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94. 意地悪をされています(本編)




「ヴァルアラム様は、お優しい方ですもの」



朝食が終わると、ネアは、さっそくセレンに捕まってしまっていた。


よりにもよってヴァルアラムが、第二騎士団の二人と共にふいと姿を消したせいでもある。

胸元に隠した伴侶とお部屋でのんびりしたい人間にとって、この拘束は耐え難い時間でしかない。



(既婚者だと言いたいところなのに、役どころ上それも言えない…………!)



今のネアにはこれぞという仮の身分が作られていない為、下準備もなく既婚者だと告げれば、せっかくの田舎貴族の娘という設定が崩れかねない。


加えて残念なことに、セレンはとびきり意地悪な女の子ではなかった。


淡いピンク色のドレスも上品で似合っているし、聖女という肩書で特殊な感じになってしまってはいるものの、いたって普通の、恋に荒ぶる可愛らしいお嬢さんなのである。


邪悪な人間からの仕返し対象には入らない絶妙な立ち位置こそ、聖なる力に守られた聖女の所以なのかもしれない。



「優しい方ではないと思いますが、あの方の立場で一人で動くと、第二騎士団の方たちの手前角が立つので、これ幸いと私に絡むことにしたのでしょう。何やら甘酸っぱい恋の気配はひと欠片もないので、私のことは家具か何かだと思って視界から外していて下さい」

「一つの料理を分け合って食べるだなんて、常識外れもいいところです!あの方は、あなたが意地汚く料理を見ているので、仕方なくあのように仰って下さっただけなのですから、それを、あの方のお心を得たと誤解されてはあまりにもお気の毒ですわ」

「まぁ、そのような思い違いをする余地はないくらいに、腹黒そうな騎士さんですので、その心配はいりませんよ。もしやセレンさんは、ヴァルアラムさんが気になっているのですか?」

「……………っ、何という低俗な質問をなされますの!」

「どう扱えばいいのだ……………」



市井育ちだと聞いていたのに恋の打ち明け話もしてくれないたいそう扱い難い高潔な思春期の少女は、水色の瞳を潤ませるようにして、現在はまたレイノと名乗る羽目になっているネアを睨んでいる。


伴侶との触れ合いの為に部屋に帰りたいので、ネアは一刻も早く解放して欲しいのだが、こうして直接文句を言いに来てしまうあたり、年相応の少女のじたばたが透けて見えるので可愛らしいものではないか。


おまけに、牽制をするよりも先に自分の執着を明かしてしまっているのだから、思っていたよりも毒のない人物なのだろう。



「そもそも、あなたの可動域で、閲覧記録の整理などできますの?このような修道院の書物は禁書扱いで、下手をすれば死んでしまうかもしれないのに………」

「もしかして、可動域が必要な作業になるのですか?」

「当然ではないですか。書物には相応な魔術が宿っていますのよ。本を開いただけで死んでしまいそうな可動域で、どのようにヴァルアラム様のお手伝いをされますの?」



もしや案じてくれたのかなとか、これでも抵抗値は高いのだと言うべきだろうかとネアが悩んでいると、何やらの密談を終えたものか騎士達が戻って来た。


ちらりとこちらを見たヴァルアラムが、早速セレンに捕まってしまったネアを見付け、面白がるように瞳を細めている。


はっとしたように前のめりの姿勢を正したセレンが、そちらに歩み寄ろうとしたが、残念ながら先に忠犬が戻って来てしまったようだ。


ぱたぱたと駆け寄ってきたメトラムに、ネアは、やれやれと内心肩を竦める。



「セレン様、ここは冷えますからお部屋に戻りましょう。……この女に、何もされておりませんか?」

「い、いいえ。ヴァルアラム様を困らせないようにと、お話をしていただけよ。メトラム、ヴァルアラム様が記録庫を調べるそうだけれど、このアクテーにある記録書は、かなり貴重なものが収められているのでしょう?」

「代々の星下し達が、長年に渡って記録し続けたものですからね。正直なところ、王都の星読み長の許可もなく、閲覧の許可を与えてもいいものかどうか」

「ですが、この事態を解決する為に、ヴァルアラム様が必要だと思われたのですよね?」

「彼はそう言っていますけれどね。…………正直なところ、僕は、星読みの記録から防衛結界の解術方法が紐解けるとは思えませんね。我々の中に隠れている、邪な武器狩りを炙り出した方が余程早いでしょう」



メトラムは、生真面目だが融通の利かない印象の騎士だったが、セレンに話しかける言葉はおやっと思うほどに柔らかい。


こんなに優しい声で話す素敵な騎士が隣にいるのにと、ネアは、完全に余計なお世話ながらもセレンの趣味を残念に思う。


整ってはいるものの華美過ぎず、身長も高すぎず低すぎずという素敵なバランスだ。

よく見れば、いつもセレンより窓側に立ち、隙間風の風よけになっているあたりかなり好感度は高い。



「あの方にもお考えがあるのでしょう。ヴァルアラム様は、我が国の筆頭騎士ですもの。一人で任務にあたられるので噂が一人歩きしがちですが、皆の事を考えてくれているのではないかしら」

「皆の為なものですか。あれは自分の興味だけで動く男です。マーサッツ様が酷い怪我を負われた一件は、あの男の身勝手な先行が原因だったのですから」

「あの時は、カワセミが二体も出たのだから、皆が必死だったわ。私も何も出来なかったもの………」

「あなたは、あのような男にまで優し過ぎるのです……………」

「あら、メトラムもとても優しいでしょう?」



そう微笑んだセレンは、聖女としてのつんと澄ました作り物の微笑みよりも、よほど可愛らしかった。


どうやらこの騎士と話していると、セレンは年相応の少女のような話口調になってしまうようだ。

いっそもう、お似合いの二人なのではないだろうかと考えてしまい、ネアは小麦色の髪の騎士をじっくり観察する。



「……………お嬢さん、浮気はいけませんよ」

「ぎゃ!背後から近付かないでいただきたい」



そんなネアの頭に、ぼすりとヴァルアラムの手が乗せられた。


親しくもない人に頭を触られる趣味はない人間は、怒り狂ってすぐさまその手を払い落とそうとしたが、なぜか頭をがっちり掴まれていて手が離れない。

結果、じたばたするネアをヴァルアラムが片手で捕獲しているような構図になってしまう。



「アナス修道士が、記録庫に案内してくれるそうです。お嬢さんの魔術抵抗値的には問題なさそうですが、心配であれば俺のケープを貸しましょうか?」

「………まぁ、もう始めるのですか?そして、私の頭を解放して下さいね」



怠惰な人間がそう尋ねると、あまり朝には強くなさそうな騎士が、勿論すぐに始めますよと微笑む。

窓から差し込む朝の光を映した瞳は、僅かにラベンダー色が強く煌めいた。



「ヴァルアラム様、星の記録書を調べるのであれば、彼女では負担が大きいのではありませんか?どうせここに閉じ籠っているしかないのですもの、私もお手伝いさせていただきますわ」


こちらにやって来たセレンにおやっと思っていると、そんな提案がなされた。

はっとしたメトラムが止めようとしたが、少し遅かったようだ。

そう申し出てしまったセレンに、銀貨色の髪の騎士は面白がるような微笑みを深める。


「ふうん。それなら、聖女様にも手伝って貰ってもいいかもしれませんね」

「ええ、私はこう見えても古文書の扱いには長けておりますのよ。………今の家に引き取られる前は、王立図書館の司書をしておりましたから」



(おや、……………)



てっきり断ると思っていたが、ヴァルアラムはその申し出を受けるらしい。


しかし、案外満更でもないのかなと思えば、はにかむように微笑んだセレンを見るヴァルアラムの表情は、人間を誑かす魔物の眼差しのままだ。


冷ややかな表情ではないので誤解される事もあるかもしれないが、ごくごく表面的な礼儀正しさを被っただけに過ぎない。



(この人は、あまり人間に興味がないのだろうか………)



ふと、そんな事を思ったネアは、嬉しそうに微笑みを深めたセレンの視線の先の、形ばかりは薄く微笑んでいる騎士を見つめる。


その片手は残念ながらまだ、ネアの頭部から引き剥がせていないが、ヴァルアラムの眼差しは、こちらを向いていてもさして温度は宿らない。


ただ、このおかしな生き物はどのようにして自分を楽しませてくれるだろうかと思案深げに観察していて、飽きたらぽいと捨ててゆくのだろう。



周囲を見回せば、サヌウは商人達と話しているようだ。


ちらちらこちらを気にしているので、自分の意思でそこに留まっている訳ではないのだろう。

視線を感じたのか、ギナムと呼ばれている黒髪の商人がこちらを見て微笑むと、不思議な銀色の指輪の光る手で手招きする。


これ幸いと、ヴァルアラムの手をぺいっと引き剥がしてそちらに行けば、ギナムはサヌウの持った帳面のようなものを見ていたようだ。


「こちらの客達の浴室の使用について話をしていたんだが、君は予約は済ませたのか?」

「……………まぁ。我々にも使えるお風呂があったのですか?初耳でした………」

「であるならば、浴室の空き時間を押さえた方がいい。この寒さだからな、女性は特に、体を温める入浴は必要だろう。寧ろ、なぜ入浴順の管理を任されたサヌウ団長が、君にその話をしていないのか不思議なくらいだ」

「入浴したいという要望がなければ、希望者を優先するのは当然だろう。言っておくが、明日の朝まで空き時間は殆どないぞ」


冷ややかに吐き捨てられたその言葉は、ほんの一瞬だけ、ネアの心を掠めていった。


今の一言でまた、一年後のネアからの報復がずしりと重さを増したことを、この騎士は分かっているのだろうか。


アクス商会の自社商品であるほかほか入浴布を持っているネアからすれば痛くも痒くもないが、得られるべきものを勝手に排除されるというのはやはり不愉快である。


意地悪をされたのだと知れば、痛手にはならない仕打ちでも心の端っこがくしゃりとなるのだ。



「……では、空いている時間の中で一番早い時間を予約させて下さい。食事の時間に重ならなければ、いつでも構いません」

「それなら、明日の夜明け前に空いている時間がある。湯の入れ替えが夜明けと同時だと聞いているので、最後にゆっくりと使うといいだろう」

「まぁ、ご親切にどうも有難うございます」



夜明け前にゆっくりとと言えば聞こえはいいが、セレン以外は全員男性で、その何人もの人達が使ったお湯をネアに最後に使えということではないか。

出遅れたのはネアなのだから、さも譲歩してやったと言わんばかりにされなければ気にならないが、わざとその時間に配置されたのだと思えば心がぴりりとする。


(例えば、明朝にお湯を入れ替えてからとか、そんな考えはないのだろうな。お湯の入れ替え後は明日もセレンさんが一番の入浴順になっているし、続いての順番は自分達にしているのだもの……)



ほんわり微笑んでお礼を言いながら、一年後の報復ではお尻が痒くて堪らない呪いも付与しようと決めたものの、ネアは少しだけ悲しくなった。


どうでもいい相手からの仕打ちだから傷付かないということはなく、傷付けようという悪意を知ることが心を引っ掻くのだ。


けれど、胸元でぎゅっと体を強張らせた伴侶の方が悲しいに違いないと思えば、ネアはかつて生まれ育った世界で一人ぼっちで暮らしていたどんな時よりも幸せなのだった。


(この人は、私が何回も入ったことのある、リーエンベルクの素晴らしい大浴場を知らないのだ)


そう思えば心の擦り傷は痛まなくなって、にっこり微笑んで頷いたその時、サヌウの足元に小さな影が立ち目を瞠る。



「……………その、何か御用ですか?」

「何を言っている?私は、お前に用などないが」

「あなたではなく、足元のこの子なのですが……」

「サチェル?私は呼んでいないのだが、どうしたのだ?」


貴族然とした容貌の第二騎士団の団長の足元に、突然現れた茶色の鼬のような生き物は、サチェルという名前であるらしい。


なぜかメトラムがお辞儀をしているので、それなりに階位の高い生き物なのだろうか。



「…………む。平伏しました」


しかし、その生き物は今、床石に頭を擦り付けるようにしてネアに平伏していた。


「お前、サチェルに何をした?!」

「私は何もしておりませんので、女性に地味な意地悪をする騎士さんを恥じているのかもしれませんね」

「……貴様、妙な言い掛かりをつけるようであれば…………サチェル?」


声を荒げたサヌウは、振動のあまり、見えなくなるくらいに震え始めたサチェルに驚いたようだ。

がくがくと震える鼬生物は、どこからかぽわりと取り出したきらきら光る石を、震える両手で掲げてネアに献上してくれる。



「プギュ………」

「貢物であれば吝かではありませんが、あなたから何かをいただくとこの騎士さんが面倒臭そうなので、今回はご遠慮させていただきますね」

「プギュ?!」

「なお、この方にどれだけむしゃくしゃしても、共犯でない限りはあなたを諸共呪うことはありませんから、どうぞ安心下さい」

「プギュ!」


自分は呪われないと知って安心したのか、サチェルの震えはぴたりと止まったようだ。

ネアに向かってご機嫌でへこへこと頷くと、サヌウを殴るようなパフォーマンスまでしてみせ、しゅわりと消える。



「世渡り上手そうな、しっかりとした鼬さんでしたね………」



思わずそう呟いてしまったネアに、またしても背後から、今度は肩に手がかけられる。


少しも心が伴っていない接触は、ネアに気があるように見せる為の偽装行為なのだろうが、基本的に同族との距離感はしっかり取りたい人間は、度重なる不法接近に近くにある全てのものをなぎ倒して暴れたくなった。



「どうやら第二騎士団は、使い魔の方が慧眼らしいですね。さて、そろそろ記録庫に移動しましょうか」

「……………どういう意味だ」

「そのままの意味ですよ、サヌウ。それと、俺に触れないで下さい。このお嬢さんに、仲良しだと思われたら困りますからね」



そう笑って意味ありげにネアの方を見るヴァルアラムのせいで、またしてもいらない注目を集めてしまったネアは渋面になる。


ネアがサヌウを受け流していたのは、武器狩りの動きが出た際に、不要な疑いをかけられるのを避けたかったからなのだ。


ひやりとするような空気を帯びた二人の騎士の間で、揉め事だろうかと注目されるのは、大変に不本意である。

気付けば、ギナムもさっさと離れてしまっているではないか。



「誤解を受けるような物言いはやめて下さい。たまたまあの鼬さんが、礼儀正しく心優しい使い魔さんだったというだけではありませんか」

「サチェルが…………?」


そこで信じられないという顔をしてしまったメトラムのせいで、あの使い魔は日頃の行いを露見されてしまったようだ。


どうやら、あまり高潔な使い魔ではないらしい。



「少し話が聞こえましたが、浴室については、俺とお嬢さんの仲ですし、俺が押さえている時間と交換してあげますよ。そうですね、お礼は口付けでもいただければ」

「まぁ。クリムトファの葉っぱごしでも構いませんか?」

「お嬢さんは、なかなかの照れ屋ですねぇ」

「ええ、この通りとても恥じらい深い乙女なので、お部屋で食後の身だしなみを整えて来たいのですが」

「困ったな、お嬢さんもそんな身繕いが必要なご婦人の一人ですか。待つのは面倒なんで、誰かに適当に聞いて記録庫には後から自分で来て下さい」

「まぁ。それは助かります。では、記録庫でお会いしましょう」



どこかの誰かに待たされて腹を立てた過去でもあるのか、ネアの要望を聞くなり、ヴァルアラムはうんざりとした顔をした。


女とはかくも面倒なものなのだという空気になってしまったが、そのお陰か、食堂を抜け出す口実を得られたネアはそそくさと部屋に戻る。



与えられた部屋に戻ると、ぎいっと音は立てるものの、意外に機密性の高い木の扉を閉めてほっとして息を吐いた。


真っ先にムグリスディノを出そうとしてしまってから、慌てて扉に、市販の音と施錠の遮蔽魔術の術符をぺたりと貼り付ける。

かなり高価なくせに万能ではないので、就寝時はきりん布のようなものが必要になるが、短い時間でディノと触れ合うのであればかなり有用な術符だ。



「ディノ、もういいですよ」

「キュ!」

「ふぁ。やっとディノにすりすり出来ます」

「キュキュ!!」

「……………む、」

「キュ?」



(誰かが部屋に入ったような気がする……………)



それは、どこにも痕跡のない微かな気配の変化のようなものだった。


修道院の誰かが、部屋で寝過ごしていないかと訪ねてくれたのかもしれないし、私物は全て金庫の中だが、今の状況ではあまり気持ちのいいものではない。


ネアは小さく唸ると、机の上を入念に調べてから使い捨ての紙ナプキンで拭いてハンカチを敷き、その上にご主人様が虐められて荒ぶるムグリスディノをそっと置いた。



「……………キュ」

「魔術的な問題はなさそうですか?誰かがこの部屋を調べたりしていたら、ちょっと気持ち悪いですね」

「キュ!…………キュ」

「…………そして、私があの意地悪騎士さんに絡まれてしまったせいで、ディノに悲しい思いをさせてしまいました」

「キュキュキュ!」

「ふふ、優しいディノは代わりに怒ってくれていますが、私には、あの程度の意地悪では挫けないくらいに素敵な伴侶がいるので安心して下さいね。……………まったくもう。困った騎士さんですね。来年の報復がより凄惨になるだけなのに………」


ネアが遠くを見て静かな声でそう言えば、ムグリスな伴侶はぴっとなってしまったが、こちらもぷんぷんしており、ちびこい足で机の上で足踏みをして、ネアの報復に同意してくれた。


手をぱたぱたさせるのでちび鉛筆を与えてみると、一生懸命励ましの言葉を書いてくれる。



“ネア、寒くないかい?お風呂があったのに、君は入れなかったのだね。可哀想に…………”

「あら、むくむくな伴侶が胸元にいてくれたのと、お気に入りのブーツの素晴らしさのお陰で、実は、お風呂に入らないと凍えてしまうような寒さは感じていないのですよ。それにきっと、使えるのだとしても、安全面上、皆さんの使う浴場は利用しない方がいいですよね?」

“………うん。けれど、入浴はしたいだろう。まだ浴室にはあまり手を入れていないけれど、厨房の鍵をここで使えるかどうか、少し考えてみようか”

「むむ。あの厨房を使えるのなら、いっそうもう、全てが終わるまでそこに籠城してもいいのかもしれません」



ずっとディノとお喋りしていたかったが、対価を貰ってしまった以上は記録庫に行かなければならなかった。


会話が出来たのは短い時間だけだったが、ネアはむくむくのお腹に頬ずりさせて貰っていっそうに幸せになると、少しだけへなへなになった伴侶をもう一度胸元に押し込む。


念の為にカードを開いてみたところ、ウィリアムからはガゼッタのお国事情が、そしてノアからは、展開されている聖堂の防衛魔術についての考察が届いていた。


素早く目を通し、カードを首飾りの金庫にしまうと、術符をぺりぺり剥がして扉を開ける。




(……………あ、)



その時、ふっと、廊下の窓からの光が大きく翳ったような気がした。



目を瞠って体を竦めたネアは、ちょうど部屋を出たところだったのだと思う。


布を翻すようなばさりという音が聞こえ、ふた部屋隣の部屋からギナムが飛び出してくると、ネアを見付けるなりさっとその手首を掴んだ。



「………っ?!」

「声を立てず、そのままで。…………随分と飢えた武器を持ち歩いている者がいるらしいな。あのように野放しにしたのなら、誰かが襲われるのは間違いないだろう」


きつく巻いた黒髪は、背中の真ん中あたりまであり、ビーズを通した髪紐のようなもので、ハーフアップ状に複雑に結い上げられている。

青い瞳の深さは、どこか懐かしくなるようなふくよかな色だ。


低い声は囁くようで、殆ど面識のない人なのだが、どうやら攻撃ではないらしい。


父親程の年齢のギナムですら、見ているとやはりこちらの世界の人間は綺麗な人が多いなと思うが、よく考えれば、魔術可動域が高い人間は美しい事が多いので、王家御用達だという商店の商人が美しいのは当然なのだろう。


美貌の種類を表すのなら、ヴァルアラムが年代物の葡萄酒なら、このギナムは複雑な味わいのスパイスティーだ。



「………今の影は、皆さんの話していた武器なのですか?」

「ああ。良い所にいてくれた。俺はたまたま部屋に荷物を取りに来たところだったのだが、これから起こることを思えば、………一人でいたら厄介な立場になりかねなかった」

「……あ、」



ギナムが焦ったのはそういう事なのだと理解し、ネアはさあっと青ざめる。


先程のやり取りの直後なのだ。

偶然ギナムがここにいてくれなければ、ネアはまた、あらぬ疑いをかけられていたかもしれない。


思わずほっとしてしまい、ふにゃりとなりかけたところで、また誰かが、ばたばたとこちらに走ってくる。



「レイノ、無事ですか?!」

「………む、アンセルム神父も来ました」

「おや、神父様。神父様も今の黒い影をご覧に?」


ネアの部屋は、宿泊棟の最奥から二番目の部屋だ。

したがって、建物のそれなりに奥まったところにあるのだが、アンセルムはここまで駆け付けてくれたらしい。


ネアと目が合うとほっとしたようだが、そんなネアの隣に立っているギナムを見ると、眼鏡の向こうの紫の瞳を驚いたように瞠った。



「………あなたがご一緒でしたか。仰る影については見ていませんが、僕も、ここでご一緒させていただいた方が良さそうですね。先程の魔術の動きではまず間違いなく厄介な事が起きそうですし、サヌウ様達の様子ですと、一人でいると吊るし上げられかねない」

「はは、それは間違いないな。我々からしてみれば、そもそも武器狩りともなれば、武器を持っている騎士達にこそ思惑があるに違いないだろうに」

「おや、とは言えあなたも、商品として武器をお持ちなのでは?モックアプナムの商会と言えば、あのサヌウ団長の持つ武器を仕入れた老舗商会として有名でしょう」

「武器狩りの目録には記されているが、あの程度の武器であれば金さえ積めばどうにでもなる。残念だが、威張れたものではないな」


そう苦笑したギナムに、アンセルムも小さく笑う。


「それは初耳です。第二騎士団の団長ご自慢の武器は、どうやら、ご本人が自負するよりは評価が低いらしい」

「対価を望まないような武器に、どれだけのことが出来ると?それを自分で理解出来ないあたり、あの男には、伯爵家の息子が騎士団で箔を付ける以上のことは出来ないだろうな」



全員が集まる場所での印象より格段に辛辣なギナムの口調に、ネアは、ほほうあの騎士は見掛け倒しなのだなと密かに留飲を下げた。


未だにギナムに手を離して貰えていないが、空腹の武器がうろうろしているという不穏な言葉が出ていたので、有難くそのままにさせていただくことにする。


ネアの判断の基準は胸元の伴侶の荒ぶり度合いなのだが、そう言えばディノは、ヴァルアラムだけでなく、このギナムにも強い反応を示さない。



(と言うことは、安心していい人なのかな。……………ヴァルアラムさんは、この二人も武器狩りにかかわっているというような事を言っていたけれど………)



であればここは、絶賛活動中の武器のしでかすであろう事件の犯人に仕立て上げられないようにしつつ、二人の参加者が、双方腹の探り合いをしているという場面なのだろうか。


掴まれた手首に回されたギナムの冷たい指に、ネアはふと、この商人は随分と体温が低いのだなとどうでもいいことを考える。

二人の会話には入れないので、手持ち無沙汰だったのだ。



そうこうしていると、わぁっと、どこか遠くで誰かの悲鳴が上がった。



続けてばたばたと忙しない足音が響き、如何にもたいへんな事件が起こりましたという感じで修道院内が賑やかになる。



「さて、誰が犯人に仕立て上げられるのか見ものですねぇ」

「神父らしからぬ発言だな。それとも、聖職者は皆そんなものなのか?」

「はは、嫌だなぁ。これでも僕は慈悲深い祈り手のつもりなんですよ。ねぇ、レイノ?」



(私が、ガーウィンで見たアンセルム神父は、こんな感じだっただろうか………?)



ネアは、そんな事が気になった。


レイノという迷い子の面倒を見ていた神父は、もう少し気弱な青年の猫を被っていたような気がするのだが、今は、比較的本来のアンセルムに近い温度感である。


となると、もしかするとこの二人は顔見知りなのではないか。



引き続き手持ち無沙汰なネアが、地道にそんな考察をしていると、こちらに向かう特徴的な重い靴音が聞こえてきた。


憤然とした声は、恐らく第二騎士団の二人だろう。

宥めるような少女の声に、誰のものだか分からない数人分の話し声は、バタークッキーツアーのお客達かもしれない。


やがてその声の主達は角を曲がってこちらの廊下に姿を現すと、ネアを見て、如実に計算違いの光景だったのだろうなという唖然とした表情を浮かべた。



そしてネアも、思いがけない負傷者を視線の先に見付けてしまい、目を丸くすることになる。

なんと、ヴァルアラムが片腕に包帯を巻いていたのだ。


「どうやら俺を殺そうとしたのはやはり、お嬢さんではないみたいですよ。まぁ、その三人で共謀した可能性もなきにしもあらずだが」

「……くっ、……………アンセルム神父、その女はずっとここにいたのか?」



(そして、犯人にされかけていたのが凄く伝わってくる……………!!)



「どうされましたか、サヌウ団長?僕は、後からこの二人に合流したので最初からいた訳ではありませんが、先程からずっとレイノはここにいましたよ?」

「ギナム、お前がここに来る前、この女が何をしていた?」

「俺がここに来る前も何も、彼女が部屋に入る前に呼び止めそのまま話をしていましたよ。ヴァルアラム団長が負傷しているようですが、何かありましたか?」



そうサヌウに返した商人の声に、ネアは慇懃無礼とはまさしくこの響きであると得心する。


口調は礼儀正しいが、声音に混じる冷ややかさには、サヌウの隣にいたセレンがぎくりとしているくらいで、サヌウ当人が少しも気付いていなさそうなのが不思議でならない程だ。



(そしてこっちでは、ずっと一緒にいた事になってる………!)



「部屋に入る前………?不審な様子はなかったのか?」

「不審な様子はなかったですし、我々はそもそも何があったのかを知らないので、まずは、この騒ぎは一体何なのかを教えていただいても宜しいですか?」

「先に記録庫に向かった、セレン様達が黒い鋼の獣に襲われたのだ。武器の気配があったので、武器狩りが仕掛けられたと見て間違いない」

「ヴァルアラム様が、私を守って下さったのですわ」



涙目でそう続けたセレンに、ギナムはちらりとそちらを見て頷いた。


セレン達の後方には、騒ぎを聞きつけたクッキーツアーのお客達がいる。

クッキーを買って帰るだけで済まなくなった彼等は、聖女の観察という新しい楽しみを見出したのかもしれない。



「もしかして、サヌウ団長はレイノが犯人だと思っていませんか?」



そう尋ねたアンセルムに、サヌウは鋭い目でこちらを見た。


「当然だろう。一人で部屋に帰りたがり、その直後にこの事件が起きたのだ」

「妙なお話ですね。どうもサヌウ団長はこの少女を随分と気にかけておいでですが、向かい合って話をしてみれば、この少女に武器狩りの武器を扱うような可動域はないと私でも分かりますよ」


今度はギナムにそう言われてしまったサヌウは、水色の瞳を眇めてネアを一瞥する。


なぜこんなに目の敵にされるのだろうと不思議でならないのだが、もはやネアが怪しいと思うというよりも、この騎士は、最初に表明した自分の意見を覆すのが嫌なだけなのかもしれない。


「お前は知らないようだが、可動域は擬態で隠す事が出来る。やけに低い可動域だと思っていたが、それでだったのだろう」

「サヌウ様。可動域の観測器は、我々の商会でも作っていますよ。何なら、今も荷物の中にあるので、その少女の可動域を計測してみては如何ですか?…………恐らく、擬態魔術では削れないくらいの数値が出てくると思います」

「……………削れないくらい?」


そう問い返したのはメトラムで、緑色の瞳には淡い困惑の影しかない。

相変わらず、しっかりと窓とセレンの間に立っているところが、まさに騎士の鏡という感じがした。


「擬態魔術で削れるのは、あくまでも生活必要範囲までで、それ以上に可動域を削るのは魔術の理上、白持ちの人外者にも不可能だと言われています。彼女の可動域は恐らく、魔術の理に於いて削れない範囲のものでしょうね」


そう説明してのけたギナムに、ネアは、何とも言えない気分でその場にいた全員分の視線を集めることになった。


ぎりぎりと眉を寄せたが、貶されている訳ではないので荒ぶる訳にもいかない。



「……………は、はは。まさか。であれば、どうやって生きているというんだ」

「ですから、測ってみてはどうですか?上限可動域ではないので、彼女も構わないでしょう?」

「レイノ、ここは皆の前で測ってしまった方がいい場面ですよ」

「……………むぐぅ」



かくしてネアは、ギナムが部屋に置いている魔術金庫の中から持ってきた可動域の測定器で、その場にいた大勢の人達の前で可動域を計られてしまった。



見紛う筈もない、九という数字を眼鏡をかけたギナムと、何度も目盛りを辿っていたサヌウとメトラムが確認し、一同はしんと静まり返る。




「九……………九だと?!」

「サヌウ団長、しっかりして下さい!」

「おのれ、なぜ目眩を起こすのだ!」

「こりゃ、大したものですね。武器どころか普通の魔術道具に触れても死にかねない。お嬢さん、魔術中りで倒れてもいけないので、今夜からは俺の部屋で休みませんか?」

「………断固としてお断りします」



武器狩りに使われるような武器は扱えないと判明した事で、ネアはその後、漸く犯人役の疑いをかけられないで済むようになったのは僥倖だろう。


しかしながら、第二騎士団の二人からの軽視度合いは悪化したような気もするので、一安心かと言えば残念ながらそうでもなく、ネアは主にサヌウ団長への三つ目の報復措置について心を彷徨わせたのだった。








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