送り火の魔物と美味しい罠 2
「むぎゅ!ぐるるる……………」
悲しみのあまりに周囲を威嚇する伴侶に、魔物はとてもおろおろしていた。
雪を踏み固めた歩道に、ご主人様をばたんと転ばせる悪い妖精がいたのだ。
ネアがべしゃりと転んだ瞬間、慌てたのはディノだけではなかった。
雪の下から顔を出した白灰色の美しい毛皮を持つ蛇のような生き物に、周囲を歩いていた人々がはっと息を飲む。
慌てて駆け寄ってきてくれようとした人達が何人もいたのだから、シュタルトには優しい人達が多いのだろう。
しかし、どうやらネアを転ばせた生き物は階位も高く獰猛な妖精だったようだ。
誰かの、契約の魔物の方に任せておくようにと窘める声が聞こえたので、ネア達の事を知っている人がいたらしい。
(……………おのれ、許すまじ)
仕事での訪問なのだが、イブメリア時期の装飾も美しいシュタルトに密かに興奮気味だったネアは、無様に転ばせていい気分を台無しにした妖精を、決して許さなかった。
駆け寄ってきたディノがその妖精を排除してしまう前に、怒り狂った人間は毛皮蛇をむんずと掴んでしまい、にょろりとした体をぎゅっと縛ると遠くの茂みに向かって放り投げた。
転ばせた人間を食べてしまおうとした雪亀裂の妖精は、いきなり体を縛られた挙句に力一杯遠くへ放り投げられてしまい、呆然とした表情のまま消えてゆく。
本来なら脆弱な人間の小娘ごときに掴まれる筈もない、高貴な妖精だったのだ。
「可愛そうに、痛くなかったかい?」
「むぐるるる!私の、楽しく弾む思いをよくも傷付けてくれましたね!…………むぐ、報復するべき犯人の姿が見えません!!」
「君が投げてしまったのだろう?」
「……………わ、私が?」
「うん。固結びにして投げてしまったよ。探してくるかい?」
「……むぐ。…………そう言えば、そんな事をしたような記憶が蘇りました。………ぽいしたのなら、もういいのです。振り回して滅ぼしてから、売り払ってしまえば良かったのにと言わざるを得ませんが、探すのも面倒ですからね………」
怒りのあまりせっかくの獲物を自ら手放してしまい、転ばされただけになってしまったネアは、短絡的な振る舞いを恥じた。
悪辣な毛皮蛇などは、おやつ用のお小遣いにするのが妥当なところではないか。
(今後は、怒りに任せて我を失うような事はしないようにしよう……………)
ネアがそう考えていると、さくさくと雪を踏む音が聞こえた。
歩み寄り立ち止まった誰かの影にひらりと揺れたのは、色鮮やかな織り布のようだ。
「おや、これはこれはかつてのご主人様」
その声に、伴侶な魔物に立たせて貰いながら、ネアはゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、夏夜の宴の中で出会った山猫商会の会長である、金髪に燐光の緑の瞳を持つすらりと背の高い男だ。
黒い毛皮のコートを羽織ってはいるものの、こんな雪景色の湖畔の街には不似合いと言わざるを得ない異国風の商人の装いは、その違和感が却って不思議な調和を見せていた。
シュタルトの住人に出会ったと言うよりも、シュタルトで一つの物語が始まったという感じがする。
「まぁ、なぜここにジルクさんがいるのでしょう。観光であれば楽しんでいただきたいばかりですが、シュタルトに悪さをしたら許しませんよ」
「嫌だなぁ、ちょっとした個人の趣味の活動中だよ。歩いていたら、どこからともなくこの雪亀裂の妖精が飛んできたのだけど、もしかして君の仕業かな?」
「むむ、そやつは!」
ジルクが手にしていたのは、ネアが先ほど投げ捨ててしまったらしい雪亀裂の妖精だ。
ぶんと放り投げられて目を回したのか、きゅっと伸びてしまっている。
「雪亀裂の妖精を、こうも簡単に無力化してしまうのだからなぁ」
「その不届きなにょろにょろに興味があれば、売って差し上げないこともないですよ?」
「はは、俺が拾ったものを?」
「ふむ。まだそやつへの報復が足りないと感じていたので、こうして再会出来たのですから、ジルクさんごと湖に放り投げれば良いのでしょうか。少しの間、そのにょろにょろをしっかり持っていて下さいね?」
「…………高値で買い取らせて貰おうかな」
「ふむ。良い心がけですね。今後もよく励むのですよ」
「っ、この仕打ちがやっぱり嫌じゃないのはなぜなんだ?!何か妙な魔術特異点にでもなっているんじゃないのか…………?」
ジルクは何やらぶつぶつ文句を言っていたが、しっかりと査定をし、満足のいく値段でネアの獲物を買い取ってくれた。
山猫の登場にネアの魔物は少し警戒していたが、通りすがりのジルクが買い取りを済ませて帰っていくのを見ると落ち着いたようだ。
「やはり、この辺りに沢山控えているのかな………」
「ディノ?」
「ネア、湖水メゾンに寄るかい?葡萄ジュースが欲しいのだろう?」
「ほ、欲しいのは確かですが、…………お仕事中です」
「この辺りの食堂で食事をしていたのなら、湖水メゾンにも寄ったかもしれないよ?」
「……………となれば、聞き込みに伺わざるを得ませんね」
ネアが厳かにそう宣言すると、なぜか唐突にネアを湖水メゾンに誘導してきた魔物は満足げに頷いた。
いざ行かんと進行方向に体を向けてからちらりとその横顔を盗み見ると、ディノは、満足したようにきりりとしている。
「…………ディノ、私はディノが獲物の買い取りをしてくれなくても、ディノのことが一番大好きなのですよ?」
「……………ずるい」
「確かに通りすがりのジルクさんに、あの悪いにょろにょろを買い取って貰えてすっとしましたが、それとこれは別ですから」
ネアがそう説明すれば、ディノは少しだけふるふるしてからこくりと頷いた。
湖畔沿いの開けた場所に出れば、冬の湖の美しさは惚れ惚れする程で、湖を遠く囲む木々の清廉さに氷の張った湖の青さが際立っている。
びゅおるると風が吹き、どこからか千切れ飛んで来たのは綺麗な水色の花びらだ。
「まぁ、この花びらはなんのお花のものでしょう?散ってしまって可愛そうなのですが、とても綺麗ですね」
「おや、氷の祝福花だね。氷の魔術の展開で花開くものだよ」
「……………こうして雪景色に散らばると、なんて綺麗なのでしょう。見惚れてしまいますね」
「氷竜がいるのかな…………」
「となると、ベージさんのお知り合いの方がシュタルトに遊びに来ているのかもしれません」
「……………本人かもしれないね」
「ふふ、もしこちらで偶然お会い出来たら嬉しいですね」
「浮気………」
「あらあら、私の大事な伴侶はすぐに荒ぶってしまうのです?」
くすりと笑ったネアは、少しだけ悲しそうにしている魔物の三つ編みを手に取ると、にぎにぎしてみせた。
どこからか水色の花びらは舞い散り続け、まるで雪の代わりに降り積もるかのようだ。
三つ編みを持って貰えた魔物は少しだけもじもじとしていたが、僅かに首を傾げると、片手の指先ですいっと虚空をなぞる。
しゅわんと、淡い光が弾けた。
「ふぁ!」
その途端、しゃりしゃりんとダイヤモンドダストが生まれ、きらきらと光り始めたではないか。
よく見れば、普通のダイヤモンドダストとは違い、その粒子の一つ一つが、小さな花びらのようになっている。
「気に入ったかい?」
「…………こんなに美しいものを、気に入らない筈がありません!ダイヤモンドダストと同じように硬質な輝きで光るのに、花びらのような軽やかさもあるだなんて………」
「気に入ったのなら、いくらでも見せてあげるよ」
「……………しかし、一つ疑問があります。ディノはなぜ、先程からとても頑張っているのでしょう?私に、何かを隠していませんか?」
「……………ご主人様」
「まるで、特定の誰かと張り合っているようではありませんか。先ほどの司教様のように、このシュタルトにも、ディノが警戒してしまうような方が居るのです?」
ネアがそう尋ねると、ディノは途方に暮れたように視線を彷徨わせたが、少し困ったようにしつつも、はっとする程に艶やかに微笑んだ。
「君に喜んで欲しいんだ。伴侶はそう思うものなのだろう?」
「む、むぐ…………その雰囲気は反則です!」
「反則、なのかい………?」
「お、お仕事中ですので、我々はしゃきっとしていなければならないのですよ?ご主人様をへなへなにするのは禁止にしましょう」
「おや、そうなってしまうのかい………?」
「にゃむ………」
男性らしい蠱惑的な微笑みを浮かべた魔物にネアはたじたじになってしまったが、幸いな事に、壁画から抜け出して悪さをしていたらしい子熊が、むっちゃむっちゃケーキを食べながら現れたので、はっと息を飲み気を取り直すと、慌てて捕獲にかかった。
「ふぅ!まさかのここで、子熊さん初捕獲となりました。こやつを連れ戻せば、祝福を貰えるのですよね?」
「どうしてすぐに逃げ出してしまうのかな………」
「この様子だと、どこからか、随分と立派なケーキを盗み出したようですね………」
湖畔沿いにある住民達に愛される菓子店から盗んだケーキを貪り食べていた子熊は、近くにネア達がいたことに気付いていなかったようであっさり捕まってしまい、とても叱られつつ大聖堂のフレスコ画の中に戻されることになる。
ネアは、大聖堂の管理人達からとても感謝され、尚且つ美味しいケーキがいただける祝福を壁画の中の聖人から貰い喜びに弾んだ。
このシュタルトの湖畔に建つ、かつての修道院からなる複合建築の一部である大聖堂は、湖水メゾンの売り上げなども運用に使われ、教会の管理を受けずに街の住人達に管理されている。
つまり、信仰を司る聖域の一つでありながら、ネアが警戒するような場所ではないのだ。
朝のミサなどだけではなく、地域の催しの打ち合わせや、湖水メゾンへの入店時の酒精の検査をしたりする場所もあったりと、街の人々の憩いの場に近い。
(あ、ここにも飾り木がある…………)
酒精検査の入り口付近と、聖人の絵の近くには立派な飾り木が置かれていた。
緑がかった灰色の植木鉢に植えられており、ずしりと重たい緑の葉は艶々としている。
かけられた水色のリボンに、オーナメントは青紫色の塩の結晶石なのが、如何にもシュタルトらしい。
もしかして狐尻尾を表現したのかなという毛皮のオーナメントもあり、この土地で今も塩の魔物が愛されている様子が伝わってくる素敵な飾り木だ。
絵の中では、さっそく聖人からのお説教が始まったようで、子熊は、この上なく耐え難いという思いを全身で表現しながら転がっていた。
お説教などやってられないと全身で表現しているようだが、その態度でますます聖人を怒らせている。
図らずも湖水メゾンの入る建物にやって来てしまったネア達は、こちらにグレイシアが来ていないか聞き込みをしてみることにした。
「こちらには来られていないようですね。ただ、確かに昨晩から何回か、送り火の魔物を見かけたというような話を隣人達から聞いております」
そう教えてくれたのは、このメゾンのオーナーだ。
塩の魔物が再びこのメゾンに足繁く通うようになったきっかけのウィームの歌乞いを、以前よりとても応援してくれており、体を温めてて下さいと温かな葡萄ジュースを振舞ってくれた。
「むぐ。………温めた葡萄ジュースの美味しさに、ときめきが止まりません」
「気に入っていただけたようで、ようございました。こちらでは、シュタルトの葡萄は温めても酸味の角が立たないので、冬場にはよくこうして飲むのですよ。中央の方では、香辛料を入れたものの方が多いでしょうか?」
「ええ。でも、シュタルトの葡萄ジュースは温めただけでもこんなに美味しいのですね。ぱらりとかけてあるのは、夜の雫ですか?」
「冬夜の蜂鳥の蜜を、凍らせて砕いたものなのですよ。氷に覆われた湖の中央でしか採れないものなので、あまり馴染みのないものかもしれません」
「まぁ!それは初めていただきました。綺麗な夜にうっとりとするような、幸せな気持ちになる美味しさですね」
オーナーと少しお喋りをしていると、ちょうど店を出るお客がこちらに向かって歩いて来た。
おやっと目を瞠ったネアにぴょこりと頭を下げたのは、仕立ての良い瑠璃色のコート姿が凛々しいリドワーンだ。
「ご無沙汰しております。お二人も、食事でこちらにいらしたのですか?」
「お久し振りです、リドワーンさん。こちらには、送り火の魔物さんな舎弟を探しに来ているのです。どこかでお見かけしていませんか?」
「そうでしたか。舎弟とは実に羨ま……………いえ、残念ながら俺は見ていません。ですが、友人がどこかで会ったと話していましたね」
「なぬ。有力情報です!そのご友人はどちらに……」
「今、奥で葡萄酒を買っていますよ。ご案内いたしましょう」
その言葉を聞いたネアが、オーナーに葡萄ジュースのお礼を言って慌てて店舗の方に向かえば、そこには、楽しく買い物をする竜達の姿があった。
どうやらウィームに縁のある竜達は、一緒にお出かけランチをする仲の良さであるらしい。
「ネア様」
声をかけるより早くこちらに気付き、はっとするような柔らかい眼差しになったのは、ワイアートだ。
隣で、二本の葡萄酒の瓶を真剣に見比べていたベージも、おやっとこちらを振り返る。
「まぁ。ワイアートさんと、ベージさんです!リドワーンさんとご一緒されていたのですね」
「この段階……このようなところで、お会い出来るとは思いませんでした。もしかして、送り火の魔物をお探しですか?」
なぜか言い澱んでしまい、げふんと咳をしてから苦笑したベージにそう尋ねられ、ネアはこくりと頷いた。
一瞬、先程の花びらはベージだろうかと思ったが、食事を終えてから買い物を楽しんでいる風な様子からすると、時間が合わないので違うだろう。
(ベージさんがやるとなると、食事の途中で席を立って花びらを風に散らす作業が必要になるもの………)
「グレイシアさんがまたしても行方不明ですので、探しに来ているのです。もし、何らかの情報をお持ちであれば、是非に共有していただけると嬉しいです」
「ワイアート、送り火の魔物を見かけたと言っていなかったか?」
「有益な情報が一つありますが、その提供には対価を頂戴しても?」
リドワーンに促され、そう提案したのはワイアートで、ゆっくりとそちらに視線を向けたディノにぎくりとしたように、ぶんぶんと首を横に振った。
その様子に小さく笑い、求められる対価をネアに説明してくれたのはベージで、年齢的なものか組み合わせなのか、この二人が一緒にいると少しだけ兄弟感がある。
「実は、リドワーンとワイアートとで、このイブメリア限定の三本セットを三人で分けて買おうとしていたのですが、試飲用の小瓶が一本ついてくるんです。誰が持ち帰るのかを決めかねていましたので、もし良ければ、魔術の繋ぎを切った上で貰っていただけませんか?」
「…………こんなに素敵なおまけを、通りすがりの私にくれるのですか?」
「ええ。三人でどうしたものかと話していたところでしたから、こちらとしても幸運な巡り合わせです」
「しかも、この小瓶の葡萄酒も、セットのものと同じイブメリア限定のものです。と、とても貴重なものだと推察します!」
「ええ。そのようなもののようなので、是非に」
「ディノ…………」
「………そうだね、魔術の繋ぎは私が切ろう。気になるのだろう?」
「いいのですか?」
「魔術の繋ぎを断つのであれば、見知った者からなのだし構わないよ」
こうしてネアは、ジルクに獲物を買い取って貰い懐が潤っただけでなく、絵の中の聖人から子熊捕縛の祝福をもらい、メゾンのオーナーには葡萄ジュースをご馳走して貰い、尚且つイブメリア限定の白葡萄酒までを貰ってしまった。
あまりの幸運続きに小さく弾めば、贈答品から魔術の繋ぎを切ってくれていたディノが、目元を染めてしまう。
「有難うございます。素敵なお裾分けですので、大切に飲みますね」
「良かったね、ネア」
「はい!」
「………っ、……で、では、目撃した送り火の魔物についてお話ししましょう」
なぜか目元を染めて口元を片手で覆っているワイアートによると、このシュタルトの山沿いにあるホテルの近くで、グレイシアらしき男性が、パテ・ロランを食べている姿を見かけたのだそうだ。
「パテ・ロラン……!」
ごくりと喉を鳴らしたネアに、ワイアートは、それが白葡萄酒とエシャロット、香りづけの各種香草などでマリネした牛肉を、パイで包んでこんがり焼いた物だと説明してくれる。
グレイシアが見かけられた地区は、シュタルトの中でも一際景観の良い場所だ。
貴族達の別荘や裕福な商人の家などだけではなく、高級メゾンや素敵なホテルがあるので観光客も多く、そんな観光客目当てで作られた地元の有名パン屋さんが開く、パテ・ロランの屋台があるらしい。
(白葡萄酒と香草の組み合わせで、ミートパイ!!)
それはもうお口の中に想像で登場させられるくらいに好きな味に違いなく、ネアはあまりにも華やかな存在感にぱたりと倒れそうになる。
「屋台ではありますが、ザハにも負けず劣らずの素晴らしいパイですよ。そう言えば、ネア様はパイ系のものはお好きでしたね」
ワイアートがそう自信たっぷりにそう言うのだから、ネアのパイ好きは、なぜか雪竜にまで知れ渡っているらしい。
クッキー祭りや牛乳商人事件の際に話したかなと首を傾げつつ、ネアは、業務時間と屋台の営業時間を慎重に脳内会議にかけた。
早めにグレイシアが発見出来れば、或いは、本日の捜索が屋台の営業時間よりも早く打ち切りになれば、その素敵なものを買って食べる余裕はあるだろうか。
「その時に、グレイシアさんはどなたかとご一緒だったりはしませんでしたか?」
「言われてみれば、誰か同行者がいたような雰囲気でしたが、目に留まったのは彼だけでしたので………」
「そうでしたか。ワイアートさん、貴重な情報をいただき、有難うございました」
「お役に立てて幸いでした」
「これから我々は帰るだけですので、もし良ければお手伝いしましょうか?」
そう言ってくれたのは、ベージだ。
ネアは、いつも優しい微笑みを浮かべている氷竜の騎士団長の申し出を有り難く思ったが、せっかくの友人達との時間を削るのは忍びない。
系譜の違う仲良し三竜の食い倒れの旅などと考えると、この状況はとても微笑ましいものなのである。
「いえ、これは我々の仕事ですので、どうぞ最後までのんびりとされていって下さいね。ただ、もしどこかで脱走中のグレイシアさんを見かけたら、我々かリーエンベルクにご一報いただけると嬉しいです」
「では、そうさせていただきましょう」
最後にそう言って優雅に一礼したのはリドワーンで、ネアは貰った試飲用の葡萄酒の瓶を手に、竜達にお礼を言って別れた。
外に出ると、はらはらと細やかな雪が降り始めていた。
「むぐ、そして私も祝祭限定の雪葡萄ジュースを買ってしまいました。温めて飲むのも楽しみですが、ラベルの飾り木がとっても可愛いと思いませんか?」
「良いものが買えて良かったね。その品物は知らなかったのだろう?」
「はい!雪葡萄を使ったものは、大雪の続く年にしか収穫出来ないのだそうです。販売本数も少なくて、まさかの私が最後のお客でしたね!」
ベージ達もそのジュースは籠に入れていたようで、メゾンの店員によると、今年は人気が凄まじく、店に残っている十二本は予約のものなのだそうだ。
とは言え、通常でもイブメリアまでには売り切れてしまうので、運が良かったとしか言いようがない。
ワイアートに教えられた店がある方に向かおうとしたネアは、これから向かう先にある湖畔沿いの木々の一画が、きらきらと光る結晶石のようなものを吊り下げられ、飾り木として飾られている事に気付いた。
(わ、……………!)
凍った湖に光を落とし、淡く淡く煌めく木立の美しさに、ネアは目を瞠って伸び上がる。
「………ディノ、あちらの方がきらきらですよ!」
「この土地は、湖に祝福を集めるようにしているのだね。飾り木をあの位置に並べる事によって、山からの魔術の流れを整えて潤沢にしているんだ」
「まぁ、そのような理由があるのですね。以前にグレイシアさんの捜索に来た際には、こちら側を通らなかったので気付かずにいました」
あの時は、かつてのウィーム宰相の屋敷などを見て回ったのだと、ネアは懐かしく思う。
幽霊屋敷かなという雰囲気満載のお屋敷だったが、その後、夏に見かけた際には花に囲まれた綺麗なお屋敷であったので、冬の佇まいがまずいだけなのだろう。
空を見上げると、灰色の分厚い雲から白い雪片が落ちてくる。
今は風は吹いていないが、雪が細やかなので花びらのようにひらりと舞い落ち、何とも詩的な情景だ。
「雪の魔術の気配が強くなったね。寒くないかい?」
「ふふ、お気に入りのラムネルのコートを着ていますし、この手袋もとっても暖かいのですよ。ディノ、さっきいただいた葡萄酒は、ちょうど二人でいただけるくらいの量なので、今日のお仕事が終わったら飲みましょうか」
「あれしかないのに、いいのかい?」
「祝祭の限定のもののようですから、大切な伴侶と一緒に楽しみたいです」
「ずるい…………」
「あらあら、またしても狡いの使用法が行方不明になってしまいましたね。さて、屋台に………ではなく、目撃地点に向かいましょう!」
二人は、湖畔沿いの遊歩道を歩きながら、ワイアートが教えてくれた屋台のある湖を望む高台を目指した。
湖畔沿いの店々などを抜けて少し坂道を登るのだが、道中には雪紫陽花の咲く素晴らしい公園があり、ネアは思わず立ち止まってしまう。
真っ白な雪と、公園から見下ろせる湖とその湖畔沿いにきらきら光る飾り木。
更には、公園内に満開になった青紫色の紫陽花ともなれば、溜め息を吐きたくなるような美しさではないか。
先程までは収まっていた風がまた少し吹き始め、しゃわしゃわと満開の紫陽花を揺らしている。
「……………ディノ、少しだけ寄り道してもいいですか?」
「うん。幾らでも構わないよ」
「お、お仕事中なので、ほんの少しだけです!」
堪らなくなってディノにそう告げると、ネアは、持たされた三つ編みを引っ張り、ててっと公園の中に駆け込んだ。
「……………虐待する」
「ぎゅ。ごめんなさい、引っ張られてしまって痛かったですか?」
「可愛い、三つ編みを引っ張ってくる………」
「言葉選びが紛らわしいのだ!」
ホテルなどがある場所ほどの景観ではないものの、少しだけ高台にある公園は、冬季は水を流していないようだが中央に噴水があり、湖に住む竜の銅像のある美しい場所だった。
シュタルトの各所にあるものと同じ意匠の噴水は、お椀型の噴水上部の水盤の中央に、小さな石の柱があり、そこにはシュタルトの歴史などが刻まれている。
この公園の噴水には、雪紫陽花を植えるのを手伝った湖竜というとてもほっこりなエピソードが刻まれていた。
公園の中に入ると、まるで紫陽花の花畑に囲まれているようで、三つ編みをぽとりと落としてその場でくるりと回ったネアは、あまりの素敵さに唇の端を持ち上げた。
(雪が降り始めたからか、公園に誰もいないことで、物語の中の庭園に迷い込んでしまったよう…………)
「ネア、三つ編み………」
「こうしてくるりとするのに、三つ編みを手にしていると危ないですからね。一時的にぽいしたのは、この公園の美しさをすっかり堪能する為の措置ですので、しょんぼりしなくても、私はどこにも行きませんよ?」
「ネアが公園に浮気する………」
「……………なぜなのだ」
魔物は、ぐいぐい引っ張って貰った直後に三つ編みを放り出した人間の残酷さに翻弄されてしまったようで、遠い目をしたネアをぎゅうぎゅうと拘束してくる。
ネアは、三つ編みの扱いに急激な落差があってはいけないのだなと理解しつつ、そんな魔物を撫でてやった。
はふぅと吐き出した吐息は白く、雪雲の向こうの空は夕暮れに傾き始めたのか、青さを増している。
それでも少しの間だけこの絶景を楽しませて貰い、ネアは、贅沢で不真面目な時間を過ごした雪紫陽花の公園を後にした。
「少し、雪が激しくなってきましたね」
「魔術で、君には積もらないようにしてあるよ。………おいで。転ばないようにしよう」
「また、あの雪亀裂の妖精さんがいるといけませんものね」
「………あの妖精は、想定外だったんじゃないかな」
「……………想定外?」
公園より山沿いに向かう道には、瀟洒なお屋敷や、高価なレースの専門店などが現れ始め、そんな街並みにしんしんと雪の降り積もる様子にも目を奪われる。
家々の玄関先には飾り木が立てられており、戸口にかけたリースのふっくらと赤いインスの実が、鮮やかに雪景色を彩っている。
家の灯りが落とす温かな影の色と、青白い雪の色との対比は胸を打つような安らかさだ。
反対側の歩道を、色鮮やかな傘をさして歩いている四人連れの男性達は、大きな声でお喋りをする事はないが楽しそうに連れ立って歩いている。
その手には、ほかほかと湯気を立てるものがあり、ネアははっと息を飲むとその物体を凝視した。
(あれが、パテ・ロラン……………!!)
風向きが変わりそちらからのいい匂いが届けば、ネアは、お腹がぐーっと鳴ってしまいそうになる。
聞き込みをする前に買い食いをするのはどうかと思いつつも、ついつい足早になってしまうのだから、人間の強欲さとは悲しいものだ。
そうなるともう、美しい景観よりも噂の屋台はどこなのだろうとしか考えられなくなる。
「ネア、あのパイを……パテなのかな?……を、買ってあげるから、食べながらグレイシアを探そうか?」
「むぐ…………。パテという名前ですが、形状としてはパイなのでパイとお呼びしますね。………パイをお買い上げした方が、お店の方も気持ちよく情報提供してくれるでしょうか?」
「一つでいいかい?」
「……………食べまふ」
しかし、お目当ての屋台を訪れると、そこにはまたしても見知った顔があった。
「……………ほわ、アイザックさんです」
「アイザックも来ているのだね…………」
さした傘からコートまでが漆黒の男性は、雪交じりの風にさらさらとした黒髪を揺らして、パテ・ロランを買っている。
ネアの声に気付きこちらを見ると、薄く微笑んで会釈をしてくれた。
一緒にいるのは見たことのない男性だが、アクス商会の仕事で同行している部下なのかもしれない。
「もしかして、本日のシュタルトでは、商人さん達の会合などが行われていたりするのでしょうか……………?」
「…………行われていたとしても、違う会合じゃないかな………」
知り合いだらけでとても困惑するが、ネアはひとまず、お店が閉まる前にパテ・ロランを魔物に買って貰うことを優先させたのだった。




