121. 誕生日には投げ捨てます(本編)
贅沢な花柄のゴブラン織りのような椅子に腰を下ろせば、どこからともなく爽やかな草原と森の香りが鼻腔に届く。
ゆっくりと暗くなってゆく劇場は正面には舞台がなく、天井を見上げるように体を倒して寝椅子に寝転ぶのだ。
ネアの隣にはディノがいて、一列後方の座席にはグレアムとミカが、そして少し離れた後方の座席にはグラフィーツが座ってくれている。
座席は離れていてもまた会えると聞いてネアは不思議でならなかったが、どうやら上演中には歩いたりもするようだ。
「……………ふぁ!」
暗転した劇場に、ざわざわと森の木々を揺らす風が吹いた。
あまりの心地よさにうっとりと酔い痴れてしまうような風をもっと感じたくて、ネアはそわそわしてしまう。
心の中に凝った疲労感やもやもやも全て剥がしていってしまいそうな気持ちのいい風で、この一瞬だけでもう、ネアにもグレアムがこの劇場に通う気持ちが分かってしまった。
(………ラベンダー畑だわ)
真っ暗だった劇場の中が、夜の光にぼうっと明るさを取り戻した。
するとそこは、かつて見たチェスカのラベンダー畑によく似た花畑で、けれども、ラベンダーに混ざって他にも様々な花が咲いているようだ。
見上げた夜空には、眩いほどの星々が輝いていて、明るい星の光に差し伸べた手のひらが星の色に染まる。
しゃりん、しゃりんと音を立てて弾けるのは、落ちてきた流星が花畑で弾む音だろうか。
あまりにも沢山の星が瞬いているので、時折、押されてしまったものかそのままぽてりと落ちてくる星がある。
銀色の尾を引いて落ちてくる星が地面に落ちれば、しゃりんと音を立てて砕け散ると、あたりを星の魔術できらきらと光らせた。
「…………気に入ったかい?立ち上がって、花畑の中を歩けるそうだよ」
「この中を、歩いてもいいのですか?」
「うん。グラフィーツが用意してくれたブーツがあるから、足を取られて魔術に沈んでしまうこともない」
「と言うことは、このブーツがないと開演中はずっと、椅子から立ち上がれないのですね?」
「そうだね。ここは今、夜の記憶の中に沈められているんだ。実際には地上を歩いているようでも、足を踏み外すと沈んでしまうような場所だ」
とは言え、足を踏み外さない為に必要な可動域は十三くらいなので、子供達でもその心配はないらしい。
残念ながら、可動域が上品さの粋を極めるネアは、特別な靴を履かなければ夜の記憶の藻屑だ。
立ち上がると、そこには美しい夜と降り注ぐ星の光があった。
どこまでも続く花畑の向こうには深い森と星の光を映した湖があり、ネアは、その湖に何となく見覚えがあるような気がして瞬きをする。
ふかふかとした土の感触に、深呼吸をするだけ胸が震える芳しい夜の花畑の香り。
しゃりしゃりと星の降る音も耳に心地よく、ネアは何かを言おうとする度に言葉を失ってしまい、ただこの美しい夜の中に立ち尽くしていたかった。
隣にいるディノの手を、あまりの感動にぎゅっと掴めば、伴侶は少し傾いてしまったようだ。
この感動を伝えようと振り返ると、グレアムとミカがこちらを見て微笑んでくれる。
グラフィーツと目が合えば、彼は短く頷いたようだ。
(そうだ…………)
せっかくのブーツだからと、ネアはこの花畑の中を少しだけ歩いてみた。
手のひらに触れるラベンダーの花の感触に、足元に落ちてきた星が跳ねる振動。
星の光に染まった爪は、指先を動かすと夜の光にきらきらとした光の軌跡を残し、また星が降る。
「大満足です。………これは、何度でも来たい特別な夜ですね」
「この時代の星の魔物の、婚姻の日の夜の記憶だね。夜の魔術の中に星の光やこの夜の風景を焼き付け、普段は特殊な封印をかけた箱にでも入れてあるのだろう。こうして、その記憶を紐解くこと自体、夜の系譜の中でも最上位にあたる真夜中の座でなければ出来ない事だ」
さくさくと土を踏む音がして、グレアムとミカがやって来る。
夜の光の中で見る二人はそれはそれは美しく、ミカが夜であればグレアムの瞳は星の光のような煌めきだったが、それを言うと失礼なので口に出すのは控えた。
残念ながら星の系譜は、犠牲を司るグレアムよりは階位が低いのだ。
「少しのんびりとしてくるといい。最後に星浴びがあるが、それがまた気持ちいいんだ」
「まぁ、グレアムさんのお顔が!これはもうとても素敵に違いありません!」
「俺からも、良いものだと伝えておこう」
「むぐ、ミカさんからも……!」
来るべき時に備え、ネアは期待のあまり弾んでしまった。
手を繋いだままのディノがたいそう弱ってはいるが、ここばかりは純粋に楽しませていただきたい。
しゃりん、しゃりんと星の落ちる音がする。
星の光は冴え冴えと降り積もり、この花畑の間に立っている時間に応じて、明るさを増してゆくようだ。
また、心地よい風が髪を揺らした。
美しい花畑の中でその夜の色だけを噛み締め、ネアは、帰ったら絶対にエーダリア達にも教えてあげるのだと心に誓う。
かさりと土を踏む音がして、隣に立ったのはグラフィーツだ。
おやっと眉を持ち上げたネアに、この時の砂糖の魔物は、アクテーの修道院で出会った彼に少しだけ似ていた。
「………魔術の輝きや錬成の色を知らないと、最後のものは刺激が強いかもしれない。星の雨が降り始めたら、長椅子に戻るといい」
「では、強欲な私は全てを無理なく楽しみたいので、そうしますね」
「そうか、君にとっては見慣れないものでもあるのだね。有難う、グラフィーツ」
「いえいえ、極上の砂糖を食べるには、ネア様が必要ですからね」
「…………ぎゅわ、やっぱりのおかず扱いです」
「グラフィーツなんて………」
勿論、最後の瞬間は長椅子に寝そべって楽しむべきであった。
ぽつぽつと降り始めた星の光は、星振るいという、輝きを強め過ぎた星々がその煌めきを地上に捨てる為のものであるらしい。
今はもう滅多に起こらない現象だが、世界が生まれたばかりの頃には珍しくなかったのだそうだ。
夜空を切り裂いて落ちてくる星の輝きは、徐々に数を増やし、やがてざあっと降り注ぐほどの激しさになった。
そんな激しさだと不快なのではないだろうかと思うだろうが、なぜかそういう事はない。
寧ろ、肌を濡らさない雨の中でその心地良さに目を細めるような不思議な爽快感があり、ネアはうっとりとその星の光を浴び続けた。
「………あの星浴びの劇場は、とても凄かったのですよ!あの気持ち良さは、狐温泉の蒸気の中を歩く心地良さに匹敵します!」
グレアム達にお礼を言ってリーエンベルクに帰り、今年も伴侶な魔物がフレンチトーストを作ってくれた大満足の昼食を経て夕刻から始まった誕生日会の場で、ネアは、興奮気味に星浴びの劇場の良さを語った。
今年の乾杯は、今年からやっと市場に出たという杏のシュプリが振舞われ、ネアはきりりと冷えたシュプリグラスの中の琥珀色の液体に、最上のシュプリと最高の杏ジュースの組み合わせを見出し、すっかり気に入ってしまった。
決して高価なものではないが、杏の精の祝福が新鮮な最初の一週間が一番美味しいそうなので、取り寄せたばかりのボトルを開けるのはとても贅沢なのだ。
ただ、アルテアやウィリアムには物足りないようで、そちらは乾杯を終えると、強めの蒸留酒に切り替えている。
「成る程、体験型の劇場なのだな。噂は聞いていたが、そこまでのものなのか………」
「騎士達の中にも、定期的に通っている者達がおりますね。古くからある劇場だと聞いていましたので、あらためてどのようなものなのかと考えた事はありませんでしたが、一度訪れてみてもいいかもしれません」
「ラベンダー畑なら行くしかないかなぁ。ねぇ、三人で行こうよ」
「ウィームの施設なのだから、安息日は難しいな。執務の合間に…」
そのような理由でも、エーダリア達はこれまで星浴びの劇場に行けていなかったようだ。
ネアは、これをきっかけに知っていただきたいと厳かに頷き、素敵なお料理が並ぶ誕生日の会場を見回した。
ネア達がいるのは、リーエンベルクの小広間だ。
身内のお祝いなので、外部からの参加者はウィリアムとアルテアだけなのだが、リーエンベルクの料理人達は、ここ数年で賑やかなお祝いが増えたと喜んでくれる。
それは多分、家族が増えたということなのだろう。
リーエンベルクが領主館であるのと同時に、ここに暮らす家族の家になったのだ。
すっかり星浴びの劇場の話に夢中になっているエーダリア達を見て微笑み、ネアはこちらに来たばかりのウィリアムの方に向かう。
その隣では、たいへん険しい表情の選択の魔物が、心の憂いを払うかのように黙々と生牡蛎を食べていた。
ちょっと辛めのソースがジュレになってかかっていて、僅かな酸味が癖になる味わいである。
勿論、奥にはそんなアルテアの手作りの誕生日ケーキがあって、今年は薔薇と木苺のクリームの、中には贅沢に雪梨を使ったケーキなのだとか。
甘さ控えめの、口の中で蕩けるホワイトチョコレートのクリームで作られた薔薇がみっしりと載せられており、赤紫色のケーキは華やかだが上品な美しさだ。
今年は難しい材料は使っていないので、普通のケーキ台に乗せられていた。
「ウィリアムさん、今日は来てくださって有難うございます」
「ネアの誕生日なのに、来ない訳にはいかないからな」
「アルテアさんも、魔物さんに戻ってくれて良かったです。解術方法を教えてくれたグレアムさんには、感謝しかありません」
「……………いいか、あいつがおかしな仕掛けを残しておかなければ、そもそも起こらなかった事だからな?」
「あら、アルテアさんが簡易版の通路を作らなければ、そんな事にはならなかったそうですよ?」
「うーん、グレアムは余程あの呪いを気に入っていたんだな。アルテア、呪い除けの魔術を敷かなかったんですか?」
「呪い除けは準備しておいたが、今回は敢えて祝福の形で二重に罠をしかけていやがったな………」
今回は、リーエンベルクの一画に繋がる簡易通路なるものを作ろうとしていて呪いに触れたアルテアだが、事情を聞いたエーダリア達は特に問題視していなかったので、簡易版通路の建造は悪さというものではないようだ。
ディノから事情を聞いてアルテアを元に戻してくれたグレアムも、それなら仕方ないなと笑っていた通路とはどんなものなのだろう。
とは言え、リーエンベルクの建物への直接の魔術添付は不可能だと分かり、増設した転移門を経由しての通路作りとなるそうだ。
「………ふぁぐ。栗のおかずパイです!」
「わぁ、僕もこれ大好き!」
「ゼノ、もう一度の鮭の燻製のミルフィーユもありましたよ。なお、今夜のローストビーフ様のソースには、幸福の実と薔薇塩と檸檬のソースもありました」
「……………僕、そのソース食べてない」
「さっぱりしているのに旨味があって、とても美味しいのでお勧めです」
「行ってくるね!」
夕暮れになると、この季節のウィームはえもいわれぬ青さに染まる。
夏の終わりの夕闇や、秋の日の夕暮れとはまた違う。
雪と夕闇の青さと、夜の系譜の持つ祝福の色が空気を染めるのだが、そんな鮮やかな青を美しい装飾の一つとして扱い、ネアの誕生日の会場となる小さめの広間はシャンデリアの明かりを随分と落としてあった。
はらはらと降る雪は昼間よりも雪の輪郭をくっきりとさせ、部屋の壁にその影を落とす。
それはまるで、雪空を映す一枚の絵のようだった。
(この広間に立つと、まるで絵の中にいるかのよう………)
この広間には、王宮の広間を飾るにはいささか質の劣る雪結晶が敷き詰められている。
しかし、上等な乳白色の結晶ではなく僅かに灰色がかった色だからこそ、夕闇とシャンデリアの溜め息を吐きたくなるような美しい影が落ちるのだ。
この広間は以前は違う内装だったのではないかなと不思議に思っていたネアに、ヒルドは、リーエンベルクには一つの扉の向こうに重なり合う空間が幾つかあるのだと教えてくれた。
しんしんと降る雪の影と、床石に映るシャンデリアの煌めき。
リーエンベルクを訪れたことのある人外者達の記憶によると、今日の広間は、旧王朝時代からある広間であるらしい。
壁はつやつやとした夜結晶で、こちらも少しだけ階位を落とした淡い灰色にも見える菫色から紺色の石を使っている。
壮麗に飾り付けるべき広間に敢えてそのような装飾を選んだのは、この広間に枝を広げている一本の美しい木の為なのだそうだ。
「エーダリア様?」
思わず声をかけたのは、慈しみ深い微笑みを浮かべ、エーダリアが天蓋のようになっているその木を見上げていたからだ。
「………私がこの広間に入るのは、三回目なのだ。滅多に扉を開かず、ダリルが手元に残しておいた記録書にも、気難しい広間と記されているらしい。………そして、とても気に入っている広間の一つだ」
この広間にあるシャンデリアは、ネア達が見上げている木そのものだった。
結晶化した大きな木を広間いっぱいに配置し、幹の一部をくり抜き、その内側に星の祝福石を詰め込んである。
更に、特別な霧雨の鎖で繋いだ星屑を枝から吊り下げれば、それは特別な一本の木のシャンデリアになった。
普通のシャンデリアのように触れて操作出来る照明ではないが、魔術詠唱で明るさを調整するらしい。
尤も明るさを抑えた今の輝きでは、ぼうっと青白く光るくらいだろうか。
その煌めきが床石や壁に映り、あちこちに散らばらせる光の欠片が、この広間全体をきらきらと輝かせるのだ。
「何て綺麗なのでしょう。この木のシャンデリアを美しく見せる為の広間なのだと、見たばかりの私にも伝わる美しさです」
「ああ。………だが、この木自体は結晶化していても、そこまで階位の高いものではないのだ。それでもこの広間をと願った王族は、この木の為の広間こそを作ろうと思ったのだろう。その為に敷かれた魔術式なのだが…」
「むぐ。途中までとても素敵なお話でしたが、何やら行き先がおかしな事になってきました………」
「ネア様、こちらで引き取りますので、少し離れていて下さい」
「ヒルド…………」
魔術式について熱く語りたいエーダリアは、にっこり微笑んだヒルドに引き取られてゆき、ネアはお皿の上のローストビーフと、見たことのないクリームソースのお肉に取り掛かることにした。
(こ、これは……………!!)
もぐもぐしてあまりの美味しさに足踏みしていると、隣から呆れた溜め息が聞こえてくる。
「アルテアさん、こちらのお料理はいただきましたか?このソースがとても美味しいのですよ」
「コルフェツァータのクリームソースだ。葡萄酒を蒸留して作った酒だな」
「お酒の風味のクリームソースなのですね。胡椒がぴりりとしていて、このお肉との相性がびゃん!なのです」
「………またおかしな言葉を使い出したな」
「お口に入れた途端に、びゃん!と心が跳ねる美味しさですので、びゃんとしか言いようがないのでは………」
お肉はミディアムレアの程よい焼き加減で、胡椒の風味がぴりりとクリームソースの味わいを締めてくれる。
僅かなマスタードのような風味は、アルテアの口に肉を押し込めば、マスタードの祝福だけを移したバターが使われているのだと判明した。
それを聞いたネアはててっとディノの元に走ってゆき、ノアと密談中だった伴侶に美味しいお肉の到来を慌てて伝えた。
「ディノ、お肉様の新時代です!」
「…………どうしよう、ネアが可愛い………」
「わーお。ネアがシルを殺しそうだぞ」
「こ、このお肉とソースの、なんとどちらもが美味しいのです!食べてみて下さいね」
「ずるい、食べさせてくる………」
「それ、水棲棘牛だね。ヒルドが釣り上げて来たんだよ」
「まぁ、ヒルドさんが!水棲棘牛なのですね。………むぐ。このお肉そのものの美味しさも納得です!」
そんなネアの歓喜の足踏みに、はっと振り返ったのはゼノーシュだ。
慌てて隣のグラストを引っ張ると、水棲棘牛のクリームソースがけを食べに行っている。
そんな可愛いゼノーシュの姿も堪能しつつ、ネアは美味しいお肉をもぎゅもぎゅと噛み締めた。
「しゃわわせでふ!」
「殆ど言えてないからな?」
「むぐ?」
「ネアが可愛くてずるい……」
「うん、こりゃ確かに美味しいなぁ。ヒルドは流石だよね」
「ウィリアムさんも食べましたか?」
「はは、ネアのお勧めなら食べないとだな」
これはもう、仕事終わりの終焉の魔物にも食べさせなくてはとそうお勧めすると、こつこつと床を踏む音に合わせて軍服の白いケープが揺れる。
その裏地の真紅が灰色がかった白い床石に映る様が艶やかで、ネアは、そんな贅沢も楽しんだ。
何となく全員が水棲棘牛のクリームソースを楽しむ時間となり、乾杯の時と同じように輪になる。
贈り物の話をするには、うってつけであった。
「こんな美味しいお食事をいただいていると、ゼノとグラストさんからいただいたチケットを使うのがますます楽しみになります!」
「ネア、僕達の贈り物は凄いでしょ?」
「ええ。とびきりの贈り物を有難うございました。ディノと一緒に行ってきますね」
「うん。僕はお肉って言うよりもお菓子だから、このチケットはネアのだねって話になったの。一人一枚しか使えないんだよ」
「そのような宴があると、初めて知りました」
そう苦笑したグラストこそが、ネアが誕生日に貰ったチケットを最初に手に入れた人物だ。
食宴の夜というものがある。
これは、あらゆる種族の天才的な料理人達だけが集まり、無垢なる食通と呼ばれる、食べることを純粋に楽しむ者達を招待する宴なのだとか。
グラストは、任務の中で助けた古竜の賢者から、もう味付けの濃いものは食べられなくなったからと、肉の部と菓子の部の二組のチケットを貰い、そしてその一枚を、ネアの誕生日の贈り物にしてくれたのだ。
魔術の障りや呪いなどないかゼノーシュと共に調べた上で、アクスの検査にも出してくれているので、かなり手数料がかかったことだろう。
ネアからの砂風呂宿泊の贈り物が嬉しかったのでと、体験型の贈り物にしてくれたらしい。
「こんなに素敵なものを貰ってしまったことも勿論ですが、竜さんに気に入られたグラストさんがチケットを貰ったことが誇らしく、ゼノがチケットを譲ってくれたことも嬉しくて堪らないという、何度も美味しい素敵な贈り物なのですよ」
「……………あの竜は、飼ったら駄目なの。だって、孫がいるんだよ」
「ゼノ、お、お顔が……!!」
「ゼノーシュ、さすがに竜の賢者を飼ったりはしないから安心してくれ」
くすりと笑ってそう約束したグラストに、ゼノーシュはふすんと落ち着いたようだ。
可愛いクッキーモンスターがまた荒ぶってもいけないので、ネアは慌てて話題を変えることにする。
「そ、そして、騎士さん達からも素敵な贈り物をいただきました。今年は新婚さんなのでと、ディノと二人でのものにしてくれたのがとても嬉しかったのです」
「僕、それ聞かれたよ。シルが嫌がらないようなものかどうかってね」
「うん。風研ぎ竜の籠なら構わないよ」
「ふふ、クルツに乗れたのも楽しかったので、風研ぎ竜さんに運んで貰う籠に乗るのはきっと楽しいでしょうね」
ひょろりと長い水色の鱗を持つ風研ぎ竜は、とても穏やかな性質で、名前を完全に無視することになるが雲の系譜の竜であるらしい。
綺麗な雲を見るのが大好きで、籠に乗せたお客様によい風景を紹介してくれる優しい竜だ。
すらりとした体でにゅっと首を伸ばすので、風を研いでいるように見えるのだとか。
風研ぎ竜の籠は、とてもロマンティックな景色を見る乗り物として恋人達に大人気である。
生息数が少ないので順番待ちは必至となり、騎士達は随分と前から予約をしてくれていたようだ。
その日にはリーエンベルクの行事があるからとネアの日程を押さえたエーダリアも、騎士達の贈り物に噛んでいたのは間違いない。
「その竜も飼ったら駄目………」
「ぎゃ!ゼノのお顔が………!!」
なお、こちらも竜なのでこの場での言及は避けるが、ダナエとバーレンからは、お祝い便が届いた。
たっぷりとした青い布に包まれた贈り物は、開いてみたところ美味しいお茶を淹れる為の魔術書だったので、ネアよりもエーダリアが大喜びしてしまった。
お祝いをお祝いとするべく、エーダリアが、その魔術書で美味しい紅茶を淹れてくれるらしい。
お茶占いも出来るようなので、こちらも楽しみであった。
「ネア、俺からのものも渡しておこう」
「ふふ、有難うございます。まぁ、綺麗な箱ですね。泉水晶のようですが、裏側に模様が貼り込まれているのでしょうか………」
「泉水晶の箱の裏側に、模様を透かす為の飾り板を貼り付けるランシーンの西部の細工箱なんだ。あちらでは、贈り物を入れる為に使われる」
「……………ランシーンの西部だな?」
ネアが目を輝かせた小箱は、選択の魔物の心も動かしたようだ。
ウィリアムから土地を荒らさないようにと言い含められているが、間違いなく買い付けには行ってしまうだろう。
その箱を開けると、きらりと宝石めいた不思議な輝きを纏うリボンのようなものが収められていて、ネアは目を瞬く。
「とても綺麗な、白金色がかった淡い灰色のリボンです。これは、どうやって使うものなのですか?」
「……………わーお。絶対に腹黒いぞ」
「ノアベルト、少し部屋の外で話すか」
「え、絶対に行かないよね…………」
今年のウィリアムからの贈り物は、リボンをくるりと巻きつけたかのようになる、魔術仕掛けの腕輪であった。
指先で撫でると静かな雪の日に降る雪に触れるような音がして、ネアの手首にぴったりの大きさなのに、留め金などはついていないようだ。
どうやって身に付けるのかなと首を傾げていると、ゴムのようにぐいんと伸ばして付けようとすると、しゅるしゅるとリボンが広がり、手を通すと、またしゅるしゅると縮まって綺麗に巻き付く事が分かった。
締め付ける感じもなくふわりと肌に触れているくらいなのだが、これは装飾品でいいのだろうか。
「………おい。まさかとは思うが、お前の資質を切り出したものじゃないだろうな?」
「俺の守護を込めて紡いだ糸を、織り上げたリボンなのは間違いないですね」
「え、装飾品だよね?!」
「まぁ、腕輪なのです?」
「うーん、装飾品と言うよりは、守護の術符に近いだろうな。シルハーンにも相談して作ったものだから、安心して使ってくれ」
「……………ウィリアムなんて」
「おい、納得してないだろうが」
「おや、そのようなものでしたか。一部の妖精は求婚に腕輪を贈ることもあるので、少々驚きました」
ヒルドも覗き込んだリボンの腕輪は、装飾品と判断するには素朴なので、誰かから金目のものとして狙われることもなく、勿論終焉の守護をかけたものなので早々な事では切れない。
「グレアムが、魔術補助をしてくれたのだよね」
「ええ。彼の力を借りなければ作れなかったものなので、実質、俺とグレアムからの贈り物にもなりますね」
小さく笑い、ウィリアムは早速贈り物の使い方をネアに教えてくれた。
思っていた以上に頼もしい守護にふむふむと頷いていたネアは、ふと顔を上げると、ディノとウィリアム以外の者達の顔色が芳しくない事に気付く。
「これは、もし誰かが、私を標的として毒薬などの侵食系の魔術を敷いた場合、触れているところから魔術を感知し、邪悪な敵を滅ぼすものなのです!」
「え、待って。いきなり物騒なんだけれど………」
「まさか、問答無用で滅ぼすのか………」
「攻撃を受ける事が前提なのですが、術者をすぐさま滅ぼしますのでこちらの被害は最小限になるのだとか。犯人については可憐な乙女を狙った段階から万死に値しますので、滅びは受け入れて貰いましょうね」
「俺としては、攻撃の意図が見えたところでそうしたかったんだがな。グレアムとも話し合ったが、さすがにそれは難しいらしい」
ノアですら、敵の選別が出来ないものなのかと困惑していたようだが、ネアが水櫃に入れられた事件を切っ掛けに考えられた贈り物だと知るとそれならいいかなと苦笑していた。
今後は、身の危険を感じるような環境に置かれた場合は、すぐさまこのリボンの腕輪を身に付けておく事になる。
隠しておきたい場合は、足首などにもつけられるが、より早く魔術の侵食を感知出来る場所に付けるのが最も効率的なのだそうだ。
「そう言えば、アルテアからは何を貰ったんだい?」
「あら、ディノにはまだお話ししていませんでした?アルテアさんからは、先ほど新しい手帳を貰ったのですよ。ずっと使っている私の手帳が少しへたってきていたので、記録をしたためた頁をそのまま引き継ぎ、尚且つ新しい頁をこの薄さの中にたっぷり隠しているのだとか」
ネアがこちらの贈り物も自慢せねばと、先程貰ったばかりの紙箱を開けると、そこには肌に吸い付くような手触りが素晴らしい革の装丁の薄い手帳がある。
ネアのこれまでの手帳も充分に上等なものだったのだが、何かと事故に巻き込まれ易いネアが有事の際に酷使してきたせいで、綴じの部分が緩んできていた。
買い替えようかなと呟いていたネアの言葉を耳聡く聞いていたのが、この使い魔である。
革の装丁は僅かに青みのある白灰色で、虹色がかった銀白の箔押しの文字で、さり気なく守護の術式が記されている美しい手帳には、他にも様々な仕掛けがあった。
常に手元に置くものなので、この、様々な改良の加えられた新しい手帳は、受け取った瞬間からの運命的なお気に入りと言えよう。
「ありゃ。思っていたより地味な贈り物だなぁ。僕としては、そろそろ別宅の家具かなと思っていたんだけど……………」
「おや、とは言え身に付けるものに等しいものですからね。そのような方面で考えられたのでは?」
「ネアが、アルテアを持ってる………」
「ディノ?確かに、アルテアさんからの魔術地図掲示板がありますが、流石に使い魔さんの欠片のような、猟奇的なものは使われていませんよ?」
「……………ネア、ちょっとお兄ちゃんにその手帳を見せてくれるかい?」
とても真剣にそう言われ、ネアが手帳を差し出すと、ノアとウィリアム、そしてエーダリアとヒルドも真剣な面持ちで覗き込んでいる。
グラストはそんな様子を少しだけ困ったような優しい目で見ていて、ゼノーシュは殻を容れ物にしたとろとろ半熟卵の上に、香草バターソースを絞り器できゅっと乗せたものをぱくぱくと食べている。
「………ノアベルト、勝手に情報を漁るなよ。お前にくれてやったものじゃないんだぞ」
「え、近隣諸国の危険情報が、これでもかと書かれてるんだけど………!!」
「こいつのことだ。どうせまた、妙な事故を起こすだろうからな。ある程度新しい各国の情報を渡しておかないと、何をしでかすか分からないだろうが」
「なぬ。素敵な世界地図が、なぜに事故前提なのでしょう。これは、異国の美味しいものを食べに行く際に、現地の情報の把握に使いますね」
「やれやれだな。情報だけを過信して、安易に出歩くなよ」
「ふふ、勿論です。アルテアさん、素敵な手帳を有難うございました」
この地図情報は、アルテアが仕事で使っているものなのだそうだ。
アルテアの部下達が収集し共有している情報が集められており、こっそり横流ししてくれているので、この場の者達以外には他言無用の秘密の贈り物となる。
アクス商会が定期発刊している新聞からの情報も追記されるらしく、世界情勢と言うには飛び飛びの情報だが、記された情報はどれも、かなり精度の高いものと言えよう。
なお、現在ガーウィンの北西部には、はぐれカワセミが出現して村を襲っているらしい。
この場合は、ネアにとっては渡航可能な範囲なので、警戒をする必要はなさそうだ。
「なお、こちらの頁には、私が食べようとしかねないものの、食べてはいけないもののリストもあるのです。………まぁ、月影の宝石苺というものがあるのですね。じゅるり………」
「…………おい、ここに記したものは食うなと言わなかったか?」
「まぁ、きのせいですよ。たべようとはしておりません」
いよいよ、最後の贈り物の発表となった。
ネアは、目が合うと微笑みかけてくれたノアに、そしてこちらを見て頷いたエーダリアとヒルドに、どんなものを貰えるのかなと期待を高める。
三人で用意してくれたものとなると、きっと素敵なものに違いない。
「私達からの贈り物だ。元々考えていたものと、その後で考えたものを一つにしてある」
そう言ったエーダリアがごとんと魔術で取り出したのは、大きな布をかけてあるものの、明らかに椅子のようなものだった。
はっと息を飲んだネアは、微笑んだヒルドが布を取り払うまで、思わず息を止めてしまう。
「……………まぁ。この椅子は!」
現れたのは、季節の駅でエーダリアが夢中になっていたタージュの家具工房の椅子としか思えないものだった。
「もしかして、タージュの椅子なのでしょうか?」
「ああ。既存のものに、注文でこちらの指定した布を貼らせて貰ったものだ。こちらには使い魔台がついているので、ディノは、………そのだな」
「シルは、ムグリスになってそこに収まると、ネアが読書に夢中の時でも凄く近いからね。貼ってある布地は、何かっていうのは秘密だけど他の贈り物を作る為にヒルドがリーエンベルクの飾り木から紡いだ糸で、僕が魔術の守護を図案にして織り上げたものなんだ」
「この素敵な白緑色と淡い水色の花柄は、飾り木から紡いだ糸だからなのですね!ノアに、こんなに素敵な織物が出来るなんて知りませんでした!」
「…………え、ええと、途中でヒルドやエーダリアにも手伝って貰ったかな」
もそもそとそう告白したノアに、ネアはくすりと微笑む。
だとしても、この椅子は三人の家族がネアの為に試行錯誤して贈ってくれた素敵な贈り物である。
ずっと欲しかったものを貰うのも素敵だが、自分では諦めたものをこうして贈られる喜びもまた、格別であった。
完全なオーダーメイドではないがネアにはそれで充分だし、肘置きの部分が幅広で、読書にも適した素晴らしい椅子だ。
背もたれは少し内巻きになっていて、ふかふかだが柔らかすぎないクッションは蕩けるような座り心地を約束してくれる。
顔の左側のところには、外付けで買い足すタイプの使い魔台があるのが、何とも行き届いた椅子ではないか。
読書をしながら首を少し傾けるだけで、ムグリスディノに頬ずり出来るようになっているのだ。
「まぁ、これでグレアムさんとギードさんの連名でいただいた新しい本を、万全の状態で楽しく読めますね」
「本なんて………」
「ディノがここにいてくれたら、私が本を読んでいてもずっと一緒ですね?」
「ずるい………」
「わーお。なんの本貰ったのさ?」
「塩の魔物の転落理由の、待望の新作です!」
「え、待って!!それってまだ続くの?!もう僕は充分に転落したよ?!」
「ひょんなことから少しだけ持ち直し、けれどもまた転落してしまうのですから運命とは数奇なものですねぇ」
「………あなたは、その作者にどれだけの事をしたのでしょうね」
「ヒルド、僕も今、それを考えていたんだよね………。誰が書いてるのか、死ぬまでには分かるかな……」
グレアムは特別な伝手があるらしく、ネアが貰った新刊は年始の発売になるらしい。
一足早く読める喜びに、ネアは新しい読書椅子をそっと撫でた。
「この椅子を別宅に置いて、湖を眺めながら本を読もうと思います」
指先で、そっと真珠の首飾りを撫でる。
イブメリアから立て続けのお祝いとなったが、どれもが負けない輝きを放つような素晴らしいものばかりで、ネアは素敵な贈り物の全てを抱き締めてしまいたいような、ふくふくとした充足感に頬を緩める。
「……………ケーキ様は」
「ったく。少し待っていろ」
「わぁい、ケーキだ」
待望のケーキも登場し、ネアは美味しさに弾まされながら、すぐにふた切れ目を所望して使い魔を呆れさせた。
「むぐ。……薔薇の香りが上品で、木苺ととても合うのです!中の雪梨も甘酸っぱくて爽やかで、おまけにスポンジケーキの部分がこんなに美味しいだなんて………」
美味しいケーキも食べ終えてしまい、美味しい紅茶も飲み、満ち足りた気持ちでいたネアは、すっと翳った視界に視線を持ち上げる。
「ネア、持ち上げるぞ」
「……………ほわ。振り回し」
微笑んでそう言ったウィリアムに、ネアは、そう言えばまだその行事を済ませていなかったことを思い出した。
ひょいと持ち上げられてふるふるしていると、ウィリアムは、しっかりと抱き上げたネアをぶんと振り回してしまう。
「ぎゃふ?!」
勿論、体はしっかり支えてくれているのだが、それでもウィリアムの振り回しは力強い。
ダンスのターンはとてもふんわりしているので、このようになると別規格なのだろう。
「誕生日おめでとう、ネア」
目を瞠ってふるふるしているネアに口づけを落とすと、ウィリアムがにっこり微笑んだ。
こちらを見た白金色の瞳の鮮やかさに、揺れ落ちた軍服の白いケープ。
守護がなければ手が捥げたかもしれない勢いだったが、こんなに綺麗な特等の魔物にお祝いされているのだという贅沢さに徐々に心が柔らかくなってきたところで、ネアは背後からまたしても特等の魔物に捕縛された。
「仕方がないな。やってやる」
「むぐる!なぜこちらからお願いした感じなのだ!!私は美味しいケーキで充分で………みぎゃ?!」
今年の振り回しは、ノアがくるくるでウィリアムがぶんぶんであれば、アルテアのものはくるくるくるというつむじ風のように鋭く早い回転だった。
昨年はちっとも怖くない振り回しだったので、油断していた人間は声を上げる間も無くくるくるされてしまう。
おまけに、ぴたっと止まったところで気を緩めてしまったネアは、その直後にぽーんと投げられてから受け止められ、目を丸くしたまま、ぱくぱくと口を動かすしかなかった。
「まわ、………みゃわ、………回り過ぎです!遠心力でお腹の中身が分離したらどうしてくれるのだ!!」
「やれやれだな」
ふっと笑ったアルテアに落とされた口づけには、どこか魔物らしい凄艶さと、奇妙で甘やかな諦観と。
その温度を感じつつ、この魔物は今暫くは森に帰らないかなと考えていたネアは、ふと広間の片隅に目をやり、そのままぴしりと固まった。
「……………ぐるる」
「ったく、祝い事の風習なんだろ。感謝こそすれ、唸られる謂れはないぞ」
その唸り声を、使い魔は自分に向けられたものだと誤解していたようだが、ネアは、思わぬ振り回しにふらついていた体がしゃんとすると、標的に向けてしゅばっと駆け出した。
背後で、誰かがあっと声を上げているが、さっと身を屈めて床の上をよちよち歩いていたものを掴み上げ、今度はバルコニーの方に走ると、掴んでいたものをぺいっと投げ捨てる。
そして、男前に手の甲で額の汗を拭った。
「………ふぅ!これで安心です!!」
「ご主人様が逃げた………」
「ディノ、昨年の我々を苦しめた三角のやつは、窓からぽいしましたからね!」
「え…………」
「ありゃ。祝いクラッカーの精霊だったのかな?でも、祝福の系譜のものって捨てていいんだっけ?」
「なぬ。あの苦しみを味わうのは一度で充分なのだ………」
とは言え、捨ててしまっても荒ぶらないのかどうかを確認する必要があると、バルコニーの扉を開けてノアとアルテアが確認することになった。
本日の主賓に掴まれたことで、万全のお祝い態勢を整えていた三角の生き物が、扉を開けた途端に何をしたのかは語らずとも良いだろう。
扉を開けた魔物達はとてもお祝いされてしまったが、心に多少の傷は残したにせよ、祝福には違いないので大きな問題にはならなかった。
なお、ゼノーシュとグラストは、祝いクラッカーの精霊は少しも怖くないのだそうだ。




