敷物聖人とバケツの殉教者
その夜に起きた事件は、まず銀狐の悲しい悲鳴から始まった。
薔薇の祝祭に向けての打ち合わせなどがあり、ディノと共にエーダリアの執務室を訪れていたネアは、ムギーと聞こえてきた悲しい声に、がたっと立ち上がる。
しかし、ネア達よりも驚いてしまったのはエーダリアで、顔色を変えて声の聞こえてきた廊下に通じる執務室の扉を開けた。
ばたんという音に引き続き、ずしゃあと何か濡れたものの上を滑って転んだような音が聞こえ、ネア達は顔を見合わせる。
ぱたむと勢いよく開けられた扉が跳ね返って閉まる音が聞こえた後はもう、廊下の方はしんとしてしまい、さながらホラー映画の導入場面のようだ。
「…………とても嫌な予感がしますが、エーダリア様に何かが起きた気がするので、扉を開けますね。しかしながら、何となく原因は分っているような気もするのです……………」
「原因が分ってしまったのかい?」
「さすがに三年目になると、薔薇の見本が届く日の前日あたりに、このリーエンベルクに出現する生き物は、思い当たる限り何体かしかいません…………」
「………………一輪挿しの聖人かな…………」
「私の大本命は、バケツ怪人さんですが、そこに先程の効果音を加えるとあの体に躓いて転んだとしか思えなく、たいへん慄いております………」
「……………バケツ怪人に…………」
しかし、クリーチャー的な恐ろしい外見を持つバケツ怪人に対面してしまう覚悟を決めて執務室の扉を開けたネアは、思ってもいない生き物と初めましてをすることになる。
「……………む?」
「………………っ、」
扉を開けた廊下には、不思議な白灰色のつるつるした敷物が広がっており、ネアは初めて見る不思議な質感の敷物に目を瞠った。
ビニールコーティングされた天鵞絨とでも言うべきか、敷物なのに妙につるんとしているのだ。
そしてその上には、波乗りでもするかのような奇妙な体勢で立つエーダリアと、尻尾の先までけばけばになった銀狐が乗ってしまっている。
「…………エーダリア様、これはまさか、廊下の絨毯が新しくなったのでしょうか?」
ネアは、とても心配したのに、この人達は目の前で何をしているのだろうという微妙な面持ちでそう尋ねたのだが、エーダリアは無言で首を振ろうとし体をぐらりと揺らすと、慌ててまた両手を広げてバランスを取った。
(おや……………?)
エーダリアは、膝ががくがくしており顔色も宜しくないので、ネアが初めて見る敷物の上は、こちらが思うよりも遥かに立っているのが難しいところであるようだ。
よく見れば、銀狐もいつもより足の幅を広げて立っており、もふもふした足でぐぎぎっと床の敷物を踏みしめている。
(もしかして、…………エーダリア様は、足元のバランスが崩れそうで喋ることも出来ないのでは…………)
「エーダリア様、会話をする余裕もないのであれば、目を閉じるか、口を開けてみて下さい」
会話をする余裕もないとなると、どんな動きが難しいのかが分からず、ネアはそう尋ねてみた。
するとエーダリアは、一度目を閉じてみせてから、またこちらに視線を向ける。
「…………ディノ」
「敷物の聖人だね……………」
「また妙なやつが現われました。このぺらぺらしたものが、聖人さんだなんて…………」
「敷物の有難さを知らしめる為に、上を歩き難い敷物の姿で現れて、乗せたものを翻弄するそうだ」
なぜ下位の者に詳しくない魔物が敷物の聖人を知っているのかというと、何度かこの聖人の出現の現場にギードが呼ばれたことがあるからなのだとか。
仮にも聖人であるので、どうして絶望の魔物を呼んでしまうのだろうと、ネアは悲しい気持ちになった。
「…………ではやはり、エーダリア様と狐さんが動けないのは、動けないくらいにつるつるの敷物の上に乗ってしまったからなのですね?」
「敷物の聖人の上では魔術が使えないというからね。……………どうして二人とも濡れているのかな………」
「……………言われてみれば、びしゃびしゃではありませんが、少ししっとりしています…………。まさか、この敷物にはこれ以上に厄介な仕掛けがあるのでしょうか……………」
気になってしまったネアは、指先で敷物をちょんと突いてみようとしたが、なぜかエーダリアが悲壮な面持ちでやめるように訴えかけてくる。
そうなると、用心深い人間としては手を出すのは躊躇われた。
現在得られている情報を精査するに、エーダリア達の謎のしっとり具合との関連性が疑われる。
「ディノ、この様子からすると、エーダリア様と狐さんの自力での生還は難しいと言わざるを得ません。我々で何とか救出を試みましょう!」
「触らない方がいいのであれば、手を伸ばして彼等を助けるのは危ういのかな…………」
困ったようにそう呟いたディノは、残念ながら敷物の聖人の対策については聞き及んでいなかったようだ。
「エーダリア様、狐さん、命綱のようなものを投げ込めば力になれますか?それとも、羽のあるヒルドさんに救援を頼みましょうか?」
「ネア、妖精は魔術で飛ぶものだから、ヒルドでもこの敷物の上は飛べないのではないかな」
「ほわ…………。ではやはり、命綱ですね…………!」
思っていた以上に難敵であると判断したネアは、思いがけない力で引き摺りこまれてしまったりしないように、近くにあった窓の部分に縄をかけ、その縄をエーダリア達の方に投げ入れることにする。
(でも、当たりどころが悪くて状況を悪化させたら大変だわ…………)
とは言え、えいっと放ってしまうと掴もうとしてバランスを崩してしまいそうな気もするので、ネアとディノで敷物をまたぐようにして縄の両端を持ち、端からスライドさせてエーダリア達の方へ近付けて持たせる方法が提案された。
縄の端の一端は窓のところに縛りつけ、その部分が壊れてしまわないようにディノが魔術で補強してくれてあるので、命綱を手渡しさえすれば後は簡単に脱出出来るだろう。
無謀な計画を立てる訳にもいかずに慎重になってしまったその間にも、銀狐の足がどんどん開いてきているので、体力的な限界が近いのかも知れずネア達も焦る。
しかし、いざネアとディノで命綱を手にとって準備を整えたと思った途端、敷物がずるずるっと動くではないか。
「………っ?!」
足下の敷物が動けば当然そうなるという見本のような動きで、エーダリアはすってんと転ばされてしまい、そのまま敷物の上にばしゃんと落ちた。
「ばしゃん?!」
「…………沈むのだね………」
「た、大変です!まさかの水面仕様でした!エーダリア様、しっかりして下さい!!」
エーダリアは一回ばしゃばしゃしてネア達をひやりとさせたが、すぐに沈んだ水面というか、敷物面に這い上がるようにして、また先程の体勢に戻る。
なぜ水面であった筈のところに立てるのか、なぜ敷物が水面になっているのか、敷物とは何なのか。
ネアの脳内の疑問は哲学的な領域に入り始めた。
そもそも、敷物の聖人の目指すものは何なのだろう。
このような仕様となると、聖人と言うよりは怪人寄りではないのだろうか。
「近付くと逃げるとなると、救出が…………」
「落ちても構わないのであれば、縄を投げ込んでおいて溺れながら掴めばいいのではないかい?」
「いっそ投網のようなものを使えばいいのでしょうか?…………む?エーダリア様が必死に目線で訴えてくるので、投網はならないようです…………」
「網はいけないのだね…………」
不思議なことに、敷物の水面下に落ちてしまった時にも、どうせ体勢が崩れた今ならと会話をする余裕はないようだ。
エーダリアのように転ばずには済んだものの、いっそうに足が開いてしまっている銀狐は全身でぷるぷるしており、こちらもかなり厳しい状況になってきた。
おまけに、派手に水飛沫が上がった際にネア達も少し濡れてしまったが、濡れた部分からは何だか海水めいた匂いがするという地味な嫌さが堪らない。
(濡れたところはすぐに乾き始めるから、この水も特別なものなのかしら………)
そう考えて、何かヒントはないだろうかと、水に濡れた部分をくんくんしてしまい、ネアはあまり好ましくない磯臭さにぎりぎりと眉を寄せた。
「………………むぐる…………」
「ネア、大丈夫かい?」
「おのれ、敷物ごときが、命綱の気配を察知するとは思いませんでした。…………敷物めを迂闊に動かしてしまい、またエーダリア様を落してしまうのも嫌ですし、もしこちらの足元に滑り込んで来られたら二重遭難してしまいます……………」
ここで手詰まり感が出てきてしまったネア達は、引き続きエーダリアと銀狐に命綱を持たせよう作戦を遂行しつつも、この敷物の聖人について情報を持っているかもしれない応援を呼ぶことにした。
まずはヒルドに連絡を入れたのだが、残念ながらリーエンベルクの騎士棟でも何か騒ぎが起きており、ヒルドはそちらに駆り出されてしまっているようだ。
そうなると勿論騎士達もその事件でてんやわんやであり、ネアは、こんな時にこそ使い魔を召喚しようと、アルテアに連絡を取ることにした。
「使い魔さんを召喚します!ディノ、この中央棟への、アルテアさんの転移の承認をお願いしてもいいですか?」
「うん、これは、アルテアを呼んだ方が良さそうだね。敷物が動く以上、君と私で二手に分かれてしまって、もし君に何かがあると危ないからね………」
伴侶の許可も下りたので、いそいそと分け合ったカードを取り出し、もし手が空いていれば今すぐリーエンベルクに助けに来て欲しいと書いてみれば、そのカードを閉じる間もなく転移の気配がある。
(ディノがここの転移承認の権利を持ってくれていて良かった…………!)
有事の場合に備え、ディノは、エーダリアから特別に中央棟への転移の承認権を与えて貰っていた。
エーダリアの執務室に近いこの場所は、通常であれば外部からの転移は禁止されている。なので、この特別な権限が必要になるのだ。
ノアも同じものを持っているが、ネアは、エーダリアがこの権利を二人に付与した際に、その信頼に値するくらいにみんなが家族になったのだなと感慨深かった。
アルテアもそれを認識しており、呼ばれたからにはそのまま転移をかけても受け入れがあるのだと理解しているのだろう。
ネアの送ったメッセージから緊急性を読み取ってくれたものか、淡い魔術の風がふわりと空気を揺らし、すぐにこちらに来てくれるようだ。
「……………む?!」
ほっとしかけたネアだったが、直前で、自分の現在位置の危険さに気付いた。
アルテアの転移魔術が結ばれてしまうまでの瞬き程の時間の間に、ネアはしゅばっと敷物から離れる。
「…………おい、また事故ったんじゃないだろうな。…………ネア?」
なので、アルテアがこちらに現れた時、ネアは、廊下に蹲ってぜいぜいと肩で息をしていた。
(あ、危なかった…………!!)
どうやら、アルテアはネアの近くに転移で現れようとしていてくれたようだが、そうなると、危うく着地点で敷物の上に落としてしまうところだったのだ。
けれども、そんな事情を知らない選択の魔物は、自分を呼び出した人間が苦しげに蹲っていたので焦ってしまったようだ。
ぎょっとしたように珍しくネアの名前を呼んだアルテアに、ネアはすぐさま抱き上げられる。
「…………むぐ。私がぜいぜいしているのは、瞬間的に私の持てる全ての力をかけてあの敷物から遠ざかったからです……………。危うく、駆けつけてくれたアルテアさんを、恐怖の敷物の上に着地させてしまうところでした……………」
「………………敷物?」
「………………はい。…………あちらの、…………ぎゃ?!エーダリア様がまた溺れてます!!」
幸い、前線で戦えるくらいの身体能力があるらしいエーダリアは、またすぐに波乗り体勢に戻れたが、アルテアを乗り物にしたネアがそちらに戻る頃には、その瞳が先程よりも数倍増しで虚ろになっていた。
銀狐はもはや生まれたての子羊より激しく震えており、こちらも涙を禁じ得ない危険な状態だ。
見れば、ディノの手元には細長い板のようなものがあったので、ネアが離れている間にも、こちらの魔物は二人を救おうと自分なりに試行錯誤してくれたようだ。
「ディノ、板で橋を渡してくれようとしたのですか………?」
「ご主人様………………」
「…………敷物聖人が現われたとなると、周辺で余程劣悪な環境に置かれた敷物があるということになるな…………」
「劣悪な環境に置かれた敷物……………」
ネアは何となく、今朝も敷物を爪でばりっとやってしまった銀狐がヒルドに叱られていたのを思い出した。
銀狐用に自由にしてもいい敷物が買い与えられているのだが、遊びに出掛けた先の部屋で悪さをしてしまうので、ヒルドは頭を痛めているようだ。
(まさか、その敷物から…………)
「アルテア、手を貸そうとすると、敷物の聖人が逃げてしまうんだ。何かいい方法はないかな…………」
「手助けをしようとするから、逃げられるんだろ。上に乗せたものを刈り取るようにして、一瞬で引き剥がせばいいんじゃないのか?」
「ふむ。慎重に近付いて逃げる隙を与えずに、ばりっと一気にゆくのですね?なお、投網はエーダリア様から禁止されました」
「…………面になるものは、敷物の魔術が上回ると聞いた覚えがあるな…………」
「…………なぞめいております」
「そもそも、縄関係はお前の得意技だろ。投げ輪でも作れば良かったんじゃないのか?」
「にゃ、にゃわしではありません…………………!!!」
かくして、作戦は次の段階に移行した。
ネアが提供したにゃわなるものをアルテアが輪っか状にしてくれ、エーダリア達が動かずにすむよう、こちらから捕獲にかかるという手法である。
ネア達が息をひそめて見守る中、白いシャツに黒いジレ姿の高位の魔物の手でひゅんひゅんと回された投げ縄は、そのまま素晴らしい軌道でエーダリアに投げかけられた。
しかし、投げ縄がすっぽりエーダリアにかかった感動の一瞬の直後、敷物聖人は素早い動きでこちら側に向かってきたのだ。
「……っ?!」
「ぎゃ?!」
「ネア!」
ばしゃんという音がして、ネアは片足を敷物の中に突っ込んでしまったアルテアに呆然とする。
けれど、選択の魔物は魔術を封じられたくらいでは動じなかったものか、そのまま片足だけの踏ん張りで、エーダリアをひっかけた縄をぐいっと引き寄せると、エーダリアは水飛沫を上げて敷物の縁まで近付けて貰うことが出来た。
「こ、これでエーダリア様が助か…………」
ネアは勿論、ディノもほっとした顔になりかけたその時、敷物聖人は最後の反撃に出たようだ。
ぐるんと巻き上がるようにして反対側の面を持ち上げてしまい、お盆の水をひっくり返すかの如く、エーダリアを引き上げようとしたアルテア諸共、ざばんと包み込んでしまう。
「アルテアさんっ!!!」
あまりのことに動けずに逃げ遅れそうになったネアは、背後からディノに素早く抱え上げられ、荒ぶる敷物から何とか逃げ延びることが出来た。
しゃばんと音がして、また先程のように広がった敷物の上はまっさらになっている。
僅かに残った波紋が鎮まると、そこにはネアの大事な人達を飲み込んでしまった残酷な敷物が残るばかりだった。
「……………ディノ、…………アルテアさんまでいなくなってしまいました。エーダリア様や、狐さんも…………」
「ネア、いけないよ。…………彼等なら、大丈夫だろう。君は近付かないようにね」
「……………ほぎゅ」
じたばたして駆け寄ろうとしたネアを、ディノがしっかりと抱き止める。
魔物の腕の中で、誰の姿もなくなってしまったつるつるとした敷物を絶望の眼差しで見ていたネアだったが、ネアの心が粉々になる前に、水飛沫を上げて敷物の表面にエーダリアとアルテアが顔を出した。
「………っ、げほっ、」
「…………くそっ、何だ今のは…………」
二人ともずぶ濡れであるが何とか無事な姿が見られたし、もはや敷物の藻屑になってしまったかと危ぶまれた銀狐は、アルテアの頭の上に乗っており、けばけばになってはいるものの、やっと敷物面から解放されてほっとしたのか涙目になっている。
ネア達の方を見ると、アルテアの頭の上からジャンプでこちらに来ようとしたのだが、残念ながら今迄の頑張りのせいで足に力は入らなくなってしまったものか、踏ん張ることが出来ないようだ。
ディノが手を伸ばしてみたが、悲しくふるふると首を振り、その動きでずり落ちかけて、アルテアに片手で押さえて貰っていた。
またしても廊下には沈黙が落ちる。
アルテア程の魔物であっても、敷物の上にしっかり立つにはかなりの集中力を必要とされるようで、銀狐のお尻を肩の上にしっかり押し上げるまでは、第三席の魔物ですら無言のままだった。
(寒くは、…………ないみたい。もう、エーダリア様の服は乾いてしまっているもの…………)
相変わらず不思議な魔術が働くようで、敷物の中で溺れてしまっても、敷物の上に立つと衣服は急速に乾くのが見て取れた。
お陰で、落ちては這い上がってを繰り返しているエーダリアも、体が冷えてしまっている様子はなさそうだ。
この敷物聖人は、あくまでも敷物の上に立つことが難しいという試練を与える存在であるようで、敷物の中に沈んでしまうのはおまけの部分であるらしい。
けれどもこのままでは、膠着状態もいいところだ。
助けたい相手が目の前にいるのに、なかなか助けてあげられないもどかしさに、ネアは徐々に腹が立ってきた。
「……………ディノ、敷物の聖人さんは、滅ぼしてしまうと支障があるのでしょうか?」
「…………あまり詳しくはないけれど、敷物との縁を生涯失うと言われているよ」
「おのれ、なんという邪悪な仕打ちなのだ。であれば、敷物聖人さんを滅ぼすことは出来ません。何とか生かしたまま、みなさんを救出しなければ……………」
「もう一度、木の板を乗せてみるかい?」
「…………むぐぐ。こやつは、生き物を引き摺り落とすことにかけては意欲的ですので、無機物ではなく生き物を放り込んで橋に出来ればいいのですが…………」
「ご主人様……………」
あまりにも残忍な提案をしたネアに、ディノは震え上がってしまった。
荒ぶる人間が獲物を探して鋭い目を周囲に向けている間、おろおろしながら真珠色の三つ編みをこちらに差し出してくれる。
よく見ると、アルテアは慎重にではあるものの、短く歩みを刻んで少しずつ敷物の端に移動しているようだ。
エーダリアも先程よりは敷物の端に近い位置に立っているので、何かでひょいっと引っ掛けてしまえば、すぐに助けられそうな気もする。
(でも、先程みたいにばっしゃんとやられたら、また沈められてしまうエーダリア様達の体力は、確実に大きく削り取られてしまう。ここまでの時間を考えると無理は出来ないわ…………)
その時だった。
ネアの目に、廊下の向こう側からもしゃもしゃずるずると動いて近付いてくるバケツ怪人が映ったのである。
「…………ディノ、橋が見付かりました」
「……………ご主人様」
凍えるような瞳でバケツ怪人を一瞥したネアは、魔物を振り返り小さく頷きかける。
素晴らしいことに、バケツ怪人の大きさは敷物の聖人よりも大きいので、完全に落ちてしまうことはなさそうだ。
「………………バケツ怪人、すまなかった」
暫くの後、残酷な人間に命じられた魔物に追い立てられ、バケツ怪人は見事に敷物の聖人にかかる橋となった。
おっかなびっくりではあるが、エーダリアは、うねうねするバケツ怪人を足場にさせていただき、やっと沈まない普通の床に到達する。
その場でがくりと崩れ落ちてしまったエーダリアに、ネアは、慌てて敷物の聖人にまた近付かれないように疲労困憊した上司を離れた場所に引っ張った。
そんなエーダリアが発した、尊い犠牲への感謝の言葉が件の一言である。
アルテアは容赦なくバケツ怪人を踏んで渡った上に、こちらに戻ると渋面で靴底を綺麗にしていた。
「……………アルテアさんも、無事に帰って来てくれて良かったです」
「おい。明らかに、俺がいなくても良かっただろ」
「とんでもありません。アルテアさんがいなければ、狐さんは危なかったので、狐さんの命の恩人ではないですか!そして、なぜ投網がいけないのかも教えてくれましたし、………その、アルテアさんが来てくれたので、私は落ちずに済んだような気がします」
「やめろ」
「アルテア、濡れてしまったりしたけれど、大丈夫だったかい?」
「………………ったく。今夜は泊まるぞ。この状態だからな…………」
「ああ。勿論、ゆっくりしていってくれ……………っ、膝に力が入らないな…………」
水飛沫を浴びたネア達を含め、関係者はこれからお風呂に入る必要がありそうだ。
廊下で蠢く敷物の聖人と、エーダリア達を身を呈して救ってくれたバケツ怪人なる殉教者は、いなくなるまでこのまま放置するしかない。
聞けば、敷物の聖人は敷物に祝福を授けて回るので、このような施設では歓迎される傾向にあるのだとか。
しかしながら、年に百人程度は犠牲者を出すと聞いたネアは、それは果たして歓迎される生き物でいいのだろうかと首を捻った。
なお、騎士棟での騒ぎも、この敷物の聖人の出現であったらしい。
そちらは、騎士達が知恵を出し合い、みんなで囲んで足場を作ることで何とか試練を克服し、敷物に落ちた三人の騎士は無事に生還している。
被害に遭った騎士達はお風呂上がりに敷物に落ちた為、尊厳と個人情報上の問題から名前は秘密にされているが、後日エーダリアと敷物からの生還を祝う打ち上げを行うそうだ。
その日のネアは、一人の時に敷物の聖人が現れないよう、久し振りに足紐をつけての入浴となり、とても心が損なわれることになった。
ディノは背中越しに一緒に入浴してしまったがアルテアはそうはいかなかったので、自分の入浴を終えると、今度は客間の浴室で入浴するアルテアの隣で、微妙に目を逸らした状態で椅子に座って立ち合ってあげることになる。
エーダリアと銀狐の入浴には、騎士棟から戻ったヒルドが念の為に監視員として立ち合ったそうだ。
選択の魔物は冷静を装っていたものの、敷物の聖人の中に落ちたのは初めてだったのか、その日は心なしかしょんぼりしているように見えた。
不憫になったネアは、魔物達にちびパンケーキを作ってあげることとし、戦いの夜は無事に幕を閉じたのである。
バケツ怪人のその後については分かっていないが、リーエンベルクでは、その尊い犠牲を忘れないよう、晩餐の前にバケツ怪人への黙祷が捧げられた。
その犠牲の後も薔薇の見本を入れるバケツが無事だったことを確かめ、家事妖精達はほっとしていたという。




