ハンフェルとクリムトファ
ハンフェルは修道士だ。
クリムトファの実を集める、雲を抜ける程の断崖の上の修道院に暮らしている。
クリムトファは小さな赤い実で、柊に似た葉の中に守られるようにして実を結ぶので、採取にはとても時間がかかる。
クリムトファの葉で手を傷つけると、毒があるので簡単に死んでしまうのだ。
(岩影竜の手袋に、タンファの葉の汁を染み込ませて一晩寝かし朝露で磨く。その手袋でしか採取出来ないこの実は、上等な赤いシロップになる………)
そのシロップがどれだけ貴重なのか、ハンフェルはよく知っていた。
「おや、禍々しい流星ですね。また武器狩りでも始まるのかな」
そう呟き、流れてゆく赤い星に目を細める。
時折星屑が落ちてくる程のこの距離からでは、夜空を見上げる時には注意が必要だ。
空を仰いだ瞬間に星が落ちてきて、目を焼かれてしまう修道士も少なくはない。
ぷちりと音を立てて、赤い実を摘んだ。
真横に置かれた冬夜から紡いだ糸を編んだ布籠に入れると、赤い実は鈍く光る。
ふわりと漂うのは、強い酒のような独特な香りだ。
「その実は、食べると美味しいのですか?」
不意に、そんな声がかかり、ハンフェルはゆっくりと振り返った。
するとそこには、こんな岩山には不似合いな灰色の髪の少女が立っている。
修道女のような服装はしているが、近くにある修道院にはこのような制服はない。
恐らく、悪目立ちしないように服装を整えたのだろうが、完全に変装する程の労力は割いていないようだ。
「………こんばんは、お嬢さん。僕を訪ねて来たのなら、どこかの誰かの知り合いですか?」
「はい。アレクシスさんと、サフィールさんからご紹介いただき、こちらに伺いました」
「となると、ウィームかタジクーシャの子供でしょうか。或いは、スープ屋の良い客なのかもしれませんね」
微笑んでそう問いかけると、少女は淡く微笑んだ。
(……………おや、終焉の子供だ)
冴え冴えとした気配は静謐で、冬でも凍らない祝福の潤沢な湖のようだ。
よく見れば、その髪色には夜空を溶かし込んだような青も滲み、瞳は菫と灰の多色性の瞳だった。
可動域の低さから永遠の子供なのは間違いなく、これは人外者が放っておかないだろう。
そう考えて観察すると、髪に隠れ気味ではあったが妖精の伴侶の耳飾りが見えた。
(……………成る程、これで一人で遣いに出しても問題なかったのか。妖精の愛し子だな)
「アレクシスさんのお店で、いつも美味しいスープをいただいています。そして、サフィールさんは仕事の関係で知り合い、文通を始める事になりました」
「……………では、ウィームに暮らしているのかもしれませんね。もしや、エーダリア様の事もご存知かな?」
「はい。とても素敵な領主様なのですよ」
「………子供の目にもそのように見えるようになったのなら、良い成長を遂げたのでしょう。僕が存じ上げていた頃の彼は、少々我慢が身に付き過ぎていたようでしたから」
「まぁ。それなのに、そんなエーダリア様を置き去りにして逃げ出してしまったのですか?」
そう問いかけられ、ハンフェルは小さく微笑みを深めた。
(どうやら、見かけのままの無垢な子供ではないらしい。この山を、………見たところ一人で登ってきたのだから、言うまでもない事だが………)
「僕が、ガレンの塔から姿を消した事は有名になってしまったのですか?」
「かもしれませんが、私はその噂を存じ上げてはおりません。ウィームに暮らしてまだ三年程度しか経っておらず、それより前はとても遠くに暮らしていましたから」
「それなら、あのガレンエンガディンが君にその話をしたのかもしれません。つまり君には、あの王子と親しくしている可能性がある」
「ですが、紹介者はアレクシスさんとサフィールさんなのです。因みにアレクシスさんからは、紬重患のスープを飲みに来ないかという謎の伝言を預かってきました」
その伝言に顔を顰めると、目の前の少女は不思議そうに目を瞠って首を傾げた。
伝言の内容までは理解していないようだが、悪友からの伝言はつまり、この少女を脅かすような真似をすれば、悪食用のスープを飲ませるという脅しに他ならない。
(アレクシスのお気に入りなのだろうか。しかし、……………彼が?)
「念の為に聞きますが、アレクシスは君には優しい?」
「はい、とても優しいです。素敵な特製スープを作ってくれますし、困っていた時には保護してくれました。押し花本をくれたりもする、優しい隣人です」
「……………まさかとは思いますが、緑の表紙の押し花手帳のことでしょうか?」
記憶の中のそれは、アレクシスがちょっとした備忘録として作ったものでありながら、南方の軍国の王が力尽くで取り上げようとしてもアレクシスが渡さなかった代物だ。
なぜそんな抵抗をしたのかと言えば、その説明の為にはアレクシスの人間性の話が必要となる。
あの魔術師は、スープ屋の店主として過ごす以外の全ての時間は、触れてはならない祟りもののような生き様なのだ。
それは付き合いの長いハンフェルでも変わらず、アレクシスが綺麗に磨いておいた鍋にうっかり素手で触れてしまい、命からがら逃げた事もある。
残念ながらハンフェルは、あの友人が尊び生かしておきたいと思うようなスープの飲み方は出来ないのだ。
「はい!旅先で集めた可愛いお花や、綺麗な色の葉っぱを一覧にしたものです。普通のお金や宝石の価値が通用しない場所で換金出来るからと、お土産兼お守りとして持たせてくれた優しい方なのですよ」
「……………あの、身内以外の人間には心を持たないとされるアレクシスが。どうやら、相当な上客のようですね」
「むむ、確かにあのスープ屋さんには、通い詰めてしまった頃がありますね。嵌っていたスープがあったのです」
「仕方がありませんね。突然のお客ですが、歓迎するしかないようです。……………ただ、クリムトファの採取の為にあれこれと準備をしてしまいましたので、この実の採取をしながらでも構いませんか?」
そう尋ねると、少女は嫌な顔一つせずに頷いた。
仕方なく了承したというのではなく、そうして当然だと言わんばかりの振る舞いに、ハンフェルは密かに感心した。
(そうか。……………彼女は、どうでもいいのだ)
目的外の事に対する無関心は、さらりとした雪解け水のような冷淡さで、ハンフェル個人への興味は全く感じられない。
ただ、籠の中の赤い実には興味津々のようだった。
「この実は生では食べられませんよ。夜の雫と共に三日三晩煮込んで、夜明けの光の中で濾してから、祝福砂糖と共に煮込み直してシロップにするまでは、人間の体には強過ぎる」
「…………その手間をかけると、美味しくなるのです?」
「いえ、シロップになっても味はあまり良くないでしょう。しかし、呪いを背負うもの達にとっては、身の内に根を下ろした呪いを鎮める為の特効薬になります。例えば、…………僕のように」
ぷちりと次の実を摘みながらそう答えれば、少女は静かに頷いた。
籠の中には既に沢山の赤い実が集められているが、この籠を三つ程一杯にしてからやっと、シロップ作りに取り掛かれるのだ。
これからの寒い季節の方が、クリムトファの実は良いシロップになる。
特に雪の降る日に作られたシロップは上質な赤色になるが、それ迄は待っていられない。
「ハンフェルさんは、武器の呪いを受けておられるのですよね」
「ご存知でしたか。……………そしてあなたも、どこかで呪いを受けた事があるらしい。このような話をされた人々の反応は三つしかありません」
「…………無理解と理解、でしょうか?」
「無理解には二種類あり、知らずにいるので理解出来ない者の無知さと、そもそも知ろうという発想すらない無知さがあります。あなたもご存知のように」
「私の時は、気付いてくれた方とそうではない方に分かれていただけで、理解されずに苦しむような事は、幸いにもありませんでした。でもきっと、無理解に晒されたのならば、とてもむしゃくしゃしたでしょうね」
視線の先で小さく微笑んだ少女は、ハンフェルさんの首が疲れてしまうといけないので、私もしゃがみますねと言うと、霜の降りている地面に屈み込む。
身綺麗さと所作から貴族の娘のようにも見えるが、スカートの裾が汚れるだとか、実の収穫を続けて立ち上がりもしないハンフェルを詰る様子はまるでない。
(それどころか、自分も採取に加わりたいと言わんばかりの表情だな………)
「この、柊に似た葉にはくれぐれも触れないようにして下さい。人間を簡単に殺す毒があるので、僕のように専用の手袋をしていないと触れられません」
「……………ハンフェルさん、こやつは何でしょう。籠から実を盗もうとしていましたので、捕まえてしまいました」
不穏な言葉に振り返り、ハンフェルは瞠目した。
少女は、儚い手でとんでもないものを鷲掴みにしていて、ミーミー鳴いている妖精をじっと見ている。
小さく息を呑み、見間違いではないだろうかともう一度その手を凝視したが、やはり少女が捕らえているのは、赤い瞳を持つ松ぼっくりに毛皮の尻尾をつけたような生き物だった。
「クリムトファの妖精ですね。素手で触れる人間はいないと記憶していましたが………」
「む。と言うことは、奪取された実を取り返しに来ただけなのでは……………」
「とは言え、この妖精は好んで人間を殺しますから、遭遇したらその場から離れるのが正しい対処法なのですよ」
「……………この儚い生き物が、どうやって人間を殺せるというのでしょう」
あまりにも不思議そうに困惑の表情を浮かべられてしまい、クリムトファの妖精は怒ったようだった。
少女の手の中で唸り声を上げて暴れていたが、ふっと微笑んだ少女がクリムトファを掴んだ手を振り回すともう駄目だった。
掴まれたままぐるぐると大きく回されたクリムトファの妖精は目が回ってしまい、解放されるなり足を縺れさせながら脱兎の如く逃げ出してゆく。
そんな妖精を見守る少女の眼差しはいっそ獰猛な程で、ハンフェルは、その様子を半ば呆然としたまま見ていた。
「あの妖精さんにも荒ぶる理由はおありでしょうが、基本的に人間とは強欲で残忍な生き物なので、素敵なシロップの材料確保を邪魔されては困ります」
「…………僕の為に、あの妖精を追い払ったかのような口調ですが、そもそも触らなければ退けようはあったんですよ?」
「あら、ハンフェルさんの為ではなく、勿論、自分の為にあやつを追い払ったのです。………その、シロップということは、……………多少、お味が独特でもパンケーキなどにかけられるのですよね?」
「……………もしかして、クリムトファのシロップを狙っていますか?」
「そんなことはありませんが、おみやげにもたせてくれてもよいのですよ?」
「念の為にもう一度言いますが、クリムトファのシロップは呪い封じのものなので、美味しくはありませんよ?」
「……………むぐぅ。少し果実の味に癖のあるシロップというだけではなく?」
「えぐみと言うか、渋味も強いですしパンケーキにはお勧めしませんね。いいところで、甘みをつけた市販の打撲用の治癒薬のような味です」
そう伝えてみると、少女は悲しげに項垂れた。
思わず頭を撫でてやりたくなるような弱々しさだが、こんなに甘酸っぱい匂いがするのに食べられないだなんてと呟いているので、クリムトファのシロップが美味しくないと聞いて落ち込んでいるだけのようだ。
しゃりんと空が音を立てて、足元のクリムトファの茂みに、空を流れる流星の星影が落ちる。
クリムトファの自生する山は険しい。
昼間にはごつごつとした岩山にしか見えない斜面には、あちこちに祝福結晶の輝きが浮かび上がっていて、こちらも星空のようだ。
この辺りになると大きな木はそう多くはなく、代わりに稀少な高山植物の数が多くなる。
クリムトファは、森と高地の中間地点に育つ植物で、星の光を養分に育つと言われていた。
(さて、この少女の訪問は、どちらの理由だろうか……………)
留まらせる為か、連れて行く為か。
どちらにせよ、夜空からは目を逸らし難い配列の星が覗いていて、近いうちに武器狩りが始まるのは必然としか言いようがなかった。
だからハンフェルは思案する。
今回の武器狩りに、自分はもう一度参加したいだろうかと。
(あの時は、…………弟子達が殺されたので、参加するしかなかった……………)
ハンフェルはかつて、ガレンの塔で魔術師をしていた。
あれは幸福な時代だったのだと、今なら確信を持って言える。
それを惜しんで今を不幸に過ごすつもりもなかったが、確かにあの賑やかな日々は、愉快で穏やかな時間だったのだ。
けれども、大規模な武器狩りが起こり、伝承に残るような武器を持つハンフェルを捕らえようとした一団が、師の帰りを家で待っていた幼い子供達を無残にも殺した。
武器狩りにはまるで関係のなかった子供達は、しかし、ハンフェルが弟子の約定を結んでおいた為に、ハンフェルの使い魔と同じ扱いとして魔術認識されてしまう。
その日、弟子達の土産にキャロットケーキを買っていて帰りの遅かったハンフェルが戻るまでの僅かな時間で、全員が犠牲となった。
なぜあの日、魔術学校の前で弟子達と別れたのか。
共に菓子店に向かい、共に帰れば守れた筈の四つの小さな命は、その年の死者の日にハンフェルの元に戻ってくると、見知らぬ男達に殺されて怖かったとわんわん泣いた。
小さな死者達を抱き締めて過ごした何回かの死者の日の先に、大切な弟子達は魂の汚れを落として漂白されてゆき、今はもう新しい命を得ている頃だろう。
(もう、随分と昔のことだ…………)
弟子達を殺されたハンフェルは、武器狩りで自分を狙う者達を全員惨殺した。
手当たり次第になったのは、その中の誰が犯人なのか分からなかったからなのだが、死者の日に戻った弟子の一人から犯人の特徴を聞き、自分が殺した中に当たりがいたことに安堵したものだ。
弟子達が死者の国から出てこなくなると、ハンフェルは新しくガレンの長になったばかりの神経質そうで孤独な目をした王子の嘆願を切り捨て、ガレンを離れて世界中を旅して回った。
その間にもう一度武器狩りがあり、ハンフェルはそちらにも参加した。
弟子達を殺した男の一族から、最後の武器持ちが参加したからだ。
でも、今回はどうだろうか。
(もう、あの子達を殺した者は参加しないし、僕も随分と歳を取った……………)
体に流れる血は平穏だが、魂に刻まれた嗜好は元の種族に起因する。
だから、あの苛烈な戦を思えば僅かに血が沸き立つような思いもあったが、戦う為の理由は最早ないような気がした。
『先生!今日はくず野菜とホロホロ鳥のシチューと、茶色小麦のパンケーキですよ!』
遠い記憶の中で、可愛い弟子が今も笑う。
愛しい愛しい四人の子供は、それぞれが戦場で拾ってきた孤児達だった。
ハンフェルは人間に転属した竜だ。
そうして胸の中に抱え込んだ宝物達は、あっという間に失われてしまい、ハンフェルの心を殺しはしなかったものの大きな喪失感を残していった。
ガレンを離れてあちこちを旅して回り、やっと見付けたのはこの静かな土地である。
そしてここには何と、ハンフェルの他にも厄介な武器を持つ者達が隠れ棲んでおり、そんな同胞達とも武器狩りが近いと話をしたばかりだ。
「ハンフェルさん、私はあなたに武器狩りが始まるのであれば、参戦しますかと問いかけにきました」
「そのような事だとは思いました。ガレン所属以降、これまでに起きた武器狩りの全てに参加していますからね」
「はい。その上ハンフェルさんは、ガレンから脱走してそのままですので、まだガレンの魔術師さんとしての契約魔術を正式に破棄しておりません。今のエーダリア様の立場で、そんなハンフェルさんが武器狩りでガーウィンの武器持ちさんと交戦されると、…………有り体に言えば体面的に困るのです」
あまりにも率直な主張に、ハンフェルは目を瞬いた。
「……………ええと、僕はまだ、ガレンの所属のままなのですか?」
「はい。エーダリア様曰く、うっかり手続きを忘れたのだろうと。ですので、もしハンフェルさんが武器狩りに積極的に参加するのであれば、契約破棄の同意書類に署名を下さい。それを望まれないようであれば、我々はあのガーウィンの武器持ちめを暗殺するしかありません…………」
「……………暗殺」
「はい。エーダリア様はハンフェルさんを暗殺したくないようですし、私にとってもアレクシスさんとサフィールさんのお友達です。となれば、ハンフェルさんがガーウィンの武器持ちめと戦ってもウィームの政治的な弱味にならない内に、ガーウィンの武器持ちめを滅ぼすしかないのです」
「念の為に伺いますが、君はそのガーウィンの武器持ちと因縁があるのですか?そして、どうやらその武器持ちは僕を襲うのが確定しているようですね」
さすがに採取の手を止め、振り返って向き合うと、灰と菫の瞳を持つ少女は、どこか遠い目をした。
「ガーウィンの武器さんの事は、少しも存じ上げません。しかしながら、知らない人の事などどうでもいいのです。であるなら、知り合いの方のご友人で、尚且つ、慣れないお仕事で体調を崩していたエーダリア様に苺の飴をくれた魔術師さんの方が良いではありませんか」
「…………とても他人事感満載の理由でしたね。僕が襲われるのは決定事項なんですね?」
「ガーウィンの武器持ちさんも、元竜さんなのですよ。そちらは転属ではなく、竜さんから作られた呪いの武器が、持ち主の司祭様の魂を飲み込んで蘇ったという内側交代のご様相ですが」
「ああ。それで納得がいきました。竜の気質であれば、同じような条件の僕と戦いたいでしょうね」
ましてや、そちらは内側から持ち主を喰らい殺した、生粋の竜の資質である。
転属した事で人間に近しくなったハンフェルより、遥かに竜の気質に左右されるだろう。
「君は、どうして欲しいんですか?今回の武器狩りについては、僕はあまり意欲が湧きません。この土地での暮らしはとても気に入っていますが、今夜の収穫でシロップを作ったら、そろそろ出て行こうと思っていますしね」
「ふむ。であれば、ガレンの契約破棄をお勧めします。……………その武器を手元に置き続ける限り、あなたは武器狩りと完全に無縁にはならないと思うのです。それなら、さっぱり縁を切りませんか?」
「……………正直なところ、驚きました。ガレンは、僕のことを手放さないと思っていましたから」
自意識過剰かもしれなかったが、冷静に考えれば、ハンフェルの存在はそれなりに有用である。
せっかく残されていた契約があるのなら、職務放棄の責任を取らせる形で、ハンフェルをまた働かせる事も出来るのだ。
(あのガレンエンガディンは、良い長になったらしい……………)
確かウィームには、名のある武器はなかった筈だ。
武器狩りに参加するのならハンフェルの存在は必要な筈なのだが、その手を手放すという判断を取れるのであれば、今のガレンやウィームがどれだけ潤沢なことか。
ガレンを離れてから二十年あまりが経っている。
僅かに懐かしさを感じたが、かつての居場所への未練はもう残っていないようだ。
「では、契約の破棄を済ませてしまいましょう。それから、敢えて妖精の耳飾りだけで来たのでしょうが、魔物の指輪を隠さなくても結構ですよ。僕の弟子達を殺したのが歌乞いの魔物だったので、君は自分の魔物を隠してくれたのでしょう?」
ハンフェルがそう言えば、少女は微笑んで首を横に振った。
「あなたは元々は竜さんですが、人間の心はとても複雑でか弱いものなのです。大丈夫だと思っていてもぐらりと揺れるかもしれません。大切なものはいつまでも大切で、そこに残した愛情はそうそう簡単には色褪せないものです。であれば、今はこのままで。せっかくのいい夜なのですから」
「……………君はとてもいい子ですね。終焉の子供らしく、終焉と過去の在り方をよく知っている。君は、誰を亡くしたんですか?」
「私は、私以外の親族の全てをなくしてしまいましたが、今は大切な魔物がいるのでとても幸せです」
星空の下、クリムトファの甘い香りの中で、灰色の髪の少女は柔らかに笑う。
「それは、僕にもまた幸せになれと言うことでしょうか?」
「ふふ、それは勿論です。何しろ人間はとても強欲で、この山を登ってくる道中で、大好きな修道士さんが旅に出てしまいそうだとえぐえぐ泣いていたお嬢さんを、放ってはおけません」
「……………やれやれ、今夜は静かに仕事が出来ると思っていたのですが、道中にいましたか」
「ご一緒にどうですかとお聞きしたのですが、私のつけている耳飾りがとても怖いようで、途中の小川の橋のところで待っている事にしたそうです。修道院への帰り道で、あのお嬢さんとお話をしてみては如何でしょう?」
「そうですね。…………そろそろ、そんな時期なのかもしれません」
「因みに、旅支度は済んでいるようなので、ハンフェルさんからの求婚はいつでも受けられるようです」
「あの子はまだ、三歳ですよ?!」
ぎょっとして思わず声を荒げてしまったが、少女は随分と早く獲物を狙い定めましたねぇと微笑むばかりだ。
(……………クリムトファのシロップを飲んで、武器の呪いを緩和し、次はどこへ行こうか……………)
あの後、少女の持ってきていた契約書類に、契約の破棄を示す署名をした。
彼女は、山の裏側に高く売れそうな珍しい獲物がいたと、可動域の低さからは考えられない獰猛な言葉を残して帰って行き、ハンフェルは残っていたクリムトファの実を摘んでしまうと、ずしりと重たくなった籠を持って立ち上がった。
「……………そろそろ、新しい家族を得てもいいかもしれませんね。あの子達もきっと、もう新しい家族を得て幸せになった頃でしょう」
なぜこの土地を離れようと思ったのかと言えば、最初は、なぜかこんな自分に異様に懐いてしまった竜の子供から逃げ出す為であった。
けれど、あの子を置き去りにしてこの地を離れる事と向き合う内に、果たして自分は本当にそれを望んでいるだろうかと迷い始めていたところだ。
『先生!』
可憐な声で嬉しそうにそう呼び、毎日のように岩影から走ってきていた子供は、親を亡くした泉の竜の幼体だ。
その一人ぼっちの竜の子は、ハンフェルの暮らしていた修道院で面倒を見ているようだが、人に懐いたのはハンフェルが初めてであるらしい。
ぼさぼさの髪で足も裸足だった少女を手招き、暮らし方を教えた事で先生と呼ばれるようになり、すっかり甘えん坊になった彼女が、親に甘える子供のようにハンフェルの寝床に潜り込んでくるようになったのは、ここ一年のことだ。
(あの子を、……………連れて行くのか……………)
一人ではなく、二人で暮らしてゆくのはどんな感じだろう。
ハンフェルの武器があれば、彼女を守ってはゆけるだろうが、自分の居場所を誰かに捕捉されれば、武器狩りの危険には晒してしまうに違いない。
この地には他の武器持ちがいる。
自分ではない誰かの追っ手が来る事も踏まえ、余計な事に巻き込まれないようにこの地を去る決意をしたものの、先程の少女の言葉から、ガーウィンの武器持ちに狙われるのは確定しているようだ。
(まぁ、一人の子供を守るくらいは可能だろう……………)
小さく笑い、ハンフェルは心を決めた。
自分が立ち去った後で、誰かがあの子供を傷付ける事を考えると、胸がねじ切られるような苦しさに襲われる。
ずっと迷っていたが、あの少女の来訪者とガレンとの契約の正式破棄があったことで、気付かずに未だに引き摺っていたらしい過去を、漸く整理出来たのだ。
「……………それに、あの子がうっかり通りかかったアレクシスにスープにされたら堪らないですしね」
すっかり腹を決めて、新しい家族の待つ橋に向かって歩いていたハンフェルは、その時はまだ知らなかった。
小さな小さな竜の子供が、泉の竜の祝いの子供で、人間に転じたハンフェルなどよりも遥かに力を持っていた事を。
そして、見付けたばかりの竜の宝であるハンフェルを狙ったガーウィンの武器持ちを決して許さず、その女性を一瞬でずたずたにしてしまう事も。
四つもあった竜の宝を亡くしたハンフェルには、ハンフェルを宝だと思う新しい子供が現れたらしい。
誠に不思議で賑やかな運命である。
「先生は、大変な事になったようですよ」
ガーウィンの武器持ちを滅ぼし、怒りのあまりにふすふすと鼻を鳴らしている小さな女の子にしがみつかれながら夜空を見上げてそう呟くと、遠い昔に愛した子供達の笑顔が見えたような気がした。




