送り火の魔物と美味しい罠 1
昨晩迄の雪が止み、ウィームは薄曇りの日であった。
失踪中の送り火の魔物の捜索に出かけるネア達は、まずは大聖堂に立ち寄ることになる。
昨年は、ディノと伴侶になる前に運命の不穏さに触れないようにと避けていた大聖堂への訪問なので、イブメリアの装いの教会が大好きな人間は、真面目な顔をしているものの内心はかなり浮かれていた。
顔見知りのグレイシアの捜索なので怖いこともなく、イブメリアのウィームを歩くこの仕事は、なかなか良い仕事だと言わざるを得ない。
さくさくと雪を踏み、街へ向かう。
失踪直後の話を聞き、念の為に大聖堂に潜んでいないかも確かめることになるのだが、エーダリアから、今日会う事になる司教は、恐らく初対面だろうと言われていた。
(赴任されて来たということではなく、今秋に司教様になられたばかりの方なのだとか………)
これまで上にいた誰かが高齢を理由に役職を辞したらしいのだが、ネアはあまり教会の人員や構成には明るくない。
知るという事が知られる事になる世界だからこそ、必要最低限以外のものには触れずに来た領域が、教会組織なのだった。
「前にも、こうしてグレイシアさんを探しながらリーエンベルクから街まで歩きましたね」
「ネア………?」
「グレイシアさんを探しに出るということが、何だか懐かしいような気分になってしまうのです。初めて二人で任された大きなお仕事だったので、とても思い出深いからでしょうか?」
「そうだね。君が、初めてシュタルトに行った仕事だ」
「ふふ。あの時にディノとの初めての外でのお泊まりをしましたし、ターテイルさんのお話を聞いて、滑り台も経験しました」
「……………ネア。どうして離れていってしまうんだい?」
「……………むぐ」
そんな話をしている魔物がなぜかあまりにも甘やかで満たされた男性の顔をしたので、ネアは、そわそわと距離を開けてしまっていた。
しかし早々に気付かれてしまい、不思議な微笑みを浮かべた魔物に捕獲されてしまう。
「困ったご主人様だね」
「…………にゃむ」
前髪を指先で持ち上げ、おでこに口づけを落とされてしまい、ネアは、心の中をむずむずさせながら小さく声を上げた。
魔物らしい伴侶の姿はとても気に入っているが、こうして男性的な凄艶さを向けられると、その後の対処の正解を導き出せずに今でもおろおろしてしまう。
ネアが目元を染めたことに気付いたのか、満足げに微笑む気配がして、するりと回された腕が背中を支えた。
あっと思った瞬間にはもう、顎先を持ち上げられている。
一つも無理な姿勢を取らされていないのに思うようにされてしまうのは、やはり老獪な魔物が相手だからだろうか。
「……大聖堂で話を聞いたら、またシュタルトに行くのかい?」
「……………ふぁい」
少し体を離し、こちらを覗き込んだ水紺色の瞳の鮮やかさに息を詰め、ネアはこくりと頷く。
シュタルトの食堂で背の高い男性と食事をしていたという情報があるので、そちらでの聞き込みもするつもりだ。
もし、帰り道に湖水メゾンのイブメリアボトルを手にしていても、それは聞き込みの副産物に他ならない。
「どうしてシュタルトに出かけたのだろう………。あちらには、彼等………が、所有している建物などもなかったように思うけれど、食事をしに行ったのかな………」
「舎弟は、冬鱒のバター焼きと、チョコレートトルテをいただいていたそうです。食堂のご店主は、同伴者がいたので送り火の魔物だとは思わなかったそうで、決して、せっかく飾り付けたばかりの飾り木ともう少しのイブメリア気分を楽しみたくて見逃した訳ではないのだとか」
「同行者について、何か聞いているかい?」
「とても綺麗な男性だったようですよ。ただ、生のトマトは食べられない方なのだそうです」
「トマトが…………」
手を伸ばされたので繋ぐのかなと思ったが、ネアの手にはやはり三つ編みリードが預けられた。
今の君はもう逃げないねと微笑んだ魔物は、どうやら、初回の送り火捜索時からのネアの変化を噛み締めて機嫌が良くなったようだ。
しかし繊細な人間としては、グレイシアの気配がないかを探る為に魔術の道を歩いているとは言え、こんな公道で伴侶感を再確認しないでいただきたいと思うばかりである。
ウィームの街に出れば、飾り木の香りがした。
木の枝葉の具合も似ているからか、どこかモミの木の香りを思わせるこの時期だけ楽しめるものだ。
林檎やスパイス、そして蝋燭や香炉から立ち昇る魔術の香りと、冷たく澄んだ雪と氷の冬の香り。
昨晩に降った雪は、朝方に少しだけ顔を覗かせた青空で表面が溶けたのだろう。
表面がグラニュー糖のようにざらりと光っていて、雪靴で踏むとざりりと音を立ててから足が沈む。
薄暗い曇天の下では、飾り木に吊り下げられたオーナメントや結晶石が帯びる鈍い煌めきが、心を震わせるような色を散らばらせる。
どこからか聞こえてくる優雅な音楽に、がらがらと音を立てて走ってゆく馬車の車輪の音。
こうしてウィームの街を歩くだけで、ネアはとても幸せな気分だった。
雪の日や冬曇りの日こそ、やっとこの街に祝祭の季節がやって来たという感じがする。
もう既にイブメリアの訪れを随所で堪能しているのにもかかわらず、何度でも何度でもその喜びに胸が弾むのだ。
(ああ、私はこの季節が大好きだわ…………)
ゴーンゴーンと大聖堂の鐘の音が響いた。
やって来た大聖堂の横に立てられた大きな飾り木は、今年は赤と水色がかった灰色のリボン、そして淡い金色のオーナメントで飾られているようだ。
赤色はインスの実や林檎などを模した結晶石の飾りや、妖精に齧られているところを見ると本物であろう小さな林檎などである。
ネアは、しゃくしゃくと飾りの林檎を食べてしまっている毛皮竜のような生き物をじーっと見ていたが、その小さな背中の羽を見る限り、竜ではなく妖精なのだろう。
「ディノ、……………あやつは妖精さんでいいのでしょうか?」
「うん、妖精だよ。雪蜥蜴の妖精の一種だね。雪の降る土地の石垣や石畳に住む生き物だったのではないかな」
「その近くにいる、謎のぺらぺら端切れ布生物は……………」
「……………何だろうね」
そちらは魔物も知らなかったようだが、ぺらぺらした布切れのようでありながら、立派に林檎を齧っているので生き物なのは間違いないだろう。
何やら模様があるので、冬毛になれなかった雷鳥ということもあるまい。
ネア達が大聖堂の入り口をくぐる前に、慌てたようにやってきた教会兵に摘まみ上げられ、ぽいっとどかされているのであまり獰猛な生き物ではないようだ。
ビミャーと叫び声を上げてじたばたしているところを見ると、端切れ布生物も、あの林檎を狙っていたのだろう。
曇天から差し込む陽光はささやかなものだ。
しかし、大聖堂の影に入るとぐっと暗くなる。
(……………ああ)
この時間はミサもないので、ウィーム大聖堂の扉は開け放たれていて、ネア達はその境界を潜った。
こうして手続きなく中に入れるとは言え、ネアが以前に住んでいた世界の大聖堂のような気安さでひやかせる場所ではない。
この世界の聖域には複雑で強い魔術が宿るので、その土地を敬う気持ちなくして用もなく踏み込んではならないのだ。
石造りの大きな大聖堂の中には、朝のミサで焚かれたのであろう香炉の匂いが充満していた。
蝋燭の溶ける匂いに、飾り木の匂い。
新鮮な花の香りはどこからだろうと思えば、祭壇には大きな雪結晶の花瓶のようなものに見事な百合が生けられている。
高い高い天井の空間は訪れた人々の喧噪を添えても荘厳な静けさに包まれていて、ステンドグラスから落ちるのは色とりどりの光の煌めきだ。
天井画の暗い輝きに、豪奢な装飾の隙間にはネアが感じる魔術というものらしい美しく奇妙な影が揺れる。
祭壇の両脇には成人男性くらいの大きさの飾り木があり、ネアは葉の緑色に赤いインスの実だけのより儀式的な飾り木の美しさに目を奪われた。
かつて暮らした世界の中でネアハーレイが聖域を望んだのは、あまりにも過酷な日常から心を引き剥がす為でもあったが、日常が豊かになった今でも、やはりこのような空間は好きだった。
「お待ちしておりました。これより、私がお二人をご案内させていただきます。送り火の魔物様の、足取りの手がかりをお渡し出来れば良いのですが」
こつこつと石畳を踏み、ネア達の前に現れたのは一人の司教だ。
深い青色の聖衣に、高位の聖職者であることを示す帽子、銀糸の刺繍の鮮やかな装飾布をかけている。
初めてお目にかかりますとにこやかに挨拶をしてくれた青年にも見える男性は、秋の終わりに役職を上げたばかりですので、まだこのような役割は慣れませんねと穏やかに笑う。
「送り火の魔物様が最後に目撃されたのは、この聖遺物の部屋なのですが……………」
「ご自身の部屋回りではなかったのですね」
「ええ。祝祭が近くなると、あの方は大聖堂の各部屋に不穏なものが紛れていないか、見回りをされるのですよ。信仰の魔物様は世界中の教会を巡られておりますから、その分、あの方がこの大聖堂をご自身の家のように感じて下さっているのでしょう」
にっこり微笑むと目が糸のようになってしまう司教は、見るからに人の良さそうな雰囲気なのだが、ネアにもそろそろ教会関係者の狸ぶりが理解出来ていたので、そつなく社交上の微笑みを返すに留めた。
ウィームに暮らす教会関係者たちは、教会勢力の総本山であるガーウィンへの信仰心よりも、どちらかと言えばウィーム寄りに転じてしまうと言われているが、その手の駆け引きにおいて経験の少ないネアには、彼等の表情や言葉から真意の判断は出来ないだろう。
「……………わ」
しかし、そんな風に警戒しているネアでさえ、壮麗な聖遺物の部屋には圧倒されてしまった。
以前に見たことのある部屋も確か聖遺物の部屋だった筈なのだが、こちら側の部屋を訪れるのは初めてだ。
重厚な黄金と黒曜石のようにも見える新月の夜の結晶石で作られた部屋には、ふくよかな森結晶や夜結晶の飾り棚が並んでおり、泉結晶の扉の向こうには歴史的な価値も計り知れない聖遺物が並んでいる。
このようなものを見て、魔物は何を思うのだろう。
ふと、そんな事を考えた。
(魔術に縛られて飾り立てられた、骨などもある。……………この結晶化した百合にだって、妖精さんや精霊さんがいたかもしれないのに……………)
刻まれた聖句や術式は重たい拘束着のようで、美しさに目を奪われても、その目を凝らせばどこか背筋がひやりとする品々に囲まれ、ネアは隣に立っている魔物の気配が気になってしまった。
青灰色の髪色に擬態し、今日のディノは、漆黒のロングコートを羽織っている。
ネアの初めて見るそのコートは、人知を超えて潤沢に満ちる夜や闇などの深さと恐ろしさを、人ならざるものの美貌の形で窺わせていた。
「宝石に黄金結晶。どれも美しく信仰には必要な聖遺物ばかりですが、死してなおこのように縛り留めおかれるのはいささか恐ろしい。私は、ウィームで階位を上げて良かったと心から思います」
「……………この大聖堂を例えようもなく美しいと思い、イブメリアのミサを心待ちにしていても、信仰の何たるかを理解する機微に欠けるような不信心者な私は骨などを見ると少し構えてしまうのですが、…………あなたのような、教会に勤めている方でもそのように思われるのですか?」
ネアがそう尋ねると、司教は少しだけ悪戯っぽく小さく笑った。
木漏れ日や春の日差しを思わせる屈託のない表情は、綺麗な黄緑と檸檬色の多色性の瞳でより無垢な印象となる。
「ええ。私は、聖職者の中でも比較的怠惰な部類の方でして。ガーウィンでは出世など出来なかったでしょうね。早々に階位を上げる事は諦めてしまい、かねてより好んでいたウィームへの配属を希望したのです」
「……………グレイシアの行き先に、心当たりはあるのかい?」
「おっと、申し訳ありません、お喋りが過ぎましたね。…………いえ。お恥ずかしながらというべきか、私のような者の立場では当然と言うべきかどちらが正しいのかは分かりませんが、あの方の好まれる土地や交友関係などは、把握しておりません。………ただ、ここを見回った後に、そろそろ時間だろうかと仰っておられたそうですので、どなたかと待ち合わせがあったのかもしれませんね」
そう話し、微笑んで深々と一礼した司教と別れ、ネア達は大聖堂を出た。
ディノが調べてくれたが、やはり、この大聖堂に隠れているということはないらしい。
昼間でも薄暗い聖堂から出ると、曇天のウィームの空がはっとする程明るく感じられた。
ネアは大きな飾り木に歩み寄り、ふっくらと育った美しい枝にそっと触れる。
しゃりんと揺れるオーナメントに唇の端を持ち上げ、隣に立った魔物に微笑みかけた。
「冬告げの舞踏会でお会いした、飾り木さんを思い出していました。あの方にお会いしたことで、いっそうに飾り木が大好きになりましたので、ついつい、こうして触れてしまうのです」
「……………クロムフェルツに出会えたことは、良い祝福になるだろう。贈り物だけではなく、彼との邂逅自体にも祝福が宿るからね。そんな事はあっては困るのだけれど、一人きりの状況で問題が起きた際に近くに飾り木があれば、その下に隠れるといい」
「一人で怖い目に遭わないようにまずは用心し、その上で危険に見舞われた場合には、飾り木の根元にさっと避難します!」
「うん。本来、クロムフェルツからの強い祝福は大人になると薄らいでしまうと言われている。けれど、君の場合は、可動域の関係でその祝福をずっと得られるからね」
「………むぐ。少しだけ複雑ですが、頼もしいことは良い事だと思うようにしましょう」
飾り木の香りを楽しみ、ネア達はまず、シュタルトに出向く前に歌劇場を訪れた。
先ほどの司教が、大聖堂に暮らしているグレイシアが、よく歌劇場に出かけて行っていることを教えてくれたので、そちらでの目撃情報なども集めておこうと思ったのだ。
これは、以前に歌劇場も捜索の対象になったことを思い出したネアが提案したのだが、ディノは、淡く微笑んで頷いてくれる。
「……………ディノ、先程の司教さんがあまり好きではありませんでしたか?」
「おや、どうしてそう思ったんだい?」
「何となくですが、あの方がお話をされることを、あまり好んでいないように思ったのです」
歩きながらそう尋ねたネアに、こちらを見た魔物は人ならざるものらしい酷薄な眼差しをしていた。
歩き揺れる三つ編みに結んだリボンは、以前に買った黒紺色の夜闇のリボンだ。
こちらも長く使っているものだが、ディノはリボンの管理に関してはかなり神経質なので、少しだけ風合いが出たままの状態で綺麗に保たれている。
漆黒のコートの襟元には青みがかった濃灰色の毛皮が裏打ちされており、僅かに覗いたシャツとクラヴァットが雪のように白い。
黒い革の手袋と合わせ、今日のディノは魔物という生き物の印象そのものの、冷ややかな美貌の装いであった。
「彼は、ウィーム派と呼ばれる聖職者なのだろう。君の立場や得られるものを知り、その上で、自分がそうであることをこちらに共有しておこうとしたのだと思うよ」
「…………エーダリア様も、警戒するようにとは仰っていませんでしたものね」
「あの対応は、信頼して色々な話をしてくれても構わないというこちらへのメッセージであったのかもしれないけれど、やはりあの人間には、あの人間の持つ教会組織の領域魔術の誓約と従属がある。差し出されたものを受け取る分には構わないけれど、そちらに繋がれるのは不愉快だからね」
「あの方の言いたい事は何となく分かりましたが、ふむふむとしか思っていませんでした。繋がってしまうことでこちらに不利益を齎す可能性があるのでしたら、あまり近付かないようにしましょう」
「……………君は、彼には悪意はないのだから、汲み上げておくべきだとは言わないのだね」
その呟きはとても静かだったので、ネアが、何かそう言われるような事案があったのだろうかと首を傾げると、ディノは薄く苦笑した。
「…………ザルツで、最近そのような事があったらしい。大聖堂の古参の司教の一人を、今後、ザルツの連絡会議に入れるかどうかで議会が紛糾したそうだ。ザルツでは結論が出せずに中央に判断が委ねられたものの、エーダリアに対応させる訳にもいかないからと、ノアベルトが擬態した騎士がその申請を却下したようだけれどね」
「その提案をされた方はきっと、心の綺麗な方なのでしょうが、少々迂闊な方でもあるのだと思います。私の生まれた世界ならまだしも、こちらでは何かと厄介な魔術の繋がりが産まれてしまうのなら、それを許容出来ないのは当然の事ではないですか」
「……………うん」
すりりっと体を寄せられ、ネアは、もしや今日の伴侶のこの装いは威嚇も兼ねていたのではあるまいかと考えた。
疑いの目で見上げてみれば、僅かに安堵したような気配に触れる。
これは余程警戒されていたようだぞと首を傾げれば、ディノがその理由を教えてくれた。
「武器狩りも含め、ガーウィンに纏わる色々な事があっただろう?君は、得られる繋ぎであれば、ある程度の危険を覚悟の上でもう少し深くまで踏み込むかなと思っていたんだ」
「……………それは、私であれば、ディノだけではなく使い魔さんやウィリアムさんがいて、ナインさんやアンセルム神父のことも存知上げているからですか?」
「かもしれないね」
ネアの言葉に頷いた魔物は、他の誰でもなく自分であればと、ネアが意欲的にあの司教を取り込むと思っていたのだろうか。
(確かに、ガーウィンの暗躍ぶりは時折目に余るけれど、そのような土地があるからこそ、ヴェルクレアは均衡が取れているという見方も出来るのではないだろうか…………)
謂わばガーウィンは、第四王子のようなものなのだ。
工業や武器生産などを司るアルビクロムや、叛意を持てば洒落にならなくなるウィームではなく、教会という思想で縛られた古狸のようなガーウィンだからこそ、国は上手く舵取りを出来ているような気がした。
どれだけ好機が転がっていても、そんな危うい均衡を保つガーウィンとの関係に、素人のネアが自ら踏み込むことはない。
余計な努力になっても困るし、うっかり余計な揉め事にかかわることで、斜面を転がり落ちる最初の小石になるのだけは避けなければならない。
しかしそれも、当然ながら説明しておかなければ、魔物には知る由もない事であるのだった。
(……………最近、ガーウィン周りの出来事が多かったから、ディノは私がそちらの問題をどうにかしなければと考えるだろうかと、不安になってしまったのだわ…………)
余計な事はしなくていいと、ディノはそんな風には言わない魔物だ。
だからこその不安を、きちんと汲めていなかったことを、ネアはとても反省する。
「そう考えたディノは、もし私がそう望んだ時に、その提案を却下しなければならないことが、少しだけ憂鬱だったのですね………」
「憂鬱、……………だったのかな。君が、あの人間とより多くの会話を持つ必要を感じて、彼を気に入らなければいいとは思っていた」
悲し気にそう呟いた魔物に、ネアは、何だかくすりと笑ってしまった。
ディノはとても優しい伴侶で、こうして少しでも多くのものを手に取らせてくれようと、心を動かしてしまうのだろう。
「ふふ。私は、とても身勝手な人間なので、どんなに有益なものであれ、不利益があるような余計な荷物を手に持つ労力を惜しんでしまうのです。私が無理をしても手を出すのは、私が欲しいものだけですからね?」
「……………あの司教は、あまり特徴のない顔をしていただろう?」
「……………む?」
どうやらディノは、ネアが以前に口にした中庸こそが良いという理想の男性像を覚えていたらしい。
大聖堂で応対するのがあの司教になることは予め知っていたようで、ネアが彼の有用性に興味を引かれるだけではなく、そのような欲求にも合致するのではないかと懸念していたようだ。
「あまり毛は生えていないけれど、特徴のない顔の人間だから、君が浮気をするといけないからね」
「言い方が!そして、穏やかな微笑みの裏がなかなかの切れ者めいた方については、私の嗜好でもありませんから安心して下さいね」
「君は、そのような要素はない者の方がいいのだね…………」
「なお、伴侶なディノについては、ディノなままがいいので変わらずにいて下さい。私の理想とはしない部分でも、なぜだかディノであれば大好きだというところが、沢山あるんですよ?」
「……………ずるい」
少しだけ恥じらってしまった魔物を連れて、ネアは次に歌劇場を訪れた。
イブメリアの歌劇場は、宝石箱のような美しさだ。
外装で期待値を高め、この包装を解いてご覧と誘いかけてくる。
劇場前の噴水には魔術の花が咲きこぼれ、ネアは、イブメリアの公演ではないこの季節の歌劇場前の華やかさに心を躍らせた。
「……………ふぁ!真っ赤な絨毯に、入り口の飾り木には、舞台に合わせた華やかな金色のリボンなのですね」
今夜の公演は、とある国の王女と騎士の亡霊の恋の歌劇で、恋人達に人気のある演目なのだとか。
この公演では、巷で人気の新進気鋭の歌姫が出るとあり、歌劇場の常連達やザルツのご意見番なども新しい歌姫の歌声を聴きに来るのだそうだ。
そんな肝入りの公演の前だったからか、歌劇場での聞き込みは慌ただしく終わった。
歌劇場の魔物のアレッシオと久し振りに対面し、送り火の魔物が大聖堂での最後の目撃情報以降にこちらを訪れていないかどうかを確かめたが、残念ながら、グレイシアは歌劇場を訪れてはいないようだ。
送り火の魔物の行方の手掛かりは得られなかったものの、夜の歌劇のリハーサル中だったこともあり、ネア達は、聞き込みの合間に素晴らしい歌声を職務特権で少しばかり堪能してしまった。
「むふぅ。何とも素敵な音楽を聴きながらの、良い取り調べの時間でした。そして、歌劇場の魔物さんは、少しだけ若返りました?」
「魔物があのように変化をする事は希なのだけれど、彼は元々特殊な成り立ちだし、使い魔を得て幸福なのかもしれないね」
「両想いだといいなと思ってしまうのですが、ひとまず、アレッシオさんはとてもお幸せそうです。そして、先程の恋の歌もとても素敵でしたね」
「ネアの歌の方が可愛いかな……………」
「あら、音楽は素晴らしいものですので、良いものを良いと言っても私は荒ぶりませんよ?」
「君の歌声と比較出来るものは、どこにもないよ」
いつものようにくしゃりとならず、しっかりとそう告げた魔物に、ネアはおやっと眉を持ち上げる。
これには何か魔物なりの信念があるのかもしれないので、聞き流さずに理由を知っておくべきだろう。
「ディノ、そう言ってくれるのは、私がディノの歌乞いだからなのですか?その、ディノが私の歌声を特別に気に入ってくれているのは知っているつもりですが、それと、歌劇場でプロの方が歌うものとは別の認識にはならないのでしょうか?」
「そうか、…………君とそのような話はしていなかったね」
三つ編みを手に持ち、ディノは少しだけ悩んだようだ。
ややあって、三つ編みを離して震える手をゆっくりと差し出した魔物は、ネアがその手をぎゅっと掴んでしまうと、せり上がる熱を堪えるように悩ましい溜め息を吐く。
「歌乞いを持つ魔物は、自身の歌乞い以外の者の歌声を、歌乞いのものより好むことはないんだ。それはね、不特定多数へ付与出来るように魔術を整えた歌声に宿る祝福と、たった一人にだけに向けられる歌声に宿る祝福の違いなのだろう。魔術を身に宿して生まれてこない人間だけは、伴侶以外の者の歌声を、伴侶のものより好んだりすることもあると聞いているけれど、……………君もそうなのかな」
「私の場合は、そもそもディノの歌声がとびきり素敵なのと、伴侶に歌って貰うということが贅沢過ぎるのとの合算値になりますので、ディノ以上という方は現れないと思います」
ネアがそう言えば、ディノは嬉しそうに瞳をきらきらさせた。
(そうか。魔物さんにとっての歌は、愛情表現に繋がるものという認識になるのだわ……………)
囀りで愛を競う小鳥たちのようなものなのかなと思ってしまったが、別の生き物である以上は、人間とは違う習性があるのも当然である。
ディノによると、素晴らしい歌声という理解は出来るし、その上で好き嫌いもあるのだそうだが、やっぱり自身の歌乞いの歌声がいいとどうしても思ってしまうものらしい。
ネアは、もっと歌が上手ければいくらでも歌ってあげたのにとしょんぼりしてしまったが、ディノは、目元を染めてフレンチトーストの歌が可愛いと呟いているのでまた今度歌ってあげよう。
「……………もし、ディノが弱ってしまわないのなら、私が前の世界で少しだけしっかりめに履修した曲を、今度歌ってあげましょうか?」
「ご主人様!」
「その代わり、少しでも具合が悪くなったら、すぐに手を上げる方式にしましょうね。その場合は今も運用している刺激の少ない歌に変更しますので、ディノに歌うという催しは中止にはならないと覚えておいて下さい」
ディノはその提案がとても嬉しかったようで、近くにあった花壇の花が満開になってしまい、道行く通行人を驚かせていた。
ネアは、街の騎士団から不審事件として報告が上がってもいけないので、これからシュタルトに向かうという連絡がてら、ヒルドに歩道の花壇を満開にしてしまったことも伝えておく。
「シュタルトに、まだグレイシアさんがいるかどうかは定かではありませんが、せめて、その時の同行者の方が判明するといいのですが…………」
「……………うん」
「まぁ、さてはあまり興味が湧かなくなってしまいましたね?」
「ご主人様……………」
なぜか魔物はふるふるしていたが、ネアはこの時はまだ、送り火の魔物の捜索よりも歌って貰える喜びの方が勝ってしまったのだとばかり考えていた。
送り火の魔物の恐るべき誘拐犯が発覚するのは、その翌日のことであった。




