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送り火の魔物と美味しい罠 3




しんしんと雪が降り積もる。

先程まで歩いていた歩道は、もはや帰り道は橇なのではないかなと思わせるくらいに雪を積もらせ、ネア達は、パテ・ロランの屋台の前でアイザックと話をしていた。


はたはたと風に揺れるアイザックのコートに、ネアは、欲望の魔物が思ったより外的な影響を排除していないことに驚いた。



「成る程、送り火の捜索でいらしたのであれば良い情報をご提供出来そうですよ。グレイシアを連れ出したのは、恐らくニエークでしょう。彼は、とある事情から、イブメリアまでの季節をもう少し延ばしたいと話しておりましたから」

「……………なぬ。思っていたよりも、嫌な誘拐犯でした。ディノ、ニエークさんが犯人だった場合は、捕まえるのを手伝ってくれますか?」

「うん。でも、明日には捕まえられるのではないかな………」

「明日、なのですか?」

「……………雪が凄いからね」

「……………ほわ。これはもう、天災なのでは」


無事にお目当てを購入し、油の染みない紙に包んで貰ったパイを、さくさくはむはむと美味しく齧っていたネアは、目の前の光景に戦慄した。


いつの間にか、降り積もる雪は帰路を危うくする程の高さまでになっており、そろそろこの店の前から離脱した方がいいのではという様相になっている。


転移で帰れるネア達はまだいいが、この屋台の店主はどうするのだろうと慄いたネアは、思わずお店を振り返ってしまった。




「ははは、こりゃ参ったな。帰れるかな」



目があった店主はとても遠い目をしていたが、ひょいとそちらを覗き込んだアイザックと一緒に居た男性が、この後、自分達は湖畔の方に下りるのでそちらで良ければご一緒しますかと尋ねている。


にこにことした感じのいい青年で、アクス商会の幹部の女性の秘書なのだとか。


厄介な交渉案件の帰り道で、なぜかアイザックがこの店に寄るのだと強行したことを訝しんでいたので、ネアはこの美味しさであれば仕方あるまいと、厳かに諭しておいた。



(美味しい…………!!)



大雪情報はひとまず思考の端にどかしておき、ネアは目の前の喜びに集中した。

ハフハフと齧れば、パイはさくさくだが内側はお肉の脂分でしっとりとしていて、シンプルな塩胡椒と香草の味のお肉との組み合わせが堪らない。

素朴なミートパイのような味わいだが、葉脈模様を付けた葉っぱ型のパイも可愛く、何とも癖になる。


ぱらぱら崩れるし、唇にパイ生地がついてしまうので初回デートなどには向かない食べ物だが、幸いにもディノは、ネアがパイ生地を唇に付けてはぐはぐしていても気にしない魔物なのだ。


噛みしめるとじゅわっと溢れる肉汁でパイ生地が柔らかくなり、その部分がまた美味しい。

ネアは、素知らぬ顔で周囲のパイ生地を先にやっつけてしまい、パイ生地とお肉の一番美味しい部分を心置きなく堪能する禁じ手に出ていた。


淑女としてはなしだが、最後にパイ生地だけをさくさく食べるという悲しい顛末を迎えるつもりはない。

これでも、パイ食べの玄人としての誇りがあるのだ。


なお、小さめ一口パイを購入したディノは、一足先に食べ終わってしまっている。



「この様子では、雪窓の祝福を得るために、シュタルトの転移は閉鎖されているでしょうね。早めに宿を取ることをお勧めしますよ」


パイを頬張るネアに、そんな情報を伝えてくれたのはアイザックだ。

今は傘を閉じ、お店の軒先で、大きな雪片を降らせる空を見上げている。


「……………閉鎖?」

「ええ。シュタルトの中心部は、このような大雪になると、湖に雪窓の祝福を蓄える為にこの周囲を魔術的に閉じております。おや、ご存じではありませんでしたか?」

「……………はつみみです」



ネアはとても悲しい気持ちで魔物を振り返ったが、こちらを見て微笑んだディノは、これを食べたかったのだろうと首を傾げている。



「………ネア?」

「ディノはもしや、………本日中の帰宅と引き換えに、このお店に来てくれたのですか?」

「うん。それに、宿は取れると思うからね。この通りの後ろにある宿はどうだい?」



魔物は事もなげにそう言うが、ネアは、女性のお泊まりには必要なものがあれこれあるのだと眉を下げた。

冬場で多少かさかさしてもクリームすら塗らないネアであっても、一泊となれば持っておきたいものは沢山ある。

例えば、薔薇のバームやお気に入りのブラシなど、旅先でも素敵に楽しみたいものは幾らでもあるのだ。




(ましてや、シュタルトのあのお宿!!)



乳製品と葡萄とお魚の美味しいこの土地では、泊まるとなれば是非にお世話になりたい憧れの宿は沢山あるが、やはり、晩餐と朝食の美味しさは譲れないものであるし、出来れば窓から湖などが見えると素敵ではないか。


ディノが提案した宿は、その中でも最高峰のお宿の一つであった。



そこまでを考えてしまい、ネアははっとした。

これはお仕事中に交通機関の問題で帰れなくなったという状況であり、楽しんでいいものではないのだ。



「…………ふぁぐ。……………今夜のお宿に贅沢は言いませんが、出来れば隙間風などが吹き込まないところがいいです」

「ネア、せっかくだから君が気になっていたところに行ってみてはどうだい?」

「……………この後ろにある、ヒュッテシュタルトですか?!」

「うん。すぐ近くにあるからね」

「高価なお宿ですし、予約待ちのお宿だと聞いています。きっと空いていないのでは………」



憧れの宿に泊まれるかもしれないとひと弾みしてしまってから、ネアはぎくりとして動きを止めた。


すっかりその気になってしまったが、何度も言うが今はまだ仕事中なのだ。

帰宅困難者になったとは言え、リゾート地の最高級ホテルなどを目指してはならない。

体裁を気にする人間らしく、おずおずとそう呟いたネアに、魔物はなぜかふんわりと微笑んだ。



「空いていると思うよ?」

「……………む、……………むぐる」

「アイザック、君達は湖畔沿いの宿かい?」

「ええ。宿ではありませんが、アクスで所持している別荘がありますからね」

「おや、高台ではないのだね。景観よりも収穫を選んだあたり、実に君らしい」

「シュタルトの取引先は、あのあたりに集まっております。開店の様子を把握出来る立地こそ、アクスには有益ですから」



屋台の店主は最後のお客に軒先を貸しながら店仕舞いをし、鍵をかけている。

魔術施錠の場面に見知らぬ人たちを立ち会わせてしまう事になるが、一人でこの雪道を帰る方が危険だと判断したのだろう。



(つまり、………地元の人達がこれ程に警戒する程にこの雪の積もり方は危険だと言うこと………?)



「すみません、お待たせしました」

「いえいえ、美味しいパイのお礼みたいなものですし、こんな時は助け合いですよ」

「はは。甥っ子に、お前の上司は優しかったぞと自慢しましょう」


(あ、身内にアクス商会に勤めている人がいるのだわ…………)



であれば、ここにアイザック達が立ち寄ったのも頷ける。

そう考えはしたものの、実はネアには別の推理もあった。


だからだろうか。

優雅に一礼し、立ち去ろうとしたアイザックに、ネアはふとその問いかけを成してみたくなる。



「ところでアイザックさん、生のトマトは食べられますか?」



背中越しの問いかけに振り返った黒髪の魔物は、その問いかけの意味を理解しているように微笑み、胸に手を当てて一礼する。



「好んでいただきますよ。私にご興味が?」

「あら、人違いだったようです。そのような方を探していたので、ついお聞きしてしまいました。お引止めしてすみません」


くすりと微笑んだアイザックは、ではお先にと閉じていた傘をばさりと開くと、手袋に包まれた指先で雪の積もる歩道に魔術を展開した。


水切りをする小石のようにざあっと広がった青白い光に、積もりたてのふかふかの新雪の上にペイズリー柄のような複雑精緻な模様が浮かび上がった。



「………橋の魔術だね。さて、私達も行こうか」

「ディノ、お口の周りを拭うので少しだけ待って下さいね。そして、素晴らしいパイの味を教えてくれたご店主が、アイザックさん達に同行させて貰えて良かったです。あの方が遭難しないよう、手を打たなければと思っていましたが、これで安心ですね」



ネアは、手鏡を取り出し、口元を貰っておいた紙ナプキンで拭い、さっと前髪を手櫛で整えた。


憧れの宿は、小屋というような気安い名称とは裏腹に、元々は王族の秘密の別荘でもあった場所だ。

邸宅としてはかなり小さなものだが、その建物の造りは美しくとても手が込んでいるらしい。


小さな屋敷であることこそを売りにしたホテルの運営方針は、居心地の魔術を駆使した、丁寧に作られた秘密の隠れ家である。

それを聞いた時から、ネアは是非に一度泊まってみたいと考えていたのだ。



(ディノとシュタルトに泊まった時には、まだそのお宿を知らなかったから……)



いつか二人で訪れようと、そう思っていた場所であった。



「これでいいですか?」

「うん。ネアはいつも可愛いよ」

「とは言え、本当にもうリーエンベルクには帰れないのでしょうか?ディノでも転移出来ないのです?」

「この土地の閉鎖魔術を開けば、転移は出来るよ。けれど、君はそのようなことは望まないのだろう?」

「ふむ。………であれば致し方ありませんね。他に手段がないとなれば、あのお宿を訪ねるのも吝かではありません。後は、お部屋が空いているかどうかです!」

「ほら、あまり弾むと転んでしまうよ」


ネアは、伴侶な魔物にひょいと持ち上げられてしまい、この訪問方法は想定外であるとじたばたしかけたが、歩道の現状を目の当たりにしてぴたりと固まった。


歩き難いだろうなと思っていたのはほんの少し前なのに、先程からまた風景が一変しているではないか。


「……………これは、壁です。雪ではありません」

「ニエークかな…………… 」

「周囲のお宅は大丈夫でしょうか?つ、潰れてしまったり………」

「元より、シュタルトのこの辺りは、ウィーム中央よりも雪が深い年があるらしい。その対策として、防壁魔術で守られている土地だから大丈夫ではないかな」



シュタルトの雪の降り方は、その年によって違うのだそうだ。

ネアがこの世界に来てからのシュタルトは、寧ろ暖冬気味であったらしく、今年は久し振りに雪が深いのだそうだ。



「だから、湖水メゾンでも雪葡萄のジュースが作れる年と作れない年があるのですね………」



そう聞けば納得はするものの、目下の課題は目の前の行程である。

ネア達の前に立ち塞がるのは、雪の壁と言ってもいいくらいに積もった雪なのだ。


ネアは、屋台の軒下と坂道の上に向かう歩道との間には、白い壁があるのだと思い込んでいたが、それがなんと、全てパイを食べている間に積もった雪だと言うのだから驚きだ。



「魔術で道を作るから、少しだけ我慢しておいで」

「……………ふぁい。我々は、この壁に突撃するのでしょうか?」



恐らく魔物は、ネアを持ち上げたまま直進するつもりなのだろう。

降ったばかりの雪はまだふかふかだとしても、なかなか冷たい挑戦になりそうだと考えたネアは、気持ちを引き締める。

袖口をぎゅっと押さえたのは、そこから雪が入ると悲惨な目に遭うからだ。



けれども、ディノの展開した魔術は、目を瞠るようなものであった。



(……………え、)



何の躊躇いもなくその雪の壁に向かったディノの前で、積もったばかりの白い雪の壁がきらきらと光の粒子になって消えてゆく。


足元でディノの靴底がさくりと踏んだ雪の音は、恐らくこの雪が降り始める前に踏み固められたものだろう。


ディノにも、ディノが持ち上げているネアにも、そのどちらにも触れられず、きらきらと光の波が砕け散り、揺れさざめき、ネアはあまりにも美しく一方的な魔術の蹂躙を呆然と見ていた。


さあっと砕け散り光り落ちてゆく雪は、ただ万象の魔物が歩く為だけに、自ら滅び道を開けてゆくかのようだ。


周囲が見えない程に降り続ける雪の中を、ネア達は少しも濡れずに歩いてゆく。



そして、この積雪だとどれだけの時間がかかるのだろうと思っていたホテルまでの道のりを、魔物は、平坦な歩道を真っ直ぐに歩いてゆくのと大差ない時間で抜けてしまい、ネア達はこぢんまりとした一軒の邸宅の前に立った。


クリーム色の壁に、雪の多い土地らしく傾斜をつけた屋根はふくよかな緑色だ。

ネアは、雪除けの魔術で雪が入り込んでいない玄関前の屋根の下で無事に自立させて貰い、ディノがこつこつとドアノッカーを鳴らせば、すらりとした燕尾服のような装いの初老の女性が扉を開けてくれた。



このヒュッテシュタルトは、本来、お部屋がありますかと気軽に訪れられるようなランクの宿ではない。


なのでネアは、しゃんと伸びた背筋の美しい女性に、まずぺこりとお辞儀をして唐突な訪問を詫びてから、予約などはしていないのだが部屋が空いていないかどうかを尋ねた。

一人であれば怖気づいてしまうところだが、一目で高位の魔物だと分かるディノがいるからこその、落ち着きである。



「恐らく、一部屋空いているのではないかな」


ネアの言葉を引き取りそう続けたのはディノで、青灰色の髪色に擬態しているものの、高位の人外者である事は隠しようもない美貌に、その女性はなぜか得心気味に頷いた。



「ええ、ちょうど一部屋空いたところでございます。ようこそ、よくこの雪の中をおいで下さいました。中にご案内します。………リィキ!」



名前を呼ばれてやって来たのは、くるくると巻いた髪に羊角の初老の男性で、ネアはこの二人は夫婦なのだろうかと考えてしまう。

二人の容姿が似ている訳ではないのだが、身に纏う雰囲気がよく似ているのだ。


「ご案内いたします。お荷物などはございませんか?」

「いいえ。突然の宿泊となりましたので、寧ろ、こんな素敵なお宿に手ぶらで申し訳ないくらいです」



扉を開けると、そこは簡素な灰色のタイル貼りの玄関だった。


一瞬、裏口から入ってしまったのかなと思ったが、黒檀のような木材で作られた素敵なカウンターもあるので、こちらが正面で良いのだろう。

吹き抜けの天井から吊るされたシャンデリアは小ぶりで上品なもので、玄関ホールのようなものはなく、すぐに二階に上がる階段が見える。


おやっと思いかけたネアだったが、階段とは反対側に向かう扉の方を見て評価を保留にした。

シュタルトの街並みと湖の景色をエッチングのある湖水結晶の扉の向こうには、なかなか豪奢な部屋があるような気がしたので、元々、ひっそりのんびりと過ごす為に作られた屋敷は、さして玄関に力を入れていなかった可能性もある。



(………寧ろ、配達の人などの訪問に備えて、敢えて簡素に作っておいた可能性もあるのかも………?)



「それにしても、物凄い雪ですね……。シュタルトにこんなに雪が降ることは、知りませんでした」

「シュタルトは、何年かに一度は豪雪となるのですが、今日の雪は我々もひやりとする降り方でしたね。ただ、少し小降りになってきましたので、もうこれ以上はあまり積もらないと思います」

「それを聞いて安心しました。こちらには送り火の魔物さんを捜索に来ているのですが、明日も大雪だったらどうしようかと思っていたのです」

「帰りは恐らく、得るべきものをお持ち帰りになれますよ」


ネア達を部屋に案内してくれた男性からはそんな不思議な言葉を返されたが、その時にはもう、ネアにも僅かなりの予感があった。



(多分、……………誰かが考え、それを助けた人達のいる話だったのだ…………)



思えばディノは、グレイシアが二度目の脱走をしたと聞いても特に驚く様子はなかった。

よくよく思い返してみれば、ベージ達やアイザック達だけではない。

シュタルトに来てからすれ違った通行人達の中には、何人もの見知った顔が紛れていたような気がする。


ディノは、大聖堂と歌劇場の聞き取りを煩わしがる事はなかったが、その後のネアを実に巧妙にまずはシュタルトへと誘導していたと思うし、今日のネアには、グレイシアを見付けるという目的が達成出来ない割には、子熊捕獲の名誉を得られたり、葡萄酒を貰えたり素敵なパイのお店を知る事が出来たりと、幸運が続いているではないか。



これだけのウィーム中央の住人達がシュタルトに集っている事を思えば、導き出される結論は一つしかない。



(……………多分、このシュタルトでは、季節の舞踏会の会議版のような、人外者さん会合、もしくは会議的なものが行われている!!)



そう考えたネアはふんすと胸を張り、自分の鋭い推理を心の中で褒め称えた。


恐らくグレイシアはそこに参加しているのだが、人間達には秘密の会議なのだろう。

失踪している理由は明かせないが、捜索しているネアに対しての罪悪感のあるベージ達などがネアに葡萄酒をくれたり、アイザックの部下が屋台のご主人に同行したりと、さり気ないお詫びの優しさを振り撒いているに違いない。



(子熊さんも、きっと人外者さん達が集まっているのでお祭り気分で逃げ出してしまい、人外者さん達は、会議で忙しいので子熊さんを捕まえる余裕はなかったと思われる………)



何と穴のない推理だろうときりりとしたネアは、本日のお部屋に案内され、ふあっと息を吐いた。



「まぁ………!!」



正直なところ、入り口はおやっというくらいに簡素な作りだったのだが、それはこの館に隠れ家の趣きがあるからだったようだ。



案内された部屋は、それはそれは素晴らしかった。


決して華美ではない。

ローズウッドのような色合いの木材で統一された家具に、落ち着いた深い青色の絨毯。

カーテンはとろけるような艶のあるミントグリーンで、吊るされたシャンデリアはきらきらと輝く星屑と湖の結晶石のものだ。


どの家具も、木の枝を模した精緻な彫刻などは一部だけに施されており決して豪奢な造りではないが、その全ての技術が一級品だと分かる優美さは兼ね備えている。


飾り棚の上には陶器で出来た大きな薔薇の花籠が置かれていて、寝室に二つ並んだ寝台は広く、羽の様に軽いが熱を逃さずに温かいという布団もとても寝心地が良さそうだった。



「この雪ですから、窓はお開けになられませんよう。こちらのポットには、雪葡萄の紅茶と湖水珈琲、そして雪解け水が入っております。晩餐のお時間は、こちらからお選び下さい。苦手な食材などはおありになりますか?」



パイを食べたばかりなこともあり、ネアは一刻後の食事時間を指定し、苦手な食材はないと答えた。

このお宿は食事も美味しいと評判なので、今から楽しみでならない。

案の定、案内してくれたのは宿のご主人だったらしく、最初に扉を開けてくれたのが奥様なのだそうだ。



ネア達が宿を訪れるほんの少し前まで、本日は満室だったらしい。



この大雪を窓から見たひと組のお客が、どうやら後続の宿泊客がひと組増えそうだと、友人同士で別々に取っていた部屋を一部屋にまとめてくれたのだと教えて貰い、ネアは、その優しい誰かの選択に感謝した。



「エーダリア様には、今夜は戻れなくなってしまったとご連絡しました。そして、我々が公園にいたくらいの時間で、ベージさんからリーエンベルクにグレイシアさんらしき人物の目撃情報が入ったようです。あの時間であれば、グレイシアさんもシュタルトに足留めされている可能性は高そうですね!」

「……………うん。近くにいるのではないかな」

「宿のご主人が仰っていたように、明日には連行出来るといいのですが。………それと、少し気になっていたのですが、このシュタルトで行われている事にディノは参加しなくていいのですか?」

「……………ネア?」

「…………その、詳細は伏せたままにしておいてくれて良いのですが、ディノも、ここではなくあちら側に混ざりたいとは思いませんか?」



そう問いかけられた魔物はなぜかぴゃっとなってしまい、ネアをひしっと抱き締めて、ずっとご主人様の伴侶でいるとめそめそし始めてしまう。


ネアにはちょっと理由が読み解けなかったが、勿論伴侶であるのだと宥めておいた。



(…………会議より、一緒にこの仕事をしていたいのかな?)



そう考えて頷き、ネアは美しく居心地の良いお部屋を探検してしまうと、魅惑の革張りの長椅子にうっかり腰掛けてしまい、あまりの居心地の良さにそのまま椅子に住みたくなった。

この部屋は、普段の部屋とどれだけ雰囲気が違っても、まるで自分の部屋に帰ってきたような安らかな気持になるのだ。


「むぐ。………素敵な晩餐が待っているので、ここから立ち上がらなければなりません!」

「可愛い………」

「ぎゅむ?!なぜに椅子になろうとするのだ。ぎりぎりまではこの長椅子と触れ合っていたいのです」

「ネアが椅子に浮気する…………」

「解せぬ。なぜ荒ぶるのだ………」




晩餐の時間に階下に降りてゆくと、食堂には、シャンデリアではなく、テーブルごとに置かれた雪結晶の燭台に並んだ蝋燭に火が灯され、柔らかな光が溢れていた。


深緑色のテーブルクロスに、銀器と白磁の花籠の絵付けのお皿が並び、ネアは期待に高まる胸を押さえる。


人外者達のいる空間では珍しくぱちぱちと音を立てて暖炉の中で薪が燃えていたが、この暖炉は風景の移植をしたもので、中では炎の記憶石を燃やしているだけで実際には暖炉ではないのだそうだ。

前を通らせて貰ったところ、炎の記憶石はとても暖かく、実際に火にあたっているような心地良さである。



食堂のテーブルは七つで、そのどれもに宿泊客が座っていた。



勿論、ネアの推理を裏付けるようにそこには顔見知りの人外者の姿がある。

そしてその人物は、ネアに思いがけない喜びを齎した。



「ディノ、グレアムさんがいます!」

「おや、一緒にいるのはミカかな」

「まぁ、ミカさんにもご挨拶出来るのです?」



知り合いの姿を見付けてぱっと笑顔になったネアに、テーブルまでの案内をしてくれていたご主人が、おやっと振り返る。


用意された席はグレアムたちのテーブルの奥の席だったので、ネアは、背筋を伸ばしてちょっと澄まして席まで案内して貰うと、そのテーブルのところでこちらを見て微笑んだグレアムに笑顔で挨拶した。



「お部屋を空けて下さったのは、こちらのお客様なのですよ」


そう教えて貰い、ネアはますます嬉しくなった。

既にこのシュタルトで会議が行われている事は知っているので、ネア達がいる事にいち早く気付いたグレアムが、部屋を空けてくれたのだろうと考えたのだ。


それなら、なぜかディノが宿が空いていると断言していた謎も、合わせて解けるではないか。

きっと、ネアには分からないあの魔物通信で、こっそり宿情報などのやり取りをしてくれていたのだろう。



「まぁ、グレアムさん達のお陰で、私は憧れのお宿に泊まれたのですね」

「グレイシアを探しに、こちらに来ているという話を聞いていたんだが、同じ宿になれて良かった。シルハーン、外では……何か不作法はありませんでしたか?」

「なかったと思うよ。雪亀裂の妖精がいたくらいかな」

「…………成る程。高位の者達が多くなったことで、誘われて出てきてしまったようですね。お騒がせしました」



グレアムはいつものように優美な縫製のラインの美しい柔らかな白灰色の装いで、向かいの席に座ったミカは、紫がかった水色の髪がうっとりとするような配色になる貴族風の装いだ。

光の角度で灰色にも見える水色のシルクのドレスシャツのようなものに腰の位置が高めの黒いパンツ姿は、はっとするような艶やかさで長い髪に似合っている。


「外は大雪みたいだな」

「ミカさん達がいらっしゃったときは、大丈夫でしたか?」

「ああ。幸いにもまだそこまで降っていなかった」


そう微笑んだ真夜中の座の精霊王は、綺麗な琥珀色の食前酒を飲んでいるようだ。

まだ料理は運ばれてきていないので、ネア達と同じ時間の開始なのだろう。



(……………あ、グレアムさんも、多分ミカさんも、擬態をしていないのだわ)



そんな事に驚いてしまい、ネアはこの食堂の中を見回したい衝動をぐぐっと堪えた。

となると、知り合いを見付けてそちらに意識が向かってしまったが、この食堂内には他にも素敵な人外者がいる可能性があるのだろう。


しかし、淑女は他のお客をじろじろ見るような真似はしないので、ネアは興味津々なのを押し隠して席に着いた。



カトラリーの横に、綺麗な白いカードが置かれている。

ワンポイントで湖と竜の絵柄が入っていて、ネアは、これは持ち帰ろうと唇の端を持ち上げた。


「ディノ、こちらが本日のメニューみたいですよ」

「うん。…………あ、」

「ディノ?」



なぜか、テーブルに置かれた本日のメニューを見た魔物が狼狽えたので、ネアは眉を寄せた。

苦手な食材でもあったのだろうかとメニューに視線を戻せば、どこでディノが動揺したのかにすぐ気付いてしまう。


正面の席の魔物が怯えたようにふるふるしているが、サラダのところに記された、新鮮な雪トマトと棘雪牛の作りたてチーズとオリーブのサラダという文字は、今更変えようがない。


ディノが動揺しているということは、これを食べられない誰か、或いはこのメニューを頼んでいない誰かがこの場にいるのかもしれない。

ふっと冷たく微笑んだネアに、魔物はいっそうに震えているが、心に余裕の出来たネアは、敢えて何も言わずにその瞬間を待つことにした。



(でも、この場にグレイシアさんがいないということは、ここに脱走の共犯がいたとしても、グレイシアさんはもう、どこか別のところにいるということなのだろうか……………?)



少し心配は残るが、ネアのそんな考察もお料理が運ばれてくるまでであった。



前菜の前のアミューズは、小さなプチシューのようなものである。


綺麗な絵皿の上に鎮座したプチシューは、上にきらきらと光る水滴を乗せた黄色い花が乗っていて、美味しそうというよりも可愛い見た目であった。



「……………ふぁ!」


しかし、可愛いがここは一口でとぱくりといけば、上に乗ったお花は酸味のあるグレープフルーツのような味わいで、水滴に見えたものはコンソメのジュレを絞ってあったようだ。


プチシューは温かく、皮の部分はチーズ風味である。

中にはあつあつだが火傷をしない絶妙な温度のムースが入っていて、頬張るとしゅわっと溶けてしまったが、ネアは、鶏肉と野菜のとびきり美味しいやつであると結論付ける。




(……………ん?)



ここでネアはふと、食堂の中で震えているのが、向かいに座った伴侶な魔物だけではないことに気付いた。


左奥の席に座った蜂蜜色の髪の男性が、なぜかとても怯えている。

そちらの奥に立派な飾り木があるのでちらちら見ていると、その男性がどうしても視線上に乗ってしまい、気付いたのだ。



(怪しい…………!)


なぜこちらを気にしていてなぜそんなに怯えてしまうのかが気になるところだが、ネアは、ここは美味しい料理に集中させていただき、トマト審問を経て、必要があれば食後のお茶の後で締め上げることにした。



しかしネアはその後、たいへんな混乱に見舞われ、そのお客のことをすっかり失念してしまうことになる。



「火を通していないトマトがあまり得意ではないとお聞きしましたので、雪追い草の実を薄く切ったものに変えさせていただきました。しゃくしゃくとした歯触りで、こちらもチーズに合って美味しいですよ」

「ああ、手間をかけさせてすまないな」



柔らかなピアノ音楽と、ディノとのお喋りの隙間で聞こえてきたそんなやり取りにぴっとなったところで、ネアは、犯人の所在を明らかにする会話が、なぜかお向かいのテーブルで行われていることに眉を寄せた。


しかしそのテーブルにはグレアムとミカしか座っていないし、今のやり取りは明らかにグレアムの声だったような気がする。



(まさか……………)



静かに顔を上げると、ディノがとてもおろおろしていたので、ネアは、シュタルトの食堂でグレイシアと食事をしていたという男性を、とうとう見付けたことを知った。



(そう言えば、ディノへの質問の感じも、まるで主催者の言葉のようだった……………)




となると、グレイシアも参加しなければならなかった会議か会合は、グレアムの主催なのだろうか。

それならば、リーエンベルクとも浅からぬ仲なのだし、隠さずに最初から伝えておいてくれれば、安心して迎えに行くだけで済んだと言わざるを得ない。



ネアが、この世界は裏切りに満ちているという悲しい目でディノの瞳を見つめると、水紺色の瞳を揺らした魔物は、鴨のローストをひと切れ、そっとネアのお皿に移築してくれた。


美味しい鴨肉をもぎゅもぎゅといただき、ネアは、たった今知ったばかりの悲しい真実に、心の中でしっかりと蓋をして縄をかけておく。

これは人間の狡さなのかもしれないが、優しいグレアムの秘密に気付いてしまったことを、心の弱い人間はあまり覚えておきたくなかったのだ。



(ん………?)



しかし、そんな真実が明らかになっても尚ディノが震えているのでなぜだろうと首を傾げたネアは、以前にリーエンベルクで行われた会のどこかで、グレアムがディノのお気に入りの酢漬けトマトを食べていたことを思い出してしまった。



(本当は火を通していないトマトが苦手なのに、あの場の空気で無理をして……………?)




トマトが明かす真実第二弾に、ネアはごくりと喉を鳴らす。


いつもはそつのないグレアムだが、食堂からの目撃情報はリーエンベルクだけに齎されたものだ。

まさかここで、トマト問題を注視されているとは思わなかったのだろう。


とは言え、ディノが居る場では、火を通していないトマトが苦手であることを隠さねばならないのだということも失念しているようなので、案外、犠牲の魔物は年の瀬でお疲れなのかもしれなかった。




その夜、ネアとディノは、この世界のどんな秘密にも気付いていないという風に、雪落としの魔術のかかった窓から、美しいシュタルトの夜の湖畔の雪景色を楽しみつつ、のんびりと過ごした。



初めての旅行でシュタルトに来た時のことや、その後に続いた死者の国落ちの事件に、捕縛されどこかへ放り出されたジルフは今はどうしているのかなど、話は尽きない。


一つの真実を直視せずに過ごした夜は、二人で会話を途切れさせないように喋っている内に、随分と沢山のことを話したように思う。


その後、ディノはしっかり夫婦な時間を過ごして悲しい記憶を封じる事にしたようで、追い詰められたネアは、にゃむとしか言えない夜になった。




翌朝のシュタルトは、綺麗に晴れた。




ネアが朝食の席で思い出したのは、昨晩、不自然に震えていた蜂蜜色の髪の男性のことである。


そう言えばあれはなぜだったのだろうと、朝食の席にも現れたその男性を再び凝視すると、擬態をして雪の魔物と美味しく朝食をいただいていた送り火の魔物は、観念したのか震えながら出頭してきた。


ちょっと褒めて欲しそうに、グレイシアと旅行に出てイブメリアの期間を長くしたのだと告白したニエークは厳しく叱っておき、ネアは、こんなところに送り火の魔物が隠れていただなんてと驚いた空気を演出してみせた他の宿泊客達を暗い目で見回す。



聞けば、シュタルトでの大々的な人外者の会議などはなく、今回のことはニエークの単独犯だと言うが、七組の宿泊客の中によくザハやリノアールで見かける顔ぶれがあり、その内の一人がじゃりじゃりとお皿からお砂糖を食べていれば、組織的な犯行である事は明らかだ。




(あの奥で、シェフにソースのレシピを聞いている男性も怪しい……………!!)



そちらはネアの事を一度も見ない徹底ぶりだが、あのベルトはネアが白けものにあげたものなので、他人のふりをした使い魔なのは隠しようもない。


きっと、昨日のシュタルトでは、人外者達の秘密の集まりがあったのだろう。

ネアは、今回の送り火の魔物失踪事件の真実として、いつかその秘密を解き明かしてみせると固く心に誓ったのであった。










明日12/17の更新はちょっと短め、明後日12/18はなろうのメンテナンスをみこみ、お休みとさせていただきます。余裕があれば、TwitterでSSを書かせていただきますね。

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