、何としても疫病が広がる事だけは食い止めなければならないね」

「…………失踪型の災いは、二度と戻らないものと、残骸や遺品だけがこちら側に戻ってくるものがある。俺が鳥籠を展開した土地では、そのような飛び火で滅びた国も珍しくはないからな。今回は、ネア達とダリルのお陰で難を逃れたとも言えるな」

「そんなウィリアムさんも、原因を突き止めてくれたのです。遠くまで調べに行って下さって、有難うございました」

「いや、お陰で、かなり危うい時差式の魔術の障りが残されている事が分かった。ローンがすぐさまデナストの跡地に向かったが、やはり赤帽子の疫病の気配があったらしい。一度疫病で閉じた土地に再び入植があった場合、その生活が定着したところで、過去の災厄を再現するような魔術が組まれていたそうだ」



ディノがザッカムに下りた際に、白金色の柵を落としてくれたのはウィリアムなのだそうだ。

あれは、鳥籠の部品のようなウィリアムの魔術を切り出したもので、終焉で足場を切り取ったものなのだとか。


クライメルが指摘したように、あの時のディノは、因果と魔術の理で覆われたあわいに強引に繋いだ道を維持する為にかなり限定的な状態にあり、力を振るえる場所を区切る事でクライメルへの影響力を失わないようにしていたのだそうだ。



(オフェトリウスさんの分析によると、ディノがいなければ、クライメルめは首を落とされても、すぐに体勢を立て直していたに違いないとか。交戦が続けば、誰かに取り返しのつかない損傷が出た可能性だってあったかもしれないのだ…………)




「よし、出来たぞ」



クライメルの残した魔術について皆が議論する中、そんな言葉と共に、ネアの前に緑の液体の入ったグラスを置いたのはアルテアだった。


「……………謎の緑のものが現れました。これは、藻水…………?」

「念の為に、疫病避けの水薬をのんでおけ。一般的な疫病に加えて、クライメルが好んでいた疫病の類への効能を全て加えてある」

「…………感染していませむ」

「ノアベルトの言葉を聞いていなかったのか?呪いの類は、発現しないと俺達にでも捉えられないものがある。お前の守護の頑強さであれば発症してからでも手は打てるが、しない方がいいだろうが」

「……………ぎゅ、ケーキのお供に、藻水でふ」



魔物の薬は、飲用のものでも酷い味のものが多い。

それは、苦痛や不快感の対価を得てより薬効を高めているのだが、ネアは、過去にも何度か沼の味のものに苦しまされてきた。


なので、まだケーキの余韻の残る口内環境を死守しようと儚く抵抗したものの、あえなく全会一致で飲まされてしまい、ネアは、ぱたりと隣の席の伴侶な魔物のお膝に倒れ伏した。



「……………ネアが可愛い」

「……………ぎゃむ!これは、お外のバケツに何ヶ月か溜まったお水の味です!!確実に苔や藻的な何かが繁殖しているので、虐めだとしか思えません!!」

「ネア様、ジュースなどをお持ちしましょう。冬苺で宜しいですか?」

「ふ、ふゆいちごさま……………」



ヒルドの機転によって、すぐさま口内環境を生き返らせるものが齎されなければ、ネアはしくしく泣きながら過ごさなければならなかっただろう。

とは言え、美味しいケーキの余韻が殺されてしまったので、なぜそれを先に飲ませなかったのだと怒り狂いたい気分である。



アルテアが心配して薬を作ってくれたのだと理解していなければ、怒り狂った人間は世界を滅ぼしたかもしれない。




「ウィリアム、今夜はリーエンベルクに留まれそうか?」

「グレアム?…………ああ、今夜はネアの体調に異変がないかどうか、近くで様子を見ているつもりだ」

「それは良かった」

「……………うーん、濃い顔触れだな。リーエンベルクはいつもこんな感じなのか………」



そう呟いて苦笑したオフェトリウスに声をかけたのは、何やら書類のようなものを整えたダリルだ。

この書架妖精にとっては、まだまだこれからやらなければならない事が沢山あるのだろう。


「オフェトリウス、王都に戻るかい?」

「そろそろ暇しようかな。ダリル、後で少し騎士として話をさせてくれるか?」

「ああ、元よりそのつもりだよ。今回の事は、かなり危うかった。………うちは、まだ一ヶ所だけとは言え、他の子供達が本当に他国の者かは判明していないんでね。これからもまだ暫く油断は出来ないだろうさ」



ケーキも食べ終え、オフェトリウスは帰り支度を始めるようだ。


ネアは、慌てて金庫の中の贈答用の菓子折を引っ張り出し、ディノから渡して貰ったが、今回の一件で国内の疫病の蔓延を防げたようなので、気にしなくていいと苦笑されてしまった。



「その代わり、俺の老後の事を少し考えてみてくれ。やはり、こうして過ごしていても、今度腰を落ち着けるならウィームがいい」

「むむむ、ウィリアムさん、オフェトリウスさんとは、同僚としてやってゆけそうですか?」

「うーん、何とも言えないな。…………とは言え、俺が来られない時もあるだろうし、今回の一件があると、やはり一定の有用性はあるのか。………ああ、俺は正式にネアの騎士にもなったんだ。なので、その話については今後は俺も通してくれ」

「……………終焉の魔物を」



にっこり微笑んだウィリアムにそう言われてしまい、オフェトリウスは呆然としていたが、どうやらそれでもウィームへの移住の意思は変わらないようなので、いつかはこちらに越してきてしまうのかもしれない。


ネア個人としては、今回の一件ではとても頼もしかったので、専属の騎士になるかどうかはともかく、ウィームの防衛のひと柱としては吝かではないというところまで考えられるようになってきていた。




「…………ぷは。苺ジュースが命を繋いでくれました」

「ネア、これも食べるかい?」

「ふぁ!無花果の焼き菓子です!!」



伴侶な魔物から提供された焼き菓子をいただいていると、そっと手を伸ばしたディノに、さりさりと頭を撫でられる。


こちらを見るディノの眼差しは、やはり今も尚安堵の色が強い。



「……………今回の事は、グラフィーツの提案で、君にその魔術の抵抗力をつけられたという意味でも有益だった。それと同時に、…………クライメルを知るいい機会にもなったのかもしれない。彼の行いを考えれば、数多くの特異点をこの世界にあわいとして残している筈だ。そして、ザッカムの跡地のような仕掛けがある事も分かったからね」



(……………あ、)


静かな声で伝えられた言葉に、ネアは、これが最初であったとしても、最後ではないのだと気付かされた。

リンジンですら、二度目の邂逅があったのだ。


ザッカムが、過去に起きた惨劇ゆえに残されたあわいであるのなら、クライメルの手による他のあわいが残されていても不思議はない。




「………またあやつの関係の所に連れ去られたら、オフェトリウスさんを呼べばいいのです?」

「……………ネアが浮気する………」

「むぅ、では、激辛香辛料油でしょうか。甘党を辛い物で滅ぼしますね」

「うん…………」



そんなやり取りにくすりと笑ったオフェトリウスは、困ったら呼んでくれて構わないと微笑みかけてくれると、ウィリアムからの無言の眼差しにぴっとなって部屋を出て行った。


ダリル達と一緒に退出したので、これから政治的な話をするのかもしれないし、高位の魔物が沢山詰め込まれた空間に、そろそろウォルターが耐えられなくなりつつあったのかもしれない。



「グラスト、僕はまだ元気だけど、疫病を探す?」

「いや、エーダリア様と話をして、ひとまずは明朝からという事になった。今夜はゆっくり休もう」

「うん。じゃあ、グラストと一緒に帰るね」


グラストとゼノーシュも騎士棟に戻ると言うので、ネアはあらためてゼノーシュにお礼を言った。

檸檬色の綺麗な瞳でこちらを見上げた見聞の魔物は、友達だから当然だよとにっこり笑ってくれた。



「だって、僕と最初に友達になってくれたのはネアだし、ネアのお蔭で僕はグラストと仲良しになれたんだ。だからね、ネアは友達の中でも特別な友達なんだよ」

「ふふ、私にとってもゼノは、特別なお友達なのです。なので今回は、一緒にいてくれてとても頼もしかったんですよ」

「僕もだよ。だって、ネアは凄く強いし、ネアといたら必ず帰れるもんね。それに、僕は拐われちゃってグラストの側には居られなかったけど、ディノがいたから安心だったの」



そう言ってまたねと手を振ったゼノーシュと、そんな小さな魔物の手を大事そうに握ったグラストも退出し、温かい紅茶を飲んでお疲れの様子のエーダリアが少しだけ眠そうな目をしている頃。




「……………死んでしまっていませんよね?」



ネアは、テーブルにくしゃりと崩れ落ちている砂糖の魔物が心配でならず、へにゃりと眉を下げていた。



「転移で立ち去ろうとしていたから、捕まえておいたよ。深い損傷ではないけれど、やはり摩耗はしたのだろう。体力などを補う為に、少し体を休めているのだろう」

「おい、その辺に転がしておけよ」

「むぅ、グラフィーツさんは私の先生に昇格したので、粗雑に扱ってはなりませんよ!」

「…………は?」

「お宿で、ピアノを教えてくれたのです。………あまり時間が取れなかったので、続きはまた今度教えてくれるのだとか」

「グラフィーツなんて……………」

「私のピアノ感が素敵に整ったら、ディノに発表会をしますね」

「ずるい…………」

「うーん、グラフィーツはいるのか………?」

「わーお、そっちから増やされるのは想定外なんだけど………」



そんなグラフィーツは、グレアムが引き取ると申し出てくれたが、こちらの就寝時間までには、怪我の影響を治癒しきれるだろうとディノが言ってくれたので、グレアムがもう少しリーエンベルクに残り、帰り際に起こして一緒に帰る事になった。




「ネアは、グラフィーツと随分仲良くなったんだな」



グレアムにそう問いかけられ、ネアは少しだけ考えると淡く微笑んだ。



「私の母方の一族が、音楽を生業にしていたからでしょうか。アクテーでも色々と助けて貰いましたし、ピアノを教えていただいて、更にほんわりしてしまいました。…………それとこれはご本人には秘密なのですが、私の母のかつての姓は、グラフと言うのです。音楽家として独立する際に、後見人であった祖父母の養子になりましたが、そちらが本当の家名なのですよ。おまけに、母を引き取ってくれた祖父と同じ名前の偽名をご愛用しているのだとか。なので、何というか……………ちょっぴりの親近感があるのかもしれません」



しかしそう言うと、なぜか魔物達はたいそう荒ぶったので、ネアは、唯一荒ぶらずに話を聞いてくれていたグレアムにすら、親近感という言葉に留めた自分の危機管理能力に感謝する事になる。




(……………本当は、遠い場所から現れた親族に出会えたようで、何だか嬉しかったのだ)




でもそれは、ネアだけの秘密なのだった。


グラフィーツがネアを窓にするように、ネアもまた、この魔物を終ぞ得られなかったものに向ける慕わしさへの窓にしてしまうのかもしれない。



だからきっと、またピアノを教えて貰う日はあるのではないだろうか。



かつての母が、師事した人の事を大切そうに先生と呼んだように、ネアもこの魔物をこっそりと先生と呼ぶことで、生まれ育った世界よりもこの世界を選んだ薄情な娘なりに、幸福だった日々を悼むのだ。




それはもしかしたら、この砂糖の魔物からはいつも、ネアの母親が愛用していた鈴蘭の香水のようないい匂いがするからかもしれない。




そんな小さな感傷は、ネアの秘密である。













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― 新着の感想 ―
[一言] グラフィーツは嘘つきです。嘘をついてネアを護っている…尊い(`;ω;´)
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