箱馬車と疫病の町 2
灰色の雲が空を流れてゆく。
遠くの海の方では綺麗な青空が覗いているので、やがてこちらも晴れてくるのだろうか。
ネアは乗せられて来た馬車を振り返ったが、そこにはもう何もなかった。
三人は今、ネアとゼノーシュが誘導人の馬車によって連れて来られたあわいの、墓地の近くにある木の柵沿いの場所に立っていた。
(ひんやりとするくらいの気温ではあるけれど、コートを着ていないと寒いという程ではないかな…………)
この辺りはあまり人が来ない場所らしく、おまけに小さな黄色い花を咲かせている灌木が並んでいて目隠しになるので、ネアがカードの返事を書いてしまう間は墓地の近くに留まる事になった。
ぽつぽつと今後の対策などを話し合っている魔物達の横で、やっと大事な伴侶と話が出来たネアは、猛然と書き込んだメッセージの返事を待っているところだ。
(……………来た!)
“ネア、ゼノーシュは勿論だけれど、グラフィーツから離れないようにしておいで。彼は、魔術の扱いがとても器用な魔物だ。絶対という言葉は使えないのだけれど、君には害は為さないだろう”
“はい。では、ディノのお迎えがあるまで、ゼノとグラフィーツさんの側にいますね”
“今、ノアベルトが魔術解析を終えたところだ。この座標なら、二刻程でそちらへの道が作れるだろう。どこか安全なところで待っていてくれるかい?”
“……………もしかして、今回はディノが繋いでくれるのですか?”
読んだ文章からそのように受け取れてしまい尋ねると、今回はディノが道を繋ぐ事になるらしい。
ネアにはよく分からない、その回ごとの相性があり、今回はディノが相応しいのだという。
“それから、デナストは、クロウウィンに、君がウィリアムやアルテアと一緒に迷い込んだ絵の中の町の名前ではないかな”
「それです!」
ここでネアがぴょんと飛び跳ねてしまったので、ディノのとのやり取りが終わるのを待っていてくれたゼノーシュやグラフィーツは驚いたようにこちらを見る。
ついつい荒ぶってしまった淑女は恥じらい微笑むと、突然飛び跳ねたりするような奇行はいたしませんのでという優雅なお辞儀をしてみせた。
“それです!記憶の中に引っかかっていたのですが、すぐに思い出せませんでした。何だかあまりいい印象のなかった場所なので、近付かないようにしますね”
“うん。………ごめんね、ネア。巻き草の事もあったばかりだったのだから、もっとしっかりと君を捕まえておけば良かった。買い物を楽しみにしていたのに、怖い思いをさせてしまったね”
“セールに夢中になり過ぎていて、あんなに混雑した店内なのに、誰もいない通路がある筈がないという不自然さに気付けなかったのは私なのです。またディノに怖い思いをさせてしまって、ごめんなさい。危ない事はせずに大人しく待っていますから、安心して下さいね?”
“……………うん。君が帰ってきたら、ザハでケーキを食べに行こうか。もう少しだけ辛抱しておくれ”
“ケーキ!”
案の定、あれこれと攫われる系の事件が続いてしまった事もあり、ディノはとても心を痛めていたようだ。
(………だからこそ今回は、道を作るという役割をディノが受け持てて良かった……………)
人間もそうだが、何かする事があれば少しは怖さを遠ざける事が出来るだろう。
ぱたんとカードを閉じたネアに、ゼノーシュがこちらを見た。
考え込むような眼差しで墓地を見ていたグラフィーツもこちらを振り返る。
ゆっくりとこちらを見た砂糖の魔物の藍青の瞳は、どこか夜を思わせる色だ。
はっとするような鮮やかな色味ではないものの、それでも人外者の瞳らしい深さと輝きがあり、惚れ惚れとするくらいに美しい。
白紫の髪が風に揺れ、ネアは、ディノやノアの髪よりも柔らかそうに見えるその髪に、ほんの少しだけ触れてみたいと思う。
だがそれは、見慣れない美しい生き物に対しての興味で、いつかムクムグリスを撫でたいというような欲求と同じもので、大事な魔物の髪を撫でてやりたいという欲求とは違うものである。
「馬車の形をした魔術、或いは馬車を思わせる魔術と聞いて、思い浮かぶものはあるか?」
「………馬車となると、……………むぅ。以前にお仕事で家宅捜索したお宅の、辻毒の馬車でしょうか」
「……………っ、まさかの辻毒の馬車か!その魔術に近しさを感じたか?こちらを見られているような感じや、手を伸ばされるような印象、歩み寄ってくる音などはどうだ?」
(なぜグラフィーツさんは、そんな問いかけをするのだろう?)
そんな疑問はあったが、ネアは真剣に考えた。
あの時の馬車を見て、犠牲になった人々の事を痛ましくは思ったが、所詮それは見知らぬ魔術でもあった。
だからこそ目を逸らせたのだし、その後で、あの馬車に触れるような出来事もない。
ふと、かつてはよく見ていた黒い車の夢を思い出したが、あの夢は、蝕の時に夢に出てきてくれたダナエがばりんと壊してくれてから、すっかり見なくなったものだ。
「いいえ。あれは、ただの通りすがりの他人として見たものです。それ以外に馬車となりますと、……………あ、」
「…………思い当たるものがあるのか?」
「馬車とは言い切れませんが、今年の初めに、皆さんとリーエンベルクで過ごしていた時に、再顕現の魔術が現れかけた事がありました。それは、まるでこちらに近付いてくるような気配がありましたし、……………私は、その時に聞こえた音が、馬車の扉を閉める音のようにも聞こえたのです」
促され、ネアはその時のことを話した。
すると、グラフィーツの表情が見る間に険しくなってゆくではないか。
その眼差しの厳しさに内心は慄きつつ、ネアはふと、この魔物は喪った歌乞いを今も大事に思っている人でもあるのだと思い出した。
そして魔物達は、自分が愛したものを脅かすもののことをとても嫌がり、その事件が終わった後もずっと心を揺らし続けるような事がある。
(どうしてこの魔物さんが馬車の辻毒を調べていたのだろうと思っていたのだけれど、もしかすると、その方が、馬車の形をした悪いものに狙われた事があったのかもしれない。先程の発言からすると、……………辻毒の馬車のようなものだったとか………)
理由を付けたがる人間らしい強引さでちらりとそんな事を考えたが、砂糖の魔物と言えば享楽的で残忍な魔物の一柱でもあるので、単に、そのような魔術に興味を持ち、情報を収集中なだけかもしれない。
「今回の迎えは箱馬車だ。それも、過去を宿したあわいへの誘導人ときている」
「そっか。今回の事以前にも接触があった可能性があるんだね」
「そういうことだな。誰かが扱おうとした馬車のなりをした魔術が、その時にリーエンベルクに触れた。その後にも、ハハカリがリーエンベルク近くの禁足地の森に落ちている。こちらは珍しいものではないが、巻き草の亡霊も含め、ある程度の関連がある可能性も捨て置けないな」
「…………そうなのですか?」
問いかけたネアに、こちらを見たグラフィーツの不思議な青さの瞳には、魔物らしい酷薄さと老獪さが滲む。
(でも、ここにいるグラフィーツさんは、…………アクテーの修道院で出会った時のグラフィーツさんなのだ…………)
身に纏う空気には軽薄さはなく、どこか静謐で優しい夜のような目をしている。
ネアの馴染んだ領域のものではないが、それでもどこか親しみを持てる不思議な優しさがあって、極彩色の服を着て軽薄な残忍さで現れる砂糖の魔物とは少し違う。
ネアにはその棲み分けは分からないが、この魔物はそんな二つの顔を使い分けているようにも思えた。
「僕はその二次顕現は見なかったけれど、ネアが馬車だって思えたなら、どこか一部は馬車だったのかもしれないね。……………もしかして、その魔術を必要としたのもこのザッカムなのかな」
「可能性を除外する訳にはいかないが、分からんな。二次顕現については、術者が必要になるものだ。現在のザッカムがあった周辺の土地の様子が明らかになれば、また解読出来る事も増えるだろう。……………だが、その再顕現があったあたりから、誘導人が乗り物を探していた可能性も否定出来ないぞ。……………顕現で済んだんだな?」
「うん。ディノが壊してくれたんだって。だから災厄じゃなくて顕現だよ」
グラフィーツの提案で、ディノから依頼を受けたウィリアムが、現在のザッカム周辺を見てきてくれている。
もしその辺りで疫病の気配があれば、その病の原因も含めて何らかの真実が明らかになるかもしれない。
ひとまずネア達は、ここにお迎えの道を敷いて貰う迄は大人しく待機しているより他になかった。
なお、二次災厄と二次顕現の違いは、再び現れた魔術が、かつてと同じような災いを成したかどうかであるらしい。
年明けの安息日のものは、まだ形を成して災いを及ぼす前に壊されたので、災厄は起こらなかったという扱いなのだとか。
(まだ災いを成していない二次顕現の魔術を、二次災厄と決めつけてしまうのは危ういのだわ………)
多くの人々にそのように囁かれて認識の魔術を取り込んでしまうと、因果を逆転させるようにして、その魔術が災厄に成り易くなると教えて貰い、ネアはぞっとしてしまう。
この世界で付与される名前というものの恐ろしさが、そんなところにも現れていた。
さわさわと、海の方からの風が道端の花を揺らしている。
この場所からも少しだけ海が見え、雲間からの光の筋が、きらきらと海面を輝かせていた。
淡い色の海ではなく、ヴェルリアのような深い海の色なのだが、力強さよりは穏やかさを感じさせるのはなぜだろう。
疫病という言葉とは無縁の穏やかさに、ネアは、ここが墓地のすぐ近くである事も忘れてピクニックでもしたいような気持ちになった。
「気持ちのいい風ですし、二時間ほどであれば、ここで待っていてもいいかもしれませんね」
「………いや、街に出た方がいいだろうな」
「あのね、ザッカムにはまだ、疫病は下りてきていないみたいだよ。港には大きな船が二艘あって、通りにも人が沢山いるみたい」
「それなら、まずは町に出て、旅人のふりをして宿を借りる事から始めるぞ」
「…………むむ。二時間ぽっちなのに、お宿が必要なのですか?」
太陽の角度を見る限り、この場所の時刻はまだ午前だろう。
もしもの事を考えて宿を押さえるにしても、それはもう少し後からでもいい筈だ。
なぜ早々に宿なのかとネアがこてんと首を傾げると、ゼノーシュがその理由を説明してくれた。
「あわいはね、全ての出来事が時系列じゃないかもしれないんだ。僕達がここに来たことで何かが動くかもしれないし、思っていたよりも早く疫病が来たら怖いから、遮蔽出来る場所に居た方がいいんだよ」
ネアにそう教えてくれた魔物は、グラフィーツとの身長差が愛おしくなる程に可愛くて、魔物らしい眼差しとの対比の危うさが、何だか不思議な感じがする。
思えばネアは、ウィームの祝祭などで起きた事件などを除けば、このようなゼノーシュを見る機会はあまりなかったと、あらためて気付かされた。
「疫病の蔓延が、突然始まってしまったりするのですか?その場合、人の多い所の方が怖いような気がしてしまいますが、確かにお部屋があれば頼もしいですね」
「ザッカムの人間への感染は、隣町のデナストからだとされている。この辺りは、デナスト側の町外れだからな」
「ぎゃ!」
グラフィーツの言葉で、ネアは飛び上がった。
疫病は、町の外からやって来るのだ。
即ち、町の外周にいてもいい事はない。
ではやはり町で宿を取るのが一番の予防策なのだなと考えてきりりと頷けば、どこからかじゃりじゃりという音がした。
とても嫌な予感がしてそろりと顔を上げると、琺瑯の水筒のようなものを取り出したグラフィーツが、中に入ったお砂糖を、銀色のスプーンで食べているではないか。
ネアは、なぜにこっちを見るのだろうとふるふるしたが、ゼノーシュは、僕もおやつにすると無邪気にポケットから個包装のクッキーを取り出している。
「むぐ、ま、負けません!私だって美味しい焼き菓子を持っているのですよ!」
「わぁ、ザハの林檎の焼き菓子だ。美味しいよね。僕もいっぱい持ってるよ」
少しお行儀は悪いが、ここでまずは燃料補給としよう。
むぐむぐと焼き菓子を頬張ると、セーターの腕の部分にあった切れ目がまた目に入った。
一度袖を寄せておき、視覚的な打撃とほつれを軽減させていたのだが、袖が落ちてきてまた目につくようになってしまう。
焼き菓子補給の合間に悲しい溜め息を吐けば、こちらを見たグラフィーツが無残なセーターを見て眉を上げる。
「……………何だそれは。負傷はしてないだろうな?」
「誘導人さんの刃物でばっさりやられましたが、切れたのはセーターと下に着ていた肌着だけでした。………ぎゅむ」
「やれやれ、人目を引く格好のままで町に出す訳にはいかないか。………手間がかかる」
グラフィーツがぴっと指先を振ると、ネアのセーターがしゅわんと光った。
たちまち、元通りの切れ目もほつれもない袖に戻ったセーターに、ネアは目を丸くする。
残っていた焼き菓子を慌てて口に押し込んでしまい、腕を持ち上げてそろりと確認してみたが、もうどこにも、無残に切り裂かれた跡は残っていなかった。
「私のセーターが、元に戻りました!」
「良かったね、ネア。そのセーターお気に入りだったんだよね?」
「はい!………ぎゅむ。………グラフィーツさん、私のセーターを救って下さって有難うございました」
嬉しくて嬉しくて、お礼を言う声がどうしても弾んでしまうネアに、砂糖の魔物はどこか呆れたような顔をする。
こうして極彩色の装いではない時のグラフィーツには、少しだけアルテア寄りの言葉選びがあるのだが、であれば雰囲気が似ているかと言えばそうではない。
(アルテアさんよりは言葉の距離が遠くて、もう少し温度感が年長者風というか、……………つまりのところこの人は、近しい位置に立ってくれていても、もっと遠い人なのだろう)
近くに立ち、こちらを見ているから感じる親しみと、実際に心を近付けてくれてる人の違いを感じれば、ネアは、時々森に帰りたそうにしているアルテアが、どれだけ自分にとって親しい存在になったのかを実感してしまった。
この人はあちら側で、あの人はこちら側。
この世界に来てから、ネアの周囲はどれだけ豊かになっただろう。
それは、とても幸せな事だった。
「損傷があったのなら、すぐに報告しろ」
「むぐぐ、セーターだけの被害でしたので、すっかりお伝え損ねていました。ですが、大事なセーターばっさり事件で私の心は死にかけていたので、これですっかり元気になれそうです!」
「あのね、僕はそういうの直せないの。だからネアは、我慢していたんだよ」
ゼノーシュの言葉に、少し驚いたような顔をしたグラフィーツだったが、ここで自身の不得手なものを明かした代わりに、見聞の魔物は相手の不得意領域を指摘することも忘れなかった。
「グラフィーツはね、お腹が減ると魔術が荒くなるんだよ」
「まぁ、そうなのですか?」
「うん。ずっと甘いものを食べないと、弱っちゃうんだ。僕もお菓子は好きだけど、何か食べていれば弱ることはないかな」
「……………おい」
突然の弱点の暴露に低い声を発した砂糖の魔物に、見聞の魔物はにっこり微笑んだ。
僅かに首を傾げて微笑んだ姿は、無垢な少年の姿でもはっとする程に魔物らしい。
「だって、僕にだけ出来ない事があると思われて、グラフィーツがネアに意地悪したら嫌だもの」
「……………するか。万象の伴侶に手を出す程、耄碌はしていない。そもそも、これを損なうつもりは元々ない」
「うん。ネアが来た頃からずっとウィームにいたけど、グラフィーツはネアに悪さはしなかったものね。会の人だし、ディノが嫌がらないように気を付けてもいるから大丈夫かなとは思うけれど、ネアは僕の友達だからもしもの事があると困るんだ」
「安心しろ。これがいないと、砂糖をより美味く食えなくなるからな」
「……………おかず扱いはやめるのだ……………」
会話の流れ上、ここでは会などは存在しない筈なのだとは弁明出来なかったが、ネアは、こんな風に自分を守ろうとしてくれた友達の存在に胸の中がほこほこする。
魔物は狭量で、とても酷薄なものだ。
どれだけ近しくても線引きははっきりとしており、そんな魔物が、何度も友達だと言ってくれた。
勿論ネアはゼノーシュの最優先ではないが、それでもこうして一緒に居られるのは、二人が暮らしているリーエンベルクという場所の特殊性でもあるのだろう。
「ふふ。ゼノも私の大事な友達なので、グラフィーツさんがゼノに悪さをしたら、私も躊躇わずに最終兵器を出しますね!」
「やめろ。なけなしでかけてやっている善意を翻されたいのか」
「まぁ、ここは大人として我々の友情を深める会話は、聞き流していただかないといけませんよ。私よりもずっとご高齢の方なのですから」
ネアがそう言えばグラフィーツは顔を顰めたが、ここで不機嫌になってしまい、悪さをするような事はなかった。
じっとこちらを見て納得した様子であるのは、軽口を叩いても、ネアが自分を無条件で信頼している訳ではないのだと理解したからだろう。
(もしここで、私が無条件の信頼を見せたなら……………)
この魔物は、何某かの形でネアを傷付け、警告をしたかもしれない。
それは自分自身の為にでもあるだろうし、かつて選んだ特別な一人の為にも、この魔物はそれとこれは違うのだと主張するだろう。
ゼノーシュが敢えて威嚇してみせたのは、グラフィーツへの意思表示は勿論のこと、ネアに対しての注意喚起でもあった。
ささっと金庫から取り出したコートを羽織り、町に向かう為の装いを整える。
旅人がセーター一枚でやって来るのはおかしいので、念の為に斜めがけ鞄なども装備してみた。
幸いにも足元はブーツであるし、身なりも元々セールで戦う為にパンツスタイルなので、旅人らしさは装えているだろう。
「……………む」
ここでネアは、海の方から吹いてきた風に眉を顰めた。
先程まで海の方は綺麗な青空だったのでこちらも晴れてくるのかなと思っていたが、どうやら逆だったらしい。
青空の部分は陸に上がらずに流れていってしまい、風に雨の気配が混じる。
ざわざわと木々が揺れ、乾いた土の匂いがいっそうに強くなった。
(……………そう言えば、ハハカリが現れた際に、乾いた土の匂いがすると話していたけれど、……………この土地の匂いだったのかもしれない)
こうして見渡してみれば、ザッカムの町には土が剥き出しの道が多いようだ。
町の中に入ってからも車輪の音が聞こえていたが、走っていたのは石畳の上ではなく、馬車などの運行を見込んで車輪の幅にだけ敷き広げられた細かい砂利のようなものの上だったらしい。
雨の時に道がぬかるんで車輪が取られるのを防いでいるのだろうが、整備されたウィームの道とは違い、これでは馬車はそれなりに揺れるだろう。
「この街は、物流の動きなどもありそうなのに、石畳ではないのですね。むぐ、土埃が…………」
「ザッカムの主要な足は、海沿いの土地でも魔術を崩さないタフクだ。石畳を嫌うので、道の整備が難しいんだろう」
「たふく……………」
「大きな、茶色い鳥なんだよ。岩山に住んでいる岩竜が天敵だから、石の上を歩くのは嫌いみたい」
「大きな鳥さん…………」
ネアは、大きな鳥を脳内で想像し、ちょっと可愛いかもしれないと思い目をきらきらさせた。
こんな所迄連れ去られてしまったのは無念だが、無事に帰れそうな目算が立った以上は、見知らぬ土地の見慣れないものを知って帰る事で、損失を補うのも吝かではない。
なおその場合は、もふもふかふかふかと相場は決まっている。
そんな事を考えてふんすと胸を張っていたネアは、転移はあまり一般的ではないというザッカム仕様で、歩いて町の中心地に向かうにつれ、そのタフクに悩まされるようになった。
「ギギー!!」
「お、おのれ、またしてもです!!」
「ギギャ!!」
「わぁ、まただね。どうしてタフクは、ネアに意地悪するんだろう……………。擬態してなかったら、僕が追い払ってあげるのに」
「みぎゃ?!…………むぐ、ぐるるる!!」
初めて見るタフクは、海と陽光の系譜の美しい鳥であった。
ふかふかの茶色の羽は僅かに赤い色が混じった美しいもので、黒曜石のような瞳はたいそう理知的である。
どっしりとした足には青緑色の羽毛が混ざり、尾羽がぴょこんと長いのがなんとも優美ではないか。
ネアはこの鳥がすっかり気に入ってしまい、機会があれば乗ってみたいなとわくわくしていたのだが、このタフクがなぜか、ネアを目にするとたいそう荒ぶる。
それまではお利口な目をして上品にたしたしと歩いていたのに、ネアを見た途端に嫌そうな顔になってしまい、あっちへ行けと足で土をかけてくるのだ。
二回目以降からは、グラフィーツが不可視の結界のようなもので巧みに遮ってくれているが、どのタフクにもやられると、なぜにそんなに嫌われてしまうのだろうととても心が摩耗する。
せっかくの素敵な出会いを否定され悲しくなったネアは、もうタフクなどは信じないとグラフィーツの体を盾にしながら歩くようになってしまい、タフクを発見すると低く威嚇の唸り声を上げるしかなかった。
「……………やれやれだな。そろそろ中心部だぞ」
「ちゅうしんぶ……………。たふくはいませんか?」
「あれは、中、長距離用の騎鳥で体が大きい分、町の中心部に連れ込むと往来の邪魔になる。この辺りからは連れ込み禁止になっているぞ」
「………ふぁい」
それでもしょんぼりしながら顔を上げたネアは、細い角を曲がった途端に広がった町の姿に目を瞠った。
(……………わぁ!)
先程も馬車の窓から見ていた町並みだが、徒歩で町に入ると、思っていた以上の異国らしさがある。
ザッカムの町は、タジクーシャのように中庭や屋上庭園が好まれる造りのようだ。
馬車の窓からでは角度的に見えなかった部分に、満開の蔓薔薇を咲かせた艶やかなこの町の色があり、店舗などの看板も高い位置にあるので、更にはその賑やかさも加わる。
店の看板の位置が高いのは、船からよく見えるようにということなのだそうだ。
また、中庭や屋上に花を育てるのは、タフクが食べてしまわないように彼等の嘴の届かない位置を選んでのことらしい。
今では町の中心部への同伴は禁止されているが、かつては連れ込み自由だったのだとか。
賑やかな町の様子に漸く元気になったネアに、グラフィーツは呆れたような顔をしながらではあるが、ザッカムの事を教えてくれた。
「茨の狼が守る町だから、その派生元となった蔓薔薇が好まれる傾向にある。この辺りの土地の固有種だな」
「町の入り口の石壁にも、ふくふくとした小さな花をたくさんつけた、同じような赤い蔓薔薇がありました。町中に咲いている蔓薔薇も、殆どが同じ色合いですね」
「少しだけ海の系譜も持つ、珍しい薔薇なんだよ。海沿いの崖に咲いている事が多くて、海のシーや海の精霊達が凄く気に入って、沢山祝福を与えている内にそうなったみたい」
「素敵なお話ですね。そんなに喜ばれていたのなら、狼さんも生まれてしまうかもしれません」
「うん。……………茨の狼は、お酒と音楽を糧にする妖精だから、人間の子供は食べないんじゃないかなぁ。人間があげたのかもしれないけど、それで悪変しちゃったのかな……………」
少し困惑したように呟いたゼノーシュに、ネアは、町を守るものだからと勝手に生贄を捧げたかもしれない人間達の身勝手さがあったのだろうかと悲しくなった。
(以前に、グレアムさんが話していたみたいに……………)
人外者は、そう望まれることで相手への対応や資質を変えることがある。
グレアムが、カルウィで対価を求める残忍な魔物として知られるのは、カルウィの人達が犠牲の魔物をそのようなものとして扱ったからだ。
高位の魔物であれば、だからと言って本来の資質を変えることはないそうだが、階位の低い者達だと、大衆の認識によって元の形を歪められてしまうことも珍しくはないという。
もし、お酒や音楽を糧にしていたという茨の狼が、疫病に苦しむ人々から生贄を捧げられ続け、本当に生贄を求めるようなものに歪んでしまったのだとしたら。
そう考えると、何だか悲しい気持ちになってしまうのもまた、人間の身勝手さだろうか。
「あ!ネア、ハイフク海老の専門店だよ。この辺りでは有名なんだ」
「海老料理…………。じゅるり」
「大蒜のたれに漬け込んで網焼きにするんだ。ザッカムが滅びてからは、生息数が減って、ハイフク海老はあんまり出回らなくなったんだよ」
青い飾り窓のある店には、美味しそうな海老料理を描いた看板がある。
ハイフク海老は、アルテアの家で食べさせて貰ったことのある美味しい海老だ。
後にノアから、青みがかったその海老はとても高価なのだと聞いたような気がするのだが、店頭に記された値段はなかなに安価で驚いた。
「海老さんも、疫病にやられてしまったのですか?」
「ううん。ザッカムの町や港から海に落ちる、水揚げされた魚の廃棄部分を餌に沢山育っていたみたい。だから、町がなくなって餌が減ったことで、数も減っちゃったんだ」
「本来の生態系に戻ったとも言えますが、そのような影響が出てしまうものなのですねぇ」
町中の主要な道が未舗装なだけあり、ザッカムでは、せめて歩道はしっかりと作られているようだ。
停泊した船から運び込まれる物資などは、小さな台車のようなもので歩道を行き来している。
海の男達らしい集団がいたり、ご婦人達が井戸の周りで楽しそうにお喋りをしていたりと、活気に溢れた様を見ていると、疫病で滅ぶと言われても俄かには信じられないくらいの賑わいだ。
そしてこの石造りの町には、裏路地に入る角の壁や、店と店の隙間の僅かな空間など、そこかしこに小さな祭壇があった。
どの祭壇も花が手向けられ、香を焚いた跡がある。
大事にされているのが良く分かり、そんな光景にまた、ここで暮らしている人々の生活の鮮やかな痕跡が窺えた。
「…………町のあちこちに、祭壇があるのですね」
「この辺りの町は、修復の魔物の旅の経由地だ。教会が多いのもそのせいだろうな」
「僕、ザッカムには何度かご飯を食べに来た事があるけれど、教会の祝祭がある日には絶対に近付かなかった。ここの人間達は、おかしな儀式ばかりするんだ」
「それは、魔物さんが嫌になってしまうようなものなのですか?」
今度は明らかに拒絶感を示したゼノーシュに、ネアはそう尋ねてみる。
魔物除けの儀式などもあるので、そちらかなと思ったのだ。
「うん。あまり魔術の事を良く分かっていない人間が、壊れた魔術を沢山動かしていたから、疫病がなくてもいつか良くない事になるかもしれないなって感じた事もあるよ。少しずつ澱みが溜まっていくみたいな感じ」
「なぬ…………」
「教会の統治下にある割には、国からの監視の目が届かない土地だからな。独自の思想や規制を作ることで、土地の有力者共が儀式の上りを稼ごうとしていたんだろうさ」
「ふむ。人間はとても強欲なのでそのような事も珍しくはないのでしょうが、とは言え、自分の首すらも絞めるような行いは困ったものですね」
(……………あのデナストの絵も、疫病に苦しむ人々を見捨てた教会の人たちを糾弾する為に描かれたものだった)
であればそれは、近隣の教会組織における統一的な腐敗だったのかもしれない。
「疫病も警戒する必要があるが、教会に入るのも避けた方がいいだろう。聖女も何人かいるにはいるが、この土地の聖女どもは魔術の障りが臭くてかなわん」
「………聖女さんというと、歌乞いさんなのですか?」
「いや、奇跡を成したという名目を無理やり与えた、教会指定の聖女だ。迷い子という事になっているが、せいぜい海の向こうの異国から連れて来られた奴隷上がりだろうよ。この土地の教会関係者は、ゼノーシュの言うように、壊れた術式に触れ続けたせいで穢れや澱みを溜め込んでいる者達ばかりだ」
(そのような肩書の付け方でも、聖女という認識になるのだわ……………)
ネアは今更そんな事で驚いてしまったが、よく考えれば、歌乞いを聖女指定するのもまた、人間の取り決めではないか。
「この辺りか。……………おい、足をどうした?」
「むぐぐ。先程の茶色い鳥めに土をかけられた際に、靴の中に、石ころのようなものが入ったのかもしれません。気になるので、ついついおかしな歩き方になってしまいます」
「……………そうか、可動域が低いとそのような弊害があるのか」
「………ま、魔物さんでも、靴の中に砂や石が入ったりしますよね?」
「土地にもよるが、外的な影響を排除していればそうそうないだろうな」
「おのれ、何という格差社会なのだ…………」
「そっか、人間は靴の中に砂が入っちゃうんだね」
「なぜでしょう。世界に裏切られたような気持でいっぱいです…………」
ネアがそう呟いた時の事だった。
隣を歩くグラフィーツが、はっとしたように体を揺らした。
どこか遠くを見て顔を顰めたので、何を見たのだろうと眉を寄せたネアは、舌打ちした砂糖の魔物に素早く腕を掴まれ、曲がる筈のなかった路地に引っ張り込まれてしまう。
「……………おい、ここから先は偽名を使うぞ。いいな?」
「は、はい!…………では、私の事はレイノとお呼び下さい。私はこれでも、偽名を沢山持つ女なのです」
「僕、どうしよう…………」
「俺は、……………そうだな、ジャンでいい」
「ジャン……………。むぅ」
「じゃあ、僕はリウスにしようかな。あまり知られていないお菓子の名前だから、いいと思う」
「お菓子の名前なら、ぴったりですね。リウスと呼びます!」
(……………何があったのだろう)
グラフィーツは、港の方を見ていたような気がする。
ネアもその視線を辿りたかったのだが、不穏なものを見付けたのなら同じ方向を見ない方がいいだろうかと思い、敢えてそちらは見なかった。
ゼノーシュも何があったのかを尋ねない以上は、説明を求めるのは安全な場所ではないのかもしれない。
なので三人は、目星をつけておいた宿屋を避け、裏通りを抜けた場所にある、別の宿屋に向かった。
ネアを抱え込むようにして早足で歩くグラフィーツが、こうなった以上は高級宿は絶対に避けるぞと言っているので、そのような宿を取れない理由でもあるのだろうか。
やがてネア達が辿り着いたのは、一軒の小さな、けれども小綺麗な建物と満開になった赤い蔓薔薇が美しい宿であった。
砂色の石造りの建物に、掠れたような風合いの水色の鉱石枠の窓飾りが何とも可愛らしい。
(……………もうすぐ、帰れるよね………?)
旅先での、素敵なプチホテルへのお泊まりかなというお宿を見上げ、ネアは騒つく心をそっと宥めるように深呼吸をしたのだった。




