99. 夜食の後は籠城します(本編)
暗い部屋に漂う、食欲をそそるトマトソースのいい匂いに、ネアはほにゃりと頬を緩ませた。
肩の上に移動した伴侶なムグリスも、出来上がったペペロナータに体を震わせている。
ここはギナムの部屋で、本当は砂糖の魔物である彼が擬態上の商売道具として持ち込んだ大荷物の中には、素敵な食材や調理器具なども揃っていた。
ヴァルアラムという騎士に成ってしまっているアルテアに傷薬を届けた帰り道にこちらの魔物に回収されたネアは、腹ペコで彷徨っていると勘違いされたことで、この夜食にありつける事になったのだ。
「……………ペペロナータか。懐かしいな」
「まぁ、グ……ギナムさんも食べていたものなのですか?」
「………昔、その料理をよく作っていた人間がいた。屋敷にいた家政婦から、淑女の嗜みとして学んだ料理の一つだと話していたな」
「素朴なお料理なので、そのようにして親しい人から学んでゆくのかもしれませんね。私は母がよく作ってくれたので、今もこうして大好きなのです」
静かな声に垣間見えたのは、もしかするとグラフィーツという魔物の歌乞いだった人物なのだろうか。
歌乞いを亡くした魔物は、もしかすると、こうして自分の恩寵のかけらを集めながら優しく微笑むのかもしれないと思えば、ネアにとっては決して他人事ではないのだ。
そう思って胸元を見下ろすと、料理をしているネアに三つ編みをしゃきんとさせているムグリスディノがいる。
なぜネアが料理をする事になったのかというと、お隣におわす中身は魔物な商人が、ざっとお肉を焼いてパンを切るくらいなら用意するものの、たまたまあったパプリカとトマト、そして大蒜やズッキーニなどで何か作っても構わないと言ってくれたからである。
度々、スープの中に野菜の切れ端しか浮かんでいないという苦しみに喘いでいたネアは、ここはもうペペロナータを作るしかないと思い至ったのであった。
くつくつと、お鍋の中でソース状になったトマトが煮詰まる音がする。
オレガノの香りに、美味しい美味しい大蒜とほんの少しのベーコンの匂い。
油は少なめで、叩いた大蒜とベーコンのかけらで香りを立てるのが、ジョーンズワース家のペペロナータである。
そのままでも食べられ、作り置きにも出来てソースにもなるペペロナータは、ネアがパンケーキとフレンチトーストの次に母から教わった料理だった。
(どうしてだろう。今夜は無性に、このペペロナータが作りたかった…………)
窓から吹き込む風の冷たさや、具が殆ど入っていないスープに、一人で暮らした家の静けさを思い出すからだろうか。
「キュ」
「ふふ、もう少し待って下さいね。こうして最後に、ほんの少しの屑チーズを放り込んでお味を馴染ませるのですよ。ディノの晩餐がすっかり遅れてしまいましたので、ぐーぺこなら鴨様からいただきます?」
「キュ…………」
「あら、ディノはペペロナータからがいいのですか?」
「キュ!」
お野菜たっぷりなペペロナータだけではなく、何とこの夜食には、勝者の証である鴨肉のローストもあるのだ。
こちらはギナムが調理してくれたもので、ネアはその手際の良さから、意外にもお料理上手な砂糖の魔物の一面を知ってしまった。
なお、ムグリスディノはギナムの部屋に入るともそもそ自分で出てきたので、こちらでは姿を見せていても問題ないという判断をしたらしい。
ギナムも、星捨て場でムグリスな王様には会っているので今更驚くこともないようだ。
警戒をするでもなく伸び伸びとしているムグリスディノを見ると、王様らしい余裕なのか、ネアの大事な魔物らしい無垢さなのか、ほんの少しだけ窺いきれない表情を探りたくなったりもする。
(でも、……………なぜだか、私もこの人を怖いとは思わないのだ…………)
ガーウィンで出会った時の砂糖の魔物は、油断のならない人ならざるものという感じが強かった。
その上でもしこちらの顔がグラフィーツの素顔に近いというのであれば、なかなかに魔物業も大変なのだろう。
或いは、ネアが歌乞いだからこそ、真理の追求をも魔術に乗せるここでだけは、剥き出しの心が揺れてしまうのかもしれない。
それは多分、大切に大切にしていた今は亡き歌乞いを思って。
ネアがペペロナータの仕上げをしている間に、ギナムは蜂蜜と胡桃のパンを薄切りにして、お皿の端に置いてくれた。
小麦の味のしっかりとした茶色いパンからは蜂蜜の甘い匂いがして、大ぶり過ぎない胡桃と乾燥無花果も入っているようだ。
このパンは、素晴らしい切れ味のナイフで薄く切って食べるらしく、ガゼットの伝統的な、琥珀パンと呼ばれるものなのだそうだ。
「…………好きなお皿を選んでもいいのですか?」
「落ち着いて座れ。鴨肉はどちらも同じ重さだ。大きいのを取ろうとしても変わらんぞ」
「……………なぬ。では、端のお皿からいただきますね。ディノ、一緒に食べましょう?」
「キュキュ!」
最後に胡椒をひいてトマトソースをことこと煮込んで味を馴染ませたペペロナータもお皿に盛り、何だか豪勢なお夜食がテーブルに並ぶ。
窓際にあった書き物机を部屋の真ん中に寄せ、ギナムがどこからか取り出した椅子を一脚足して二人と一匹で囲んだ。
いい匂いのする部屋で、昨日まではしっかりと会話をした事もなかった魔物と向かい合って食事をしているのは、ひどく不思議な感じがした。
(でもとても穏やかで、……………不思議なくらいに自然で優しくて、…………まるであまり交流のなかった家族とテーブルを囲んでいるみたい……………)
どこからか取り出した茶器で丁寧に濃い紅茶を淹れ、紙ナプキンも用意したりと何だかとても面倒見のいい魔物である。
グラフィーツの歌乞いは、もしかするとそんな風に面倒を見てあげたくなる女性だったのかなと思うと、ネアは魔物というものの愛情深さに胸が痛んだ。
雪白の香炉の彫刻を置いた屋敷を作ってあげるくらいにこの魔物が慈しんだのは、どんな女性だったのだろう。
歌乞いを喪った時、この魔物はどれだけ嘆いたのだろう。
ネアが、星捨て場で助けられた時から気になっているのは、ギナムに擬態したグラフィーツの指輪だ。
(薔薇と鈴蘭が彫り込まれていて、とても綺麗な指輪だけれど、どちらかと言えば女性ものに見えるような気がするから…………)
元々は誰かのものだったものをリメイクしたのか、或いは、女性とお揃いで作ったものだと思うのは考え過ぎだろうか。
けれどもネアは、その指輪にいつかのディノの姿を重ねてしまって、こんな困った場所で過ごす時間すら愛おしくなる。
「……むぎゅむわ。………とても美味しいれふ」
「…………何で涙目なんだ」
「鴨肉が丁度よく皮目がぱりりとしていて、粗めの塩の粒が時々きりりと塩味を出してくれて、尚且つ香草がふわりと香るのが堪りません。このパンもふわっと蜂蜜の香りがしてほんのり甘くて、噛めば噛む程美味しいパンでふ。……………あのもそもそして何故か少しだけ生臭い茹で卵の記憶は、この場限りで捨てさせていただきますね………」
「キュ………」
ムグリスディノは、小さく小さく切り分けた茄子やズッキーニを細い木の串に刺した、ネア特製のムグリス用ペペロナータを、トマトソースで口周りを汚さないように上品に食べている。
手料理大好きな魔物なので思わぬ振る舞いが嬉しいものか、三つ編みをしゃきんとさせて幸せそうだ。
この修道院に来てからは胸元に詰め込みっ放しで、心配もかけているので、ネアは美味しそうにペペロナータを食べる伴侶の姿に嬉しくなった。
ネアのペペロナータは、母親直伝で、トマトとパプリカだけではなく茄子やズッキーニも入れてしまうのだが、ディノはその中でもズッキーニの食感がお気に入りらしい。
琥珀パンも気に入ったようで、ちょびちょび齧って幸せそうにもふもふしている。
お向かいでは、きつく巻いた黒髪に青い瞳の男性が、これは人間には見えないなと密かに思ってしまう上品な仕草で、ネアと同じメニューを食べていた。
こちらも晩餐の後のお夜食だが、このくらいの追加は男性なのでぺろりと食べられてしまいそうだ。
(すごく真剣にペペロナータを食べているけれど、気に入ってくれたのかな……………)
どことなく満足げにしているので、こうして美味しい夜食を振舞って貰えたお返しになるといいなと思いながら、ネアはまた、ペペロナータをぱくりと食べる。
カチャカチャと触れ合うカトラリーの音に、ティーカップから立ち昇る芳しい紅茶の湯気。
清貧を育む修道院も、今ばかりは飽食の優しさを許して欲しい。
「星捨て場での事を思い出していたのですが、ギナムさんは、………ヴァルアラムさんの事情をご存知だったのですか?」
「ああ。元々、彼がここにいる事は知っていたからな」
「という事は、申し合わせて一緒に来た訳ではないのですね」
「ここで遭遇したのは偶然だ。アルテアは、武器狩り前にあの聖女を回収するべきかを思案して、アクテーを訪れたようだな」
「まぁ、お二人は知り合いだったのですね」
「騎士成りの方ではなく、本来の姿での面識があるんだろう。あの女が、コゴームの盾の使い手であれば放置しておいても良かったらしいが、フォルキスの槍を欲しがるようであれば回収すると話していた」
「……………セレンさんは、フォルキスの槍が欲しいのですか?」
さらりと語られたのは、思いがけない事実ばかりで、ネアは一口用に切り分けた鴨肉をぱくりとお口に入れてついつい歓喜の身震いをしてしまいながらも、首を傾げる。
(成る程。アルテアさんは、元々セレンさんを知っていたのだわ………)
そこはヴァルアラムの老獪な手練手管によるものかもしれないが、恋の話もしてくれなかったセレンがいきなり異性との関係をぐぐっと深めてしまったのは、その二人の過去によるものだろうか。
このような状況下で二人が距離を縮めるようなどんな経緯があったのかが少し気になりはしたものの、あまり立ち入るのも野暮なので、単に二人はちょっといい雰囲気になったのだと思っておこう。
あの場にいなかった忠犬のようなメトラムがどうしているのかも気になったが、諦めて自室にでも帰ったのかもしれない。
「アルテアによるとだが、その懸念があるらしい。…………犠牲の魔術は支払う対価によっては持ち手の願いを叶えるものに転じる。あの女では、武器の扱いに歯止めが効かなくなると思ったのだろう」
一人の魔物としてフォルキスの槍の運用を案じたのか、或いは、扱いきれないであろう武器を求める一人の少女を案じたのかのどちらかによって、局面は随分と変わってくる。
確かめようにも、アルテアとしての彼と意思疎通するのはどうも難しそうだ。
「アルテアさんの大事な方なのだとしたら、絡まれた時に、反撃の為に踏んでしまったりしなくて良かったです。危うく、アルテアさんの想い人を滅ぼしてしまいかねなかったのだと思えば、ひやりとしてしまいました…………」
「キュ…………」
「アルテアが、個人の趣味で手を出す相手には見えないな。関係があったとしても、駒として利用する上での事だろう」
「あら、だとしてもヴァルアラムさんの目線で出会い直した事で、思いがけず恋に落ちたりしているのかもしれませんよ?先程は何だかいい雰囲気だったのです。……………空気を読めずにお部屋を訪ねてしまったという負の歴史を戒めに、二度とあのような過ちを犯さないように気を引き締めて生きてゆきます…………」
「アンセルムが部屋に送っていったと思ったのだが、ヴァルアラムの部屋を訪ねていたのか?」
ここでネアは、それで一人で出歩いていたのかともう一度呆れた目をこちらに向けたギナムに、危険を承知でヴァルアラムの部屋を訪れた理由までを話してしまうことにした。
幸いにも、ヴァルアラムの中身がアルテアだと知っていて、ガーウィンの一件までを知るギナムには、アンセルムの動きを案じたのだと有りの侭を説明する事が出来る。
その前にと、鴨肉のいいところを小さく切り、ムグリスディノのお口にきゅっと押し込んでやると、むくむくの毛皮を艶々にしていた伴侶は、目を丸くして鴨肉をもぎゅもぎゅした。
しかし、食べ終えるとさっとペペロナータに戻っていったので、どうやらそちらの方が気に入っているようだ。
「……………アンセルムがアルテアを狙うというのは、ありえる話だろうな。精霊は執着が深く、執念深い。特に、気に入ったものが他の誰かの持ち物だった場合は、逆恨みをすることも多々ある」
「となると、アンセルム神父もセレンさんを狙っているのでしょうか。そう言えば、ガーウィンの事件は聖女さん絡みの事件でしたものね………」
「いや、今回の目的は修道院側だろう。神父の立場を生かし、こちら側よりも向こう側に入り浸っているのを感じないのか?アルテアを襲うとすれば、お前絡みだと思うが。恐らく、ガーウィンでの一件の憂さ晴らしだろう」
「……………なぬ」
「キュ……………」
ネアは、執着というには気紛れなものではないかと思ったが、ちょっとしたお気に入りでも荒ぶってしまうのが精霊なのだ。
そのようなこともあるかもしれないと頷き、であればやはり傷薬を置いてきて良かったのだと心を落ち着けた。
なお、人間はとても繊細で傷付き易い生き物なので、選択の魔物に戻ってからも、恋人といい雰囲気のところに空気の読めないままに扉を開けた人間の行いについては、どうか他言無用でいて欲しい。
ノックをした時に低く聞こえたヴァルアラムの声が、もし、入室の了承ではなくネアが勝手にそう聞いてしまっただけだったらどうしようと考える度に、あまりの申し訳なさに冷や汗が止まらなくなるのだ。
「それと、サスペアに恨まれるような心当たりはあるか?」
「……………サスペア修道士にでしょうか?」
驚いてそう尋ねると、どうやらサスペア修道士が食堂でネアを見ていた眼差しが気になったようだ。
偶然選ばれただけの獲物だと思っていたネアは、へにゃりと眉を下げる。
「……こちらに来てからの接点しかありませんが、一度お部屋まで送っていただいたりもしています。………恨まれているのであれば、私には何でもない事に思える言葉が、あの方をとても不愉快にした可能性はあるのかもしれません」
「それならば、フォルキスの槍で撃たれても構わないと?」
「いいえ。それとこれは別ですし、あの方は、所詮私にとっては他人なのです。槍でばちんとやられ、尚且つその余波とは言えディノが失神してしまった事は許しません…………」
「キュ?!」
ネアがとても暗い顔をしたからか、ディノは慌ててひしっとネアの手にしがみ付いてむしゃくしゃしているご主人様を慰めてくれた。
目の前の魔物は、ネアの返答をどう思ったのだろう。
ギナムはじっとこちらを見ていると思ったら、ふいに机の上に小さな白いお皿を置いた。
怪訝そうに見ているネアの前で、泉水晶の水筒のようなものをきゅぽんと開け、さらさらとお皿に砂糖の山を作っている。
「……………ほわ」
「……………キュ」
魔法のように取り出したのは、きらきら光る銀の鎖をつけた美しいスプーンだ。
その銀のスプーンを使い、砂糖の山をじゃりじゃりと食べているギナムに、庶民の心を持つネアは慄かざるを得なかった。
「……………やはり美味いな」
「なぜ、こちらを見ながら食べるのでしょう」
「お前を見ながら食べるのが一番美味い」
「……………解せぬ」
穏やかな穏やかな夜だった。
その後、ちょっぴり何でもない話もしてみたところ、ネアは、砂糖の魔物が歌劇好きであることを知った。
ウィームの歌劇場のロージェもよく訪れるそうで、どうやら歌劇場の魔物とは顔見知りであるらしい。
ネアの母親が歌劇を嗜んでいたことを話すと、とても興味を持ってあれこれ尋ねられ、ネアは、気付けば久し振りにあちらの家族の事をたくさん話していた。
恐ろしい事に、けばけばしい色合いの服を着て大はしゃぎでお砂糖を食べていた魔物は、とても聞き上手でもあったらしい。
(あ、……………)
時折ふと。
そして会話の合間にふと。
ネアは、目の前の魔物が誰かを思う心の色の切れ端を見る事があった。
この人が歌劇場に通うのは、亡くした歌乞いとの思い出を辿っているのだろうかと考えてしまい、ネアは、グラフィーツが歌乞いを得たことを後悔していないか知りたくなる。
ほんの僅かな時間だけしか共にいられない者が、理解はしていても先に立ち去ったことを恨んではいないのだろうか。
(でも、その想いはこの人だけのものだわ。私が尋ねていいことではない……………)
だからネアはそんな問いかけはすることなく、取り留めのない会話の中でその言葉の温度を測るだけにした。
ギナムが顔を上げたのは、それから暫くしてからの事であった。
「死の精霊の魔術の気配だな。気配を零すとなると、相応の相手とやり合っているらしい」
「……………まさか、」
「いや、ヴァルアラムではない。砂の魔術の気配ということは、カルウィの人間だろう」
「まぁ。一体どれだけ潜入していたのでしょう。既にお一人、カルウィの方かなという修道士さんを捕縛したばかりです」
「……………外見的な特徴を覚えているか?」
そう言われて記憶の中の特徴を掘り出すと、ギナムは少しだけ考え込んでから、ふうっと溜め息を吐いた。
「夜明けに、浴室を押さえていただろう。行くのはやめておけ」
「むむ、かなり厄介な状況なのですか?」
「その特徴の人間は、古参の修道士の一人だと聞いている。そこまで入り込んでいるとなると、入れ替えの魔術を使ったのだろう。長年待機させていたと考えるには労力が割りに合わない。懐柔するにしても、カルウィの気質では難しいだろうからな」
「という事は、怪しい方の目星をつけていても、それ以上に入り込んでいる可能性があるのですね………」
「内側から食われたとなると、この修道院には痛手だろうな。ますます、槍の使い手を変える訳にはいかないようだ」
(けれども、内側に問題のある人を使い手のままにしておいて、本当に大丈夫なのだろうか…………)
むぐぐっと眉を寄せたネアに、ギナムが眉を持ち上げる。
「現在の持ち手の方は、内側が少々磨耗してきているようだとヴァルアラムさんから伺いました。その方のままで問題ないのでしょうか?」
「国内には、次代の者が育てられている筈だ。アナス修道士も、繋ぎの為に置かれている者だろう。補佐を交えて使えるところまではあの人間を維持させるとなると、少なくとももう半年は動く」
その言い方に、この魔物にとってのサスペアは、機械を動かす歯車のようなものなのだなと思う。
けれども、相手は魔物で舞台は国なのだからそれも仕方のない事なので、ネアは特別に心を痛めたりはしなかった。
「……………っ、」
その時のことだった。
不意に窓の外の夜がぐわんと翳ると、一転して、星が落ちて来たかのように青白くなる。
大きな音がしたりはしなかったが、びりびりと震える空気に大きな魔術が動いた事が伝わってきた。
「フォルキスの槍だな。それを使わねばならない程のものが、夜闇に紛れて姿を現したか」
そう呟いたギナムは、ゆっくりと立ち上がる。
机の上の食器がふわりと消え、洗い物をしなければと思っていたネアは目を瞬く。
「夜明けまでは却って安全になるかもしれない。安全な場所でしっかりと休むといい。明日の朝は、俺が部屋を訪ねるまでは食堂に行かないようにしておけ」
「……………ギナムさんは、大丈夫なのですか?」
「俺の魔術は、祝福と災厄でもあるからな。聖域とは相性がいい。この状態では大きな力が振るえない代わりに、身を損なうようなことはない。………これを持ってゆけ」
「まぁ、鍵付きの小さな扉です!」
そんなギナムが部屋の奥から持ってきたのは、飾り扉の一部だと思われる一枚の木の板だった。
鍵穴と扉が付いているので、これを使えば厨房に避難出来そうだ。
ギナムは軽々と持ち上げているが自分に持てるだろうかと不安になったが、何とこれは、併設空間を増やす為の術符なのだそうだ。
そう言われて渡されると、確かに紙のように軽い。
「壁に貼り、その中の扉を利用するといい」
「なぬ。中にも扉があるのですか?」
「併設空間の術符としては珍しい造りだがな。……………それと、あの騎士が訪ねて来たら入れてやれ。晩餐時の食堂で、微かに血の匂いがした。お前を訪ねてくるのだとしたら、それなりに休息を必要としている筈だ」
「……………大きな怪我をしているのですか?」
「だとしても、傷薬を置いて来たんだろう。何事もなかったように振舞えるくらいなのだから、それで事足りる」
「……………ふぁい」
ネアはそう言われても不安でくしゃりとしたが、むくむくの毛皮を摺り寄せてくれたディノを撫でると少しだけ心が落ち着いた。
ノアからも、外郭が壊れても中身には支障はないと聞いているのだが、それでもやはり心臓には良くない情報だ。
(アンセルム神父が交戦しているのがカルウィ側の誰かなら、少なくとも今は、アルテアさんの正体を知っている人はそちらに拘束されている訳なのだし……………)
セレンが一緒であれば、彼女も魔術には長けているようなので、ネアが気に掛けるより余程安心だろう。
ネアはギナムに部屋まで送って貰い、そこで別れた。
こちらの魔物のことも心配なのだが、聖域には強いと聞いて少しだけ安心もしている。
砂糖の魔物が祝福と災いを司るということは知らなかったが、それには、魔物というものの本質に伴う秘密も関係しているのだとか。
“ノアベルトが、魔術だけではなく命に近しいものに触れられるのと同じことなんだ”
そう教えてくれるのは、ちび鉛筆を持ったムグリスディノで、ギナムの部屋では鉛筆を欲しなかったので、筆談が出来ることは隠そうと思ったのか、或いはギナムとゆっくり話をさせてくれたのだろう。
ギナムに貰った術符を使って厨房の鍵を開けると、見慣れた空間にネアはとてもほっとした。
同じように夜であるし窓の外の畑は少し霧がかっているが、それでも自分の領域に戻って来たという感じがして知らずに強張っていた肩の力が抜ける。
「ヴァルアラムさんがお部屋に来る可能性もあるので、扉を開いたところに術符を貼れて良かったです」
「キュ!」
併設空間の魔術は、魔術の横付けなのだそうだ。
修道院の防衛魔術に触れるものではないのでこうして使えているが、ディノが擬態を解くことはまた別問題である。
この中であれば、人型の伴侶に会えるのかなと思っていたネアは少しだけがっかりしたが、今回は修道院で展開されている防衛魔術が信仰の領域のものだからで、他の系譜の魔術の中であれば、ディノは元の姿に戻る事も出来たらしい。
“あわいや影絵の中、そして今回のように擬態を定着させる、或いは秘密を暴くという要素のある魔術の中でなければ、擬態を解けたんだ”
「ディノにぎゅっとして貰えないのは残念ですが、まずはささっとお風呂に入ってきてしまいますね」
“ゆっくり温まっておいで。扉を開けておけば、部屋のノックの音も聞こえるだろう”
「あら、こういう時は一人になるといけませんので、ムグリスなディノも浴室の近くまで一緒に来て下さいね」
“ずるい……………”
「謎活用が……………」
ネアは、どうせ事故るんだろうとこの屋敷の浴室を整えてくれた、心配性な使い魔のことを考えながら入浴した。
怪我をしていてこそいっそうに気持ちが盛り上がってしまっているのかもしれないが、ちゃんと傷を治した上でセレンと過ごしてくれればと思えば、何となく保護者な気持ちである。
選択の魔物は、自分を蔑ろにして後々の首を絞めるような気質ではないのだが、ヴァルアラムという騎士はどうなのだろう。
豊かな森と檸檬の香りのする石鹸で綺麗に体を洗い、濡れた髪をふかふかのタオルで包む。
ムグリスなディノも食事の際にソースなどが飛び跳ねているといけないので、水で絞ったタオルでささっと拭いてやった。
「ディノ、エーダリア様達のお返事はまだなさそうですか…………?」
「キュ……………」
ネアが顔用のクリームの前をそっと通り過ぎて、髪を乾かしたりお気に入りの軟膏を手に塗っている間は、ムグリスディノがカードを見張っていてくれた。
今はやり取りが出来ると書いておいたものの、何かが起きているのか、たまたま忙しい時にぶつかってしまったのか、カードへの返信はまだないようだ。
就寝前に温かなホットミルクでも飲もうかなと思ったが、何となく先程ギナムが出してくれた薔薇の紅茶の香りを覚えていたくて、牛乳を温めるのはやめておいた。
そろそろ寝ようかなという時のことである。
こつこつずしんという、少し不安になるノックが響き、ネアはディノと顔を見合わせる。
ギナムに言われた通りに防壁仕様のケープを羽織り、きちんとブーツも履くと、ネアはそろりと併設空間を出て部屋の扉の前に立った。
「……………どなたでしょう?」
「袖にされたことを怒ってなければ、扉を開けてくれると嬉しいんですが………」
ヴァルアラムの声だった。
僅かに苦笑が滲んだその声は、聞きようによっては苦し気にも響き、ネアはすぐさま扉に手をかける。
扉を開けると、失礼と言ってぐいぐい入り込んできた黒衣の騎士にネアは渋面になったが、部屋に入るのを急いだのには理由があるらしい。
「お嬢さんのせいで声を発してしまったので、誰かに押し込まれると厄介ですからね」
「むぐ、なぜ呆れる風なのだ。釈然としません」
「おまけに、これだけ時間を与えておいたのに、あの神父に保護されていてはくれないときた。あちらの方が今夜は手堅いでしょうに」
「アンセルム神父はお忙しいようですし、手を借りればそれだけ対価が重たくなりそうな、ちょっと困った方なのです」
「……………ああ、それは確かに」
セレンは一緒ではないようなので、部屋に帰らせたのだろうか。
もしや何かあったのだろうかとぎくりとしてしまい、ネアは、勝手に椅子に座ってしまっているヴァルアラムの瞳を覗き込む。
「ご一緒ではないようですが、セレンさんは、ご無事でしょうか?」
「ああ、彼女は大人しくなったんで、部屋に帰しましたよ。……………おや、もしかして妬いてくれています?」
「もし、あの方のことがご心配であれば、万能武器な激辛香辛料油があるので、お貸ししましょうか?」
ネアがそう言うと、ヴァルアラムはふうっと深い溜め息を吐いて顔を顰めた。
何かを言おうとして、小さく呻くと体を屈めてしまう。
「……………傷薬を使わなかったのですか?!」
慌てて駆け寄ったネアを片手で制し、身を屈めたままヴァルアラムは苦々しく笑った。
「どうやら今夜は、修道士達があちこちで蜂起しているようですよ。その隙に乗じて身を削りに来る厄介な神父がいたりと、どうやら俺は人気者らしい」
「………むむ、さてはもう一度怪我をしましたね」
ネアは、そんなヴァルアラムに待てを申しつけ、ぽかんとしている騎士に背を向けてケープの中でごそごそしてみせると、いざという時用に隠しポケットにも常備している傷薬を取り出した。
青い小瓶を差し出すと、燭台の光だけでは酷く残忍にも見える美貌の男は、なぜだか少しだけ嫌そうな顔をする。
「大丈夫ですよ。苦くありませんから」
「お嬢さん、念の為にいいますがこの手の薬は、傷口に塗布するもので飲用ではありませんからね」
「……………む」
そう言えばと固まったネアに、意識がなければ飲まされかねなかったんですねと苦笑し、ヴァルアラムは不意に襟元を寛げ始めた。
一瞬ぎくりとしてしまったが、傷薬を塗る為に服を脱ごうとしているらしい。
(このままここで、…………でも、今のヴァルアラムさんを信用していいかどうかは、分からないのだ)
併設空間の中の厨房に招き入れてしっかり治療させたかったが、中身が使い魔とは言え、ネアにとっての最後の砦に入れてしまうのはまだ躊躇われた。
そんな煩悶を抱えるネアの前で、ヴァルアラムは意外に傷が下だななどと言いながら、なかなかしっかりと脱ぐらしい。
淑女の前で何をしてくれるのだとますます遠い目になりながら、ネアは、ひとまず扉に術符をぺたりと貼ったのだった。
本日は何とか無事、通常更新となりました。
なお、明日11/13の更新はお休みになるかもしれません。
お休みの場合は、Twitterよりお知らせしますね。




