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箱馬車と疫病の町 6




ごろごろと転がったクライメルの首は、小さな草むらで止まると、かっと目を見開く。

血が飛散りもつれた白髪といい悍しい姿なのだが、それでもなお、どこかに堂々とした高位の魔物らしい優雅さがあるのは驚きだった。


もし、何の前情報もなくこの首に出会い、穏やかな声で助けてくれと言われたら手を貸してしまうかもしれないくらいの力が、ただの首だけでもこの魔物にはある。



しかしそんな魔物は、空気をびりびりと揺らすような声で自分の首を落とした相手を罵倒していた。


「おのれ、貴様か!!!!武器風情の魔物めが!!」

「やぁ、クライメル。久し振りだね。そして、君はいつも僕に気付かないらしい」

「オフェトリウス!!オフェトリウス!!ああ、また貴様だとは!!お前の属した国を焼き払い、その主人を祟りものに変えても尚、なぜお前はいつも現れるのか………!!」

「さて、どうしてだろうね。僕が災いを払う剣で、君が災いになりたがるからかもしれない。剣は災いを払うものだと、この世界の殆どの人々が信じようとしているからかもしれない」



そう微笑んだオフェトリウスもまた、ぞっとするほどに凄艶な美しさだ。

ネアは、剣は戦さ場でこそ、そして、より強大な敵のその前でこそ美しく輝くのだと初めて知る。



一方で、首を落とされたクライメルに動揺したのは、巡礼者達だ。


その隙にグラフィーツは突き刺さっていた槍を片手で引き抜いてしまい、銀色の槍は、魔物の義手に掴まれたまま、さらさらと真っ白な砂糖になって夜風に流れてゆく。


クライメルが首を落とされた事で、こちらから目を離しておろおろしていた青年は、はっとしたように振り返り、新しい魔術を組んだがもう遅かった。


ぎゃっと潰れたような悲鳴を上げてその体がへしゃげ、中身のない空箱を捻り潰すようにねじ曲げられて小さな布切れにされてしまう。


その布切れも、ぼうっと音を立てて燃え上がった。



「……………また中身は空か。砂糖どころか、シロップにも煙草にもならんときた。はぁ、やれやれ。何とか終わったな」

「…………もしかして」

「ああ。こっちは、オフェトリウスがクライメルを無力化する迄の囮だ。とは言え、お前だけは傷付けさせる訳にはいかないがな。…………っ、」

「自分で立てますので、もう下ろして下さい」

「却下だ」

「それならせめて、傷薬を使って下さい!」

「ったく、…………寄越せ」

「……………ふぁい」



ネアがじわっと涙目になったからか、呆れたような目をしたグラフィーツに、慌ててポケットの中で握り締めていた傷薬の瓶を渡した。

きゅぽんと瓶の栓を抜くと、傷薬をじゃばりと脇腹にかけている姿に、ネアは胸を撫で下ろす。


その際に僅かに顔を顰めたのだから、やはりただの刺し傷ではなかったのだろう。

魔物なのだがら、普通の怪我くらいはさらりと治してしまえる筈なのだ。



(……………私とて、この世界の魔物さん達の頑強さは、よく知っているのだ)



アルテアはウィリアムによく刺されているし、ヨシュアもウィリアムに首を落とされた事があるという。

ディノだって、アルテアに喉を掻き切られた事がある。


けれどもその一方で、どれ程に高位の者達でも決して油断の出来ない傷もあり、今回のものは、そのようなものだったのだと、ネアは確信していた。


かつての蝕の時の恐怖を思い出させる今回の事件では、ネアは誰にも傷付いて欲しくない。

我が儘な人間の身勝手なただの心の平安の為に、全員が無事に帰って貰わないと困るのだった。



(それに…………)



どうしてだか、この魔物と共にいると、ネアは家族を思い出してしまう。

それは、新しく出来た家族のような賑やかさではなく、かつて失った家族との思い出が柔らかく心を動かすような感覚で、奇妙な親しみを揺さぶってくる。


となればもう、ネアは二度とそのようなものを失いたくはなかった。



「……………さて、残るのはせいぜい六人程だが、この後の顕現には耐えられんだろうよ」

「………顕現?……………あ、」




その時だ。




がらんがらんと、天啓のような鐘の音が鳴り響いた。




眩く暗く目眩のするような光のテープが空から落ちてきて、ばらりとザッカムの地に触れる。


その途端、ざあっと音を立てて真珠色の花が咲き乱れ、瞬き程の間に広がり、辺りを埋め尽くした花をざざんと揺らす。


警戒するようにクライメルの後ろに立ち、鋭い目でこちらを見ていた残りの巡礼者達は、怯えたように右往左往した後、まるで目に映ったものに打ち据えられたかのように灰になってしまった。



咲き乱れる花々は真珠色のさざ波のように広がり、溢れ出てどこまでも広がろうとするその刹那、今度は空から白金色の鉄柵のようなものが降ってきた。


がしゃんと音を立ててネア達の周囲を囲い、その覆いの中で溢れ咲いた花々が、水槽の中の水のようにとぷんと押し留められる。



(まるで……………)


まるで、白金色の鳥籠の中の花園のようだ。



その美しさと圧倒的な存在感に、ネアは息をするのも忘れて魅入られてしまい、グラフィーツに背中をばしりと叩かれて我に返った。

胸の中でほろりと崩れるように滲んだ熱には、確かに希望と安堵がある。

ネアは両手で胸を押さえ、その熱に触れた。



「もういいだろう」

「……………はい。グラフィーツさん、ここまでずっと守って下さって、有難うございました」

「……………成り行きだな」

「そして、ピアノを教えて貰いました。私の母には素晴らしい先生がいたそうなのですが、私は家族以外の方にピアノを教わったのは初めてなのです」



花々が咲き誇るその勢いで、その鳥籠の中には僅かな風があった。


黒いコートを風に膨らませて立ち、なぜか砂糖の魔物は、不可思議な表情でこちらを見る。

まるで、ネアを透かして誰かを辿るようなその眼差しには、彼にピアノを覚えさせたという、かつての歌乞いの姿があるのだろうか。



グラフィーツにそっと花畑の上に下されたネアは、はらはらと舞い散る花びらの中で空から降って来た光のテープを見上げ、大事な魔物はどこにいるのだろうと両手を彷徨わせた。



オフェトリウスが目の帽子の巡礼者を倒した事で、時間に作用した魔術はもう解除されている筈だ。

きっと周囲では、これだけの崩壊を受けて大騒ぎになっている筈なのに、そんな騒ぎはこちらには届いていなかった。




(ディノは、……………)



その姿がまだ見付けられずにきょろきょろしていると、一際強い輝きを放つ光のテープの辺りに、じゃりっと結晶化した花を踏み現れた靴先が見えた。


続いて、歩みに合わせて揺れる三つ編みの先が見え、ふわりと膝丈の白いフロックコートの裾が揺れる。


コートの裾は、周囲の花々の煌めきを映した結晶石を縫い込んだ刺繍がちかちかと光り、はっとする程に美しい手が輪郭を描いて色を宿し、その影の向こうにぞくりとするくらいに鮮やかな水紺の瞳が暗い篝火のように灯った。



それは、ぞっとするほどに美しく、そして絶望するしかない程に艶やかな隔絶されたもの。



人間の魂のどこかが、今すぐここから命がけで逃げろと叫んでいたけれど、ネアは、構わずに手を伸ばしてその腕の中に飛び込んだ。




「……………ネア」

「ディノ!」



低く甘い声には、胸を掻き毟るような優しさがあって、ネアは大切な魔物の腕の中でその温度にぴったりと体を寄せる。

それだけでもう、心がくしゃくしゃになって涙が溢れそうだ。



「怪我はなかったかい?」

「わ、………私は大丈夫だったのですが、ジャンさんが!」

「……………ジャン?ああ、彼の事だね。月撃ちの槍の気配だろうか。……………大丈夫かい?グラフィーツ」

「……………ええ。この通り、事なきを得ておりますよ。脇腹は多少痛みますが、まぁ、クライメルの首を落とす様をロージェで眺められると思えば、チケット代としては安い方でしょう。砂糖でも食っておけば治ります」

「私をずっと抱えてくれていたのです。それで、攻撃を避けられずに………」

「うん。彼の怪我は後で私がきちんと診ておくよ。通常の損傷より術式汚染の洗浄には時間がかかるけれど、後遺症が残るようなものではないだろう」



ディノがそう言ってくれてほっとするのと同時に、ネアは、やはりそれだけの痕を残す一撃だったのだと知り、小さくくすんと鼻を鳴らす。




「……………我が君」




そして、そんな呆然としたような声は、咲き乱れる花々がそこだけ届かず爛れている地面の上から聞こえた。


頭だけが無残に地面に転がり落ちたクライメルの、鉱物の毒のような緑の瞳が、食い入るようにこちらを見ている。


その眼差しに浮かんだ深い深い感情の織りに、ネアは緩みかけていた心を整え直し、もしこの魔物が大切なものに何かをするのであれば、絶対に守らなければときりりとした。




「困ったものだね」



ディノは、そう微笑んだだけだ。

けれどもそれだけで、地面に転がったクライメルの頭部はざらりと耳のあたりが欠け始めていた。



「この子は私のものなんだよ。それなのに君は、この子に手を伸ばそうとしたのかい?」

「……………めっそうもございませんと申したいところですが、御身の手の内とは知らず、身の程も知らず手を伸ばしてしまったようですな。いやはや、これは誠に不甲斐ない。まさか、万象の珠玉であったとは」

「では誓うといい。君と、君が手に入れたこの土地に於いて、二度と私のものには手を出さないと」

「……………ふむ。是非にそうしたいところですが、この様子となりますと我が身が保つかどうかが危ういところ。まずは、身なりを整えましてからの誓約でも宜しいでしょうか?」

「それはまた、高慢な主張だ。なぜ首を落とされてしまったのか、考えてみたりはしないのかい?」

「ははは、手厳しいご指摘ですな」



ネアはふと、オリガニクスと呼ばれた橙の瞳の巡礼者がどうなったのかを知らない事に気付いた。


あの時の感じではクライメルの副官のような役割に思えたので警戒しなければと思っていたのだが、彼もまた、ディノの顕現の際に壊れてしまったのだろうか。

あまりにも瞳の色が鮮やかなので、かなり人外者寄りになっている巡礼者なのだろうと考え、注意していようと思ったのだが、周囲にはもう誰の姿もないようだった。



なぜそんな事が気になったのかと言えば、クライメルの、のらりくらりとした返答が、何かの時期を計っているようにも思えたからなのだが、そう思ったのは何もネアだけではなかったらしい。



先程首を落とした剣を、クライメルのすぐ横の地面にがきんと突き立てたのはオフェトリウスだ。



まずはディノに深々と一礼し、その腕の中にいるネアをどこか遠い目で見る。




「やはり本当に、君の魔物はシルハーンだったんだな。勿論、ここに来る前にその話は聞いたが、俄かに信じ難かった……………。ゼノーシュ、クライメルが明らかに時間稼ぎをしているみたいだが、巡礼者がまだ残っている様子があるかな?」

「うん。ザッカムの中には九人くらい。凄く沢山連れて来たんだね」

「……………ははは、見聞がいるというのはこういう事か。やりづらくてかなわんな」

「それとね、巡礼者に混ぜてあったけど、魔物と精霊もいたよ」




そう告げたゼノーシュに、クライメルの笑いがぴたりと止まった。



すっと温度を無くした禍々しい緑の瞳にはまだ、音もなく周囲の気温を下げるような精神圧がある。




「……………我が君、足場を固定されたのは、影響を及ぼさない為にではなく、扱う魔術の限界を知らせない為ですかな?」

「おや、君は気付いていたようだね。他のものの維持に多くの力を割いているから、私が力を振るうと、繋いだものまでをも壊してしまいかねない」

「であれば、この町に埋め込み育てております、儂の呪いの輪からその娘を引き上げるのはさぞかし難しい事でしょう。先程から何やら、そこの人間の足場を整理しておられるようですからな。……………あなた様がここにおります限り、さすがにこの指先を動かすのは難しい。しかし、弟子というものはいつの時代もいつの世も、師を案じて時には無謀な事をするものです」




(……………ああ、これが白夜なのだ)




ネアはあらためてその悪辣さを感じ、かつて、白夜の城にいた者達の全てまでをことごとく滅ぼしてしまったディノの事を思い出した。

あの時ですらそうだったのであれば、この白夜は尚更だろう。



皆が白夜というその名前を呟くとき、眉を顰めて口にするのは、このクライメルという魔物の名前なのだ。




「……………もう、町ごと滅ぼしてしまいますか?」

「……………え、」

「或いは、作業中はみんな黙らせておけばいいのです」

「……………そうしようかな」




魔物らしい悍ましさを醸し出してみたクライメルであったが、人間は自分さえ良ければどんなことでもする残忍な生き物だった。


展開の緩急などはぽいと投げ捨ててしまい、あっさりと面倒なものを断ち切る手段を提案したネアに、ディノは少しだけ慄きながらこくりと頷く。



「オフェトリウス、彼を少しだけ削いでおいてくれるかい?」

「畏まりました」

「それと、少しだけ機能を借りるよ」



ディノの指示に頷き、オフェトリウスは容赦なくクライメルの頭に剣を突き立てている。


さしものクライメルもぐぎゃっと呻き声を上げたが、だからと言って死んでしまいそうな様子はないのが恐ろしい。


体で遮るようにしてその光景を見せないようにしてくれていたディノがこちらを見て頷いたので、ネアはさっとディノの背中に隠れると、クライメルの目に留まらないようにしてあの小さなベルを取り出した。



かつてのラエタでも、このベルに救われたのだ。


そんな感慨を覚えながらちりんと鳴らせば、既に静まり返っていた周囲がいっそうの静けさに包まれる。



そうして全ての音を失ってみれば、静かに思えた周囲にも音があったのだと良く分かる。

時間を押しとどめていた巡礼者が滅ぼされた以上、あわいとはいえ、この周囲には大勢の住人達がいた筈であった。




「もう大丈夫だよ。クライメルも眠ったようだ」

「むぅ。悪いものは全部眠ってしまいました?」

「うん。音の拡散を助ける魔術を使って、かなり遠方までそのベルの魔術を届けたからね」

「まぁ、では一安心ですね!」



ほっと息を吐きディノの影から顔を出したネアは、さっと顔を顰めると、伴侶な魔物の袖をくいくいっと引っ張った。

袖を引っ張られてしまった魔物は少しだけ弱っていたが、問いかけるように水紺の瞳をこちらに向ける。



「ゼノや皆さんが起きているのですが、もうベルの効果がなくなってしまっていたりは…………」

「彼等まで眠ってしまわないように、音が届かないようにしたんだ」

「まぁ、もしかして先程の、機能を借りるという言葉はそのことだったのですか?」

「うん。音の遮蔽をすると、クライメルが音による魔術を動かすと気付いてしまうかもしれないからね。……………ネア、怖かっただろう。来るのが遅くなってしまった」



そう悲し気に呟いた魔物は、先程迄の魔物らしい異形さはもう感じられず、そっと三つ編みを差し出してくるいつもの魔物だ。


ここで三つ編みなのかなと困惑しながらも微笑んで受け取ったネアに、今日は沢山戦ってしまったゼノーシュが、こちらに歩いてくると小さくお腹が空いたと呟いている。


振り返って無事を確認した仲間達は、幸いにも、先程のグラフィーツ以上の負傷者はいないようだ。

ゼノーシュの服にあったかぎ裂きも、いつの間か直っている。




「凄いな……………こんな風に眠ってしまうものなのか……………」

「おい、その持ち上げ方をやめろ。相変わらず、情緒の欠片もないな」

「君に言われたくはないけれど、さすがにこのままにするつもりはないよ。剣が傷みそうだ」



オフェトリウスが、剣に串刺しにしたままのクライメルの頭部を持ち上げたので、グラフィーツは顔を顰めている。

ネアはそんな砂糖の魔物が体調不良を隠していないかどうか、鋭い目で脇腹のあたりを凝視していたが、視線が強過ぎたのか本人が振り返ってしまった。



「……………シルハーンから聞いただろう。あの程度で大きく削られる程、俺は脆弱じゃないぞ」

「内側の問題があるのなら、いっそもう傷薬を千倍くらいにして飲ませてしまえばいいのでは……………」

「おい、あの傷薬は飲むものじゃないぞ。やめろ」

「アルテアさんも服用した事があるので、効き目は保証済みですよ?」

「それは、あいつが自ら飲んだのか?それとも、お前が飲ませたのか?」

「スプーンでお口に突っ込みました!」

「そうか。絶対に俺にはやるな」

「むぅ……………」




ネア達の周囲には、ディノが降り立った時に咲いた真珠色の花が咲き乱れていた。


海からの風もぴたりと止まってしまっているので、爽やかな甘い香りがふわりと香る。

ネアは、そんな伴侶の咲かせた花の香りを胸いっぱいに吸い込み、ぎゅっと羽織ものになってきた魔物の腕の中にぬくぬくと収まる。


ぎゅうっと抱きつかれた魔物は、目元を染めながらネアの頭をそっと撫でてくれた。


光るような瞳を細め、蕩けるような安堵の微笑みを浮かべたこの魔物が、どれだけ怯えていたのだろうとネアは胸が苦しくなる。




「半刻もかからないと思うけれど、君の足元から、この土地への癒着や縁をしっかりと剥がしておくからね。このような、不特定多数の者達の絶望や怨嗟を残したあわいを壊すのは難しい。であれば、もう二度と呼ばれないようにしなければならないんだ」

「はい!誘導人さんに連れて来られてしまったので、それをどうにかする必要があるのですよね?」

「うん。作り付けた道を足元に敷いたから、これでもう、こちら側から剥がしてしまえる」

「色々と手をかけて疲れてしまいませんか?ディノが来る前から出来る事があれば、こちらでも準備をしておければ良かったですね…………」

「いや、ここはあわいだから、足場がない状態で引き剥がしだけを行うと、あわいの中で彷徨ってしまう可能性もある。私が来てからでなければ出来なかった作業なんだよ。……………ゼノーシュ、そちらは大丈夫そうかい?」

「うん。大丈夫そう。誘導人だと理の魔術でこんな風になるんだね。わぁ、べたべただ………」



ゼノーシュは、いつの間にか魔術で椅子を出し、お行儀よくそこに腰かけて靴裏を見ている。

どうやら、一緒に連れて来られてしまったゼノーシュも、ネアと同じようにこの土地との縁を切る必要があるようだ。



奥では、壮観だなと呟いたオフェトリウスが剣に刺さったままだったクライメルの頭を、剣を振ってぽいっと地面に捨てている。

そんなクライメルを見つめ、グラフィーツは何やら思案顔だ。



「シルハーン、年明けにリーエンベルクを訪れたという再顕現についてですが、三次とならないように手を打っていっては?」

「……………君は、その魔術をクライメルのものだと思っているのかい?」

「ええ。かつて、クライメルが春闇の竜を殺す為に造った、ウィーム王族を材料にした辻毒の馬車があった。……………俺が、ずっと二次災厄を警戒していたものです。ネアから聞いたその魔術の気配はそいつとよく似ている。階位は落ちるでしょうが、三次も警戒しておいて損はないでしょうよ」

「…………人間用のものだったから或いはと思っていたけれど、ウィーム王家に縁のあるものだったのだね」

「ネアは、ダナエとも縁があるんでしょう。…………無関係の呪いでも、誤認されて付け狙われても面倒だ」

「と言うより、その呪いはこの子を標的にした事もあったのだろう。違うかい?」



そう問いかけたディノの声はとても静かだった。


思わぬ言葉にネアは目を瞠り、体を捻って羽織ものになっている伴侶を見上げる。




「ディノ、……………そうなのですか?」

「……………ダナエから、古い呪いをリーエンベルクで見かけたので、壊しておいたと言われた事がある。蝕の後のことだね。それは元々、ダナエと知り合いだった、ウィーム王家の子供を餌として、ダナエを捕らえようとしたものだったのだそうだ。呪いを背負った王族が死者の国に向かったことで失われたと思われていたものだったけれど、……………恐らくその呪いの求める資質が、君に符号したのだろう。守護などで弾かれたものか、君には触れられないまま、君の近くを彷徨っていたそうだ」

「…………ぞくりとしました」

「或いは、エーダリアの事も狙っていたのかもしれないけれどね。それはもう、ダナエが壊してしまったから安心していい。グラフィーツは恐らく、年明けの再顕現は、あの呪いが蘇ったものだと思っているのだろうね」



そう言われて振り返ったネアに、グラフィーツはどこか渋々という感じではあるものの、静かに頷いた。




「……………俺は、あの呪いをよく知っていますからね」

「もしかすると、君の歌乞いは、その呪いに取られたのかい?」

「………さて。どうでしたか」

「それが唯一のものであれば、君はその事を永劫に忘れはしないだろう。私は、君が選んだ者を知らない。だが、呪いに触れたのであれば、ウィーム王家の者かその縁者だったのかもしれないね。君がこの子を親身に守ってくれた理由もそこにあるのだろうか」



ディノの静かな声に、グラフィーツは肩を竦め答えなかった。



「ネア、あまり気分の良いものではないだろうけれど、クライメルの………首かな……………を、一度何らかの形で損なって貰ってもいいかい?魔術的に、術者に打ち勝つ、或いはそれを損なうという事は、その者の作った魔術に耐性を高めるんだ」

「むむ、であればやっておかなければなりませんね!もう二度と、馬車めに拐われるのは御免ですし、何だかよく分からないもののお腹にも入りたくありません」

「……………うん。………踏むかい?」

「靴裏が汚れそうなので、バケツです!」

「……………バケツ」



かくしてネアは、この街の中にあるバケツをゼノーシュに探して貰い、幸いにも近くに転がっていたものを、ディノに魔術で取り寄せて貰った。

ここで自前のバケツを使わないのは、単純に勿体ないからだ。



「ええと、ここに入れるのかな」

「はい。オフェトリウスさん、お手数をおかけします」

「……………僕、ネアが何をしようとしてるのか分かった」

「ご主人様……………」



邪悪な人間の企みに気付いた魔物たちが怯え始めた中、ネアは顔が見えないようにバケツに入れて貰ったクライメルの頭の上から、いつでも補充出来るように大量保管している激辛香辛料油の瓶を取り出した。


羽織りもののままの魔物がぴゃっとなっているのは、この瓶の中の激辛香辛料油の倍率を知っているからだろう。



「ネア、それ何倍くらいなの?」

「いざと言う時に、瓶のまま投げつけても使えるように、一万倍にはなっています」

「わぁ、…………クライメル、甘党だから崩壊しちゃうかな」

「……………甘党なのですね」

「おい、ぎりぎりまで待てよ。白夜の崩壊となれば、こっちの足場が危うくなる」

「なんと儚い生き物なのだ………。それとも、お湯で柔らかくした森のなかまのおやつを与えてみます?」

「白夜はやめようか……………」



勿論歌ってもいいのだが、ネアとしては、そんな生温い措置ではなく、激辛香辛料油の中で身悶えるような報復をと思うのだ。



「歌声など、うっかり私の素晴らしい歌声を堪能して、幸せな気持ちになってしまうだけかもしれないではないですか」

「安心しろ。それはない。それを聞いて耐えられるのは、俺とシルハーンくらいだ」

「むぐるるる!」

「ネアが歌うなら、魔術遮蔽するね」

「……………むぎゅ、ぐるる」



やはりここは激辛香辛料油という事で結論が出ると、ネア達はあわいからの断絶に暫し時間を費やした。

オフェトリウスが階位が上がりそうな場所だなと呟いて寛ぎ出してしまったのは、一面に咲いている真珠色の花の影響だろうか。



「グラフィーツさん、帰ったらきちんと治療を受けて下さいね?」

「この程度、放っておけばどうにかなる」

「……………ディノ、逃げようとしています」

「捕まえておけばいいんだね?」

「はい!」

「……………やめろ」




白紫の髪の魔物の横顔を見上げ、ネアは胸の中に落ちた小さなざらざらとしたものに触れた。

いつだって、大切な人を亡くした人の心を思うと、ネアの内側はこんな手触りになる。

それは、あくまでも自分本位に、その喪失に家族を喪った日の苦しみを思い出すからなのだろう。



(私の周りにいたという呪いが、この方の大切な人に何かをしたことがあるのなら…………)



グラフィーツがネアに預けてくれる不思議な優しさの理由は、ネアの中のどこかに、その歌乞いを彷彿とさせる要素があるからなのかもしれない。



(同じ歌乞いで、ウィーム王家の人間ではないけれどリーエンベルクに暮らしていて、その呪いが側にあったのなら)



魔物達は、人ならざるものらしい酷薄さで、決して愛するものの影を誰かに重ねたりはしないが、よく似た別のものとして気に留める事くらいはあるだろう。

グラフィーツは、かつて自分が慈しんだものに似た要素を持つ者が、同じ悪意に損なわれる様だけは見たくなかったのかもしれない。



(もしかすると、こちらを見てお砂糖を食べようとするのも……………)



それは、ネアといういい窓を見付け、そこからかつて愛した者を見ているからなのかもしれなかった。




「ネア、終わったよ」

「では、じゃばんとやりますね。激辛香辛料油が跳ねないように、結界などでどうにかする事は出来ますか?」

「……………うん。かけるのだね」

「これで、厄介な馬車めとはおさらばです!!」



簡素な緑色のバケツの中に、ネアは何の躊躇いもなくじゃばんと激辛香辛料油を注いだ。

眠っていても堪らなかったのか、バケツの中でクライメルの首がびくんと動いたような気がしたが、さすがにネアも生首は怖いので、あまり見ないように心がけている。




「あ、少し崩れちゃう」

「………うーん、これはやはり崩壊するんじゃないかな。シルハーン、瓶を空け終わったらすぐに上がれますか?」

「……………うん。ネア、もういいんじゃないかな」

「その、対応策はもう取れたのでしょうか?」

「既に一部が灰になってしまったからね。もう充分だよ」

「では、こんな奴めはもうぽいです!念の為に、ベルは鳴らさないまま帰りましょうね!」

「ずっとこのままなのだね…………」

「ふむ。私はとても冷酷な人間なので、ここでまた厄介なものが動くかもしれない危険を冒してまで、このあわいの方々を起こしておく必要はないと判断しました。このまま、いつか目を覚ますまですやすや眠っていて貰いましょう」

「……………その場合、最終的にはクライメルの崩壊でこのあわいごと滅びるんだろうな」



グラフィーツが遠い目をしてそう呟いていたが、ゼノーシュの調べによるとまだ巡礼者がいるというこのあわいは、封じ込めておけるならそれに越した事はない。


ネアはひと欠片の同情心も切り出さず、よく分からないものなどぽいなのだと微笑んだ。



「……………いい気質だな。ますます、剣を捧げたくなった。………かつて仕えたリリヤムの王にも、ネアのような気質があれば良かったんだが」

「あら、私のような強欲な人間には、国の管理などは出来ませんよ。ですので、その人は王様となるべくそのような残忍さや身勝手さを持たずにあられた方なのでしょう」


そう言ったネアに、オフェトリウスはかもしれないなと苦笑して剣を鞘に収める。

いよいよ、このあわいから帰る時間が来たのだ。




「ネア、持ち上げるよ」

「はい!ぎゅっとしますね」

「ずるい…………」

「ネア、ディノが弱っちゃうから、あんまりしちゃ駄目だよ?」

「むぐぅ、儚過ぎるのです」




しゃりんと音がしてそちらを向くと、きらきらと輝く光のテープが硝子細工のような階段になっている。

一面に咲いた真珠色の花を映していっそうに輝きを深める様は、例えようもない美しさだ。


まずは、ゼノーシュが上がり、続いてオフェトリウスが階段を上ってゆく。

ディノが最後尾にならなければいけないので、ネア達は最後だ。




そうして、ディノが階段に足をかけると、グラフィーツが小さな小瓶のようなものを遠くに投げた。




「…………指先の呪いだね。自分の領域にあるものを損なったものに、強い呪いを背負わせる術式だ」

「念には念を入れるのが、俺の流儀ですからね」



ディノがあわいから足を離した途端、咲き誇っていた真珠色の花々は一斉に灰になってしまった。

その灰も光の粒子になって崩れてゆき、同じように白金色の柵も光の粒子になって消えてゆく。




「…………よく頑張ったね。帰ったら、ザハの夜のカフェに行くかい?」

「まぁ、ぜ、絶対ですよ!これはもう、美味しいチョコレートケーキを食べるのだと、心に決めました!!そして、お世話になったゼノや、グラフィーツさんやオフェトリウスさんに焼き菓子セットをお土産に買いましょうね」

「わぁい。僕、ザハのお菓子大好き!!」

「ネアが、グラフィーツとオフェトリウスに浮気する……………」

「荒ぶる範囲からゼノを抜いてくれたのは嬉しいのですが、お礼の菓子折くらい許していただきたいのだ」

「グラフィーツとオフェトリウスなんて……………」




やがて、階段の踊り場を苛立たしげに歩き回っているアルテアの姿が見え、ネアはぶんぶんと手を振った。

こちらを見た赤紫色の瞳に微かな安堵を見て、最後にもう一度、クライメルという魔物がどれだけの事をしてきたのかを実感する。




最後に、アルテアがばっさりと繋いだ道の後方を切り落とした。




がらがらと崩れ落ちてゆくその向こうには、今も眠り続けているザッカムの町があるのだろう。


美味しいハイフク海老を焼いてくれた誰かや、ネアの知らない土地の人々の暮らしや、どうしても砂をかけてくるタフクなどもそこにいる。

そこでは、海の底の魚達や、デナストの町も眠っているのだろうか。




(結局、ザッカムがどのようにして滅びたのか、そこでどのような魔術が作られていたのかは、分からないままだったのだけれど……………)




こうして、全員無事に帰れるのであれば、それに代わるものなどありはしない。



ネアは、リンジンやクライメルのいたあの土地を、後ろ向きに足でげしんと蹴りつけてゆきたい気持ちでふすんと鼻を鳴らすと、バケツの中のクライメルの首がやがて全て灰になってしまう事を祈りながら、見えてきた出口に目を輝かせたのだった。











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― 新着の感想 ―
継続に入ってから特に 砂糖の魔物が出てくる話を読む程に 彼の深い愛情を感じてウルッとしてしまう 一周目はヒルドさん2周目はアルテアさん だったのですが 3周目以降はグラフィーツさんが推しになって しま…
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