91. 収穫祭の夜を堪能します(本編)
朝から気を揉むことが多かったクロウウィンも、ようやく夕刻に差し掛かった。
祝祭の日は出来るだけお休みをということで、昼食はネアがサルシッチャと露瓜のトマトクリームパスタを作ってしまい、そこにお持ち帰り用のアレクシスの店のスープで簡単に済ませている。
ここで賢い人間は、本当はクロウウィンの限定料理のある屋台に行きたかったのだとは言わない。
安心して昼食をいただけるだけでも、とても幸福な事なのだ。
食事の為に来たようなものだなと苦笑していたウィリアムは、パスタを気に入ったようでまた食べたいと言ってくれたので、ネアはこちらも有望な料理人であるとふんすと胸を張る。
エーダリア達は、ウィームの大聖堂での儀式の後で外で支持者達と食事をしたようだが、その会場ではエーダリアの支援者たちが目を吊り上げて不審者が入り込まないように見張っていたそうだ。
何しろ、ウィーム領民達はエーダリアが大好きで、そんな大事な領主を損なう者など握り潰してくれるという御仁が多い。
スープ専門店の奥さんは実はなかなかの使い手だと聞くし、ノアはあまり好かないと零しているものの、フェルフィーズはかつてのウィーム王の英知も持っている。
バンルはエイミンハーヌと共に参加しているようで、未だにノアにすら正体の分からない高位の魔物もエーダリアの会にはいるらしい。
ウィリアムが捕らえた襲撃者は、どうやらガーウィンの間諜であったらしい。
国外から入り込まれたのではないという安堵もあるが、やはり国内からそのような手を差し向けられるのはいい気分ではない。
(ガーウィンは暗躍しがちだけれど、それはやはり、教会の力が強いからなのかな………)
ガーウィンが擁立する王子が特別手堅い訳ではなく、リーベルなどの内通者もいるのに、こうした陰謀では何かと存在感を出してくるのだから、少々頭が痛い存在だ。
「しかし、お出かけ出来るようになりましたので、いざ美術館です!」
「かわいい…………」
「キャラメル林檎も買い込まなければなりませんし、ホットワインを飲むのですよ。何しろ今年は、四角ケーキが発売されましたので、是非にそれと合わせていただくのです」
「四角ケーキを買うのだね」
「はい!正式な名称は忘れましたが、四角くて煮林檎も入った素敵な茶色のやつなのです」
「弾んでる…………」
やがて、リーエンベルクにエーダリア達が戻ってきた。
無事を喜んで駆けつけたネアだったが、なぜかエーダリアは少し照れてよれよれしており、ネアは、義兄から、ザルツでの儀式で頑張った事でヒルドに大事にされてしまったのだと教えて貰った。
(でも、エーダリア様達がみんな無事で、このリーエンベルクに帰ってきてくれて良かった……………)
グラストとゼノーシュは、騎士棟での報告がひと段落したら夜の焚き上げまでの時間は休憩になるので、クロウウィンの屋台のある街に繰り出すのだろう。
食いしん坊なクッキーモンスターが、無事に屋台を回る休憩が取れた事にも、ネアはほっとしてしまう。
「では、これから街に出てきますね」
「ああ。まだ障りの子供の件の全てが回収された訳ではないのかもしれない。用心だけはしておいてくれ」
「はい。もし見付けたら滅ぼしてもいいですか?」
「……………滅ぼしても構わないが、ディノやウィリアムに任せてくれるだろうか」
「むむぅ。恐らくきりんさんで一撃なので、私の食べ歩き計画を邪魔する者は………いえ、ウィームの平和を脅かす者は全て抹殺します」
「ま、待て。なぜそんなに意欲的なのだ………!」
「それはもう、ヒルドさんがエーダリア様を甘やかしたくらいですから」
ネアがそう微笑めば、エーダリアは不思議そうな顔をした。
けれども、ヒルドが甘やかしてやりたくなるくらいに、ザルツでの儀式は大変だったのだろう。
ネアは、交戦する騎士達と天井の大きな獣を見ているのだ。
眺めていただけのネアにもあの臨場感だったのだから、実際にその場にいたエーダリア達が、どれだけの危険に晒されていたのかは想像に難くない。
魔術の細かな事はさっぱりだが、それでも、中央に作られた貴賓席に集まっていた貴族達があまり役に立たなさそうな事もネアには見抜けるのだ。
ひやりと冷たい風が、頬を撫でる。
リーエンベルク前広場を抜けて街に向かえば、重たい雲に覆われたウィームは、暮れてゆく陽よりも早く夜闇に包まれていた。
ゴーンゴーンと何処かで鳴り響くのは、大聖堂の鐘の音ではない。
死者の日にどこからか聞こえる、こちら側にはない鐘楼の鐘の音だ。
ゆらゆらと燃える魔術の火に、ちかちかと光る豊穣の結晶のオレンジの光や、内側から結晶化して祝祭魔術を帯びた、火を入れるものよりも高価な結晶林檎のランタン。
どの街灯にも麦穂のリースが飾られていて、これは祝祭の終わりに焚き上げの魔物であるトルチャが炊き上げてくれる。
単に焚き上げの儀式だけでいえば、この時期は世界各地で行われているのだが、最近のトルチャは、高位の魔物達が集まり仕事を褒めてくれるウィームがお気に入りなのだとか。
「歌劇場には、また歌劇場の魔物さんの使い魔さんがいらっしゃるのですか?」
「アレッシオの使い魔は、もう劇場では歌わないのではないかな。使い魔になってしまったのだから、不特定多数の前で求婚相当の事はさせないだろう」
「まぁ。となると、以前に歌劇場で歌っていたのが最後の公演だったのですね」
「死者は、魔物に殺されたものとはいえ、厳密には終焉の系譜の庇護下にあるからね。けれど、こちらに戻ってからのその先は、主人となるアレッシオの管理下だ」
そんな歌劇場の屋根を通りの向こうに見ながら、ネアは、漆黒のコート姿の男性に擬態したウィリアムの方を見た。
色鮮やかな落ち葉の積もる歩道を歩き、なぜかその眼差しは困惑の色を浮かべている。
どうしたのだろうと首を傾げたネアは、雑踏に紛れた終焉の魔物の視線の先で、恐ろしい攻防戦が繰り広げられている事に気付いてしまった。
「……………まぁ。この前にお見かけした、黒い南瓜の奥様ですよ、ディノ」
「追い返されてしまうのかな…………」
「激しいですねぇ………」
そこには、市場で見かけた黒南瓜購入のご婦人と、どうやら彼女の、浮気をして退職金を持って逃げたというご主人らしき男性の姿があった。
地面に落ちて粉々になっている黄色い南瓜の残骸からすると、黒南瓜は、とどめを刺す為にまだ残してあるらしい。
まずは、通常の南瓜を乱れ打ちしているようだ。
(そして、ご主人はまさかの街の騎士さんだったのだわ……………)
南瓜の魔人と化したご婦人と攻防戦を繰り広げている死者の男性は、ウィーム中央の街の騎士服を着ている。
淡いセージグリーンの短い髪に檸檬色の瞳をしたなかなかの美丈夫だが、今は南瓜を避けるのに必死なようだ。
がこん、ぐしゃりと音がして、大きな南瓜がどこかの店先で砕け散る。
乱れ打たれる南瓜に喜んでいるのは、石畳で粉々になった南瓜の欠片を貰ってゆく小さな生き物達で、街の人々は巻き込まれないように遠巻きにしていた。
「凄いな。あれだけの身体能力があれば、リーエンベルクの騎士も務まるんじゃないか?」
「なぬ。あの奥様が…………」
「ご主人様……………」
「まぁ、ディノがすっかり怯えてしまいました。早くここを通り過ぎて、美術館に行きましょうね」
「うん…………」
どこかから、収穫祭の歌が聞こえてくる。
くるくると音を変えて素早くうねるような旋律には、不思議な高揚感とそら恐ろしさが混ざり込み、ついつい歩調を合わせてしまいそうだ。
相変わらず、屋台の周りには青い毛玉に四本の猫尻尾のお化け的な棺の精が群れていて、ネアはほっこりするのと同時に、昨年は青い棺の精の姿をあまり見なかった事を今更になって思い出した。
(蝕の後だったことも関係しているのかな…………)
「ネア、今年は林檎の飲み物はいいのか?」
そう尋ねたウィリアムに、ネアは、林檎飴の欠片を貰って飛び跳ねていた棺の精達から視線を戻す。
ネアの表情を見たウィリアムがぎくりとしたのは、こちらの人間が、あまりにも暗い目をしていたからだろう。
「……………ウィリアムさん、四角ケーキは、クローブとシナモン、そして林檎を使った茶色いスパイスケーキなのです」
「あ、ああ……………」
「そこに林檎の飲み物を加えると、どちらも同じ味と香りになってしまいます」
「そうか、だから敢えて飲み物を外したんだな?」
「ふぁい。あの飲み物もとても好きなのですが、果たして屋台の飲み物を二つも飲めるでしょうか。冷たいものはぐびぐび飲めますが、暖かな飲み物はちびちび飲む派の私は、無念の撤退を余儀なくされました……………」
人間には、時として諦めなければならない事がある。
ウィームのホットワインは、大きめのマグカップで振舞われる分量が基本なので、そこに、ホットワインの人気に負けじと同じ分量で売られる林檎の飲み物を重ねるのはやはり難しい。
「四角いケーキは、沢山買うのだろう?」
「はい。飲み物の代わりにそちらに欲望をぶつけることにしましたので、とても美味しそうなのになぜか今夜しか売ってくれない四角ケーキを、保存用も含めて大人買いするのですよ!」
「……………ずるい。三つ編みを握ってくる」
「アルテアさんがくれた、保存用の陶器の入れ物に詰めておけば、ケーキ類は二ヶ月は保つのです。安心して沢山買えますね」
「もっと、ずっと残しておけるよ?」
「ふふ、あんまり長持ちさせ過ぎると、他の季節のものを食べられなくなってしまいますからね。それくらいが丁度いいのでしょう」
「…………我慢していないかい?」
「そして、アルテアさんにも一つ与えておき、いざとなれば再現して貰えばいいのです」
「ご主人様……………」
「うーん、器用なのも考えものだな…………」
三人は、道行く死者達と擦れ違いながら美術館通りに出ると、まずは自然史博物館の前にやって来た。
途中で、死者の仮装をした美術館職員を見かけたが、顔色の悪さを恥じる死者達も多いので、死者の仮装をする生者は珍しくない。
まだ始まったばかりの試みである、美術館の死者の日開放を周知するべく、街角に立つ職員達もそんな死者達の心情を慮る装いを意識したようだ。
「まずは、四角ケーキを……………」
博物館前の広場には、幾つもの屋台が出ている。
美観の維持と言うよりは、魔術的な黄金値として屋台の骨組みは何種類かの定番の大きさが決められており、屋台を借りる店主達は、壁色や屋根でそれぞれの区別をつけていた。
飲み物屋台は店内が狭めで、その場で調理するような食べ物の屋台は調理スペースの分だけ広くなっているのだが、常設の屋台などはまた規格が変わる。
お目当ての四角ケーキの屋台は、飴色の壁に青い屋根の可愛らしい配色にしていて、軒下に飾られた豊穣の結晶のクロウウィン飾りが、お客を誘うようにきらきらと光っていた。
「む、並んでいます」
「行列は、最後に立った者の後ろにつくのだよね」
「ふふ、私とあちこちに出かけてくれているディノは、行列には慣れていますものね?」
「うん。三つ編みを持っておいで」
「なぜ三つ編みを渡されたのでしょう。そんな行列の作法はお知らせしていません」
「ネアが毛の多い生き物に浮気をしないように、かな」
「解せぬ」
「……………おっと、」
かしゃんと、小さな音がした。
どきりとして足元を見たネアは、ウィリアムの靴先にぶつかってしまい、目をまん丸にして震えている棺の精を発見する。
どこだか分からないがあるらしい手には、貰ってきた串焼きのようなものを持っており、そこに串焼きが配置されているからには、どこかに手があるのだろうと推理するに至る謎毛玉だ。
幸い、尻尾がぶつかっただけで串焼きを終焉の魔物の服地にぶつけてはいなかったようだが、明らかに高位な人外者な上に終焉の気配の色濃いウィリアムは刺激が強過ぎたらしい。
ウィリアムは小さく苦笑すると長い足で棺の精を跨いでその場を離れたが、叱られずに済むどころか、終焉の魔物の苦笑を見てしまった棺の精は、ぽうっとなりながらまだ固まっていた。
「棺の精さんは、ぶつかると思っていたよりも硬い音がするのですね………」
「棺の精だからな。一説では棺の窓を閉める音が聞こえると言われているが、さすがに検証した者はいないだろう。因みに、吠えるときは棺を閉める音らしい」
「それは、たいへん謎めいた声で吠えるのですね……………」
鳴き声と吠える声も違うと知り、ネアは、棺の精という期間限定の謎の生物については深く考えないようにした。
ばたんと吠える尻尾毛玉というだけでも、なかなかに情報量が多い。
(わ、……………)
屋台近くになると、ふんわりといい匂いが届いた。
長方形のケーキ型のようなものに入れて焼き上げ、切り分けて売る四角ケーキは、秋から冬のこの季節を連想させるふくよかな甘い香りだ。
ネアの生まれた世界にあったスパイスリースの香りによく似ていて、胸の奥に、わくわくするような切ないような不思議な祝祭の記憶が蘇った。
「いい匂いですね」
「ネア、………ずるい」
「またしても、ずるいの行方不明が始まりました……………」
少しだけはしゃいでしまったネアが腕に掴まろうとすると、恥じらった魔物はぴゃっとなってしまう。
黒に擬態して貰った戦闘靴で足踏みをし、荒ぶったネアは、ディノが隠してしまった腕を掴んで引っ張った。
「服もずるい………」
「新しい謎適用ですね。なお、クロウウィン仕様の服ですので、可愛いは受け付けていますよ?」
「ネアは、いつも可愛い…………」
今夜のネアは、クロウウィン用の装いだ。
黒いタフタのミニドレスは、たっぷりとドレープを取った膝上のスカート部分の裾から、ぎゅっと詰まったパニエのふりふりが見えるのが特徴である。
編み上げになっている腰部分は細く見えるが、コルセットのように食事に支障のある締め付けではない。
ゆったりとしたタートルネック状の襟元には、寒くないように内側にファーがあしらわれていて、羽織ったコートには大きめのフードがついている。
裏地が花柄でとても可愛いのだが、表から見えるものではないので自分で楽しむ範囲なのかもしれない。
なお、足はタイツのようなもので包まれており、保温魔術なお陰でぬくぬくしていた。
伴侶な魔物がもぞもぞと可愛いという言葉を繰り返している内に、ネア達の順番がやって来た。
ちょうど焼き上がりのところに並べたようで、列の進みが早くなっていたらしい。
個数を聞かれたネアは、思っていたよりも早くきた順番に、慌てて必要個数を思い出す。
「ネア、幾つ買うんだ?」
「まぁ、………その、蓄えて貪り食べる用なので、数も多いですし自分で払いますから………」
「はは、可愛い装いを見せて貰ったからな。そのお礼だと思ってくれ。遠慮はなしだ」
「で、では、飲み物は私がおごりますからね!」
四角ケーキの購入数は、ここで食べる分の三つと、エーダリア達へのお土産に加えて六個である。
この六個は、ディノとの三回分のおやつになる予定であった。
個数が多くて申し訳ないのだが、かといって購入内容を変える訳にはいかない。
へにゃりと眉を下げたネアに、ウィリアムは擬態していない白金色の瞳を細めて笑う。
近くにあるお気に入りのお店でホットワインも買い、三人は大きな雪楓の木の下のベンチに座った。
夜の光を遮る大きな木の影になるので、ベンチの上にせり出した枝には、クロウウィンの飾り付けで林檎のランタンがぶら下がっている。
ネアは、林檎を吊るされた楓の気持ちを少しだけ考えたが、木の精や妖精が荒ぶっていないのであれば問題ないのだろう。
「さて、お土産はしまいましたので、焼きたての四角ケーキを齧りますね」
「これは、このままでいいのかい?」
「はい。この紙袋に包んだまま、食べる分だけを出して端っこから齧るのですよ。ふぁ、ふかふかです!」
四角ケーキは、正方形に切り出されたパウンドケーキのようなものだ。
食べ歩き用のものは、ざらりとした質感の保温と遮蔽魔術のかけられた小さな緑色の紙袋に入れられており、紙袋の表面にはお店の名前がスタンプされていた。
たっぷりの煮林檎が入って香辛料のきいた茶色いケーキからは、ネアの元の世界のクリスマスの香りがする。
一口齧ってみると、全体の甘さは控えめにしてあるので、たまに当たる林檎の部分の甘酸っぱさが堪らなく美味しい。
「……………美味しい」
無防備なほどに澄んだ水紺色の瞳で、ネアの食べ方を観察してからケーキを食べたディノが、ぽそりと嬉しそうに呟く。
フレンチトーストやパンケーキの好きな魔物なのだから、このような素朴な雰囲気のお菓子はきっと好きだろうと考えていたネアは、瞳をきらきらさせた伴侶の様子ににんまりした。
「これは美味いな。…………サナアークの香辛料のケーキの香りに似ているが、このくらいの甘さだと食べやすい」
「むぐ。確かあちらは、ケーキはかなり甘めなのですよね?」
「ああ。ネアと入った串焼き肉の店は、経営者が土地の出身じゃないからか控えめだが、土地に伝わる伝統菓子はかなり甘い。俺は殆ど食べられないくらいだ」
ウィリアムも四角ケーキが気に入ったようで、ぱくぱくとネア達より遥かに少ない齧り回数で食べ終えてしまった。
沢山食べるゼノーシュもだが、魔物達の仕様とも言える優雅さには、食事も適用される。
戦場での滞在が多いからか、食べるのが早いのにウィリアムの食事は抜群に優雅なのだ。
元々王族や貴族のような食べ口のディノやアルテアの優雅さとはまた違うその独特なバランスを、ネアは密かに気に入っていた。
(ノアは、きちんと食べると綺麗な仕草なのだけど、お喋りをしながら楽しく食べるという感じだから………)
そして、採点の際にどうしても顔面からソースに突っ込んでしまう銀狐が出てきてしまうので、塩の魔物の評価は存外に難しい。
美味しい四角ケーキを食べ終えると、今度は美術館だ。
「むむ、墓犬さん達です」
「ああ。今年は曇り空で、死者達が早めに地上に上がれていたからな」
ネア達が美術館の入り口にやってきた時に、ちょうど鑑賞を終えて出てきた墓犬の一団に出会った。
出口で首から紐に吊るした鑑賞券を外して貰っていた墓犬達は、擬態をしていてもウィリアムの事が分かるのか、ぴしりと並んでお辞儀をしていた。
(墓犬さん達は、絵が好きなのかもしれない………)
ネアが仲良くなった墓犬もだが、こうして見ていると興奮気味に尻尾をふりふりして絵画鑑賞の喜びに浸っているので、芸術に興味のある個体が多いのかもしれない。
一緒に鑑賞する事になった死者達は、プライベートで遭遇してしまった監視者の姿にどきどきしたようだが、美術館員達は墓犬の来館が誇らしいようだ。
(今年は確か………、)
今年のクロウウィンの企画展示は、季節の風景画を揃えたウィームの四季を堪能出来るものだ。
入り口の晩秋で始まり、展示室をぐるりと回るとひとつの季節が巡る。
これは、生者からすれば今夜は収穫祭でしかないのに対し、地上に戻る死者達にとっては、今夜が生前を偲ぶ貴重な時間である事から企画された趣向なのだとか。
クロウウィンらしい展示をというのではなく、死者達が地上には上がれない季節も感じさせてくれるので、鑑賞を終えて出てくる死者達の中には、目元を押さえている者達もいた。
立派なエントランスを抜けて中に入ると、一階の展示室が企画展となっており、昨年のクロウウィンに飾られていたネアのお気に入りの絵は、奥の常設展示室に移動されたようだ。
四季を表現した展示とは言え、死者たちの為に展示室はぐっと暗くなっており、絵の周りだけが月光に照らされたように明るく幻想的な光景である。
(どこか死者の日らしい仄暗さもあって、けれどもとても華やかに四季が表現されていて、とても綺麗だわ…………)
「…………秋の夜から始まって、冬の月明かりの夜に春の花明かりの夜があり、夏の夜からの初秋の夜で終わるのですね。あちらで降っているのは、本物の雪みたいに見えます」
「雪の魔術を使ってあるようだから、本物の雪なのだと思うよ。経過時間で古い雪を消し、一定の量しか積もらないようになっているのだろう」
「そんな素敵な事が出来てしまうのですね。……………まぁ。この絵は…………!」
その中でもネアが目を奪われたのは、一枚の冬の朝の絵だった。
イブメリアの朝だろうと思われる夜明けの森の片隅に、美しく装飾された飾り木のある小さな家が佇んでいる。
戸口にはリースが飾られていて、雪の積もった橇が置かれた玄関先には生活の痕跡があたたかに窺えた。
家の前には湖があり、夜明けの森は祝祭を控えて妖精たちで煌めいている。
森には少し霧が出ていて、家の前には遊びに来たらしい一匹の狐がボールを咥えて住人の起床を待っているようだ。
描かれたのは昨年の夏で、並んだ他の絵画の中で最も新しい作品になる。
古い絵画と一緒に近年のウィームの絵画が飾られているのは、訪れた入館者達に現在のウィームの姿も楽しんで貰う為であるらしい。
「……………茶色いですが、狐さんが描かれていると親近感を覚えますね」
「ノアベルトではないのだね……………」
「しかし、絵の説明の部分に、最近のウィーム中央では、リーエンベルクの銀狐の人気から、絵画のどこかに狐を描き加えるのが流行っていると書かれていますよ」
「……………ノアベルトはそれでいいんだな……………」
「ノアベルトが……………」
なぜか魔物達は何とも言えない顔になってしまったが、ネアはその絵がすっかり気に入ってしまい、美術館の売店でポストカードをお買い上げした。
二枚買ったのは、一枚は銀狐グッズを密かに集めているエーダリアへのお土産にする為だ。
美術鑑賞を終えて外に出ると、あたりはすっかり霧に包まれており、乳白色の霧のあちこちに、クロウウィンの灯りがぼうっと浮かび上がっている。
霧とその祝祭の灯りの光の加減からか、亡霊のように飛び交うキャラメル林檎の包み紙の精達の姿が見えた。
しっとりと肌に触れる冷たい霧を楽しんでいたネアは、この時はまだ、外に出た途端に眼差しを鋭くした魔物達には気付いていなかった。
異変に気付いたのは、昨年も訪れた屋台でキャラメル林檎を沢山買ってから、人通りの多い街の中心に向かう路地に出てからだ。
不意に立ち止まったディノに、ネアはおやっと眉を持ち上げる。
「ネア、持ち上げるよ」
「……………ディノ?」
「あまりよくない死者が近くにいるようだ。ウィリアムの管轄の死者ではなさそうだね」
「……………そのような死者さんが、いるのですか?」
「今年はクロウウィンの魔術に波が立っているだろう?祝祭の障りに触れて、あわいの亀裂に落ちたような死者達が表に出てきているのかもしれないね」
しっかりと持ち上げられ、ネアはディノの肩に掴まる。
隣に立つウィリアムは、やはりこちらに来ていて良かったなと冷え冷えとした瞳で微笑んでいた。
(……………あ、)
空気が変わるというのは、きっとこういう事を言うのだろう。
ネアはその時、ひんやりと冷たくても清廉な夜の美しさを滲ませていた霧が、どろりと重たく悍ましいものに変わる一瞬を確かに感じたのだ。
ざわりと霧が揺れ、先程まで霧の中でも賑わいのあった街角が、途端にしんと静まり返る。
不安そうに顔を見合わせる通行人達に、何処からともなく駆けつけてきた街の騎士達は、ネア達の姿を見てほっとしたように目元を緩めた。
「君達はそのまま動かないでいてくれ。これは、……………人間の手には余る」
けれども、駆け付けた騎士達を一瞥し、ウィリアムは慣れた様子でそう指示を出した。
突然見ず知らずの人外者に違いない男性に指示を出されてしまったのに、街の騎士達は、顔を見合わせてから頷き、素直に了承してくれる。
一人の青年騎士は、死者の王に話しかけられたととても興奮しているようなので、残念ながら擬態していてもウィリアムの正体はばればれだったようだ。
(疫病祭りで、系譜の生き物達が過剰反応するからかな……………)
クロウウィンでは、墓犬にもお辞儀されているのだし、有事の際にリーエンベルクの見回りでウィリアムに協力を仰いだ事もある。
となると、騎士達のような職業であれば、その正体を知っていても不思議な事ではないのだろう。
それでいて、何事もなければ穏やかに雑踏に紛れられるのは、高位の人外者の多いウィームだからこそかもしれない。
ぴしゃん。
程なくして、どこからか濡れた音が響き、ネアは短く息を詰める。
妖精除けの香炉のような、濃密な香草の煙の香りが辺りに立ち込め、霧の向こうから大きな体を引きずった奇妙なものが現れた。
(熊……………?ううん、あれは、……………っ、!!)
霧の帯を抜けて全容を見せた生き物の醜悪さに、ネアは喉の奥に悲鳴を押し殺して、ディノの肩をぎゅっと掴んでしまった。
その生き物は、剣闘士のようなずしりとした分厚い肉体の人型をしている。
けれども、頭部の周りには灰色の鳥の翼が沢山生えていて、それが顔を花びらを閉じた蕾のように覆っているのだ。
盛り上がった肩にはケシの花に似た花が咲いていて、足は駝鳥のような大型な鳥の足になっている。
そこから異形の足に転じる膝あたりには、乾いた泥が覆うようなひび割れが無数に走っていて、触れれば崩れてしまいそうにも見えた。
(こわい……………)
そんな生き物が、仕立てのいい夜会服に身を包んでいる姿こそが、アンバランスさでより悍ましく感じさせるのだ。
特に、あの翼に隠された顔が見えてしまったらと思うと考えると背筋が寒くなる。
鈍い金属音に、ネアは一歩前に出たウィリアムが、剣を抜いた事に気付いた。
装いは擬態のままの黒いロングコートだが、手に持った剣の鞘が、霧の中でもはっとするほどに白い。
「……………障りの子供の成れの果てか。同じ障りの子供の気配に惹かれて、亀裂の底から這い出してきたみたいだな」
そう呟いたウィリアムの声は、どこまでも静謐だ。
そして、ずりずりと足を引き摺り歩いて来た異形は、ゆっくりと顔を上げた。
「……………エイエンノコドモ」
「っ、……………」
翼で覆われた顔はその時、真っ直ぐにネアを見ていたのだと思う。
突然こちらを見据えた異形に、声にならない声を上げて体を竦めたネアを、ディノがしっかりと抱き締めてくれる。
「成る程。クロウウィンに満足するまで同族を食らった障りの子供の呪物は、最後に永遠の子供を欲するんだったか。…………随分と古い呪いだな」
ざん、と鈍い音がした。
ネアは、恐怖のあまりに瞬きをするのも忘れて目の前の異形を見ていたが、気付いた時にはもう、その生き物の首は無くなっていて、大きな体がほろほろと灰になって崩れてゆく。
「……………ほわ」
「ネア、終わったよ」
「……………は、はい。ふぎゅ」
「怖い思いをさせてしまったね。ウィリアムが壊してくれたから、もう大丈夫だよ」
(一瞬だった…………)
その生き物が足元まで灰になると、辺りには再び祝祭の夜の雑踏の音が戻ってきた。
一部始終を見届けた街の騎士達も呆然と周囲を見回しており、不幸にもこの場に偶然居合わせてしまった領民達は、震えながら解決への安堵を呟いている。
「……………かつて、ロクマリアの辺りで行われていた、障りの子供の死者から作った夜鷺の怪物だ。祝祭の夜には相応しくない、醜悪な過去の遺物を久し振りに見た」
こつこつと石畳を鳴らしてそこに現れたのは、葡萄酒色に水色がかった不思議な色の長い髪を持つ美しい男性で、ネアは、特徴的な青い瞳にはっと息を飲む。
「ミカさんです!」
その声が聞こえたのか、まさかこんな所で会うとは思っていなかった真夜中の座の精霊王は、こちらを見て淡く微笑んだ。
「夜を押さえてくれていたのは、君だったのかな」
そう尋ねたディノに頷き、ミカは灰の山の傍に立つと、美しい青い瞳を曇らせて憂鬱そうに溜め息を吐いた。
「これは、不本意ながら夜の系譜の生き物になる。顕現の一報を聞いて足跡を追いかけてきたが、幸いにも、住民達を傷付けてはいないようだ」
「ミカ、灰を任せてもいいか?殺せるのは終焉の系譜の上位の者しかいないが、亡骸は夜に沈めるしかないからな。君が来てくれて助かった」
「ああ。それは私が持ち帰ろう」
ミカがひらりと片手を振ると、石畳に積もった灰は一瞬で消えてしまった。
それで事足りたものか、こちらを見てまた優しい微笑みを浮かべてくれた真夜中の座の精霊王は、もう問題はないとネアを含めたウィームの領民達を安心させてくれると、優雅に服裾を翻しふわりと姿を消してしまう。
「まぁ、お礼を言う間もありませんでした………。今の生き物は、作られたものだったのです?」
「ああ。人間の作る呪物の一つだ。古いもののようだが、クロウウィンの揺らぎで目を覚ましたんだろう」
「……………ぎゅ。終焉の系譜の方にしか倒せなかったようなので、ウィリアムさんがいなければ困った事になってしまっていたのですね…………」
「シルハーンであれば退けるのは簡単だが、終焉の系譜にしか殺す事は出来ないからな。ネアが手に入らないと分かれば、郊外にある可動域の低い人間達の保護施設が狙われたかもしれない」
「むぐぅ。お顔が隠れていたので、きりんさんは使えませんでした……………」
その呪物は、かつてはカルウィと肩を並べる大陸の大国であったロクマリアで、戦争の為に作られたものであるらしい。
辻毒のように、クロウウィンに生まれた子供を一度殺してからその魂に厄を集め、あのような姿にまで歪めると、目を覚ました怪物はとにかく人間を食らうようになる。
作り上げられるまでに付随される魔術の理から、倒せる者が極端に限られるので、防ぐ術もなく街を滅ぼす悍ましい怪物なのだという。
しかし、今迄あわいの亀裂の中に眠っていたのだから、あの怪物を封じる事が出来た誰かがウィームにはいたらしい。
「寧ろ、終焉の系譜ではなく、あれを封じられる者の方が恐ろしいな」
 
ウィリアムはそう苦笑していたが、ディノが、茨の魔術の気配があったと言えば、どこか遠い目をして封じ手が誰だか分かったような気がすると呟いていた。
怪物は、満腹になると永遠の子供と呼ばれる極端に可動域の低い人間を狙うのだそうだ。
なぜそんな条件付けがあるのかと言えば、可動域の低い魂を貪りもう一度空腹になる為なのだそうで、そんな恐ろしい仕組みを聞いたネアはぞっとしてしまった。
「あわいの亀裂の繋がりは、誰にも予測出来ない。これは古い呪物がたまたま目を覚ましただけで、ザルツの一件とは無関係なんだろう。だが、あちらの出来事が、ひび割れを作った波紋の元ではあるからな。それが起こらなければ、現れないものだったのは確かだ」
「……………始まりはザルツの呪いで、その一つの歪みから、色々なもの現れてしまうのですね」
「だからこそ、このような日には様々な習わしが残るんだよ。祝祭の魔術は恩寵でもあるが、古く強いものにはそれだけの制限があるからね。……………ここまで大きな影響はないにせよ、今年はあちこちで小さな影響は出ているのだろう」
その後、すっかりいい気分が萎んでしまったネアの為に、ディノは、ザハのティールームで美味しい祝祭の紅茶をご馳走してくれた。
ネア達が遭遇した怪物の件も含め、今年のクロウウィンで報告された様々な異変はダリルのところで取り纏められ、正式な調査書として領内で共有の上、一部の損害の賠償などについても審議されるらしい。
事件の報告を受けたエーダリアは、怪物を退治してくれたウィリアムにお礼を言っていたが、終焉の魔物を何よりも喜ばせたのは、リーエンベルクがウィームの平穏の功労者に開放した大浴場だろう。
夜が更けると集められた麦穂のリースが焚き上げられ、クロウウィンの終了と冬の訪れの歓迎を宣言する儀式も無事に終わり、ひやりとする場面が多かった収穫祭が幕を閉じた。
ウィリアムは大浴場でほこほこになってリーエンベルクに泊まってゆき、エーダリアは、明日の安息日には銀狐とボールで遊ぶらしい。
ネアは、使い魔へのカードに、素敵な四角ケーキのお土産があると書いておいた。
すっかり気に入ってしまった四角ケーキは、心配事の多かったクロウウィンの大事な収穫なので、是非に再現して貰わなければならない。




