花と宝石のバベルクレア
イブメリアの祝祭まで、残り僅かとなった。
ネアはこの朝を、沢山の期待と少しの落胆で迎え、なぜまだグレイシアは脱走していないのだろうと首を傾げる。
強欲な人間は、もう少しイブメリア気分を長く楽しみたいのだ。
「むぐぅ。ぐるるる……………」
「ネア、どうしたんだい?」
「……………バベルクレアになった事がとても嬉しいのですが、もう私の大好きな季節が終わってしまうのです?」
「グレイシアなら、また逃げ出すのではないかな。会が………」
「絵画?」
「いや、………もう少し延びるといいね」
「ふぁい……………」
ネアはうきうきしょんぼりという謎の心持ちでその朝を迎え、けれどもはらはらと降り続ける雪景色の美しさに唇の端を持ち上げた。
これからのイブメリアに向けた祝祭並びは、それぞれの日にお作法がある。
最初のバベルクレアの日には、ウィーム中央広場とリーエンベルクからそれはそれは素晴らしい花火が上がり、ウィーム領民達を熱狂させるのだ。
「今年の花火は、どんなものでしょうね」
「ノアベルトが、宝石を砕いていたよ」
「なぬ。宝石……………!!」
強欲な人間はそんな裏情報にひと弾みしてしまい、華やかで美しい祝祭の日に相応しい服に着替えた。
本日の装いは、淡い淡いミントグリーンのお家用ドレスだ。
舞踏会や夜会に着る程に肩が凝らないが、特別な日を過ごすのにはぴったりのもので、勿論シシィの作品である。
鎖骨が見えるくらいのゆったりとしたハイネックで、スカートの裾は白に近い色になったところに繊細な水色のレースがあしらわれているので、雪の日の庭園を思わせる柔らかな雰囲気にしてくれた。
「おはようございます。……………こ、これは、初めて見るバベルクレアのスープです!!」
「温かい赤い果実のスープのようだ。体を健やかにする祝福が込められているらしい」
「まぁ。それは是非にいただかなくてはなりません!そして、私の大好きなデニッシュパンがありまふ………」
「僕もこれ大好き!」
「ふふ、ゼノもお気に入りのパンなのですね」
今年のバベルクレアの朝食の席は、朝一番で祝祭初日の儀式を執り行って来たエーダリア達とは別になる。
そんな忙しい領主の為にリーエンベルクの料理人が作ってくれたのは、朝早くに飲んでも胃が重たくならず、尚且つこれからの祝祭に向けての体力を補ってくれる素敵なスープだった。
デニッシュパンは、食パンのように長方形で焼き上げ、それを更に薄切りにして表面がかりかりっとする程度のトーストにしてくれる。
ここにバターを塗ってチーズを乗せたり、ジャムを乗せると楽園の味になるので、ネアの心は既にとろとろだった。
「あのね、コンソメスープはお昼に出るんだって」
「ゼノからの情報で、これから美味しい朝食なのに既にお昼も楽しみになってしまいました」
なお、幸せそうにデニッシュパンを食べている見聞の魔物は本日二度目の朝食である。
初回の朝食は、エーダリア達と一緒に早朝に終えているのだ。
「ネア、今年の見回りなのだが、午前中になってしまって構わないか?雪がかなり降っているので、歩き難いだろう。午後から天候が落ち着くのを待っても構わないが……」
「いえ、予定を変えると騎士さん達もそわそわしてしまうので、そのまま午前中の見回りにしますね。この雪の中を歩くのも乙なものです」
ネアがそう答えると、エーダリアはこくりと頷いた。
こんな時に、女性だからと細やかな気遣いをしてくれるのが、王宮育ちの優しいウィーム領主である。
(だが、お昼迄に素敵にお腹を減らしておかなくてはならないのだ!!)
対するネアには邪な目的もあるのだが、狡猾な人間はそのようなことは言わずに涼やかにしていた。
しかしそれも、一仕事終えたヒルドが戻ってくるまでであった。
「おはようございます、ネア様。これは美しい」
「……………ふぁ。ヒルドさんが!」
柔らかく微笑んでネアの装いを褒めてくれたヒルドだったが、ネアはそんなヒルドの盛装姿に目をきらきらさせてしまう。
ヒルドがこの装いということは、今年もきっと、王都からの誰かの訪れがあったのだろう。
残念ながらもう、エーダリアは着替えが終わってしまっている。
今年のヒルドは、漆黒の天鵞絨に、光の角度によって紫や瑠璃色などの様々な色に煌めく結晶石を縫い込んだ刺繍のある装いで、僅かに広がった袖口が長い長い髪と合わせて妖精王のような優美さを醸し出している。
ケープはないが、下ろした髪がヴェールのように煌めいていた。
「どうやら、武器狩り後の視察は宰相の訪問で打ち止めのようですよ。アトリア様の報告を受け、祝祭の挨拶を理由に宰相までが足を運んだということで、示しをつけるのでしょう」
「…………まぁ、賢いやり方だよね。だとしても、もう一度、オフェトリウスを連れて来る必要はないんじゃないかなぁ。本気で彼をウィームに据え置くつもりなら、早めにウィリアムが手を打ってくれて良かったよ」
「……………アトリアさんとは?」
「あ、ネアには言ってなかったっけ?それが、オフェトリウスの騎士としての名前だよ」
「と言うことは、オフェトリウスさんも盛装姿だったのでしょうか?」
うっかり騎士の盛装姿に興味を示してしまったネアは、荒ぶる魔物達に、オフェトリウスはもう王都に帰ったのだと叱られてしまう。
ネア自身も口にした途端にしまったと思っていたので、素直に頷き慎ましやかに朝食を終えた。
「オフェトリウスなんて……………」
「あら、ディノより素敵な魔物さんはいないのに、まだ荒ぶってしまうのですか?」
「ずるい……………」
「そして、手を繋いで歩きたいのに、今年はずっと乗り物になってしまっています。ご主人様を地面に解き放って下さい」
「随分と雪が降っているから、足元に気を付けた方がいいからね。この雪は、ジゼルかニエークがどうにかしたのかな」
「ふむ。どちらかがご機嫌なのでしょうか……………」
「うん………」
街の見回りに出たネアは、リーエンベルクを出たところからずっとディノに持ち上げられている。
聞けば、バベルクレアのような祝祭の日にここまで雪が降ると、足元に潜んで悪さをするような生き物達も元気になってしまうらしい。
せっかく見回り用の服装に着替えたのだが、ディノは今後もネアを下ろすつもりはないようだ。
博物館通りは、不思議なくらいにしんとしていた。
「ネア、見てごらん」
「むむ!」
ディノに教えられて見上げた先に、けぶるような大きな影が見える。
街の向こうをずしんずしんと歩いているのは、巨大なトナカイのような生き物だ。
魔術で雪を弾いている魔物な乗り物だからこそ、傘に邪魔されず眺めていられるのだが、高位の魔物がいる事に気付いたものか、その生き物もこちらを見たような気がした。
「ガイダーム。祝祭の雪の獣の一種だ。激しく降る雪の中に身を隠す習性があるから、このような天候の中でしか現れないんだ」
「つまり、祝祭の日に大雪にならないと出てこないのです?」
「うん。………祝福を落としたり、災厄を呼び込む事はない、歩いているだけの生き物だよ」
「なぬ………」
ガイダームはずしずしと歩いてどこかへ行ってしまい、ネア達はしんしんと降り続ける雪が世界から隔絶するカーテンのようになっているウィームの街を見回った。
幸いにも今年はリースが外されている家は見付からず、どの家の扉にも赤いインスの実を飾ったリースがかけられている。
降り続ける雪の向こうに、明かりに煌めく飾り木が見える光景は溜め息を吐きたくなるくらいに幻想的で、ネアは、そんなウィームを胸をいっぱいにして見つめていた。
「ディノと伴侶になってから、初めてのこの季節ですね」
「……………ネアが可愛い」
「なぜその返答になったのかがとても謎めいていますが、さてはご機嫌になりましたね?」
「可愛い…………」
睫毛の影を揺らしてはにかみ微笑んだ魔物は、水紺色の瞳は光の煌めく泉のようで、青灰色に擬態した髪も光を孕んだ宝石のよう。
抱き上げたネアを先程よりしっかり抱き締めると、口元をムズムズさせて幸せそうに瞳を揺らしている。
「ディノ、ずうっと一緒にいて下さいね」
「ネア……………」
「私が、前の世界で取り逃がした幸せな季節の回数よりも多く、何度も何度もこんな風に一緒に過ごしたいのです」
「………うん。ずっと一緒にこうして過ごそう」
ふっと寄せられ、男性的な獰猛さで僅かに焦らされ、優しい口付けが唇に落ちる。
ネアは、甘やかなその色よりも胸の中に抱えきれずに溢れてしまいそうな幸福感に、大切な魔物のおでこにこつんと額を合わせた。
「お仕事中なのに、こんな風に幸せになってしまっていいのでしょうか。でも、昨年はまだ婚約者で、そのもう少し前は、ディノのことも知らずに一人きりで過ごしていたのだと考えたら、どうしてもこの幸せをディノと分かち合いたくなってしまいました」
「……………頭突き」
「むぅ。そちらに夢中になってしまうのが解せません………」
「幸せだよ、とても。君が私の伴侶でいてくれて、こうして微笑んでくれるから」
ふくりと頬を膨らませてみせたネアに、ディノがひどく満足げに微笑んだ。
幸福そうな微笑みにはどきりとするような艶麗さが仄暗く、くらりと目眩がしそうな美貌に頬が熱くなる。
しかし、せっかく素敵な雰囲気になりかけたその時、視界の端にネアの気分を台無しにするものが現れた。
「………むぐ。そんなディノのディノが大好きな伴侶なのですが、こんな時にリースを盗もうとしている悪者を発見してしまったので、お仕事をしなくてはいけなくなりました」
「え………」
ネア達はここで、一軒の家の扉から立派なリースを盗もうとしていた鹿姿の魔物を、現行犯で逮捕した。
雪の積もった角には既に三つのリースをぶら下げているので、リーエンベルクに一報を入れて街の騎士団に引き渡しとなる。
求婚した美鹿にふられたと荒ぶる魔物は、イブメリアの祝祭の固有種なのだとか。
何でそんな迷惑な荒ぶり方をするのだと叱られつつ、街の騎士達に連行されてゆき、これから大雪の中で、リースを盗んだお家を特定しに行くことになるらしい。
「その後には、毎年現れるインスの実を食べてお亡くなりになった妖精さんを発見し、恋人さんと喧嘩をして家から出されてしまい、歩道で遭難しかけていた男性を救出しました」
「わーお。こんな日によくやるよ」
「おや、あなたのこれまでも、他人の事を言えない有様だったのでは?」
「ありゃ、ヒルドに虐められたぞ。でも、僕にはもう家族がいるから、バベルクレアはデートしないって決めたんだよね!」
「ノアは、今日のお昼にデートする筈だった恋人さんを怒らせてしまったのですよね」
「……………家族で過ごすからいいんだ」
ふっと自嘲気味に微笑んだ塩の魔物だが、このイブメリアの季節に自由になる貴重な時間として、本日もバベルクレアのお昼を一緒に過ごそうとしていた恋人がいたらしい。
しかし、なぜか花嫁衣装でやって来たその妖精を見たノアはすっかり怯えてしまい、体調が悪いので帰りたいと告げて怒り狂った恋人に髪の毛を毟られそうになりながら慌ててリーエンベルクに逃げ帰って来た。
こうして家族で祝祭を過ごすようになってから、ノアは、バベルクレアの花火の夜や、クラヴィス、そしてイブメリアの夜を恋人達に開放しなくなった。
これぞという時間を共に過ごそうとしてくれない恋人に、その女性は、今回のデートでより深い関係に持ち込もうと意気込みすぎてしまったらしい。
「花嫁衣装……………」
「ほら、エーダリアだってこの反応だよ。僕が逃げたくなるのは当然だよね!」
「大雪の中を頑張って花嫁衣装でやって来たのだと思うとお気の毒なのですが、さすがの私もその装いには慄かずにはいられませんでした………」
「まったく。花の系譜の妖精には、くれぐれも注意するようにと言ったでしょうに」
「…………あの子、重たいって思われないようにって、最初は雪の系譜だって話していたんだ。付き合い始めたら、よりにもよって水仙だったんだよね」
「ぎゃ!水仙!!」
「………呪われてしまわなかったかい?」
「そんなこともあるから、付き合う前に用心してるよ。でも、大雪の中で花嫁衣装を着て立ってる姿を見ただけですごく怖かったから、僕の心は充分に損なわれた……………」
少しだけ髪の毛もくしゃくしゃになった塩の魔物は、お行儀悪くテーブルにこてんと頭を乗せてしまい、ヒルドに叱られている。
けれどもネアは、そんな義兄が家族に甘えられる事をすっかり楽しんでしまっている事を見抜いていた。
悲しげに眉を下げてみたりはしているものの、ぬくぬくとしたお家の中で家族で囲む晩餐の安らかさに、口角は上がってしまっているのだ。
ネアも、ローストビーフの訪れに胸が弾みすぎてしまい、先程から椅子から転がり落ちそうなくらいにどきどきしているし、ゼノーシュも檸檬色の瞳をきらきらさせている。
ヒルドと街の警備などについて言葉を交わしているグラストに、花火に向けた最終確認に余念がないのか、小さく何かを呟いているエーダリア。
「そしてアルテアさんは、何かを真剣に分析しています……………」
「……乾燥雪霜茸をもどし、キャラメリゼのようにしたのか」
「むむ、海老さんの上に乗った謎の焦げ茶色の細いやつの分析ですね」
とても自然に家族の団欒の場にいる選択の魔物は、アミューズとして出された小さなグラスの中身に夢中なようだ。
薄い雪林檎のゼリーの層が重ねられ、味のアクセントになった野菜のムースの上に、ぷりりとした半生食感の美味しい大海老が鎮座し、その上に細く細く刻んだ焦げ茶色のものが乗っている。
噛み締めるとこりこりしゃきりとしたキクラゲのような食感で、ネアのような短絡的な人間がうっかり先に海老をやっつけてしまっても、残りのムースを楽しくいただけるようにしてくれた。
新鮮な雪牛のチーズと燻製ハムを入れて細く巻いたパラチンケンのクリームソースがけに、焼き栗と揚げた冬芋の食感の楽しい食べても美味しい薔薇を散らしたサラダ。
酸味のある黒パンは絶妙に焼かれていて、これから登場するローストビーフの介添人としては最高の組み合わせだろう。
今夜はエーダリアにとっての大仕事が待っているので、食前酒はとろとろ苺ジュースをシュプリで割ったものにして酔わないようにしてあるが、この苺カクテルはさり気なくベリー系のソースとも相性のいいローストビーフを引き立てる飲み物になっている。
「ローストビーフ様!」
「ネア、落ち着いて……」
「ふぁ、危うく椅子から転げ落ちるところでした。今年もローストビーフサンドは予約しましたが、やはりこの、みんなで切り分けて食べられるご馳走ローストビーフが現れる瞬間は、至福以外の何物でもありせん!」
「僕、沢山食べる………」
「ゼノも臨戦態勢に入りましたので、私も姿勢を正しますね」
「その前にお前は、椅子の上で弾むのをやめろ」
「…………む?」
結果として、ローストビーフは神の領域におわした。
ネアだけでなくゼノーシュもお気に入りの新しい香草の組み合わせはあまりの美味しさに絶望すら感じさせる程であったし、グレービーソースとベリーソースの二種類のソースの普遍的な美味しさには、きっと世界中の人々が賛同してくれるだろう。
ネアは玄人めいた行いを気取り、外側の焼き目と塩味を堪能するべく塩胡椒だけで少しいただいてみたが、やはりローストビーフとして認識しているからにはソースがあった方が美味しい。
一切れ頬張りじたばたするの繰り返しのネアを、アルテアは呆れた目で見ているが、こうして心の中の歓喜を素直に表現しながら食べられる家族の晩餐はとても幸せな時間なのだ。
ネアがじたばたすると隣の魔物がきゃっとなって目元を染めており、新しい飲み物を持って来てくれた給仕妖精はにっこり微笑んでくれている。
「ところで、まだ街の皆さんは、バベルクレアにケーキを投げつけ合っているのでしょうか?」
美味しい時間が終わり、デザートもいただいていよいよ花火が近付いてきたところで、ネアはそんなことを尋ねてみた。
エーダリアがとても緊張しているので、少しだけ気分を和ませようとしたのだ。
「……………は?」
「あら、アルテアさんはご存知ではないのですか?親しい人達の中での風習なのだそうですが、バベルクレアには、幸せになって欲しい方にケーキを投げつける催しがあるのですよ」
「今も行われているのではないだろうか。リーナが、婚約者の家族と共に行うと話していたような気がする」
「やるようですよ。リーナは、なぜか毎年容赦なくケーキを投げつけられる側だと頭を抱えていましたが」
そう微笑んだグラストに、ゼノーシュはきゅっと眉を寄せた。
食べ物をとても大事にする見聞の魔物にとって、美味しいケーキを投げるという行為はあまり好ましくないのだろう。
「ケーキを、投げるのかい?」
「ふふ、ディノには投げませんよ?」
「ご褒美ではないのかな………」
「む………。流行りの風習には、合う合わないがありますので、私達はローストビーフを美味しく食べて花火を見る夜にしましょうね」
「そもそも、何で投げつけるようになったんだろうなぁ。ウィームの人間達って、時々物凄い事を始めるよね…………」
「昨年から、祝祭の度に記念のものが発売されるようになったボールを、家族で投げ合うという新しい風習も生まれたようですよ」
「ほわ、まさか……………」
「ありゃ……………」
ここで花火の時間が近くなり、グラストとゼノーシュが最初に退出した。
二人はこれから自由時間だが、街の花火会場で屋台などを見ながら周囲の警戒もするのだそうだ。
続いて、よろよろと立ち上がったエーダリアに、苦笑したヒルドが付いてゆく。
ノアも立ち上がり、ぐいんと伸びをすると、今年も楽しみにしていてよと微笑み二人を追いかけていった。
「ウィリアムさんが来られないのが残念なのですが……」
「あいつはもう、充分に取り分を得ただろ」
「むむ?しかし、エーダリア様の花火は特別なのですよ?」
「今年は宝石魔術だろうな。独特の魔術の匂いがする」
「まぁ、宝石魔術には、独特の香りがあるのですか?」
宝石魔術には、苦味のある檸檬のような独特の香りがあるのだそうだ。
その為に、敢えてよく似た香りの香水などをつける魔術師もいるそうだが、結晶化した檸檬を削ったような独特の香りは完璧な再現が難しいのだそうだ。
「その為に、タジクーシャで宝石檸檬を買う者達は多い」
「宝石魔術を使っていると思わせる為に、使うものなのですね」
「扱う魔術を誤認させられれば、何かと有利だからな」
そう教えてくれたアルテアの横顔を見ながら、ネアは、この魔物からもそんな香りがした事があるような気がした。
様々な場所で色々な仮面をかけている、忙しい魔物なのだ。
どこかネアの知らない土地で、宝石魔術を使う魔術師のふりをすることもあるのかもしれない。
「ふぁ!」
今年のリーエンベルクの屋根の上は、いつものバベルクレアとは違う様相になっていた。
毎年この屋根の上には沢山の雪が積もっているが、大雪が明けたばかりの夜は、こっくりとした深い夜の色の縁が淡い紫色に輝いており、美しいウィームの街並みは、光を帯びた夜を湛えるお皿のように見える。
本日の大雪は、溺愛している子狐が初めて人型に転じられたお祝いの雪竜のお城と、ネアにはちょっとよく理解出来ないのだが、今月の会報が届いた雪の魔物のお城の賑わいが重複してしまったことによるものだったのだそうだ。
ジゼルの子狐は、人型に転じられたと言っても魔術補助をかけての一時的なものだが、ドレスを着たいと強請った子狐の為に雪竜のお城総出で頑張ったのだとか。
(幼女姿でのふりふりドレスとか、きっと可愛かったんだろうなぁ……………)
ジゼルは、最愛の妹達を喪って心を閉ざしていた雪竜である。
そんな雪竜の王にとって、もう一度得られた愛する者と過ごす時間はどれだけの優しさなのか。
ネアは、あの子狐こそをジゼルに委ねてくれたガレンの魔術師に感謝しつつ、そちらの幸せなお家について思いを馳せ、胸の中をほかほかさせた。
こぽこぽとカップに注がれたのは、リーエンベルク特製のホットワインだ。
毎年、バベルクレアの夜はこうしてホットワインをいただきながら、素晴らしい冬の花火を見上げる。
ディノが用意してくれた長椅子に座り、火織り毛布を膝掛けにその瞬間を待つ。
魔物達に囲まれているので、もしこの椅子がつるんと屋根から滑り落ちたらという不安に駆られることもない。
どどん、と合図の妖精の花火が上がった。
ネアはふぐっと息を飲み、花火の影が落ちた、大切な人達が沢山暮らしている宝石箱のようなウィームの街を眺める。
「は、始まりました!」
「うん。……………おや、狐だね」
「まぁ、狐さんの形の花火です!……………まさか、次のものはボール?」
「ボールなのかな…………」
「……………おい、なんだ今のは」
「ふわまるか、もしくはちびふわですね」
まずは、くすりと笑えるような花火が続き、その後は見ていてうっとりとするような美しい花火が何発も打ち上がった。
雪の結晶を模した魔術花火は、今日が大雪だったこともあり、例年よりも形がくっきりと浮かび上がって見える。
きらきらしゃわりと落ちてゆく花火の煌めきに、雪景色のウィームは光の雨の中にあるようだ。
遠くから、街の喧騒が聞こえる。
街の大通り沿いに建ち並んだ屋台の屋根が、ネア達のいるリーエンベルクからも見えた。
ひらりと飛んだ影は、あの配色からするとネアも知る雪竜かもしれない。
美味しいホットワインを飲み、夜空に重なり合う大輪の花火を見上げる。
なんて幸せな夜だろう。
「……………そろそろです?」
「うん。魔術の備えをしているから、次だと思うよ」
「まずは、アイリスの花火からですね」
「今年は、違う花にしたようだな」
「なぬ?!」
そんなアルテアの言葉に目を瞠ったネアに、ふわりと、甘く爽やかな香りが届いた。
ひらりと夜空に舞ったのは、薄紅色の小さな花びらだ。
(……………あ、)
ひゅるると花火が打ち上がる音がして、ふわりと魔術の結ばれる甘く優しい香りがした。
どどん、と鈍い音がしてその直後に空に開いたのは、はっとする程に艶やかで可憐な、白桃色の花火だ。
満開の花が咲き誇るように広がった花火の美しさに、ネアが思わず息を止めていると、ぶわっと降り注いだのは桜のような小さな白桃色の花びらだ。
その花びらが花吹雪のように降り注ぎ、淡い金色の光となってきらきらと消えてゆく。
まるで春の雨のように見える色彩なのだが、ウィームの街に降り注ぐ花びらは、なぜか華やかな祝祭の雪のよう。
花火の余韻が消えてから一拍置き、わぁっと遠い歓声が上がった。
「……………ふぁふ」
「気に入ったのかい?」
「……………ふぁい。何て綺麗なのでしょう。いつかの、歌劇場のイブメリアを思い出しました。優しくて可憐な色なのですが、光の角度で、真っ白な花びらの雨にも見えるのです」
「まさにそれを狙ったのだろうな。夜の魔術と雪の魔術の光を重ねると、白く見えるようになっている。雪雲の擬態と同じ仕組みだ」
「……………ま、まさか、あの熊さんな虫めのことでは……………」
「ネア、落ち着いて。君の楽しみにしていた花火が始まるよ」
「……………は!現実逃避をしている場合ではありません!!エーダリア様の渾身の花火を見なければです!!」
向こうで、花火の打ち上げを行なっている塔からノアが手を振るのが見えた。
ネアも手を振り返し、いよいよのその瞬間を待つ。
まだ最初の花火の興奮覚めやらぬ街からも、固唾を飲んで次の花火を待つ気配が伝わってきた。
ひゅおっと、今度の花火は重たい魔術を勢いよく打ち上げるのか、風切り音が鋭い。
はっと見上げたその先で、ぴかりと祝福の魔術が煌めいた。
どどん。
その音の直後、ウィームの夜空に広がったのは、滲むようなえもいわれぬ金色混じりの水色と、ほうっと溜め息を吐きたくなるような澄んだ青紫色。
けれどもそこに、きらきらしゅわりと散りばめられた星のような細やかな金色の粒が重なり、またそれとは別に煌めくのは、色とりどりの強く凛とした煌めきだ。
打ち上げられ、空の端まで広がっていった花火が満開になったところで、色とりどりの煌めきがばらばらと優しい雨のようにウィームに降り注ぐ。
雪明かりだけの森に落ちると、ぼうっと輝くそれは、ビーズ程の大きさの小さな小さな宝石のようだ。
祝祭の祝福を受け、大きさからは考えられないような強い煌めきを放つ宝石に、街からの歓声はこれまでに無いものになった。
「タジクーシャからの保障で齎された、屑宝石を更に小さくして花火にしたのだろう。このような形で祝祭で満たして降らせる事で、土地への魔術を返す事になり、領民達にも授ける事が出来る。…………あの程度の宝石をどうするのだろうと思っていたけれど、良い使い方だね」
「……………ふぁ!何て綺麗な花火だったのでしょう!そして、これで花火は終わりなので、私は森に繰り出してきらきらを拾いに行かなければなりません!」
「ご主人様……………」
「ぎゃ!もう森の生き物達が拾い始めています!負けませんよ!」
「……………ノアベルトが、事前に取り分けておいたものでは喜ばないだろうと話していたけれど、やはり君は、拾いに行く方がいいのかい?」
「はい!森から拾ってこそ、この花火を楽しめると言えましょう。さぁ、急ぎますよ!」
「……………相変わらずの情緒の欠如だな」
「なぜ情緒を貶されるのだ。アルテアさんも、早くそのホットワインを飲みきってしまって下さいね」
「おい、何で俺まで行く事になっているんだよ」
ネアは、塔の上にいるエーダリア達に向けて、立ち上がった場所でびょいんと弾んで見せた。
美しいだけでなく、収穫の喜びを味あわせてくれる今年の花火は、また一つ最上の祝祭の思い出として、ネアの心に刻まれた。
翌日のクラヴィスにはまたグレイシアが脱走してしまうのだが、ウィームでは、宝石魔術の花火で降り注いだ小さな宝石のかけらを集める領民達や、小さな生き物達がそこかしこで見られるようになる。
回収されずに、屋根の上や森の中に残された宝石のかけらは、一週間もするとその場に溶けてしまい、落ちた場所の魔術を整えて満たしてくれるのだとか。
リノアールやアクス商会などでは、急遽、花火から落ちた宝石を飾る為の泉結晶の小瓶や箱が売り出され、爆発的な人気を集めたのたそうだ。
暫くすると、小さな宝石を記念として宝飾品などに加工する領民達も増え、ウィームの住人達は、素敵な贈り物を誇らしげに身に付けている。




