元領主と毛布 2
現在、リノアールでの苛烈なセールの戦場から生還したネアは、同じフロア内の喫茶室でなぜか王都の騎士団長とお茶をしている。
毛布の蔵出しセールがあったフロアは、天井が高く天窓からは冬の晴れた日の陽光が差し込み、気持ちのいい空間であった。
壁沿いのイブメリアの飾り付けと、ホールの中央にはここにも大きな飾り木がある。
リノアールの入り口付近にある大きなものの方がやはり豪華だったが、最もスタンダードな飾り木の古典的な雰囲気もなかなか悪くない。
給仕に選んだお茶とケーキを頼んだネア達の席から、商品の保管蔵から新しい毛布を追加で運ぶセール会場の店員達が見える。
ネアは、もう充分に買ったにもかかわらず思わず凝視してしまったが、オフェトリウスも鋭い目でそちらを見ていた。
「……………橙色」
「うーん、あの色は使わないだろうな………」
「オフェトリウスさんが買われていたのは、綺麗な水灰色のものでしたものね」
「部屋の色合わせもあるからね。黄系統はあまり使わないんだ」
「あら、コートの茶系とは別なのですか?」
「砂色がかった茶色や、灰色がかった焦げ茶色、僅かにラベンダー色がかった落ち着いたキャラメル色は好きだよ。とは言え、普段はあまり使わない。今日このコートを選んだのは、髪色との組み合わせでこの方が目立たないからだ」
そう言われて見れば、確かにオフェトリウスの容貌で黒いコートを着てしまうと、淡い金髪との対比で怜悧な印象が際立ちそうな気がした。
金色の髪に柔らかなキャラメルブラウンのコートという普遍的な組み合わせだからこそ、上品な装いの整った面立ちだが決して珍しくはない感じの男性という、やや凡庸な印象にまとまるのだ。
「……………そのお酒の風味のあるチョコレートとさくらんぼのケーキは、とても美味しいのですよ」
「もしかして、少しだけ警戒心を解いてくれたのかな?」
「私はとても単純な人間ですので、ウィームに好意的な方はそれだけで加点になります。少なくとも、ご挨拶をされていたあの方にとって、あなたは悪くない領主さんだったのでしょう」
「僕のかつての治世の全てが、ウィームにとって善きものだったとは言わない。けれども、消耗品の類をシカトラームに蓄えておいたりと、その時に必要で尚且つ出来る限りのことはしたつもりだ。少なくとも、ダリルやアイザックから刺客を差し向けられることはなかったかな」
その言葉に、ネアは目を瞬いた。
ディノのお気に入りの毛布が、そうして残されたものだったことを、ネアは知っているのだ。
「毛布や、木漏れ日の結晶石をですか?」
「ああ、懐かしいな。よく知っているね」
「…………むぐ。私はてっきり、戦前からリーエンベルク内部で働いていた使用人の皆さんで有志を募り、残しておいてくれたのだとばかり思っていました」
「……………ネア。そのようにリーエンベルクを想う者は、皆王宮に留まったんだ。結果として、一人も残らなかった。記憶や記録を受け継ぐ為に敢えて出された者はいたが、そのような者達は戦後暫くは心を病んでいた者も多い」
「…………あ、」
何気なく言葉にしたことから、ネアは統一戦争後のより生々しい傷跡を開いてしまった。
そうだ。
ネアが影絵の中で見たリーエンベルクにも、きっと王族ではない筈なのにという人々が沢山残っていた。
大切な王族達を残してはゆけず、或いはきっと、王宮で働いていたからこそ縁者となった使用人なども多かったのだろう。
(そのようなものを残せる人達は、殆ど残っていなかったのだ…………)
胸が潰れそうになって小さく唇を噛み締めたネアに、オフェトリウスは酷く繊細な、そして優しい微笑みを浮かべた。
「僕のようにかつてリーエンベルクで暮らした者や、アイザックに、君の知っているアルテアもそのような保全活動に尽力した。恐らく今も商工会議所の役員を務めている者達や、今は亡き町の騎士団の副団長なども。………その一方で、国章が焼かれ国の記録書や肖像画が焼かれた。知っているかい?ウィームの近年の王族達とは違い、かつて存在したもう一つの王家の者達の身体的特徴は、ゆるやかに巻いた黒髪に青や菫色混じりの灰色の瞳だった。そのような記録は、肖像画でしか残されていなかったからね」
静かな声で語られるのは、喪われたまま取り返しのつかないものの話だ。
ネアは涙がじわりと滲みそうになったが、こうして気紛れにでも語られた事をきちんと覚えておこうと背筋を伸ばす。
そして同時に、目の前の男性の中にある、かつて愛したものを奪った統一戦争への憎しみは今も鎮まっていないのだと気付いてしまった。
「…………あなたは、まだウィームという国を侵略してしまった人達を、許してはいないのですね?」
「……………かもしれないね。けれどそれは、魔物としての僕の思いだ。戦時中はまだ幼かった筈の王都の騎士である僕は、そんな苦しみを知らない男だ。騎士としての責務を果たす際には、勿論私情など挟まないよ」
「それは、………苦しくはありませんか?少なくとも、人間の私にはとても理不尽な事のように思うのです」
「苦しくはないかな。僕は剣の魔物で、剣というものは慈しんでくれた主人を殺した者の手に渡る事の少なくないものだ。個人的な好き嫌いはあるけれど、僕の仕事とは何の関係もない」
(……………いつも思うのだ)
苦しみを堪えながら戦場を歩くウィリアムも、冷酷な魔物だと言われるような統括しか出来ない土地で、多くの時間を過ごさねばならないグレアムも。
多くの高位の者達が、誰に強いられる事もなく、けれども己の資質に従いそれを日々全うしている。
そんな姿を見る度に、ネアは、長命老獪な人ならざる者達の無防備さをとても愛おしく思うのだった。
からりと、誰かのテーブルでグラスの中の氷が鳴る。
四人席に案内されたので、オフェトリウスのキャラメル色のコートは隣の椅子に掛けてあり、同じようにネアも、いつの間にか増えていた灰紫の可愛いダブルボタンのコートは、隣の椅子の上にかけてあった。
膝下くらいの丈のコートだが、今日のようにパンツ姿で出かける時にはすっきりしていて動き易いものだ。
セールに来ただけのネアは勿論それでいいのだが、ふと、オフェトリウスはダリルとの面会にもこの服装で行くのだろうかと考える。
(……………本当に午後からお仕事なのだろうか。それとも、魔術で着替えるのかな………)
シャツにセーターという寛いだ服装のオフェトリウスは、面立ちと服装の組み合わせで育ちのいい貴族の跡取り息子のような雰囲気を見事に醸し出している。
ネアの目からすると、前の世界にいても違和感のない目に馴染みやすい服装だ。
この喫茶区画にも音の魔術の壁があるのか、セール会場の喧噪は程よいくらいのさざめきのように聞こえており、喫茶スペースの中は、音楽の小箱から流れる優美なピアノ曲で満たされていた。
僅かに翳った陽光に視線を持ち上げれば、空には少しばかりの雲がかかり始めたようだ。
ウィームではこの時期の晴天は珍しく、また午後からは雪模様だと聞いている。
格調高い黒檀色の木の家具には深い葡萄酒色の天鵞絨が張られ、香り高い紅茶を淹れた茶器には繊細で華やかな絵付けがある。
高い天井から吊り下げられたシャンデリアにはイブメリアのオーナメントがかけられていて、光の結晶がこぼれるようにきらきらと輝いていた。
凝って強張っていた不信感を少しだけ削ぎ落せば、目の前に座っている男性は決して話し難い人物ではなかった。
寧ろ、穏やかに微笑み沈黙も苦にならない空気感は、ネアのような人馴染みの悪い人間ですら一緒に過ごし易い相手だと言えるだろう。
(ディノは、まだ寝ているみたい……………)
とは言え、危険が迫れば目を覚ましてくれる筈なので、今はネアも安心していてもいいような気がした。
むくむくとした毛皮が肌に触れている限り、ネアはとても幸せな気持ちで伴侶の温度を堪能出来ているのだ。
「……………こうしてまたウィームを訪れるようになったのは、武器狩りの件でウィームへ出向く仕事が出来たからですか?」
「おおよその理由はそこだね。王都に属する騎士の僕が、そうそう頻繁にウィームを訪れる訳にはいかない。職務から解放されると、僕を人間の枠組みの中に隠している魔術が心許なくなるし、元々休日は家にいる方が好きだということもある。これまではあまり遠出はしてこなかった」
「……………でも、今回、早めの時間からウィームにいらっしゃったのは、他にも理由があるのですね」
そう言ったネアに、オフェトリウスは静かに微笑んだ。
優しく包容力のある年長者めいた眼差しは出会った頃のウィリアムの微笑みに似ていて、けれどもこの魔物だけの持つ不思議な柔和さもそこにあるのだ。
「そうだね。他にも理由がある。……………ネア、君は専属の騎士を持たないのかい?」
「……………わたし、でしょうか?」
突然の話題の転換に、ネアは思わず固まってしまった。
オフェトリウスは、青緑色の瞳で真っ直ぐにこちらを見ている。
「そう。君の立場であれば、専属の騎士団を持っていても不思議ではない。歌乞いの魔物は狭量とは言え、人間の組織の枠組みを理解出来ない程でもないだろう。君の前任者は、ひと組織持っていたよ」
「それは、契約の魔物が伴侶ではないからではありませんか?確か、前の歌乞いさんの契約の方は、女性の方だったのですよね?」
「はは、魔物の執着はそんな簡単なものじゃない。あの魔物はアリステルを愛していたし、助かるかもしれない可能性を残していても殺して共に滅びたのは、愛する女性を永遠に自分のものだけにする好機だったからだ。……………そういう意味で、あの作戦はよく練られていたと言える。紛争内でアリステルの排除に失敗しても、必ず誰かがアリステルを殺すように綿密な計算がなされていた」
口調は穏やかでその真意を測るのは難しかったが、ネアは何となく、オフェトリウスはアリステルが好きではなかったのだろうと思った。
或いは、その計画そのものに噛んでいたという可能性もあるのかもしれない。
アリステルという歌乞いを葬ったのは、この国の上層部の一定数による総意だったのだから。
「先程のご質問ですが、私には大仰な護衛などいらない筈です。前任者の方の理想を踏襲するつもりはありませんし、私はさしたる力のない歌乞いで、この時期だからこそ、そうであることこそが国の為にもなるのでしょう。今の暮らしを変えるつもりはありません。そして、何を企んでいるのだろうと勘繰られるような足枷もいらないのです」
「そうか。それは残念だ。…………もし良ければ、君の騎士を拝命しつつ、念願のウィームでの暮らしを叶えて貰えないだろうかと考えたが、やはりそう都合よくはいかないようだな」
小さく笑ったオフェトリウスに、ネアはこのやり取りが、なぜウィーム付いているのかという質問からの流れであることを考えた。
つまりオフェトリウスは、ネアとこの話をする為に早めにウィームに入っていたと言いたいのだろうか。
「もしや、尾行されて……」
「さすがにそれは、していないよ。今日、こうして早めに来たのは、そのような下心があって、最近のウィームをもっと知りたいと思ったからだけれども、君を見付けたのは偶然だ。勿論、これ幸いと声をかけた訳だけれどね」
「………それを聞いて安心しました。そして、騎士さんの件ですが、王都との兼ね合いをつけて、正規の配属という形でリーエンベルクの騎士になるという事は出来ないのですか?」
「それは難しい。けれど、君のお目付け役としてであれば、ある程度の反発はあれど通しきれないものでもないだろう。リーエンベルクの組織でも、騎士という役目を持つ者が一極集中しなくなる。悪くない話だと思ったのだけれど」
そう思うに至る理由を話しはしたが、オフェトリウスは、もう諦めているようだった。
ここで無理に話を押し通そうとしないあたりは、騎士としての気質が本当に強い人なのかもしれない。
(でも、この人は王にしか仕えられなかったのではないだろうか……………)
ふと、そんな疑問が揺れたが、かつて諦めたウィームでの暮らしを再び求めたのは、エーダリアの資質が安定したからではないかという気がしたネアは、それならばあり得るぞと、ふむふむと頷いた。
最近のエーダリアは、魔術師としての階位を上げたばかりだし、現王は、ある程度自由な領統治を次男に委ねようとしていると聞いている。
それは、王都での表立った意見ではなくとも、何か魔術的な基準を満たすに至るものなのかもしれない。
何しろネアは王ではないので、となると、その上司でウィーム王族の血を引くエーダリアを該当させるしかないではないか。
(ノアがよく、リーエンベルクにとっては今もエーダリア様が王なのだと話してくれるもの。人間の取り決めた枠組みと、人外者の感じ取る枠組みは違うものなのかもしれない……………)
そうして満たされた資格を感じ取り、エーダリアという主人を見据え、オフェトリウスがやっとウィームに仕えられると考えたのだとしたら。
そう考えたネアが、頭の中で、ウィームをより堅牢に出来るのであればという欲を持たないでもなかったが、彼は現在、中央の武の要の一人でもある筈だ。
そのような形で騎士団長を引き抜いてしまうことを、あの王や宰相は望まないだろう。
(それに、私の契約の魔物がディノだと知れば……………)
そこでふとネアは、ダリルがなぜか、ネアの伴侶がディノであることはともかく、どのような階位の魔物であるのかすらをオフェトリウスに匂わせていない奇妙さに気付いた。
他の魔物達から、オフェトリウスがディノの信奉者だとは聞いていないので、さすがにオフェトリウスも、ネアの伴侶がディノだと知れば最初からこんな提案をすることはなかっただろう。
だからもし、そこに何らかの計算や思惑があるのだとすれば、それは剣の魔物をウィームに引き入れる為のものなのではないだろうか。
「……………むぐぐ」
「ネア?」
「私は今のままで充分なのですが、ダリルさんは違う意見なのかもしれません。そうなると、私には政治的な防衛力試算など出来る筈もないので、専門的な知識のある方の意見に従わざるをえません」
ネアがそう言えば、オフェトリウスは僅かに青緑色の瞳を瞠り、はっとする程朗らかに微笑んだ。
魔物というよりは良家のご子息のようなくしゃりとした微笑みに、ネアは目を瞬く。
にこにこしたままフォークでケーキを切る仕草は、優雅というにはやはり騎士らしさも滲む所作で、いつもならネアが必ず注文するお酒の風味香るさくらんぼクリームの挟まったチョコレートケーキをぱくりと食べる。
「……………そのような判断を出来る者こそ、剣の主人に相応しい。君とエーダリア様はよく似ているよ」
「エーダリア様のことは尊敬しているので、似ていると言われると嬉しいのですが、強欲な私と似ていると言ってしまうと、エーダリア様は震えてしまうかもしれませんよ?」
「はは、それなら、騎士達の仕えるべき王としての才能がと言っておこうかな」
「王様な評価をいただきましたが、こちらはリーエンベルクという素敵なお家を与えられただけの、一般人なのです」
ネアがそう言えば、オフェトリウスはどこか秘密めいた微笑みを浮かべた。
なのでネアは、もしかすると狩りの女王としての風格がもう誰にも隠せなくなったのではあるまいかと、少しだけもじもじしてしまう。
「……………そうだな、まだ時期尚早かもしれない。だが、覚えておいてくれ。リーエンベルクの騎士達もいずれ老齢での入れ替わりが必要になるし、僕もやがては王都の騎士の立場を退く時が来る。その時には、僕のウィーム移住に手を貸してくれると嬉しい。そうすれば、僕はよく働くよ」
穏やかな声で語られるいつかは、確かにあり得る未来である。
リーエンベルクの席次のある騎士達にだって、怪我や高齢化、結婚や子育てなどの家族の事情などでの引退はあり得るのだ。
そのいつかに、魔物達の助力ではなく、騎士としての役割を果たせる者が必要になる可能性は大いにあった。
「……………むむぅ。私はもう、最初にお会いした時のように、あなたにむしゃくしゃしたりはしていないような気がします。なので、エーダリア様やダリルさん達が必要だと思い、その際に私の名前が必要だというのなら、それは構わないと思います。しかし、私はやはり歌乞いで、私の魔物が世界で一番大切なので、私の魔物の許可は取って下さいね」
「うん。そうしよう。………今日は、君とこうして話をする機会があって良かった。ネア、最初の時は、ヴェルリアの騎士としての情報しかなく、君に不愉快な思いをさせたことをもう一度謝らせてくれるかい?」
にっこり微笑みそう言うと、オフェトリウスはさくらんぼのケーキをまた一口頬張った。
恐らく、そこまで表に出してはいないものの、このケーキをかなり気に入っているようだ。
「………リーエンベルクは、私の大切なお家なのです。エーダリア様達も、私にとってようやく手に入れた家族のような存在なのです」
「すまなかった。もう二度と君を疑うようなことはしないと誓おう」
「いいえ、それよりも、もしその私の大切なお家を、あなたがどんな立場であれ損なうようなことをすれば、私があなたを滅ぼすことを理解しておいて下さい」
「……………君は、」
ネアがきっぱりと告げた言葉に、オフェトリウスは暫く続ける言葉を失ったようだ。
ややあって、まずは美しいティーカップから紅茶を一口飲み、伏せ目がちに小さく笑う。
「僕が、今も最上の主人だと思っている古いウィームの王にも、同じようなことを言われた事がある。…………彼は末子で穏やかな気質だと言われていたが、その実、家族や国を守ることにかけては、賢王でありながらも愛情故に冷酷な王でもあった。…………ますますウィームに暮らしたくなったな」
「ここに住む方は、皆さんが同じようなことを仰ると思いますよ。私だけでなく、この場所こそが漸く手に入れた宝物のような終の住処だと考える人は多い筈です」
「……………そう思っているであろう一人が、君の後ろから僕を睨んでいるようだ」
「なぬ…………」
ネアが振り返ると、そこに、後ろの席のお客さんな感じで座っていたのはバンルだった。
連れの男性は初めて見るような男性だが、目が合うと淡く微笑みかけられた表情に僅かな既視感がある。
擬態している知り合いかなと首を傾げたネアに、挨拶を交わすようにカップを持ち上げたバンルが、はっとするほど獰猛な微笑みを見せた。
「そこのご主人様を勝手に勧誘すると、下僕志願者達に喧嘩を売られるぞ?」
「随分と不穏な事を教えてくれたのは、過去の共闘のお蔭かな。下僕志願者達………?」
「非公式ながらうちに勝るとも劣らない一大組織がある。寧ろ、踏まれたいだの縛られたいだの、うちより過激な組織だ」
「…………ん?縛られたい……………?ええと、ネア、そんなものがあるのかい?」
「かいなどありません……………」
ネアのとても暗い眼差しから、オフェトリウスは会が非公式である所以を察してくれたようだ。
然し乍ら、会などは存在しないのである。
「そうそう。うちのご主人様を勝手に籠絡されては堪らないな」
「ぎゃ!誰なのだ?!」
「ご主人様を見ながら食う砂糖が、やはり一番美味いからな」
「みぎゃふ!」
それが誰だか分かってしまったのと、もしや存在しないはずの会にこの人物が所属しているのではと真っ青になってしまったネアは、次の瞬間、誰かからべしんと頭を叩かれた。
「むぐ?!」
「お前は、一日たりとも目を離しておけないのか?!」
「……………ほゎ。アルテアさんです」
そこにいたのは、優美な黒紫色の燕尾服姿のアルテアだ。
僅かに息を切らしているので、どこか遠くから駆けつけてきてくれたらしい。
「………むぐ。か弱い乙女の頭を大事にしない魔物など許すまじ。そして、アルテアさんはすぐに荒ぶってしまうので、きちんと事の経緯をご報告したではないですか」
「まさか、一人で来たんじゃないだろうな?」
「ここまでは騎士さん達と来ましたし、伴侶な魔物はここに入っています」
「……………人型にしておけ」
「むぅ。湯たんぽ落下事件により、本人も不本意ながらすやすや眠っているのですよ」
「……………ったく」
アルテアは、ネアのコートをどかすと隣の席に勝手に座ってしまい、恐らくオフェトリウスを威嚇している。
「驚いたな。……………冬告げでも驚いたが、アルテアのこんな様子が見られるとは思わなかった」
「剣先を向けるなと言わなかったか?」
「それなら、彼女とはやっと和解出来たところだ。僕の老後の為にも、ウィームへの根回しはしておかないとね」
「…………ほお?」
「む。こちらを睨まれても、お仕事上での質問に対して腹を立てていたところを、許してつかわすという程度なのですよ?」
「余分を増やすなと言わなかったか?」
「私の手のひらの余分ではありません。ウィームの未来について考えた時の、移住候補者さんかもしれない方なので…むぐ?!」
鼻先を摘まれて怒り狂ったネアは、帰りがけに、リノアールで売られている薄切りボロニアソーセージの詰め合わせを慰謝料として捧げる事を要求した。
乙女の鼻はとても大切なものなのだ。
そんなネア達を興味深げに見ていたオフェトリウスは、時計の方を見ると、さてと呟きゆっくりと立ち上がる。
そろそろ、ダリルとの約束の時間になるのだろうか。
「保護者も合流したようだから、僕は失礼しよう。ダリルとの約束の前に、まだ少し買い物もしなければ。そして、男性としてここは僕が払うと言えば、君は気を悪くするのかな?」
「自分の分だけ置いていけ。余計な魔術の繋ぎは作るなよ」
「………もしかして、冬告げの時のウィリアムより狭量じゃないか?」
オフェトリウスのその言葉に、アルテアは片眉を持ち上げただけで答えはしなかった。
ネアは、アルテアが来たのならもう一つケーキを食べる事も可能だろうかと画策し始め、ちらちらとメニューを求める視線を周囲に向ける。
「…………いいか。ケーキは一つで充分だ」
「ぐ、ぐぬぅ!」
「はは、この様子なら、僕が戻るいつかまで、ウィームは健やかで美しいままでいてくれるだろう。ほっとしたよ」
「お前の持ち場は王都だろうが」
「そもそも、海があまり好きじゃないんだ。ヴェルリアに属したのは、無知な者にこれ以上リーエンベルクを荒らされまいと取った、苦肉の策だったのだけれどね」
ではねと小さく手を振り、店員を呼び止めて手際よく自分のケーキセットの代金を支払ってしまうと、オフェトリウスは店を出て行った。
その後ろ姿を見送り、嫌いな人がいなくなるというのはまぁ悪くない事だなとふすんと息を吐いたネアは、なぜか体の位置をぐいんと変えられてしまい、呆れた目をした使い魔と向かい合わされてしまう。
「むむぅ。なぜぐいんとやられたのでしょう?」
「あいつと話したことを、いちから説明して貰うぞ」
「…………いちから」
「会話の全てをだ」
「わ、私は、ゼベルさん達が戻ってきたら帰らなければいけないのです…………」
「安心しろ。そっちには俺が連れて帰ると伝えておいてやる。時間はまだまだありそうだな」
「む、むぐぐ…………」
ネアは、バンル達が助けてくれないかなと後方の席を振り返ったが、そこにいた筈の二人のお客はいつの間にか帰ってしまったようで、店員がカップを片付けているではないか。
孤立無援でへにゃりと眉を下げたネアは、まずはセールで素晴らしい戦利品を得たことから説明したのだが、そこでアルテアの注意がセール会場に逸れたのは僥倖であった。
折しも会場では、最後の品物の補充が行われており、ネアは戻ってきたゼベルに一度預けられ、アルテアが少しだけセールに没頭する時間などを経ての帰り道となる。
「アルテアさんもセールには興味を持つのですね」
「暫く店頭に出していなかった、カルヅァータの毛布があったからな。付与魔術の基準が下がろうが、これに勝る春毛布はない」
「春毛布…………」
ネアはそんなに凄いものがあったのであればと後ろ髪を引かれる思いだったが、既に二枚の毛布を手に入れたのでこれ以上の散財は我慢しよう。
その頃になるとディノも目を覚まし、ネア達はしばしイブメリアの賑わいに満ちたリノアールでの買い物を楽しんだ。
しかし、その間だけではなく帰り道にも選択の魔物からの事情聴取は続き、ネアは、たいへん遺憾な思いに渋面になると、見事な飾り木のある大聖堂前を通るコースでの帰宅を所望したのであった。