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箱馬車と疫病の町 5




かちこちと、時計の針が動く音がする。



部屋にあった時計は秒針の音が大きめなのだが、こちら側の時間と外での時間の差が出てくるといけないので、時計ばかりは変えずにこれを使うしかない。



窓の外は夕闇の気配を帯び、ネア達の緊張感は高まるばかりだ。

幸いと言えば、予定より早くこちらへの道が出来上がりかけている事だろうか。



ゴーンゴーンと、町の教会が鐘を鳴らしていた。

その音にまたいつかの記憶が蘇り、ネアはぶるりと体を震わせる。




(でも、……………)




「……………この町は、日が暮れるととても素敵なのですね」



ネアは、窓の外を見ながらそうぽつりと呟いた。


家々が育てている蔓薔薇は、夜になると花の中に淡い光を宿すものであるらしい。

それが、幻想的な星の煌めきの様に町を彩り、何とも言えない切ない美しさを広げている。


海辺の町の賑やかさは、時刻を変えればたちまち様相を変え、詩的な情感を帯びるのだった。



いつかの物語のあわいの景色とは違い、この町には不思議なくらいに豊かな彩りがある。

端的にいえば文化圏の違いなのだが、その色相の違いが今は有り難かった。



「僕もザッカムの夜は好き。どの薔薇も、海の生き物達からの祝福をたっぷり浴びて育っているから、こうやって光るんだ。今のザッカムのあたりではもう、この薔薇は咲かないのかな。漁猟の魔物はね、ザッカムで派生して、海の精霊達と旅に出ている間に、ザッカムが滅びてしまったって話していたんだ。もしかすると、この町の景色を覚えていて、またここに帰ってきたかったのかな」

「……………その方にとっては、いつか取り戻したい故郷のようなものだったのかもしれませんね」

「レイノは、故郷があるの?帰りたいと思う?」



窓辺の椅子に腰掛けそう問いかけたゼノーシュに、ネアは少しだけ考え、短く首を振った。


最後は屋根も落ちてしまった庭のガゼボを思い出すと、その度に心の中の古く柔らかい場所がぎざぎざの痛みを抱えるのはどうしようもない。



「私の家族が生きていた頃に暮らした大事な屋敷がありましたが、最後は私の手では維持しきれずに無残なことになってしまいました。あの土地には幸福な記憶も沢山ありましたが、一人になってからの、その何倍もの苦しい日々が多かったのだと思います。家族にまた会いたいかと聞かれれば会いたいのですが、帰りたい故郷かと言われればそうではないのでしょう」

「そっか。じゃあ、もうリーエンベルクがレイノの故郷だね」

「ふふ。そう言える場所があることは、どれだけの幸福なのでしょうね。あの新しいお家は、私の大好きな故郷になりました」




そんな話をしていたからだろうか、オフェトリウスが首を傾げ、君は別の国で生まれ育ったんだなと呟いている。


グラフィーツは何も言わなかったが、既にアクテーで家族の話をしたことがあった。




「……………それにしても、このお宿にはピアノがあるのですね」



ネアは、部屋に入った時からずっと気になっていたピアノに、ここで漸く触れた。

何となくこんな時に不謹慎かなと思って言及せずにいたが、実はちょっとだけ弾いてみたかったのだ。



「町の守り手である、茨の狼の為のものだろう。宿泊客が暇潰しにでも音楽を奏でれば、それが土地の守りに反映される。海の乙女達も音楽が好きだし、そのような意味でも好まれるものだ」

「レイノは、ピアノ弾ける?」

「むむ、少しであれば嗜んでおりますよ」

「わぁ、僕、聴いてみたい!」



そう言われれば吝かではないので、ネアは、厳かな面持ちでピアノの前の椅子に座ると、わくわくとこちらを見ているゼノーシュに微笑みかけ、鍵盤を覆う木の蓋を開けた。


音楽の付与魔術は切って貰えるそうだが、元々、演奏については、共用の楽器があったり、音楽家としての価値を持たない者は、さしたる問題はないのだとか。



部屋に置かれたピアノは、黒い艶のある装いではなく、簡素な木のピアノだ。

だが、鍵盤はお馴染みの白と黒で、白が貴色であるこの世界に於いては、ある程度の階位のある楽器なのかもしれない。



(あ、………)



ふと、この世界に来てからピアノを弾くのは初めてだと考える。


ネアの大好きな曲は、母親の作った物悲しいが美しい曲で、音楽を奏でる側の道には進まないと決めてからもこの曲だけは何度も弾き続けてきた。

両親が殺されてからの数年は悲しくて弾けずにいたが、それでも指先は、幼い頃に辿った順番を覚えている。



鍵盤に指先を落として初めて、あの頃とは指の長さや手の大きさが少し違うのだと気付いた。



であればこれは、ネアハーレイから受け継いだネアの新しい音楽になるのだろうか。


雨の日の朝に、家族の残した大事な曲を弾きながら咽び泣いたネアハーレイはもうどこにもいなくて、母親の大事なピアノは決して売らなかったが、霧の季節には湿度が高くなる古い屋敷に置きっぱなしだったので、やがて調律が狂って弾けなくなった。


そんな事を考えながら弾いていると、なぜか、ピアノの横にグラフィーツが立つ。



(……………そう言えばこの人は、ピアノを弾く魔物さんなのだ)



以前に聞いたことを思い出して顔を上げると、なぜか砂糖の魔物は厳しい眼差しを見せている。

どうも、自分の歌乞いの事を思い出して悲しくなってしまったという雰囲気でもなさそうだ。




「楽譜上は合っているのに、なぜそうなるんだ…………。リズムか?リズムが壊滅的なのか?」

「……………こ、これはこういうものなのです!ご存知ない曲だと思うので…………」

「貸してみろ」

「むぐ?!」



体を屈めたグラフィーツに鍵盤を奪取されてしまい、ネアは、ずりずりと椅子を後ろに下げた。

すると片腕が義手の魔物は、軽やかに同じ曲を奏で始めるではないか。


自分が弾いた時とは違う軽やかで艶やかな音階に、ネアは、おおっと目を瞠った。


例えるのなら、ネアが弾いたのが元の世界の森であれば、グラフィーツの弾いたものはウィームの森だ。

音楽の持つ煌めきや彩りがまるで違い、曲の持つ切ない響きもいっそうに透明感を増してゆく。




「全く違うだろうが。覚えたか?」

「まぁ、初めて聴かれたものの筈なのに、一度聴いただけで覚えてしまったのですか?この弾き方ですと、まるで違う曲に聞こえますねぇ」

「………音階的に正解はこっちだ。初めて聴く音楽だろうと、音の並びでそのくらいの予測はつく」

「……………わたしのははのさっきょくしたものなのです」

「言っただろうが。音の並びで、楽曲の意図したものくらい想像がつく」

「が、がんこです!」



ネアはここで、正しいのは自分であると周囲を見回したが、なぜか悲し気な目をしたゼノーシュはそっと首を横に振るではないか。

慌ててオフェトリウスの方を見れば、剣の魔物はにっこり微笑んだものの不自然に目を逸らした。



「わ、わたしのきおくのなかのきょくは、これなのですよ!」

「ったく。椅子の半分を空けろ。少し教授してやる」

「解せぬ」



なぜか砂糖の魔物によるピアノレッスンが始まってしまい、ネアは渋面のまま、何度も同じ小節を弾き直させられた。


小さく唸りながら言いつけられたままに弾いていると、確かに少しだけ、母が弾いてくれたのはこんな音楽だったような気もしてくる。

だが、あくまでもそんな気がしてくる程度で、グラフィーツの弾いたものが正解とは言えない状況だ。



「僕、思い出した。レイノは何かあったら歌えばいいんだよね」

「ぎゃ!」

「……………ん?歌乞い…………なんだよな?」

「歌乞いです!私の歌声は、ディノもお気に入りの、素晴らしいものなのですよ!」

「うん。ディノは聴いても元気なままなんだよね」

「…………念の為に聞くが、他の者が聴くとどうなるのかな?」

「……………僕、言わない!」



ここで見聞の魔物は、ネアから向けられる祈るような悲しい眼差しに気付いたようだ。


ぱっと両手で口を覆うと、ぶんぶんと首を横に振る。

しかしその最後の優しさは、却って剣の魔物を怯えさせただけだったようだ。



「そうか。……………言えないくらいの事になるんだな」



青い顔でそう呟いているのだが、ネアはそんな事はございませんという安らかで慈愛に満ちた微笑みを浮かべておいた。


親しくしている者達以外で、それを聴いて生き残っている者は少ない。

オフェトリウスが誰かから真実を聞き出そうとしても、情報は上がってこないだろう。



「……………そうだな、もしも俺達からはぐれるような何かあったら、お前は歌え」

「その場合は、僕達は音の遮蔽をして探しにゆけばいいのかな」

「ぐるるる!」

「……………僕、何も言わない!」



ネアは精一杯威嚇したが、引き続きグラフィーツには弾き方の指南をされてしまい、これだけ緊迫した状況下でどうしてこうなったものか、半刻程をピアノレッスンに費やすことになった。


繊細な人間の心はたいそう傷付いたが、それだけの時間をクライメルやリンジンの事を考えずに過ごせたのは僥倖であったのかもしれない。




窓の外の夜空には、ちかちかと星が瞬き始めた。



美しい夜の向こうには海が広がっていて、甲板に煌々と明かりを灯した帆船が、置物のように煌めいている。



厳しいレッスンが終わり手を止めると、窓の外からは優雅なバイオリンの音色が聞こえ始めていた。


強張ってしまった背中の筋肉を伸ばしつつ窓の外を見れば、飲食店などの外で音楽を奏でる者達がいる。

あちこちの店を回りチップを稼いでいる流しの演奏家のようで、ザッカムの町のそこかしこから音楽が聴こえていた。




(……………素敵な町だったのだわ)



喪ったものを知る時、そうして痛む心は悲しい物語を読むようだ。



影絵やあわいの多いこの世界では、こうして今はもうない土地を踏む事も少なくはない。

それは例えようもない寂しさであり、同時に、かつてのこの町を愛した者にとってはかけがえのない一瞬であるのかもしれなかった。



(このような形のものではなく、もっと健やかなあわいであれば、漁猟の魔物さんも喜んだかもしれないのに……………)



それとも、人外者達はこのようなものには心を残さないのだろうか。


少なくとも、ネアの周囲にそうして過去を慈しむ者はいないなと思えば、こんな風に心を揺らしてしまうのは人間だけという事も在り得る。

だからこそ、これだけあわいがあっても、長きを生きる者達は心を過去に囚われずにいるのかもしれない。



「さっきから気になっていたんだが、交戦があるかもしれないのに、ドレスに着替えたのはどうしてなんだい?」

「このドレスには、沢山の隠しポケットがあるのです。武器を大量に仕込めますから、戦闘用に持ってこいなのですよ」

「……………君の可動域で」

「……………ぐるる」



オフェトリウスの疑問も解消されたようで、ネア達が飲み物を飲んで一息ついていると、広げておいたカードがぺかりと光った。


浮かび上がった文字は、ネアの大事な伴侶のものだ。




“ネア、そこにいるかい?何も困ったことは起こっていないかな……………”

“ディノ。こちらはまだ何も起こっていませんよ。オフェトリウスさん曰く、道を繋ぐときには何かが起こりそうだという事ですが、今のところ穏やかに過ごしています”

“うん。それなら良かった。そろそろ、こちらからの道が繋がる頃合いだ。百秒前になったら報せるから、準備をしておいてくれるかな。君の返事を貰ってから、百秒としよう”



そのメッセージを部屋にいた仲間達に示せば、皆が頷く。



グラフィーツは、何かの小瓶のようなものを確認しているし、ゼノーシュは最後の燃料補給としてクッキーを食べている。

オフェトリウスは、ネアがピアノレッスンに明け暮れていた間に読んでいた本に、丁寧に栞を挟んでいた。



“もう、繋げられるのですか?”

“最終確認をするだけだから、すぐに終わるよ”

“皆さんに共有しますね!…………なお、その時には交戦が避けられないかもしれないからと、グラフィーツさんにも戸外の箒をお預けしました”



ネアはこちら側の動きを共有する為にそう切り出したのだが、カードの向こうでも既に、道を繋いだ瞬間にリンジンに察知されるだろうと考えていたようだ。



“うん。ただしそれを使うのは、私がそちら側に下りてからだ。でないと作りつけた道を外してしまうからね”

“むむむ。そうならないよう、使うのはディノが来てからにしますね。……………こちらに来てくれるのは、ディノなのですか?”

“そうなるだろう。もし、私では通行に支障がある場合は、代わりにアルテアが下りることになる。私が下りれる場合は、アルテアは道の途中で控えていて、君達を通したところで道を崩す役割だ。……………あわいから、良くないものを招き入れないようにね”

“私が最後尾になって、きりんさんをばら撒きましょうか?”

“……………それがあわいに残されて、耐性を付けた者が現れても困るから、やめておこうか”





いよいよだ。




そう思うと、胸は高鳴るというよりも強張った。

はくはくと浅い息を刻み、ネアは、緊張を逃すように深呼吸しながら心の準備を整える。



オフェトリウスは、その瞬間までは擬態を解かないそうで、グラフィーツはここから敢えて擬態をかけた。

これは、視覚的な情報を落としておくだけで、襲撃時に相手方の警戒心を引き下げておく為なのだそうだ。


戦闘には不向きなのでこのような時は敢えて本来の姿でいるのだというゼノーシュとの対応の違いに、魔物ごとの有事の対策が見えてくる。



ネアは、道を作るのに外に出たりする必要はないのかなとも思ったが、可能であればクライメル達に気付かれずに帰りたいくらいなので、ぎりぎりまでこの遮蔽空間の中にいるべきなのだろう。





“……………繋げるよ”

「繋がります!」



“はい!”



返事を書いたネアを、すぐさまグラフィーツが、ひょいっと持ち上げる。



「むぐ?!」

「お前は防御は考えずに、襲撃の直前までカードを見ていろ。落ちないようにしておけよ」

「は、はい!」



いきなりの事にネアはびっくりして目をしぱしぱさせてしまったが、もしもの場合に備えて、向こう側とぎりぎりまで繋がっておけということらしい。


(確かに、もし道が途中から上手く繋がらないままにこちらの動きを向こうに知られてしまった場合は、この場からの離脱こそが優先されるようになるのだわ……………)



ゼノーシュは静かな声で秒数をカウントしていて、オフェトリウスは両手で前髪を掻き上げ、ぐいんと背筋を伸ばしていた。




九十。

七十三。

そして、六十。



刻々と迫るその瞬間を待ち、ネアはカードに新しい文字が浮かび上がらないか、息を詰めて見守っている。



そして、五十のカウントダウンが過ぎた瞬間、異変が起こった。





「来たぞ!」



鋭く叫んだのは、オフェトリウスだろうか。



直後、薄い硝子に強い衝撃が加わったかのように、遮蔽空間の壁が粉々になる。

あまりの衝撃に目を瞑るのが遅れたネアは、吹き荒ぶ爆風の中、ばらばらと落ちてくる瓦礫から立ち昇る粉塵にむぐっと息を止めた。



押し潰すような薄闇の中で、相当な質量のものが砕け落ちてゆく。

しかしそれらがネア達に触れることはなく、不可視の結界にぶつかり、また粉々になった。



全ての轟音が鳴り止んでから漸く目を瞬いたネアは、手に持っていたカードを一瞥し新たなメッセージがない事を確かめると、慌ててポケットの中に押し込んだ。


粉塵にけぶる視界の中で、キャラメル色のコートのまま、手に持った剣で飛び込んできた男達を薙ぎ払うオフェトリウスの後ろ姿が見えたが、擬態はまだ解かないのだろうか。




(もう、時間になる筈……………、)




「…………ああ嫌だ。なにこの虫。これから最高の遊びをするのに、すっごく迷惑なんだけど」




その声が聞こえたのは、斜め後方からだった。



ゆっくりと振り返ったネアの目に映ったのは、あの緑の塔のあるあわいで出会った少年ではなく、背の高い黒髪の青年だ。


けれども、その眼差しと手に持った本を、ネアが見間違えることなどある筈もない。



ウィリアムが倒れた瞬間の音だって、今でも思い出せるのだ。

胸の奥が凍えるような不快感と怖さが蘇り、息が止まりそうになったネアの背中を、グラフィーツの手がぽんと叩いた。




「ダンダイン」



だから、その一言を発したのはグラフィーツだった。



ひゅっと息を飲んだのは、リンジンに違いない青年と、その後方にいた五人ほどの黒いローブの巡礼者達で、彼等の動揺に重なるように、じゃわんと、敷き詰めた砂が一斉に波打つような奇妙な音が聞こえた。



遮蔽空間ごと崩され崩壊した宿の二階は惨憺たる有様になっていて、先程まで弾いていた綺麗な木製のピアノがあった場所も瓦礫で埋まってしまっている。


そんな些細な事にすら胸が潰れそうになっているネアは、巡礼者達の足元から細かい砂のようなものが吹き上がる光景に目を瞠った。




「っ、さ、下がれ!!祝福剥離だ!!」

「残念ながら、少し遅かったな」


そう呟いたグラフィーツに、わぁっと苦し気な悲鳴を上げる巡礼者達の声が重なる。


足元から湧き上がった砂は、彼等の悲鳴に応じるように真っ黒になってゆき、触れている足を引き抜こうとしてもその部分だけがタールのように纏わりつき、身動きを封じてしまう。



慌てたリンジンが開いた本に何かを書き込もうとしていて、ネアはまた怖さに胸が潰れそうになったが、リンジンはなぜか驚愕したような面持ちで何度もペンを振っている。



狼狽する魔術師の姿にふっと落ちたのは、襲撃を受け怯える者の嘆願ではなく、人間を破滅させる人ならざる者の暗い嗤い声であった。



「無駄だ。作家の魔術はもう書き足せんぞ」

「っ、なぜだ?!物語のペンを止められないよう、予め書いておいた筈なのに?!」

「それは、こちら側の天秤に、祝福と災いがない場合にのみ使えた手法だな。生まれ持った魔術を持たない人間の足場なんぞ幾らでも削り落とせる。…………なぁ、リンジン?」




その呼びかけにあの日のネアのように掠れた音を立てて息を飲んだのは、リンジンの方であった。



現れた瞬間の余裕はどこへやら、蒼白な面持ちになってかたかたと震えながらこちらを見ている。

擬態を解いたグラフィーツの髪は、こんな夜の光の中では白さがより際立ち、青藍の瞳も夜と同じ色調ながら光を孕むよう。



震えるほどに邪悪で、目が逸らせない程に美しいその魔物は、確かに人間に災いを齎す者であった。



「僕には、高位の魔物の後ろ盾がある。彼がすぐに……」

「悪いが、少しでも頭数を減らしておかないといけないからな、御大のご到着の前にお前は崩させて貰おう。言っておくが祝福の届かないこの中では、復活薬も使えんぞ?……………まったく。砂糖にもなりゃしないがらんどうの肉体だな」



リンジンが、そんなグラフィーツの言葉を最後まで聞いていられたのかどうかは定かではない。


途中からはもう、共にいた他の巡礼者達のように、リンジンの体ももうべたべたした黒い液体になって足元の真っ黒な砂の中に崩れ落ちてしまったからだ。



最後に手に持っていた本がぱさりと砂に落ち、ぼうっと黒い炎に包まれる。

あまりにも呆気ないその姿を、ネアは呆然と見守る事しか出来なかった。



(……………リンジンが、一瞬で……………?)




「連絡は?もう百秒は過ぎているぞ!」

「っ、……………いえ、何のメッセージもありません!」



呆然としていたネアは、グラフィーツの問いかけに慌てて取り出したカードを確認してそう答えた。

そこにがきんと鋭い剣戟の音を立てて別部隊の魔術師達と交戦しつつ振り返ったのは、オフェトリウスだ。


すっかり夜が落ちた中、金糸の髪は月光のように煌めき、なぜか今も尚、擬態を解いてはいない。




「目の帽子一人が、砂時計を固定しているんだ。そちらを頼む!…………っ、相変わらず熊の手は固いな!」

「くそっ、それを可能にする奴がいたのは想定外だ。道を繋ごうとしていると読まれていたか………!」



短く舌打ちし、グラフィーツはネアを抱えたまま大きな帽子の巡礼者に向かった。


踏み込んだ足元には、魔術の術式陣が浮かび上がる。

硬い硝子板を踏むようなぎゃりっという音がして、グラフィーツを止めようとした巡礼者が二人、穴を開けられた水風船のようにばしゃんと崩れ落ちて消えてしまう。



強い光が弾け、紫色の煙のようなものが巻き上がる。

その中で雄叫びを上げたのは悍しい獣の姿をした何かで、けれどもそんな生き物はこちらに飛びかかる前にざあっと砂糖の山にされてしまう。




魔術の叡智と野蛮さが、そこかしこで弾ける万華鏡のようだった。




ネアはくらくらする頭を僅かに振り、霞んでしまいそうな目に力を入れる。


あの襲撃の瞬間から姿の見えないゼノーシュを探して周囲を見回したネアは、大きな帽子の巡礼者と交戦している小さな見聞の魔物の姿を見付けて、胸が潰れそうになった。


既に服にはかぎ裂きがあり、檸檬色の瞳は苦し気に細められている。

戦闘は苦手だとあれ程言っていたではないか。

どれだけの苦難を強いられているのだろうとポケットに手を入れようとすると、グラフィーツに耳元でやめろと呟かれた。



「ですが…………!」

「あいつが、どこかでこの様子を見ていない筈もない。そちらは、苦戦をしている程度だ。お前が武器を持っていることを、まだ誰にも知られるな」

「……………っ、はい」



声を潜めたそんな会話の合間にも、ネア達にもまた、大きな魔術錬成の攻撃が迫っていた。


ふっと視界が暗くなり見上げた空に、大きな水の塊のようなものがある。

夜の光を吸い込みべったりと暗いその質量は、ネア達のいる宿屋など容易く飲み込んでしまいそうな程だった。



(……………あれは、まさか)



「水櫃か」

「水櫃………」

「ターレンに水櫃魔術を伝えたのは、巡礼者だ。あいつの子飼いだけあって、固有魔術使いばかりを集めてやがる」




残すところたった五十秒だったのに、その瞬間は未だに訪れずにいた。




オフェトリウスの言葉から推察すると、かつてネアがディノの為に編み物をした空間のように、何らかの魔術が時間の進みを押し留めているのだろうか。


正面に立った大きな帽子を被った巡礼者を見つめ、ネアは、溢れてゆく時間がどんどんと状況を傾けてゆく、その運びの恐ろしさを思った。


術者と思われる人物を睨んだりはせずに怯えたような儚さを演出してはいるが、グラフィーツの腕に抱えられたまま武器も出せないネアには、せいぜいそんな事しか出来ない。



何かをしてしまいたくて、指先がうずうずする。




(でも、…………あの帽子の巡礼者をどうにかして倒してしまえばいいのでは……っ?!)




「ほお、ほお、ほお。これはこれは愉快なものが、愉快な者を連れて遊んでおる」




そんな声が落ちたのは、ネアがグラフィーツの指示を訝しんでいた、まさにその時のことだ。



ぞくりとするような老人の声には言葉に出来ないほどの凄みがあり、静謐で力強く、伸びやかで力に溢れていた。


ただ声一つで、圧倒的な悪を感じる声音というものは稀だろう。 


けれどもその声には、誰が聞いてもこれは悪だという確固たる響きがある。



(声に打たれるというのは、こういう事なのかもしれない………)



ネアは、初めてのそんな思いを噛み締め、決して荒げる訳でもないのに、びりびりと体に響くような王様のような声の主を見上げる。



そこに居たのは、かつてザルツで出会った獅子を彷彿とさせる一人の老人であった。

漆黒の毛皮のコートは豪奢に波打ち、血のように赤いクラヴァットが風にたなびく。


肩までの白髪は下ろしたままざんばらになっていて、けれどもその荒々しさがこの魔物を例えようもなく優雅にも見せていた。


宝石を散りばめた装飾品や、精緻な刺繍飾りのある上着の襟元など、着こなすのが難しいくらいの華美な装いなのだが、この老人が身に纏うとなぜか一定の暗さを塗りこめて均一な色調になるかのようだ。


この上なく悍ましく、そして他の誰でもなくクライメルという魔物だけに似合う華やかな装いであった。




(……………今、この人は帽子の巡礼者の中から現れた)




それはつまり、ネアがあの場でポケットを探っていたら、そこに何らかの品物があると気付かれていた事に他ならない。


だからこそグラフィーツは、このクライメルが姿を現す迄は、ネアに武器を取らせなかったのだろう。




「ふむ。その男の剣捌きは騎士かね。後は守られるだけの子供が一人。そして砂糖と、……………見聞か。ふむ。崩壊させれば、舞台に支障が出るが、このままにしておくには惜しい。目障りだという以上に、こんな愉快なものを放置しておける筈もなかろう。……………オリガニクス、その子供を捕まえろ。それが玉だ」

「御意」



ひっそりと一礼したのは、こちらもいつの間にかクライメルの背後に立っていた一人の男であった。


クライメルもであるが、足場が悪いので、虚空に薄く結界を張り込み、その上に器用に立っている。

夜風にばさばさと黒いローブが揺れ、その奥に見えたのは、鈍い黄金色の長い髪と深い橙色の瞳。



ネアを標的にと定めたクライメルの指示に、いつの間にか擬態を解いていたグラフィーツは、しっかりとネアを抱え直した。

ゼノーシュは何とか戦っていた巡礼者を退けたようだが、既にかなり疲弊しているのは一目瞭然であろう。


きりん札は渡してあるのだから、それはあまり効果がなかったのだろうと考え、ネアは、ゼノーシュが対峙した巡礼者が合成獣を作っていた者達であった事を思い出した。


そんな者達と一緒に行動しているのなら、クライメルにも効果がないと考えておくべきなのだろう。




(ああ、一つ、大きな手札が失われる……………)



その怖さに震えそうになり、ネアはそれでも、また一人の巡礼者をずたぼろにして地面に落としたグラフィーツにしっかりと掴まっていた。




(……………でも、大きく造作が変わる訳ではないのに、オフェトリウスさんのことは認識していないのだわ)



だとすればやはり、戦慣れしている剣の魔物は、その最後の一手を敢えて残しておいたのだろうか。

そしてネアのポケットにも、皆を眠らせてしまうベルならあるのだ。


とは言え、例えこの町の人々の全てを眠らせても、ネアには、時間を差し止めている魔術をどうにかすることは出来ないし、歌を歌うにしても、これだけの数の巡礼者が残っている現状では、合成獣を作ろうとした目の帽子には効かないかもしれないし、悪食の要素を持った熊の手が残ってしまったりと却って悪手に成りかねない。




(せめて、時間の問題を解決出来れば……………)



そうすれば、例え道が繋がる前にだって全員を眠らせてしまえばいいのだ。

多分それが一番安全で、一番手っ取り早い。




「彼は本当に、君の知り合いの魔物だろうか」




必死に思考を巡らせるネアに、そんな囁きが、どこからか届いた。



ぎくりとしたネアが、咄嗟にグラフィーツの首に回していた手を解きかけてしまったのと、上空にあった水櫃が真っ逆さまに落ちてきたのはほぼ同時だったと思う。



もし、熊の手の巡礼者の誤算があったとすれば、ネアにとって、その手は二度目だったという事だろうか。




「ま、負けません!」



以前にも、同じような心への侵食で、ネアはディノの手を離してしまった事があった。

その時のことを思い出し、解きかけた手にすぐさまぎゅっと力を籠めれば、耳元で、満足気に微笑んだグラフィーツの気配を感じる。


だが、その微笑みは彼の余裕を示すものではなく、せめて被害を少なくする程度にはよくやったと、ネアを褒めてくれたものに過ぎなかった。




そう気付いたのは、辺りがしんとしてからだ。




(……………水がない?)



一拍の後、ネアがそんな事を訝しんだのは、湿った重い音がどこからか聞こえた後の事であった。



不吉な不吉なその音は、これまでにも何度か聞いた事があるような気がする。

グラフィーツ諸共水櫃に飲み込まれた筈なのに、肌どころか髪先すら水に触れる事はなかったし、足元も、ざりりと乾いた瓦礫の山だ。



既にそこには、あの宿の建物はなかった。

瓦礫が積み重なり、無残に壊れたものが粉々になって散らばっている。



ゆっくりと視線を下げ、ネアは、グラフィーツの漆黒のコートがおかしな捩れ方をしていることに気付いた。

それがどう言うことなのかをよく飲み込めないまま視線を下げると、布地を巻き込むように、銀色の一本の棒がグラフィーツの右脇腹に突き刺さっている。



夜の中でもその銀色の槍のようなものが光るのは、周辺の家々の屋上に咲く蔓薔薇の花のお陰だろう。


辺りは不思議な程に静まり返っていて、被害を受けた人々が逃げ惑っていたり、近隣の住民が家から飛び出して来たりする気配はない。


だからこそ、そこに落ちた沈黙は耳が痛くなる程で、ネアは、喉の奥からせり上がって来た悲鳴を無理やり飲み込んだ。




「……………あ、」



ひどくゆっくりと、銀の槍を真っ赤な血が伝ってゆく。



そろりと持ち上げた視線の先には、槍を投じたのであろう、まだ少年の域を出たばかりのような華奢な青年の姿が見え、ネアは、わあっと声を上げてその青年に何かを投げつけたくなった。




「はは、馬鹿な男だ!高位の魔物でありながら、こんな事も読めなかったのか」

「……………いや、そやつは読んでいただろうさ。愚かなのはお前の方だ。騒々しい未熟者めが。黙っておれ」

「っ、クライメル様……………」

「それでも、避ける訳にはいかなかったのだろう。その男が抱えているのは、ただの人間だ。水櫃に入れば簡単に死ぬし、その槍を避けても燃えて死ぬ。ははは、何とも無様で愛情に満ちた愚かさよ。グラフィーツ、おぬしはそんな稚拙な感情に身を投げ出すような男ではなかった筈なのだが。……………さて、その娘はもしかすると、見た目以上に良い砂糖になる逸材なのやもしれぬ」



クライメルの笑い声は、大きな鐘を鳴らしたように体に響く。



悪意に満ちた暗い笑い声に揺さぶられ、引っ掻き回されたネアは、そうして届いた圧にまた打ちのめされてしまい、動揺したまま傷薬を取り出そうと手を持ち上げたところで、グラフィーツから強く首を横に振られて涙ぐみそうになる。



「ジャン……………」

「もう少しだけ我慢しろ。……………問題ない」




でも、確かにその体には銀色の槍が突き刺さっているし、巡礼者が扱うような武器が普通の道具である筈がなかった。



そんな事は言うまでもないのだろう。



だからネアは、唇を噛み締めて我慢した。

嗚咽と涙を飲み込み、こんな酷い怪我をしている人が、今もまだ自分を抱えてくれている怖さを我慢した。




手に持っていた細い剣を折られ、為す術もなく取り囲まれていたように見えたオフェトリウスが、片手を真っ直ぐに空に向けて伸ばしたのはその時だった。




ぴしゃんと落ちたのは、真っ直ぐな稲光のようなもの。




それを掴み取ったオフェトリウスの服装が、一瞬で漆黒の騎士服に組み変わる。


はっとしたように振り返った時にはもう、周囲の巡礼者達を薙ぎ払い、踏み込んで剣を振りかぶったオフェトリウスが、クライメルに肉薄していた。


艶消しの漆黒の甲冑姿はいっそ禍々しい程で、力強い踏み込みながらも殆ど音を立てないその動きは、優雅でありながらけだもののよう。

風を孕んだケープは鮮やかな青で、それがぶわりと広がる。



ざんっと、その鈍い音が、確かに耳に届いた。



ごとんと、地面に薪を落としたような音が続き、ごろりと転がった白髪の首を容赦なく蹴り飛ばしたオフェトリウスは、そのまま手首を返し、帽子の巡礼者の首も一閃で切り落とした。












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