王子の婚約破棄と騎士の思惑
「久し振りだな。相変わらず醜い女だ」
「……………え」
突然の挨拶に目を瞠ったレイノに、その男性は冷ややかな美貌に冷めきった表情を浮かべる。
レイノの隣の席の同行者が、突然の暴言に驚き目を丸くしてしまっているが、レイノが適切な返答を選べずにいる内に、男性は呆れたような溜め息を吐き、隣の席に勝手に座ってしまった。
「……………久し振りに会う婚約者に、まともな挨拶も出来ないのか」
「…………想定を裏切る邂逅に、驚きを禁じ得ません。あなたは、婚約したからには私のことが好きだったのかと思っていました」
「は!私が君をか?馬鹿馬鹿しい。自分の鏡を見てみ給え。その汚らしい暗灰色の髪と灰色の瞳、取り立てて美しくもない顔立ち。おまけにその可動域だ。なぜ私が君を想わなければならない。あくまでも、家同士の定めた婚約だ。…………まさか、ずっとそのように思い込んでいたのではあるまいな?」
ここでレイノは、隣の席に座り穏やかに微笑んでいるが、その手を剣の柄にかけている護衛騎士にうっかりを装って下ろした手をぶつけておいた。
こうでもしておかなければ、この騎士は婚約者を叩き斬ってしまうだろう。
それでは困るのだ。
「私とは違い、ご自身で指定出来るお立場だからこそ、お気持ちを反映して選ばれたのだと思っていたのです。エンリケ様のお気持ちはよく分かりました。私は、どうやら思い違いをしていたようですね」
「ふん、婚約者の気分すら察せない愚鈍な女だったようだな」
「まぁ、こうしてお会いするのは二回目なのですよ。どのように想って下さっているのかを知る術もないので、状況から判断したまでですよ」
「ああ言えばこう言う。どこまでも可愛げのない女だな。お前のような女を愛する者など、いないのも当然ではないか」
その言葉にふと、レイノは考える。
かつて、そんな鬱屈とした憤りを自分の心に向けた日々があり、その時に何度同じような言葉を聞いただろう。
こんな厄介な人間など、誰からも愛される筈がない。
それなのに愛されたいと願うのだから、救いようがない愚かな人間ではないか。
街にいる、幸せそうな家族連れや恋人達を眺め、その度に何度もそんな諦観のナイフで縫い止めて自分を宥めた。
せめてもの救いは、自分が自分をこの上なく愛していた事くらいだろう。
そんな風に自分を傷付けた日はいつも、帰り道に奮発して美味しいものを買って帰ったものだ。
それは例えば、いつもより少し多めの紅茶だったり、新鮮なオレンジだったりした。
ハムやチーズを憂さ晴らしに当てられるかどうかは、前後三ヶ月の予定による。
三月後にどうしても郊外に小旅行に行きたいのであれば、どれだけ残りの日々から飲まず食わずの日を捻出するにしても、やはり使えるお金は限られているのだ。
あの日々の温度が心の中で揺れると、やはり今でも少し怖くなる。
どれだけ幸福になったとしても、過去というものは簡単に拭い去れるようなものではないのだ。
「……………さて、それはどうでしょう。世界には色々な方がいますから、こんな私ともぴたりと嵌る方がいるかもしれません」
「そのような相手を見付けていい気になっているのだとしても、それはひと時の物珍しさからだろう。満足すればお前は用済みだ」
「であればそのひと時が、私にとっての長い時間であることを願うばかりです。そして、今日はどのような事情で私に会いに来られたのですか?」
レイノがそう尋ねると、婚約者である男性は小さく溜め息を吐いた。
正直なところ溜め息を吐きたいのはレイノなのだが、ここはにっこり微笑んでみるしかない。
彼は王子で、レイノはその臣下なのだ。
その役割が適応される限り、悪態をついてお相手を踏み滅ぼすのは、エンリケの婚約者の作法ではないだろう。
理性の鎖が辛うじて繋がっている間は、こうして微笑んでいようと思う。
(野外劇場の第二王子……………)
それは、旧ロクマリア域の傭兵の手でウィームに持ち込まれた、恐ろしい亡霊の名前だ。
先日の武器狩りの際に落とされた呪いの魔術が、この野外劇場の一画に芽吹いてしまったらしい。
小さな種の形をした術式は、土を得て開いた呪いの舞台に亡霊を生み出し、エンリケという名前の亡霊が認識した女性を呪い殺してしまう。
それが判明したのは二日前の事で、ウィームでは既に、一人のご令嬢が命を落とし、二人の少女が自殺未遂をするという痛ましい事件となっていた。
発覚が遅れたのには理由がある。
(………想っていた男性からの拒絶による自死。呪いだと気付いて対処されない場所で使われたなら、完全犯罪となるのも頷けるわ。最初に起きたのが自殺未遂だったこともあって、呪いが影響したのだと気付ける人がいなかったのだ………)
最初の二人の犠牲者も、婚約破棄があったことを譫言のように呟いていたが、不幸な事に彼女達にはそれぞれに望まない顛末を迎えた恋があった。
最初の一人は二週間前に恋人と別れたばかりであったし、次の一人は、二年前に長く共に過ごした伴侶と別れ、今でもそれを嘆いていたという。
周囲は、彼女達の心の傷が思っていたよりも深かったのだろうと考え、自殺未遂と呪いを結び付けて考える事はしなかったようだ。
しかし、最後の犠牲者となった女性は、そうならなかった。
三人目の女性は、婚約破棄されたと言い残して命を絶ってしまうのだが、彼女には婚約者などいなかったことを疑問視する声が上がる。
街の騎士団が調べたところ、確かにそれらしき相手の影はなく、何かがおかしいとリーエンベルクの騎士達の調査も入り、この呪いが根付いていたことが判明したのだった。
この呪いの核となるのは、三百年ほど前に婚約者である第二王子に謂れなき罪で婚約破棄をされ、自死した伯爵令嬢の残した呪いである。
特徴的なのは、この呪いが、伯爵令嬢の、自分を絶望させた男への未練や憎しみで象られていない事だ。
愛していた人に無残に裏切られた伯爵令嬢が感じた絶望や恐怖が、癒されずに囚われたまま生み出された呪いだからこそ、こうしてエンリケ王子が現れるのである。
(この呪いに取り込まれると、伯爵令嬢の記憶を追体験してしまう。自分が愛されていた人に手酷く捨てられたような気持ちになって、伯爵令嬢と同じ運命を辿るのだとか……………)
なぜそんな危険なものにレイノが接触しているのかと言えば、障りなくこうして対面出来るのがレイノしかいなかったからである。
強い強い呪いなのだ。
魔術階位はとても低く、呪いの発端となった出来事も決して珍しい出来事ではない。
けれども、件の伯爵令嬢にとって、エンリケ王子からの婚約破棄は例えようもなく恐ろしく悲しい出来事で、染み付きひび割れた彼女の魂の悲嘆があまりにも深かった。
その結果、この呪いは階位の高い魔術師にも浄化出来ないものとなったのだ。
誰にも癒せない深い傷。
そして、誰にも救えない終焉。
伯爵令嬢を殺したその強い思いは、彼女が自分を裏切った婚約者をそれだけ愛していたからこそ記された呪いの言葉なのだろう。
今はもう、呪いだけが残るばかり。
この呪いを退けられるのは、他者を愛さない者。
そして、終焉の加護を持つ者だけだ。
とは言え、前者の条件はそうだと思っていても違ったとなれば取り返しがつかない。
だからこそ、後者の条件を満たしているレイノでなければならなかった。
「二人で話がしたいと伝えておいた筈だが、従者を連れてきたのか」
「エンリケ様、私はこれでも良家の娘ですよ。侍女や騎士もなく、このような場所に一人で来られるでしょうか?」
「……………つまらぬ女だな」
「それが身分というものです。私が決めるのではなく、それは社会が定めたもの。それを覆し一人で叱責の危険を負えというにはあまりにも、……………私はあなたを知りません」
「私は王子だぞ?この国で、これ以上確かなものがあるだろうか。ましてや、お前のような醜い女に手を出す程に不自由してもいない」
静かな声は、穏やかにすら聞こえた。
あんまりな人格だなとは思うものの、この人はそれでも王子に相応しい品格は備えているのだなと、レイノはおかしなところで感心してしまう。
ただ、自分の婚約者を毛嫌いしているだけだ。
だから彼は、突然の婚約破棄に動揺し、もう一度彼と話をしようとしても叶わずに王宮に忍びこんだ婚約者を断罪し、彼女が自死する程までに追い詰めた。
「あなたの身分が確かなものなのは間違いありません。そして、確かに私に殿方の持つような不埒な欲は向けませんでしょう。ですが、私が供の者も付けずに出歩けば、世間は醜聞だと面白おかしく噂をするかもしれません。私にとって、よく知らない婚約者への想いはそのような対価を支払うほどの価値はないのです」
微笑みそう言ったレイノに、エンリケは僅かに目を瞠った。
「………愛されないことへの意趣返しか」
「あら、そんな事はいたしません。意趣返しが必要であるなら、私はあなたをお慕いしていなければなりませんから。先程もお話ししたように、今日でお会いするのが二回目なエンリケ様にそのような思いを抱くのは、流石に難しいかと」
「よく喋る女だな。だが確かに、お前のような取り柄のない女が社交界で立ち回るには、弁でも立たねばなるまいか」
そう言われてしまえば、レイノは、相手は呪いだと分かっていてもむしゃくしゃした。
弁が立たない王子も色々と問題だが、ああ言えばこう言うのはこの王子の方ではないか。
そして、彼の責任ではないとは言え、物事の認識がたいそう偏っている。
(呪いの核になった伯爵令嬢さんの、婚約者への評価が高過ぎる!!)
これだけ呪いの道筋の中でレイノが踏み留まって抗っていても呪いが揺らがないのは、命を絶った伯爵令嬢の認識こそが呪いの中に生まれたエンリケを編んでいるからだ。
この種の呪いを穏便に解くには、呪いの道筋を歪めて記された筋書きを全うさせないのが一番なのだ。
それなのに、まだまだ食らいついてくるのか王子よと、レイノはとても暗い目になる。
今回の作戦はとても単純だ。
レイノは、呪いの中でエンリケの婚約者として彼と出会い、けれどもその呪いの筋書きを完成させなければ良い。
(でも、婚約者であるという前提を崩せない以上、例えば、既に既婚者ですなどという反論は出来ないから、………)
なので、婚約破棄されても悲しくありませんし、勿論自殺などしませんという感じで呪いを解く対策を立てていたが、こんなやり取りが続くと、何とかしてエンリケ王子をずたぼろにしてやりたいという衝動に負ける方向に取り乱してしまうかもしれない。
己の獰猛さを恥じつつも、不実な男性をくしゃぼろにして報復したいと思ってしまうのは乙女の性だろうか。
女性なら誰だって、愛する人に傷付けられて命を絶った女性の物語には心を揺らすだろう。
おまけにそれは、呪いに取り込まれないよう対策を立てて名前を変えたレイノですら、限りなく自分ごととして認識される。
「ふふ、エンリケ王子は負けず嫌いなのですね。ですが、どうあっても私の騎士は遠ざけられません。仮にも王子なのですから、ご理解下さいね」
「どのような思考なら、私が負けず嫌いになるのだ……………」
「こうして、私を言い負かす事に夢中になられて、すっかり話が進まずにいるからです。ご用件がおありなのでしょう?早く済ませて下さいませんか?」
「言い負かすことに夢中になってなどはいないが、………ふむ。確かにお前と無駄な時間を過ごすのは我慢ならないな。それなら、手早く済ませてしまおう。レイノ、お前との婚約を破棄する」
「まぁ、エンリケ様はもう私の婚約者ではなくなるのですね。では、御機嫌よう」
「………っ、待て!なぜすぐに帰ろうとしているんだ?!」
用件が終わったのでと立ち上がろうとしたレイノは、なぜか目を瞠った王子に腕を掴まれた。
婚約破棄までがこの呪いの筋書きだったのではと眉を寄せれば、呆然とこちらを見ているエンリケの瞳の色が宝石のような青色である事に気付いた。
耳下で切り揃えられた銀髪が、さらりと揺れる。
(……………おかしい)
腕を掴まれたレイノは、ぎくりとした。
この呪いの中で、エンリケの容姿は決して認識されない筈なのだ。
呪いは呪いらしく、本来、獲物を最も引き摺り込みやすい色彩を帯びる。
しかし、この呪いは伯爵令嬢の強過ぎる悲嘆を元に生まれたものなので、呪いが転じようとするその色彩が濁るらしい。
結果としてどちらにも偏らず、この呪いの中でエンリケの髪や瞳の色が認識される事はないと聞いていたのだ。
その瞬間、エンリケの腕を引き剥がして二人の間に割って入ってくれたのは、レイノの護衛騎士だった。
前髪を上げた淡い砂色の髪に、どこか酷薄な白金色の瞳が鋭く細められる。
禁欲的な印象すら与える清廉な騎士服は、銀色と水色と基調にした美しいものだ。
「………っ、何をする!」
「王子、申し訳ありませんが、俺の主人に触れないでいただきたい。婚約を破棄したのであれば尚更です」
「公爵家の騎士の分際で、私の手を払うか」
「これもまた、社会の定めた倫理によるものです。婚約者でもない未婚の女性に触れる事は、あなたとて許されておりませんことを、どうかご理解下さい」
(……………騎士さんだ!)
こんな時ではあるものの、ネアは驚いてしまった。
騎士に扮し隣にいてくれた終焉の魔物は、見事なくらいに護衛騎士の役割を演じてくれている。
それと同時に、この呪いの中での自分は、なぜか公爵令嬢にされてしまうのだなと呆れる思いもあった。
第二王子ともなれば、王位継承者の中でも次代の国王になり得る人物だ。
確かに、公爵家の令嬢でもなければ釣り合わないだろうが、だとしてもなかなかに凝っている。
しかし、呪いの核となったのは伯爵令嬢な筈なので、その辺りの差分は謎と言えよう。
(あ、……………もしかして私は、自分を本当の名前で認識してしまった………?)
また一つ異変に気付き、ネアはぞっとした。
思考の中だけとはいえ、かけられた偽名が剥がれている。
それは、呪いへの対抗となる魔術が、損なわれたという事に他ならない。
慌ててウィリアムの影に隠れると、エンリケが不愉快そうに目を細める。
「…………ほお、護衛騎士と主人としては随分親密なようだな」
「おのれ、設定がぶれぶれではないですか!婚約破棄するのであれば、私には興味などないでしょう。婚約破棄は承知しましたので、そろそろお帰り下さい」
「設定……………?」
「私の存在をたいへん不愉快に思われていて、婚約破棄をする為に来られたのでしょう?」
ネアとしてはぴしゃりと言ってやったつもりなのだが、エンリケは瞳を細めてより剣呑な表情になっただけであった。
「婚約者だった筈の者が、不貞行為を働いていたとなれば話はまた別だ」
「なぜ、そのようなお話になるのでしょう。彼は、あなたが婚約破棄をして他人になった筈の私の腕を掴んだので、こうして間に入ってくれたのです。至って良識的な行いではありませんか」
「それにしては親しげではないか。やけにあっさりと婚約破棄を了承したことといい、不貞を働いていたとしか思えぬ」
「総計二回しか顔合わせをしていないよく知らない上に、意地悪なことを言う相手から婚約破棄をされてもちっとも辛くはありません!あっさりしているのも当然でしょう」
「私との婚約なのだぞ?」
ぽかんとしたままこちらを見たエンリケに、ネアは、がうっと吠えたくなった。
この男性の思い込みが激しいと言うより、やはり、核になっている伯爵令嬢の彼は完璧だという思いが強過ぎるのだろう。
エンリケに婚約破棄をされる事が死ぬしかないという決心に繋がる、彼を至上とした世界の縛りはとても強い。
「理解不能という顔をしないでいただきたい。もう一度説明して差し上げますから、ご自身に置き換えて考えてみて下さい。殆どよく知らない、ましてや自分に対して好意的ではない人物なのですよ?」
「………婚姻とは、そのようなものだろう。理由や才能もなく好かれるとは思っていたのなら、それは見込違いだ」
「それはあなたにも言える事ですね。前述の通り、私にとってのエンリケ様に、婚約者としての価値はほぼ無に等しいと言わざるを得ません。なお、私はとても自分が大事なので、高貴な方の婚約者や伴侶として重責を担う立場の煩わしさには、さっぱり魅力を感じません」
こくりと、誰かが喉を鳴らした。
こちらを見る呪いの中の亡霊は、不思議な熱心さでネアを見ている。
「……………では、なぜ婚約したのだ」
「家同士の約束だからでしょう。王家からの申し出を断らずにおりましたが、エンリケ様から破棄いただきとてもご機嫌な気分です!」
苛々している人間はとても雑になる。
拳を握ってそう宣言したネアに、エンリケは青い瞳を揺らし、どこか無防備な顔でこちらを見る。
これはいけるかなと感じたネアは、更に追い討ちをかけることにした。
「なお、エンリケ様は私の好みでもありません」
「……………そうか」
「そろそろ、歌劇が始まる頃合いでしょう。お忍びの王子様が、このような野外劇場でお一人でおられるのはあまり良い事でもありません。お帰りいただいた方が宜しいかと」
「お前は、この舞台を見てゆくのか………?」
「ええ。始まる前に揚げドーナツを買いにゆきたいので、この時間はとても貴重なのです」
「……………そんなものの為に、婚約者の私を追い返すか」
「なぜ婚約者に回帰したのだ。解せぬ」
「…………そうか。お前の目には、私が人として映っているのか」
ふっと呆れたような美しい微笑みを見せられても、ネアは少しも嬉しくなかった。
困ったようにウィリアムを見るしかなく、この呪いはちょっとおかしいのではないかなと首を傾げる。
「……………うーん、もしかすると気に入られたのかもしれませんね」
「嬉しくありません。お引き取りいただきたい」
「……………細かい事は分からないが、こちらの人格も、術式の中ではある程度自立していたのかもしれない。………或いは、本物の魂が術式の中に囚われてそのまま魔術亡霊に成り果てたか。……………となると、呪いの枠組みを超えて認識された事で、却って力を持ち始めた可能性があるな」
その呟きは、ネアにだけ聞こえるようにしたのだろう。
公爵令嬢に仕える騎士としての演技ではなく、この呪いが手に負えなくなった場合には滅ぼす為に同行してくれた、終焉の魔物としての言葉だ。
しかし、少しだけ聞こえてしまったのか、エンリケが訝しげに眉を寄せる。
「その騎士は、何を言っているのだ………?」
「ふ、踏めば滅びますか?」
「はは、そんな事をしなくても、俺が何とかする」
「……………ネア、」
(……………っ?!)
名前を握られた。
そう感じた瞬間に、心臓がぎゅっと縮こまるような恐怖を覚え、ネアはウィリアムにしがみついた。
ばさりと翻ったケープの音に、リーエンベルクの騎士服を模した騎士風の擬態を纏ったウィリアムにしっかりと抱き竦められる。
「最初から、俺の領域で縫い止めてあるから問題ない。少しの間だけ、目を閉じていてくれ」
そう告げた声の直後、大きな手で頭を抱き込まれるようにして耳を塞がれる。
ネアは目を閉じてウィリアムにぎゅっと抱き着くと、その瞬間をただ待った。
「……………ネア、もう終わったぞ」
「…………ふぎゅ。もういません?」
ざざんと、風が吹く。
そこはもう、先程までいたウィームの野外劇場ではなく、郊外にある寂れた古い劇場跡だ。
ウィーム王朝時代に作られた野外劇場の遺跡で、森に侵食された劇場跡は、どこか、人々の記憶からも打ち捨てられたような寂しい場所だった。
エンリケの姿はなく、劇場を埋めていた観客の姿は消え失せ、物売りの声ももう聞こえない。
先程までの光景は全て、エーダリアを含めたウィームの魔術師達が、この場所にウィーム中央にある野外劇場の光景を投影していたのだ。
「やはり、呪いの核を切った事で、向こうとの接続も途切れてしまったみたいだな。無事に終わった事を連絡しておこうか」
「…………あの呪いそのものは、もうないのでしょうか?」
「ああ。………だが、こうして術式を解かずに壊してしまうと、二次的なものが、どこかでまた目を覚ます可能性はある」
階位に見合わないだけの力を持った呪いは、これまでにどれだけの犠牲を出してきたのだろう。
人々の認識から派生する人外者がいるように、人々を恐れさせた強い異端の魔術からも、時折、命を持つものが生まれる。
ましてや、この呪いのように登場人物を得た魔術は、内側に芽生えた役者がそこから離れて一人歩きし易い危ういものだ。
だからこそ、ネア達は丁寧に術式を解こうとしたのだが、今回は失敗に終わった。
「ごめんなさい、………もっと簡単に対処出来ると思っていたのですが、力不足で上手に出来ませんでした」
「いや、こればかりは仕方ないさ。呪いの中に生まれたあの男の嗜好など、誰にも分からないんだ。俺も、まさかあの亡霊が、ネアを気に入るとは思わなかった」
「どこかで、……………いつかこの呪いがまた目を覚ましたら、私がつけ狙われたりするのでしょうか?」
「いや、この呪い自体は一度滅びている。呪いに付随する記憶から、世界のどこかで新しいものとして派生する余地を残したというだけだから、その心配はないだろう」
「……………ふぁい。ほっとしました」
「だが、その派生したものが、またネアを気に入ると困るからな。該当しそうな噂を聞いたら、近付かないようにしてくれ」
「はい………」
どこか、遠い遠い過去で、一人の伯爵令嬢が想いを寄せた王子から婚約を破棄された。
それは、物語でよくあるように王子が他の候補者を見付けたからというものでもなく、単純に、自分の婚約者を疎んじただけだったと伝えられている。
史実には、該当する名前の王子が婚約破棄の四年後に戦死した事は記されているが、婚約破棄に至った王子の側の理由は記録になく、確かめようもない。
呪いの中に現れたエンリケは褒められた言動ではなかったものの、それは失意のあまり自死した伯爵令嬢が作り上げた彼であり、本物の彼もそうだったとは限らないのだ。
(……………ウィリアムさんが言うようにあのエンリケ王子が、呪いに囚われた本物のエンリケ王子の魂だとしたら…………)
彼もまた、悲しい人だったのだろうかとほんの少しだけ考えた。
決して個人の感情などでは動かせない筈の王族の婚姻だろうに、愛する事が出来ないからと婚約を破棄してみせた誠実な男性だったのかもしれない。
ネアは、ピンブローチの魔術通信端末からエーダリア達に連絡を取り、内側に派生したエンリケ王子の自立が思ったより進んでいたようで、呪いを解くことは出来なかったと説明してくれたウィリアムの言葉を聞いていた。
このような時、魔術を感じ、見て理解出来ないことまでを語れないネアは、もどかしい気持ちになる。
適切な言葉を選んで説明してくれるウィリアムを頼もしく思いつつも、真っ直ぐにこちらを見た呪いの中の王子の青い瞳を思い出す。
その人を美しいと思い、手を伸ばしたくなった刹那の熱情は、彼を愛した伯爵令嬢のものだったのかもしれない。
(もし、元の世界にいた頃の私がこの呪いに出会ってしまったら、犠牲になったお嬢さん達のように、死を選んでしまったのだろうか……………)
そう考えると胸が苦しくなったのは、やはり、呪いの中で触れた、エンリケがここにいるという感触があまりにも生々しかったからという気がする。
「ネア、シルハーンがすぐに来てくれるからな」
「ウィリアムさん、今日は一緒に来てくれて有難うございました」
「いや、予測よりも呪いが育っていたのなら、尚更俺が一緒で良かった。………ネア」
「むぐ。なぜぎゅっと抱き締められたのでしょう?」
「今回の呪いは、あの男を愛するように幻惑させる効果もあるからな。確か、ネアは王子より騎士派だったよな?」
「むむ、それは否定出来ません」
「それならここで、俺を選ぶと言葉にしてみてくれるか?」
「……………む?」
「婚約も婚約破棄も、人間の領域では言葉の魔術の一つだ。影響が残らないよう、言葉で崩しておこう」
そう微笑んだウィリアムは、髪色の擬態は解き、身に纏う騎士服は純白になったものの、その造作はまだ騎士服のままだ。
どこか悪戯っぽく微笑みを深めると、ウィリアムは、おもむろにネアの足元に跪いた。
「あのような王子ではなく、俺を選んでくれますか?」
そう尋ねられ、ネアは騎士遊び万歳と叫びたくなった。
びょいんと弾んでしまい、にっこり笑って勿論だと宣言する。
「はい!私は、騎士さんの方がいいです」
「ネアの騎士が、俺でもいいか?」
「……………む?はい」
「それなら、オフェトリウスとの騎士契約はなしだな」
「なぬ………」
呆然として目を瞬いたところで、エーダリア達のところで待機させられていたディノが駆け付けてくれた。
そんなディノに、ウィリアムが、ネアは、オフェトリウスではなくて俺でいいみたいですよとにこやかに告げている。
事態が飲み込めず、哀れな人間はおろおろするばかりだったが、帰ってからダリルに打ち明けてみたところ、そちらの魔物達の方が一枚上手だったかと溜め息を吐かれた。
然し乍ら、書架妖精曰く、リーエンベルクの騎士のように騎士は何人いてもいいという事らしい。
いつかの需要の際には、オフェトリウスにはウィリアムの下で我慢して貰うより他にないそうだ。




