98. 夜の配達は失敗です(本編)
ネアはここで、一斤食パンな姿でもがいている見慣れない修道士だった誰かを、少し考えてから腕輪の金庫から出したただの紐で丁寧に梱包しておいた。
少しばかり特殊な結び方ではあるが、相手がパンである以上はさしたる後悔もない。
最後にお土産縛りをしてひょいっと持ち上げられるようにした襲撃者は、そのまま、ヴァルアラムの部屋の壁に吊るされることになった。
「特に主張はないのですが、たまたま壁に額縁などを引っ掛けられるような金具があったので、そちらにかけておきました。床に置いておくと逃げてしまいそうですし、さすがにヴァルアラムさんの荷物らしきものをしまってある衣装棚に放り込んだら気の毒だと思ったのです」
「キュ………」
「まぁ、そんな目で私を見ても、あれはご褒美ではないのですよ?」
「キュ?」
「はい。あれは、ただの縛り獲物の吊るしです。嫌な奴への報いなので、ディノは憧れてはいけません」
「キュ!」
為す術もなく吊るされているパンの魔物は、何とか逃れようと暴れる事はなく、寧ろ、パンの魔物にされてしまい特殊な結び方で壁に吊るされている事を何とか理解しようとしているように見えた。
確かに、なかなか出来ない経験だとは思う。
ふむと見据えたところで、扉がぎしりと音を立てた。
「……………お嬢さん、何ですかそれは」
部屋に戻ってきたヴァルアラムは、壁に吊るされたパンの魔物を見るなりとても遠い目になった。
ムグリスな伴侶は既に服の中に隠れてくれていて、ネアは囮にした筈の人間が、パンの魔物を壁に吊るしていた光景に出会ってしまった騎士と向かい合う。
「私が部屋に一人でいることをうっかり漏らしてしまった、迂闊などなたかの待ち人さんですよ。仲良くして下さいね」
「……………まさか、パンの魔物に変えたんですか?団栗よりも可動域の低いお嬢さんが?」
「私の可動域は、とても上品なだけなのです。その実、とても偉大な狩りの女王なので丁重に扱って下さいね」
「……………で、そのパンの魔物をどうやって扱えと?窓から投げ捨てた方が効率的なんじゃないですかね」
「むむ、尋問したりはしないのですか?明らかに怪しい青年でしたよ」
「俺は騎士なので、その手の役割は負わないんですよ。政治は政治屋共に任せておいて、余分な枝を落としてのんびりと暮らすのが俺の役目なんでね」
でもまぁ、これは預かっておきましょうと、ヴァルアラムは壁掛けになったパンの魔物を金具から外すと、ふわりと魔術で消してしまった。
一瞬の事で見えなかったが、どこかになかなかの容量の魔術金庫を隠し持っているらしい。
「さて、ひと掃除してきましたので、そろそろ食堂に行きましょうか。晩餐を食べ損ねると、お嬢さんは機嫌が悪くなるんですよね」
「今夜のメニューをご存知ですか?陽が落ちるとすっかり冷えてきましたので、シチューなどだといいのですが………」
「残念ですが、野菜のスープと茹で卵と黒パンのようですね。水分が奪われそうなメニューだな………」
「なぬ。茹で卵には、お塩などの味付けは…………」
「つきませんよ。スープでどうにかするようにと言うことでしょう。修道院での晩餐は、晩餐で作ったスープを朝食にも出しますからね。基本的に、夜と朝は同じメニューだと思っておくべきでしょう」
「……………ふぐ」
味付けのない茹で卵というメニューにすっかり意気消沈してしまったネアは、よろよろしながらヴァルアラムの後を歩いた。
石造りの建物の中で迎える夜は暗く、廊下に灯されているのは魔術の火を点けた燭台ばかりだ。
蝋燭もきっちり管理されているので、修道院の夜はとにかく暗い。
(そう言えば、昨日の夜も野菜のスープだったような……………)
まだ昨日の段階では、ここから何とかして出られないかなどの議論も行われていて、食事の間も忙しなかったので、すっかり失念していたのだ。
こうなると、ますます昼食の牛乳のスープを飲み逃した事が痛手になってくる。
寧ろ、同じメニューが続くのなら、ネアはベーコンのサンドイッチが食べたかった。
「……………じゅるり」
「ん?何ですか?」
「あのベーコンは、もうないのですか?」
「流石に俺も、無償でベーコンを振る舞うのは一度きりですよ。それとも、俺がベーコンを差し出したくなるように、籠絡してみますか?」
「いっそもう、この騎士さんは狩ってしまえばいいのでは……………」
「お嬢さん、お嬢さん、もう少し声を落とさないと、全部俺に聞こえていますよ?」
ネア達が食堂に到着すると、はっと顔を上げてこちらを見たのはセレンだった。
淡い水色の瞳には涙が浮かんでいて、ネアはまた何か不幸があったのかなと思ってしまったが、単に心細かっただけらしい。
ヴァルアラムに駆け寄った可憐な少女は、頼りなく細い肩を震わせる。
「ヴァルアラム様、また武器が人を襲ったと聞いて……………」
「襲われたのは、我々とは面識のない修道士だと聞いていますよ。メトラムはどうしました?」
「奥で、サスペア修道士と話をしています。アナス修道士も、武器の襲撃の際に怪我をしたようで、これから夜になるのに…………」
悲しげにそう告げた美しい少女に、ヴァルアラムはラベンダーがかった水色の瞳を眇めて僅かに首を傾げる。
「そんなに不安なら、今夜は俺の部屋にでも来ますか?」
「……………宜しいのですか?」
「ええ。残念ながらこちらのお嬢さんは、俺と一緒だと心が休まらないみたいですからね。俺も、何も不機嫌な女性と一緒にいて喜ぶ嗜好はないので、聖女様を慰めて差し上げるのも吝かではない」
「その、……………はしたないとお思いになりません?ですが、もうどうしても耐えられないのです。お部屋の長椅子で構いませんから、置いていただけると嬉しいですわ」
「おや、残念ながら俺の部屋には長椅子なんてものはないんですよ。聖女様は、よほどいい部屋を充てがわれたようですね」
「まぁ。長椅子がないのですか?」
きょとんと目を丸くしたセレンの横を、ネアは静かに通り過ぎた。
今度はどんな思惑なのか、ヴァルアラムはもうネアには飽きたと主張することにしたらしい。
いきなりの方針転換に呆気に取られはしたが、よく考えれば、自分を信頼するでもない人間を夜も部屋に置いておくのは鬱陶しいのだろう。
体良く追い払う為にここで一芝居打ったのだろうと思えば、ネアも特に気にはならない。
(……………相変わらず、アンセルム神父の姿はないようだわ…………)
食堂には、不安そうな声でお喋りをしているギナムのお客達と、ちらりとこちらを見たような気がしたギナム。
そして、額に包帯を巻いて、そのお客の一人と話をしているアナス修道士がいた。
ネアが席に着くと、見知らぬ修道士の一人が食事を持って来てくれたのでお礼を言い、相変わらず具は少なめのスープと、こてんと置かれただけの茹で卵を凝視する。
修道院の夜は早い。
すぐに晩餐が始まり、昨晩教えられた通りに晩餐の祈りを捧げてから、すっかり冷たくなった茹で卵を手で割った。
ぱかりと割れた問題の茹で卵がかなりのかた茹でである事が判明したネアは、悲しい目で項垂れる。
茹で卵と聞いて、ポケットには備蓄用の塩を潜ませてきたが、お口の中がもそもそするのは間違いないだろう。
「やぁ、レイノ。星捨て場は災難でしたね。……………怪我はしていませんか?」
ネアが心を無にして、ぱさぱさするだけではなく、なぜか茹で卵というものの素質を超えるくらいにとても美味しくない茹で卵を食べていると、隣にアンセルムが腰を下ろした。
「……………アンセルム神父。……………まぁ、お怪我をされたのですか?」
「はは、少々煩い獣がいましてね。これを機に追い払ってしまおうとしたんですが、少しだけ噛み付かれてしまいました。でもまぁ、僕は元気ですよ」
「手の甲ですし、重たいものを持つのが大変であれば、スープを交換して差し上げましょうか?」
「レイノ、野菜が多い方をねらっていますね?」
「なんのことだかわかりません」
何だか久し振りに見たような気のするアンセルムは、銀縁の眼鏡の奥の瞳を柔らかく細めて微笑む。
どんな獣と戯れてきたのかは謎だが、ネアが知らない間にも事態はあちこちで動いているのだろう。
こつりと、軽い靴音がした。
テーブルのスープに影が落ち、ネアはゆっくりと顔を持ち上げる。
こちらに歩み寄ったのは、本心の伺えない静かな目をした緑の瞳の修道士で、アンセルムと共に遅れて晩餐の席にやって来たらしい。
「レイノ嬢、あの後で襲われたと聞いてとても驚きました。戻られた直後は具合が悪そうだったとお聞きしましたが、体はもう宜しいのですか?」
「サスペア修道士。ご心配をおかけしました。何だかよく分からない内に事故に見舞われていたようですが、騎士さんに助けていただきました。星捨て場という場所に落ちてしまい直後は少し目を痛めていたのですが、今はすっかり良くなりました。………その、こちらの修道士さんも襲われ、その方は亡くなられたとお聞きしているのですが……………」
「ええ。階位の高い武器は、単体でも動けますからね。何者かが、対価を与えていない武器を動き回らせていたようです。……………サヌウ騎士団長のものではないといいのですが。ご本人もあれだけの怪我を負われた上に、その責任を問われるのはあまりにも残酷な事ですからね」
「はは、サスペア修道士は、それなら他の悪意のある武器使いがいた方がいいような口ぶりですねぇ」
ネアに譲ってくれなかった野菜たっぷりのスープを飲みながら、アンセルムは飄々とした口調でそんな事を言う。
指摘されたサスペア修道士も、動じる様子はなかった。
「不注意で人を死なせてしまった善良な騎士が苦しむよりは、悪しき思惑を持って介入する悪人がいる方が私は気が楽ですよ。修道士としては不謹慎なもの言いでしょうが、私はフォルキスの槍を任されている以上、災いとは向き合わねばなりません」
「レイノ、このサスペア修道士はまだお若いのに、こうして己の職務と向き合い、研鑽の日々を過ごしているんですよ。立派な方だとは思いませんか?……………それなのに、この国の王都の星読み達は、今回の災いの訪れを見逃したらしい。予め報せがあれば事前に防げたものです。僕はね、それが残念でなりません」
「まぁ、サスペア修道士の持つ槍は、そんなすごい事が出来てしまうのですね。となると、国にとってはとても大切な方なので、皆さんで守らなければなのでは?」
ネアが無邪気さを装ってそう言うと、ぴくりとサスペア修道士の目元が動いたような気がした。
思わずといった感じで表れてしまった僅かな表情の歪みに、ネアは密かに観察しておく。
(ギナムさんは、まるでフォルキスの槍の使い手が逃げ出したがっているかのような事を話していたけれど…………)
だとすれば、今のアンセルムの会話は、今回の事態はサスペアこそが招いたのだと暗に伝えようとしてくれたのだろうか。
(サスペア修道士は、武器狩りに乗じてこの修道院を出たいのかもしれない)
ネアはさっき、セレンのような年若い少女には世俗から隔絶された山の上の修道院暮らしは難しいだろうと考えた。
しかし、アンセルムの言葉からすると、目元に刻まれた皺から、少なくともサヌウよりは年上だと思っていたサスペアも、本当はこんな場所からは逃げ出したいような年齢なのかもしれない。
そう考えて出してみた言葉だったが、反応があったということはやはりそうなのだろうか。
美味しくない茹で卵をもぐもぐすれば、国の為に使う武器に内側を削られ、そんな欲求が表面に出てネアを襲ったのかもしれないサスペアを、ほんの少しだけ気の毒に思わないでもなかった。
燭台の光の下の、慎ましやかな晩餐はそう長くはなかった。
幸いにも離れた位置に座ってくれたサスペア修道士が、晩餐が終わったくらいの時間で立ち上がり、これだけの事件が続いているので、何とかして防衛魔術の解術が行えないかどうか試みているところだと告げられた。
それを聞かされて荒ぶる者もいるかと思えば、思っていたよりも皆は冷静なようだ。
こうなってくると、いっそ全員に含みがあるのではないかとさえ思えてきてしまい、ネアは静かに食堂の中を見回す。
隣に座ったアンセルムの銀髪はよく光を集めるが、奥のテーブルに座ったヴァルアラムの銀貨色の髪は、少しだけ色が暗く青みがかっている。
黒髪のギナムは闇に沈むようで、どこか仄暗い人ならざるものの気配を帯びて見えた。
「…………レイノ。部屋まで送りましょう。ヴァルアラム公は、セレンさんと出られるようですからね」
「………むむ、メトラムさんが途方に暮れているのが何となくお気の毒ですね」
騎士としての務めを果たして戻ってきたメトラムは、いつの間にかセレンがヴァルアラムにべったりだった事に呆然としていた。
食堂だからこそ他の者達に託しサスペアと外せていたのだろうが、待ち受けていた思わぬ展開にどう対処すればいいのか分からないらしい。
「昼間はもっとヴァルアラムさんに嚙みつけていたようなのですが、しゅんとしています…………」
「ヴァルアラム公の方が、騎士としての階位も爵位も上ですからね。サヌウ騎士団長がいないと、彼に従わなければいけなくなるメトラム騎士は、いささか分が悪い」
「ヴァルアラムさんは、爵位もお持ちなのです?」
「おや、レイノは知りませんでしたか?彼は、ガゼッタの公爵でもあるんですよ」
食堂を出て行くヴァルアラムは、こちらを振り返ったりはしなかった。
ネアも目で追いかける事もなく、アンセルムと連れ立って部屋へと向かう。
かたかたと、昨日から吹いている風が窓を揺らしていた。
暗い廊下には窓の向こうの夜の光が落ちていて、澄んだ夜空には冬の気配を見せる星が瞬いている。
フォルキスの槍は、あの星を対価とするのだなと思いながらそちらを見ていると、ふっと、視界が翳った。
「レイノ、こうして君と二人で歩くのは久し振りですね」
そう微笑んだアンセルムは、黒い神父服の袖をしゅるりと鳴らして体を捻ると、ネアの顔をじっと覗き込む。
夜闇の端で細めた紫色の瞳は、光を孕むような人ならざるものの輝きだ。
「あの時は素敵なグラタンをいただいたので、悪さをしなければ踏み滅ぼしませんよ?」
「嫌だな。君に許しを請おうとして思い出話をしたんじゃないですよ。君は僕のお気に入りですからね。あの騎士のせいであまり近付けませんでしたが、もう少し旧交を温めませんか」
「グラタンを振舞ってくれるのですか?」
「レイノにとっての僕の印象は、まさかそれだけじゃありませんよね……………?」
「……………む。むぅ。………その手の包帯は、ヴァルアラムさんにやられてしまったのです?」
返答に窮したネアがそう問いかけると、アンセルムはふっと淡く微笑んだ。
「僕のレイノは目敏いですね。確かに、この場で僕に傷を負わせられるのは彼くらいしかいませんが、心配してくれるんですか?」
「先程、獣さんに噛まれたと仰った時に、少しだけヴァルアラムさんの方を見ていましたから」
「はは、それででしたか。…………珍しく無防備な彼に、少しだけ構って貰ったんですよ。ほら、僕も一応は武器持ちですから」
そう言われると、ガーウィンでアンセルムが持っていた武器のようなものを思い出した。
何となく、それも勝手に何かを貪っていなかったかなと思ったが、高位の人外者が自分を切り分けて作る武器が、対価を必要とする事はないだろう。
「アンセルム神父は、もしかして、ヴァルアラムさんと喧嘩する為にこちらに来たのでしょうか?」
「それは違いますよ。そうですね、個人的な事なので詳しくは言えませんが、ちょっとした収穫物がありましてね。……………ただ、レイノがもう少し仲良くしてくれるのなら、僕の秘密を教えましょうか」
「もうお部屋が見えてきましたので、おやすみなさい。送っていただき、有難うございました」
「……………うーん、レイノは相変わらずですねぇ」
いいところで部屋が見えてきたので、ネアは、ぺこりと頭を下げてさっと離れた。
アンセルムは何とも言えない顔になってしまったが、こちらとしては、武器狩りの中で深めたい交友は特にない。
寧ろ、この精霊にも思惑があるのなら、巻き添えを避ける為にもあまり一緒にいない方がいいだろう。
最後はててっと駆け込むようにして部屋に入ると、僅かな逡巡の後にアンセルムが戻って行く靴音が聞こえてくる。
「……………ヴァルアラムさんが対峙したのは、アンセルム神父だったのですね」
「…………キュ」
辺りがしんとしてからネアがそう呟くと、ムグリスな伴侶が少しだけ顔を出してくれる。
こちらを見上げるつぶらな瞳に微笑み、ネアは、ほんの少しだけ震えた指先を握り込んだ。
「ディノ、……………アンセルム神父は怪我をしていました。…………擬態をしていてもあまり制限は多くなさそうなアンセルム神父と、ヴァルアラムさんとではどちらが強いと思いますか?」
「…………キュ」
「何となくですが、アンセルム神父は、ヴァルアラムさんの内側にアルテアさんがいると知っているような気がするのです」
「キュ」
こちらを見ているムグリスディノは、ネアが何をしようとしているのかを察したらしく、三つ編みをへなへなにしている。
ネアは小さく深く息を吸うと、首飾りの金庫から昨晩の内に擬態魔術で黒くしたケープを出して羽織った。
祝福石と守護の結晶石がこれでもかと縫い付けられた装飾的なものなので、こんなものを羽織っていれば一目で田舎貴族の娘ではないと見抜かれてしまうだろう。
「……………ですが、これくらいの備えは必要ですよね。このケープは私の宝物なのですが、それよりも大切なものも確かにあるのですから」
「……………キュ」
「安心して下さい、ディノ。激辛香辛料油な武器を持ちましたし、きりん箱もポケットに出しておきました。ぞうさんボールときりんさんカード、ウィリアムさんのナイフも忍ばせ、危ない橋を渡るからには不審な人影は見つけ次第滅ぼします」
「キュ?!」
あまりにも恐ろしい武装を済ませた人間に、ムグリス姿の伴侶はけばけばになって震えている。
しかし、ネアはとてもか弱い人間なので、これくらいの備えをしなければならないのだ。
「キュ!キュキュ!!」
「む、なぜかとても慌てているので、ちび鉛筆を渡しますね」
ネアとしては急いで部屋を出たかったのだが、あまりにもディノが慌てているので、ちび鉛筆を渡して紙の上にムグリスディノを乗せると、ちびこいむくむくの生き物は一生懸命に文字を書き出した。
“ネア、君は戦わなくていいんだよ。あのベルを出しておこうか”
「……………む。そう言えば私は、鳴らすとみなさんが寝てしまうベルがありましたね。武器狩りという状況下だからでしょうか。とても好戦的な、全てを滅ぼすぞという気分になってしまっていました……………」
「キュ……」
かくしてネアは、ポケットの中のベルを握り締めて部屋を出た。
一応、きりん箱などの武器は武装解除せずにそのままにしてあるが、ポケットの中で常に手をかけておくのは、ダーダムウェルの物語のあわいでも大活躍したベルに変えたのだ。
ディノ曰く、これは甚大な魔術異変にはあたらない道具なので、この修道院の中でも使えるらしい。
ぎしぎしと建て増しした棟へ繋ぐ木の床が、暗い廊下でひやりとするような音を立てる。
夜闇に沈んだ修道院の中は薄暗く、ネアは、出来るだけ早足で歩いた。
(こんな暗さと香の匂いを、どこかで知っているような気がする…………)
突き当たりを曲がったところで人影を見て心臓が止まりそうになったが、窓硝子に映った自分の影だったようだ。
ほっと胸を撫で下ろして礼拝堂へ続く廊下の前を抜け、先程歩いた時に見たステンドグラスの前を抜ける。
夜の光ごしに煌めくステンドグラスはこんな暗闇の中でも鮮やかで、しかしその色は、陽光を透かしていた時とはまるで様相を変える。
(……………まだ、夜も早い時間なのに)
ネアは、廊下で修道士達や他の滞在者に出会うとばかり思っていたが、修道院の中はしんと静まり返っていた。
武器の襲撃があり、亡くなった人もいるのだから、みんなはとうに部屋に篭ってしまっているのかもしれない。
そう思ってざわつく胸を落ち着かせ、どこか見知らぬ場所に迷い込んでしまったような廊下を歩く。
一つの燭台の光の輪を抜けると、次の灯りまでが随分と遠く感じた。
月と星の光の差し込む窓があるとほっとするが、窓の近くは空気が白くけぶるほどに冷え込んでいた。
(まるで、真冬のようだ……………)
はあっと吐き出す吐息は白く、辺りは不思議な冷気に包まれている。
今夜は随分と冷えるのだろうかと考えながら歩調を早め、目指していた部屋の扉を見付けた時には、もう随分と歩いてきたような達成感を覚えた。
こつこつと扉をノックすれば、小さく唸るような気怠げな声が聞こえただろうか。
少しだけほっとしたネアが扉をぎいっと開ければ、漆黒のケープを広げた背中ごしに、ラベンダー色を強くした水色の瞳が振り返る。
扉の向こうのヴァルアラムは、思っていたよりも遠い場所にいた。
体を屈めるような姿勢に、寝台に上がろうとしたところだったのだろうかと思ったが、面倒なのか立ち上がる気配はない。
「……………おや、お嬢さん。無粋なところで遊びに来ましたね」
「……………無粋?………っ?!」
アンセルムはまだ事を起こしていなかったようだと安堵したのも束の間、ネアは振り返ったヴァルアラムの体の向こうに見えたものに気付いて、ぎょっとして息を飲む。
寝台の上に広がったのは、栗色の艶やかな長い髪だ。
襟元をいささか目のやり場に困るくらいにくつろげているせいか、燭台の灯りにはっとする程に白い肌が危うく浮かび上がり、ネアは慌てて視線を逸らしてしまう。
潤んだ瞳に詰るような色を浮かべたセレンがこちらを見たような気がしたが、目を合わせてしまうのはあまりにも無神経に思えて、咄嗟に目を逸らしてしまった。
(び、びっくりした……………!まさか、こんな事になっているだなんて……………)
ネアとて既婚者である。
特別に清廉ぶる訳でもないが、さすがにこの状況で部屋を訪ねてしまったのは気まず過ぎた。
ばくばくする胸を押さえ、逃げ出しかけた足に力を入れて、なぜここに来たのかを思い出すよう自分に言い聞かせる。
「…………お、お邪魔しました。すぐに…」
「突き放されると構って欲しくなるのは、ご婦人の常ですよね。とは言え、俺は同時に何人もという趣味はありませんし、可愛げのないお嬢さんにはすっかり飽きてしまいましたので、お引き取りいただけませんか?」
ひやりとするような酷薄な声音には、僅かばかりの苛立ちと人間には不似合いな残忍さが滲んだだろうか。
どう考えてもこんな現場に押し入られれば苛立つに違いないので、ネアは目を逸らしたままこくこくと頷く。
「……………こちらに伺ったのは、これをお届けする為です。もし、まだ問題が残っていれば使って下さいね」
ポケットから引っ張り出して、扉近くの棚の上にことりと置いたのは、ディノが作ってくれた魔物の薬だ。
傷薬は沢山揃え持っているが、その中では中程度の怪我を治す為のものである。
置かれた青い瓶に目を留め、ヴァルアラムがふっと気配を揺らしたようにも思えたが、その時にはもう、ネアは開けたばかりの扉を閉めて、ぴゃっと第一騎士団の団長の部屋から退出してしまった後だった。
(ふぁ、……………び、びっくりした!)
男女の色事のそれは、決して偶然見たい場面ではない。
申し訳なさと気まずさであわあわしながら、ネアは来たとき以上の早足でその場から離れる。
(でも、元気そうだと言うことは、思い過ごしだったのかな……………)
ネアがヴァルアラムを訪ねたのは、ヴァルアラムとアンセルムがなかなか真剣に交戦したのではないかという予測からだった。
騎士成りの剣で騎士になっているアルテアと違い、アンセルムの擬態はせいぜい、ガーウィンで共にいた時くらいのものだと推察される。
であれば、そんなアンセルムと交戦したヴァルアラムが、無傷で済んだということはありえるだろうか。
アンセルムがヴァルアラムをただの騎士だと思っていればいいのだが、中にいるのが選択の魔物だと知った上で交戦したのなら、本来の魔物の部分がどうなっているのかは未知数ながら、ヴァルアラムにはかなり不利だろう。
アンセルムは、死の精霊の中でも王族の一人なのだ。
選択の魔物の入れ物として襲撃されていてはまずいかもしれないと慌てて傷薬を届けに来たが、ご主人様らしく使い魔を案じたせいで、とんでもない目に遭ってしまった。
何だかどっと疲れた思いでネアはよろよろしながら先程は僅かな怖ささえ感じた暗い廊下を抜け、もう一度ステンドグラスの前を通る。
ひゅっと風を切るような鋭い音がしたのは、その直後の事だった。
「……………っ?!」
ぎくりとして体を竦めたが、続けて襲いかかるような衝撃はなかった。
そろりと周囲を見回しかけたところで、分岐の反対側の廊下の奥でどさりと重たいものが落ちるような音がする。
「……………なぜ、こんな場所を一人で歩いている」
「ほわ、ギナムさんです…………」
その不思議な音が聞こえた辺りから姿を現したのは、たいそう暗い目をした黒髪の商人だ。
指先をベルにかけていたネアは、現れたのがギナムだったことに安堵する。
眠りへ誘うベルはとても便利だが、様々な未知の力が溢れるこのような場所では、何度も使えるとは思わない方がいい。
その一回が最後の一回になる可能性もあるので、ぎりぎりまで鳴らさずにいたのだ。
「武器狩りでしのぎを削るには、武器の贄が必要になる。思っていたよりも砂の国の者達が入り込んでいるのに、夜闇の中を一人で出歩くな」
「………はい。お騒がせしました」
冷たい目で睨まれてしまい、こちらでも居たたまれなくなったネアは、くしゅんと項垂れる。
あれだけ余計な真似はするまいと考えていたのに、確かにこんな夜に一人で徘徊しているのはいただけない。
「空腹なら、何か作ってやる。それと厨房は反対側だぞ」
「…………なぬ。とても誤解されていますが、お夜食をいただくのは吝かではありません」
どうやらネアは、完全武装で厨房を襲いに行く道中だと誤解されたようだ。
大変不本意なのだが、ここはその誤解を利用して夜食にありつくのが正しいだろう。
わくわくとギナムの隣に並び、ネアは、とは言えこの魔物は砂糖しか食べないのではと少しだけ不安になる。
先程の音が何を示していたのかは、あえて尋ねなかった。
微かな血臭と砂の匂いのする廊下の向こうは覗かずに通り過ぎたし、ギナムもそちらにあるものを説明する気はないようだ。
王様と仲良しの魔物も、この夜の修道院で暗躍しているらしい。
明日のお話は、短めの本編もしくは幕間(アクテー修道院内での)となります。




