115. イブメリアに盗みます(本編)
歌劇場の中には、白薔薇が咲き誇っていた。
見事な彫刻のある壁を這い、花びらをみっしりと詰まらせたふっくらとした花を咲かせた薔薇は、葉先が結晶化しかけているくらいなので、どれだけの祝福が結ばれているものか。
屋内なのに積もった雪と、その表面にきらきらと輝く祝福結晶の白は青白い美しさで、白薔薇に宿る色はほんの僅かなラベンダー色。
それぞれに純白なのだが、色相が違うことで互いを沈めてしまうことはない。
淡い淡い色が重なり合い、そのえもいわれぬ美しさにネアはほうっと溜め息を吐く。
さわさわと天井画に映るのは森の枝葉の影なのだが、どこにも木の枝はないようだ。
昨年に敷いて評判が良かったらしいその魔術は、今年は大シャンデリアを中心に複雑に絡み合っており、よく見ればまるでイブメリアのリースのような形になっている。
天井の地に描かれた天井画の中のモチーフの幾つかが、まるでリースの中の赤い実に見えるのだから、実に巧みな演出といえよう。
ネアは、全ての美しさに打ちのめされ、コートを脱ぐのも忘れて両手で胸を押さえた。
「……………ふぁぐ!」
歌劇場の中には、沢山の人達がいた。
ご婦人達の色とりどりのドレスが、雪の中咲く花のよう。
見渡した劇場の美しさに溜め息を吐いたネアを、なぜかアルテアは呆れたように見ている。
なぜそんな目で見られるのだろうと首を傾げたネアは、あらためてロージェの中の素晴らしさにも気付いた。
ロージェの前面だけに積もらせてある雪は表面がきらきらと虹色に煌めき、オレガノに似た植物が生い茂り、アクアマリンのような結晶石になっている。
咲いている花は、小さな水色のものだ。
ネアはここで漸くコートを脱ぎ、いそいそとロージェの中にあるコートかけに持っていこうとしたが、そこは、アルテアがさっと受け取ってコートかけ作業を引き取ってくれる。
普通のロージェであれば案内した劇場の係員がやるのだろうが、高位の魔物達の気質を理解しているものか、予め誰かが断っておいたのか、支配人はここまで踏み込まない。
なお、アルテアは、ネアがおざなりにコートをかけ、袖がくしゃっとなっているのを発見して以来、その作業を引き取るようになった。
「ネアの為にあるようなドレスだな。この季節のウィームを思わせる」
「ふふ、ウィリアムさんに褒めて貰えました!このドレスは、ディノが、私の大好きで大好きな静かな雪の日の雰囲気で頼んでくれたものなのです」
「ああ、それでだったんだな。よく似合っている」
「雪の日なんて………」
「なぜ今更そこに荒ぶったのだ……………」
ウィリアムからお気に入りのドレスを褒めて貰い、ネアはふんすと胸を張った。
アルテアも褒めてくれるかなと思えば、首飾りの後ろ側につけられた薔薇の形の繋ぎ石の角度を几帳面に直しているようだ。
首筋をもしゃもしゃされ、ネアは可憐な乙女を褒めるのが先ではないかと眉を寄せた。
「ドレスは………」
「なんだ?褒めて欲しいのか?」
「そろそろ、素直に世界で一番だと褒めてくれてもいいのですよ?」
「ほお、大きく出たな?」
「この特別に素敵なドレスだけでも世界の一位相当になってしまうので、当然の結果ですね」
「……………なんだその手は」
「褒めてしまいたくなっている筈なので、恐らくはパイなどを献上してくれるのでしょう?」
「何でだよ」
そんなアルテアは、今年はぐっと禁欲的に漆黒の燕尾服に白いシャツとクラヴァットだけにしている。
胸ポケットには白いハンカチを覗かせ、唯一の装飾品は誕生日に贈った指貫だけのようだ。
華やかで仄暗い美貌だからこそ、その抑えた装いが却って艶やかに見える。
迷子防止の靴も履いてくれているので、ネアは贈り物を大事にする使い魔であると頷いた。
コートを脱ぎ、擬態を解いたディノが隣に座る。
今年は、先に到着して最奥の席に座っていたアルテアから順に、ディノ、ネア、ウィリアムの座り位置だ。
こうして並んで座ると、やはり竜寄りの体格のウィリアムの肢体はディノより少ししっかりとしている。
そして早々に、ネアの膝の上には三つ編みが乗せられていた。
「雪の吹き込み方を見ると、まるでここは、森に面したバルコニーのようです。それに、薔薇がこんなに沢山!!」
「……………お前は、食べ物に夢中で全く気付いていなかったがな」
「なんのことでしょう」
おかしな事を言う使い魔からつんと顔を逸らし、ネアは、しゅわしゅわと泡の立つシュプリのグラスを手に取った。
今年のシュプリは、約束と恩寵の音色で育てた、譜面のシュプリなのだそうだ。
ロゼのような色のシュプリは、黒スグリの香りは甘めだが、飲んでみると香りからは想像が出来ないくらいにきりりとした辛口で驚かされる。
祝祭の夜に触れた雪のような冷たさで、ネアは、すっかり気に入ってしまった。
ディノも気に入ったらしいが、アルテアは、百年ほど前に流行ったものの復刻版だなと呟いているので、あらためての驚きはなかったらしい。
ウィリアムは、同じメゾンで作っているミントの香りのシュプリがお気に入りだと教えてくれたので、いつかのお祝いで出せるよう、今度調べておこう。
「………ぷは!今年も、美味しいシュプリを飲んでこうしてロージェに居るだけで幸せになれてしまいますね」
「ネア、………ご褒美かい?」
「こうして腕を掴んだのは拘束ではなく、感動を分かち合おうとしての事です。一緒に幸福感に浸って欲しいので、逃げてはいけませんよ?」
「…………可愛い。捕まえてくる」
薔薇のロージェは、重たい花をつけて垂れ下がった薔薇の枝に、わざと少しだけ視界を遮らせることで、森の中で起こっていることを薔薇のバルコニーから覗いているような、秘密めいた感覚を与えてくれる作りのようだ。
昨年の演出が屋外なら、今年の演出は屋内からの鑑賞のようにしてあるのだと言えばいいのだろうか。
雪に散り風で吹き込んだように落ちている薔薇の花びらはどこか儚い美しさで、ネアは頬を緩めてそんな細やかな演出を楽しんだ。
はらはらと、歌劇場の中に魔術の雪が降る。
風に舞い散る白薔薇の花びらは、各ロージェをそれぞれの屋敷のバルコニーと見立て、その建物を覆う薔薇から舞い散っているようにしたのだろう。
歌劇場の中に降り積もった雪の上に散らばる不思議な光は、淡く淡く色づいたシャンデリアの結晶石が散らばらせる光の影が揺らめき、不思議で美しいオーロラの色を帯びていた。
(繊細な感じを出すために、シャンデリアの明かりを抑えてあるのかな…………)
劇場内の薄闇にこぼれる光の煌めきは、薔薇と雪をいっそうに美しく見せてくれる。
ネアは胸がいっぱいになってしまい、またグラスのシュプリをおいしく飲んだ。
「こんなに、白が沢山…………」
「実際には、淡い水色なのだろう。光の角度と、雪の魔術を使って白く見せているようだ。このロージェの床に落ちた花びらだけは、本当に白いものだね」
「まぁ、淡い水色がこんな素敵な白薔薇に見えているのですね」
「この演出を毎年考えるのは、なかなか骨が折れるだろうな」
「ほぉ、今年の調香魔術師は、かなり腕がいいな。複雑な調香だが、わざとらしさがない」
「………むむ、イブメリアのリースの香りがします」
それを聞いてくんくんしたネアは、ふくよかで清しいイブメリアの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
深い深い森の香りと雪の香りに、どこかの家に飾られたリースから風に乗って届いたような微かな甘い香り。
そこに、微かに重なるオレンジとラベンダーのような香りは、主人公となる少女の香りだろうか。
ネアは、貧しいながらも丁寧に暮らしている主人公が、自分で作ったクリームを冷たくなった手に塗っている姿を何となく想像してしまった。
これはもう始まってしまうと焦り、ネアは慌てて背筋を伸ばした。
程なくして、ゴーンゴーンという開幕の合図の鐘の音が聞こえてくると、今年は、視界が目眩で暗転するかのように劇場内が暗くなる。
(まるで、物語の中に落ちるみたいだ………)
昨年までの、ゆっくりと明かりを落とす効果とはまた違う。
瞬きの後に、ああここは森の中だったと思わせてしまうような暗転の技量は、流石の王立歌劇場であった。
「……………!!」
そうして聞こえてきた歌声に、ネアはしゃきんと背筋を伸ばし直した。
儚げだが芯が強く、凛としているのに甘い歌声は、まさにこの役柄に打ってつけと言えよう。
聞いた瞬間にこれはと思わせる巧さに、評判の歌姫の素晴らしさは確かなのだと納得した。
興奮するあまり、隣の伴侶の手をぎゅっと掴んでしまったが、どうやらそれは反対側のウィリアムだったようだ。
いきなり手を握られてしまい、ぎょっとしたようにこちらを見た終焉の魔物に、ネアはあわあわとその手を離す。
ディノの手を探して反対側の手を彷徨わせると、ちらりとこちらを見たアルテアが、開演直後に騒ぎ立てるなと、どこか不機嫌そうな顔をしていたような気がした。
(確かこの歌姫さんは、歌劇場で働く楽団員の方と結婚されたばかりなのだとか………)
当初はまだ若い結婚に反対する者達もいたが、愛する人との暮らしに育てられた幸せは、彼女の歌声をいっそうに美しく澄み渡らせたという。
芸術家には不幸を糧とする者も多いが、彼女は幸福に育てられる感性を持っていたことが、幸福だったのだろう。
イブメリアの日に暗い森に追いやられ、孤独を噛み締めて雪深い夜の森を歩いていた少女が、不自然にぼうっと明るくなった場所を見付けて近付けば、そこでは人ならざるもの達の舞踏会が行われていた。
これまでは無礼にも高位のもの達の輪に迷い込んだ人間を訝しむ目や、招待状のないお客に僅かな怒りすら見せる者もいた場面だが、今年は期待の歌姫に合わせ演出を変えたようだ。
振り返り僅かに瞳を揺らした人外者達は、そこに、ひどく無防備で、例えようもなく心を震わせるものを見付けたのだろう。
その心が揺れてざわめいた瞬間を観客にしっかりと伝え、けれどもその揺らぎは、老獪な生き物達が綺麗に隠してしまったので、少女は気付かない。
にっこり微笑んだ春の王が、そこは寒いだろうと手招き、少女が舞踏会の輪の中に迎え入れられると、目には見えないような緊張の糸が張り詰めたように感じた。
春の王は勿論のこと、冬の王やそれ以外の者達も、この舞踏会に迷い込んでしまった少女に心を奪われ、自分こそが彼女を捕まえてしまおうとしているのだ。
では余興をとぴょこんと舞台に飛び出してきた赤い羽の妖精も、少女の歓心を買おうとしたのか見事な真紅の薔薇を差し出し、春の王にやんわりと窘められている。
「……………ふぁ、もう前半が終わってしまったのです?」
「…………そうだね。ネア、こちらにおいで」
「なぬ。なぜ椅子になろうとしているのでしょう?これからはお食事なので、私はここから動くつもりはありません!」
「……………そうか。お前の情緒は、確か空のまま
だったな」
「なぜ貶されているのかさっぱりですが、おのれ許すまじという気分です」
「……うーん、今年は随分と、…………くるな」
「……………ウィリアムさん?」
「はは、……………いや、気にしないでくれ。無垢さを摘み取ろうとする老獪な者達の描写が、かなり巧みだという話なんだ」
ネアはこてんと首を傾げたが、どこかひやりとするような危うい美しさをいっそうに強くした魔物達の姿に、舞台の演出に影響を受けたのだろうと考える。
「今夜の舞台は、狩りの高揚感や緊張感のような危うい雰囲気があったので、魔物さんの本能が刺激されてしまうのです?」
「………おい、よくそのまま口に出したな?」
「むぅ。今夜は素敵なイブメリアの夜なので、血生臭いやつは控えて下さいね。くれぐれも、他のお客様との戦闘行為も避けて下さい」
「…………成る程な、ネアはそう捉えるのか」
「ウィリアムさん?」
「こいつの情緒は、一向に増えないらしい」
「そろそろ怒りますよ!」
意地悪な使い魔を威嚇するべくネアががおうと唸ったところで、ふわりといい匂いが届いた。
ぴょむっと弾んだネアは、ぎくりとしたようなディノにしっかりと抱きしめられてしまう。
「まぁ、突然の甘えたですか?」
「………今は少し、刺激が強いかな」
「もしや、腹ペコ過ぎてお料理が待てないのでしょうか?」
「ネア………」
なぜかしょんぼりした魔物に首を傾げていると、こつこつと、その切れのいい響きも優美なノックが響き、ネアの大好きなザハのおじさま給仕が入ってきた。
「おや、もう少しお待ちしましょうか?」
「私の魔物は、ぐーぺこで荒ぶってしまったようなのです。どうか、このまま出していただけますか?」
「……………ネアが虐待する」
ディノに抱き締められたネアを見た本当は犠牲の魔物なおじさま給仕は、おやっと眉を持ち上げている。
ネアの説明を聞いてくすりと笑った眼差しは、頭を撫でて貰っているような柔らかさであった。
「……………今年は、鴨肉様は」
「今年の料理は楓鶉なのですが、事前にご相談を差し上げ、お二人のものは鴨にいたしました。もし楓鶉が気になるようでしたら、お連れ様から一口分けていただくと宜しいでしょう」
その言葉にディノがこくりと頷いたので、鴨の手配はディノお手柄でもあるらしい。
ネアは、楓鶉とは何だろうと思ったが、美味しいのかどうかを尋ねたところ、ぺらりとしてかさかさ動く赤い生き物であると聞いて慄いた。
美味しいのか以前に鶉とは何だろうという不安もあるので、謎生物のメニューに冒険心を向けられない人間は、鴨肉で良かったと思わざるを得ない。
「また、今年の料理には昨年のものによく似たものもございます。実は、昨年は少々力を入れて考えられたメニューでしたので、あの晩に歌劇場にいたお客様から、同じ料理をまた食べたいというご要望を多くいただきまして」
「まぁ、昨年のお料理はどれも美味しかったので、何があるのかなとわくわくしてしまいます」
まずは、コースの前の料理人からのご挨拶の一品だ。
大きな真紅の薔薇の花びらに、硬い燻製チーズを削りかけた、宝石めいた丸い粒が鎮座している。
「まずはご挨拶の、泡玉から。薄いシュプリの魔術の膜の中に、雪檸檬の果汁と薔薇塩を効かせた雪牛のチーズが入っております」
「………むぐ!こ、この美味しさは何なのでしょう」
「ったく、シュプリを変えてから食べろ」
「わたしに、これを我慢しろと言うのですか………?」
確かにグレアムの扮するおじさま給仕は、観劇中に飲んでいたものとは違う銘柄のシュプリを細長いグラスに注いでくれていた。
しかしネアは、未知の料理を前にそれを待つ事など出来なかったのだ。
「ディノ、これは凄いお料理です!魚卵のようにぷちりと食べると、中の美味しいものが口の中に溢れるんですよ」
「………中に、色々入っているのだね」
「チーズはとても新鮮な牛乳の味がして淡白めなのですが、そこに檸檬の酸味がしっかりとあって、お塩の塩っぽさとの相性が最高なのです」
たった一粒の美味しさだからこそ、とびきり美味しいと感じる組み合わせなのだろう。
例えばこれが、お皿いっぱいに乗せられてしまうと酸味や塩気が強過ぎる。
こちらはきちんと新しいシュプリの到着を待ってから、花びらの上の粒を食べたアルテアが、無言で目を瞠っている。
ウィリアムは、今回は普通のお花な薔薇の花びらごと食べてしまったようだが、それでもサラダのようで美味しいに違いない。
「ミモザ結晶のサラダは、香辛料の効いたトマトクリームのドレッシングでどうぞ。ウィーム伝統のコンソメスープには、花びらに見立てた雪鱒のクネルを。前菜のお皿は、魔術祝福で内側が暖かい氷歩き海老と冬野菜のゼリー寄せ。棘豚のパテに、月光鮭とオレンジの花盛りとなっております」
「ほわ、とげぶた………」
「今年もと声が上がったのは、花盛りとフォアーグフか」
「ええ。どちらも祝福料理ですので、イブメリアにお出しするのに相応しい料理ですね。花盛りは使う魚と果物を変えましたが、フォアーグフは全く同じものとさせていただきました」
「そのフォアーグフは、俺もまた食べたいと思っていたんだ」
「おや、では安心してお出し出来ますね」
「クリームブリュレのようなフォアーグフ様に、また会えるだなんて………」
ディノとウィリアムはフォアーグフ、アルテアは花盛りをそれぞれに気に入っていたようで、昨年の料理を踏襲した二品は、こちらの薔薇のロージェでも喜びと共に受け入れられた。
因みにフォアーグフはこちらの世界のフォアグラのようなものだが、フォアグラそのものも存在する。
代用品ではないのなら、食感も味も似ている両方が流通しているのはなぜだろうと考えてしまったが、これは、フォアグラの元になる誰かが胡椒の魔物と大喧嘩をしたことで、フォアグラだけだと調理に胡椒が使えないという原因からのものなのだそうだ。
ミモザ結晶は実際には結晶ではなく、味の濃いミモレットチーズのようなもののことである。
チーズの祝福を受けると製造過程でミモザの花のような形になるそうで、見栄えがいいのでよくお料理に使われていた。
「では、何かございましたらお呼び下さい」
「………は!ま、待って下さい!」
「これを君に。今年も………有難う」
退出しようとするおじさま給仕を慌てて呼び止め、ディノから渡して貰ったのはグレアムへのイブメリアの贈り物だ。
ふっと瞳を揺らし、こちらを見た眼差しには震えるような喜びと優しさが滲む。
「これは、…………宜しいのですか?」
「うん。この子と相談して決めたものだ。まだ、日付は変わっていないけれどね」
「今はお仕事中なので、終わってから開けて下さいね」
ネアの言葉にこくりと頷き、ザハの有能な給仕は深々とお辞儀をした。
ぱたんと扉が閉まってから、ネアはウィリアムとも顔を見合わせて微笑み合う。
(今年の贈り物は、お部屋で使える膝掛けにしたのだ)
贈り物の小箱の中には、魔術で圧縮した火織りの素敵な織物膝掛けが入っている。
リノアールでグレアムを思わせる美しい白灰色のものを見付け、ディノと一緒に、これにしようと決めたものだ。
購入時に、疲労軽減などの魔術の付与も追加購入し、のんびりと過ごす冬の夜のお供に仕上がっている。
「そして、鴨肉様です!これは…」
「ネア、弾むのは危ないからね」
「解せぬ。なぜ拘束されたのだ」
鴨肉はほんの一瞬でお口の中に消え、ウィリアムから一口貰った楓鶉はとても美味しかったが、鶏要素は皆無の殆ど海老であると言わざるをえないものであった。
小さなデザートは、観劇中なので重たくなり過ぎないようにという心遣いの見える、とろとろの桃のスープである。
新鮮な桃が入っていて、美味しいだけではなくとろりとしたスープとの食感の対比が楽しい。
ネアは少しだけ警戒しながら最初の一口をいただき、ちびころにならない事を確認してから、がつがつといただいた。
美味しい時間を経て舞踏会に招かれた者達の余興が終われば、歌劇は後半へと向かう。
(今年の贈り物交換は、明日の朝にみんなで行う事になった)
ウィリアムとアルテアが明日の朝食に参加出来るからなのだが、みんなでわいわいとしながらの贈り物の交換はきっと楽しいだろう。
ディノとの交換は、帰り道の馬車の中で行う予定である。
そしていよいよ、後半の幕が開いた。
結ばれた心が色づいて花開き、冷たく凍えていた森は艶やかに晴れやかに染め替えられる。
観客席に舞い散る花びらは綺麗な水色で、成就と歓喜の歌声の中ではらはらと舞い落ちた。
今年の舞台は、男女の駆け引きに加え、人間と人外者の駆け引きが主軸となる。
祝祭の救済と恩寵の物語ながらも、人ならざるものに見初められる異種婚姻の危うさや、恋愛模様などの要素が強めの演出になっているのだろう。
少女が春の王に恋をする裏側で、人外者達は誰がこの特別な獲物を手に入れるかを争い続けた。
ふとした折に背後に伸びる影がばらばらになり、優しい目をして微笑んでいた王達は、少女が見ていない隙には、ぞくりとするような人ならざるものの鋭さを垣間見せた。
(……………なんて魅力的で、何て美しくて恐ろしいのだろう)
でもこれもまた、この演目の中に常にある現実なのだ。
ネアのように人ならざる者達の仄暗さを美しいと思うのか、それをただ恐ろしいと思うのかで大きく評価の変わる舞台なのかもしれない。
ウィームだからこそと、言えなくもなかった。
今年の舞台の春の王は、穏やかにゆったりと微笑む高貴な美しい男性で、けれども、少女が見ていないところでは、彼女に想いを告げようとした精霊をばらばらに引き裂いてしまっていた。
対する冬の王は、残忍で享楽的な男性として演じられていたが、お気に入りの少女に対する愛情は細やかで深い。
物静かだがしたたかな秋の王や、豪胆で我儘だが涙もろい夏の王も含め、全ての人外者達が美しく恐ろしい。
少女は春の王を選びその指輪を貰うが、今年の舞台では、冬の王はひっそりと立ち去ったりはしない。
まだまだ、他の指が空いているしなぁと酷薄に微笑んだ凄艶さに、何人かのご婦人達がくらりとしてしまったのか体を傾けていた。
だからこそ、最後の大団円の華やかな場面には孤独さは微塵もなく、選ばれなかった人外者達もどこかしたたかな目をして笑う。
少女の得た幸せは穏やかなものばかりにはならないだろうという不穏さを残しながらも、それぞれの配役の魅力に引き込まれ、面白かったと力一杯断言出来る舞台であった。
「イブメリアの夜に!」
「イブメリアに祝福を!!」
わあっと歓声が上がり、歌劇場の中は歓喜と興奮に包まれる。
ゴーンゴーンと、日付が変わりイブメリアになったことを知らせる鐘の音が響けば、降りしきる花びらが更に増えた。
(あ、…………)
ネアは、そそくさと会場を出ようとしているお客の中に、バンルの赤い髪を見付けてくすりと微笑む。
きっとこれから、イブメリアになったばかりの時間を労う、リーエンベルク主導の短い祝祭式典に向かうのだろう。
幕が引かれると、またくらりと会場の照度が変わり、シャンデリアの明るい光に、舞い散る花びらが一斉に淡い金色を宿したように煌めく。
人々は夢から醒めたように瞳を煌めかせ、手にグラスを持ち、訪れたばかりの祝祭を祝った。
乾杯の合図にネア達もグラスを持ち上げれば、シュプリの泡が立ち昇るグラスは、祝福にしゃりんと鈴の音のような澄んだ音を立てた。
唇をつけて、潤沢な魔術のおかげできりりと冷えたままのシュプリを一口飲み、ネアはその美味しさと薔薇の花びらの雨の降る歌劇場を幸せな思いで眺める。
ふは、と吐き出した吐息に、隣に立っていた魔物がこちらを見た。
どこか悩ましげに細められた瞳は、内側から光るようで思わず魅入られてしまいそうになる。
「今夜の舞台も気に入ったようだね?」
「はい、とても面白かったです!うっとり感動するという感じだった去年のものに対し、今年の舞台はわくわくどきどきしました!」
「今年は、カーライルという人間が脚本を手がけたらしい。少し前に、王都で爆発的な人気となった舞台を手がけた人間だな」
「まぁ、ウィリアムさんは詳しいのですね」
「その男とは、何度か偶然行き合って酒場で飲んだことがあるんだ。少し変わった男だが、作品はいつも面白い」
「前に、お前達がシュタルトのホテルに泊まっていた日に、朝食の席にいたぞ」
「なぬ。アルテアさんがいた時となると、……」
死者の国に落ちてしまった日のことであると聞き、ネアは、そんな出来事もあったなと遠い目になった。
あの時は、ディノにあれこれと新しい経験させてあげるのを楽しもうとしていたのに、まさかの最初から波乱続きで悔しい思いをしたものだ。
ぐぬぬと眉を寄せていると、ふわりと誰かの腕の中に抱き込まれた。
「…………ディノ?」
「ここは、君が私の歌乞いになってくれた場所だからね」
首を傾げたネアに、ディノはどきりとしてしまう程に幸福そうに微笑む。
宝石のような真珠色の髪の美しさと、ゆったりとカーブする微笑みに浮かぶ、どこか男性的で満足げな微笑みに、ネアは胸の奥がおかしな音を立てた。
「去年のことでしたね。ウィリアムさんとアルテアさんがいてくれて、グレアムさんが素敵なシュプリをお祝いに出してくれました」
「うん。……君が、私に歌ってくれたんだ」
「これからもずっと、私はディノの歌乞いなのです」
「……………うん。君はずっと、私の歌乞いだ」
はらはらと、はらはらと、花びら雨の降る歌劇場で、ネアは、ふくふくとした幸せを噛み締めて微笑みを深める。
(昨年はまだ、心配な事が残っていたけれど…………)
それでも、あの夜の歌劇場の美しさは例えようがない。
人間はとても残酷な生き物なので、こんな風に素晴らしい夜を過ごしても、やはりあの特別な日に敵うような日はそうそうやって来ないと考えたりもする。
けれども、それでいいのだ。
これからのイブメリアの歌劇場での思い出は、何年も何回も重ねて積み上げてゆき、あの夜の輝かしさに並べてゆくことこそが楽しい。
幸せな幸せな祝祭の夜。
それは、ぱつんと切り捨ててこれでお終いとならずに、これからもゆっくりと重ねて大事に抱き締めてゆくものだからこその、恩寵なのだろう。
そんな思いに胸をいっぱいにしていたネアが、美しいイブメリアの夜に相応しくはない犯行に手を染めたのは、ほんの出来心からであった。
帰り際にこそこそしていたところ、とても目敏い使い魔に挙動不審に気付かれてしまったのだ。
「……………おい、その手を開いてみろ」
「わ、わたしはなにもぬすんでいません」
「ほお?それなら、手は開けるだろうな」
「……………気のせいです。今夜はなぜか、手をぎゅっとしておきたい気分なのです」
「ネア、何か………捕まえてしまったのかい?」
アルテアとの問答に気付かれ、ディノもこちらにやって来てしまう。
慌てたネアは盗んだものを隠し持っていた手を背中の後ろに隠そうとして、その為には一度持っているものが見えてしまうのだと絶望した。
「……………ぎゅわ」
「ん?ネア、どうしたんだ?」
「……………ウィリアムさんまで来てしまいました。絶望しかありません…………」
「ったく。手を開いてみろ」
「……………ふぇっく。…………はにゃびら」
恥ずかしさと後悔でくすんと鼻を鳴らし、ネアは、ひらりと舞い込んできたものをお土産にと、なぜか感傷的な気分で盗み出そうとしていた花びらを見せる。
なぜか魔物達が無言になったので、これはとても重たい罪になるのだろうか。
「……………おい、隠す必要があったのか?」
「ネア、………どうして隠してしまったんだい?」
「…………せっかくのイブメリアなのに、牢屋に入れられてしまいます?」
「牢屋に、………君をかい?」
「ふぁい。落ちてきた花びらを盗もうとしたのが、ばれてしまいました………」
またくすんと鼻を鳴らして項垂れると、魔物達が顔を見合わせるのが分かった。
ふるふるしながら、自分で盗んだものなのだが、手のひらの中の花びらを恨めしい思いで見つめていると、頭の上に誰かの手がそっと載せられる。
「……………ディノ」
「困ったご主人様だね。花びらを一枚持ち帰ったくらいで、誰が君を咎めるだろう。ほら、顔を上げてごらん。そのようなものなら、他のお客も持ち帰っているのではないかな?」
「………そうなのです?」
「ネアはきっと、入り口に、生えている薔薇の花を摘んだり、結晶石を引き剝がさないようにと書かれていた注意書きを読んで不安になったんだな」
「……………ふぁい」
「それくらいのことで、こそこそするな。紛らわしいだろうが」
「………むぐ。牢屋には行かなくていいのです?」
「貸してみろ。保存魔術をかけておいてやる」
「ふぐ」
ネアはとてもどきどきしたが、帰り際にウィリアムがさり気なく劇場の係員に花びらのことを尋ねてくれると、魔術で消えてしまわない花びらは舞い込んだ祝福なので、どうぞご自由にお持ち帰り下さいと言って貰え、ネアは胸を撫で下ろした。
その後、なぜか魔物達はとても優しくしてくれたので、目を離すと何をするか分からない欲求不満の危険な衝動を抱えた人間だと思われているのかもしれず、ネアはとても反省している。




