ダーワン
ダーワンは、フォルキスの槍の使い手補佐である。
くるくると纏まりのない茶色の巻き髪に、青い瞳をしたダーワンは、これでも伯爵家の子供だ。
しかし、生まれつき魔術操作が得意ではなく、優秀な兄達と比べられ、周囲からは出来損ないの子供として冷ややかな目で見られていた。
そんなダーワンは、売られるように国家防衛の魔術資格者を育てる機関に下げ渡され、………いや、実際に売られ、伯爵家での生活面においては恵まれた日々は早々に幕を閉じた。
育成機関では朝から晩まで勉強が続いたが、ダーワンは残念ながらあまり物覚えが良くない。
悲しげに溜め息を吐く教師達の目に怯えながら暮らし、十四でこのアクテー修道院にやって来た。
「この方が当代のフォルキスの槍の使い手だ。サスペア様とおっしゃる。ダーワンはこの方のお世話をしながら、次代の槍の使い手としての備えをするように」
厳かにそう告げた騎士に、ダーワンはほぇと間の抜けた声を発する。
聞いていたのはあくまでもサスペアの補佐であり、フォルキスの槍の後継者だとは聞いていなかった。
それは何かの間違いではないかとおろおろしていると、短く頷いたサスペア修道士がどこかへ歩いて行ってしまう。
ここまで一緒に来た騎士に追いかけるように言われて慌ててついてゆき、サスペアが仕事に戻ってからその騎士を探したがもう下山したと言われて目の前が暗くなった。
「サスペア様、僕はお手伝い出来ていますか?」
「……………」
「サスペア様、トマトのガンボと鶏肉の煮込みとどちらがいいですか?ここは、食料は岩竜便で届けて貰えるんです。せっかくなので、月に二回くらいは美味しいものを食べましょう!ほら、人生には楽しみが必要ですよ」
「……………どっちでもいい」
「サスペア様、グムノワが今日は流星雨の夜だと言うんですよ。一緒に見に行きませんか?」
「うるさい。寝かせろ……………」
「サスペア様!この生き物は何ですか?井戸のところで捕まえました」
「……………っ、カワセミの幼体だ。さっさと捨ててこい!!」
季節は三度巡った。
話しかけても人形のように反応すらしてくれなかったサスペア修道士は、目を離すとすぐに騒動を起こす補佐をそのままにしておけないと思ったのか、少しずつ、少しずつ返事をくれるようになった。
眉をひそめて、目元の皺を深めてこちらを見る。
髪は手入れもしていないのでぱさぱさになっており、指先は水気がなく固くなっていることが多い。
一般の修道士達とは違い、フォルキスの槍の使い手には国からの給金が出る。
だが、ここにいても国からの給金を使うような場所はないのだ。
ダーワンはサスペアを言いくるめてハンドクリームの瓶を買わせ、毎晩そのクリームをかさかさのサスペアの手に塗り込んだ。
岩竜便の使い手とはすっかり仲良しになり、ダーワンの少ない給金から美味しいオレンジの種を買ったりもした。
「ほら、サスペア様。今日は空気が澄んでいて、遠くまでよく見えますね。僕はサスペア様とこんなに綺麗な景色が見られて幸せです」
夏前の雨上がりの日にそう言った時、サスペアがとても怒ったことがあった。
突然こちらを見てダーワンを睨みつけると、足音も荒く立ち去り、その日は口をきいてくれなかった。
いきなりのことにすっかり落ち込んでしまったダーワンが項垂れていると、古参の修道士の一人がその訳を教えてくれる。
「これはいずれフォルキスの槍の使い手になるお前さんには、秘密なんだがなぁ。サスペアは、以前ここから逃げ出そうとした事があるんだ」
「え、サスペア様が?寧ろ、仕事しか生き甲斐がなさそうなサスペア様が?!」
「そうさ。彼も人間だからね。私達とは違い、自分で選んだ訳ではない山の上での清貧な暮らしに耐えられなくなり、ここから逃げ出そうとしたんだ」
「……………信じられない。いつのことですか?」
「お前さんが来る、五年ほど前のことかね。その時のサスペアには、お前さんの前の補佐であるアナスがいつも隣にいた」
「アナス様……………」
その名前は聞いた事がなかった。
自分の前任者に当たる人なので、引き継ぎの記録書などがないのか探したのだが、驚いた事に名前すら残されていなかったのである。
ダーワンは、前任者は高位の精霊の怒りに触れここに隠れ住んでいたが、その精霊に見付かって連れ去られてしまったと教えられていた。
何度かサスペアにその人物の話を聞こうとしたが、その話題に触れるとサスペアが人形のような冷たい目をするので、ダーワンは前任者については触れない事にした。
「彼は補佐とは言え、サスペアよりも随分と歳上でね、サスペアの事を息子か年の離れた弟のように思っていたんだろう。心を壊してゆくサスペアを見ていられなくなったのか、異国の侵略者たちと通じてサスペアを逃がそうとしたらしい」
「せ、精霊に攫われたのではないのですか?!」
「精霊にも狙われていたさ。最終的にアナスを殺したのもその精霊だ。私はその話を何度か聞いた事がある。アナスは生まれつき死の精霊の愛し子とされる特徴を持った人間で、ここに来るまではその精霊達に保護されていたらしい。……………だが、精霊と人間はやはり違うからなぁ。彼らの親愛が、人間の身のアナスにはあまりにも残酷な事が多かったのだそうだ」
年老いた修道士は、アナスの悲しい思い出を幾つか教えてくれた。
アナスは、終焉を呼び込みやすい不揃いの魂をしていたらしい。
彼を保護した死の精霊達は、アナスを宮殿やお屋敷に住まわせていたが、アナスの齎らす影響を倦厭して他の人間達とは触れあわせてくれなかった。
だから、アナスがたまたま知り合った人間は殺されるか遠ざけられるかしたし、アナスが恋をした少女は目の前で無残に殺された。
曰く、大きな混乱を世に広げぬうちに、精霊達はアナスの触れたところを整えているというつもりであったらしい。
(そんなのはあんまりだ。……………何て酷い……………)
目を瞠って涙を浮かべているダーワンに優しく微笑み、年老いた修道士は、だからなのさと教えてくれる。
「この修道院に来て、アナスは初めて同胞達との穏やかな時間を得た。その中でも特に自分によく懐いたサスペアは、アナスにとっての初めての家族でもあったのだろう。愛情を与える事を許されなかったアナスは、サスペアの為にならどんな事でも出来ると思い込んでしまったのさ」
「……………それで、異国の人達を?」
「ああ。幸いにも、その時に偶然、この地を良き人外者達が通りかかった。彼らが異国の兵士達を元の場所に送り返してくれたんだ。長年の信仰が実り差し伸べられた救いの手かもしれないがね」
「す、凄いです!奇跡は実際にあるのですね!!」
ここから少しの間、ダーワンは、災いの獣を撃ち落とし、異国の兵士たちを跪かせ追い返してしまった偉大なる人外者の話をわくわくしながら聞いた。
この年老いた修道士は、アクテーでは老修道士と呼ばれている。
来たばかりの頃はあんまりな呼び名ではないかと思ったが、彼は睡蓮の精霊の呪いを持つ身の上だった。
どんな名前を持とうとも、必ず見つけ出してばらばらに引き裂くというとんでもない呪いの言葉をかけられており、彼は名前を持つ事が出来ないのだ。
若い頃に、睡蓮の精霊と恋仲だったんだよと彼は笑う。
けれども、彼の家族は見目の麗しかった次男を望む子爵家の令嬢に、彼を差し出してしまった。
小さな商店主だった彼の家族は、土地を治める貴族に逆らって生きてはゆけなかったのだ。
婚礼の日の朝、彼は恋人だった睡蓮の精霊に謝りにいったそうだ。
約束を破る事になるが許してくれ。
僕は君を生涯愛し続けるだろうと告げられたのだから、ダーワンからすれば、そこは精霊が愛する恋人を助けるべき場面の筈だった。
しかし、恋人に他の女が嫁ぐと知った睡蓮の精霊は怒り狂い、彼を呪うと、子爵家の令嬢や彼の家族を皆殺しにした。
その精霊が、彼を取り巻く町の全ての人間達を殺すと宣言した事によって、老修道士はその場で見殺しにされずに、この修道院に隔離されたのである。
「何しろ、私が暮らしていたのは大きな町だったからね。そのまま私を彼女に差し出しても、彼女は町の人々を全て殺しかねなかった。植物の精霊は恐ろしいと皆が言うのは、こうなるからなのだと身をもって知った悲劇だった」
「……………ご家族を殺されて悲しかった?」
「ああ、勿論さ。その時はとても悲しかった。だが、この修道院で長く暮らすようになると、人間というものはとても身勝手なもので、彼女と過ごした幸福な日々ばかりを思い出すようになったんだ。私だけを連れて行ってくれるのなら、私は彼女にこの命をくれてやりたかったよ。だが、彼女は私の婿入りをお膳立てした町の住人の全てを許さなかったからなぁ」
彼が暮らしていた町は、ロクマリアの崩壊の時に疫病で滅びたのだそうだ。
それ以降、睡蓮の精霊が暮らした泉がどうなったのかを、彼は知らないという。
「……………人外者達の執着と愛憎は、とても恐ろしい。アナスは、それでも自分が見付かる危険を冒して、サスペアを逃がそうとした。打ち明けてくれれば馬鹿な事をしなさるなと叱ってやったものを、二人とも、全部自分の胸に収めてしまったからねぇ。二人はよく、お勤めの終わった後の空いた時間に、外の石垣のところで外を見ていたよ」
「…………僕のせいで、サスペア様はその人のことを思い出してしまったのかな」
そんなつもりじゃなかったのだ。
けれども、他人の心の傷口の在り処を知らないからこそ、そんな筈じゃなかったと言っても取り返しはつかない。
彼は傷付き、ダーワンは彼を傷付けてしまった。
八つ当たりされないだけ、彼は公平な人なのだろう。
「かもしれん。幼い頃のサスペアはよく、アナスとこんな景色を見られて幸せだと笑っていた。そう思えていた自分が外の世界に欲を出した事で、アナスは死んだと彼は思っているのだろう。だからこそ、その自分の愚かさを思い出すと堪らなくなるのさ」
「……………僕、外なんかよりも、ここの方が余程幸せだと思うよ。サスペア様は外の世界の事を知らなかったんじゃないかな」
「……………お前は、時々妙に冷めた事を言うのう」
でも、それはここに来てから毎日のように思う。
ここには、人間が生きて行く為に大切なものが全て揃っていて、ダーワンは毎日がとても幸せだ。
相変わらず頭はあまりよくなくて、星の記録はちっとも取れないままだが、その代わり、ダーワンには植物を育てる才能があった。
「サスペア様、僕ね毎日とても幸せです」
「……………酔狂な奴だな」
「ふふ。だってここには、サスペア様がいるんですよ。サスペア様はとても凛々しくて綺麗で、あまり表情が動かないところが、………孤高!と言う感じがして素敵です。声も低いのに甘くて…」
「っ、もうお前は黙っていろ!」
「ええー、サスペア様のいいところ、もっと語りたいです。それが駄目なら、スープは残さないで下さい」
「……………お前は、もしかするととんでもなく腹黒いのではないだろうか」
そう訝しげにこちらを見たサスペアに、ダーワンはにっこりと微笑んだ。
明日の朝からは、聖女様と第二騎士団の団長様の第三子の誕生を祝ったお祝いがあり、このアクテーも忙しくなる。
聖女様のお子様には今のところ第一子、第二子共に潤沢な守護が集められており、ガゼッタの国民達はその生誕を心から喜んでいた。
力のある人外者の守護を集められるということは、それだけで国益になる。
国が大々的にそれを祝うのは、興味を惹かれてやってくる人外者達を集める為でもあった。
「……………王都はさぞかし賑わっているだろう。お前は見に行きたいだろうな」
「僕、あまり山を下りたくないんです。せっかく幸せなのに、どうしてここを出なきゃいけないんですか?」
大真面目にそう言えば、サスペアはどこか無防備に目を丸くした。
「……………幸せ?」
「幸せですよ、とても。ここは空気や星空が綺麗で、自分の部屋が貰えます。食べ物があって綺麗なお庭もあって、何よりも、こんなに素敵なサスペア様が、僕のものなんですから!」
「おかしな言い方をするな」
「だってそうでしょう?僕は、サスペア様の補佐で、補佐は僕だけなんですよ。だから僕は、サスペア様の専用で、サスペア様は僕のものなんです」
「……………どう考えたらそうなる」
「ええー、普通の事ですよ。サスペア様は、世間知らずですから仕方ありませんね。今度からもっと、出入りの商人達と話してみてはどうですか?」
「ここで生き、ここで死んでゆく私が、自由に生きている彼等と?」
「だからこそです。外の世界がどれだけ怖いのか、すぐに分かりますよ」
この時、珍しくサスペアが自身の事を話してくれていたことで、ダーワンは少しだけ調子に乗ってしまった。
「お前は、貴族の家の子供だろう。責務などは確かに煩わしいかもしれないが、贅沢が恋しくはないのか?」
「うーん、どんなに綺麗なドレスを着れたって、僕はいらない子供でしたからね。あんまり……………サスペア様?」
「……………ドレス?」
「……………え、ええと」
「お前、まさか……………」
「ぼ、僕、女装癖があるんです!ほら、そういうのってあまり普通じゃないでしょ。だからフォルキスの槍の使い手の育成機関に売られちゃって」
「……………売られた?」
「はい。でも両親からなので奴隷落ちとかはしていないですよ。ただ、いらなかっただけみたいです」
だから苦労などはしていないのだと話せば、なぜかサスペアは無言になった。
こちらを見た緑色の瞳がとても傷付いているように見えて、ダーワンは首を傾げる。
(どうしてサスペア様は、僕を可哀想な子供のように見るんだろう。僕、ここで暮らせてとっても幸せなのに……………)
さらさらとした栗色の髪は、ふくよかな大地の色で、緑色の瞳は宝石のよう。
少し線が細いものの、サスペアはとても美しい男性だ。
こんな宝石のような人をずっと補佐してゆけるのに、どうして不幸だと思うのだろう。
だからその日は腑に落ちない思いで会話を切り上げ、事件は翌日の夜に起きた。
「入るぞ」
よりにもよって、まだまだ下っ端のダーワンが入浴している夜明け前に、サスペアが浴室の扉を開けたのだ。
おまけに彼は着衣のままで、明らかにダーワンの性別を確かめに来たとしか思えなかった。
自分で勝手に入って来たくせに、こちらを見たサスペアはぴしりと音を立てて凍りついたように動かなくなる。
「……………サスペア様?」
「お、……………」
「お……………?」
「女の子じゃないか!」
「……………え、気のせいですよ。サスペア様、寒いから閉めていい?」
「女の子……………」
何とか浴室から追い出そうとしていると、ばたーんと音を立ててサスペアは失神してしまう。
入浴中にやめて欲しいなと思ったダーワンは、ひとまず体を冷やさないように先にお風呂に入ってしまうことにした。
勿論、入浴を済ませてから人を呼び、他の修道士に手伝って貰って、サスペアは部屋に運んだ。
よほど衝撃的だったのか、その日いっぱいは熱を出して寝込んでしまったサスペアは、元気になってから、ダーワンの顔を見るともじもじするようになってしまう。
「……………サスペア様、ちょっと気持ち悪いです」
途方に暮れたダーワンがそう言うと、サスペアはまた寝込んだ。
老修道士から、あまり虐めてやるなと苦笑されてしまい、ダーワンは首を傾げる。
確かにダーワンは、申請資格のある少年として売られて少年としてここに連れてこられたが、ここの修道士達の殆どは最初からダーワンが少女だと気付いているようだった。
誰も言葉には出さないので、そのような事を神域で、それも声にして明かすとよくないのだろうと思い言葉を濁してきたが、もしかするとサスペアはずっと気付いていなかったのかもしれない。
(……………え?ここの冬は寒いから、四日に一度はサスペア様の寝台に潜り込んでいるのに?)
サスペアは、フォルキスの槍の侵食もあり、普通の人間よりも体温が高い。
ダーワンはここに来て早々にその事に気付き、補佐するべき筈の人を度々湯たんぽ代わりにしてきた。
しかし、サスペアの方も、フォルキスの槍の使用で磨耗した肉体の回復に、常時、魔術の保有量が多いダーワンがくっつくと良いと知ると最初ほど嫌がらなくなっていた。
つまり、かなりくっついて寝ていたのだ。
(……………それなのに、気付いていなかったのかな)
となると、自分は女としてどうなのだろうかと思わないでもなかったが、サスペアは大好きなものの、寝台に潜り込むのはあくまでも暖を取る為だけなダーワンもあまり強くは言えない。
ダーワンにとってのサスペアは、あくまでも、大好きなサスペア様でしかなかった。
その一件以降、サスペアは暫く挙動不審になったりもしていたが、やがて諦めたようだ。
ダーワンを野放しにすると、すぐに問題を起こす事にもう一度気付いたらしい。
すぐに、以前と変わらない距離になり、そこから一年もすると、彼の眼差しはぐっと優しいものになっていた。
あの老修道士は、昨年の冬に息を引き取った。
最期まで睡蓮の精霊を思っていた彼は、死者となって自由になった暁には、彼女を探すのだろうか。
(死者といえば……………)
アクテーで暮らすようになったダーワンにとって、一番大きな事件は、やはり死者の王の襲撃だろう。
お天気雨の降る暗くて明るい不思議な日に、まるで、クッキー目当ての観光客のように、死者の王がふらりとアクテーを訪れたのだ。
「補佐が育つまで待ったが、もういいな。俺の守護を受けている者をその槍で撃ち落としたんだ。星捨て場に投げ落とした少女のことを、覚えているだろう?」
穏やかな声音でそう言われて、サスペアは真っ青になる。
「……………彼女を、屋内に戻しても構いませんか?」
「ああ。君が相応しい報いを受ける際に、次のフォルキスの槍の使い手が壊れたら困るからな。そうするといい」
「ま、待って下さい!僕はまだ半人前なんで、サスペア様を連れて行かれたら困ります!」
最初は怖くて震え上がるばかりだったけれど、サスペアから、危ないので中に入っていなさいと言われたダーワンは、猛然と抵抗した。
そう主張しても許してくれる気配もない死者の王に、とうとう、地面に仰向けになって転がり、絶対に動くものかという意思を見せつける。
「………ダーワン、っ、何だその変な顔は。いい加減にするんだ。私は、君の為を思って………」
「サスペア様は僕のものなんです!僕はずっと空っぽのまま生きてきて、誰からも興味を持たれずに育ち実の両親にも売られました。そんな僕にとって、サスペア様はやっと手に入れた僕のものなんです!だから、勝手に死者の王に差し出されては困るんです!!」
「……………またそんな事を……………」
サスペアも困惑していたが、どうやら死者の王も少し困惑していたので、ダーワンは、これは押せるかなと考えた。
むくりと上半身を起こし、少し嫌そうにこちらを見ている、取り立てて特徴のない男性の姿に擬態した死者の王に、交渉を持ちかけたのだ。
「サスペア様は僕のものなので、責任も僕と半分にして下さい」
「ダーワン!」
慌てたように名前を呼んでくるサスペアに、ダーワンは、この人は何で高位の人外者の前で何度も名前を呼んでしまうかなと、やはり世間知らずな先輩に半眼になる。
元々名前を知られていたサスペアとは違い、ダーワンの名前は知られていなかったのに。
名前を握られて人外者を出し抜くのは厄介だ。
さて、どうしようか。
しかしここで、ダーワン達を思いがけない形で救う者が現れた。
「ウィリアム」
「……………シルハーン?」
いつの間にか、死者の王の後ろにもう一人の高位の人外者とおぼしき男性が現れたのだ。
(目が、……………目が潰れてしまいそうだ…………)
その人はあまりにも眩くて、ダーワンにはよく見えなかった。
精神圧は抑えてあるようだが、姿形の擬態をせずに現れたのだろう。
とにかく白く、長い髪を三つ編みにしている事だけは理解出来た。
「その修道士は壊さないでくれるかい?」
「なぜですか?彼は、………」
「うん。その事については、私もとても不愉快だったよ。けれど、あの子はこの修道院のバタークッキーが大好きなんだ。二ヶ月に一度は食べないと、暴れたくなるらしい。……………あの子は、満足に好きな食べ物を食べられない時期が長かったからね。私は、彼女の望むものを好きなだけ食べさせてあげたいんだよ」
「しかし、そのクッキーであれば、何もこの修道士だけが作る訳ではないでしょう」
ここは流石にダーワンもそう思ったが、三つ編みの人外者は首を横に振ったようだ。
「いや、あの子の気に入ったかつての味のものは、彼にしか作れないんだ。でなければ、後継者が育ったところで私が壊していただろう」
「……………彼にしか?」
「うん。正確には、あの武器狩りでカルウィの者達の器にされた修道士達が命を落とした事で、彼にしか作れなくなった。この修道院のバタークッキーは、バタークッキーの精の加護で味が良いらしくてね。その加護を持たない者達には、同じ味を再現出来ないらしいよ」
「……………それは、また厄介な縛りですね」
「アルテアも、彼の作ったものだけを選んで購入してくれている。あの子の特別なお気に入りの一つだからね」
そう言われてしまった死者の王は、当然の事だが、考え込んでしまう。
ダーワンは、そのバタークッキーを贔屓にしているらしい子供に感謝したかったが、残念ながら、まだそこまで頭がついてゆかなかった。
「え、バタークッキーの精って何…………?」
その疑問を放置出来ずに、バタークッキーの精とは何だろうと首を傾げたが、向かいに立った死者の王も同じように怪訝そうにしているので、あまり一般的な精ではないようだ。
結果として、サスペアは死者の国に行けなくなった。
死んだ後は地上を彷徨う亡霊となり、サスペアの魂は循環されない。
加えて、生きている内も、死んでからも、自分の意思でこの修道院を出てはならない事になった。
それは、罪を分かち合ったダーワンにも適用され、サスペアは、案外けろりとしていたダーワンの足元に蹲って申し訳ないと声を上げて泣いた。
「僕、案外悪くないと思っているんです」
「……………馬鹿を言うな」
「だって、まだ僕は使い手として槍に認められていないから、このままフォルキスの槍を使い続けていたら、サスペア様は絶対に僕より早く死んじゃうでしょう?それが凄く嫌だったから、これで安心です」
「……………ダーワン」
呆然とこちらを見ているサスペアに、にっこりと微笑みかける。
ダーワンは、どんな形状だかも分からないバタークッキーの精にとても感謝しながら、大切な大切な人を真っ直ぐに見つめる。
「先に死んじゃっても、亡霊になって僕の側にいて下さいね。僕も死んだら、二人でこの修道院の守護亡霊になりましょう。きっと、案外悪くないですよ」
「しかし、もう二度とここから出られないんだぞ?!」
「……………サスペア様は世間知らずだから、その方が安心します」
「……………ダーワン、お前な」
その翌年、ダーワンは、婚姻の為だけに一時的に還俗させられ、サスペアと夫婦になった。
これまでと生活は変わらないが、今後は修道士ではなく、アクテーに常駐する武器持ちとして暮らして行くことになる。
国としては資格者同士の子供が生まれると喜ばしい事だったらしく、修道院の仲間達は、死者の王に呪われた仲間が束の間の幸せを得られた事を涙ながらに喜んでくれた。
さすがに新婚生活を修道院で送るわけにはいかないので、二人の新居は、星捨て場の裏手にある小さな岩棚に、魔術で作り付けた併設空間に用意する事になった。
週に一度だけ二人でそこで過ごし、それ以外の日々は修道士だった頃の生活をそのまま引き継いだのだ。
二人の間には一人の男の子が生まれ、修道院には賑やかな笑い声が響いた。
息子は、ある程度の年齢になると王都の貴族の家に引き取られていってしまったが、その貴族はとても感じがよく、息子とダーワン達との交流は途切れなかった。
先に死んだのは、勿論サスペアだった。
ダーワンが同じ亡霊になるまでには、そこからまた長い日々の後である。
その後は二人で修道院の守護亡霊をやっていたのだが、バタークッキーの製法についてどこからか聞きつけてきた山猫商会に捕獲される羽目になり、ダーワン達は長い長い旅に出ることになる。
山猫商会の長には、アクテー修道院のバタークッキーを贔屓しているご主人様がいるらしく、独占権をこのアクテーを見張っている死者の王などの魔物達の手元から奪い取るのが目的だったらしい。
ダーワン達は五十年ほどで終焉の魔物に回収されたが、それまでに世界のあちこちを見る事が出来てしまい、たいへん満足して修道院に帰った。
「僕、サルナーシの砂漠の月が一番のお気に入りだった。サスペア様はウィーム?」
「ああ。……………お前を、やっと新婚旅行に連れて行く事が出来た」
「ええ、それをまだ気にしていたの?僕、サスペア様がいれば充分に幸せなのに」
「……………っ、」
そう言えば、サスペアはなぜか頭を抱えてしまったが、ダーワンは普通の事を言っているのに変なのと思うしかなかった。
山猫商会と旅をしている間に、世界の各地で彷徨える至高のクッキー職人がいるという噂が流れたらしいが、真偽の程は定かではない。
それよりも、亡霊の作るクッキーでいいのかなと思わないでもないが、売れるのだからこのままでいいのだろう。
『この子は、何も出来ないんですよ。可動域は高いものの、質問ばかりの馬鹿な子供で、魔術の扱いも下手で』
ダーワンは、実の両親に売られてこのアクテーの修道院にやって来た。
誰からも顧みられず、何も持たなかったダーワンは、ここに来てたった一つの宝物を見付け、やっと幸せになる事が出来た。
(だから、僕はとても幸せ……………)
ずっと亡霊でも、どこにも行けなくても、大好きなサスペアと二人で静かな日々を送る。
一度、バタークッキーを買いに赤紫色の瞳の美しい男性に連れられて来た女の子にそう話した事があるが、その子も間違いなく幸せだと保証してくれたのでそれでいいのだろう。
あの子は、亡霊のダーワン達にも物怖じしなかった。
だからこれは、ダーワンのとても幸せな人生の話だ。
なお、バタークッキーには正直なところ少し飽きてきている。
本日は短めとお伝えしておりましたが、文字量が増えまして、普通サイズの更新となっています。




