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特異点と許可証




一夜明けて、アクテー修道院には柔らかな陽光が差し込んでいた。


防衛魔術の影響だったものか、昨日までは雲の影はなくてもどこか薄暗い印象だったのだが、雨上がりのように澄んだ空気は清々しい程だ。




(シルハーンの書き換えで、長年蓄積された星の怨嗟が一掃されたか……………)



そんな事を考えながら小さく息を吐き、いつの間にか姿を消しているアンセルムがいた場所を一瞥する。


武器狩りの前にこの修道院に立ち寄ったのは、使えそうな資材として育てていた女が、フォルキスの槍に食指を動かしたからだ。



セレンにとって自分は自殺した姉の仇であるし、犠牲の魔術の系譜に属し、対価に見合っただけの災いを祓うこの槍は、使いようによってはこちらの足を掬いかねない障害にもなる。


異国への介入も黙認される武器狩りだからこそ、セレンがその槍を手にすれば、かつて姉を破滅させた魔物やその周囲の者を損なう可能性もあったのだ。


勿論、ガゼッタのこの運用が落ちれば、ヴェルクレアという国の不利益であることも承知していた。

フォルキスの槍の使い手の反乱も重なったのは不運としか言いようがないが、アクテーの訪問は必須であったと言ってもいい。




「……………セレン様」

「嫌よ。私はここから動きません!サスペア修道士はもう使えないのでしょう?だったら、」

「いい加減にしなさい!」



鋭い声に、おやと思ってそちらを見る。

メトラムに一喝されたセレンは、目を丸くしてへなへなと地面に座り込むと、両手で顔を覆って泣き出した。



(……………危険視するまでもなかったか。思っていたよりも頭の悪い女だったな………)




セレンという女は、かつて、聖女の伝承のある小さな村で暮らしていた姉妹の末の妹で、聖女と名高い長女よりも鋭い思考の片鱗と、目的の為に他者を犠牲にする事をやむなしとする冷酷さを持つ子供は、少なからず目を引いた。


見込みのある子供だと思った最初の邂逅から、けれどもアルテアは使い勝手のいい姉を選び使い潰し、セレンが小さな村を捨てて西方の港町に流れたと聞いたのはそれから暫くしてからのことだ。



セレンの姉は、穢れと障りに引き裂かれて殺されたのだ。



聡明な子供に、あの小さな村での暮らしはさぞかし息の詰まるものだったのだろう。

そう思いどのように育つか興味を惹かれ、もう一度だけ見に行った事がある。



(その時のこの女は、少々凡庸に感じてはいたが……………)



子供だと思っていたが、あの村に伝わる災い除けの呪いを使い年齢を誤魔化していたのだと知り、また少しだけ悪くないと思う。

爪と牙を隠し身を潜めていたのなら、別天地で頭角を現してくれると尚更いい。


想像もしないような羽化を見せ、こちらの手を払うような苛烈さを帯びればいっそうに。



セレンがコゴームの盾を手に入れた事件に手を貸したのは、その時にヴァルアラムという騎士の中に入っていた部下の一人だ。


面白い動きをするかもしれないので手をかけてみろと伝えたところ、コゴームの盾とその使用資格の発現を演出し、尚且つ同じ土地に暮らしていたセレンの親友にも同じ資格を与えたらしい。


結果としてセレンは自分の親友を殺し、コゴームの盾を自分のものとしてみせた。

ここまでは、なかなかに愉快な展開だったのだ。




(……………もしかすると、この男の存在はそれなりに厄介な置き石だったのかもしれないな)




ヴァルアラムの目でそう見つめたのは、メトラムという凡庸な騎士だ。


とは言え国家の防衛の要となる第二騎士団の四席なので、中階位層の人間の群れの中ではそれなりの位階ではある。

第一騎士団は実質人間の括りを超えた者達の集まりなので比較にならないが、身に持つ魔術の量に比べれば扱いはかなり巧みだろう。




思えば、セレンの行動に一貫性がなくなり始めたのは、このメトラムという騎士がついてからだ。



セレンにとっては使い勝手のいい信奉者であり、ヴァルアラムという騎士にとっても特筆するところのない騎士でしかなかったが、時折人間の中には魔術的には不可視の特異点のような者が生まれる。


こうして顛末を見てみれば、メトラムはそれである可能性が高い。

でなければ、複数の人外者が手をかけて育てた資材をこうも容易く奪える筈がないのだ。




ごく稀な資質を備えるその人間たちが、特異点と呼ばれ始めたのはいつからだろう。


その表現は、変質した魔術基盤を示す特異点ではなく、変質を促す要因としての特異点のそれである。

また、己の意思で行為としてそれを成す者達ではなく、結果としてそれを成す一地点として分類された。




(……………あの人間のように)




鳩羽色の瞳を持つ少女を思い、アルテアは唇をひき結んだ。


本来ならヴァルアラムとしての気質が表面に出る状態なのだが、今は自分本来の資質を前面に出し、ヴァルアラムを維持している状態だ。

自身を封じて覆いをかける目的で作った武器なのだが、今回ばかりはそうも言っていられなくなった。



何しろ、自分の知る限り最も苛烈な影響を及ぼす特異点の一人が、狙い澄ましたようにアクテーに現れたからだ。



なぜか、よりにもよって武器狩りの開始を見越して思惑のある者達が集まったこの場に偶然居合わせてみせたあの人間も、勿論、特異点の一つである。



あの人間は、同族の中では特別な美貌も持たないと評されるであろうし、抜きん出た頭脳を持つ訳でもなく、特別に慈悲深い心を持ってもいない。

どういう匙加減か、人外者の中には特殊な反応を示す者達も多いが、同族の輪の中では、身に持つ人外者達との縁以外の面で特別な存在だと認識される事はそうそうないだろう。



それでもなぜか、ネアは特異点となる。



それは彼女の履歴ゆえなのか、気質ゆえなのかはアルテアにも分からなかった。

その他の特異点達も、彼等を彼等足らしめる要素はまだ解明されていないのだ。


エーダリアやグラスト、ゼベルなど、リーエンベルクにはその質を持つ者がなぜか多く、ネアの対人外者の引きの強さ以外の側面が浮き彫りになる事は滅多にないものの、それでも彼女が踏み歩いた場所は変質するのだから、目を離しておけないと思うのも致し方あるまい。



とは言え、そのような者達は、無差別に全てを変質させる訳ではないとされている。


ネアのように、その選択を向けた先のものを変質させる者もいれば、心を傾けた者や場所を変質させる者もおり、自身の影響の発動範囲外では影響を及ぼさないのも彼等の特徴のようだ。



幸い今回の一件については、ネアは、恒例の事故率の高さを示したくらいで、大きな影響を及ぼすことはなかった。


サスペアやセレンに僅かに心を動かしたようだが、あれだけ節操のない人間も、異国の要人に無責任に手を出すような真似はしなかった。

いっそ、心を近寄らせながらもきっぱりと背を向けた姿勢は、アルテアにとっては好ましい選択だと言える。



ネアが、不必要なものを切り捨てる際の選択の鋭さは、以前から気に入っていた。



人間の選択の多くはもう少し断面を整えるのだが、ネアについては、自身の設営陣地の外側は全部切り落としかねない極端さである。


悲壮な面持ちでそれをやられても辟易とするばかりだが、あれは実に冷酷に外周を切り捨てる。

悪しきものだけでなく良きものも、興味を惹かれて心を動かしたものも、罪なき無垢な者達も。

ネアにとっての基準は、自分のものかそうではないものかのどちらかしかない。


だからこそ、その選択を見続ける為にあれのものになってやったのだと思えば、セレンを招き入れていた時に扉を開けた瞬間のネアの眼差しを思い出し、顔を顰めそうになった。



まさかの状況を選んで部屋を訪れるのが、まさにあの人間らしい間の悪さではないか。

然し乍ら、その瞬間のネアは、使い魔という自分のものを我が物顔で手入れしにきたのだった。

その選択の躊躇いのなさは悪くないのだが、やはり間が悪いとは言わざるを得ない。




「ヴァルアラム殿、少しいいですか?」

「ええ。概算が出ましたか?」

「はは、修道士達が随分と潰されましたからな。施設的な損害はほぼないが、経験のある人材こそ、容易に補えるものではないのが頭痛の種ですよ」



ギナムが同行した客の中には、ヴァルアラムと交友のある公僕達も何人かいた。

擬態の巧みさから、これまでの印象より老獪だったらしいと判明した経理官の一人と、アクテーを通常稼働に戻す為の必要資材について話をする。


どうやらガゼッタの王家では、アクテーの管理には投資を惜しまない方針であるらしい。

これもまた、ガゼッタ国内には、賢明な判断の出来る者が揃っているという証に他ならず、この国への介入を続行する判断を固めさせた。



(さすがにここまでの惨状は予期していなかっただろうが、武器狩りを発端に一悶着ある事も想定に入れ、魔術師達に加え、監察官と経理官まで手配済みときた)



魔術的な損失だけでなく、資金的な損益を王都に報告出来る者を揃えたのは、恐らくあの宰相とその補佐官達だろう。

アクテーでフォルキスの槍を国主導で管理する以上、魔術的な目線だけでは判断に足りない部分もある。

どのような組織や施設であれ、管理維持には金がかかるのだ。



必要な会話を済ませて経理官を追い払い、もう一度思考をこの場にいる特異点に戻した。




(……………その質の人間だとすれば、間違いなくメトラムは、己の心を傾けたものを対象に、その運命を歪ませる者なのだろうな)



上げられていた報告をざっと頭の中で辿れば、彼がセレンを選んだ事から、その変化が始まった。

メトラムという特異点に目をつけられ、セレンの運命は、こちらが誘導している目的地から逸れ始めたのではないだろうか。


そう思えば折角の素材をと思わないでもなかったが、この手から獲物を掠め取ったのだとすれば、賞賛に値しない事もない。




(……………何しろ、)




ふと、そのメトラムがこちらを見た。

先程までは、階位下の騎士らしく大人しくヴァルアラムの指示を仰いでいたが、今は鋭い眼差しを真っ直ぐに向けている。


まだめそめそと泣きながら不満を吐き出しているセレンの手を取りながらこちらを見据えた眼差しは、ようやく手の内に抱え込んだ人間を守る為に、ヴァルアラムという騎士を監視しているようにも見えた。



(無自覚ながらもどこかで理解し、俺を、まだ足元の危ういこの場では、セレンに近付けまいとしているらしい……………)



であるならばアルテアは、思わぬ選択を見せたあの騎士と、その獲物になったセレンを見逃してやろうではないか。



滅多にない事だが、これはちょっとした褒賞のようなものだ。

また、メトラムが己の手の内に留めると決めた以上、今後セレンが目障りな動きをする事はないだろうという確信からの判断でもある。




どうやら、特異点の中でも、あれは守護者こそを資質とするものであるらしい。

アルテアの知るその他の特異点相当達と比べれば、やはり各々の効果が違うようだ。




「……………あれはいいのか?」



こちらも特異性が目に留まったのか、そう話しかけてきたのは、ギナムという商人の入れ物に収まったグラフィーツだ。


手をかけて開拓した畑を荒らされるのは不愉快だが、今回ばかりは、この男がガゼッタに足場を作りつけていた事が窮地を救ったとも言える。




断崖沿いの階段から、こちらを見上げたネアの姿を思い出した。


星捨て場から助け出された直後のことだ。

風にスカートを膨らませ、アクテーを訪れる為に色を擬態していたらしい髪を揺らしたネアは、いつもの眼差しに隠しようもない疲弊の影があった。


そんなネアの摩耗に苛立ちながらも、もしかするとこの瞬間こそが、レイノと名乗った彼女を利用する好機なのかもしれないと考えたヴァルアラムしかあの場にいなかった事こそが、アルテアにとっては耐え難い失策であった。



(あいつがここに居なければ、それも暇潰しになっただろうが、……………)



一定の時間ごとに設けた浮上の指定が阻害されたとしても、その結果、本来の自分の思考が反映されず、こちらの目的が叶わず損失を出したとしても、ヴァルアラムという騎士が命を落とすような目に遭ったとしても、それもまた一つの選択の顛末である。


いつもであれば、興味深い分岐として受け入れられるものだが、ネアが絡み、あまつさえ損なわれるかもしれないとなれば話は別だ。


換えのきかない唯一を、分岐ごときに奪われては堪らない。



バーンディアの慧眼か、元々グラフィーツがガゼッタに食指を動かしていたのかは定かではないが、ギナムという商人がいなければ、星捨て場に投げ込まれたネアはもっと深刻な損傷を受けた可能性もある。


シルハーンもそうだったのだろうが、可動域の低さから星の亡骸に目を焼かれるという現象自体、起こってみなければ分からなかったことなので、これまでに積み重ねてきた守護でも防ぎようもなかった。



だからこそ、不愉快なのだ。

自分のものを、己の選択の不足で損なわれるのは我慢ならない。




「……………あの男は特異点だ。俺の素材を持ち去る手腕に免じて、褒美代わりに見逃してやるさ。それに、特異点には不用意に触れないに限るからな。守護寄りの資質なら尚更だ」

「あの騎士の一族は、古くから続く中庸な家柄で、なぜか、数代前から財宝の守護者という評価を得ている。曰く、存在感のない中堅の騎士風情がこれぞというところで危機を脱する一手を打ち、主君の危機を防ぐ。また、あの男の祖父は、狂気の質と言われ幽閉されていた王子を賢王に育て上げてみせた」

「成る程な。派手な功績ではないからこそ、名を上げ過ぎずにいたか。その銘を与えているという事は、どこかであれの価値に気付いた奴もいるらしい」

「その人物もそれなりに特殊な身の上だったのだろう。フォルキスの槍の管理といい、この土地は小さいながらになかなか堅牢であるらしい。砂糖に出来そうな聖女は、あまりいないがな」



そうぼやけば如何にもグラフィーツなのだが、商人の皮を被った言動は硬質で、この男とこんなやり取りをするのはいささかむず痒い。



(グラフィーツの動きを軽視した事はなかったが、もし、この言動がグラフィーツの本質の一角なのだとすれば、それもそれで厄介か……………)



この魔物は、階位こそ下げたとは言え、司る資質を存分に発揮すればかなり厄介な相手になる。

しかし、やや個性的な嗜好と言動の色が濃く、そのお陰で予測を立てやすい相手だと考えていたのだ。


祝福と災厄を司る砂糖の魔物は、自身にすら選択の出来ない天秤をどちらかに傾ける、魔物の中でも特殊な資質を持つ。


思ってもいなかった側面があるのなら、用心はしておこう。



「……………やれやれだ。折角、辻毒の素材として手をかけてやったのに、自身の選択でもなく生き延びて安寧を得ると思えば釈然としないところもあるな。今回ばかりは、得るものもなく撤退を余儀なくされるらしい」

「はは、収穫がないだけで済めば良いのだが」

「……………ほお。俺はお前に、こちらの領域には手を出すなと言わなかったか?」

「悪いがあれは、俺のお気に入りのご主人様だ。生きているだけで砂糖が美味い。もしもがあれば困るからな」

「いいか、あいつは砂糖にはならんぞ」

「砂糖になんぞするものか。俺の唯一に最も近しいものがやっと手の届くところに現れたんだ。末永く砂糖の香り付けになっていて貰わないといかん」



そう呟いたグラフィーツを、無言で見返した。

溜め息を吐いて肩を竦めてみせたグラフィーツは、窺うような感情を帯びてはいないようだ。

であれば、本当に言葉の通りらしい。



「恩寵を失った魔物が、それに準じるものを得る事はない筈だが?」

「馬鹿を言うな。準じるものなどありはしない。俺の恩寵はただ一つだけだ。他の歌乞いなんぞいるものか」



念の為にと粉をかけてみたが、やはり、その手の執着ではないようだ。



(本当に、ただの香り付け扱いか……………)



それもまた滅多にないものだが、単純にその歌乞いを彷彿とさせるだけらしい。

そのくせご主人様と呼ぶのもおかしな話だが、グラフィーツには、その手の言葉遊びを悪巫山戯で楽しむようなところもある。


また、あの会に属し、己の歌乞いに向ける執着を明かさずにネアの周りをうろつく為の、後付けの理由の一貫でもあるのだろう。



気付けばメトラムはもう、こちらを見ていなかった。


事態の収拾に動いている監察官達に促され、ひとまずはセレンを部屋で休ませるのか、移動するようだ。



「守護の質の特異点は初めて見たが、案外、ネア達をこの場に呼び寄せたのもあの男の及ぼした変質かもしれないぞ」

「………迷惑にも程があるな」

「シルハーンとネアは、この近くにある修道院に暮らしていた、ガレンを出奔した魔術師を訪問した帰りだったようだ。その武器持ちの魔術師との交渉が思っていたよりも早く済み、その上でアクテーへの道が開放中と知り、バタークッキー目当てで寄ることにしたらしい」

「……………あいつの食い気も大概だろ」



アクテー開放の情報はどこから仕入れたものか、恐らく仕事で訪れたという修道院への訪問が決まった段階から、アクテーに立ち寄る計画を立て始めてはいた筈だ。


その手の道具の在り処に興味のなかったシルハーンと、ガゼッタの人間ではないネアでは、アクテーに武器があることは知らなかったのだろう。

だが、この修道院を訪れる為に使う階段には、信仰の吹き溜まりに巣食う魔物や祟り者達が数多く暮らしているのだ。



「嗜好とはそういうものではないか。……………話を戻すが、例年通りであれば、アクテーへの道は五日後からとなる。今年に限ってこの時期になったのは、メトラムがセレンのアクテーへの訪問を早めたからだ」

「この日程を決めたのは、メトラムか」

「ああ。先程話をし、そう聞いた。武器狩りが始まる前にと考え、訪問日を前倒しにしたようだ。お陰でこちらも予定より早くアクテーに上がる必要が出た。その結果、王家は特別に勅令を出し、武器狩りを見越した措置という名目でアクテーの開門を早めさせる事になったと言う訳だ」

「並べてみれば確かに、あの男の選択が波及して揃った偶然とも言えるな……………」



溜め息を吐き、胸元の内ポケットから取り出した手帳を開いた。



「入れ替えか」

「他に用事があるんでな。せいぜい、フォルキスの槍を使い物になるようにしておけよ」

「それを考えるのはこの国の人間達だが、今の持ち主ももう十年くらいは動くだろう。余計なことを考える為に動かす感情はもう残っていなさそうだからな」

「殆ど人形だな。寧ろ、もっと前から壊しておけば良かったんじゃないか?」

「サスペアは宰相の甥だ。元より、時期を見てその責務から解放してやるつもりだったんだろう」



人間らしい愚かさにうんざりし、手帳を仕舞う。


ヴァルアラム役を部下に任せた後は、まずは、リーエンベルクに立ち寄らねばならない。

ただでさえ、今回の事で着手が遅れている外せない要件もあるが、それらはもう、誰かに任せるしかないだろう。



「……………入れ替えじゃないのか?」

「その前にまず、餌の仕入れだ。十箱もあれば大人しくなるだろう」

「それだけ買うとなると、特別許可証の発行とその為の費用が上乗せになるな」

「知っているさ」



その後は、お偉い方から依頼されているものを届ける必要があるのだと苦笑してみせ、上限数を超えたバタークッキーの購入の為に申請書類を書き、許可証を発行させた。


記念式典のある年にしか売り出さない山葡萄入りの限定品もあったので、それを手にヴァルアラムの内側を入れ替える。



リーエンベルクに着いたのは、その日の正午の少し前だった。



ウィームでも武器狩り絡みで面倒ごとが起きていたせいでまだ寝られていなかったネアはたいそう不機嫌だったので、無理やり寝かしつけ、ウィリアムからの今回の事件に関しての嫌味を聞かされる。




ふと考える。

あのままヴァルアラムとして、もう一度この人間の対岸に立ってみたらどうなったのだろう。



すぐ隣で眠っているネアの頬に触れ、その肌の僅かな乾燥の兆しに眉をひそめつつ、そんな事を考えた。

ヴァルアラムであれば、ネアは容赦なくそれを切り捨て、あの鋭い選択の切っ先をこちらに向けたのではないだろうか。


それを、見たくなかったと言えば嘘になる。


そう考えて苦笑すると、この人間が大人しく寝ている内に顔に塗り込んでやる必要のあるクリームを取りに寝台から離れる。




(……………だが、そちらの選択肢はないな。そうしないという事を、俺はもう選んだ。ネアの選択の内側に入り、こいつの選択を一欠片も逃さずに最後まで見届ける為に)




なお、寝ているネアの顔にクリームを塗ったところ、果実の香りのせいか、寝ぼけたまま、こちらの指を必死に齧ろうとするネアを再び寝かしつける為に散々な目に遭った。



騒ぎを聞きつけて駆けつけたウィリアムについては、すぐに剣を抜く悪癖をどうにかする必要があるようだ。










明日のお話は、短めの幕間になります。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ウィリアムさんは早速剣を抜いたのですね(笑) 仲が良さそうで何よりです。
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