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クッキーちびふわとクリーム銀狐




しゃりしゃりしゃりんと、夕暮れにかけて降り続けた霧雨が、窓辺で細やかな結晶になる。

窓硝子の結晶石とそこについた湯気の結露が作用して、霧雨の結晶石になったのだ。


ネアはよいしょとお湯の中から立ち上がり、窓を開けて窓際にころんと落ちた結晶石を回収した。

窓辺のグラスには、既に何個もの霧雨の結晶石が入っていて、また一つころりと数を増やす。


この時期は比較的よく手に入るものだが、夏の暑い日には庭師達が花々の手入れに使う魔術に必要で、集めておくととても喜ばれるのだ。




「フッキュウ……………」



ネアは、すっかりへべれけで甘えたなちびふわを、爽やかな檸檬とバーベナの香りのする犬用シャンプーで丁寧に洗っているところだった。


洗い桶の中ですっかりご機嫌なちびふわは、こうしてご主人様からバタークッキーの粉を落として貰っているという意識があるのかないのか、気持ちよさそうにふんにゃりぐんにゃりしている。


横着な人間は、浴槽用の湖水鉱石の椅子を浴槽の横に置き、高さをつけたそこに置いた洗い桶にちびふわを入れて、湯冷めしないように浴槽に浸かりながら洗うという画期的な作戦に従事していた。


シャワーで綺麗に泡を流したら、あひる浮き輪を装着して湯船に浮かべておけば一安心だ。

流石のネアも、泥酔しているちびふわを浮き輪なしで浴槽に入れるほど豪胆ではない。




「……………ぷは。やはりお家のお風呂は格別ですね」

「……………フッキュウ」

「ふふ、ちびふわもすっかりへべれけで、気持ちのいいお湯にふにゃふにゃです」



あひる浮き輪に乗せられたちびふわは、上半身を乗っけた浮き輪部分にへにゃりと体を倒し、とろんとした表情でお湯に浸かっている。


今夜の入浴剤は青い南洋の海のような色をしていて、爽やかな夜明けの森の香りがした。


ウィーミアと呼ばれるちびふわのモデルの生き物は、ムグリスと同じ冬の系譜のようだが、こちらは渡りをしない生き物なのでお湯にも強い。

渡りをして晩秋から冬の季節を追いかけて行くムグリスは、暖かいお風呂に入れると、こてんとなって眠ってしまうのだ。



「……………フッキュウ」

「あらあら、その角度でぐでんとなると、浮き輪から落ちてしまいますよ?」

「フッキュウ?」

「むむぅ。ちびふわ語は習得していませんが、先程から同じ言葉しか言っていないような気もします。そろそろ上がりますか?」

「フキュフ」

「酔っ払いちびふわに、断固拒否されました」



ネアは、暫しちびふわのお風呂に付き合ってからの程よいところで、今度はお伺いを立てずにちびふわを水揚げした。


気持ちのいいお湯から持ち上げられてミッとなったちびふわをタオルで包み、くるりと反対側を向かせておいてからネアも浴槽から上がる。



タオルの中でじたばたしているちびふわを見ながら軽くシャワーを浴び、髪留めで纏めてあった濡れた髪の毛をタオルでまとめ直すと、こんな時に重宝するバスローブを羽織る。



「フキュフー!」

「こらっ、あまり暴れるとタオルから落ちてしまいますよ?」

「フキュフ!」

「酔っ払いさんが長風呂すると、余計に湯冷めしてしまいます。適度なところで上がりましょうね」



荒れ狂うちびふわをタオルでわしわしと拭いていると、こつこつとノックの音がした。

おやっと思って扉を開けに行けば、少しだけ不安そうな顔をしたディノが立っている。



「ネア、アルテアを知らないかい?いなくなってしまったんだ…………」

「ちびふわなアルテアさんなら、ここにいますよ?バタークッキーの粉まみれでしたので、お風呂に入れていました」

「え……………。一緒に入ったのかい?」

「はい。粉で毛が絡みそうでしたから。ほら、ここでご機嫌の酔っぱらいになっています」

「……………フッキュウ」

「……………アルテアなんて」

「なぜ荒ぶり始めたのだ。……………っ、いけませんちびふわ!一人でお風呂に飛び込んだら、浴槽の藻屑になってしまいます!!」



ネアが目を離した隙にタオルからててっと抜け出したちびふわは、まだびしゃびしゃのまま、ネアの肩を駆け上り、とうっと浴槽に向かってジャンプした。

思いがけない跳躍力に息を飲んだ直後、ばしゃんと音がしてお湯飛沫が上がり、ネアは慌てて浴槽に駆け寄る。



「ぎゃ!動かない!!」

「アルテアが……………」


これにはディノも心配になってしまったのか、慌ててこちらに来てくれた。

うつ伏せでぷかりと浴槽のお湯に浮かんだちびふわを震える手で掬い上げ、裏返してお湯を飲んでいないかどうか確かめる。



「……………むぐ。寝てる」

「気を失っているのではないかい?」

「見て下さい、この安らかな寝息と寝顔を。酔っ払いにも程があるのだ…………」

「寝てしまうのだね…………」



一瞬、大事な使い魔が死んでしまったのかもしれないと慌てたネアは、まだばくばくしている胸を押さえてふはっと息を吐いた。

手を伸ばしてくれたディノにちびふわを預ければ、とは言えまだ心配なのか、体調に問題がないかどうかすぐに調べてくれる。



「……………うん。特に体に影響はないみたいだね。そろそろグレアムの魔術も解けるようだから、乾かしてしまおうか」

「はい。……………せっかくタオルで拭いていたのに、また濡れちびふわになってしまいましたね」



ディノに魔術ですっきり乾かして貰ったちびふわは、輝くような魅惑の白いふかふかになった。


ネアは思わず頬ずりしてしまいたくなったが、伴侶の魔物がどことなくじっとりした目をしているので、ちびふわはいつ人型に戻ってもいいように寝台に寝かせておき、今度は少しだけディノに甘えてみることにした。



「ディノ、髪の毛を拭いて貰ってもいいですか?」

「……………ずるい」

「ちょっぴり伴侶に甘えてみたくなったのですが、魔術でふわっと乾かしてくれるのでも構いません」

「タオルかな…………」

「ふふ。ディノは丁寧に乾かしてくれるので、安心して任せられますね」



そう微笑んだネアに僅かに目元を染め、優しい魔物は丁寧にタオルで髪を乾かしてくれた。


仕上げには魔術を使い毛髪内部から水分を奪わない程度に仕上げ、これまた丁寧にブラシで梳いてくれる。

大事に手入れをして貰いすっかりいい気分でむふんとなっていたネアは、隣室からごすんという音が聞こえてきて目を丸くした。



「……………ディノ、とても嫌な予感のする音が聞こえてきました。明らかにちびふわの質量の音ではありません」

「元の姿に戻ったのかもしれないね」

「もしくは、枕元の机の水差しごと落下したのではないかと思われます」

「また濡れてしまったのかな……………」



顔を見合わせた二人が以前はディノの寝室だった部屋に入ると、寝台の上はたいへん乱れており、おまけに空っぽになっていた。


幸いにも、水差しはそのままテーブルの上に乗っているようだ。

怖々と寝台の向こうを覗き込めば、人型に戻った魔物がうつ伏せに床に落ちている。



「……………アルテアさんがこんな風になるのを、初めて見ました」

「アルテアでも、こんな風になってしまうのだね…………」

「……………っ、……くそ。何だこの頭痛は……………」

「二日酔い的なものなのでしょうか。……………アルテアさん、自力で起き上がれますか?もし難しければ、ディノにお姫様抱っこで…………」

「やめろ……………」

「やらないかな……………」



泥酔者の介助としては間違いのない方法なのだが、そんなネアの提案は魔物達がとても嫌がったので、選択の魔物は自力で立ち上がることになった。


一人で大丈夫だろうかと息を飲んで見守っていると、美麗で色めいた公爵位の魔物が、苦しげに顔を歪めながら立ち上がり、しどけなく寝台に転がってしまうではないか。


あまりの弱りように、なぜちびふわは甘いお菓子を欲してしまうのだろうという悲しい気持ちになったネアは、手を伸ばして、小さく呻いているアルテアの頭を撫でてやった。



「やめろ……………」

「むぅ。困った使い魔さんですね。酔い覚ましのお薬を飲みますか?」


そう尋ねても頭を押さえて首を振るばかりなので、ネアは、振り返ってディノと顔を見合わせ、首飾りの金庫から酔い覚ましの魔物の薬を取り出した。


「自分で飲めるでしょうか?」

「飲ませてあげるのかい?」

「手元もおぼつかない様子ですし、その方がいいのかもしれませんね。口に押し込んで瓶を傾ければ…………」

「やめろ。貸せ………」



ネアの手から震える手で奪った酔い覚ましの薬を、アルテアが栓を開けて飲むまでを見守るのは、とてもはらはらする時間だった。


飲み方もおぼつかないものか、唇を僅かに濡らした薬を指先で拭う仕草が、艶麗な美貌の魔物の弱った姿を何とも淫靡に見せる。



(薬を飲んだのなら、後はもうゆっくり一人で寝かせてあげた方がいいのかしら……………)



アルテアの気質も含めてそう考えたネアが部屋を出ようとすると、背後から不機嫌な声がかかった。




「……………おい、効かないぞ」

「なぬ。これはディノが作ってくれたもので、とても良く効く薬なのですよ?」

「何の変化もないままだ。……………っ、………くそ」

「……………アルテア、少しいいかい?もしかすると、バタークッキーの精の祝福が、酔い覚ましの薬の作用を打ち消してしまうのかもしれないね」

「バタークッキーの精の祝福、ですか…………?」



ネアは、それは一体何だろうと呆然としてしまったが、アクテーの修道院のバタークッキーには、なんとバタークッキーの精の祝福があるらしい。


これは、バタークッキーがあまりにも美味しいので本当に大丈夫だろうかと心配になってしまった塩の魔物が、独自に美味しさの秘密を探って判明したものなのだそうだ。



「砂糖の反応にバタークッキーの精の祝福が重なることで、酔い覚ましの薬では、状態を回復させられなくなるのかもしれないよ」

「まぁ。他のお薬などはないのでしょうか?いつものお砂糖酔いの時より、頭痛もあって辛そうです……………」

「薬の類では難しいだろう。ノアベルトを呼んで診て貰おうか」

「……………やめろ。放っておけ」

「むぅ。我が儘な患者さんですねぇ………」



眉を寄せたネアの横で、なぜかディノは首を傾げている。

アルテアは、もう一度頭痛の波が来たのか、小さく呻いて目を閉じていた。



「不思議なのは、酩酊の形での状態変化が随分と強く出ていることなんだ。君が食べさせていた量で、こんな風になるのかな……………」



そう首を傾げたディノに、ネアは、はっと息を飲んだ。

クッキーパーティーの最中に、ちびふわが一度だけ行方不明になったのを思い出したのだ。



(まさか……………?!)



顔色を悪くして首飾りの金庫の中に厳重に管理された紙袋を取り出したネアは、中に入ったクッキーの箱を丹念に調べ始めた。

そして、三個目の箱を持ち上げた途端、あっと悲痛な声を上げる。



「ネア?」

「ディノ、これを見て下さい!ちびふわは、袋の中にしまってあったバタークッキーを盗み食いしたようです。確かに、一枚の半分しか食べていないのに、随分とバタークッキーの粉をつけていると思っていましたが、まさか盗み食いをしていただなんて………」

「何枚くらい食べてしまったんだい?」

「数えてみますね。………むむ。むぅ。七枚は食べていますね。幻のクッキーを、かなり贅沢に食べてしまったようです。そして、ちびふわの大きさを考えると、明らかに胃の容量を超えているような気もするのですが、どうやって押し込んだのだ……………」

「アルテアが……………」



ディノは、選択の魔物がバタークッキーの盗み食いで具合を悪くしてしまったという事実があまりにも衝撃的だったのか、しょんぼり項垂れてしまっている。


ネアはネアで、大事に食べたいバタークッキーが大幅に削られたことにわなわなすればいいのか、とは言えそのクッキーは、アルテアが好意で増やしてくれたものなのでその身を案じればいいのか、複雑な思いに苛まれていた。



「……………くしゅむ!」

「ネア、アルテアは私が見ているから、着替えておいで」

「ふぁい。私が着替えてる間に、アルテアさんは儚くなってしまったりしないでしょうか?」

「……………さっさと着替えてこい。襟元が開き過ぎだ」

「むぅ。息も絶え絶えに叱られました」



とは言え風邪をひいてもいけないので、ネアはひとまず前線から離れさせていただき、着替えを済ませる事にした。




けれどもここから、想定外の事件が重なるのである。

リーエンベルク史でも類を見ない、もふもふになった魔物によるお菓子事件であった。




「……………む」



衣装部屋に向かおうとしたネアは、かりかりという扉を引っ掻く音に眉を寄せ、部屋の扉をぎいっと開いてみた。

この音は勿論不審者などではなく、銀狐が、ネア達の部屋に遊びに来る時の合図として運用している。



(……………え?)




しかし、そこに立っていたのは、ネアの見慣れた銀狐ではなかった。



顔があるべき部分がのっぺりとした白い陶板のようになっており、目が見えないどころかどこまでが顔なのかも分からない有様だ。




「ぎゃ!狐さんのお顔が!!」



扉を開けたネアが、思わず叫んだからだろう。

ぱたぱたと音がして、ディノがすぐさま駆けつけてくれる。



「……………ノ……………狐が………」

「お、お顔がありません……………!!」

「これは、クリームかな………」

「は!………こ、これはクリームなのです?………ふぁ。良かったでふ。一瞬、狐さんがお顔を埋め立てられてしまったのだとばかり………」



扉の前に立ってぶるぶる震えていた銀狐は、どうやら、クリーム状の何かに顔から突っ込んでしまったようだ。


ネアの目には、顔面を白いパテのようなもので埋め尽くされた状態にしか見えず、幸いにも鼻だけはちょこんと飛び出しているので、呼吸は出来ているらしい。


あまりにも悲しかったのか、冬毛になったもふもふの尻尾も、力なくぱさりと落ちて床に引きずっている。



「……………洗うのかな」

「ディノ、アルテアさんの寝かしつけを頼んでもいいですか?私は、まだ着替える前でしたので、狐さんを洗ってきますね」

「うん。アルテアを眠らせたら、私もそちらに行くよ」

「はい。……………むむ、この状態の狐さんにお部屋を歩かれると、あちこちにクリームがついてしまいそうですので…………」



自分でそう言いながらぎくりとしたネアは、扉の向こうの廊下をそっと覗いてみた。

すると、壁のあちこちに、クリームまみれの銀狐が激突したと思われる残念な跡がついてしまっているではないか。



(……………私は、何も見なかった)



こればかりは、銀狐から塩の魔物に戻ってからノアに掃除をして貰おうと考え、決して善良でもなく慈悲深くない人間はきりりと頷く。



「さて、浴室に行きましょうね」



よろよろしている銀狐を抱え上げて浴室に戻ると、お湯を抜いてしまったばかりの浴槽に下ろす。

ぷわりと漂う甘い香りとは裏腹に、銀狐の顔面は、ところどころクリームが、がびがびに固まり始めているという恐ろしい様相であった。



(これは、……………大変そうだわ)



「狐さん、まずはお顔をシャワーで流しますから、目を閉じられるようであれば閉じていて下さいね」



ネアがそう言えば、たらりと落ちていた尻尾が力なく揺れる。

しかし、声を上げるような余力は残っていないらしい。


どれだけの苦難の果てにここまで助けを求めに来たのか、そもそも、事故現場はどこで、恐らくはケーキ類と思われるものに一体何をしてしまったのか。


幾つもの謎にもやもやしつつ、ネアは手のひらで温度を測ったシャワーのお湯を、まずは耳に入らないようにしつつもえいやっと頭からかけてしまうことにした。



この場合、丁寧さよりも視界や気道の確保が優先である。

水量と剥離力の勝負なのだ。



(そんな……………!)



しかし、固まりかけている上質なクリームは、なかなかの難敵であった。


お湯をかけても表面が溶け落ちるだけで、銀狐の顔がちっとも出てこない。

焦ったネアが片手を使って銀狐の顔を掘り出してやれば、ぼさりと重たいクリームが浴槽の中に落ちる。


塊で落ちるクリームは、よりにもよってふわふわと軽いものではなく、しっかり濃厚な高価なクリームであるらしい。



(これは流石に排水溝からは流せないわ。洗い桶に入れておいて……………)



手でこそげ取ったクリームを洗い桶に入れ、同時にシャワーのお湯もかける。

呼吸が出来なくても困るので、顔にお湯をかけるのは一定間隔おきだ。


ネアが根気よくそんな作業をしていると、ぶるぶる震えながら四つ足で踏ん張っていた銀狐が力尽きたのか、すてんと尻餅をついてしまい、ムギーと声が上がった。



「き、狐さん、お尻は大丈夫ですか?」


ネアは慌ててムギムギ鳴いている銀狐を撫でてやったが、まだおしろいをはたいたような顔面のままなので、表情があまりよく分からない。


そこまで考えが及んでいなかったが、クリーム混じりのお湯が流れた浴槽の中は、かなり滑り易くなっているのだろう。


ここはと周囲を見回してから、ちびふわを拭いたタオルを洗い物籠から持ってくると、畳んで足元に敷いて即席の銀狐用ベンチとすると、そこに銀狐を座らせて引き続き洗浄を続けることにした。



しゃばしゃばとお湯の流れる音がする。

匂いは悪くないが、どことなく逃げ沼事件を彷彿とさせる惨状だ。


あれからネアは犬用シャンプーも投入し洗い続けているが、一度乾きかけてしまったクリーム汚れは思っていたよりもずっと頑固だった。



(……………そろそろお湯を溜めた方がいいかな)



銀狐が寒そうにお尻をもじもじさせるのを見て、ネアは次なる作戦への移行を決意する。

顔を集中的に洗浄しているので、お湯のかかった体の他の部分が冷えるのだろう。

ここからは、お湯に浸かりながらの洗浄だ。


それを見越して浴槽の中での洗浄にしていたネアは、手際よく排水溝に栓をしてしまい、浴槽に銀狐の胸元くらいまでのお湯を溜めてやる。

洗浄しているお湯が流れ落ちるので決して綺麗とは言えないものの、体を冷やさないことが大事なのだ。



かちゃりと音がして、浴室の扉が開いた。

篭っていたクリームの香りの湯気が動き、ふわりと清涼な空気が入り込む。



「……………ネア、クリームだと魔術を通して洗浄した方がいいかもしれない。交代するよ」

「ディノ!そろそろ助けを呼ぼうと思っていました。お顔を埋めていたクリームはこそげ取ったのですが、狐さんのお顔はがびがびのままなのです」



魔術洗浄が出来るディノの方が頼もしいと思ったのか、銀狐は哀れっぽくムギムギ声を上げて、びしゃびしゃの尻尾を振り回して歓迎を示している。


ディノが三つ編みをクリームなお湯で濡らしてしまわないよう、ネアは、三つ編みを襟口の中にしまうように指導してから、洗面台で手を洗った。



「ヒルドから部屋に連絡が入ったよ。君宛に届いたケーキを、顔を埋めて食べていたそうだ」

「なぬ。ケーキを注文した記憶はさっぱりないのですが……………」

「オフェトリウスからのようだね。食べ物なので君に渡すかどうか、ヒルドも悩んでいたようだ」

「それを狐さんが……………」

「うん。美味しかったのかな……………」



ネアはやっと浴室を出る日がやって来た事に安堵し、そろそろ何某かの服的なものに着替える時が来たと衣裳部屋の方を望んだ。


クリームのぬるぬるで三度洗いしなければならなかった手をタオルで拭き、洗浄を代わってくれたディノの為にバスタオルなどの準備をしてから浴室を出る。




(……………そう言えば、アルテアさんはもう落ち着いたのかな?)



着替えに行く前にそっと覗いたのは、アルテアが休んでいる部屋だ。


照度を落とした室内灯を一つだけ灯した部屋は薄暗く、アルテアは片腕を額の上に乗せるようにして顔を覆っているが、先程のように頭痛に魘されている様子はない。



そろりと近付いたのは、目元を覆う姿勢が少しだけ気になったからだった。


もし、バタークッキーで酔っ払った不甲斐なさに泣いてしまっていたら慰めてあげないといけないので、そうっと顔を覗き込み、目を閉じて休んでいるのを確認する。



(良かった。水差しの水もあるし、後はもうゆっくりと……)




「むぐ?!」


不意に、体がぐわんとひっくり返った。

何が起きたのかを理解出来ずに目を瞬いたネアは、どのような力でどのように捕獲されたのかは分からないものの、アルテアに寝台に引き摺り込まれ、仰向けに倒されたらしいぞと眉を顰める。


完全に上に乗られてはいないが、上半身を起こして覆いかぶさるようにこちらを見下ろしている魔物は、具合が悪いこともあってかなり不機嫌そうだ。



「……………何の用だ」

「むぅ。まだ酔っ払い状態なのですね」


掠れた声でそう囁いたアルテアには、自分が捕獲した相手が、体調を案じたご主人様だという認識すらないようだ。


いつもより獰猛な獣のような表情で、こちらを見据えた眼差しは刃物の様に鋭い。


両腕は頭の上で一纏めに押さえられているものの、頭突きで倒してしまえばいいのだが、相手は頭痛を訴えていた病人である。


さてどうしたものかとネアが小さく唸っていると、ネアを捕まえてひっくり返した手が手首から外され、喉元をゆっくりと這う。



どこか男性的な淫靡さを滲ませた指先に喉元から下に撫で下ろされ、ネアは、これは早々に無力化してしまおうと決心した。


にっこり微笑んでぐぬぬとなりながらも頑張って上半身を持ち上げると、ぶんと頭を振って、額を打ち付けてしまう。



「……………っ、」



ごすっとなかなかいい音がしただけでなく、ネア自身もそこそこ痛かったので、アルテアにはかなりの打撃だったのだろう。


脆弱な腹筋と背筋を酷使したせいで、ネアは、少しだけぜいぜいしながら、額を押さえて呻いている魔物の下から這い出した。




(まずは、バスローブ姿をどうにかしよう……………)



厚手で質のいいバスローブは簡単にはだけてしまうことはないが、それでも構造上、動けば襟元や裾が開いてしまう。



しゃっと衣装部屋に逃げ込んだネアが動き易い服に着替えて戻ってくると、アルテアは沈黙しており、銀狐は最終洗浄に取り掛かられているところだった。



最早どんな心持ちなものか、無の眼差しでわしわしと洗われていた銀狐は、全ての洗浄が終わって乾かされるとくしゃりと潰れて眠ってしまった。



「疲れてしまったのかな」

「ディノ、狐さんを洗ってくれて有難うございます。きっと、この部屋に来るまでにも、頑張ったのでしょうね…………」

「うん…………」



ネアは、頭突きされた体勢のまま額を押さえて眠っているアルテアの横に、同じシャンプーの匂いになった銀狐をそっと置いてみる。



設置後に暫く様子を見ていたが、お互いにぬくぬくと体温を求めて寄り添うのは満更でもないようで、ネアは満足して部屋を出る。




銀狐を心配して連絡をくれたエーダリアに、アルテアと寝ていると話すととても困惑していたが、そんなウィーム領主も銀狐と一緒に寝ることがない訳ではないので、幸いもふもふ姿の魔物との共寝には理解があったようだ。




なお、真夜中に銀狐の方が先に目を覚まし、隣で身を寄せ合って寝ていたアルテアの姿にけばけばになると、お尻を落としてしゃかしゃかと走って逃げていった。



アルテアは、ちびふわ時のアクテーバタークッキー禁止措置を取るそうだ。

絶対に与えてはならないと厳しく言い含められたネアは、ちょっぴり複雑な気持ちで、ちびふわになった選択の魔物にアクテーのバタークッキーはあげませんと誓ったのだった。








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