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薔薇と抱擁




ずしりとのし掛かる魔術の障りに、息が詰まりそうになる。


思わず頭上を仰ぎたくなるのを堪え、薄っすらと冷や汗の滲んだ首筋を意識しないようにした。



(何と重たい呪いなのだろう………)



手元の祭壇に置かれた銀器に、禍々しい黒い影が映り込んでいた。


どこまでもどこまでも暗く渦巻く呪いに向かって、壁に飾られていた椎の木の小枝が真っ黒な天井に吸い込まれてゆく。


なぜクロウウィンのリースに他の植物を混ぜたのだとこの聖堂の責任者を詰りたくなったが、漆黒のケープを翻したノアベルトが呆れ顔をしているのが見え、そんな苛立ちを鎮められた。



(ノアベルトやゼノーシュがいなければ、あの小枝一つが命取りになったかもしれないのだ…………)



クロウウィンの障りがある事が知らされ、今年のウィーム中央の麦穂のリースからは、毎年重ねられる花や小枝が外された。


クロウウィンの麦穂のリースそのものは、クロウウィンの魔術そのものに紐付く為に過分な反応は呼ばないのだが、そこに添えられた花や小枝は、祝祭の魔術で祟りものに力を与えたり、ようやく張り巡らせた結界を傷付けたりする。


勿論、ガレンの長としても下調べをした上で、事前に今回の儀式に際した特記事項などを記した注意書きを、ザルツにも送ってあったのだ。

わざわざ赤字にして、愛情を司る薔薇と結実を示す木の実は特にならないと書いた筈なのに、なぜ椎の木の小枝が飾られていたのだろう。



その小枝一つで、魔術の足場が崩れて大事な騎士達が犠牲になったかもしれなかった。


それはグラストだったかもしれないし、リーナやアメリア、レナンだったかもしれない。

場合によっては、エーダリアの隣で剣を振るっているヒルドを、そんな身勝手さで失ったかもしれないのだ。



(椎の木は、実をつける木だと誰にでも分かる。あの銀細工はナナカマド、………来賓席に座った貴族の中には、薔薇飾りを付けた者もいた………)



音楽は魔術に親しいものだ。

それを見事に治めているザルツの楽団の演奏は素晴らしかったし、彼等がその技術に誇りを持つのも当然だとは思う。


ここは音楽の都で、その自負こそがザルツの民を更なる研鑽の日々に向かわせているのは間違いなく、楽器の一つから譜面の一枚に至るまでが、ウィームのかけがえのない財産であるのは言うまでもない。



(だが、……………)



だが、エーダリアは彼等の浅慮さが堪らなかった。

祝祭の日に遠方まで駆り出されているからの苛立ちではなく、誰かを救おうとしながらも、より多くの犠牲を出しかねない危機感のなさが堪らなく胸を苦しくする。



(魔物達がいなければ、多くのザルツの騎士達が命を落としただろう。詠唱を続ける私が最も狙われるのは当然のことだ。……………そうなれば、リーエンベルクの騎士も、喪ったかもしれない………)



今のこの惨状を見た上でも、それだけの災いだった事に気付いている者は、ここにどれだけいることか。



「………っ、」



僅かに詠唱が乱れた。

月光の剣を構えても押し込まれたヒルドの羽が、エーダリアに触れたのだ。

思わずヒルドを守らなければと思ってしまったが、ここで自分に出来ることは、詠唱を最後まで全うする事である。


エーダリアが詠唱を途切れさせてしまうと、儀式は最初からやり直しだ。



けれど、そんなものは投げ出してしまって、ヒルドが傷付いていないかどうかを確認出来たなら。


ウィームを堪らなく愛おしいと思うのに、そこにザルツとて含まれているのに、この大聖堂のそこかしこに見付けてしまう呪いの助長に心が削られてゆく。



誰かの手に飾られた薔薇と薔薇の実の意匠の腕輪に、呪いを削ぐ為の詠唱がひび割れる。

椎の木の小枝を取り込んだ呪いは、青白い光を帯びて更に階位を上げたようだ。


ゆらりと立ち上がった影の振り下ろした手を剣で受け止めたグラストに、じりりと床を踏み押し込まれる靴底の軋み。

青年姿の魔物に擬態したゼノーシュの瞳が暗く光り、グラストの周囲に幾重にも魔術陣が浮かび上がった。



あちこちに気が散り、エーダリアはここで一つの失態を犯した。



(っ、しまった……………!)



詠唱が最後の章に入り、ひたりと冷たい汗が顎先から落ちた。


はっと息を飲んだが、指先で詠唱の書を辿る行為も儀式の一環である。

詠唱を途切れさせ、追いかける文字から目を逸らす訳にはいかないが、祟りもの達が這い出している床に汗を落とす事がどれだけ危険なのかも重々承知していた。


けれども、その汗が床石に落ちる事はなかった。


その汗を袖口で拭うようにして受けたのは、素早く一歩下がったヒルドで、エーダリアは、そうされて初めて、彼が戦いの中でどれだけこちらを見てくれていたのかを知った。



(それでは、押されもするだろう……………!)



これだけ無尽蔵に湧き出してくる祟りもの達と、どれだけ不利な状況で戦っていたのか。

そう思えば胸が苦しくなり、ゆったりと音を立てて読み上げなければいけない箇所で声が震えそうになる。



あと少し。

あと少しではないか。

そして自分はウィームの領主で、最愛のこの土地を手にすると同時に、自分の心よりも優先しなければならない重たい責任も負った。



胸の内側を強張らせるようにして次の章節に取り掛かり、震えはしないものの震えてしまいそうな指先で終わりから数える方が早くなった文章をなぞった時の事だった。



(あ、……………)



ぞわりと、重たい影が落ちる。


その翳りは、ガレンに属したばかりの頃に知った前線での経験や、王宮で暮らしていた頃の暗殺者の気配によく似ていた。



ぞっとするような静けさに貫かれ、表情を動かす間もないくらいの一瞬でざあっと血の気が引く。


ばさりと広げられたのは漆黒の翼だ。

詠唱を続けながら視線の端で捉えたのは、天井から吊るされた祈りの日の為の香炉からこぼれた香の欠片だった。


祟りものの媒介となるようなどんな香を、無責任にもそこに残したままにしていたのか。

けれども、それを問うにはもう遅過ぎる。


グラスト達は顕現したばかりの黒い狼と戦っているし、足元に落ちる影の大きさから見れば、ヒルドが戦っているのは、ガレンの魔術師達が何人も集まって調伏するような祟りものだ。



左半身は捨てるしかない。

それでも詠唱を途切れさせる訳にはいかないと覚悟を決めた時、耳の下あたりでちかりと青紫色の光が揺れた。



じゃりん。



響いた音の鮮やかさは、ふつふつと恐怖と悔しさに揺れた心を、ほんの一瞬で静まり返らせる。

ひゅうっと吹き抜ける冬の夜の風のようで、刺すような悪意に晒されていた左半身がさらりと凪ぐ。



はらりと手元に落ちてきたのは、内側から青白く燃えるような塩結晶の薔薇の花びらだ。


ここで薔薇はとぎくりとしかけ、すぐさま、これは塩の魔物の領域の魔術錬成なのだと思い直す。

あまりにも階位の高い純然たるその魔術の結晶である以上、祟りものなどには取り込める筈もない。




(ノアベルト………)



エーダリアの位置からは見えないが、黒衣の騎士に扮した塩の魔物が、冷え冷えとした美しい微笑みを浮かべるのが見えたような気がした。



その気配に安堵し、エーダリアは絡まりそうな焦燥感を解き、残った詠唱を続ける。

あと少し、あと少しと続ける詠唱に、こんな風に魔術を扱った事はなかったのにと胸が痛む。



いつだって魔術は美しく、無力なばかりのこの身を助ける優しいものだった。



勿論扱いは難しく気紛れだが、リーエンベルクやウィーム中央の都市において、なぜという悔しさを抱いて魔術を編み上げる事は滅多にない。


無残に失われたものや、胸が潰れそうな悪意に晒される場面は少なくはなかったのに、こうして、守るべきものの無責任さに心を削られたのは初めてだったのだと、漸く気が付いた。



(私は果報者だ)



望んだものに報われる事が、どれだけ稀有であるか。

それを知っているからこそ、思い知らされた幸運には敬意を払わなければならない。




あと一つ。

けれども結んだ術式が、また一つ飲み込まれた柱飾りの枝に崩される。


ザルツの騎士の一人が腕を食い千切られ、重たい音を立てて床に倒れた。

どくどくと流れる血の多さから、すぐに手当てをしなければ致命傷になるのは明らかだ。



崩された術式にはひびが入り、ばらばらと砕けて床に散らばっている。

先程までの状態であれば、エーダリア自身も体の一部を損なっていただろう。


けれどももう、エーダリアの周囲にはノアベルトに渡された髪飾りが解けて生まれた薔薇の盾があった。

視線を向けられず確認しきれていないが、しっかりとこの身を覆い、詠唱を続ける無防備なエーダリアを守ってくれているのは間違いない。


頭の中で素早く代替の魔術を探すと、詠唱に幾つかの文言を加えて魔術を練り直し、失われた術式を再構築した。


すると、複雑に編み上げた魔術が最後の結びを得て、本来なら最初から優しく寄り添う筈だったクロウウィンの祝福が、禍々しく牙を剥き荒ぶる体を落ち着かせて見慣れた祝祭の柔らかな色を帯びる。




(ああ、やっとだ……………)



やっと。

障りになっていた祝祭が、本来の穏やかで豊かな姿を取り戻し、禁忌を犯した子供を中心に広がっていた災いの揺らぎを鎮めてゆく。


きらきらと光るのは収穫祭の喜びで、死者の日でもある魔術の仄暗さにも心を騒めかせるような濁りはない。


待ち望んでいた最後の音が唇を離れると、ひゅっと胸の底から全ての吐息が奪われるように、体の力が抜けた。



「……………おっと」



耳元で聞こえたのは、頼もしい契約の魔物の声だった。


伸ばされた手に傾いだ体を支えられ、その短い助けの合間に一度だけ目を閉じる贅沢を与えて貰う。

この僅かな時間に姿勢を整え、エーダリアは、もう一度ウィーム領主の顔に戻らねばならない。



「うん。やっぱり髪飾りは必要だったよね」

「…………ああ。だが、せっかくの魔術の盾を見逃してしまったな」



髪飾りから錬成された薔薇の盾は、既に跡形もなく消え失せていた。


はらはらと落ちてゆく花びらだけが残り、そこにはどれだけ立派な塩の結晶があったのかと思うと、堪らなく残念な気持ちになる。


かしゃんと剣を鞘に戻す音に視線を巡らせると、対峙していた巨大な祟りものを一人で撃破してしまったらしいヒルドがこちらを見た。



「……………ご無事ですね?」

「ああ。危ういところをお前に助けられた。いや、皆にだな」

「その分、邪魔も多かったようですがね。……………ゴーディア!禁じておいた筈の植物を使った装飾の多さは、一体どういう事ですか?」



こちらを見た一瞬に気遣わしげな表情を見せたものの、ヒルドはすぐに怜悧さに面を整え、最も常識人であるゴーディアの名を呼ぶ。

ここはまだ、ザルツの大聖堂なのだ。


ゴーディアはここにいる者達の中でもよく働いた方だったが、何がまずいのかを理解していない者達に、過失を問うても仕方ない。

己の土地の備えの不手際を理解し、その稚拙さに腹を立てている者にこそ、窓口になって貰うべきなのだろう。



案の定、周囲を見回して不愉快そうに顔を顰めた獅子は、重たい溜め息を吐いてヒルドに謝罪をしている。



「申し訳ないとしか言いようがない。ザルツの守護のひと柱として、あまりにも粗末な対応に顔を覆いたいくらいの有様だ。言い訳のようだが、私が見回りをした今朝までは、あのリースにはリボンしかかかっていなかった。準備されていた柱飾りも、椎の木など論外だと外した筈なのだ。……………一体誰がこれをかけた?愚かな虚栄心と無知さのせいで、我々は全員が呪いに食い殺されるところだったのだぞ!」



その言葉は、この大聖堂にいる全ての者達に聞かせる為のものだったのだろう。

びりりと肌が震える轟音のような声音に、エーダリアも思わず肩を揺らしてしまいそうになった。



黄金の鬣を揺らした獅子姿のゴーディアは、ザルツの街角でお茶の時間を楽しみ、道行く子供達とも遊んでやるような優しい大精霊だ。

しかし今は、毛を膨らませて激昂しており、大聖堂の管理者達や儀式に参加した貴族達は所在なさげに視線を彷徨わせている。



「責任者の処分は、ザルツに任せましょう。エーダリア様だけではなく、我々だけではない。この場での儀式を崩されたなら、ザルツのどれだけの土地が災厄に飲み込まれたことか。我が身を殺しかねなかった棘については、自分で抜いて下さい」

「リーエンベルクへの謝罪は、あらためてさせていただこう。…………こちらも、持ちこたえたとは言えかなりの被害が出た。責任の所在は必ず明らかにする」



ヒルドと話しているのがザルツを治める伯ではなくゴーディアなのには、彼程にまともな話が出来る人物が他にいないという以外にも、理由があった。



祝祭儀式には、その土地の為政者が必要になる。


まさかこれだけの大きな呪いが絡むとは予想されていなくても、危険が見込まれる儀式にエーダリアが参加しなくてはいけなかったように、問題となった子爵夫妻とその一人娘の側には、ザルツ伯が付いていたのだ。


今年のザルツのクロウウィンの儀式で詠唱は、エーダリアにしか出来ないものだった。


そして同時に、儀式詠唱をエーダリアが担うからこそ、魔術の核となる障りの子供を守る役目は、ザルツ伯爵でなければならなかった。




床に膝をついたハーシェッドは、片手で額を押さえて俯いている。

額から目元に当てたハンカチは重たく真紅に染まっていて、そちら側の目は光を失わない程度の深刻な怪我を負っているのかもしれない。


治癒魔術で回復出来る範囲とは言え、鍵の魔物がその体を支えていたとしても、立ち上がるのは暫く難しいだろう。



そんなザルツ伯の様子に、少女のような美貌の子爵夫人は、今にも倒れてしまいそうなくらいに真っ青な顔をしている。


薔薇結晶の耳飾りを外さないと決めたのだから、儀式に敬意を払う殊勝さはないにせよ、ザルツを治めるハーシェッドの消耗具合には怯えているようだ。


隣に立つ子爵自身は、更に顔色が悪い。

恐らく今回の一件は彼らの過失というだけではなく、血筋についた呪いが発現してのものだろう。

それを踏まえたとしても、これだけの被害を出してしまった以上、今までのようには暮らせない。



(夫人の様子からすると、あの危機感の薄さは、飛び抜けた才能を持つ音楽家だからこそ……、なのだろうな。私も、これまで以上に身に持つ魔術を磨き上げ、高慢にならないように自身を諌められるようにしなければ………)




儀式が無事に終わり、皆が無事である事を確認したからか、エーダリアはやっと冷静にそう考えられるようになった。



「ほら、あれは欠落の精霊だからね。欠け落とす事への嫌悪や恐怖も育てるんだよね。それに、今回の儀式の場としての整え方は酷いものだった。僕達だって、まさか事前に忠告しておいたのにこんな酷いとは思わないし、儀式前に気付いても一度結んだ基盤魔術を壊す訳にもいかなかったしで、どうしようもなかった。不愉快で当然なんだ。…………エーダリアだけじゃなくて、僕もヒルドもね。……………ありゃ、ゼノーシュはかなり怒っているみたいだぞ」

「…………ゼノーシュが?………っ?!」



ノアベルトの宥めて守るような柔らかな声に、心の奥に残っていた小さな棘も洗い流されてゆく。

呪いの核となった精霊の影響もあったのだと思えば、儀式の最中にあんな事で心を揺らした未熟さへの落胆も少しだけ落ち着く。


だがそれは、歌乞いを危険に晒された契約の魔物の怒りを見るなり、再び動揺に取って代わられた。



「…………僕のグラストが、怪我をしたんだ。ここに椎の木の枝を飾ったのは誰?」

「ゼノーシュ、その者には私が必ず相応しい罰を与える。隣に立つ契約の人間の為にも、どうか怒りを鎮めてくれ」

「ゴーディア、僕のグラストは、一人しかいないんだよ。あの枝がもう一度飾ってあったって事は、誰かがいけないと分かっていたのにわざと置いたんでしょう?」



これはまずいとそちらに向かおうとしたが、こちらを見て微かに一礼したグラストに視線で留められた。

そんなグラストは、大きな剣を鞘に収めると、手を伸ばして青年姿の魔物を小さな子供のように抱えてしまった。


突然抱え上げられ、はっとして瞳を揺らしたゼノーシュの耳元で、グラストは契約の魔物に何かを言い含めている。


ゼノーシュは不服そうに眉を寄せたが、グラストがどきりとするような愛情深い瞳で穏やかに笑うと、ふうっと息を吐き諦めたように眉を下げた。



「……………ディノみたいに、僕もずるいって言ってもいい?」

「無理を言っているのは分かっている。ゼノーシュには、怖い思いをさせてしまったな」

「……そうだよ。僕はそういうのは嫌い。今度、こういう仕事があったら、その時には必ずほこりにも来て貰うからね。もうグラストは無理をしちゃ駄目だよ」

「ああ。その時はほこりにも手を貸して貰おう」



グラストが敢えて朗らかにそう返しているのは、契約の魔物との交渉をこちらにも共有する為だろう。

それならどうにかなるねと苦笑したノアベルトに、エーダリアはふと、不思議に思う。



(……………恐らく、この儀式で最も働いたのはノアベルトなのだろう)



見たことの無い青白く燃える書物は、祝祭の書と呼ばれるスリフェアで購入した魔術書であるらしい。


その、祝祭の中で使える稀少な魔術書を惜しげも無く使い、呪いの核となった精霊については、エーダリアの詠唱も作用はしただろうが、殆どノアベルトが一人で調伏したと言ってもいいくらいだ。


それなのにこの優しい魔物は、自分より遥かに階位の低いザルツの者達に余計な手間をかけさせられたと怒りを示すのではなく、まずは心を揺らしてしまったエーダリアを案じ、今度はグラストとゼノーシュの約束を破らずに済む方法を考えてくれている。



「さて、そろそろ負傷者の手当ても落ち着いたかな。ここでの仕事は、さっさと終わらせようか」

「……………ああ。ノアベルト、」



もう、ウィーム領主に戻らねばならないエーダリアの探るような視線に気付いたのか、唇の端を持ち上げて微笑んだ塩の魔物に、時間など気にせずにボールを投げてやりたくなった。


背中を支えてくれた瞬間から展開された音の壁が継続している事を確認しながらその名前を呼べば、擬態に合わせて彩度を下げた青紫色の瞳を細めて、ノアベルトは愉快そうにくすりと笑う。



「僕はさ、この家の中でも年長者だからね。こんなに消耗しているエーダリアやヒルドの負担を増やすような事は、ここではしないよ。でも、僕だって魔物だからさ、僕の家族を危険に晒した誰かには、後でこっそり嫌がらせはするかもだけれど」

「…………そうだな」

「ありゃ。公認で報復していいのかな?」

「ヒルドには怒られるだろうが、お前もそうして然るべきだと、少しだけ考えてしまった。……………それに、ネアならばきっとそうするだろう」

「うん。僕の自慢の妹は当然そうするだろうね。でも、エーダリアとネアは立場も経験も違うんだから、エーダリアは色々な事を飲み込んで、自分の立場に相応しい間違った選択を取ってもいいんだよ」

「…………間違った選択だとは、思うのだな」

「魔物の目線では、契約者である魔物の判断を仰ぐ場面だとは思うよ。普通の魔物なら、あの小枝を飾って僕の領域を乱した人間は八つ裂きだ」

「ああ……………」

「でも僕は、家族の仕事には理解があるつもりだからさ、エーダリア達の取らなければいけない判断に従うよって言えるんだよね。………それに、どちらかって言えば、ヒルドの方が怒っているみたいだから、僕は尚更冷静にならなきゃだね」

「……………私はまず、ヒルドを止めるべきなのだろうな」

「……………うん。僕も止めるべきだって気がしてきたぞ」




視線の先で、ザルツの大聖堂の責任者と話をしているヒルドの横顔は、音を立てて凍りつきそうな程に冷たい。


このままでは、空気が読めずに今もなお愛想笑いを強張らせながらも必死に弁解しているザルツの聖職者は、首と胴体に二等分にされかねない。


早々にここを立ち去らなければとゴーディアを呼び、クロウウィンの儀式の終わりを告げる為の結びの儀の段取りを整えながら、エーダリアは、儀式正装の胸元につけられた隠しポケットの上にそっと手を当てた。



そこには、ネアから渡された恐ろしい術符が収められている。



共にザルツに来てくれた騎士達の誰かが危うくなれば、エーダリアはこのきりん札を使うしかなかっただろう。


その代わり、この絵に耐性のないザルツ側の人外者の誰かも、巻き込まれて命を落としたかもしれない。




「きりん札を使わずに済んで良かった……………」

「え、もしかして、持ってきたの?それを出されたら僕も死んじゃうんだけど………!」

「い、いや、勿論そちらには向けないつもりだ」

「そうなると、今度はゴーディアが死ぬよね。あの呪いの核の位置と角度的に」

「……………出すしかないと思うような場面が訪れず、本当に良かった……………」

「うん……………」





思いの外ザルツ側の騎士達の被害が大きく、全てを終えるまでには暫く時間がかかったが、エーダリアが毎年務めているウィーム中央の大聖堂での正午の儀式迄には、誰一人欠けることなく戻る事が出来た。



加えて、リーエンベルクでは、クロウウィンの呪いのもう片翼からの襲撃もあったと聞いてひやりとしたが、ザルツの一件と関係があるか否か、ガーウィンへの対応についてはダリルと慎重に詰めてゆかねばならない。





「どうもザルツには、無能と阿呆しかいなかったようだな」


昼食会の場で、バンルが欠片も笑っていない瞳で陽気な声でそう言うと、部屋の温度がぐっと下がった。


統一戦争時の因縁などもあり、ウィーム中央と、未だに自治に近しい自由を謳歌しているザルツとは、あまり親密とは言えない。


どこからかザルツの儀式の情報が漏れており、エーダリアは気色ばむバンル達を宥めなければならなかった。


こちらについても、まさかの領内での報復措置は避けねばならないので、より慎重に彼らの不満も取り除いてゆかねばならないようだ。




「ヒルド、手を見せてくれ。最後の祟りものに押された時、鈍い打撃音がした。……………怪我をしてはいなかったか?」



注視していたところ普通に動いているので大丈夫だとは思ったのだが、会食の後にそう尋ねると、こちらを見たヒルドは瑠璃色の瞳を細めて穏やかに微笑んだ。



「あなたが気にしていたのは知っていましたから、ネイに治して貰いましたよ」

「……………そうか。すぐに対処出来ず、すまなかった」

「今日の儀式で誰よりも危うい位置にいたのは、あなたでしょうに」

「いや、だが私は………」

「だとしてもと、私も、それでもあなたをと思うことをお忘れなきよう。今日はよく頑張りましたね」

「……………っ、ヒルド?!」



ふいに、ふわりと抱き締められ、エーダリアは息が止まりそうになった。

ヒルドはすぐに体を離したが、子供の時にも滅多にしなかった抱擁に顔が熱くなる。


堪らずわたわたしてしまったエーダリアに、森と湖のシーは、どこか満足げに微笑んだ。



「あの頃は、どれだけ望んでも、あなたに隙を与えるような真似は出来ませんでしたから。今は、多少気を緩めても、ネイやディノ様達がいますからね」

「だ、だが、まさかここではなくても……………っ、」

「わーお。僕もやるべき?」

「や、やらなくていい!!」



周囲を見ると、会食に参加している領民達が、妙ににこやかな眼差しでこちらを見ている。

動揺したエーダリアは、慌てて席に戻ると、食後のメランジェを無心で飲むしかなかった。









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― 新着の感想 ―
[良い点] 前からずっと思っていたのですが、この物語の凄いところの一つは、間違いなく、名付けのセンスの突出しているところです。 特に好きなのが、「ガレンエンガディン」 ガレンエンガディンは、「ガレン…
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