122. 大晦日に仲間外れにされます(本編)
大晦日の夜になった。
この世界の大晦日の夜には、どこからか有象無象の怪物達が現れる。
魔術の酩酊や眠りなどで怪物達の訪問をやり過ごす事は出来ず、そのような方法を用いた者達は、逃げ場のない夢の中で怪物達と過ごすようになってしまう。
だからこそ人々は、酒精の祝福の強いエシュカルを飲み、家から出ずに家族で賑やかに過ごすのだ。
それを聞いた時、ネアは密かにぞっとしたものだ。
もしこの世界でも一人ぼっちで暮らしていたら、ネアはどうやって怪物達をやり過ごしたのだろう。
(お酒を飲んで酩酊していても、目を覚ました後には一人ぼっちなのだ。どんな事があったのかも分からないまま、とても怖い思いをしたのかもしれない)
でも、ネアはこの世界に落とされたその年からもうリーエンベルクに暮らしていて、怖い生き物達をうっかり見てしまったことはあっても、一度も一人にはならなかった。
だから今も、こうして大晦日のご馳走を楽しみにしていられるのだ。
窓から見上げる晴れ渡った夜空は黒紫の美しさで、宝石を散りばめたような星々と、雪を積もらせた木々の枝や冬の系譜の花々などが縁取れば、妖精の刺繍のような艶やかさであった。
森でわおんと鳴いたのは、どんな生き物だろうか。
夜渡り鹿なら、美味しい夜渡り鹿のコンフィが食べたいなと夢見るように思い、ネアは、森を眺めていた窓辺から身を翻して大広間に向かう。
「ディノ、森の奥の方が明るいのは、妖精さん達が集まっているからでしょうか?」
「かもしれないね。あのような明かりが森に灯っている時には、近付いてはいけないよ」
「ええ。最近になってやっと、危ない光の見分けがつくようになってきました。これまで、窓を開けて音楽を聴かないと、良くないものかどうか判断出来ずにいましたから」
森の中で行われている妖精達の宴が良くないものかどうかは、風に乗って流れてくる音楽を聴くのが最も手っ取り早いとされていた。
夏至祭の夜のように、楽しげだが空恐ろしい、くるくると輪になって踊るようなリズムの音楽が聞こえてきたら、すぐにその場から逃げなくてはならない。
しかし、その音楽を聴いてしまうという事がそもそも危うく、逃げようと思っていてもふらふらと呼び寄せられてしまう事も多いので、ウィームの子供達は、必ず親から妖精の明かりの見極めを習うのだそうだ。
(くっきりとした、ランタンやシャンデリアなどの照明器具の形が浮かび上がるような灯りは安全なもので、ぼんやり明るいだけなのに異様に眩しく感じる灯りはとても危険。小さな光がちらちら揺れているのは、そもそもが誘導灯ではないものだけれど、招待がない妖精の宴に押しかけると、怒った妖精達に引き裂かれてしまうらしい…………)
エーダリアから教えてもらった事を頭の中で反芻し、ネアは、少しだけうきうきとした気分で微笑みを深める。
ウィームでは三歳くらいの子供でも出来るような事なのだが、ネアは、こちらの世界に来てからの年数で考えれば三歳児とさして変わりない。
堅実に経験を重ねてきた事で、無事にまた一つ、ウィームっ子としての能力を身に付けたようで嬉しかったのだ。
思わず、とててと廊下を走ってしまうと、慌てたように伴侶な魔物が追いかけてくる。
脱走犯かのようにさっと持ち上げられてしまい、慌ててじたばたした人間は、よりにもよってそんな捕獲の瞬間をヒルドに見られてしまった。
「おや、どうされましたか?」
「少しだけ小走りに移動しただけなのですが、あっという間に捕獲されてしまいました……」
「ネアが逃げようとした………」
「ご主人様の歩行速度は、目的地にどれだけ早く着きたいのかと、その時の気分によって変わりますからね。自身で適応して付いてきて下さい。決して脱走ではないのですよ?」
「そうなのかい…………?」
しかしディノは、じたばたする伴侶を運ぶのが楽しくなってしまったらしく、降ろしてくれなくなってしまった。
最終的には怒り狂う人間を魔物が搬入するという構図になり、先に会場入りしていたエーダリアとノアが、ぎょっとしたように振り返る。
「わーお。僕の妹はどうしたのかな?」
「ぐるる!私を自立歩行させて下さい!!大晦日のお料理のある部屋に入るのは、とても神聖な行為なのですよ?」
「沢山動いて可愛い………」
「ヒルド、…………これは」
「お二人の愛情の深め方ですので、問題はありませんよ。グラスト達はどうしました?」
「後は引き継ぎだけだと話していたので、そろそろだろう」
「では、栓を開けてしまいましょうか。ウィリアム様はもう、いらっしゃっているようですからね」
と言うより、エシュカルを飲みに行ったところから一緒にリーエンベルクに来てしまったので、ウィリアムはもうずっといるのである。
ウィームに終焉の予兆が出たことを受けて慌てて駆けつけてくれたウィリアムは、慌てていたので、その時に居た戦場の問題を自分の手で早々に片付けてしまったのだそうだ。
ネアとしてはそれは後々問題にならないのかなと心配だったが、今回は祟りものの出現のみの案件だったので、その祟りものを滅ぼせば終わりだったのだとか。
とは言え、本来であればその土地の人間たちに対処させる案件だったらしいのだが、急いでいたウィリアムはさくさくと自分でその祟りものを討伐してしまった。
突然の終焉の魔物からの救援に、その場にいた人々は何を思ったのだろう。
とても感謝されたらしいので、その土地に魔術師がいれば祭壇などが設けられてしまう事もあると、エーダリアが苦笑して教えてくれた。
そんな終焉の魔物は、すぐに会場に現れた。
仮眠から起きた直後だったウィリアムは、少し体を温めたいからと、遠回りをしてこちらに来たのだそうだ。
「すまない、遅くなった。短い時間だが、いつ寝たのか思い出せないくらいに寝たな」
「ウィリアムさん、少しは昨晩の疲れが取れました?」
「ああ。軽く入浴して横になったんだが、その後の記憶がないんだ。すぐに眠ってしまったんだろう。お陰ですっきりした」
そう微笑んだウィリアムに、ネアは、ほっと胸を撫で下ろす。
(今日のお仕事は簡単だったとは言え、昨晩のものはかなり大変なお仕事だったみたいだから……………)
ウィリアムは、本当に凄惨な戦場のことはあまり話してくれない魔物だが、その中でも、昨晩の戦場はかなり酷かったようだ。
小さな集落同士の争いだったらしいが、その集落に暮らす魔術師の血筋を絶やす為の襲撃があり、殲滅戦だったという事だけは話してくれた。
「申し訳ありません。お待たせしました」
「もう食べちゃった?」
続いてやって来たのは、グラストとゼノーシュだ。
こちらのでの乾杯に参加してから騎士棟に戻るのだが、グラストはなぜか大晦日の最後の怪物に遭遇し易いらしく、怪物が現れ始める前にそちらに移動する事になっている。
「アルテアは少し遅れてくるようだから、先に始めていて構わないそうだよ」
「では、始めようか。今年も皆でこの日を迎える事が出来たのだが、……」
「エーダリア、身内なんだから堅苦しい挨拶は置いておいて、エーダリアが今年一番嬉しかった事教えてよ!」
「ノアベルト………?!」
生真面目に挨拶を始めようとしたエーダリアに、悪戯っぽく微笑んでそんな質問をしかけたのは、そう言えば、以前は夜会や舞踏会を毎晩のように渡り歩いて過ごしていたノアだ。
元々場を盛り上げるのが上手な魔物だが、今回は家族で過ごす時間をより楽しもうとしているらしい。
シャンデリアの光を映してきらきらと光る青紫色の瞳に、目を丸くしていたエーダリアが、ふにゃりと柔らかい微笑みを浮かべた。
そんな様子を見たグラストが涙ぐんでしまい、ヒルドもどきりとするような優しい目をしている。
「……………そうだな。より感慨深い体験は、やはり夏夜の宴だろう。その経験を今後に生かさねばならず、まだ全ての対応が終わった訳ではない武器狩りもある。………だが、一番楽しかった時間となると、………ノアベルトの持つあわいの屋敷を訪ねた旅だろうか。生まれて初めて、家族の家の屋根裏部屋で過ごしたのだ」
はにかみながらそう話してくれたエーダリアに、ノアは胸を押さえてよろよろと後退ると、ヒルドの後ろに隠れてしまった。
「…………ヒルド、エーダリアが泣かせてくるよ」
「まったく。あなたが聞いたのでしょうに」
「だってさ、僕もあの日が一番楽しかったんだ」
「……………やれやれ、あなたという人は」
ここでノアが本気で少し泣いてしまい、慌てたエーダリアが駆け寄る場面があった。
ネアもうるうるしてしまい、ゼノーシュは、グラストと一緒に過ごした夏休みで、一緒にお昼寝したのが家族みたいで一番楽しかったと耳打ちして、グラストまで泣いてしまう。
「ほわ、開始早々大変なことになりました」
「………ネアを呼び落とした日かな」
「まぁ、ディノはその日なのですね?」
「それから、君に指輪を贈った日だろうか」
「…………む?」
「君がリボンを買ってくれた日と、食べ物を分けてくれた日。個別包装で隣に寝てくれた日に、求婚してくれた日と、……」
「一個ではないと言う段階すら、駆け足に通り過ぎてゆきました………」
「……………君が一番幸せだと思ったのは、どんな日なのだろう」
小さくそう呟いたディノの瞳は光を孕むような鮮やかさで、ネアは小さく息を飲む。
この魔物が、どれだけの怖さを飲み込んで今の質問をしたのか。
その切実さに気付いてしまったのだ。
くすりと微笑むと、狡猾な人間はまず、少しだけ考え込むそぶりを見せた。
そんなネアに気付き、隣のウィリアムにも微笑む気配がある。
「そうですねぇ。今年のことだけでなくていいのなら、この世界に招かれた日が一番幸せな最初の日です」
「……………そうなのかい?」
「ええ。この世界には妖精さんがいて、どこもかしこもきらきらしていて美しくて、そんな場所を見ていられるだけでも幸せでしたから。なお、次の幸せな日は、ディノのことが大好きだと気付いた日なのですよ?」
「………ずるい」
「やっと私に特別に大切なものが出来た日が、その日だったのだと思います」
「ネアが虐待する………」
「…………そう言えば、元々は幸せな日ではなく、楽しかった日を選ぶという事でしたよね。そうなると、………狩り………?」
「ネアが虐待する………」
残虐な人間の本音に触れてしまい、ディノがふるふるしている間に、思わぬところで感動の渦に飲み込まれていたエーダリア達も落ち着いたようだ。
きゅぽんと音がして、用意されていたシュプリの栓が開けられる。
「まぁ。また見たことのないシュプリです!これはどなたが用意して下さったのですか?」
「僕だよ。これもとっておきのやつ。いつか大事な女の子と飲もうと思ってたんだけれど、家族で飲めるんだから、もっといいよね」
「………これはまさか、夜の雫と雪の涙ではないのか………?」
「ありゃ、エーダリアはこのラベルが読めるんだね。そうそう、そのシュプリだよ。指貫を貰えるってなったから、これを飲まなきゃって慌てて持ってきたんだ」
ノアが用意したシュプリは、どこか悲しげな銘とは裏腹に、幸福になった者が過去の孤独を洗い流す為に飲む恩寵の酒と呼ばれているのだとか。
個人の嗜好家が近年に作り出したばかりの若いシュプリで、その瓶の一本が市場に出た時の騒ぎを、エーダリアはガレンの長として良く覚えているらしい。
「他国では、この酒を求めて小規模な戦乱が起きた事もある。流通したものは、二十本程度で、今は、五本現存しているかどうかというものだな」
そう教えてくれたウィリアムに、ゼノーシュが檸檬色の瞳を輝かせる。
「僕たちもいいの?」
「うん。ゼノーシュとグラストも、ボールで遊んでくれるからね」
「ノアベルトが………」
「うーん、この理由を説明している時に、アルテアがいなくて良かったですね」
「わーお。気を付けないとだぞ………」
ネアは、このシュプリは使い魔にも飲ませなければと考えてグラスを用意したものの、やはり飲みたくないかなと首を傾げた。
両手にシュプリグラスを持ったままこてんと首を傾げているネアに、ノアは気付いて微笑んだようだ。
「それは、僕の妹の使い魔の分かな?」
「むぐ。アルテアさんは、このシュプリを飲ませようとしたら、森に帰ってしまうでしょうか?」
「うーん、どうだろうね。本人に聞いてみるかい?」
「このシュプリを持っていると、警戒して森から出て来なくなってしまうかもしれません。来る前に飲みきってしまった方が………」
「おい、その森設定をもういい加減やめろよ?」
「……………む。背後に使い魔さんが」
結論を出す前に本人が登場してしまい、ネアはへなへなと眉を下げた。
そんな様子を呆れたように見つめ、アルテアは小さく息を吐く。
「グラスを寄越せ。お前が受け取ると落としかねないからな」
「一緒に飲んでくれるのです?」
「このシュプリが、どれだけ希少だと思ってる」
「むぐ、シュプリ目当てでした」
「わーお。アルテアは素直じゃないなぁ」
「やはり、ちびふわにして、無理やり飲ませてしまえば良かったのでしょうか…………」
「いいか、絶対にやめろ」
そうして、ここで漸く全員のグラスにシュプリが行き渡った。
今宵は特別な挨拶はなく、けれどもみんなでグラスを持ち上げ、親しい仲だからこその乾杯を交わすと、どこか荘厳で切実な乾杯の輪が、ふわっと宴席の空気へと早変わりする。
きりりと冷えたシュプリを一口飲み、ネアは、誰もいない冬の雪原を思った。
青く暗く澄み渡った夜の下をたった一人でどこまでも歩いて行くような孤独と、それを振り切った清々しさまでをも感じさせるからりとした辛口のシュプリだ。
「…………この香りは、」
「雨に濡れた庭園の薔薇と、雪の夜の香りだと言われている。砂糖の系譜の酒だな」
「むむ、とても美味しいのですが、少しも甘くないのにお砂糖の系譜のものなのですねぇ」
「成る程。シュプリにかけられた銘と祝福だけではなく、この味わいを求める者もいそうな味だな。俺はかなり好きな味だ」
「ええ。………私も好きな味ですね。ですがやはり、幸福を得てこそ飲むべきものなのかもしれません」
そう呟いたのはヒルドで、ウィリアムも頷いている。
また一口シュプリを飲み、ネアは、このシュプリを安心して美味しく飲めるのは、あの孤独はもう過去のものになったのだと思えるからなのだと思い知らされた。
一人ぼっちの夜にこのシュプリを飲んだら、一人きりの雪原を美しいなどと思うことは出来ず、誰もいない夜闇の向こう側に逃げ出したくなってしまうかもしれない。
今だから。
今だからこそ、晴れやかに楽しめる。
「……………こうして飲むと、美味しいものだね」
「ディノは、以前にも飲んだ事があるのですか?」
「トム…」
「おのれ、許すまじ」
「ご主人様………」
一人ぼっちの魔物に、よりにもよってこのシュプリを飲ませたのがかつての包丁の魔物だと知り、ネアは床石をがすがすと踏み鳴らした。
慌てたディノが三つ編みを献上して鎮めようとしてくるが、それよりも頭を撫でさせて欲しい。
「安心していいよ。あいつはもういないからさ。それに、今のシルはもう、あいつに傷付けられる事なんてないよ」
「ぐるる。………どこかの影絵で見付けた場合は、問答無用で踏み滅ぼします!」
「お前は、それ以前に妙な影絵に落ちるな」
思わぬ名前に少しだけ荒ぶってしまったが、このお酒を飲めるという事は幸せな事なのだ。
ネアは気を取り直して、美味しいものを美味しく楽しむ事にした。
(もうここに、寂しくて堪らない人は誰もいないのだと思う…………)
若干アルテアの上限が分からないが、本当は森に本拠地を置くような悪い魔物でも、寂しい時にはご主人様にパイを届けに来ればいいのだから、きっとそんなには寂しくないだろう。
そう考えて凛々しく頷けば、なぜかアルテアに訝しげに見つめられた。
さっとお皿を手に取ったのはゼノーシュだ。
「僕ね、このパテを狙ってたんだ」
「むむ、これはノアの大好きなやつですよ?」
「なになに?…………ありゃ。また誰かが僕を泣かせようとしてるぞ」
このノアのお気に入りのパテは、時々食卓にも上がるのだが、その度にノアは嬉しそうに口元をもぞとぞさせる。
ネアも勿論パテをいただき、ネアにとってはこれが一番というお酒ではないが、このシュプリはとにかくお料理に合うという素晴らしい真実を見出した。
(もしかすると、そんなところでも、誰かと一緒がいいという意味をなすものなのだろうか………)
月光鱒と雪上がり鮭を使った鮮魚のタルタルは、ケッパーや酢漬け野菜の酸味をアンチョビの塩味が綺麗にまとめ、かりかりに焼いた砂小麦のビスケットに乗せて食べる。
ケーキのような一口大の円形で焼いたキノコのキッシュは、燻製した生ハムと合わせていただくらしい。
こちらは簡単に、砕いた雪菓子を振りかけただけのアルバンの新鮮なチーズ。
そして、ネアが次に出会ったのは、魔術仕掛けでほこほこと湯気を立てるお皿にくるくるっと巻いて取り分けやすく盛られた美味しいパスタだ。
「こ、これは………!」
「ネア、気に入ったのかい?」
「今日の為に残しておいて下さったのであろう、水棲棘牛のタルタル様に出会ったのですが、その手前で素晴らしいパスタに出会ってしまったのです。濃厚なお味で、辛口のシュプリにぴったりでした………むぐ。……………美味しいれふ」
「弾んでしまうのだね」
「海老もぷりぷりです!!」
お酒に合うと聞いたからか、海老があると聞いたからか、魔物達もわらわらと集まってきた。
海老のトマトクリームパスタは、たっぷりの海老と海老味噌の濃厚な味わいに、むぐむぐうっとりしてしまう美味しさである。
その手前にあったまだ未開拓の前菜のお皿を飛ばしてお口に入れてしまったが、ネアは、己の選択に後悔などなかった。
「…………これは美味いな」
「ウィリアムさんもそう思います?」
「ああ。主食として一気に食べるよりも、辛口の酒と合わせたい味だ」
「そう言えば、ウィリアムさんには、アルテアさんもお代わりを所望するとっておきのパスタがあるのですよね?」
「ああ。今度、ネアにも作るからな」
「じゅるり………」
(……………おや?)
終焉の魔物特製パスタへの憧れに心を弾ませたネアは、部屋の隅に不審なものを見付け、ぎりぎりと眉を寄せた。
壁と床石の継ぎ目のところから、何某かのにょろついたものが現れ始めているような気がする。
しかし、例年であれば儚く怯えていたネアは、ふっと不敵な微笑みを浮かべた。
現在、ネアの隣にはとても頼りになる魔物がいるのだ。
こちらが気付いている事を、知られない方がいいだろう。
ばすんと体を寄せ、小さな体当たりで注意を引こうとしたのだが、ぎくりとしたように固まったウィリアムにおやっと首を傾げる。
「……………ネア?」
「ウィリアムさん、ちょっぴり屈んで下さい」
「構わないが、………っ、」
屈んでくれたウィリアムの耳元に唇を寄せ、ネアは、最初の怪物が現れたかもしれない事を素早く伝えた。
なぜかウィリアムは耳を片手で押さえて目元を染めているが、すぐに頷いてくれた。
「安心していい。すぐに排除するからな」
「はい!」
「ウィリアムなんて………」
「まぁ、ウィリアムさんは騎士さんでもあるので、こうして頼ってしまうのですよ?」
「……………ウィリアムなんて」
「そしてディノは、私の伴侶なので、今夜は片時も離れてはなりません」
「ご主人様!」
いつの間にか、夜の雫と雪の涙のボトルは空になっていた。
次に栓が開けられたのは、シュタルトの湖水メゾンの月光シュプリだ。
こちらも希少なシュプリだが、幸いにも、頑張って買おうと思えば買える程度のものである。
このシュプリをたいそう気に入ってしまったネアは、販売開始は夏至祭の四日前という情報を、慌てて新しい手帳に書き込み、果実の風味のしっかりとした味わいを楽しむ。
果実の爽やかな酸味に、月光を浴びた草原のような爽やかな夜の香りが何とも清廉なシュプリなので、水棲棘牛のタルタルも追加せねばなるまい。
「……………ぎゅわ」
「ネア?」
「……………き、嫌いです!む、虫め!!」
「おや、今年は怪物の出現が早いですね……」
ぞわりとした影がどこからか伸び、凍りついたネアに気付いたヒルドが、幸いにネアは見ずに済んだ本体をすぐさま滅ぼしてくれた。
「僕、まだ食べてないものが沢山あるのに………」
打ち拉がれたようにそう呟いたのは、ゼノーシュだ。
怪物が現れ始めたところで退出する予定だったが、今年は開始して半刻程という異例の早い出現だ。
そんな契約の魔物の訴えに、グラストはヒルドと顔を見合わせている。
「グラスト、騎士棟に戻りますか?」
「困ったな。……ゼノーシュも一緒だし、もう少しこちらにいても構わないか?」
「ええ。時間としてもまだ余裕がありそうですからね」
「わぁ、いいの?」
「ああ。最後の怪物までの時間は、まだあるからな」
その言葉で、愛くるしいクッキーモンスターは、ネアと顔を見合わせてきりりと頷いた。
こちらの可憐で繊細な人間も、怪物の出現状況によってはカーテンの影に隠れなくてはいけなくなる。
慌てて料理の方に駆け出してゆくゼノーシュの後を追う為に、ネアは、さっとディノの手を掴んだ。
「ネアが虐待する」
「珍しくきっぱり言いましたが、私がカーテンの国の住人になる前に、私のお気に入りの料理を覚えていて欲しいのです」
「それを、届ければいいのだね?」
「ふぁい………」
「いや、お前はもうカーテンなんぞいらないだろ。何でも踏むだろ」
「か、可憐なる乙女に何という仕打ちでしょう。私の心は繊細なのですよ?」
「ほお、その足の下のものはなんだ?」
「…………むぅ。爬虫類系ならさしたる嫌悪感はありませんね」
ネアは、ウィームでは珍しい鰐系の怪物を踏み滅ぼすと、一通り食べた中で素敵だったものをお皿に乗せ始めた。
「この鮭の燻製のものと、鮮魚のタルタルと棘牛のタルタルです。更には、栗のおかずパイに猪のパテ。このパスタと、………決して忘れてはいけないのが、鴨肉様。ゼリー寄せは野菜のもの、香辛料の効いた栗のポタージュに、…」
「ご主人様…………」
「シルハーンには無理だろうが。取り分けはこっちでやってやる」
「むむ!そんな時の使い魔さんでした!!」
「うーん、と言うよりある程度の時間まで、出たもの全てをその場で壊せばいいんじゃないのか?」
「わーお。ウィリアムにしか出来ないよね、それ」
ぱくりとお口に入れた水棲棘牛のタルタルの美味しさに身震いしつつ、ネアは、わいわいしている家族をとても幸せな思いで眺める。
また謎めいた怪物に誰かが呪われてしまうかもしれないし、来年もきっと賑やかになるだろう。
しかし今は、こんな風に大切な人達を眺めながら、美味しいものをいただく幸せに浸っていたい。
(グラフィーツさんも、こんな感じなのかな………)
ふとそんな事を考えてしまい、ネアはこの理論には重大な欠落があると眉を顰めた。
砂糖の魔物にとって、ネアは食べられない美味しそうなお砂糖候補に過ぎず、完全なるおかず候補なのだ。
「……………ふむ。グラフィーツさんのあれは、鴨肉様を拝見しながら、クリーム煮のパイの包みを食べるようなものですね」
「ネアは、私は見ないのだね………」
「なぬ。ディノをおかずに………?」
思わぬ立候補にネアが目を瞠ると、真珠色の髪の魔物は瞳をきらきらさせながらこくりと頷いた。
しかし、じっと見つめてみても魔物がきゃっとなるだけで、おかず感は全く感じられない。
「どうだい………?」
「……………ディノは寧ろ、寝る前に見ると幸せに眠れる感じです」
「グラフィーツなんて………」
「むう、この場合は鴨肉なんてというのが正解なのでは………?」
「鴨肉なんて………?」
「わーお。また変な感じになってるぞ」
ここで、もう一度のタルタルへと向かおうとしたネアは、途中でかくっと向きを変え、ウィリアムと話していたヒルドの背中にさっと隠れる。
「ネア様………?」
「ゆ、床が、ぐにゃんとなりました!」
「床から、ではなく床そのものが、という事でしょうか?」
「ふぁい!」
ひしっとへばりついたネアを安心させるように微笑み、ヒルドはすらりと剣を抜いた。
しかしそのヒルドを、ウィリアムがすかさず片手で制する。
「……………あの一帯には、近付かない方がいいな。俺達と言うよりは、アルテアかノアベルトだろう」
「ネイ、ちょっといいですか?」
「ありゃ。何かあった?」
「ええ、こちらに………ネイ?!」
「っ、ノアベルト!」
「ぎゃ!ノア!!」
ヒルドに呼ばれたノアは、よりにもよって、ウィリアムが警戒地域とした床石をぐりんと踏みつけてしまったのだ。
その結果、ほろ酔いでご機嫌だった塩の魔物は、ぼちゃんと音を立ててどこかに沈んでしまう。
「ヒルドどうしたのだ?…………っ、ノアベルト?!」
「ノアベルトが…………」
「おい、また妙なものを呼び込みやがって」
「なぜこちらを見るのだ。無関係の可憐な乙女です!」
慌てて助けに行ったエーダリアとヒルドが、魔術を駆使して安全地帯からびしゃびしゃの塩の魔物を引っ張り上げようと苦心している。
その間にも、ノアが落ちた床面のあたりはざぶざぶと波打ち出した。
時折、むくくと笑うのでかなり邪悪な落とし穴だと見て間違いない。
「あのね、ここからここまでだよ。前にエーダリアと狐が落ちた、敷物のやつみたいなものなのかな」
「これは、ゼノーシュがいてくれて助かった。移動しないように、仕切りを付けておくか」
「ウィリアムさん、有難うございます!」
「俺も、さすがにあの中には落ちたくはないからな………」
そう微笑んだウィリアムに頭を撫でて貰いつつ、ネアはこの、怪物なのかなというおかしな生き物について考える。
「………むぐ。………ディノ、あやつの上に、ぱこんと被せられるような板を作れたりします?」
「板をかけるのかい?」
「はい。お鍋に蓋をするような感じにして、その一部だけをぱかりと開けられるようにしておきたいです」
「一部だけを………」
「覗き穴的な………」
「出来ると思うよ。ノアベルトはそのままかい?」
「い、いけません!ノアを助け出してからです!!」
そんな塩の魔物は、棘牛釣りの要領でヒルドが引っ張り上げてくれ、何とか救出された。
ずぶ濡れですっかりくしゃくしゃになっているが、幸いにも水は澄んだ湧き水のようで、逃げ沼のような悲劇にはならなかった。
「ノア、大丈夫ですか?」
「……………死ぬかと思った。何あれ、凄く深いんだけど………」
ノアは魔術でさあっと体を乾かしてしまったが、その瞳にはすっかり光が入らなくなっていた。
せっかくの家族で過ごす時間に言葉通り水を差された形になったからだと思えば、それだけではないらしい。
「…………なんかさ、水底に飛び跳ねる小石みたいなのが沢山いて、みんなで縄跳びしてたんだよね」
「ほわ、………とてもほのぼのしています」
「ちょっとボラボラの集落に似てたから、アルテアの系譜だと思うよ、きっと」
「まぁ、アルテアさんを派遣してみます?」
「おい、やめろ」
とは言え無事にノアも救出されたので、屋内に現れた謎の水辺は封鎖されることになった。
ディノが魔術で作り上げてくれた木の板を、水面になっていない石床の部分に渡してかけておき、ネアの要望を正確に掴んだアルテアが、その一部をぱかりと開けられるようにしてくれた。
「これ、開けられる必要ってある?」
「うむ。現れた怪物さんは、この中に蹴り落とせば良いでしょう」
「わーお………。思ったよりも容赦ない使い方をしようとしているぞ………」
「後はもう、激辛香辛料油を流し込んでおけば………」
「え、あの小石達はどうなるの?!」
「知った事ではありません。私達が、怪物めに悩まされず、美味しく楽しく過ごすのが最優先です」
「……………わーお」
「……………ご主人様」
目のいいゼノーシュ曰く、終焉の魔物の魔術でその場に固定されてしまった謎の水辺は、蓋までされてしまい、どうにかして移動しようとじたばたしていたらしい。
けれども、現れた怪物を十三体も廃棄されてしまうと、ぎゃっと苦しげな悲鳴を上げてぴくりとも動かなくなったようだ。
会場に突然立ち入り禁止区画が出来てしまったが、その後は、専用の怪物廃棄場が出来たので比較的穏やかな時間が続いた。
グラスト達は、想定していた時間まで広間で過ごす事が出来、ゼノーシュは、デザートのケーキを盛り合わせたお皿にアルテアの林檎パイも乗せて、じゃあねと手を振って騎士棟に向かう。
このあたりで、ぴくりともしなくなった水辺にネアが用意した激辛香辛料油を投入してみると、最後まで謎だったその生き物は、さらさらと砂のようなものになって崩れて消えてしまった。
「今年の大晦日は、初めてというくらいに穏やかな夜でしたね」
美味しい林檎パイをいただいたので、もう一度の雪菓子チーズかなと考えながらそう言えば、なぜか、怪訝そうな顔をしたエーダリアがこちらを振り返るではないか。
「……………エーダリア様?」
「ネア、大晦日の怪物達は、寧ろこれからが出現時間なのだぞ?」
「………これから」
「ああ。………そろそろ出始めたな」
「………む。……………ぎゃ!!」
振り返ったネアが見たのは、窓いっぱいに張り付いたもさもさかさかさした生き物だった。
幸運なことに張り付き過ぎていて細部までよく見えなかったが、決して凝視してはいけない系の生き物なのは間違いない。
びゃいんと飛び上がり、ネアは一番近くにいたアルテアの背中に隠れ、ぐいぐいとそちらに押し出しておく。
「っ、おい!あれは屋外だろうが。落ち着け!」
「ぎゅ、お部屋のカーテンを閉めて下さい」
「ったく。それくらいはノアベルトにやらせろよ」
「そして、あちらのチーズを取って下さい」
「お前な………」
呆れたような目で振り返ったアルテアに反論する余裕もなく、ネアは鋭い目で周囲を見回し、戦況が不利に傾いている事を察した。
部屋のあちこちに怪物の影が落ち、ディノは壁から出てこようとしている毛だらけの手を押し戻しているし、ウィリアムも、モップのようなもじゃもじゃとした生き物を靴底で押し戻しているところだった。
「夜の盃を………」
「あれはやめろ。………遮蔽カーテンにしておけ。いいか、あの酒は飲むなよ?!」
「むぐぅ………」
使い魔の説得により、ネアは罰ゲームの小部屋かなという遮蔽カーテンの中に入る事になった。
しかし、カーテンの向こうから話し声が聞こえてくる度に仲間外れのようでむしゃくしゃしてしまい、途中で我慢ならなくなった人間は、遮蔽カーテンの中から飛び出し、目に付いた怪物を片っ端から踏み滅ぼして回った。
あまりの獰猛さにディノとノアは怯えてしまい、怒り狂った人間がとても昆虫な怪物と対面してぱたりと倒れるまで、その凶行は続いたという。
なお、とてもキノコ類に似ている最後の怪物の形状を見た魔物がとても弱ってしまったり、酔っ払った魔物が脱いだり、床の上で死んでいたりもしたようだが、それは個人の管理の問題だと言わざるを得ない。
日付が変わったところで我に返ったネアは、エーダリアとヒルドと、美味しい氷河のお酒をいただいた。
かくして、賑やかで穏やかな大晦日は過ぎて行ったのだった。
本年も、薬の魔物にお付き合いいただき、有難うございました!
(本日分が二話と長くなってしまいましたので、明日更新は短めになります)
引き続き、新年もどうぞ宜しくお願いいたします。




