93. なかなか始まりません(本編)
扉を開けた先に立っていたのは、ガゼッタの第一騎士団の騎士団長である。
旅先の異国で事件に巻き込まれているのだから、本来なら頼もしい訪問でしかるべきなのだが、残念ながらこの人物は現在、ネアの中でとても怪しい選手権の暫定王者である。
加えてネアは、事件の犯人でも関係者でもないのだが、偶然幻のバタークッキーを買いに来ただけのガゼッタ人のふりをしている他国の領主館関係者という、この上なく危うい立場なのだ。
(やっぱり、寝たふりをすれば良かったのだろうか…………)
むぐと眉を寄せ、扉をちょびっとしか開かなかったネアに、ふ、とヴァルアラムが微笑む。
「お嬢さん、戸口でやり取りすると、他の騎士連中に都合の悪い話を聞かれるかもしれませんが、いいんですか?」
「………こんな時間ですし、女性の部屋に見知らぬ方をお招きするのもどうでしょう。ご用件は伺いますので、明日あらためてお話し出来ませんか?」
「妖精の耳飾りをしておいて、胸元に妖精を隠しているのに、貞操の心配をする必要が?」
「…………っ、」
ムグリスディノの存在に気付かれていると知り、ネアはひやりとした。
やはり、妙な疑いをかけてくれたものの、ネアに対して可動域以上の疑いをかけなかった第二騎士団の男達に比べると、遥かに油断がならない。
「昼間のやり取りの後で、か弱い女性が最大限の警戒をするのは当然だと思いますが」
ネアはここで、つんけんはしなかった。
にっこり微笑んでそう言えば、水色の瞳を眇めた騎士はどこか愉快そうな顔をする。
柔和で親し気な口調とは裏腹に、その温度はとても低い。
「大丈夫、修道士や神父に言いつけて、異端審問にはかけませんよ」
「………異端審問?」
「お嬢さんは、よほど田舎から来たらしい。この国では、国からの許可証なしの妖精との婚姻は禁じられています。立場上俺は、許可証が発行された全員分の名前と顔を覚えていますが、不思議なことにお嬢さんにはどうも心当たりがない」
よりにもよってな真実に衝撃を受けたネアが愕然としている内に、遠慮なくネアの部屋に入って獲物をつつき回すのが楽しくて仕方ないという目をしたヴァルアラムは艶やかに微笑む。
そんな騎士団長の姿を見ながら、ネアはぼんやりと、招待がなくても部屋に入れるという事は妖精だったりはしないのだなと考えていた。
(ガゼッタでは、妖精との婚姻が難しいという情報までは、入っていなかった………)
エーダリア達は知らなかったのだろうか。
そしてアンセルムは、知った上でその危うさを指摘しなかったのだろうか。
ネアが妖精の耳飾りをしていることは、ここでは誰にも伝えていないが、安全の為にずっとヒルドの耳飾りを外さずにいた。
髪の毛の中に隠れてはいるものの、ふとした拍子に見えてしまうことはあるだろう。
(良くないものを招き入れてしまったような気もするけれど、こんな生き物が紛れているのだから、ここで向かい合ってしまった方がいいのだろうか………)
幾つかのこれからを思案したが、目の前のヴァルアラムは、むしゃくしゃする程に印象を掴み難い。
愉快そうにこちらを見ている騎士は、酷薄な美貌をどきりとするような凄艶さに磨き上げる甘く澄んだ色の瞳が、忌々しい程にその老獪さを覆い隠してしまっていた。
「仰るように田舎者ですので、そのようなことは存じ上げておりませんでした。必要であれば、ここから出た後に必要な手続きを取ろうと思います」
「へぇ。思っていたよりも動揺しないな。お嬢さん、本当にただの田舎貴族ですか?」
石造りの簡素な部屋の天井は低くはないが、リーエンベルクや他の壮麗な建物のように高くもない。
ゆったりと立つ黒衣の騎士服の男が部屋にいると、得体の知れない獣と一緒に檻に閉じ込められたようでネアは落ち着かなくなる。
(……………大丈夫。ソロモンさんに出会った時のような恐怖はない。でもきっと、この人は自分の目的の為に、容赦なく他人を犠牲に出来るような怖い人なのだろう………)
上手く言えないが、ヴァルアラムに感じるのは自分と同じ人型をした厄介な相手と向き合う時の不穏さばかりで、ソロモンと出会ったときのような異形に向ける悍ましさは感じない。
それならきっと、何でこんな事になってしまったのだろうという惨めさで胸が苦しくなっても、カルウィのような土地に落とされたりするよりは余程いい筈だ。
そう考えると、ネアは胸の中に凝ったくしゃくしゃの後悔をひとまずぽいと投げ捨ててしまい、綺麗な宝石のような瞳を覗き込む。
瞳の印象などに誤魔化されて堪るものかと目を逸らさずにいると、なぜかヴァルアラムに情熱的ですねと苦笑される。
「ご同僚の方にあんな風に疑われるくらいに不始末の多い私が、それ以外の何だと言うのでしょう。正直なところ、バタークッキー食べたさにここまで死ぬ気でやって来てしまった自分の強欲さは恥じておりますが、そんな些細なことで重要参考人扱いされたのは非常に不愉快です。そもそも、あなたもバタークッキー目当てのお客様の筈なのではありませんか?幻のバタークッキーの為に、あの階段を登ってしまう気持ちはご理解いただけますよね?」
「おや、一本取られてしまったかな」
ネアにとっても割り当てられた部屋に過ぎないのだが、我が物顔で部屋の中を見回し、ヴァルアラムは小さく溜め息を吐く。
窓辺に歩み寄ると、指の背でこつこつと硝子を叩いた。
「災い除けの知識もあるようだが、ここは減点ですね。夜鉱石とナナカマドでは、聖地での隙間風は封じられない。この場合は夜鉱石よりも霧結晶がいいんですよ。就寝前に変えておいた方がいい。どうせ君は、霧結晶も持っていそうですからね」
「………ご親切に有難うございます」
清貧を主とする土地だから仕方ないのだが、この修道院は少しだけ建付けが悪い。
隙間風と一緒に良くないものが入り込まないよう、ネアはウィームで学んでいた窓辺の災い除けを施してあった。
こつこつぎしぎしと、ネアよりも重い足音が床を軋ませる。
片手で足元までのケープの裾を払うと、勝手に椅子に座ってしまったヴァルアラムの装いは、艶消しの金の装飾のある漆黒の騎士服だ。
胸元の紋章の装飾はとても精緻な飾り彫りで、埋め込まれた水色の宝石がちかりと光る。
僅かに癖のある銀貨色の髪は、襟足の部分を黒い飾り紐で結んであるらしい。
唇の片端をくっと持ち上げて微笑む仕草はアルテアを彷彿とさせたが、あの音信不通の使い魔が擬態しているのだという感じはしなかった。
「さて、お嬢さんの部屋を訪ねた理由ですが、……………俺と、手を組みませんか?」
「開口一番の怪しさに、驚きを禁じ得ません。ここで足止めされている外部者の中で、私ほどか弱い人間もいないと思いますが」
「ええ、表面上はね。ですが、お嬢さんは恐らくこの国の人間ではない。さしずめ、食い意地の張った越境者というところかな」
「そのような前提でお話をされるのであれば、あなたが私と組む上で、どのような利点があるのでしょう?」
ひたひたと足元に押し寄せるような暗さは、悪魔との取引をしてはいけないと感じる戒めにも似ている。
けれどネアの伴侶は魔物であるし、これまでに出会ってきた人間にとって良くない者達は、時には心を通わせることも出来た。
そんなネアですら、この騎士が微笑みの下に隠しもしない不穏さは、手を取っていいだけの毒かどうかはかなり怪しいと思ってしまう。
「ねぇ、お嬢さん。武器狩りってものをご存知ですか?」
「詳細は存じ上げませんが、あれだけ騎士の方々が口にしていれば耳に残ります。そのような名称の厄介ごとが起き、あなたを含めたここにいる方々の内の何人かは、狙われる資格も、襲いかかる資格もお持ちのようですね」
「話が早くて助かりますよ。それと、武器狩りについては、国でも開戦の布告は出しますからね。別に秘密でもない。ざっと概要を説明してあげましょう。俺は本来は面倒見のいい方じゃないんですが、お嬢さんは特別ですよ」
悪戯っぽくそう言われても、ネアは胡乱げに銀貨色の髪の騎士を見返すばかりだ。
こうして部屋の中にいても手袋を外してはおらず、帯剣したままなのだから、彼自身もある程度はネアを警戒しているのだろうか。
魅力的な声だと、武器狩りについて説明するヴァルアラムの言葉を聞きながら思う。
魔物達とは違う人間の美しい声の甘さと冷たさには、彼が育ててきたのであろう、叡智の彩りが滲んでいる。
勿体ぶった言葉を使わず端的に説明を進めてゆくヴァルアラムだが、ネアは剣を選んだ人であれ、高位の魔術師くらいの知識は有していそうだぞとますます警戒を強めた。
これぞという違いを彼は見せてはいないのだが、長命高位の人外者達と過ごしてきたこれまでの日々で、ネアはそんな区別がつくようになっていたらしい。
「つまり、その武器狩りとやらが水面下で動いたせいで、我々はこの修道院に閉じ込められたという事なのですね」
「俺の見立てでは、この閉鎖措置は聖女派と修道院派、そこにあの神父と商人の四竦みだ」
「なぜそんな泥沼なのでしょう。一般人を巻き込まないでいただきたい……………」
「あの神父とは知り合いなんでしょう?」
「あの方の派遣先の教区で、教会の教えを数日間ご指導いただいた事があります。それきりでしたし、残念ながら私は、信仰の教えは向いていなかったようです」
武器狩りの陰謀に加わっているとも取れるような発言の後で、アンセルムに紐付けられては堪らない。
ただでさえ、ここで遭遇する事自体があんまりにも出来過ぎている偶然なのだからと、ネアはきっぱりと深い付き合いはないのだと答えておいた。
「…………ふうん。それならやはりここでいいかな。…………お嬢さんも俺も、巻き込んで殺されかねない不運な位置に立っているのは理解出来ましたか?ほら、それを理解した上でこちらを見ると、俺と手を組んだ方がいいと思いませんか?」
「騎士団の方々はあなたの同僚にあたるのではありませんか?それなのに巻き込まれてしまうと仰るのなら、あまり関係が良くないのではとお見受けします。つまり、そのような方と一緒にいる事で、私まで狙われてしまう危険はないのでしょうか?」
とばっちりは御免だと告げたネアに対して、ヴァルアラムはまるで恋人にでも微笑みかけるような、甘い甘い微笑みを浮かべた。
何だか嫌な予感がしたネアは、じりりとヴァルアラムから一歩遠ざかる。
ここで、誰か一人を捕まえておかなければとも思ったが、今はなぜか、一刻も早くお帰りいただきたい。
「ああ、それなら問題がないようにしますよ。幸い、お嬢さんの妖精の耳飾りにあの若造共は気付いていませんから、俺がお嬢さんに惚れたことにすればいい」
「……………なんという嫌な役回りなのだ。やめていただきたい」
「他に、面識のない男女が一緒に過ごす言い訳なんぞないでしょう。それに俺はもう、お嬢さんに手の内を喋ってしまいましたからね。この提案を拒絶されてしまうと、小心者らしくお嬢さんを地下牢にでも隔離しておくしかない」
飄々とそんな事を言ってのけたヴァルアラムに、ネアはぎりぎりと眉を寄せた。
妖精を連れている事には気付いているので、ムグリスディノを出してもいいのだが、種族性の特定をされると今はまずい。
(この人の場合、耳飾りの属性とムグリスの属性が違う事に気付いてしまいそうだもの………)
幸い金庫の首飾りには市販の擬態魔術があるので、ヴァルアラムを部屋から追い出したら、耳飾りかムグリスな伴侶のどちらかを擬態で色変えしておこう。
それまでは、ディノを表に出す訳にはいかない。
「提案ではなく脅迫めいてきましたが、その要素を除いて私にも得るものがなければ、考えなしの一般人は、窓から飛び降りて逃げ出してしまうかもしれません」
「それはお勧めしないな。………この修道院は妙だと思いませんか?」
ネアはずっと、自衛の為にもと立ったままでいた。
椅子に座っていたヴァルアラムは、そんなネアの顔を覗き込むようにして立ち上がり、音もなく忍び寄る獣のように距離を詰める。
(美しい人だ……………)
けれどその美貌には清廉さなど微塵もなく、ラベンダー色がかった水色の瞳には無垢さなど放り投げて捨ててしまったのかなと思うくらいの凄艶さが宿る。
出会ったばかりの頃のアルテアに似ているが、口調から伝わる温度はどこかジルクに似ているような気がした。
どちらにせよ、面識がない相手なのだとしたら、かなり厄介な相手に出会ってしまったのは間違いないだろう。
(でもディノは、この人は信用出来ると示したのだわ………)
とは言えその理由はディノ本人にも分からないようだ。
となると、そう思わされていること自体が罠である可能性もある。
こうして向こうから距離を詰めて来た事を喜ぶべきなのか、憂うべきなのかも今のネアには分からない。
「俗世を捨てて信仰に生きるのに、あまりにも守護が堅牢だというのなら、素人考えなりに少し不思議には思います。まるで、襲撃されることを見越して作ってあったような守護ですから」
「まさにその通りなんですよ。おまけにこの隔離結界は、俺でも壊せないときている。修道士に武器持ちがいることといい、恐らくは武器持ちを保護あるいは幽閉する為の場所として作られたんでしょう」
(…………幽閉ではないような気がする)
ネアは昨晩、別の武器持ちの男性と接触している。
その時に交わした会話から受けた印象では、このガゼッタの修道院は、自由に属し自由に去ることが許されているような気がした。
であるならば、ここは武器持ちを守る為の場所なのではないだろうか。
そこまでして施設を整えたのが、先天的な要素なのか後天的な要素なのかは分からない。
「この状況下で、窓からとは言え誰かを逃がすような甘い作りではないと言いたいのですか?」
「ここは城塞で、同時に檻でもあるんでしょう。ほら、そんな事を聞くと俺と組みたくなってきませんか?」
「……………むぅ。皆さんがどったんばったんやっているのを、この部屋に閉じ籠ってやり過ごす方法はありませんか?私が引き籠りになっているのであれば、あなたも秘密を脅かされずに済むと思うのですが」
「そうなると、俺の利点が消えてしまう。割に合わない取引きですね」
苦笑してひらりと片手を振ったヴァルアラムに、ネアは僅かに首を傾げた。
そう言えばまだ、戦力分布しか聞かされておらず、この男がネアと組む目的は明らかにされていないのだ。
「派閥を増やしたい以外に、あなたが私を引き入れたい理由はあるのでしょうか?」
「正直なところ、可動域の低いお嬢さんを味方に引き入れる利点は殆どない」
「……………であれば、」
「だが、可動域も低く駆け引きに不慣れな部外者を、他の誰かに手駒にされると鬱陶しいのでね」
冷めた微笑みでそう言われると、それは確かにそうだろうなと思う。
(多分私は、このような提案を持ちかけられるくらいには話が通じる相手で、それ以外には全く価値のない人間なのだろう)
ネアは、素早くこの提案について考えた。
役に立たないことを把握されており、余計な接触がないのであれば、どこかの陣営に属しておくのもありかもしれない。
そう考えたネアは、ポケットの中のきりん札に手を伸ばすのはひとまずやめておくことにした。
もし本当に厄介な相手であれば、またどこかできりん札で滅ぼしておき、獲物用の金庫に入れておけばいいのだ。
秘密裏に接触するのであれば、目撃者もいないだろう。
「それと、お嬢さんに会いにいっているふりをして、自由に動ける時間を稼げますからね」
「よからぬことに利用されている気しかしません。お断りしたくなってきました………」
「納得出来たようですね」
ネアの返答のどこからそう感じたのかは謎だが、ヴァルアラムはそう笑うと、なぜかネアの手を素早く掴んだ。
ぎょっとして引き抜こうとした手の甲に、跪いた騎士からのふわりと軽い口付けが落とされる。
「……………唇を削ぎ落して欲しいのでしょうか?」
「嫌だな、俺の守護添付ですよ。利用する前に勝手に死なれちゃ困りますからね。それと、明日の朝には俺と組んだことを感謝したくなると思いますよ?」
「明日の朝までに、どんな悪事を働くおつもりですか?」
手の甲をごしごし拭きながらそう尋ねたネアに、銀貨色の髪の美しい騎士は、何も言わずに愉快そうに笑うと、やって来た時のように素早く部屋を出て行った。
その日の夜は、眠りの浅い暗い夜だった。
もう誰も入ってこないように扉の内側にこれでもかと、仕掛けを施し、ネアは遅くまでリーエンベルクの仲間達と話をした。
妙に馴れ馴れしい騎士に口付けをされた手の甲には、たいそう荒ぶった伴侶なムグリスがむくむくの毛皮でごろんごろんして守護を上書きしてくれたものの、ネアはずっと、ヴァルアラムと手を組んでしまったことが正しかったのかどうか悩み続けていた。
とは言え、特に接触を図るでもないアンセルムは、やはり味方とは言い切れない役回りなのだろう。
そうなると、状況を共有出来るような誰かはどうしても必要になる。
「ディノ、きりんさん布に包まって寝ますので、就寝時の安全は保障されますからね」
「キュ?!」
最も無防備な就寝の間の身を守るべく、ネアはノアと共同開発したきりん布をばさりと被った。
内側からきりんの絵が透けて見えることはないのでこちらは影響を受けないし、侵入者がいたとしてもネア達の姿を補足しようとすれば、即ちきりんと向き合う事になる。
きりんの絵に包まると分かったムグリスディノは震えていたが、うっかり離れ離れにならないように、ネアが編んだ細い三つ編みにしっかり掴まって眠ってくれた。
そうして訪れた朝、ネアは事前に教えられていた通りの木版を叩く起床の合図で目を覚まし、部屋の前に置かれていた盥の水は使わず、自分の金庫に備蓄してあったウィームの水で顔を洗った。
部屋に水回りの設備がないのは不便だが、今のところ厨房の鍵を使っていいのかどうかも悩ましい。
「おはようございます、レイノさん。ゆっくり休めましたか?」
食堂に行くと真っ先にそう声をかけてくれたのは、にこにこと微笑んでいるアンセルム神父だ。
同じ信仰の徒ではあるものの、よく考えればこちらの神父も派遣先への道中に立ち寄っただけの物見遊山のお客なのだが、階位的には神父の方が高いとされるので修道院での扱いは丁重だ。
「ゆっくりと寝かせていただきました。修道院なのですから、皆さんはもっとずっと早く起きられていたのですよね?」
「はは、僕も起きたのはせいぜい夜明けの頃ですよ。こちらの皆さんはもっと早く働き出していますから、頭が下がります」
銀髪に紫の瞳のよく見れば美麗な神父は、相変わらずの手腕で眼鏡ひとつで人畜無害で気弱な青年の仮面をかける。
「盥のお水を有難うございました」
会話の流れが出来たので、ネアはまず、外部者の世話役を任されてくれている修道士にお礼を言った。
こちらを見て頬を赤らめてぺこりとお辞儀したのは、栗色の髪に琥珀色の瞳のアナス修道士だ。
容姿的な年齢で言えば壮年の男性なのだが、如何にも俗世と不慣れそうにおどおどしている。
アナス修道士を見ていると、わざわざ誰かに運んで貰った水を使わなかった罪悪感がちくりと痛んだが、ネアは、我が身の安全には変えられないと微笑みを揺らさずに踏み越えた。
ネアが案内されたテーブルの一つ奥のテーブルでは、今のところ心象最下位の、聖女御付きの騎士達のいるチームが席に着いていた。
第二騎士団の騎士服は暗めの青色のようで、襟元やケープ留めなどにほどこされた装飾は、きらきらと光る銀色になっている。
「おはようございます、聖女様」
「おはようございます、サスペア修道士。見て下さいませ、お風呂に入った後でそのままにしたら、すっかり爪の艶がなくなってしまいましたの。香油があればお部屋に貰っていいかしら?」
「申し訳ありませんが、当修道院には女人がおりません為、香油の揃えはないのです」
「そうなんですの?」
香油がないと言われたセレンの表情は、くるくると変わった。
まずは、理由も分からずに置き去りにされた子犬のような悲し気な表情が浮かび、そこから、香油がないなんてとじわじわと苛立ちが育ったのだろう。
聡明な少女はそのような事で苛立ちを口に出しはしなかったが、淡い水色の可憐な瞳に少女らしい癇癪の気配が過る。
これは不快指数を高めていそうだぞと思っていたネアはしかし、自分の前に置かれた木のお盆の上の朝食とおぼしきセットを凝視したまま、ぴしりと固まった。
小さく眉を寄せてから首を傾げ、ネアは、他の人達の朝食を観察する。
セレンと第二騎士団の騎士達の前には、黒パンとたっぷり野菜のスープにラザニアのようなほかほか湯気を立てる素敵なお皿が置かれている。
だが、ネアの前には、黒パンと具の少なめのほぼ液体のみなスープしかないではないか。
(まだ、ラザニアが焼けていないのかしら………?)
余談だが、決して裕福ではない修道院に泊まるのだからと、ここにいる者達は多少なりとも寄付金を入れている。
払っていないのは聖女と騎士達だけなので、この扱いは逆で然るべきと言えよう。
しかし、訝し気に朝食の揃えを見比べているネアに対し、アナス修道士は何も言ってくれる様子はない。
ラザニアはもう少しお待ち下さいというような一声はないのかなと疑問符でいっぱいになりながら首を傾げていたネアは、ふっと誰かの笑い混じりの吐息を背中で聞いた。
「我が国は階級社会ですよ。俺達の食事と、君の食事は同じではないのは当然でしょう」
「………まさかとは思いますが、あのラザニア的なやつは、私にはないのですか?」
呆然とそう問い返したネアに、木のお盆に乗った朝食を置き隣の席に座ったのは、ヴァルアラムだ。
昨晩と変わらない騎士服の隙の無い装いにふと、バタークッキーを買いに来ていたのなら休暇中だった筈なのではないかなと不思議に思う。
「周りを見てみては?清貧な食卓を楽しむのは、何も君だけじゃない」
「……………むぐ」
確かに、ラザニアを貰えているのは、セレンと騎士達だけだ。
奥の席に座った商人ご一行についてはこちらに背中を向けているので見えないが、一部の者だけに出されているラザニアが、あの人数に配られているとは考え難い。
あからさまな傾斜の付け方にネアはへにゃりと眉を下げ、隣のヴァルアラムのラザニアを暗い目で凝視した。
「ヴァルアラム様、こちらで一緒にいただきませんか?」
「セレン様、そちらにはサヌウとメトラムがおりますので、第二騎士団の領域を侵さぬよう、俺は少し離れていますよ」
「でも………、」
「セレン様、あの男にはあまり近付きませんよう。第一の騎士達は、紳士的とは言い難い側面もありますから」
あからさまな敵意を隠しもせずにそう言ったのは、メトラムと呼ばれた第二騎士団の四席の騎士だ。
ガゼッタ国民の代表的な配色である、小麦色の髪に緑色の瞳をしている。
因みに、茶系の髪や水色の瞳というのもガゼッタ人のよく持つ配色で、栗色の髪に水色の瞳のセレンや、栗色の髪に緑色の瞳のサスペア修道士などはまさにここにあたる。
(ヴァルアラムさんの髪色や、少し色の淡い砂色の髪に、青みの強い水色の瞳のサヌウ団長、髪色は栗色だけれど瞳は琥珀色のアナス修道士は、その特徴を少し外れるのかな………)
黒髪に深い青色の瞳の商人などは、完全に異国人の配色だが、元々ここが近年に滅びたロクマリアから分離した小国の一つだと思えば、多様な民族性も当然の事だろう。
夜が明けても風は弱まらず、かたかたと窓を揺らしている。
山の上に建てられた修道院は、周囲に風を遮るものはなく、石造りの建物に隙間風が入ると室温を上げ難くなるとあって、この食堂はとても寒い。
だが、体の芯から冷えるような室温も、山の上の修道院なのだから仕方ないと、ネアは受け入れる所存であった。
しかしそれも、目の前であつあつのラザニアを、宿泊費を払っていない人だけに食べられてしまえば台無しである。
おまけに彼等のスープは具沢山で、ネアのスープには申し訳程度にしか野菜が浮かんでいないではないか。
「お嬢さん。後で、星歌いの記録書を閲覧する際に、閲覧記録の整理を手伝ってくれるのなら、半分差し上げますよ?」
「………ラザニア………。意地悪なしの半分こですか?」
「ええ。俺も、お気に入りのお嬢さんに意地悪はしません」
「ふむ。お手伝いの対価としていただくのであれば、それ以上は貸し借りはなしですよ?」
用心深くそう言い重ねたネアに、ヴァルアラムはどきりとするような艶やかな微笑みを浮かべた。
その微笑みには、ほら、朝にはこの協力体制があって良かったと思ったでしょう?というような問いかけも滲んでいたので、食べ物に関しては素直になるネアは、確かにそうであると厳かに頷いておいた。
「勿論。ほら、冷めない内にどうぞ」
「ふむ。これは報酬ですので、遠慮なくいただきますね」
「レイノ!」
慌てたのはアンセルムだ。
のほほんとスープを啜っていたアンセルムが、突然がたんと音を立てて立ち上がったので、後ろのテーブルについていた商人達のグループも驚いてこちらを振り返っている。
「……………むぐ?」
ネアはその時既に、ヴァルアラムがこちらに押し出してくれたラザニアのお皿から、きっちり半分を切り出そうとしているところだった。
目が合ったアンセルムに青い顔でぶんぶんと首を横に振られ、ネアはなぜだろうと目を瞬く。
(見ず知らずの人のお皿から食べ物を貰うのは危険だけれど、予め、報酬などの約束があれば問題なかった筈だもの………)
今回については、閲覧記録の整理を手伝うならという条件付きの報酬のようなものだ。
胸元に入っているムグリスディノも荒ぶっていないので、問題がない範疇なのではなかろうか。
「ヴァルアラム団長、彼女のような男女の駆け引きに疎いお嬢さんに、そのような戯れは……」
「おや、無粋な方ですね。戯れではなく、真剣に捕まえようとしているのであれば構いませんよね?嫌だな。そんな目で見なくても、これでも俺は誠実な男なんですが」
愉快そうにそう返したヴァルアラムに、ネアは、お皿の上のラザニアを容赦なく二等分したところで、ラベンダーがかった水色の瞳を見上げた。
「………確か、付与の繋ぎ的な魔術があった筈なのですが、それはどうにかなっているのでしょうか?きちんと、成功報酬に分類されていますか?」
「え、何でそんな事しなきゃいけないんですか。俺は、お嬢さんを口説いていると言った筈でしょう」
「謹んでお断り申し上げます。ですが、このラザニアはお手伝いの正当なお駄賃ですので、美味しくいただきますね」
「あ、俺はめげない方なんで、早い段階で諦めて下さい。それと、よく見るとチーズの部分を少しだけ多く取りましたね?」
「いいがかりをつけるつもりなら、だんことしてたたかいますよ!」
幸いにもヴァルアラムはそれ以上は絡んで来なかったので、ネアは、美味しいラザニアをぱくぱくといただいてしまった。
チーズがあるのなら、この修道院には牛か羊がいるのだろうか。
ラザニアのソース部分には、挽肉ではなく濃厚なトマトソースで煮込んだ野菜が挟まっていて、ズッキーニのしゃくりとした食感にネアは頬を緩める。
(美味しい…………!)
「……………やれやれ、レイノの食べ物への執着を甘く見ていましたね」
そう苦笑したアンセルムが、ネアのお皿に移設されたラザニアから、ヴァルアラムのお皿との間に結ばれた魔術の繋ぎを絶ってくれる。
どうやら、サヌウよりもヴァルアラムの事が気になるらしいセレンが冷ややかな敵意をこちらに向けて来たことにちゃんと気付いているネアは、早く武器狩りが始まらないかなと、遠い目で窓の向こうの空を眺めたのだった。




