寝過ごし列車と祝祭の森 1
ちらちらと木漏れ日が光り、車窓から複雑な森の模様を列車の床に落とす。
ごとんごとんと音を立てて走る列車は、雪の森の中を切り分けてゆくようだ。
頬を寄せた窓は冷たいが、車内はコート姿でじんわりする程に暖かく、窓辺の清涼さにネアは目を細めてむふぅと息を吐いた。
素晴らしい一日が始まってしまったと考え、うきうきと弾む心に唇の端を持ち上げる。
今日のネアは、ウィーム中央駅から列車に乗ってブナの森駅の少し手前の駅にある豊かな森に出かけ、その森の小枝を一本貰ってくるお仕事なのだ。
冴え冴えと晴れ渡る雪原は、晴れやかな青と白。
雪を被った木々の枝葉の深く豊かな緑に、青い青い氷の断面と木漏れ日の金色。
冠雪の山々はアルバンの辺りだろうか。
山の麓にだけ立ち込めている霧の中をひらりと飛んだのは、雪竜かもしれない。
ネアは目を凝らし、窓の向こうを眺めては目をきらきらさせ、車内販売のお茶などを購入して短い旅を堪能していた。
途中で、隣に座っている魔物が車内販売のメランジェの紙カップを凝視しているので、慌てて、記念品好きな魔物の為にお持ち帰り出来るお土産も買ってやる。
「奥に美しい山々を望む森と雪の組み合わせが、なんて素敵なのでしょう。どこかに出掛けてゆくという感じがしてわくわくしますね」
「ネアが可愛い…………」
「程よく雲があって青空も覗いているという、とてもいいお天気ですし、昨晩は狐さんのミートソース事件がありましたが、めげずに今日にして良かったです」
「どうして飛び込んでしまったのかな………」
「たくさん食べられると思ったようですよ?」
「ノアベルトが……………」
ディノとそんな話をして、二人で窓の外を見たりしながら列車に乗っていると、なぜか列車が止まり、急な停車を訝しむお客達の元に車掌がやってきた。
どうやら、線路の上に寝ている雪熊がいるらしく、起こしてからどかすまでの間、暫く停車となるらしい。
さほど時間はかからないと言うので、ネア達はのんびり待っている事にした。
そこまでの記憶はある。
しかし、ごとんと大きく揺れた列車に目を覚ますとそこはもう、見知らぬ土地であったのだ。
「……………ぎゅわ。我々の行き先は、この森なのです?」
「雪松の森ではなさそうだね…………」
「…………にょり、……………乗り過ごすました」
どうやらネア達は停車時間の間に居眠りをしてしまったらしく、目が醒めると列車は見たこともない森の駅に停まるところであった。
車窓から覗けば、灰色がかった水色の壁にくすんだ赤色の屋根が可愛い駅舎がある。
赤い屋根は瓦屋根にも見えるが、よく見れば艶々とした木の皮めいた質感のものを重ねてあるらしい。
煙突が見えるので、駅舎の中には暖炉があるのだろうか。
ネアは目を瞬き、隣の魔物から持たされた三つ編みをぎゅっと握った。
「……………降りますか?」
「うん。終点のようだから降りようか」
「なぬ。我々は終点まで寝ていたのですね…………」
(昨晩遅くに、ミートソースで溺れた狐さんを、みんなで洗ったりしていたから、ついつい居眠りしてしまったのだわ……………)
残念ながらこの駅が終点となり、折り返し運転はないということなので、ネア達はひとまず下車することにした。
魔術の記された切符を先頭車両で車掌に渡すと、勿論追加料金を取られてしまったのだが、幸いなのはこの終点の駅がとても賑やかな事だ。
大きな駅舎は軒先にみっしりと香辛料を束ねたものやドライフラワーのリースを吊るし、一定間隔ごとにかけられた黄水晶のランタンの中には、綺麗な水色の炎が燃えていた。
どこかで、ぱちぱちしゅーしゅーと音を立てて燃えているのは、ここからは見えないものの駅舎の中にある暖炉に違いない。
(薪の水分が多いのかな……………)
しゅーしゅーという音がする場合は、薪の乾燥が完全ではない事が多い。
或いは、少しばかり水分が多めで、霧を立てる為に暖炉に放り込む霧松や露夜栗などを使っているのかもしれない。
「賑やかな駅ですね……………」
「不思議な魔術の祝福のある場所だね。危険なものはないようだよ」
「それを聞いて安心しました。むむ、この賑やかさだと、おみやげ物屋さんもあるのかもしれません……………」
ネア達は駅舎の大屋根を見上げると、苔むしたホームを歩いた。
もふもふした深緑色の苔には丸い結晶石のようなものがついていて、ぽわりと明るく光る。
ネアは実なのかなと思ったが、ディノ曰く花なのだそうだ。
「露守り苔だね。その小さな花の中に祝福の豊かな露を蓄えているんだ。普通のものは青色だけれど、ごく稀に紫に光るものがある。それは障りを蓄えているから触れてはいけないよ」
「可愛らしいお花ですね。珍しいものなのですか?」
「いや、このような岩が多くて霧深い森では珍しくないのではないかな。ここも、……………祝福の濃さは珍しいものの、普通の駅のようだしね」
「あわいや影絵ではなくて、ほっとしました。むむ、そこに駅名が書いてありますよ!」
「……………季節の駅」
「季節によって、駅が変わります。…………これは、季節の味覚的な…………?」
「季節の味覚…………」
ディノは不安そうに視線を彷徨わせ、ネアが三つ編みをしっかり握っているかどうかを確認している。
駅名の看板の下に駅名の由来が書かれていたので二人で覗き込むと、この辺りは季節の祝祭魔術などを蓄える土地で、その季節ごとの特徴を色濃く反映するのだとか。
「まぁ。駅舎の外観や土地の魔術特性も、季節に応じて変化するようですよ」
「珍しい土地だね。ただ、多くはないけれど、幾つか同じような土地の噂を聞いたことがある。カルウィにもあったのではないかな」
「今の時期は、イブメリアでしょうか。……………ボラボラの季節は、お子様の安全に気を付けて下車下さいと書いてあります……………」
「ボラボラも来るのかな……………」
恐ろしい表記を見付けて震え上がったネア達は、今がイブメリアの時期で良かったと安堵し、我が身の幸運に感謝した。
よく見れば、ウィーム中央のような華やかなイブメリア飾りではない代わりに、駅の周囲の森のそこかしこには、素朴で温かい風合いのリースやオーナメントのようなものが吊るされているようだ。
木々の枝に絡みついてぼうっと光っているのは、真っ赤なインスの実だろうか。
「……………少しだけ積もっている様子もありますが、あまり雪はないのですね」
「生い茂った木々が大きいからだろう。頭上の明るさは、空が見えている訳ではないようだよ」
「……………ふぁ!枝に積もった雪が光を透かして、空のように見えていたのですね!」
ネアはここで、リーエンベルクに連絡をして、恥ずかしながら乗り過ごして終点の駅まで来てしまった事を伝えておいた。
森に向かう仕事は二人で済ませられるものだったので、誰かを待ちぼうけにさせることはないものの、帰りが遅れるのは必至である。
するとなぜか、ピンブローチの通信の向こうで、考え込む気配があった。
「…………季節の駅で降りられたのだな」
「なぬ。エーダリア様がとても反応しています……………」
「ネア、これから私とノアベルトがそちらに行くことは可能だろうか。転移を使うが、場を開ける事は出来そうか?」
「まぁ、こちらにいらっしゃるのです?」
「ああ。その駅は、魔術溜まりを守る為の特殊な構造になっていて、偶然ではないと降りられない場所なのだ。家族や知り合いがいれば呼び込めると聞いているのだが、今迄機会に恵まれなくてな」
「ディノ、」
「……………うん。問題ないと思うよ。ホームでいいかい?」
「むむ、切符をお持ちでないので、改札を出たところにしましょう!」
かくして、急遽ネア達の本日の仕事は変更になり、お忍びのウィーム領主の視察の同行をする事になった。
この駅は、季節の資質や祝福を多く溜め込むので、そのようなものを土地から持ち去られないように特別な守りの魔術がかけられ、領主であるエーダリアですら訪れるのは二回目なのだとか。
「……………なので、ウィームに着任した直後にダリルと共に視察に来た以来だ。もう一度来ておきたかったので、助かった」
「わーお、こんな作りになっているのかぁ。僕の場合は土地そのものへの侵入は可能だけれど、継ぎ目になっている駅舎には、正規の訪れじゃないと立ち入れないからね」
「二人とも、ちょっと待っていてくれますか?我々は、これから季節の駅限定の記念品などを買う予定なのです」
「……………私も並ぶ」
「なぬ……………」
「ありゃ。食いついたぞ」
ノアがくすりと笑うとエーダリアは目元を染めたが、前回に来た時は正式な訪問であったので、自分で見たいものに時間をかけたりは出来なかったのだそうだ。
こちらに訪れた最初は感慨深い領主の目をしていたが、今はもう、サムフェルの時と大差ないきらきらの眼差しになってしまっている。
「駅の周辺には商店などがあり、その奥はもう季節の森が広がるばかりなのだ。夏には湖も見られるそうだが、この季節はないだろう」
「この駅舎もとても素敵ですよね。見て下さい、あの大きな暖炉を!駅の歴史という看板によると、あの暖炉で薪を燃やす事で、祝祭の魔術を呼び込んでいるのだとか」
「ほ、他の季節とは仕組みが違うのか……………」
「まぁ、他の季節は違うものがあるのですか?」
「私が訪れた春先には、駅の中に大きな噴水があったのだ。……………この季節は暖炉になるのだな……………」
ネアの説明に、エーダリアはすっかり興味津々になってしまい、目を輝かせて大暖炉を見ている。
暖炉には新しい薪を入れたばかりなので、炎には鮮やかなオレンジ色や赤が目立ち、大きく燃え上がってしゅーしゅーと音を立てていた。
青白い炎が燃えているのは、それより前に入れられた薪の周りだ。
それらの薪はすっかり黒くなり、内部を真っ赤に燃やしてじりりと音を立てている。
ばちんと弾けるような音を立て火の粉が立ち昇る様は、暖炉内で行われる行事の中で、ネアが最も好きな瞬間の一つだ。
妖精の光のような火の粉が煙突に吸い込まれてゆく様子は、間違いなく、暖炉を眺める時間の中でも一つのクライマックスであると主張したい。
時折、ヤマアラシのような生き物が、紐で束ねた香草の束を暖炉に投げ入れているのだが、可愛らしい帽子姿からすると駅員なのだろう。
しゅうしゅうと音を立てて燃える香草から素晴らしい香気が立ち登り、暖炉の周囲は良い匂いに包まれる。
少々煙が立つのが難点だが、それでも、災い除けの煙を服に焚き染めてゆく者達は多い。
「あの煙で、降車客達の森歩きを助けているのだな」
「はい。森を歩く予定があり、災い除けの守護や道具を持っていないのであれば煙を浴びておくようにと、改札を出る際に説明していただきました。悪いものが寄ってこなくなるのですよ」
「へぇ。暖炉から呼び込む祝祭の魔術と混ぜているんだなぁ。これはあまりない魔術の使い方だね」
「魔術の混ざり方が、何とも言えない美しい色になるのだな……………」
「むぐる。見えません…………」
「ご主人様……………」
ネアには見えないが、暖炉の周囲を取り巻く魔術の光の粒子が美しいマーブル色になっているのだそうだ。
エーダリアは駅の記念品の列に並びながらその様子をじっと見ており、ほうっと吐いた溜め息があまりにも満足そうで、ネアは微笑んでディノと顔を見合わせた。
「ふふ、今日ばかりは寝過ごしてしまって良かったですね」
「…………砂糖菓子も買うかい?」
「まぁ、可愛らしい小箱に入っているのですね。イブメリア限定味みたいなので、このお菓子も買ってみましょうか」
魔物がすっかり心を奪われているのは、新しい記念品の選定のようだ。
何しろ砂糖菓子と言えば、ご主人様からよく貰える素敵なものであるし、箱には綺麗なリボンがかけられているのでそのリボンも大切に取っておくのだろう。
駅舎と森の絵があるこの季節限定のデザインは、見ていてうきうきするような可愛らしさなので、ネアは、ポストカードは絶対に買うのだとふんすと胸を張る。
「二人ともいいかい?あの、左側に飾ってあるホーリートと駅舎の置物は、絶対に買った方がいいよ。本物のホーリートを結晶化して使ってあるし、祝福の含有率がかなり高い」
「むむ、それは残っていたら買わねばなりません!」
「その置物を買えばいいのだな……………」
ネアとエーダリアの肩を抱くようにしてそう教えてくれたノアが、音の魔術で会話を隠してくれたのは、問題の置物の箱が五つしかないからだろう。
なかなか大きな駅ということもあり、前に並んでいるお客は全部で四人だ。
置物がネア達のところまで残っているかどうかは、運次第とも言えた。
(……………天井が高い……………)
ウィーム中央駅程ではないものの、この駅舎は中規模の都市の乗換駅くらいの大きさである。
ざっと見た限り、周囲には三十人ほどの利用客が見えるが、ネア達の乗ってきた列車にこれだけの人が乗っていたとは到底思えなかった。
服装を見ていても、どこから来たのか分からない者達もおり、大きなリュックを背負った苔色のコートの三人組は、夜営の際に何を食べるのかを熱心に話している。
頭にぴょこぴょこ動く耳を持つ黒髪の少女に、背の高い竜種らしい男性。
ドレス姿の貴婦人はお付きの女性と一緒に暖炉の煙を浴びていて、祝祭の森の化粧水を買うのだと楽しそうにお喋りしていた。
明らかに人外者という利用者も多いので、ネア達が浮いてしまう事はなさそうだ。
また、サンドイッチと珈琲などの軽食も売られていて、駅としての使い勝手もかなり良さそうである。
「この箱のお菓子とポストカードのセットを一つ、それから駅舎の置物を下さい」
「はい。置物は箱に入れますか?」
「ごつんとぶつけてしまうと怖いので、箱に入れておいて貰えますか?」
「では、魔術緩衝材もお付けしますね」
漸く順番が巡ってきたネアは、可愛い緑色の紙袋に商品を入れて貰い、受け取った品物はディノに預けるとどこかにしまってくれた。
このように、ディノの買い物が入っている荷物はディノに預けるのが、うきうきの魔物を長く楽しませる方法である。
ご主人様に砂糖菓子を買って貰った魔物は目元を染めている一方で、ネアは、思ったよりも高かった置物に慄きつつ、ノアが買うように言ってくれたものなので凄いものに違いないのだと心の中で唱え、精神の安定を図る。
ネアの親指くらいの高さしかない置物だが、ザハの二人分のケーキセットのお値段ではないか。
先日のお得毛布の値段が心に刻まれているだけに、現在のネアは、割高に思えるものに心が狭くなっているのだ。
「ポストカードと、記念絵具、記念切符セットに、置物を頼む」
「はい。記念絵具は、二種類ございますが、どちらのセットにされますか?一番が、夜明けの雫を乗せた青い絵の具、二番は祝福結晶を使った銀色の絵具が入っております」
「……………では、二番にしよう」
「かしこまりました。保管に難しいところはございませんが、イブメリアの祝福結晶ですので、夏の炎天下での管理にはご注意下さい」
買ったものの入った袋を嬉しそうに受け取っているエーダリアをにこにこと見守りながら、ノアは置物だけを買ったようだ。
「絵具もあったのですねぇ…………」
「ああ。この駅で取れる材料から作られたものらしい。是非に使ってみたいと思ってな」
「……………エーダリア様の描く絵を見てみたいです」
「ネア、何なのだその表情は……………」
「エーダリアは、身近な動物以外の絵は上手いんじゃないかな。植物と建物は特にね」
「……………ノアベルト?私は仮にも魔術師だからな。絵に不得手な認識はないのだが……………」
「では、狐さんの絵を描いて貰いましょう!」
にんまり笑ったネアに、エーダリアは期待するようなものは出来上がらないぞと微笑んでいたが、狐尻尾の使い古しの束子のような謎狐の絵が出来上がるのは、その数日後のことである。
ヒルド曰く、エーダリアが動物を描くと、抱いている印象が画面に強く出てしまうようだ。
なお、見知っている相手でも竜などの類は上手に描けるので、小さなもふもふで描写力に異変が起こるらしい。
買い物を済ませたネア達は、駅舎を出てみることになった。
季節の魔術を多く集める流動的な土地なので、あまり長居をするのは望ましくはないらしいが、きっかり一時間を目安に駅前の店を見たり、少しだけなら森歩きをしたりが出来ると知り、駅舎だけを見て滞在が終わると思っていたらしいエーダリアは目を丸くしていた。
「まぁ。エーダリア様が甘いお菓子を目にした時の、ちびふわ顔に……………」
「ありゃ、それってアルテアってことだよね……………」
「タンジュの家具屋に行ってみたかったのだ。展示品でもいいので、椅子を一脚……………」
いきなりの大興奮のエーダリアに、ネア達は真っ先にその店に行くことにした。
ネアには珍しい土地に来たという物見遊山な気分しかないので、お目当ての店があるのなら、是非にそこを優先しなければなるまい。
立ち並んだ商店の一番奥からということになり最初は恐縮していたエーダリアも、憧れだったというタンジュの家具屋に入ると、ふはっと感動の溜め息を吐く。
目的のお店は三角屋根が少し斜めになった緑色の結晶瓦の建物で、大きな木に囲まれた土地にある店の中は薄暗く、ぱちぱちと音を立てて燃える不思議な木が店内の中央の炉にある不思議な造りだった。
(いかにも、家具工房という感じもするのに、魔術師さんの住まいのような感じもするのだわ……………)
天井は高く、美しい水仙の図案の飾り窓がある。
あちこちに並べられた木材の香りと、このような家具作りを助ける妖精を喜ばせる為に置かれた、グラスの中の蒸留酒の香り。
工房で家具作りをしているのは、穏やかな冬の日の木漏れ日のような微笑みが印象的なご夫婦で、入り口にかけられたイブメリアのリースのインスの実の色が鮮やかだった。
「いらっしゃい。注文は七年先まで埋まっているけど、並べてある椅子は売り物だよ」
「こ、これが……………」
「右から二番目の椅子は少し気難しいから、研究に使うのであれば気を付けて下さいね」
優美な曲線と古典的な彫り物の美しい家具は、飴色が僅かに青色がかったえもいわれぬ色合いの木材を使ったもので、上等な革や綺麗な花柄の布を張った椅子が何脚も飾られている。
このタンジュの店の椅子は、思索に向いた椅子として有名なのだそうだ。
その結果、政府の高官や魔術師達に大人気なのだが、工房の所在が知られておらず、アクスのような商会でも取り扱いがない。
エーダリアは、十五年前からこの駅に店を構えた事は知っていたらしいが、直接買いに来た者にしか家具を売ってくれないので、憧れの椅子のまま手に入れられずにいたらしい。
「魔術書を読む椅子が欲しいのだが、どのように選べばいいのだろうか。どれも美しく惹かれてしまうので、相性などがあれば教えて欲しい」
「魔術書なら、水色の革を張った雪飾り木のものか、瑠璃色の花柄の布を張った夜惑い樫のもののどちらかだろうなぁ。直観を研ぎ澄ませて急いで読む必要もなければ、合理的である必要はない」
「ええ。ええ。夜に揺蕩うように読むのですから、その二つがいいわねぇ」
「雪の祝福も多い土地なのだが、魔術書であれば、やはり夜の系譜のものがいいだろうか……………」
冷たい印象すらある美貌のエーダリアが、目をきらきらさせて憧れの目で椅子を見ているので、気難しいとも言われる夫婦の家具職人はすっかりこのお客を気に入ったらしい。
あれこれと会話が弾み、エーダリアは夜惑い樫の椅子を買うことになった。
見た目は水色の革のものが気に入っていたらしいが、エーダリアの好む魔術書にはやはり、夜惑い樫の椅子の方が向いているらしい。
座面が広くクッションのきいている椅子は、椅子の上に足を上げてしまうような座り方も出来るし、読みかけの本を隣に置いておくことも出来る。
目が疲れた時にぐいんとのけぞると、頭を乗せる部分に張られた瑠璃色の革のクッションが後頭部にあたり、肘置きの角度も自分の手に合わせて作られたようにぴったりなのだとか。
念願の椅子の支払いを済ませたエーダリアは、魔術梱包して貰った椅子を大事そうに撫でている。
すると今度は、その様子が嬉しかったものか、店主が小さな銀色のカードを渡してくれた。
「この店に繋がる魔術紹介状だよ。新しい家具の注文は勿論、買った椅子の手入れや修理も出来る。こいつは、滅多に渡さないんだがなぁ…………」
「そのようなものを、私が貰ってしまっていいのだろうか?」
「あんたは、家具作りに必要な魔術の事を良く分かっているし、そんな風に目を輝かせて家具たちを見ていると俺もいい気分になっちまう。家具作りは自分で錬成する新しい魔術のようなもんだ。どうせなら、気に入った客に売りたいからなぁ」
そう笑ったご主人は、エーダリアが、やっと来られた店だからと、あれもこれもと買わないところも気に入ったのだそうだ。
既製品しかない店頭で選んだ一つを大事そうに撫でる様子を見て、ひとまず店頭の家具は繋ぎで買っておき、自分好みのものも注文してゆくようなお客とは違うのだと嬉しくなったらしい。
「いい家具はな、大事に使えば何百年も使えるもんだ。特に魔術師の椅子は、長く使い込んでこそ身の魔術が馴染み味わい深くなる。その代わり、体に馴染まない部分があれば、適時直してゆくのがいい」
「そのようにして使ってゆくものなのだな。大事に使わせて貰おう」
大きな品物になるので、梱包された椅子はノアがどこかにしまってくれた。
多分アルテアもここの椅子は持っているよと言われ、ネアは、さもありなんと深く頷く。
ネアも見ている内に一脚の椅子が気になってきていたが、基本常用するようなものではないので、鑑賞だけに留めることにした。
店を出ると、どこからともなく甘い香りが漂ってくる。
くんくんしながら周囲を見回したネアが見付けたのは、トゥルデルニークの店のようだ。
一緒に串焼きソーセージも売られていることを知り、ネアは魔物の三つ編みをくいくいっと引っ張った。
「可愛い……………」
「お隣は本屋さんですので、エーダリア様達のお買い物を待つ間、おやつにしませんか?」
「うん。トゥルデルニークにするのかい?」
「まだ私の腰は存命なので、両方食べます……………ぎゅ」
「で、では、そこで待っていてくれ!」
「……………ほわ。エーダリア様が風になりました」
「本屋に急いで入るのだね……………」
「ノアが一緒で良かったですね」
「うん……………」
ぱたぱたと古書店に駆け込んでゆくエーダリア達を見送り、ネアは、トゥルデルニークの選考にかかることにした。
蜂蜜オレンジと、シナモン林檎の二種類があり、ソーセージもいただくネアにはどちらかしか買えない運命なのだ。
今回は残念ながら、元々ディノと半分こにすることを想定している為、どちらも買うという戦法は使えない。
ちりんと鈴の音が聞こえて音が聞こえてきた方を振り返れば、立派な角にイブメリア飾りをつけた牡鹿が森の奥を走ってゆくのが見える。
背中に乗った美しい女性が微笑んだような気がしたが、祝祭にだけ現れる人外者達は残忍なことも多い。
ネアは、あまり目で追わないように曖昧に視線を逸らし、けれども、ふわりと漂ったイブメリアの甘い香りは胸いっぱいに吸い込んで堪能したのだった。




