96. そこは星捨て場でした(本編)
ちかちかと暗闇で星が光る。
わんわんと耳の奥で唸る音を聞きながら、ネアはその星に懸命に目を凝らしていた。
どうしても焦点が合わずに歪んで重なる星影に、涙が滲みそうになり、地団駄を踏んで暴れたいようなもどかしさが募ってゆく。
ああ、あの星がちゃんと見たいのに。
見なくてはいけないのにどうしてくれるというのか。
そう思って暴れようとすると、振り上げた手を誰かがしっかりと掴んだ。
本能的な怖さにその手を振り払おうと暴れれば、背後から抱え込むようにしてしっかりと捕縛されてしまう。
誰かの低い祈りの声が聞こえたような気がした。
獣の様に暴れようとしたネアを宥めたのは、その切実さと愛情にも似た呟きだった。
誰もこの子供に災いを成してはならない。
誰もこの子供を奪ってはならない。
そんな風に囁かれた文言の全ては聞き取れなかったが、ネアはふと、遠い日の夜に夜空を見上げて良いものを呼び寄せるおまじないを呟いた父を思い出したのだ。
大事な子。
なぜか、そんな囁きに胸がぎゅっと掴まれたようになる。
「ここは院の奈落の底だ。撃ち落とされて砕けた星の残骸の中で、星達の亡霊の呪いが渦巻くところ」
今度は明瞭に、その誰かの声が聞こえてぎくりと息を詰めると、耳元で穏やかな微笑みが揺れる。
「いい子だ。お前は慎重で獰猛で、自分をよく知っている。…………声が出るのなら、目を閉じたまま歌えるか?」
「……………う、うたう?」
「そうだ。目星はついているが、誰かがお前をこの星の墓場に投げ落とした。星達の亡霊に瞳を食い荒らされる前に、その歌声で星を落とすといい」
ここはどこだろう。
そう考えて耐え難い頭の痛みに吐きそうになり、ネアは、誰かに木の板を投げつけられた事を思い出した。
「…………っ?!ディノは、」
「お前と一緒にいる。いいか、ここは聖域で秘密を守り、秘密を見出す場所だ。俺がかけられた探求の魔術の隙間を緩められるのは、ほんの僅かな時間だけだからな。星の残骸は俺には見えん。お前が自分の力で落とすしかない」
その言葉を聞きながら必死に手を胸元に伸ばせば、僅かに顔を出したむくむくした生き物が、ネアの手にひしっとしがみついてくれた。
それだけで涙が出そうな程に安堵して、涙の気配があった目の奥に耐え難い痛みが走る。
「……………っく、……………っつう。私は、誰かに木の板で頭をがつんとやられ、ここに投げ落とされたという事でしょうか?」
「投げ落とされたのは確かだが、その頭痛の原因は、膨大な質量の術式汚染だ。俺が間に合わなければ、目が醒めるまでに星に食われていたぞ」
「あなたは、……………」
まだ辺りは真っ暗で何も見えない。
あなたは誰なのかと尋ねようとしたところで、ネアは背後から自分を抱きしめる誰かに、大きな手で目隠しをされている事に気付いた。
ぎくりとして体をよじると、子供を宥めるように、耳元で低い囁きが揺れる。
「まだ目を使うな。星の光に焼かれかけたばかりだ」
「星……………?」
「星の墓場だと言っただろう。フォルキスの槍に砕かれた星達が、ここに降り積もっている。可動域で劣るお前にだけ、その星々の怨嗟の光が届くんだろう。いいか、ここは隔離区画だ。お前の歌声で星を落とせ。俺にはお前が見ている星達は見えないんだ」
「……………星を、」
言われてみれば、無意識の淵で、星に目を凝らしていたような気がする。
けれどもこの誰かは、まだ何が何だか分からないネアに、歌を歌ってその星を落とせと言うのだ。
「時間がない。俺が擬態を緩めていられる時間は、そう長くはないぞ」
「……………ええと、私の歌声をご存知のようですが、………その、私が歌うとあなたも………」
「俺は、お前の歌声では損なえない。音楽を殺し、唯一人を生き残らせる為の祝福の形をした災い。俺がそれを聞いたことがないとでも?」
(この人は誰だろう…………)
ネアは人為的な暗闇の中で困惑し、まだちかちかと光の瞬く瞼の裏の暗闇を見ていた。
どうやらこれは、強い光を見てしまった影響であるらしい。
となると、頭痛の一端もそのせいかもしれない。
背後からネアをしっかりと抱え込んでいる人は、この口調からすると恐らく人間ではないのだろう。
ここでは何らかの事情で擬態をしており、どうやらそれは、限られた時間しか解除出来ないようだ。
(でも、私の歌声は……………あまり安易に誰かの指示で歌わない方がいいような気がするのに……………)
それなのにネアは、まるでネアの事をずっと昔から知っているような穏やかな声音に、なぜかこの人を信じてみたいなと思ってしまうのだ。
とは言え、目を覆われたネアの向こうに、歌声で滅ぼしてしまう訳にはいかない誰かが設置されている可能性もあるのでと、ネアが緊張を深めたのが伝わったのだろう。
「キュ!」
「……………ディノ」
ネアの指にすりすりしてくれていたムグリスディノが、その指示に従っていいのだと言わんばかりに、ネアの指先にぎゅっとしがみついてくれる。
目が見えていなくても、ネアは伴侶なムグリスの手触りだけは間違えない自信があった。
「……………分かりました。星を落とす為に、歌えば良いのですね?」
「理由は後で説明してやる。俺が、ここに繋いでいられる内に、さっさと片付けろ」
「…………むぐ」
まだ腑に落ちない部分は多かったが、ネアは言われるがままに歌う覚悟をした。
まだ選択肢が出揃ってもいない時に何かを選択しなければいけない事もあるが、ネアは、そんな時の自分の勘を信じている。
すうっと息を吸い込むと、大丈夫だとは言え不安になって、ムグリスな伴侶に直接声がぶつからないように、手のひらで覆いをかける。
何を歌えばいいのかよく分からないまま、ネアが選んだのは幼い頃に母が歌ってくれた子守唄であった。
事前の会話から、星達の亡霊と言われるものを破壊しなければいけないのかなと思ったのだが、星の墓場というどこか感傷的な響きに、無意識の内にその歌を選んでしまったらしい。
どこかで、誰かが満足げに微笑んだような気がした。
それは、目を閉じた向こうの星々だったかもしれないし、ネアをしっかりと抱き締めた背後の見知らぬ誰かだったかもしれない。
歌いながらふと、これは何度も繰り返し歌い、音を外さない曲だったのだと思い出したが、そんな事すら失念していたものの、それでも不思議と声はよく伸びた。
伴奏のいらない子守唄は、ネアの母親が作ったものだった。
歌いながら瞼の向こうの暗闇で、一つまた一つと、ちかちか光る星が暗くなってゆく。
やがてゆっくりと全ての光が閉じ、ネアは最後の音をほうっと安堵の溜め息混じりに終わらせた。
「……………壊さずに寝かしつけたか。選曲ミスだな。少し減点せざるを得ない」
「むう。いきなり状況も分からずに歌わされるのであれば、滅ぼすよりも眠らせる方が、私の心には優しいのです」
「キュ」
ふっと、目を覆っていた手が外され、きらきらと光る銀色の指輪の残像が滲んで見えた。
(……………この指輪は、………)
しかし、真っ暗な周囲を見回そうとしただけなのに、瞳の奥が白っぽく濁り、目を開くと瞳が乾いてずきりと痛んだ。
辛うじて見えたのは、ぼうっと青白く光る小さな花が咲いた蔓草の張り付いた、石造りの巨大な井戸のような円形の空間で、ネアはすぐに目を閉じた。
「……………っく」
「キュ……………」
「一度意識を取り戻した直後に、お前は、星の亡霊の光で目を射られたんだ。大人しくしていれば、すぐに落ち着く筈だ。………くそ、そろそろ時間だな」
「あなたが私を助けて下さったのは、どうしてなのですか?」
霞がかかったようにぼんやりとした視界のまま振り返った先に居たのは、どこか慎重な眼差しでネアの様子を検分しているギナムだ。
こんな温度感で話しかけられる知り合いが果たしていただろうかと首を傾げたネアは、視界がぼやけるのでまだしっかりと確認は出来ていないものの、まずは大事な伴侶が怪我などをしていないかどうか確かめる。
ギナムはネアを抱えるようにして地面に膝を突いていたようだが、ネアから手を離さないまま立ち上がり、ネアの事も手を引いて立たせてくれた。
「お前を死なせる訳にはいかんからだろう。それと、今回の事で、シルハーンは擬態を解けない事が分かった。当分は、ヴァルアラムから離れるなよ」
「…………っ、ディノが……?」
「この修道院の防衛魔術のせいだ。ここは聖域で、神秘の秘匿、つまりは秘密を守る事と、真理の探求、秘密を暴く事の二極で場を構築している。俗世を捨てる修道院という土地の構築も悪い。展開している魔術を破るまでは誰も擬態を解けず、防衛という条件付けの魔術であるが故に自己保全の類の解術は全て効果をなさない」
伝えられた事を飲み込み、ネアは呆然としながら頷いた。
ネアがまだ立ち直れていない間に、ギナムはまるで親猫のようにネアを抱えると、ネア達がいた広い井戸の底のような不思議な空間から頭上に伸びる細い石段を登り始める。
(ええと、私は、頭に木の板を投げつけられた訳ではなく、術式汚染で倒れた……………?)
ネアの疑問を察したものか、ギナムが口を開いた。
「あれも防衛魔術の一端だ。……………サスペアだろう。フォルキスの槍を使い、災い除けの魔術をお前に使った。諸々の守護がなければ、お前は今頃粉々だ。………いや、或いは守護こそが災いとして認識されたのなら、寧ろ何ともなかったのかもしれないか」
「………フォルキスの槍で」
相変わらず目がちくちくするので、ネアは、頑張って周囲を観察するのはやめてしまった。
ネアが心配でならないのか、さかんにすりすりしてくれるが、この状況下でもディノがとても落ち着いているので、ギナムの事を信頼してみようと思ったのだ。
「ディノが、あの修道士さんに見付からなくて良かったです………」
「キュ………」
「意識を失っていたのが幸いしたな。でなければ、擬態を解けないまま引き離されたかもしれない」
「まさか、ディノにもあの衝撃が…………?」
サスペア修道士は滅ぼそうと、ネアがその瞬間に思ったとしても無理はないだろう。
ネアにとってのディノは、世界に一人きりなのだ。
最後の一つを奪おうとしたのなら、相応の報いは受けるべきである。
「いや、シルハーンが意識を失ったのは、お前に向かった槍の魔術の衝撃波で廊下の棚の上から落ちた板の上に乗っていた、妖精除けの香のせいだろう。サスペアがお前を狙ったのは、恐らく場を混乱させるのに最も狙いやすいと思ったからだ。可動域が低いお前なら、こんな瓦礫置き場でも簡単に殺せると思ったんだろう」
「………っ、……あの方は、私を殺そうとしたのですね?」
「全てが終わるまでは、気付かないふりをしておけ。この修道院は、あのフォルキスの槍の為に整えられた舞台だ。あの武器を狙う者にしか、対等な戦いは出来ん。…………お前なら出来る筈だ」
「………ええ。出来ると思います。ですがそうする事は、不自然ではありませんか?」
会話の間に、ギナムの気配がふつりと変わった。
それはまるで、高位の人外者が人間に擬態したような変化で、ネアは、まだ霞んでいる目でしげしげと黒髪の商人を見つめる。
「お前を拾いにゆくのに、身にかけた擬態を緩めていたが、やはりすぐに元に戻るな………。気付かぬふりをしていても不自然さはない。フォルキスの槍は災い除けしかしないものだ。部屋を出た後の記憶がないと伝えておけば、お前には、魔術汚染はあるものの槍本来の力は及ばなかったと諦めるだろう」
「はい。そのように説明がつくのなら、安心して知らんぷりをしますね。………むぐ」
「目は休ませておけば治る。魔物の薬を使うのは、お前が傷を負ったという事を周囲に知らしめてからにしろ」
「はい。………ところで、あなたはどなたなのでしょう。魔物さんなのは間違いないと思うのですが、……」
階段はもうすぐ終わる。
だからネアは、やはりどうしても気になってそう尋ねてしまい、ネアを抱えて階段を登るギナムは小さく苦笑した。
「さてな。知る機会があれば知るだろうし、知らなくても支障はない」
「私が、歌乞いだから助けてくれたのですか?」
「何故そう思う?」
「かつてはあなたにも、歌乞いがいた事があると聞いていましたから」
「……………分かっているのなら、口には出すな。もう院に戻る。より隠されて擬態を緩める事が出来なくなっても、秘密を暴かれても、どちらにせよ面倒だ」
「あの星の墓場で、以前に嗅いだ事のある鈴蘭の香りが少しだけしたのです。私にとってはきっとよく知らない方なのですが、あなたは私をよく知っているようで、それでもと思うとお一人しか該当しませんでした。……………ここにいるのは、私も知る誰かのお願いでしょうか?」
「武器狩りを機に逃げ出そうとしているこの国の星落としを、ここから逃す訳にはいかないのが国の主張だ。国境域を荒らしたくない俺の利害とも一致する。とは言え、国崩しの武器狩りに、よりにもよって国守りの為に働く羽目になるとはな………」
そう言いながらも、ギナムはどこか満足げだった。
最後の踊り場でネアをそっと下ろすと、自分の足で立ったネアがふらつかないかどうかを見てくれて、小さく頷く。
(この人が、こんなにも甲斐甲斐しく面倒を見てくれるのはどうしてだろう?今迄にも対面した事はあるけれど、こんな風に話す魔物さんではなかったのに………)
けれど、と思う。
けれどここが、魔術の上での真理の探求の場であるのならば、これこそが、砂糖の魔物の本来の姿なのかもしれない。
今迄のネアはそんなことを思いはしなかっただろうが、バンアーレンの屋敷を見た時から、ネアにとってこの魔物の印象はだいぶ変わったのだ。
それは、あの屋敷がとても美しく、唯一の相手として誰かを慈しんだ声なき主張である、雪白の香炉の彫刻を見たからだろう。
「助けて下さって、有難うございました。私はいつか、あなたとお話ししてみたいと思っていたのです」
ネアがそう言えば、扉の向こうの光でよく見えなかったものの、ギナムは顔を顰めたような気がした。
「一つ忠告しておく。ここでお前が守護者とするべきなのは、ヴァルアラムだ」
「むぐ…………」
「アンセルムには恐らく、個人的な武器狩りを主とした目的がある。あれはお前を気に入ってはいるが、お前が心でもくれてやらない限りはそちらを優先させるだろう。………だが、ヴァルアラムも、ここでは神秘の秘匿で条件付けが解けない。場合によってはあれも、その条件付けのどこかの要素でお前を裏切るかもしれない」
「………まぁ」
「キュ………キュ………」
それは随分な難易度の高さではと眉を下げたネアに、もぞもぞと服地の中に戻りながら、ムグリスなディノも悲しげに鳴いている。
ネアにはまだ理解しきれていないが、この土地の特性のようなものがあちこちで悪さをしているのは間違いないようだ。
「とは言え、それもお前の意思や心を損なうくらいで、お前を傷付けるようなことは避けるだろう。と言うより、そのような条件付けはしてある筈だ。………俺については、単純にこの擬態では力が及ばん。お前を抱えて守りきるのは難しい」
「…………色々と教えていただいて、有難うございました。これからはもっと用心して、この事件が解決するまでどうにか頑張ってみますね。それと、…………今は商人さんだと思いますので、鍵のついた扉のような品物はお待ちではないでしょうか?」
「何の為に使うつもりだ?」
「そのようなものがあれば、手持ちの道具でもしゃもしゃして、お部屋の中で隠れていられそうなのです。もしそのような品物があればお買い上げさせていただきますので、声をかけて下さると嬉しいです」
階段を登りきり、ネア達は岩山にへばりつくような細い石段に出た。
あまりの急さにぞっとしたが、一応は断崖側には鉄柵のようなものがある。
しかし、強い風が吹いたりしたら簡単に飛ばされてしまいそうだ。
(さっきのところは、この山に深く掘られた縦穴のような場所だった。階段でそこから斜めに上がって、岩山の側面の階段に出たのかな………)
つまりここは、修道院の下にあたる場所であるらしい。
このまま下山出来ないのかなと下を見ると、残念ながら、階段はネア達が出たところから始まるらしい。
びゅおるると冷たい風が駆け上がってきて、ネアのスカートの裾を揺らす。
おかしなところに投げ込まれていたのだと思い出して慌ててスカートの裾を見たが、幸いにも汚れたりすり切れたりはしていないようだ。
ここでふと思い出し、ネアは自立歩行に戻してはくれたものの、しっかりと手を繋いでくれているギナムを見上げた。
「あなたはこれから、ご自身の身を守れそうですか?…………もし、」
「他人の心配よりもまず自分の心配をしろ。お前達はいつもそうだ」
少し憮然としたような、けれども何かを懐かしむような声音に、ああこの人は、自分の歌乞いの事を思い出しているのだろうと思った。
そんなこの魔物はやはり、歌乞いの魔物だったからこそ、ネアを助けてくれたのだろうか。
(もしくは、私をウィームに残しておくことこそが、ヴェルクレア王の意向なのかもしれない…………)
先程触れた彼の指がやけに冷たいと思ったのは、擬態の下の片手が義手だからかもしれない。
今回は誰かの要望に応えてここにいるようだが、そんな風に人間に寄り添う高位の魔物が、リーエンベルク以外にも沢山いるのだろうなと、ネアは、今更ながらに思ってしまった。
(であるのなら、そんなこの人が味方で良かったのだわ。……………グラフィーツさんは、聖女をお砂糖にして食べてしまうそうだもの………)
ネア個人に聖女という称号はないが、信仰の始まりの鹿角の聖女が歌乞いである以上、歌乞いは常に聖人や聖女としての資質を持つ。
さわさわと、枝葉のざわめきが聞こえる。
(……………む)
階段を登り切ったところには小さな緑地があり、そこには感情を窺えない眼差しで立っているヴァルアラムがいた。
吹き上げる風に漆黒のケープがはためけば、その裏地には黒に近い紫が使われていることを初めて知る。
複雑な織り模様があり、僅かに煌めく糸は高価な祝福糸だろうか。
青みを帯びた鈍い輝きの銀髪は陽光の下でも白っぽくならず、淡いラベンダーがかった水色の瞳はより鮮やかになる。
「お嬢さんは本当に、ひと時も目が離せない生き物ですね」
ヴァルアラムは、目が合うと薄く微笑んでそんなことを言ったが、こちらを見ている瞳には微笑みの欠片もなかった。
「星の墓場、星捨て場ですか」
「ああ。まさかそんな物の残滓に傷付けられるとは思わなかったが、星の残骸に目を焼かれている。暫くはあまり酷使させない方がいいだろう」
「やれやれ。……………やれやれですよ、まったく。俺だってなかなかに忙しい身の上なんですが、どうにもこうにも、お嬢さんのところに厄が集まる傾向にあるな」
「……………ご心配をおかけしました。よく覚えていないのですが誰かにぽいっとされたのか、自分で転げ落ちるかをしたようです」
ネアは、ヴァルアラムの傍を離れないようにと言われはしたものの、彼も裏切るかもしれないと告げられた言葉を忘れてはいなかった。
しかし、だからこそ一定の距離を置いたネアの言葉を受け、ヴァルアラムの眼差しはいっそうに酷薄になる。
「…………へぇ、成程。その不始末のせいで、そちらの商人さんとは随分と仲良しになったらしい。浮気はいけませんよ、お嬢さん。俺はもしかすると、自分で思っているより心が狭いかもしれませんからね」
高慢な仕草で伸ばされた手をじっと見つめ、ネアは少しだけ眉を寄せた。
その手首に巻かれた包帯からは、彼もまた武器狩りの真っただ中にいる人物なのだという事が、ひしひしと伝わってくる。
まだ目は本調子ではないし、先程の襲撃の動揺もきっと沢山残っている。
だからこそ、もう一度その中に飛び込んでゆくのは不本意なのだが、ここはやはりぐっと堪えるしかないのだろうか。
「そちらの手をぎゅっとやると、傷口が開きませんか?」
「まったく。そんな風に可愛らしく首を傾げてみせても、お嬢さんを野放しには出来ませんよ。……………ああ、ギナム殿。俺の代わりにお嬢さんを見付けてくれて、助かりました」
「失いたくない事を知っているのなら、現状の資質と折り合いをつけるべきだろう。少し素直になったと思ったところで、まさかのこの有様ではな」
「余計なお世話ですよ。それよりあなたは、顧客の元に戻ってやった方がいいのでは?そろそろ、星の控えもなければ、城塞の餌もなくなった頃合いだ。誰か一人くらいは欠けそうですからね」
冷ややかなヴァルアラムの言葉に、ギナムは肩を竦めたようだ。
ふっと小さく笑ってネアに先に階段を登らせると、そのままヴァルアラムの手を取るように促す。
今度は躊躇わず、ヴァルアラムの甲浅の手袋に包まれた手に指先を預けると、そのままぐっと手を掴まれて引き上げられた。
転ばないように慌てて階段を駆け上り、ネアはぽすんとヴァルアラムの胸にぶつかった。
そのままぐっと抱き寄せられ、何となくいい匂いのする騎士の腕の中で、なぜこの人はこんな風にするのだろうと首を傾げる。
(ギナムさんの言葉通りであれば、この人も誰かが擬態している姿なのだろうか………)
そう考えても、誰かに似ているというような感じもしないから困惑するのだ。
「む………。そして、持ち上げを許した記憶はありません」
「ここは木があるので影になっていますが、建物に入るまでには日向も歩きますからね。目を閉じたままでは転ぶでしょう。躓きながら俺に引き摺られる趣味でも?」
「むむ、それなら乗り物に乗るのも吝かではありません。大切に運ぶのですよ」
しかし、こうしてネアを抱き上げてしまうと、ヴァルアラムは、負傷した手しか自由にならないのだが大丈夫だろうか。
体を返して屋内に戻ろうとするヴァルアラムの腕の中で、ネアは、柔らかな薔薇の芳香にくんくんした。
薔薇のような肥料を食うものも植えられているのだろうかと横を見れば、大きな木の下に、月光を紡いだような儚い黄色の薔薇の茂みがある。
他にも、ラベンダーやカモミールなど、生活に使えるような花々がそこかしこに綺麗に咲いていた。
季節ではない花もあるので魔術で覆いをかけているのだろうが、その色彩は、ここに来てから灰色の石壁ばかりを見ていた上に星の光で眩んでいたネアの目を和ませてくれる。
その時だった。
がさがさとローズマリーの茂みが揺れると、一人の修道士がこちに駆け寄ってくる。
ネアは、砂色の修道士服に一瞬ぎくりとしてしまったが、やって来たのはアナス修道士のようだ。
ヴァルアラムが耳元で小さくへぇと呟いたので、もしかすると今の反応で、ネアをあの穴に落としたのが修道士の誰かだと気付かれてしまったかもしれない。
「ああ良かった!レイノ嬢はご無事でしたか。それにしても、星捨て場に落ちるだなんて………」
「おや、そちらでも何かあったんですか?酷い顔色だ」
「………ええ。修道士の一人が、武器に襲われました。奥院を出ていない者でしたので、皆さんはご存ない者なのですが、…………」
アナス修道士の表情を見るに、その修道士は助からなかったのだろう。
ネアは思わず目を瞠ってしまい、その拍子に少しだけ多めに瞳に光を取り込んでしまったものか、目の奥がじわりと痛んで慌てて瞬きをした。
「お嬢さん、目を閉じておいた方がいい。太陽の角度や雲の様子で、光の角度が変わりますからね」
「…………ふぁい」
「レイノ嬢は、目をどうにかされたのですか……?」
「お嬢さんの可動域では、星捨て場の星は眩し過ぎたようですね。…………まだ他にも何かあるのでは?」
「あの星たちはまだ、光るのですね………。もしお辛いようでしたら、上で薬草湿布をお作りしましょう。……………ええ、もう一件お伝えしなければいけない事が。その武器による襲撃の後から、ギナム氏のお連れになったお客様の中に、一人所在が分からない方がいらっしゃいます」
「………行方の分からない者の名前を教えていただいても?」
「ワシャ子爵です。階段で足を痛めておられたようですので、どこかで休んでいるかもしれないと思ったのですが、メトラム騎士の捜索でも発見出来ませんでした。………星捨て場には、いらっしゃらなかったでしょうか?」
「いや、下にいたのはお嬢さんだけでしたよ。階段でも見かけていませんよね?」
(おや……………?)
ここでなぜか、アナス修道士の問いかけにヴァルアラムが答えた。
ネアを星捨て場から連れ出してくれたのはギナムなのにと思いかけ、ネアは、商人に擬態しているギナムには、本来であれば星捨て場に降りるような力はないのだろうと思い至る。
それを理解した上で疑問を引き取ったヴァルアラムも、ギナムの事情を把握しているらしい。
(ここには、私の知らない秘密がどれだけ隠されているのだろう………)
そんなことを考えたネアが、むぐぐと目を閉じながら眉を寄せていた時のことだった。
不意に、ネアの現在の乗り物がぐわんと大きく動いた。
「みぎゃ?!」
慌てて目を開いたネアが見たのは、目の前に翳されたアクアマリンから削り出したような美しい剣で、その剣の向こう側に、ぎりぎりと音を立てて肉迫する黒鉄色の獣がいる。
ふしゅうと吐き出された野焼きの煙のような匂いのする吐息と、ヴァルアラムの剣に齧りついたぎざぎざの歯に、ネアはごくりと息を飲んだ。
けれども、ヴァルアラムからは、どこかうんざりとしたような気配が伝わってくるだけだ。
負傷した手で剣を握っている筈なのに、くっと手首を返すと、そのまま軽々と黒鉄色の獣を弾き飛ばしてしまうではないか。
(あ、……………)
獣が離れると、ネアのすぐ耳元で、低い詠唱が響いた。
その詠唱が終わるや否や、黒い獣はぎゃおんと苦痛の声を上げ、更に奥へ弾き飛ばされた。
「それなりに大柄ですが、盛り土ではこの程度でしょうね。この機に乗じて俺を葬ろうという魂胆は嫌いではないが、俺は忙しいので主人に遊んで貰うようにしましょうか」
はっとする程艶やかに暗く微笑んで、ヴァルアラムはそう囁く。
これは誰かを破滅させる為の悪意の美しさだろうかと、ネアは、楽しそうに微笑む黒衣の騎士を見ていた。
小さな詠唱が弾け、獣の周囲に銀色の鎖がじゃらりと現れる。
鎖そのものが術式陣を描くようにうねり、ぴたりと形を整えたところで今度は黒い炎になってぼうっと燃え上がった。
わおんと、獣は苦しげに吠えたのかもしれない。
けれどすぐに、こちらに向けられていた獰猛な瞳がふいっと逸らされ、どこか遠くに向けられる。
すぐにどこかに狙いを定めぐるると唸ると、黒鉄色の獣は現れた時と同じように音もなく姿を消した。
「行ってしまったのですか………?」
「余計なお使いを押し付けた持ち主に、文句でも言いに行くんでしょう。サヌウは、あの程度の獣の面倒も見れずに、どうやって生きているのか不思議だとは思いませんか?」
「……………あの方の武器さんだったのですね。腹ペコなら、いっそもうその辺でカワセミでも捕まえてきて、餌にすればいいのでは………」
「……………お嬢さん、さてはもの凄く無茶な提案だと気付いていませんね?」
「……………む?」
飼い主の元に戻された獣は、すぐに行動に出たようだ。
ネア達が修道院の中に戻ると、院内は騒然としていた。
ばたばたと行き交う修道士の一人をアナスが呼び止めて事情を訊けば、サヌウ騎士団長の武器が暴走して、持ち主を襲ったのだという。
思わずネアとアナスはヴァルアラムの方を見てしまったが、あの獣に帰るように命じた騎士は、その報告にもどこ吹く風といった様子だった。
サヌウは一命は取り留めたものの、片目を失うことになった。
本人ではもうどうにも出来ず、メトラムが、サヌウの白翼の剣を捕縛封印したらしい。
皆の集まっていた食堂を訪れると、広げられた敷き布の上に寝かされ、階位の高い武器は気難しいからなと恥ずかしげもなく呟いたサヌウに、ネアは多分、ヴァルアラムやギナムと同じ目をしてた筈だ。
武器の暴走を鎮めたメトラムもどことなく虚ろな眼差しで壁を凝視しているので、割って入ってサヌウを助けたことで、第二騎士団の団長の実力がとても足りなかった事をとうとう知ってしまったのかもしれない。
(これまで、その武器で魔術や動きを補っていたようだから、盛り土の武器とは言っても、高価な買い物をしただけの価値はあったのだろう………)
手持ちの魔術薬で治療を済ませたものの、治癒を済ませた傷もそれなりに重かったことから、サヌウは当座の間部屋で安静にしていることになった。
捕縛した武器をあえて別の部屋に置いておくことで、もう身の危険はないだろうと判断され、修道士達に預けられる事になったようだ。
(アンセルム神父とサスペア修道士は、亡くなった修道士さんが襲われた現場を調べているようだけれど、そのお陰で、すぐにサスペア修道士と顔を合わせる羽目にならなくて良かった…………)
とは言えやがて対面しなければいけなくなる。
それまでに表情筋を鍛えておこうと思ったネアは、既に昼食の時間が過ぎていると知り大いに絶望した。
記録庫から戻って程なくの正午前に部屋の前から連れ去られたネアは、姿が見えないと探されるまでに時間があったらしい。
そう聞くと、ネアが意識を失っている間にディノが擬態も解けずどんな思いをしていたのかと怖くなってしまう。
しかし実際には、星捨て場に入れられてすぐにギナムが見付けてくれ、その時にはディノはまだ妖精除けの香の失神から目を覚ましたばかりだったようなので、小さなムグリスの伴侶が一人でいた時間は短かったようだ。
「私のお昼はどうすれば良いのでしょう………」
「お嬢さんの捜索をしていた俺もまだ食べれていないので、何か作りましょうか。厨房を借りても?」
「申し訳ありません。お二人の分のスープとパンもあった筈なのですが………」
恐縮するアナスに、ギナムのところのお客の一人が、残しておいた食事は、サヌウが食べてしまっていたと教えてくれた。
どうやら、ギナムの分はちゃんと残しておいたらしいので、確信的な犯行である。
「騎士たるもの、備蓄食料くらいは持っていますからね」
そう苦笑したヴァルアラムは、厨房を借りると、ネアが歓喜に弾むような、素敵なベーコンサンドを作ってくれた。
分厚く切ってじゅわっと焼いたベーコンを、この修道院で作られたバターを塗ったパンに挟むのだ。
パンもヴァルアラムの備蓄食料で、ぱりぱりと皮が割れこぼれない程度の硬さの短いバゲットのようなパンは、中はもちもちとしていてとても美味しかった。
マスタードも薄く塗り、どこからか取り出したマリネした野菜も挟んであるので、このサンドイッチだけで大満足の一品となる。
はぐはぐと夢中でサンドイッチを齧り、ネアはやっと幸せな気持ちで溜め息を吐いた。
亡くなった方が出たばかりなのに不謹慎かもしれないが、身勝手な人間は所詮自分が大事なのである。




