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102. やはり心が絡みます(本編)





残されたアナスの服を抱き締め、悲痛な声を上げるサスペアがいる。


月の光の下で緑の瞳は暗く翳り、けれども瞳を濡らしてる涙には星の光が揺れていた。

こぼれ落ちる涙は、まるで星が落ちてゆくようだ。



「……………か、彼があなたに何をしたと言うんだ?!どうしてこんなことを!!」

「人間とは愚かなものですねぇ。アナスは、君をここから逃がしてやろうとして、カルウィの者達を呼び込み、フォルキスの槍をカルウィに渡してしまうことで君を自由にしようとしていました。…………でも、その為に使った隠蔽魔術のせいで、僕に見付かってしまいましたけれどね」

「……………アナス、……アナスをどうしたんだ。彼は、…………」

「もう残っていませんよ。命も魂も、何もかも。僕達の信頼を得ながら、その手元から守護を奪って逃げた恩知らずな人間なんて、生かしておくと思いますか?…………ただ、僕から四百年もの間逃げ続けた事は、賞賛に値するかもしれません」



そう告げたアンセルムを見上げたサスペアを、ネアは初めて幼いと思った。



目元に刻まれた皺や肌の色の翳りは、魔術の対価として削られた命の磨り減りを反映していたのだろう。

削り落とされたものに心が疲弊し、彼は実際の年齢よりもずっと老成して見えていたらしい。


けれどももう、空っぽになったアナスの修道士服を抱きしめてぼろぼろと涙を零している青年は、あまりの無防備さにネアよりも年下にすら見える。


疲弊して強張っていた表情が動いたのが、大切な人を失ったからこそだと思えば、何と皮肉なのだろう。



「……………僕が、」

「ええ。君を守ろうとして、彼はあの魔術を使いました。僕に見付かる事は覚悟の上でしょう。だからせめてと、ここに来てからは彼が僕の姿を認識出来ないようにして遊んであげていたんですが、さすがにもう気付かれてしまいましたからね」

「アナスは、僕を守ろうとして……………。だってそんな、………僕は一度だって、ここから逃げ出したいだなんて彼には言わなかった。……………い、言えば、僕が逃げた時に、アナスも責任を取らされる。だから、………だから絶対にアナスだけには、……………気付かれないようにしていたんだ」



ぽたりと溢れた涙が、抜け殻のようなアナスの服に落ちる。



空っぽになってしまった服地に触れ、そこにいた筈の人を思うことで、喪失の主張はいっそうに鮮やかに冷酷になるのかもしれない。


ネアは、星捨て場に投げ込まれる前に受けた、木の板を投げつけられたような衝撃を思い出しながら、サスペアの震える指がぎゅっとアナスの服を掴むのを見ていた。


善人ではないネアが、自分や自分の大事な人の心を砕くかもしれない仕打ちをしたサスペアを許すことはないが、そうして取り縋り、大事な人の名前を呼んで泣きじゃくるサスペアの絶望が嫌というほどに分かってしまうのだ。




どうして。なぜ。どうして。



どれだけその名前を胸の中で叫んでも、喪われた人は帰ってこない。


それを理解する為に呼吸をし、何度も硝子を飲むように喪失を飲み込む内に心はずたずたになる。

血をしたたらせ、引き裂かれた心を繫ぎ合わせようとしても、それもまた叶わずに途方に暮れる。


大切な人を喪う苦痛と恐ろしさを知っているネアは、小さく息を詰めてこの悲劇を見守った。

もう戻って来ない人の名前を何度も何度も呼んでいるサスペアを見ている限り、彼には、その喪失を共に乗り越えてくれる人はいないのだろう。


もう誰もいなくなってしまった人間にだけ許される慟哭も、ネアはよく知っているのだ。



(勿論、ここで共に暮らして来たような仲間はいるかもしれないけれど……………)



普通の喪失ではないから。

だからこそ、こんな無残な形で訪れた大切な人の喪失を踏み越える為には、喪った者と同等、もしくはそれ以上に大事な人の介助が必要になる。


訪れた苦しみを、助け合い共に生き延びられるだけの相棒でなければ、結局、絶望の中に引きずり落としてもみくちゃにしてしまう。



(……………っ、)



不意に、体の中の全ての息を吐き出しても、涙を全て絞り出しても、それでも押し流せない苦痛に喘いで咽び泣いた夜の事を思い出した。



ネアが泣いたのは、家族で使っていた食卓のテーブルで、使う人のいなくなった両親の寝室の扉を開けると馴染んだその香りだけで胸が潰れそうになった。



思わず体を縮こまらせたことに気付かれたのか、ディノがもう一度しっかりと抱き締めてくれる。

そうすると、ふしゅうと凍えた吐息を吐き出すことが出来た。



視線の先では、引き続きサスペアとアンセルムが対峙している。

すらりと立つ神父姿のアンセルムは、蹲った修道士に教えを説いているようにも見えた。



「だとしても、彼は君のことを大事に思っていました。共に生活している以上、彼が君の世話役である以上、武器の対価で削られていることは隠しようもない。知っていますか?彼は、不揃いという、生まれながらにして歪な運命を背負う者です。恐らくここに逃げ込むまではずっと、穏やかな生活などとは無縁の人生だったに違いない。何しろ、不揃いの者はすぐに戦乱や崩壊を呼び寄せてしまいますからね」

「……………言われたんだ。………兄でも父でもいいって。親友でもいいし、師でもいいって。ずっと傍にいて守ってあげるから、何でも相談して欲しいって、…………もし、」

「もし君が、ここから逃げ出したいのだと彼に相談していたとしても、彼は遠からず僕に見付かったでしょう。秘匿を資質としたこの修道院に隠れていたからこそ、僕から逃れられていたのですから」



アンセルムの説明は、丁寧で穏やかだった。

だからこそ、その一言一言で崩れてゆくサスペアの心が手に取るように伝わってしまい、残された服を掻き抱いて顔を埋めた青年は、例えようもない程寄る辺なく見えた。


こつこつと靴音が響き、一人の商人がそちらに進み出る。


ギナムの装いは、夜に溶け込んでしまいそうな黒色で、夜闇に浮かびあがるようなヴァルアラムの黒い騎士服とはまた色相が違う。


ギナムの後ろ姿に夜との輪郭が見えなくて目を瞬き、ネアは、辺りの暗さに時刻が夜明け前に差し掛かっている事に気付いた。



(そんなに時間が経っているようには思えなかったけれど、書き換えの中で随分と時間が過ぎてたのかもしれない……………)



ピチチと、どこかで朝告げ鳥の声が聞こえたような気がした。



「……………サスペア修道士。俺は、宰相の命を受けて、お前の後任の者をここに連れて来ていた。だがその男は、この通りカルウィの侵入者達の手にかかり命を落とした。更なる繋ぎの者もいるが、その者はまだ幼いからな。お前の後継者になるまでは十年はかかるだろう」



もしかすると、サスペアにそう伝えたギナムの言葉こそが、サスペアの心を砕いたのかもしれない。


のろのろと顔を持ち上げ、虚ろな穴のような瞳から涙を流している青年は、その魂までをもすっかりと押し流されてしまったように見えた。



(ああ、ギナムさんの足元の方は、後継者の人だったのだ……………)




「……………後任?」

「宰相は、アナス修道士からの報告を受けてお前の行く末を案じていた。後継の育成は十五年前から始まっていたが、お前達に伏せられていたのは、情報が他国に流れるのを防ぐ為だ。武器狩りの期間内はお前に任せ、その事後処理から引継ぎを開始するよう申し伝えられていたが…」

「なぜ、それを言ってくれなかったんだ、……………ま、間に合った筈だろう!!なぜ?!」

「既にカルウィの者達が手引きされた、この場でか?アナス修道士はもう、そこにいる精霊に見付かってしまっていた。それだけでもう、あの修道士は手遅れだ。おまけに異国の間者と繋がっている。君もその裏切りに加担している可能性があったのに、フォルキスの槍の他の資格者の所在や後継の育成機関があることを、どうしてこのように危うい場所で明かさねばならない」



至極真っ当な反論であった。


声もなく泣き崩れたサスペアを、アンセルムは場違いな穏やかさがそら恐ろしい程の穏やかな微笑みで見守っている。



「武器狩りも近いこの時期に、なぜ一介の商人が貴族も含む顧客たちを連れ、よりにもよって武器のある場所を訪れているのかと思いましたが、クッキーを買いに来たというのは表向きの理由でしたか」

「いや、実際にクッキー目当ての客も半数はいる。武器狩りの情報を得た者達が参加を辞退したことで、通常なら二年待ちのところに空きが出たくらいだ」

「……………ほわ、二年待ちなのですね」


噂のバタークッキーツアーのあまりの待ち時間に呆然としたネアに、振り返ったギナムが頷いた。


「この修道院への道行きは、聖域の日陰に巣食う人外者達の溢れる、岩山内部の階段を登る必要がある。あの石段は、長いだけではなく危険だからな。普通の人間はそうそう簡単に訪れられない」

「……………言われてみれば、良い狩り場でもありました。踊るブロッコリー的謎生物に加え、ぺらぺらリボン生物をお土産に出来たのは、そういうことだったのですね…………」

「レイノは、なぜあの階段を一人で登ってこられたのかを尋ねられても、今迄その意味を理解していなかったんですねぇ……………」


アンセルムに呆れたように言われ、ネアは、長い階段だからという理由だけで疑われていたのではなかったのだとしゅんと項垂れた。


軽やかにケープを翻して隣に立ったヴァルアラムは、役目を終えた剣を鞘に戻している。

これだけ近くにいてもアルテアとして話しかけてくる事はないが、今の問答に微かに呆れたような気配を滲ませられれば、お馴染みの気配に安心してしまう。



奥では、ギナムがサスペアを拘束している。

これは自害などを防ぐ為の措置で、ギナムが連れてきているお客の中にいる国の監察官に預けられるようだ。


残酷な事だが、後継者が失われた今、サスペアは次の者が育つまではフォルキスの槍の使い手でなくてはならない。



(でも、……………もうあの人はどこにも行けないだろう…………)



すりりと頬を寄せた魔物の腕の中で、ネアはそう思った。


喪ってからその愛情の深さを知ってしまったサスペアに、アナスとの思い出は重過ぎるだろう。

あまりの重さに足が沈むように、彼はきっともう、どこにも行けないに違いない。



大切な人がいないこの場所で、役目を終えるまでずっと暮らして行かなければいけないのだ。



その悲しさと寂しさを思いくしゅんとなったネアに、ディノがそっと唇を耳元に寄せる。

淡い吐息の温度にどきりとしてしまったネアに、どこか男性的な微笑みの気配が揺れた。


「もう少しだけ我慢しておくれ。念の為に、再び防衛魔術が展開しないかどうかだけ、確かめてから帰ろう。あの槍は、ヴェルクレアの為に必要なものらしいからね」

「まぁ。その為に、まだここに残ってくれていたのですね?」

「本当は君を早くここから出したいのだけれど、……………君は多分、それは見届けたいのだろう?」



声の端にほんの僅かな諦観を滲ませてそう言ってくれたディノに、ネアは唇の端を持ち上げて微笑みかけた。


この大事な魔物は、本当に多くの事を察して与えてくれるようになった。

とは言え、本当に危険があるのであれば、ネアがどう言っても譲らないだろう。

だが、許容範囲の中ではとても優しい、本来の資質を超えて寄り添ってくれる魔物なのだ。



「ええ。せめてそれだけは見届けられると、ご迷惑をおかけしたエーダリア様達に、せめて報告が出来る事があって嬉しいです。もうディノがこうして傍にいてくれるので、安心して全部お任せしてしまいますね」

「夜明けの光が差し込んでも何も変化がなければ、出られると思うよ。もう心配はなさそうだけれど、魔術の変質がないように、そのあわいの境界だけは見ておこう」

「空の色からすると、もうそろそろ夜が明けそうですね」

「うん」



勿論音の壁を立ててあるのだろうが、この騎士ばかりはこちら側だ。

そんなネア達のやり取りが聞こえたのか否か、ばさりとヴァルアラムの黒いケープが揺れる。


先程よりも明度を上げた夜の香りが僅かにほころび、夜明けの匂いがし始めていた。




「そろそろ、諦めて王都に帰ったらどうですか?」



口調だけは変わらぬままのヴァルアラムから、その言葉が向けられたのは、セレン達だ。


ネアはこちらも一悶着あるのだろうかと思ったが、座り込んだままのセレンを守るように立つメトラムが、この時ばかりはただ頷いた。


こちらも緑色の瞳だが、サスペアの瞳よりは若干色合いが黄色みがかっている。

まだ朝日の差し込まないこの場所では、メトラムの瞳の色の方が目元の表情がよく見える。



「……………防衛魔術が再構築されたようですが、それは問題ないでしょうか?」

「隔離展開にはなっていない筈ですよ。もう興味を向ける対象がいなくなったこともあるのかもしれませんが、そちらの精霊は認識対象外なんでしょうね」

「…………私は!」


帰還の話がまとまりかけてしまい、狼狽したように声を上げたのはセレンだ。

しかし、驚いたことにメトラムがその言葉を遮った。


「セレン様、…………王都はあなたにとって、決して優しい場所ではないでしょう。ですが、フォルキスの槍はお諦め下さい。私が見る限り、サスペア修道士とあなたとでは、身に持つ魔術の資質も、人間としての気質も違う。どれだけ山の上の静謐な暮らしに焦がれても、ここはあなたが生きられる場所ではありません」



はっとする程に優しい声音で成される容赦のない否定の言葉に、ネアは目を瞠る。


これまで、セレンにだけは決して強く出なかったメトラムは、何かを主張しようとしたセレンを手厳しく窘めてみせたのだ。


しかし、思いがけない忠犬の反乱に驚いたのか、ぱっと羞恥に染めた眦を吊り上げると、セレンは綺麗な水色の瞳で自分を守るように立っている騎士を睨み付けた。



「そうしてまた、あの煩わしい宮廷で、誰が私を娶るのかという噂話を、下卑た口調で転がす貴族達に媚を売れと言うの?!そんなのはもうたくさん!私は贅沢をする為にここまで来たのではないわ!自由になる為に、その為だけに血の滲むような努力をしてきたのよ!」

「……………なりません。あなたは類まれなる力を持ち、そして聡明だ。けれども、その願い故に自分というものを知らない部分もある。……………私は未熟な騎士だが、愚かではありたくない。アナス修道士とサスペア修道士の悲劇を見て、そこから学びもせずにあなたを失うのはご免です」



(……………この人は、)



その結びを聞けば、メトラムの毅然とした態度の理由が腑に落ちた。

小麦色の髪の騎士は、大切な者を守る為に必要な言葉を選んだのだろう。


よく見れば、メトラムはディノからの視線を遮るような位置にさりげなく立っている。

アンセルムですら影響を受けていたのだから、そんな人外者の視線に身を晒すのは容易ではなかっただろうに、けれども彼はいつだって、セレンを守る為に自分を盾にするのだ。



「大袈裟なことを言わないで。武器換えを望むだけなのだから、そんな事にはならないわ」

「セレン様、武器もまた使い手を選びます。フォルキスの槍はあなたを選ばないでしょう。それが、…………今はもう、私にすら分かる」

「……………メトラム、何でそんな酷いことを言うのです?」



セレンの声には、まるで裏切られたかのような寄る辺なさがあった。


力なく地面に座り込み、涙を浮かべた聖女の姿は、己の願いを叫ぶ声音がどれだけ苛烈でも、儚げで美しい。

時折ふわりと吹き抜ける夜明けの風に栗色の髪を揺らし、淡い水色の瞳は星の光を湛えた泉のようだ。



「ご不快にお思いでしょうが、こればかりはどうにもなりません。セレン様。ご理解下さい。これ以上の問題が起こる前に、我々と共に王都へ帰りましょう」

「……………私はずっと、静かな場所で自分を自分の為だけに生かしてゆきたかった。聖女になったのだって、そうすれば煩わしい階級のしがらみを捨てられると思ったからなのよ。……………冗談じゃないわ!あなたに私の願いを手折る資格なんてない!」



じりじりと落ち葉の中で熱されていた栗がぱちんと弾けるような勢いに、誰かが呆れたように息を吐き、メトラムは悲し気に微笑んだ。


その微笑みがあまりにも悲しそうだったからかもしれない。

激高していたセレンは、ぎくりとしたように動きを止め、ようやく言葉を飲み込む。



「であればあなたは、伯爵家の娘に、そして聖女などになるべきではなかった。……………しがらみを捨てたいのであれば、全てを捨てる覚悟をして下さい。あなたがコゴームの疫病の盾を手放し全ての身分を返上するのなら、私はどこまでもお供しましょう。ですが、その道も決して易くはない。聖女の地位を剥奪されたあなたが、再び伯爵家に帰ることは出来ないでしょう。国からの生活支援は最低限になる上に、周囲の人々からの失望の目や批判にも晒される。………その想像はつきますね?」



くしゃりと、セレンの表情が歪んだ。

ネアはもう、そんな場所捨ててしまえばいいのにという気持ちであったが、同時に、そんな都合のいい願いが叶わない事も知っている。



(……………そうか。セレンさんにとっては、どこもかしこもちくちくするセーターだったのか)



貴族の家の娘なのだ。


養女という立場を欲するだけの理由があるのは間違いなく、その家に入るからには、一族に貢献することが大前提となる。

移民としてガゼッタに入り、期待をかけられ伯爵家の娘として生きる日々は、息の詰まるようなものだったのかもしれない。


貴族の家に引き取られても、聖女になっても。

セレンの努力が望むような形では実を結ぶことはなかったのだろう。


ヴァルアラムの言うように自分の友人すら蹴落としてきたのだとすれば、この人の願いはどのようなものだったのだろうかと、ネアは、初めてセレンという人間に興味を持った。



「ヴァルアラム様、私は……………」

「俺は、さっさと帰るようにと言いましたよ?」

「……………っ、でもあなたは…………。私のことを愛して下さっているのでしょう?そ、それなら、私はヴァルアラム様の妻になります!それなら構いませんでしょう?」

「……………やれやれ、愚かさもまた望みを叶える為の演技の一環かもしれませんが、ここまで来るとうんざりだな」

「……………ヴァルアラム様?」

「権力の集中や偏りを避ける為、聖女は生涯独身であることが望まれます。だからこそ、女であることを交渉の道具にしてきたんでしょう?申し訳ありませんが、俺は利用されるのはご免なんで、術式の剥離が済んだ以上はもう関わりたくはないですね。元々、あの術式を壊す為にだけ距離を詰めたんですから」



容赦のない言葉に目を瞠ったセレンに、ヴァルアラムは、冷ややかで他人行儀な微笑みを浮かべた。

ヴァルアラムがどんな術式の剥離を何の為に行ったのかは定かではないが、ギナムやメトラムの反応を見ていると、他の誰も知らなかったものという訳ではないようだ。



(そう言えば、セレンさんは侵食魔術が得意だと、ヴァルアラムさんが話していたような………)



暗黙の了解の上で放置されていた、けれどもヴァルアラムが危険視するだけの何かを、セレンは持っていたのだろうか。



その時、一筋の朝陽が差し込んでくるのが見えた。

空はいつのまにか淡く色づき、あまりにも色々な事のあった夜を押しやった朝の光が、アクテーの天上修道院を照らしてゆく。



「……………事後処理は、彼等がするだろう。帰ろうか」

「む、もう帰れるのですか?」

「うん。魔術隔離が行われないということは、もうこの土地は守られたのだろう。他に何か、気懸りはあるかい?」

「……………いいえ」



ちらりとヴァルアラムの方を見たが、さっさと帰れと言わんばかりにつんとされたので、こんな選択の魔物な感じの騎士ぶりであればもう大丈夫だろう。




(やっと、終わったのだ……………)




長く不可思議な夜が明け、二人の武器の使い手の願いが無残にも潰えた夜だった。


転移で退場したフード姿の人物は気になるが、それはネアが出しゃばってもどうにもならない事だろう。

もっと政治と魔術に長け、様々な背後関係を知る者達が対処するべきことだ。




(……………結局、もしそうなのだとしたら、なぜサスペア修道士が私を恨んでいたのかも、分からないままだったな……………)



もしかすると、どこにも行けずにもがく彼にとって、ネアの言動はいかにも気儘で腹立たしいものだったのかもしれないが、それはネアには与り知らないことだ。



伸ばされた手に持ち上げられ、ネアは、閉じ込められていた修道院の石造りの地面から足を離した。


武器狩りはまだまだ続いていて、ここを離れたからといって安全ではないのだが、これでひとまず修道院での生活は幕となる。


二日にも満たない滞在であったが、ここも武器狩りの戦場の一つであったのだと思えば、戦況とは刹那的なものなのだった。


魔術の薄闇を踏んで視界が暗転する中、ネアは、騎士姿の使い魔に頷きかけ、もはやこちらを見る事もないセレン達の姿を見つめる。



彼女の中でももう、レイノという名前の人間などはどうでもよくなってしまったに違いない。

地面に座り込んでうな垂れたまま、絶たれた願いを抱えたまま、これからどう生きてゆくのかを自分で決める必要がある。



(……………メトラムさんの想いが、セレンさんの救いになればいいのだけれど)



けれども、想われるからこそ想えるというものでもない。



時として人間は、どれだけ自分に優しいものでも、肌に合わずに脱ぎ捨てるしかないこともある。

ネアがちくちくのセーターを脱ぎ捨てたように、セレンもまた、その安寧と助けを拒絶するかもしれなかった。



サスペアと、セレンと。

一度だけその姿を心の中に留め、そうして過ぎ去ってゆく全ての景色をさっぱり洗い流す。


もう二度と、その道がネアと交差する事はないだろう。


だからこそ身勝手な人間は、それを他人ごととして忘れてゆくのだ。




「……………あ、」




転移の薄闇の中を、きらりと星が流れたような気がした。


それはもしかしたら、ネアの瞳に焼きついた、星々の亡霊の残像のようなものだったのかもしれない。



だからネアは、一度だけぎゅっと目を閉じた。








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― 新着の感想 ―
[良い点] 久しぶりに身を切るような厳しくも美しい物語でした。 いつものような優しくコメディチックなお話も大好きですが、この様な(人の身からすると)後味の悪く感じられるお話もまた、理不尽さが神話を感…
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