表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
287/880

箱馬車と疫病の町 3





「ああくそ!よりにもよってあいつか!……………砂糖でも食わないとやってられん」




宿に入って遮蔽魔術を強固にかけ、なおかつ併設空間まで作り付けてから、そう叫んだのはグラフィーツだ。


あまりの剣幕にネアは無言で打ち震え、そっとゼノーシュの後ろに隠れさせていただいた。




「……………こちらを見てお砂糖を食べるのを、やめて欲しいのです」

「レイノ、諦めようよ。良くない魔物がいたから、今ジャンが弱ったら大変なんだよ」

「……………む、それが、表通りのお宿を避けた理由なのですか?」

「うん。前の前の白夜がいたの。僕、凄く苦手………」

「……………それは、色々な方から悪行ばかりが聞こえてくる、あの名前を出すのも嫌な魔術師めを面白半分で育て、尚且つダナエさんの角を折った方ですね……………」

「…………レイノ、殺しに行っちゃ駄目だよ?」

「ぐぎぎ…………きりん箱を百個くらい投げつけたいところですが、ここで無茶をする程に愚かではありません。絶対に関わるものですか!」



ネアが健気にもそう宣言したところで、ざりざりじゃりじゃりと砂糖を食べていたグラフィーツが、暗い目をこちらに向けた。



「……………迎えの連中に注意喚起しておけ。直接座標を指定しておかないと、これは事故るぞ」

「みぎゃ!早く言うのだ!!」



そこでネアは大慌てでカードを開き、全てのカードにこちらへのお迎えには注意されたしとメッセージを書いた。 

まだ誘拐事件の一報が入っていなかったらしい使い魔から怒涛の返信が来て慄いたが、ディノのカードからは、かなり警戒した様子が伝わってくる。



“……………クライメルがいるのなら、そちらに迎えにゆくのも私が行こう”

“ディノが来てしまって、大丈夫なのですか?”

“爪先を乗せる際にあわいがひび割れるかもしれないから、ノアベルトが行く予定だったんだ。………けれども、クライメルがその町にいるのであれば、彼に対抗出来る相手ではなく、彼が倦厭する者でなければならない”

“……………ディノは、危なくないのでしょうか?”

“うーん、これはシル一人で行くのも避けるべきかもしれないね。僕かアルテアが同行した方がいいかもしれないよ。この時期のザッカムにクライメルがいるとか、きな臭いにも程があるよね…………”

“もしかして、……………疫病はその方が、悪意で広めたということですか?”



そう問いかけたネアに、頼もしい義兄は、かつての白夜の魔物の好んでいた魔術を教えてくれた。



“クライメルは、集めて育てる魔術が好きなんだ。巡礼者達もそうだけれど、辻毒や、呪詛、呪いや祟りものなんかを集めて、練り上げて練り上げて、より毒性の強いものにする。……………疫病が蔓延すると言う事は、壊れたり変質する呪いの顛末が集められる訳だからね。如何にも彼が好きそうだと言わざるを得ないね”

“…………加えてクライメルは、前世界の資質の残滓を扱う事にも長けている。ノアベルトやアルテアも、器用な魔物ではあるけれど、彼等も知らない手札を持っているかもしれないのがクライメルなんだ”




その言葉を読み、ネアはくらりと視界が暗くなるような感覚に捉われた。



隣に座っていたゼノーシュが、ぎゅっと手を握ってくれるので何とか堪えているが、どうしても以前の蝕の時の怖さを思い出してしまって、胸が苦しくなる。



ネア達がいるのは客間を映した併設空間で、客間の方を使わずに異国滞在気分も味わえるものだ。

二つの空間の間には、客室の扉と同じ可愛らしい青い木の扉がある。


そして、外の様子の変化を見逃さないよう、この部屋にある窓からは、客間にある窓と同じものが見えていた。


今はまだ、町の様子も静かである。



“……………うーん、…………そうだね。今回は、余計な心労を削る為にも、クライメルに気付かれない内にそこから帰れるようにしようか。疫病が彼の一つの術式の煮詰めだとすると、始まってからだと気付かれずに潜入するのは難しいかな。それに、……………彼なら徹底的にやるだろう。僕の大事な妹も、ゼノーシュやグラフィーツも、疫病に損なわれる事はないだろうけれど、動くものを減らされてからだと隠れて行動するのが難しくなるからね”

“……………はい。ノア、………その、ディノをお願いします。ディノも、私は指示された事を聞きますから、決して無理はしないで下さいね”

“勿論、シルの事は僕にまかせて!”

“……………ネア”

“そしてディノは、ノアが無理をしないように見ていて下さいね”

“わーお、僕もなんだ…………”




気付けば、喉の奥が張り付くようにからからになっていた。


ネアは意識してごくんと唾を飲むと、このやり取りが終わったら、秘蔵していた美味しい紅茶を飲もうと心に決める。



(大丈夫。怖い事は起こらないわ。お迎えが来て、すぐにいつものお家に帰れる筈だから…………)



そう考えても考えても不安になってしまい、ネアは、どんなに意識して上げようとしてもへにゃりと下がってしまう心を、つっかえ棒か何かで持ち上げておきたくなった。


何だか背中も丸くなってへなへなでいると、不意に、ふわっと体が持ち上げられた。

そのまま膝の上に持ち上げられて、ネアは驚愕に目を丸くする。



「むぐ?!」

「…………クライメルへの手札としては、俺は上々な方だ。気持ちを立て直しておけ。白夜の魔術は心を蝕むものが多い」


この程度の距離感の魔物に椅子になられたのは初めてなのだが、怒り狂って逃げ出そうにも、なぜだかけばけばになった銀狐を抱いてあやされているような温度感があるのだ。


ネアは銀狐ではないのだが、あまりに自然な椅子感に困惑して抵抗が遅れてしまう。




「……………ジャンさん。……………ぐぬぅ。きちんと記憶に残る程に一緒にはいられませんでしたが、なぜに祖父の名前を選んだのだ。複雑です!」



しかし、思わぬ偶然が齎した名前の一致をまだ受け止めきれてなかったネアは、不安も相まってじたばたした。


グラフィーツは小さく溜め息を吐き、よりにもよって、擬態する時にはよくこの名前を使うという恐ろしい事実を明かしてくるではないか。



「慣れている響きなら、間違える事はなさそうだな。…………それと、カードを借りるぞ。交渉出来るのなら、オフェトリウスを加えた方が有利だ。シルハーンと話をする」

「まぁ、オフェトリウスさんを………?」

「あの白夜を正面から地に伏せさせたのは、万象の他には、オフェトリウスとダナエという春闇の竜くらいだからな」

「わぁ、レイノの知り合いばっかりだね」

「正直、………意外でした。ウィリアムさんやアルテアさんなら分かるのですが、オフェトリウスさんなのですね」

「魔術の資として、オフェトリウスにはあれの特異性が効かなくなる。加えて、オフェトリウスの剣は災厄を打ち払う特性を帯びているからな」

「剣の魔物によって違うんだよ。争いや災いを呼ぶ方の剣もあったんだけど、その剣はもういなくなっちゃった」



オフェトリウスの剣であれば、クライメルは祝福の宿る魔術で対抗するしかなくなる。

また、前世界の系譜の魔術は、オフェトリウスも得意とするところだ。


階位では劣るものの、クライメルの最も厄介なところを封じる事が出来るのがオフェトリウスなのであった。



ネアは、ディノへのメッセージを書いているグラフィーツの手元を覗き込み、オフェトリウスへの依頼料として書かれた見慣れない文字に目を瞠った。

少し躊躇ってから書かれたので、貴重なものなのだろうか。


「……………くそ。この手札を切るのは、何百年か先だと思っていたが、背に腹は変えられんな」

「………あ、ハンテルメータムだ」

「それは何なのですか?」

「砂糖の祝福のある古酒なんだよ。ラエタの時代になくなった、悪徳と祝福のお酒なんだ。本人が持っているものだから、きっと凄く美味しいと思う……………いいなぁ」



グラフィーツは、数年前からそのお酒を譲ってくれないかとオフェトリウスに声をかけられていたらしい。

ないの一点張りで躱していたが、実際には手元にあったようだ。


ディノへのカードに、さらさらとオフェトリウスへの交渉条件を書いている横顔は、たいそう険しいものであった。



「……………あいつに貴重な酒をくれてやるのは不愉快極まりないが、白夜に足を取られるよりは遥かにマシだ。それと、馬車が使われた理由もこれで判明した。馬車の辻毒や呪いはあいつのお気に入りだからな。この土地を実験場にしていたのなら、何種類かは持ち込んでいた筈だ。ザッカムは、馬車型のものが形を成しやすい土壌なんだろう」

「そっか。だから誘導人の形がおかしくて、迎えが馬車だったんだね。本人が関わっていなくても、その土地に残した魔術の影響が出たんだ…………」



ふっと、グラフィーツがこちらを見た。

椅子になられているので、ネアも振り仰ぎ、なぜ凝視されているのだろうと目をしぱしぱする。



「……………ザッカムが白夜絡みだとすると、その、リーエンベルクを訪れた再顕現も、あいつ絡みだった可能性が高い」

「………むぐ」

「俺が二次災厄になるのを懸念し続けていた、辻毒の馬車の魔術が一つある。元々は、ウィーム王家の人間を獲物として指定したものだ。恐らく、それだったんだろう」



短く息を飲み、ネアは小さく頷いた。

だからこそ、あの呪いはリーエンベルクに来たのだろうか。



「今回は、顕現の時期が良かった。そこで一度退けられていたお陰で、その再顕現ではなく、獲物を取り込まない馬車に乗ることが出来たのは幸いだ」

「……………最初のものは、取り込んでしまうのですか?」

「ああ。術毒で殺して内側に取り込むものだからな。祝福や守護で息を吹き返しても、そこはもう馬車の中だ。おまけに話を聞いていると、そいつは人型で顕現していた可能性もある。その場合は腹の中だぞ」

「ぎゃ!絶対に嫌です!!」

「…………僕も、食べられそうになるのは嫌」




(……………もし、あの雑貨店で手を伸ばして来たのが、年明けの日にやって来たものであったなら……………)



そう考えると、ネアは震え上がってしまった。

そのくらいに、あの日に感じたものの気配は悍ましかったのだ。




「むぎゅ!ぐるるるる!!!」

「レイノ、落ち着いて。クッキー食べる?」

「た、食べます……………むぐ」

「その手の因果は、守護や祝福にも左右される。日頃の蓄積に救われたのかもしれんな」

「エーダリアもあちこちから沢山守護が増えるし、レイノは、凄い狩るもんね。それが来なくて良かったね」

「………ふぁい。つくづく、その白夜めは頭にくる事しかしません。絶対に遭遇したくないので、いざとなればもう、この町の人々ごとお空に投影するきりんさんで滅ぼしてでも、お家に帰ります!」



思わずネアがそう宣言すると、グラフィーツが僅かに目を瞠った。



「……………お前は躊躇わないな」

「私は、決して模範的な人間ではありません。ここはあわいで、この中にいる人々は、所詮私には無関係の方々です。大事な人達や、その人達に無事に帰ると約束した私が損なわれるくらいであれば、町ごと滅ぼした方がまだいいでしょう」

「………最悪その手段でも構わないが、いいと言う迄は使うなよ。場合によっては味方も殺す方策だろう」

「うん。僕もそれに賛成!でも、見たら僕も死んじゃうから、使うときは教えてね」

「むむ、大事なリウスに何かあったら大変なので、使うときは言いますね!」



グラフィーツと、カードの向こうのネアの大事な魔物達とのやり取りは暫く続いた。


途中でアルテアもリーエンベルクに合流したようで、現在のザッカム該当地を見に行ってくれたウィリアムからも連絡が入る。




“ネア、ザッカムがあった場所に、漁猟の魔物が城を構えたようだ。人間の小さな集落も出来ているみたいだから、その人間達が魔物を祀るような形で、土地を開拓したのだろう”

“ハハカリめをぽいしたのは、その方々だったのですね……………”

“ああ。疫病で惨憺たる様子ではあるが、幸い、漁猟の魔物の対処が悪くなかったようだ。鳥籠を展開するような案件にはなっていなかったので、俺も気付かずにいたようだな”



宿の部屋の中は、柔らかな色彩に満ちていた。

砂色の石壁に、床は薔薇色がかったオーク色で、美しい織り模様の水色の絨毯が敷かれている。

カーテンも優しい水色で、浴室は清潔なミントグリーンのタイル貼りだ。


四人部屋なのでそれなりに広いのだが、魔物達からすると狭いという事なので、このあたりはもう環境による価値観の問題なのだろう。


外は柔らかな雨が降っていたが、海の向こう側に晴れ間が見えるからか陽光も入り込んでいて、入江の先には小さな虹がかかっているのが見えた。


この世界では万象を示すものでもある虹だが、こうして気象条件上でもかかるのか、或いは虹を司るものがそこにいるのかもしれない。



(少しずつ…………、)




少しずつ、今回の事件のピースが揃ってゆく。

どのような土壌があり、どのような要因でこうなったのか。


始まりは全て偶然でも、ネアは、どこかには因果の収束のようなものがあるような気がした。

クライメルが作ったウィーム王家を狙う馬車の魔術があったのならば、現れた馬車の形のものにはやはり、ウィームこそへと向かおうとする意識のようなものがあったのではないだろうか。



(ハハカリが、ウィームの禁足地の森に廃棄されたのは偶然なのかもしれない。だとしても、それもザッカムから来たものなのだ………)




“疫病が現れ始めたのは、昨年のイブメリア前だそうだ。グラフィーツが言うように、新年の安息日の再顕現も、疫病に対して何らかの儀式対応を執ろうとしたことで展開された可能性はあるな”

“行った儀式の種類は分かるか?”



そう問いかけたのはグラフィーツで、ネアは、果たして漁猟の魔物とやらにあれ程の魔術を再編出来たのだろうかと考える。


恐らく、グラフィーツも同じ懸念を持ったのではないだろうか。 



“遠借りの鎮めの儀式だったらしい。疫病の対策や原因の追究に、必要なものを集めようとしたんだろう。安易に疫病封じだけをしていたら、呪いから現れる赤帽子は障りがある。そうならずにいたのがせめてもだ。……………とは言え、こうなってしまった以上はそこで自滅してくれた方がと思わないでもないが……………”

“全く同感だな。それが原因だ。本来なら解決策を手にする為の儀式だが、良くないものを呼び起こしやがったか……………”

“間違いないだろうな。遠借りの儀式を行なったところ、地面の中から馬車が飛び出したと話している。疫病の対策になるものだと考えて追いかけたが、あわいに飛び込まれ見失ったそうだ”



そんなやり取りの解説は、ゼノーシュがしてくれた。

テーブルの上には、ゼノーシュとネアが持ち寄った美味しいクッキーの箱があり、先程ゼノーシュがくれたのは、オレンジカラメルクッキーだ。



「遠借りの儀式はね、ここにはない材料を集める儀式なんだよ。魔術書の読解方法や、薬の材料、今回みたいに疫病の原因を探る為の解決方法なんかも探せるんだ。でも、収穫や収集の魔術の上の階位のものを持っていないと出来ないから、漁猟の魔物だから出来たんだよ」

「こちらへの被害は甚大ですが、土地の住人の方々にとっては、頼りがいのある魔物さんなのでしょうね……………」

「うん。禁足地の森にハハカリを捨てたのは許せないけど、漁猟の魔物はいい女の子だよ。時々、美味しい魚料理を御馳走してくれるから、去年の春はほこりと遊びに行ったんだ」

「まぁ、ゼノはお知り合いだったのですね」

「少しだけね。去年の夏頃に引っ越すって話していたけど、ザッカムがあった場所だったんだね。…………あまりいい土地じゃないから、話してくれれば止めたのにな」



漁猟の魔物と彼女を祀る人々が、その土地に移り住んだのはまだ最近だったようだ。


大きな災いがあった土地では、きちんと土地の魔術洗浄を行わないと、同じような災厄を呼び込みやすくなっているのだそうだ。



それを知らずに上に集落を作ってしまうと、土地の災いに供物を捧げるような事になってしまう。 

今回は、まさにその事例であった。




「ザッカムの疫病は有名だから、疫病の儀式だけはやったのかも。それでも疫病が現れたから、おかしいと思って遠借りの儀式にしたのかな」

「…………或いは、あいつが土地が再利用される未来を見越して、疫病関連の儀式によって再び疫病が呼び込まれるように、二重に罠を仕掛けていた可能性もある」

「そっか。誰かがその土地に暮らそうとした時に、また遊ぼうとしていたのかもね」

「あいつが調伏されて何よりだが、本人の意図しないところでも尚、残ったものに引きずり落とされたのだとしたら、つくづく迷惑な男だな」

「………うん。埋めたり隠したりが好きだったから、まだまだ、色々な仕掛けが沢山残っているんだと思う。ウィームには入れなくて良かった……。それに、今回僕達が乗せられた馬車も、直接作られたものじゃなくて良かったね」

「ふぁい…………」




とは言え、完全に因果関係がないとも言えないのが厄介なのだそうだ。


かつて、クライメルという名前だった頃の白夜の魔物は、恐らくこの近隣の町々で、疫病を使った大規模な魔術儀式を行った可能性が高い。


そのようにして障りを溜め込んだ土地だからこそ、かつての白夜の嗜好を纏うような形で、当時に求められた生贄を再び捧げようとした結果、ネア達が攫われたというのがグラフィーツの考えだ。



「生贄も含めて、その方の計画だったのでしょうか?」

「あいつのやり方で魔術を煮詰める際には、有効なものだな。戦乱でも、呪いでも、無垢なものや本来なら関係のなかった者をより多く取り込む方が、怨嗟が凝って災厄の密度が濃くなる」

「うん。前に壺の辻毒を作っているのを見たことがあるけれど、その時も通りがかった旅人が巻き込まれるようにしていたよ」



それは、呪いや災厄の最後のひと匙として。

料理で言う、隠し味のようなものとして魔術をより強固なものにするのだそうだ。



(これはもう間違いなく、音楽とお酒を糧にしていた狼さんに、生贄が捧げられるようにしたのはその人なのだろう…………)



恐らく、土地の為政者の気質も良くなかったのだろう。

或いは、だからこそクライメルという魔物を呼び寄せてしまったのだろうか。



ネアは膝の上でしっかりと組み合わせた手をぎゅっと握り締め、カードに揺れる大事な魔物の文字を目に映した。



ひたひたと近付いてくる不穏なものの気配は、ダーダムウェルの物語のあわいで、物語の最後の瞬間が迫ってきた時のような息苦しさだ。




“……………ネア。まず、オフェトリウスがそちらに行く事になったよ”



ややあって、納得していない様子が文字からも伝わってくる、そんなメッセージがディノから届いた。

自分で報酬を設定したのだが、グラフィーツは天井を見上げて小さく呻いている。



“良かったです”

“……………ネア、ごめん。私が行こうと思っていたのだけれど………”

“けれど、オフェトリウスさんが先に来るのが安全だと考え、そうしてくれたのでしょう?ディノがそちらを選んでくれて良かったと思ってしまう私は、伴侶が大切過ぎる我儘な人間なのでしょう。ですが、ディノに何かがあるのが一番怖い事なので、ほっとしました”

“……………ずるい”

“ふふ。ではまず、オフェトリウスさんの到着を待ちますね”

“すぐにそちらに着く筈だよ”

“なぬ………”




「あ、来たみたい」

「なぬ?!」

「ああくそ、白夜との相性の良さは間違いないが、あいつはあまり好かん」

「は、早くないですか?!と言うか、もう道が出来ていたのなら、すぐに帰れるのでしょうか?」

「すぐというのは無理だろうな。今回は、誘導人による正式な招待だ。まずは、このあわいとの縁を切る必要がある」

「むぐぅ…………」

「僕、迎えに行ってくるね。レイノは、ここから動いたら駄目だよ?」

「はい。……………と言うか、そろそろ普通の椅子に戻して欲しいのです」

「……………おい、いつまでここに座っているつもりだ?」

「解せぬ」




ネアは、持ち上げたのはそちらではないかと半眼になりながらも、不慣れな椅子から下りて、剣の魔物の到着を待った。


ディノにはああ言ったが、せいぜいリノアールのカフェで一緒にお茶をしたくらいで、来てくれてとても嬉しいと手放しで喜ぶ程には親しくない。

この場合は、どのような感じで出迎えるのが正しい対処法なのだろう。



(寧ろ、アクテーで色々な話を出来たグラフィーツさんの方が、自然に一緒にいられるかな………)



残忍な人間らしくそう考えたネアは、そう言えばオフェトリウスは、かつてのウィーム領主なだけでなく、エーダリアの剣の師だった事もあるのだと思い出した。 



「ふむ。となれば、私の上司のお宝情報を持っているかもしれないのですね………」

「何だか知らんが、余計な事はするな。帰り道が開くまでは生かしておけよ」

「はは、それは心外だな。戻ってからも僕は有用だと思うけれど」

「……………オフェトリウス」



朗らかな声が落ち、振り返るとそこに立っていたのは、金糸の髪に青緑色の瞳の背の高い男性だ。

騎士服ではなくとも、育ちの良さそうな雰囲気は美貌を引き立てており、ネアはふと、そもそもこんな顔ぶれではその美貌で目立ってしまうのではないかなと遠い目になった。


気の良いおじさん風の擬態や、ぱっとしない旅人風などの擬態にしないのはなぜだろう。



「……………ん?どうした?」

「なぜ魔物さんは、皆さんそこそこに素敵さを失わない擬態ばかりなのでしょうか?いっそ、髪の毛も乏しくお腹の出た男性などになってしまえば、敵に目を付けられることも防げるのでは…………」

「そうだな、単純に嫌だからじゃないかな。僕は身を隠す魔術に長けているから、グ……………ジャンだったか、………に試して貰うといい」

「……………む」

「やめろ、見るな」




その時、窓の向こうの町並からゴーンゴーンと教会の鐘の音が鳴った。

ぎくりとしたネアに対し、ゼノーシュが時報だと教えてくれる。




「……………あいつの位置は分かるか?」

「うん。遮蔽の部屋の中からだと感覚が鈍くなるけど、向こうが擬態していないからよく分かるよ。港の西側にある、大きな教会に向かったみたい」

「さてと、まずは依頼料を貰っておこうかな。持っているかい?」

「お前は、少しは空気を読め!」

「この場にないのなら、魔術誓約をしておこうか。逃げられたらただ働きになってしまうからね」



オフェトリウスは穏やかな口調だが、このあたりは抜かり無いようだ。


シンプルなキャラメル色のコートの前を開け、オフェトリウスは向かいの長椅子に座った。

ネアと目が合うと、にっこり微笑んでくれ、どこからともなく自前のカップを取り出した。



「騎士団の演習の後で、そのまま駆け付けたんだ。ひとまず、珈琲でも飲もうかな」

「まぁ、騎士団の方は大丈夫なのでしょうか?」

「ああ。王には種族的な用事があると話してある。彼は俺が魔物だと知っていて、そのような時には、こちらの行動を制限してはならないという約定があるんだ」



オフェトリウスと交渉したのはアルテアだと言うので、一度リーエンベルクに来てから、そちらに出かけてくれたようだ。

また、王都には、統括の魔物からの招集があったという体裁を整えたのかもしれない。



オフェトリウスが今度はどこからともなく珈琲ポットを取り出し、こぽこぽとカップに珈琲を注げば、香ばしくいい匂いが部屋の中に漂った。



「さて、僕が聞いて来た事を共有しよう。僕は迎えの為の道作りの、こちら側の起点だ。と同時に、帰還の際にはネ……レイノと、このあわいとの接触面を断つ作業も手伝う。後は、彼が現れた場合には護衛としても働こう。勿論、護衛対象は一人だけだ。魔物は、自分でどうにかしてくれるかな」

「僕は戦えないけれど、逃げるのは得意だよ」

「ああ。リウスの目も助かる」

「うん。見つけるのは得意だから、協力するね」

「道は繋いだままなんだな?」

「空間ごと閉じられてしまわないように、剣を立ててある。遮蔽型の疫病溜まりにするつもりがあるのなら、空間が閉じないので術式の開始は難しいだろう」




僅かにではあるが、この部屋の窓からも港が見えた。

ここは宿屋の二階なので、この高さから見ると、家々の屋上にある蔓薔薇の庭園が見えるようになる。


見る角度を変えると町の印象が変わるのは、タジクーシャとどこか似ていて、あの時の閉塞感を思い出した。




“その町にクライメルが何らかの支配権限をかけている事を懸念すると、私が繋いだものだけでは危ういそうだ。ここからその道を補強して、君達が通れる帰り道を繋ぐ迄には、半日くらいかかるそうだ”


オフェトリウスの到着を伝えると、ディノからはそんなメッセージが届いた。

またしても苦しげな様子が伝わってきてしまい、ネアはカードの向こうの魔物が心配になる。



“ふむ。では、その安全な道の完成を待ちますね!”

“宿に留まりそれまで待つか、敢えて町を出るという選択肢もある。オフェトリウスを起点とする魔術を繋いであるので、転移をかけない移動であればそちらでも構わない。………ただ、そのあわいの範囲は、疫病の実験場とされた場所までである可能性も高い”




ディノから来たメッセージを読み、ネア達は決断を余儀なくされた。


カードのこちら側と向こう側も含めて議論が交わされ、引き続きザッカムに留まる事になる。




(……………半日)




それは、短いようで長い不思議な待ち時間であった。

ネアは、クライメル本人がこの町を訪れるという事がどういう事なのかを、堪らずに何度も考えてしまうのだった。














評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ