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箱馬車と疫病の町 1




その日のネアは、ちょっぴり死にかけていた。

残念ながら比喩ではなく、本当に死にかけていたのだ。




「……………くすん」




引っ掻き傷が出来てしまったセーターを見下ろすと涙が出そうになってしまい、ネアは小さく鼻を鳴らした。


これが誕生日に貰ったセーターだった場合は憤死するしかないが、これもこれでお気に入りのものだったので、ざっくり切られた箇所からほつれてゆく糸が悲しくてならず、なぜ今日の自分はお気に入りのセーターではなく、ずた袋などを羽織ってこなかったのだろうと悔やまれてならない。


かくして、ネアの心は現在死にかけているのである。




ネアが攫われたのは、ウィームにある小さな雑貨店での事であった。




考えてみても欲しい。

可愛い便箋や文房具などの溢れる魅力的なお店が、新年のセールの日を迎え、大混雑になることを。


そしてそんな店の中で、なぜか誰も通ろうとしない細い商品棚の谷間の通路を見付け、しめしめと通り抜けようとしたところ、向こう側からもさもさのボラボラが歩いてくる事を。



ネアは、自分が既婚者になった事を忘れて動揺してしまい、何としてもそのボラボラから遠ざからねばなるまいと考え、なかったはずの横道に飛び込んでしまった。



そして、その向こうに身を隠していた悪者に捕まり、一緒にいた伴侶の魔物とはぐれたのである。



がたごとと馬車が揺れる。


箱馬車の窓から見えるのは葉の色の黒い糸杉の並木町で、小麦色の草原の向こうはどうやら海沿いであるらしい。



この馬車の御者は、ネアを茨の狼の生贄にすると言っており、いつもなら負けるものかと奮起するネアだが、既に一度、大きな刃物でばりんとやられているのですっかりくしゃくしゃになっていた。




「……あの時に、脇の通路に飛び込まなければ良かったのですね。くすん………」

「ネア、元気出して。………あのね、入り口でネアにぶつかった妖精がいたでしょう?僕ね、あの妖精が何かしたと思う」

「…………まぁ、あの方がですか?」



がたごとと音を立てて走る箱馬車の中で、ネアの隣に放り込まれたのは、見聞の魔物であるゼノーシュだ。


小さくて愛くるしくても、ゼノーシュは公爵の魔物なのだが、今回はそんな魔物も悲しげに項垂れて馬車の床板に座っている。




今回は、敵が悪かった。



座席などは取り払われてがらんどうになった箱馬車の床に膝を抱えて座っているゼノーシュの痛ましさに、ネアは、胸の底がぐらぐらと煮え立つのを感じた。

ぎゅっと抱き締めて守ってあげたいのに、今のネアは自分の無力さに打ちのめされていて、力が出ない。


見聞の魔物のいつもはきらきらしている檸檬色の瞳には、薄らと青白い影が落ちている。

馬車の壁にある小さな窓からは、青白い光の筋が落ち、ふわりとけぶるよう。

ネアは、窓から差し込む光の淡い色調が、少しだけ油絵の絵画のようだと思った。




「ちょっと普通じゃない感じがしたけど、妖精も時々そうなるから気にしてなかったんだ。でも、誘導人の魔術に汚染されていたなら、ああなるかもしれない」

「言われてみれば、…………あの方は、人の少ない細い通路を行けば良かったと呟いていました。だからこそ私は、あの通路に入ってしまったのかもしれません………」

「うん。誘導人はね、捕まえた獲物を誘導役や囮にもするんだ。……………僕、ディノやネアが凄く強いから少し油断しちゃった。ごめんね、ネア」

「まぁ、ゼノが謝る必要はありませんよ?悪いのは、私達をこの馬車に放り込んだ誘導人めです!」




ネアはそう宣言すると、もう一度セーターの切れ目を撫で、このセーターはもう捨ててしまうしかないかもしれないと考えて締めつけられるような胸の痛みを覚えた。



リノアールで買ったこのセーターは、動き易い服装を心がける時に愛用していたものだ。


こちらの世界に来て、狩りの獲物を換金出来るようになったネアにとっては特別に高いものではないが、かつての世界のネアにとっては、随分と勇気のいる金額なのは間違いない。

ゼノーシュの持つ魔術では、ざっくり切られたセーターを補修するようなものはなく、今のところはなす術もなかった。



それを切り裂いたのは、片腕が鋭い刃物のようなものになっていたこの馬車の誘導人である。



誘導人とは、何かの理由で命や意思を奪われて獲物を依頼主に送り届ける存在のことで、ネアはかつて、あわいの列車に乗っていた誘導人に出会った事がある。

あの時は、魔術師風の眼鏡の男性だった誘導人は、今回はよりにもよって悪変によって異形と化した人形の生き物で、ネアやゼノーシュの心をくしゃくしゃにしてしまった。




「僕、頭に尻尾がある人間は嫌い」

「私は、触れたらと考えただけでぞわりとするような、刃物の手を持つ鳥さんが嫌いです………」

「………うん」

「ゼノ、しっかりして下さい。思い出してしまったのですね…………?」

「グラストに会いたいな。グラストがいれば僕、すぐに元気になれるんだよ」



悲しげにそう呟いたゼノーシュに、ネアは胸がきゅっとなった。




(あんな外見でなければ………!!)



雑貨店からネア達が迷い込んだのは、あわいの小道のようなものなのだそうだ。

ボラボラがいたからにはボラボラの使う道だったようなのだが、今回は、誘導人にも間借りされていたらしい。


或いは、獲物を捕まえたボラボラがその道を使う際に、獲物である人間の子供を横取りするつもりで、誘導人はそこに潜んでいたのかもしれない。




(もしかすると、獲物の条件は、子供や成人前の少年や少女で、だからディノとグラストさんは放り出されてしまったのかもしれないわ………)



ネアは可動域上子供だと勘違いされることがあるし、ゼノーシュは人間に擬態していたので、子供だと思われたのかもしれない。


誘導人には、獲物の質を満たさないものを選別する固有魔術があるという。

あんなに近くにいた仲間達から引き剥がされたのは、そのような効果あってのことではないだろうか。




本日の雑貨屋への買い出しは、珍しく、ゼノーシュとグラストと共に来ていた。


と言うのも、雑貨店のセールはお得意様感謝祭で、法人契約や定期購入をしている顧客にのみ、招待状が送られてくる。

リーエンベルクにも何枚かの招待状が送られてきたのだが、一枚の招待状が五名様までとなるので、出来るだけ無駄にしないようにとグラスト達と一緒に買い物に来ていたのだ。


ネアが通路の脇道に飛び込んだ時、手を伸ばして捕まえてくれたのは、隣にいた筈のディノではなく、斜め後ろにいたゼノーシュだった。


それ以前からディノはネアの手を掴んでくれていたし、グラストも慌てたようにネア達を抱え込もうとしていたのに、瞬きをすれば、そこにはもうネアとゼノーシュしかいなかったのである。



ばちんと大きなものを弾くような音がしたので、ディノとグラストは、こちら側から弾かれたのだろうとゼノーシュが話していた。




「グラストが連れて行かれるよりずっといいし、ディノが一緒だから、グラストは安全だと思う。………でも、この馬車の影から誘導人が出てくる前に、見ないで壊しちゃえば良かったな」

「ふぁい。私も、姿を見る前に激辛香辛料油をかけるべきでした」

「……………ネア、僕を助けようとしてくれて、腕を切られちゃったんだよね。…………ごめんね」

「まぁ!あんな悪いやつが、ゼノに触れるのを許せる訳がありません!!」

「ネアが怪我をしなくて良かった。ネアは人間だから、怪我をしたら痛いもんね」




迷い込んだ先で、ネアとゼノーシュはまず、ここはどこだろうと困惑していた。

とは言え勿論、突然おかしなところに迷い込んでも警戒を怠らないくらいには、珍しい事ではないのだ。


なので、不自然に停まった馬車の影に何者かが潜んでいるようだぞと気付けば、待ち構えて反撃しようとしていたのだが、まんまと誘導人の全容を目撃して討ち死にした次第である。




刃物感満載な外観にネアは身が竦んでしまい、手を繋いで一緒にいたゼノーシュも、合成獣感満載な容姿に動けなくなってしまった。

二人はそれでも何とか抵抗しようとしたものの、その時にはもう手遅れだったのだ。



頭についた尻尾というたいへん謎めいたものでばしりと弾き飛ばされたゼノーシュがばたんと転んだ上に刃物な手が襲い掛かろうとしたので、ネアは、慌ててゼノーシュを突き飛ばしてその軌道から外したことで、腕をばっさりやられてしまい、腕が無くなるかもしれない絶望に心が折れた。



(ディノの守護があったから、手はなくならなかったけれど…………)



セーターは犠牲になってしまった。


そして、守護などがない前の世界で暮らした日々が長過ぎたネアは、触れたらとても痛いに違いないという敵の刃物感を乗り越えられず、敢えなく捕縛されてしまう。


断面の硬い紙や、薄い薄い剃刀。

刺々の茨や、煮え立つお湯など。

印象だけでか弱い人間の心を駄目にしてしまうものは沢山ある。


今回のネアは、それに敗北したのだ。



なおゼノーシュは、ネアが馬車に詰め込まれてしまったので、慌てて飛び込んできてくれたのだ。

後で聞いた事によると、今回の誘導人はかなり攻撃力が高いらしく、見た目でかなり不利を強いられる以上、その場で交戦するのは厳しいと見聞の魔物は判断したらしい。



ネアの大事な友達であるクッキーモンスターは、武闘派ではない。

見聞の魔物の資質は、知り得る事こそである。



「でも、頑張って慣れるからね。慣れたら、僕が今度はネアを守るよ。だって僕達友達だもん」

「ゼノ!私も、きりん箱から激辛香辛料油、そしてウィリアムさんのナイフまでを駆使して戦います!」

「あのね、僕思ったんだけど、どうしても二人とも勝てなさそうだったら、戸外の箒もいいかも」

「うむ。それで掃き出してしまえば、我等の勝利は揺るぎありません!」



ネア達は互いに拳を握って向かい合い、決意を新たに頷き合った。


しかしその直後、悪路に入ったらしくがたがたんとなった馬車に、ネアはお尻がばすんと床板に叩きつけられてしまい涙目になる。

乙女のお尻はとても繊細なものだ。

これでは、すっかり青痣になってしまうだろう。



「……………ぎゅむ。むぐるる」

「わぁ、凄い音がしたよ。僕が治してあげる」

「ふぁい。お尻が真っ平になる仕打ちです……」

「僕もグラストがそうなったら嫌だから、ディノもきっと悲しいものね。………これで痛くない?」

「まぁ、痛みがすっと消えました!」

「うん。グラストが怪我をした時にも治してるから、僕、このくらいなら得意だよ。……………グラスト、心配しているかな」

「ええ。グラストさんの大事なゼノなので、それはもう心配しているに違いありません」

「……………うん。何だか胸がぽかぽかする」



心配されていると聞いたゼノーシュは、胸を押さえて目元を染めてもじもじした。

現在、絶賛誘拐され中だが、ネアはその愛くるしさに不整脈を起こしそうになってしまう。


相変わらず、悪路は続くようで馬車は酷く揺れた。


けれども、こうなると知っていれば、体に力を入れてお尻がずばんとならないように工夫する事は出来る。

それがせめてもの救いと言えよう。



「……………あのね、僕………お帰りって言って貰ったり、ただいまって言ってくれたり、心配してくれるの凄く嬉しいんだ。……………僕の知らないものばかりだし、前のグラストは、僕にはしてくれなかったから」

「ふふ、それなら、これからはずっと嬉しいですね?」

「うん!それにグラストは、最近は沢山頭を撫でてくれるし、一緒に寝てくれたり、肩車してくれたりするんだ。…………胸の中がもぞもぞするけど、とっても幸せなんだよ」



そう告白したゼノーシュは、擬態を解いた魔物としての姿なのだが、誘導人は特に気にかけている様子はない。


中を追いかけて馬車の中に飛び込んで来てくれたゼノーシュを見て、まぁいいかという感じで扉を閉めてしまった。



(……………あまり、自我のようなものが残っていない生き物なのかもしれない)




この馬車の御者でもある誘導人は、人型の獣だ。

一本結びにした黒髪は足元までの長い竜の尾のようになり、頭には鹿に似た角がある。

右手がすらりと長く鋭利な二枚の刃物になっていて、腰から下は山羊のようで、けれども足先は鳥のもの。


面立ちは端正だが印象が薄く、ネアはふと、どこかで見た誰かに似ているような気がした。

同じ人物を見た事があるという訳ではなくて、良く似た雰囲気や表情の人を見た事がある気がするのだ。



漆黒の燕尾服は裾のあたりがずたずたになっていて、ああ、この生き物は悪しきものなのだと感じさせる。

それでいて、白いシャツが雪のように真っ白なままなのが、なぜだかとても悍ましかった。




「……………むぅ。やけに揺れますね」

「うん。もしかすると、魔術干渉かな。ディノだといいな」

「この揺れが、ディノ達が助けに来ようとしてくれている影響の可能性もあるのですか?」

「その可能性もあると思う。でも今はまだ、ここはどこでもないどこかだから、触れるのはとても難しいんだよ」

「そんな話を、先日の巻き草の亡霊さん事件の時にも聞きました」




ネアがそう呟きふうっと息を吐くと、なぜかゼノーシュが檸檬色の瞳にどきりとするような冷ややかさを湛えた。


それは、無垢な子供の目をした魔物が、不意に人ならざる叡智を有する長命高位の生き物に転じたようで、ネアは思わずどきりとしてしまう。


ディノやその他の魔物達のこのような面を見る事は多いが、ゼノーシュについては、出会ったばかりの頃にしかこのような眼差しは見ていない。




「……………ネア、巻き草の亡霊に攫われた時に、馬車は見なかった?」

「ゼノ?…………ええ。花柄の木の板は見ましたが、馬車は見ませんでした。何か関連性があると思うのですか?」



そう尋ねたネアに、ゼノーシュは少しだけ考え込む様子を見せた。


真剣な眼差しの額に落ちるのは、ふわふわに巻いた白混じりの水色の髪の毛の影で、その艶やかで健やかな毛質はよく光を集めて宝石のように光る。



「まだね、確証はないけれど、……………誘導人は色々な道を持っている事があるんだ。もし、少し前から狙われていたんだとすると、あわいや影絵への道が繋がりやすくなっていたり、開けておいた扉から変なものが出てきたりするんだよ」

「……………それは、誘導人めが開けておいた扉から、あの巻き草の亡霊さんが現れたりしていたという事でしょうか?」

「うん。この前のハハカリも、魔術の通り道が出来ていて、ウィームが最も廃棄しやすい道として選ばれたのかも」



そう聞けば、ネアは思わず絶句してしまう。


狙われる理由に思い当たるものはないが、ネアが標的にされた事で、エーダリアやウィリアムを、そしてゼノーシュを巻き込んでしまっているのだとしたら、堪らないではないか。




「……………むぐ」

「ネア個人を標的にしているんじゃないんだと思うよ。名前を知っていたら名前を呼ぶから、こんな風に捕まえないもの。もしそうだとしたら多分、…………この誘導人が探している獲物の条件を、ネアが満たしているんだと思う」

「………少しほっとしました。何らかの因縁で私が狙われているのなら、気付かずに皆さんを巻き込んでいた訳ですから…………」

「今回は違うと思うけれど、そうだったとしても、ディノは気にしないと思うよ。僕も、グラストが巻き込まれないならそれでいいや」



そう答えるゼノーシュは、不思議そうに瞠った瞳が幼気な雰囲気ではあるが、たいそう魔物らしい返答であった。


ネアはくすりと笑い、そう言ってくれたゼノーシュの魔物らしい優しさにお礼を言う。



「となると、今回の目的地である、茨の狼さんとやらが気になりますね」

「言葉には魔術が宿るから、色々なものが見えるんだ。でも、あの誘導人の言葉からは、茨の魔物や妖精、竜や精霊でもない感じがしたよ。多分、祟りものじゃないかな」

「むぅ。ちょっと格好いい感じのもふもふかなと思いましたが、あまり期待は出来なさそうです」



馬車が停まりネア達のいる場所が形を定めないと、出来る事は少なかった。


ゼノーシュ曰く、音の壁を立ち上げる事は出来ているが、相手に気付かれずに視覚を遮る魔術は適当なものがないので、この馬車の中にいる間はカードはあまり開かない方がいいらしい。


前に誘導人に出会った時のあわいの列車とは違い、今回は、馬車そのものも、誘導人を構成している要素の一つという可能性があるのだ。


なのでネアは、大きめのストール巻きのマフラーの中に顔を埋めるようにして、ディノのカードにさっとメッセージを残すと、それ以降はカードを開かずにいた。



(コートを着ていれば良かったのに…………)



でも、あの混み合ったセール会場では棚に引っ掛けてしまいそうで怖かったので、熱気に溢れている場所だしと脱いでディノにどこかにしまって貰っていた。


首飾りの金庫には念の為に一枚のコートを備えてあるが、物理的に敵の手の内にある状態では、あきらかに魔術金庫から出したと分かってしまうようなコートの取り出し方は出来ない。



今頃きっと、カードにはディノからの返事が届いている頃だろう。

そう思えば心は焦れてしまうが、ネアは賢い淑女である。

見聞の魔物が用心するべきだと考えた以上は、その方針に従うばかりなのであった。




ちらちらと、窓から落ちる光の影が馬車の床板に揺れる。



時折、木の枝の影が入り込み、水に滲むような不思議な色も混ざり込めば、ネアはもう一度窓の外を覗かずにはいられなかった。




「……………ゼノ、街のような所に来ましたよ」

「………ここ、ザッカムの港町だ。もうない場所だから、あわいか影絵だと思う」

「ザッカムという町は、どのような理由で無くなってしまった場所なのですか?」

「赤帽子の疫病だよ。大きな教会のある町で、守人もいたんだ。美味しいものも沢山あったんだよ」

「………じゅるり」

「でも、誘導人がここに来たのは嫌だな。ザッカムの町がなくなった理由は、疫病が蔓延した事以外はまだよく分かっていないから」

「まぁ、謎があるのですね」

「うん。まずは、近くの町が疫病に襲われたんだ。その町から来た商人がザッカムに入って疫病が広がったんだけど、ザッカムは、一度は疫病の封じ込めに成功したんだ」




しかし、ザッカムは港町である。


不特定多数の人々の出入りがあり、把握し切れていない病人もいたのかもしれない。

その中の誰かが、森の向こうにある近くの町に逃げ込んでしまい、既に多くの患者を出していたその小さな町は、無事だった住人を集めていた区画でも感染が拡大してしまい、たちまち疫病で滅びた。


信仰の篤い人々の暮らしていたその町は、町を治めていた教会関係者が先に逃げ出してしまい、人々は混乱の内に次々と病に倒れて亡くなったのだという。



「元々疫病は、隣町のもっと奥の方にある町から現れたんだよ。赤帽子の疫病は、深い森の奥にある妖精の呪いから生まれるもので、疫病が現れた町は元々そういうものに慣れていたから、ザッカムと隣町のデナストだけが滅びちゃったんだ」

「………デナスト」



ネアは、そんな町の名前をどこかで聞いたような気がして、こてんと首を傾げた。

しかし、灰色の空と静かな町の記憶が脳裏を過ったものの、関係のない別の町の名前が先に思い浮かんでしまい、すぐには思い出せなかった。




ぽつりと、窓から見た石畳に雨の滴が落ちる。

ぽつぽつとその粒が増えてゆき、あっという間にざあっと雨を降らせ始めた。


灰色の曇天と、海沿いの草原を抜ける糸杉の並木道がここからよく見えるのは、町の手前で道が大きく曲がっているからだろう。


通り雨にけぶる町の入り口は、石積みの綺麗な城壁のようなものと、そこに蔓を伸ばした赤い薔薇の花の艶やかさに縁取られる。


蔓薔薇の花は小ぶりだが、小さな赤い薔薇がみっしりと咲いているからこそ、この町を囲った無骨な石壁に可憐な趣を添えていた。



(薔薇の花は咲いているけれど、………住人の人達の服装からすると、晩秋から冬の入り口だろうか…………)



「……………町の中には、普通に住人の方々がいらっしゃいますね。交易なども盛んな大きな町のようにも思えます」

「港は大きいんだ。交易路の中継地点だから、そこそこの栄え方だったけれど、色々な国の船が何日か停泊して船員が体を休めていくんだって。町の北側からは、森や農作地帯に続いてるの」

「ふむふむ。船は、ここで食料などを追加で買い付けたりも出来るのですね」

「うん。街道を南下した南の隣町がもっと大きくて、学院や大きな竜の教会もあるんだよ」

「竜さんの為の教会なのですか?」

「竜も入れる教会にしてあるんだ。この町の近くに暮らしている草原の竜は、とても信心深いんだって」



まるで、旅先で見知らぬ街を訪れたような不思議な穏やかさに、ネアは小さな窓の外をじっと見ていた。


町は活気付き人々の往来も盛んだが、どこか、寂寥とした物悲しさが漂う。

それはまるで、美しい状態で残された廃墟を見付けたような感覚であった。



(スノーの城塞都市とも、町の印象の色相は少し違う。全く違う風景なのに、モナの海辺の家の方が似ていると思えるのはなぜなのだろう…………)



町中には大きなオリーブの木や、山楂の木があちこちに植えられており、建物の隙間からはっとする程に色鮮やかな花々の咲き乱れる中庭が見えた。


ウィームなどの建築様式にも似た瀟洒な街並みではあるものの、どこか異国風だと付け加えたくなる馴染みのなさも多々あって、馬車はそんな町の中をがらがらと車輪の音を立てて走って行く。



(たくさんの船がやってくる町だから、この馬車と同じような箱馬車が多いみたい……………)



森側の隣町とこのザッカムが疫病で滅びたのなら、南側の町は無事だったのだろうか。

見渡した限りこのザッカムも千人規模の町なのは間違いないし、大きな学院があるような町なら、住人の数は更に多かった事だろう。




そんな事を考えている内に、馬車は町外れの寂れた墓地のあたりに停まった。

ネアはゼノーシュと顔を見合わせ、反撃の準備を整える。



しかし、二人が力を合わせて再び御者と相見えるその前に、どかん、ばりんと物凄い音が外から聞こえてきた。



「……………ほわ」

「あ、…………誘導人がいなくなっちゃった」

「まぁ!ディノが来てくれたのでしょうか?」

「………ううん、違うみたい。何で来たんだろう」



不思議そうに首を傾げたゼノーシュがネアの手をぎゅっと握って守ってくれようとしたところで、今度はばりばりがしゃんと音を立てて馬車の後ろの扉が引き剥がされた。



どうっと流れ込んでくる海沿いの街の鮮やかな陽光に一瞬目が眩んだが、目を凝らしたそこに立っていたのは、薄紫色の髪を漆黒のリボンで結んだ背の高い男であった。



はたはたと風に揺れる黒いコートに、少しだけ飾り結びにした白いクラヴァットと白いシャツ。

ジレとパンツ、そして靴までも黒だが、その黒色には僅かに紺の色味が感じられた。




ネアは一瞬、擬態をしたノアだと思ってしまったが、目が合うと別の魔物である事が分かる。




「……………まぁ」

「………普通の辻毒だな。冷や冷やさせやがって」



どこか疲れたようにそう呟いたのは、今ではネアも知る事になった薔薇結晶の義手の魔物。

首からは、鎖に通した銀のスプーンがかけられている。




「グラフィーツ………さん」

「あ、そうか。会で探してくれたんだね」

「……………むぐ?!か、かいなどありません」

「俺が先に見付けたのは偶然だ。元々、馬車の辻毒を調べていたからな」

「これ、辻毒なんだね。僕、普通のあわいの馬車だと思ってた」

「外殻しか残っていないからな。誘導人が、辻毒の馬車を乗り物にしたんだろう」



手を伸ばされ、馬車から降りるのを手伝って貰いながら、ネアは乾いた土の匂いのする古い墓地沿いの道に降り立った。


細かい砂利混じりの道には矢車菊のような花が咲いていて、大きな木の影のそこには、きらきらと木漏れ日が落ちている。




(……………あ、)



空には、カモメのような鳥の姿が見えた。

墓地は墓地らしい閑散とした静かさに満ちていて、疫病などの賑わいは見えず、長閑な景色と言えるのではないだろうか。



周囲には、ネア達を誘拐したと思われる黒幕らしき人物の姿もなさそうだ。

ネアがきょろきょろしていると、ゼノーシュが、この周辺や墓地に隣接した小さな家にも誰もいないよと教えてくれた。



「むぅ。となると、誰が誘導人めを遣わしたのでしょう?」

「赤帽子の疫病が近隣の町を襲ったという情報が入った頃のザッカムの教会では、町を守る怪物に子供の生贄を捧げていた。その言い伝えが誘導人を生み出し、今も生贄の子供を攫っていたんだろう。特定の依頼主というよりは、伝承や歴史そのものから派生したもののようだな」

「この土の匂い、ネア達が森で見付けたハハカリの実にあった匂いに似てる」

「なぬ。となると、そこから繋がっているのでしょうか?」



訝しげにこちらを見たグラフィーツに、ネアは、これは話してもいい事なのだろうかと躊躇っている内に、ゼノーシュが、先日に起きたハハカリ不法投棄事件の事を話してくれる。



「成る程な…………」



ゼノーシュが話し終えると、砂糖の魔物は小さく頷いた。


何かまずい事が起きているのだろうかとぎくりとしたネアには、自分のどこかに掴まっているようにと言いつけたので、ネアは、ゼノーシュに視線で伺いを立てた後、そんな砂糖の魔物のコートのベルトに指をかけさせて貰った。



「ハハカリが発端だな」

「むむ、あの毛玉木の実めが…………」

「そっか。森に暮らしているハハカリが、最初にハハカリが現れた土地の赤帽子の疫病を連れてきたんだ!」

「疫病を?………その、疫病にやられてしまったのは、過去のザッカムとその周辺の土地だけなのではないのですか?」


何かに気付いたように手を叩いたゼノーシュが、ネアにも今回の事件の連鎖の理由を教えてくれた。




赤帽子の疫病は、森に生まれる妖精の呪いの疫病である。



深い森の中で土着の妖精達が縄張りを守る為に扱うもので、妖精の土地から物を盗んだ者や、妖精の土地を奪おうとした者にかけられるのだそうだ。


発症すると頭髪がじわじわと赤く染まってゆき、まずは発熱と咳が初期症状として現れる。

髪の毛が赤い帽子を被ったかのように染まる頃になると殆どの患者が命を落としてしまうので、赤帽子の疫病と呼ばれるのだとか。



そう教えられてネアはぞっとしてしまったのだが、幸いにも、魔術的な階位に於いて、ウィーム中央では赤帽子の疫病は無力なのだそうだ。


元より冬や雪の祝福にとても弱い疫病なのだが、尚且つ、ウィーム中央や、禁足地の森が持つ魔術基盤に魔術の階位が劣るので、疫病を芽吹かせる事自体が不可能であるらしい。




「だからね、ネア達が見付けた時にはもう、あのハハカリからは赤帽子の疫病の要素はなくなっていたんだと思うよ。ディノやノアベルトなら、あれば分かるから」

「それを聞いて、ひとまずほっとしました!ウィームは凄いのですねぇ」

「もしかしたら、赤帽子の疫病を無効化する土地を指定して、廃棄魔術を使ったのかもね」



だから、明確な土地指定はなくとも禁足地の森に送られたのかもしれないと言われ、ネアはやっと腑に落ちた思いで頷いた。


偶然に禁足地の森に棄てられたと考えるだけでは説明出来ない不安が残っていたが、ここできちんと説明のつく理由が後付けされた形だ。



「ただ、呪いとなると個人にかけられるもののように思えるのですが、それでも疫病なのですか?」

「うん。呪いをかけた妖精がいれば止められるんだけど、この呪いは、友人や親族に感染するんだ。血族を根絶やしにする呪いなんだよ」

「……………まぁ」

「犠牲者が増えるごとに怨嗟を増して、友人や同じ魔術基盤に属する者、………即ちはその集落の同胞全てを殺すものだな。そこまでを滅ぼす効果を持つ事で、疫病として広まる事になる」

「なんという迷惑な話なのだ。悪さをした方だけに罪を問う方法に変えていただきたい………」



呪いを授けた妖精に謝罪を済ませれば、罪を贖った者達だけは呪いから解放される。


しかし、このザッカムの時のように患者があちこちに移動してしまう事で、どこが疫病の発生箇所なのかを特定出来なくなると、鎮めの儀式が間に合わなくなるらしい。



(疫病が現れた土地は、呪いを授ける妖精の住処が分かっているから、対処が早かったのだわ……………)




「ここからは推測だが、そのハハカリが元々渡りをしたのは、ザッカムの跡地かザッカムの伝承の残る近隣の土地なんだろう。住人達はハハカリが感染源だと気付いてハハカリの駆除を行ったが、同時に何らかの鎮めの儀式も行い、過去の記憶が引き出された結果、このあわいが動いたな」

「となるとつまり、ハハカリからも感染するのですね」

「ハハカリは、病人だろうが亡骸だろうが、何でも喰らう。渡りをした先で屍肉の処理に使われた可能性もあるが、それなら残しておく筈だ」

「ふむ。ハハカリを廃棄したという事は、ハハカリそのものが感染源だと考えて何とかどこかへやろうとしたのですね…………」




魔術は知ると言うことで知られるもの。


かくしてハハカリは、疫病を駆逐するウィームという土地を知った。

そしてそこには、かつてのザッカムが疫病封じの為に捧げていた生贄と同じ、可動域の低いネアがいたのである。



(そうか。だからこそこのあわいは、私を知ったのだ………)



「ネア、ごめんね。ウィームだと子供でも可動域が高いから、………最初に見付けたネアが、一番いい生贄に思えて、誘導人が迎えにきちゃったのかもしれない」

「……………むぅ。不埒な誘導人めです!私は立派な淑女ですし、可動域は上品なだけなのですよ。…………でも、となると巻き草事件はたまたま同じ時期に重なっただけの、別のものなのですね」




(そしてやはり、グラフィーツさんがこうして隣にいるのは、馬車の辻毒を調べていたところ偶然私達のことを知り、助けに来てくれたという事なのだろうか……………?)




グラフィーツの見立てによると、あの誘導人は、やがて生贄を必要とするザッカムの町に、事前に生贄となりうる子供を連れてくるだけの役割として派生したようだ。


誰かに指示された訳でもなく、備蓄をしておく為だけに存在する必要性が生み出した誘導人であるらしい。




「誘導人に紐付いた魔術が、このあわいのどこにも感じられないからな」

「うん。僕にも何も見えないから、安心していいよネア。生贄が必要だっていう思いを特定の誰かが残して集められた訳じゃないから、ここには、僕達が生贄として呼び込まれたって事を知る人はいないんだと思う」

「では、もうディノ達に連絡してみてもいいですか?………その、グラフィーツさんはディノとお話しなどはされています?」

「馬車に手をかける際に、シルハーンには掴んだとは告げてある。その場に居たオフェトリウスも、状況は把握しているだろうな」

「…………むぅ。オフェトリウスさんとご一緒だったのですね……………」




グラフィーツはウィームに滞在していたようで、そんな彼を訪ねた王都の問題でオフェトリウスと話をしていた時に、辻毒の馬車の顕現を感じたのだそうだ。

仕掛けておいた魔術に触れたその気配に目を凝らしたところ、ネアが放り込まれるのが見えて慌てて追いかけてくれたらしい。


(……………という事はやはり、案じてくれてのことなのだわ)




「僕、ちょっとほっとしちゃった。グラフィーツは仲良しじゃないけど、ネアの会の人だからネアの事は守ってくれるし、きっとこういう場所は得意だよ」

「……………かいなどありません」



ネアは、微笑んでそう言ったゼノーシュに厳しい眼差しで首を横に振り、首飾りの金庫から取り出しておいたカードを開く。



そこに、大切な魔物からのメッセージが溢れているのを見て繋がりが途切れていない事に安堵すると、早速返事を書き始めたのだった。











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