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氷狼の障りと氷竜の騎士 4



ゆっくりと起き上がったベージは、まずは軽く頭を振ってまた小さく呻いた。

狂乱の予兆と言うよりは、起き抜けに酷い頭痛に見舞われた人が、なぜこんな風に頭が痛いのだろうと狼狽する様に似ている。




「ベージ、…………俺が分かるか?」




視線でネア達を制し、誰よりも先に話しかけたのはグレアムだった。

ちょうど、ネアがディノの方に移動しようとしていたところだったので、距離的にもグレアムが一番近い。


ネアは息を詰めてベージの反応を見守りながらも、ベージがこの本来の姿のグレアムと顔見知りであることを不思議にも思う。

氷竜はウィームに住む種族なので、ネアとしては、てっきりウィームで擬態して暮らしているグレアムと知り合い、友人になったものかと思っていたのだ。



(あ、………………)



はらりと夜風に檸檬色の花びらが舞い、その色を目で追うようにして顔を上げたベージの表情は、ネアのよく知るベージのものだった。

見えるところには変化もなく瞳も澄んでいるので、まだどこも損なわれていないように見えたネアは、安堵に胸を撫で下ろす。


グレアムの姿を目にしたベージは、檸檬色の虹彩のある水色の瞳を瞠り、困惑したように眉を寄せた。

困っていても優しい面立ちに見えるのが、先程までの怜悧な寝顔を見ていると不思議でならない。



(黒い服を着ていて普段とは雰囲気も違うのに、いつものベージさんに見える…………)



今のベージは、騎士らしく身に着けていた甲冑のような装備は脱がせてあるので、その下に着ていたぴっちりとした黒いインナーに黒いパンツ姿なのだが、そうなると、いつも淡い色の服を着ていたベージの印象が少しだけきりりとする。


そんな場合ではないと承知の上であっても、とても格好いいと思ってしまったネアは密かに気に入っていた。





「……………かい」

「おっと!」



なぜかここでグレアムがそんなベージの言葉を遮り、ベージもむぐっと口を噤む。

いささか不自然な動きだが、何か不都合なことがあったのだろうか。



(かい……………?……………それとも、こい?とい…………?)



よく聞き取れなかったが、きっとグレアムの対価に纏わる話題なのかもしれないと考えたネアは、ウィリアムもいるので事故がないように、今のやり取りは聞かなかったことにしようと考えた。


しかし、そんなウィリアムは少し不審そうな目をしているので、ここで立ち止まらないように会話を流してしまわなければならない。




「ベージさん、良かったです。目が覚めたのですね?」

「……………ネア様」



続けてネアが声をかけると、こちらを見たベージは、まだ困惑の残る瞳を丸くし、その後にふわりと淡く微笑んで見せる。

状況はよく分かっていないようだが、そんな自分を恥じるように眉を下げ、そこでまた頭痛を堪えるように片手を額に当てた。



「………っ、」

「ベージさん…………!」

「…………あまり時間はなさそうだね。シェダーはこちらに到着したばかりだから、僕から状況を説明するよ。君はあの氷狼との交戦で悪変を移された。まだ僅かな穢れだけど、このまま侵食が進めばかなり危うい。…………正直なところ僕は、治癒前に目を覚ませば、もう君は正気ではないだろうと考えていたんだ」



ノアのその説明は、ネアにとっても現状を理解する為に必要なものだったのだろう。

そこまで厳しい状況であることをあらためて思い知らされ、ネアはごくりと息を飲む。



(だからノア達も、真夜中なのにこうして一緒に考えてくれていたんだわ…………)




そんな状況を理解していっそうに闘志を燃やしたネアの前で、優しい目をした氷竜の騎士団長はひどく穏やかな微笑みを浮かべた。



その瞳があまりにも澄んでいたから、ネアには、ベージが何を考えたのかが容易く想像出来てしまった。



「…………成る程。であれば、俺にはまだやり残したことがあります。申し訳ありませんが、席を外していただいても?」



穏やかな顔でそう言い終えるや否や、ネアはポケットに隠し持っていたものを取り出してびしりと鳴らした。



「…………ネア様」



するとベージは、それでもいけないのだと困ったような悲しい微笑みで首を振ることもなく、なぜか目元を染めて立ち上がる。



「…………っ、」



しかし、思っていたよりも消耗していたのか立ち上がるだけの体力がなかったようで、ぐらりと体が揺れて寝台に手を突いてしまう。

急な動きにネアはぎくりとしたが、捕縛される前に自死してしまおうという表情ではなかった。


とは言え、その隙を逃さなかったのはグレアムだ。


しなやかな獣のような動きでさっとベージの背後に移動し、きらきらと光る術式の鎖のようなもので、ベージを拘束してしまう。


光る文字を連ねたリボンのようなもので捕縛され、ベージは水色の瞳を揺らして顔を上げた。



「……………馬鹿なことを言わないでくれ。悪変くらいであれば、最終的にはどうにでもなる」

「…………か、…………しかし、俺は竜です。氷狼の悪変とは相性が悪いことも、客観的に周囲のことを考えずに力を振るえば、あなた方には遠く及ばずとも、どれだけのことが出来るのかも理解している。…………この状態で祟りものになったら被害は少なくはないでしょう」

「俺は、それをどうにか出来ないかということで呼ばれたんだ。それに、…………ネアの表情を見てやってくれないか?彼女のような者の悲しみを拭う為に、不可能だと思えても戦うのが…………騎士というものだろう」



ベージの言葉には悲壮感はなかった。

誠実な騎士らしい言葉で淡々と状況を飲み込み、冷静にそう決意したのだろう。

或いはそれは、彼が氷狼からあの少年を救うと決めた時に済ませていた覚悟なのかもしれない。


そしてグレアムの返答もまた、いっそ朗らかですらあり、声音も柔らかで落ち着いている。



(どちらも落ち着いているからこそ、ここで間違えてはいけないのだ…………)



ちょうど、二人の応酬は均衡している。

この天秤をどちらに崩すかによって、この場がどう収まるかが変わってきてしまう。


なので、清廉な騎士の引き止め役としてご指名を受けたネアは、ベージが自分を損なうようなことをしようとしたらすかさず捕縛してみせるという決意の下に、手に持った獣の捕獲用の縄をびしりと鳴らした。



「絶対になりません!きっと治してみせますので、つべこべ言わず大人しくしているのだ!!待てです!!」

「え、ネア、その台詞でいいの?!」

「…………む?」

「ネア様!承知いたしました」

「……………わーお、良かったみたいだ」



なぜかノアが唖然としているので、ネアはついつい厳しく叱ってしまったベージの方を見たが、間違いはなかったようだ。

少しだけ目元を染めているが、これはきっと、簡単に命を投げ出そうとしてしまった自分の弱さを恥じているに違いない。



けれどもここで、その対応に物を申した魔物がいた。



「ネアが竜に浮気する……………。お仕置きをしようとするだなんて………」



悲しげにそう言った魔物に、ネアはぎくりとする。

これまでは仕事の中で保護したベージの治療をという流れであったが、ネア自身の気持ちを表に出したことで、ディノが不安になってしまったようだ。



「ディノ、これは慰留活動ですので浮気ではありませんが、…………ベージさんがいなくなるのは嫌なんです。加えて私は、あの憎たらしい氷竜さんをぎゃふんと言わせなければなりません!」

「…………ぎゃふんと………かい?」



しっかりとネアを腕の中に収めてしまったディノは、まだベージに向かって威嚇こそしていないものの、ネアが縄を取り出してベージを叱ったことで自分のご褒美が取られてしまうと思ったのかもしれない。


慌ててこちらにやって来て羽織りものになってきた魔物を、ネアはまずそっと撫でてやった。


なお、今回の縄は獣の捕獲用の荒縄なので、その種のご褒美に使われるという専門的なお道具の色付き縄ではない。



(だとしても、ディノにはディノの取り分があるのだから、それを損なわれてしまうと感じたら荒ぶってしまうかもしれない…………)



そんな狭量さもまた魔物らしさであるのだ。

特に竜問題に関しては敏感な魔物であるので、刺激しないように自分の気持ちを説明しなければと、ネアは心を決める。



「…………封印庫の前で会った女の人の言葉を聞いた私は、とてもむかむかしました。それに、あの言葉を聞いてしまったエーダリア様がとても悲しい目をしたのです。エーダリア様は、それはもう竜ならば何でもと言わんばかりに竜さんが大好きなのに、まるで傷付いたような目をしていたんですよ?………それを見てしまった私は、あの方々の下した予測など、ばりんと粉々にしてやりたいと思ってしまったのです…………」



気持ちが昂ぶってしまったものか、ついついそんな身勝手な欲求まで言葉にしてしまい、ネアはへにょりと眉を下げた。

ベージ個人に向ける好意とは別の理由でディノを説得したかったのだが、何だかあの氷竜憎しで参戦しているような結びではないか。


けれどもディノは、澄明な水紺色の瞳をゆったりと揺らすと、不安の翳りが抜け落ちたような優しい微笑みを浮かべた。



「…………君がとても一生懸命だったのは、それでなのだね。であれば、ベージが何も失わず、その竜達が君を悲しませたようなことが起こらなければいいのかな」

「…………ふぁい。それと、誤魔化して協力して貰うことになると、伴侶としての良心が痛みますのでこちらも告白してしまいますが、私個人的にも、ベージさんはグラストさんみたいでお気に入りの竜さんでもあるのです………」

「うん。グラストみたいに思っているのだね」



ディノがあまりにも柔らかな微笑みを浮かべたので後ろめたくなってしまい、心の弱い人間はそちらも告白してしまった。

しかし、その説明はなぜか、ディノをより喜ばせたようだ。


ディノもグラストのことは気に入っているようなので、そんなグラストの要素があればと今回の作戦に前向きになってくれたのかもしれない。



(……………あれ、納得してくれたわ………)



思っていなかった効果が生まれてしまい、ネアの伴侶はすっかり落ち着いてしまった。



「ありゃ。噛み合ってないけど合意したぞ…………」

「……………そうか。グラストか」

「あ、こっちも納得したぞ…………」



どうやら、グラストに似ているというのは魔法のキーワードだったようだ。

なぜか、その言葉を聞いたウィリアムの眼差しも柔らかくなる。



(凄い!グラストさんは、そこまでディノやウィリアムさんの心を掴んでいるんだわ………)



愛くるしいクッキーモンスターが大好きだと慕うリーエンベルクの騎士は、さすがの手練れである。

ネアはこんなところで難しい問題から助けてくれたグラストへの感謝を胸に、羽織りものの魔物を引き摺ってベージの立つ寝台の方に近付く。



すると、ネアが魔物達を魔法の言葉で宥めている間に拘束したベージを調べていたらしいグレアムが、顔を上げてにっこり微笑んだ。


魔術拘束されたベージは居心地が悪そうではあったが、頑張ると約束してくれた以上は、大人しく診察を受けてくれていたらしい。



(と言うか、それでも拘束を外さないあたりが、見た目の雰囲気とは違う、グレアムさんらしさというか…………)



その眼差しと微笑みで柔和に思える魔物ではあるが、ネアは海竜の戦で共に過ごした時間を経て、グレアムはなかなかに武闘派であると感じていた。

細やかに交渉を進めるように見せておいて、うんざりしたら力技でばっさり切り捨てるタイプだ。


その辺りは、リーエンベルクのあちこちに残されたお仕置きちびふわ術式などでも、何となく感じられる部分である。




「シェダーさん、ベージさんは…………」

「大丈夫だ。この手の侵食は、…………心や魂が欠損すると進行が早まって手に負えなくなるんだが、ベージはそちらは問題ない」

「ほ、本当ですか?!」

「ああ。俺の魔術を敷くなら、…………何か彼自身の持ち物からの対価は必要になるが、悪変を取り除けるだろう」

「うーん…………。それって、でも対価の部分の損失は出すって事だよね?物によっては、総合的に負けってなると僕の妹の意向に沿わないかもだよ」

「そこは確かにそうだな。……………ベージ、……君の屋敷の祭壇にあるもので、…」



思っていたよりも親しいのか、グレアムにはベージにとっての対価となり得るものに思い当たる品があるらしい。



(祭壇………。氷竜さんには、独自の信仰のようなものがあるのかしら…………)



それも知らなかったことだと目を丸くしたネアだったが、祭壇にあるのは余程大切な物だったのか、グレアムが全てを言い終える前に、ベージの瞳からは分かりやすく光が失われた。




「………まぁ、とても大切なもののようです」

「毛布のようなものなのかな…………」

「そう言えば、竜さんは宝物をお家に持って帰って守る習性があるとエーダリア様が話していましたので、もしかしたら、狐さんのボール箱のようなものかもしれませんね…………」

「ボールかもしれないのだね…………」



リーエンベルクに暮らすようになって、ディノには宝物が沢山出来た。


宝物部屋には仕舞い込まれないものの、毛布やリボンなどの他にも、お気に入りの入浴剤や、厨房の保冷庫の中にあるディノ専用の砂糖菓子などもあり、命にかかわらなくても大切なものがあるということは分かるようになったようだ。




「…………では、一度体を変えて属性を変化させ、そこから悪変を引き剥がす作業が必要だな。擬態は俺の手持ちでどうにかなるが、…………シンターグの水仙か、樹氷の系譜の特殊な鈴蘭が必要になるが、それを手に入れるのに、少しばかり時間がかかるかもしれない…………」

「それはこっちでどうにか出来るよ。ほら、この押し花ノートにあるからさ、ちょうど煎じ薬にしておこうと思ってたところだったんだ」

「…………とんでもないものを持ってるんだな」

「……………あ、これネアのだから」



ノアが手にした押し花ノートを見たグレアムは、なぜか遠い目をしている。

それがネアのものだと知るとゆっくりとこちらを振り向いたので、ネアはふんすと胸を張ってアレクシスから、観賞用兼、迷子になった時の換金用に貰ったのだと自慢しておいた。



「…………煎じ薬を飲ませてから、擬態魔術をかけ、その後に剥離してきた悪変を根気よく削ぎ取ってゆこう」

「完全剥離なら、この笛が使えるかもしれない」



そう伝えたウィリアムに、なぜかグレアムは困ったような顔をする。



「ここにある歌いの葉でも精霊の呪いを解けるし、そこに置かれた月闇の縫い針でも可能だろう。………使えるものが多過ぎるというのも、悩ましいものだな…………」

「僕的には、こっちにある本被りの栞も悪くないと思うし、この…………え?!何でここに、僕が昔作った地下迷宮の鍵があるの?!」

「…………ノア?それは、シカトラームでちょっとした棚の上に生えていた枝に絡まっていたので、綺麗だなと収穫したものでして……」

「わーお。それって収穫じゃなくて拝借だよね………。でも、何でそんなところにあったのかな。シカトラームで落としたってことかぁ…………」



取り敢えずその鍵はとても危険だということで回収されてしまい、むぐぐっとなったネアに対しては、シュタルトの湖水メゾンの美味しい葡萄ジュースを奢ってくれるらしいので、ネアもそれで等価値交換とした。



くつくつと煮えた煎じ薬の香りが漂う頃になれば、あれこれと周囲で動いてくれている魔物達に恐縮してしまったのか、ベージは困ったような顔になってしまっていた。



「世話をかけます。俺にも……………っ、」



そう言いかけてまた酷い頭痛に見舞われたのか、苦しげに顔を歪めるベージの姿に、ネアは胸が苦しくなる。


とは言え今は、この苦痛を取り除いてしまうことは出来ないのだそうだ。



「君は、大人しくしていてくれるだけで構わない。ただ、心の安定が崩れると良くないからな。…………シルハーン、ネアを少しだけ借りてもいいですか?」

「おや、この子をどうするんだい?」

「ベージの心の安定の為、縄を手に持ってベージの見える位置に立っているだけで構いません。宜しいでしょうか?」

「……………わーお」

「……………それなら構わないけれど…………それで効果があるのかい?」

「恐らくはかなり…………」

「うむ。それが助けになるのであれば、お任せ下さい!!」

「やれやれ、俺も騎士達と暮らしたことはあるが、竜種においても、騎士精神というものはなかなかに強いものなんだな………」




そうして、月明かりの花畑で悪変を削ぎ落とす為の地道な治療が始まった。


グレアムが最初に提案した手法の方が最も手早く済ませられるには違いないのだが、その方法にベージが絶望を感じてしまうと、結果として穢れの資質と魂との癒着が深まり、悪変を進化させてしまう。



「だから今回は、君で良かった。ここまで穢れを取り込んでしまっていて、こんなにも悪変が進まずにいられるということは、誰にでも出来ることではないんだ」



そう微笑んだグレアムは、ベージから何と呼べばいいだろうかとこっそり尋ねられ、シェダーという通り名を伝えていた。


対外的には今代の犠牲の魔物の名前もグレアムと周知はされているようなので、グレアムと呼ぶ事にも問題はない筈なのだが、あえてこちらに揃えてくれているのか、もしくは、普段はウィームで暮らすグレアムの偽名で呼んでいるのかもしれない。



「…………それは、俺が幸福な竜だからでしょう。……………っ、…………っく…………。満たされていたからこそ、悔いなく戦い覚悟を決めることが出来る」



目を覚ませば、状態維持をかけた魔術が解けてしまうので悪変は進んでしまう。


ベージは刻々とその体調を悪化させてゆき、呼吸は苦しげになり、額には薄っすらと汗をかいている。

けれどもやはり瞳は澄んだままで、その精神の強靭さはグレアムが言うように驚嘆に値するものなのだろう。



現在、ネアは、花畑の中に置かれた椅子に座るディノを椅子にする形で、手に持った縄をぶんぶん振り回してベージに見えるようにしており、ウィリアムはそんなネア達のすぐ近くで剣を手に立っていた。


これは治療の途中でベージの容態が急変した時の為のもので、決して命を奪うようなことはしないが、 もしものことがあれば、動けなくするくらいのことはして構わないと、ベージ本人からもお願いされていた。


治療そのものにはグレアムがあたり、薬作りを担当したノアが、隣で綺麗に押し花ノートから外した樹氷の系譜の特殊な鈴蘭とやらを煮出し終えると、どこからともなく取り出した陶器のカップにその煎じ薬を注いだ。



ほかほかと湯気を立てている煎じ薬は、ネアの位置からはとても苦そうに見える。



「よし、これでいいかな」

「では、これを飲んでくれるか。体の悪変に対しては強い薬効がある代わり、穢れを剥離させるのにはそれなりの苦痛も伴うだろう。その間の拘束の準備は出来ているから心配しなくていい」

「…………ああ。迷惑をかけるが、宜しく頼む」

「苦痛が落ち着いたところで、擬態魔術をかける。属性が変わる事で剥離が完全になる筈だ。…………が、その頃には君は、………何というか、擬態した獣にも寄せられるだろうな」

「はは、醜態を晒さないといいが…………」




小さくそう笑い、ベージはちらりとこちらを見た。


その眼差しのどこか無防備な清廉さに、ネアはディノの膝の上からよいしょと下りると、心配そうにこちらを見た魔物の三つ編みをしっかりと握った。



「激励しますので、一度だけベージさんの近くに行かせて下さい」

「困ったご主人様だね。でも、君にとってはグラストのような存在なのだから、構わないよ」



ディノが頷いてくれたので、ネアは、なぜかふるふるしているベージの前まで歩いてゆき、先程の距離からは見えなかったその瞳の微かな色の変化にぎくりとした。


綺麗な水色の瞳に赤い絵の具を流したように、瞳の縁の部分がじわりと暗い真紅に染まり始めている。

それに、水色の髪の毛の毛先の一部が銀色がかった黒灰色に変化しているようだ。



「…………ベージさん、ここには頼もしい魔物さん達がたくさんいますから、安心して治療に専念して下さいね。エーダリア様もとても心配されていたので、元気になったら、みんなで快気祝いのご飯会をしましょう!」

「…………ネア様」



苦しげな息を吐き、両腕を拘束された体勢で腰掛けた寝台からこちらを見上げた氷竜の騎士団長は、瞳を潤ませると何だかとても危うい光景とも言えなくもなかったが、ネアを安心させるようにいつもの優しい目で微笑んでくれた。



「…………ええ。あなたの瞳を曇らせることのないよう、必ず克服するとお約束いたしましょう」

「そして、擬態後のちびふわのお世話はお任せ下さい!」

「ネアが、また毛だらけの生き物に浮気する…………」

「まぁ、ちびふわのお世話に手慣れた者が、私以上にいるでしょうか。………シェダーさん?なぜ、ちょっぴりしょんぼりしたのですか…………?」

「………風のウィーミアの世話なら、…………いや、ネアに任せた方が良さそうだな」



ちらりとベージの表情を伺い、グレアムは苦笑してそう言うと、ディノと頷き合ってから、煎じ薬の入った薬のカップを手に取った。


ベージに施される擬態は、ぱたぱたちびふわこと、氷の属性から無理なく離れるようにと、風の亜種のウィーミアが選択されている。




「ネア、少し離れるよ」

「はい…………」



ディノはさっとネアを持ち上げて後退し、ノアは、ネアの大事な収穫物が壊れてしまわないように結界で覆ってくれていた。


ベージがグレアムに介助されて薬を飲む姿は、やはりその無防備さに胸が痛んだ。


やがてその薬湯も残り僅かになれば、かちりと音がしてウィリアムが剣の柄に手をかけ、ネアはディノからしっかりと三つ編みを持たされる。




次の瞬間、絶叫とも咆哮とも言えないような、ひび割れた苦鳴が美しい夜の花畑に響き渡った。



「………っ?!」

「ネア、怖がらなくていいよ。薬が効いている証拠だろう」

「……………ふぁい」



胸が潰れそうになったネアはディノの三つ編みをぎゅっと握り、グレアムが施した拘束魔術がぎちぎちと軋みながらも、苦しみにのたうち回るベージの両腕をしっかりと押さえてくれていることに安堵する。

一番怖いのは、苦しみのあまり自分で自分を傷付けてしまうことなのだ。



踠き苦しむベージの傍らでは、その様子を冷静に見守るグレアムが、小さな術符を手に持っていた。

ベージの足元で散らされた花びらが夜空まで舞い散れば、何とも残酷だが美しくさえ見える不思議な光景となる。




「……………そろそろか」

「うーん、薬効の定着がまだ浅いかな。もう少しだけ待った方が良さそうだ」

「…………ああ、だがあまり消耗させると、悪変が深まる可能性も……」



そんな会話が聞こえてくれば胸が張り裂けそうになり、ネアは先程から手に握り締めていた荒縄が邪魔になり、足元に投げ捨てようと手を動かした。



「…………ありゃ」



するとどうだろう。


苦痛に堪らず暴れていたベージの視線が、はっとしたように縄の動きを見るではないか。



「ネア、その縄を動かしていてくれないか?」

「シェダーさん…………?」

「その、……………彼は竜だからな。縄のようなものを動かされると、目で追いかけてしまう習性があるんだ」

「まぁ!狐さんのボールのようなものですね!!」

「え、竜ってそんな習性あったっけ…………?」



ノアはとても訝しげにしていたが、ネアが猫じゃらしの要領で縄を動かせば、ベージは苦痛から意識が逸れるものか、朦朧としかけた視線で縄を追いかけてくれる。


グレアムの言うように意識がこちらに向くからか、先ほどより苦痛を受け流せているように見えた。




「…………うん。良さそうだね」

「…………ああ」



やがて、すっと近寄ったグレアムが、ベージの肩に小さな紙片を貼り付ける。

すると、ベージにかけられていた拘束魔術の中が空になり、ぽふんと上がった煙の中から、ネアにとってはお馴染みのちびちびふわふわした生き物がぽてんと落ちてきた。



「み、水色ちびふわ!!」



いつもの魔物達のちびふわは白いので、ネアは初めて見る淡い水色のちびふわに、ぱっと笑顔になってしまう。


ネアが駆け寄るよりも早くグレアムがひょいっと抱き上げ、すっかり変わってしまった自身の姿に目をまん丸にしてぶるぶる震える小さな体を、そっと撫でてやっている。




「ベージさん………?」



ネアは、まだ少しだけご主人様と新しい毛皮生物との接触に抵抗を示している魔物を引き連れて側まで行くと、グレアムの手の中で震えている水色のちびふわに、そっと手を伸ばしてみた。


慌てたようにみっと体を丸めた水色のちびふわに、グレアムはくすりと笑うと、抱き上げたちびふわをネアの方に差し出してくれる。



「もう暴れることはないだろうが、まだ悪変の削ぎ落としをしなければだな。抱いていても問題はないが、この姿に慣れていない彼は、混乱してしまうこともあるかもしれない。治療が終わるまでは逃げないようにしてくれるか?」

「はい!ささ、水色ぱたぱたちびふわことベージさんは、こちらに来て下さいね。私が大事に抱っこします!」

「フキュイ…………」

「ベージなんて………」

「…………もしかして、ディノも抱っこしたいのですか?」

「……………しない」



ネアはその後、小さな毛皮動物にされた動揺のあまりにかちこちに緊張してしまうベージが可哀想で、砂糖菓子でちびふわを少しだけ酔わせてしまうことを提案した。

それが承認され、悪変治療中の水色のぱたぱたちびふわは、ほろ酔いで甘えたになりながら、ネアにはペット用のお手入れブラシにしか思えない魔術道具を駆使して悪変部分の削ぎ落としを行われることとなる。



しかし、注意して見ていればさらさらと梳かす度に、水色の毛並みから黒い羽毛のようなものがはらはらと抜け落ちてくるので、これで削ぎ落とし作業になっているのだろう。



(…………お薬で剥離されてしまっているのと、剥ぎ取られたものはその場で壊されているからもう誰かに害を為さないと言うけれど、…………これが穢れなのだわ…………)



ネアには黒い羽にしか見えないのでとても不思議だが、抜け落ちたその羽は全て、ウィリアムが集めると、掌で器用に燃やして灰にしてくれた。



臨時で製作されたカワセミリボンのハーネスをつけられ、フキュイとネアに甘えるちびふわは、そのまま大人しくほろ酔いで最後の治療も終えることが出来た。




「やれやれ、これで俺の資質も回収を終えたな。どこでその資質をアイザックに奪われたか分からないが、今後は用心しよう」

「よし、これで少しだけ効果を上乗せしておけば、エーダリアにあんな顔をさせたゲーテの鼻も明かせるかな…………」

「むむ、ノアが悪巧みをしています………」



グレアムと交代で悪変の削ぎ落としを行なってくれたノアは、使ったブラシをグレアムに返しながら、こちらを見て青紫色の瞳を魔物らしく細める。



「僕だってあの場に居たんだ。僕の大事な君達にあんな顔をさせた以上、あの氷竜達をこのまま引き下がらせはしないよ。試練の後に報酬を受け取るのは魔術の理だからね。あるべき悲劇を回避した時って、特等の魔術を得られる数少ない瞬間なんだよ」



そう教えてくれたノアは、ネアの収穫物を並べたテーブルの中から、先程ウィリアムが効果を教えてくれた小笛を手に取り、何やらウィリアムと内緒話を始める。




「…………仕方がないか。確かにその魔術を扱える者がウィームにいれば、いざという時に力にはなる」

「じゃあ、それで決まりだ。ネア、繋ぎの魔術は切っておくからさ、この笛をベージにあげてもいいかな?」



にんまり微笑んだノアに首を傾げたネアに対し、ノアとウィリアムの密談が聞こえていたものか、グレアムも得心気味に頷いている。



「氷竜の第一王女の特等魔術は、疫病の緩和だったな。ゲーテから、彼女の優位性を奪うということにもなるのか………。ベージのように一族の若者達に外に出る自由を与えるよう主張する者が力を持てば、ウィームの益にもなるだろう」

「……………ベージさんは、どんな魔術を得られるのでしょう?」



そう首を傾げたネアに、こちらも話を聞いていたらしいディノが、交わされた密約の内容を教えてくれる。



「彼が得られるのは、あの笛を核にした祝福にウィリアムが手を貸した、疫病や悪変の治癒に向いた特別なものだよ。元々、氷の系譜の者達は病の緩和や治癒に長けた者が多く生まれる。今回の悪変はウィリアムの資質のものが使われていたこともあって、ベージが得る祝福には、ウィリアムの系譜のものが相応しく、また相性もいいんだ」

「…………まぁ!そうすれば、あの失礼な竜さんはぎゃふんとなります?」

「そりゃ勿論さ。一族の中でゲーテの権力の後ろ盾となっていた能力において、ベージがそれを上回る訳だからね」



にっこり笑ってそう教えてくれたノアに、ネアは膝の上でカワセミリボンに絡まってもがもがしている水色のちびふわを、安堵に満たされた幸せな思いでそっと撫でてやった。


どうも、カワセミリボンに絡まるのが大好きなようなので、後で紐じゃらしなどを作って遊んでやろう。





「今回のお仕事も無事解決しました。ディノ、皆さん、色々と助けていただいて、有難うございます!」



ネアがそう言えば、魔物達はそれぞれにぽかんとし、そう言えばこれは任務の延長線上の治療であったことを漸く思い出したようだ。


ディノやノアは勿論であるし、一見部外者に思われるウィリアムも、本来は自身の資質を使われた悪変の獣によって終焉の予兆が現れたことで、その獣の回収と討伐の為にウィームを訪れているので、きちんと仕事的な理由もあっての滞在である。



(でも、グレアムさんはそうではないから…………)



ネアは、善意で治療に加わってくれたグレアムには、あらためてのお礼をしようとしたが、こちらは友人の為であったからと微笑んで首を振ってくれる。



「それとネア、擬態魔術は昼前には解ける筈だ。もう夜明けも近い時間だから、君も少し休んだ方がいい。……………シルハーン、今回は友人の危険を知らせていただき、有難うございました」

「ネアが困っていたから君に会いに行ったのだけれど、ベージが君の友人でもあったのなら、君を頼って幸いだったよ」




転移で旅立つグレアムを見送り、ネア達もリーエンベルクに帰ることとなった。

ダリルに一報を入れたところ、まだ起きていてくれた書架妖精はとても喜んでくれて、今回の仕事の特別ボーナスが支給されるそうだ。



(あの女の鼻っ柱を折ってやったと喜んでいたから、ゲーテさんとは元々仲が良くないのかしら……………)




帰り際に、ネアは、無事に役目を終えた収穫物を金庫に戻そうとしたが、少しだけ暗い目をしたノアから、危ないものが他にも混ざっていないかを調べるので、半日だけ預けて欲しいと言われてそうすることにした。




「フキュイ………フキュン」

「ふふ、ほろ酔い水色ぱたぱたちびふわも、乙なものです。今回のお仕事では胸が苦しくなることが多かったですが、こうしてご褒美も貰えているので、結果良しとしましょう」

「こんなちびふわなんて…………」

「お部屋に帰ったら、ディノも抱っこしましょうね」

「しないかな……………」

「ネア、念の為に、昼までは俺もそちらの部屋に泊まらせてくれるか?もう何の問題もないとは思うが、竜だからな。もしもの事があるといけないだろう」

「………………ありゃ。やっぱりウィリアムは雑だなぁ…………」




はらはらと、夜風に月光のかけらのような花びらが舞う。



寝台もテーブルも片付けられ、この花畑はまた暫く閉じられるそうだ。

とても美しいところだが、病室のような役目を果たす影絵なので、ネアはまた訪れることがないようにとその美しい情景に祈っておいた。









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[良い点] このエピソードもお気に入りです [一言] 大切な登場人物の生死に関わるとても緊迫したシーンなのに声を出して笑ってしまいます笑
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