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90. 収穫祭の儀式が始まります(本編)



ゴーンゴーンと、どこかで鐘が鳴った。

普段のリーエンベルクでは聞かない鐘の音なので、死者達が上がってくる合図なのだろう。


ごうっと強く吹いた風に、花の終わりを迎えていた秋薔薇の花びらが散る。

それでもまだ、森の向こうの妖精の光はくっきりと強く輝いていた。



リーエンベルクに来たばかりのウィリアムは、あの後簡単な軽食を摂り、やっと落ち着いたようだ。

リーエンベルクの料理人達も、毎回疲れてここにやって来る終焉の魔物をすっかり家族のように思ってくれているものか、とろりと溶けたチーズが美味しそうなホットサンドを手早く作って届けてくれた。



「そろそろ始まる頃だね」



そう呟いたディノがすいと手のひらを広げると、そこに光るような純白の薔薇が現れる。


花びらのふちが透けるような美しいその花を、これもまた魔術錬成した白いお皿の上に乗せると、薔薇が鮮やかな深紫色に変化した。



「ほわ………」



見つめる先でその花びらが、じわじわと黒く染まってゆく。


けれどもまた、ぼうっと淡い金色に光り、紫の部分を取り戻す。



「祝福食いの攻撃は防げているようだよ。おや、……ザルツの大聖堂ごと、音楽の檻に入れたのだね。詠唱に楽器を合わせるのは難しいのだけれど、それを可能とする才能を持つ者がいるのかな」

「音楽で、祝福食いを防いでいるのですか?」

「詠唱と音楽の魔術は、似ているようで成り立ちがかなり違うんだ。教会音楽は、それを可能にする為に詠唱を主として作り上げたものだけれど、それですら、儀式の主軸となる詠唱の時には他の音を重ねないだろう?」

「ええ。あれは、詠唱を際立たせる為だけではなく、音楽と詠唱が違う成り立ちのものだからだったのですね………」



お皿の上の薔薇を見ていると、すうっと意識が吸い込まれるような気がした。


くらりと感じた眩暈にネアがぎくりとすると、椅子になってしっかりと背後から抱き締めてくれているディノが、耳元で大聖堂が見えるよと囁く。



(大聖堂……………?)



確かに、リーエンベルクで聞いている鐘の音に、また違う聖堂の鐘の音が重なる。

天井の高い空間に殷々と響く誰かの声と、管弦楽の旋律。


真っ黒なドレスを着てバイオリンを弾く美しい妖精の姿が見えた気がして目を凝らすと、そこはもう壮麗な聖堂の中だった。



焚きしめた香の匂いと、白い煙の筋。

黒曜石のような重厚な色調の石材と金を使った大聖堂は、ずしりと重い荘厳さでそこに広がっていた。


ローズマリーの小枝で水を払い、祭壇には艶々とした真っ赤な林檎を乗せた銀のお盆と、黒いリボンで束ねた小麦の束がある。


チリーンと鳴らされたのは、水晶のベルだろうか。

祭壇に立ち、金色の刺繍が鈍く光るフードを下ろしたのはエーダリアだ。


大聖堂の中の燭台の火を映した刺繍の結晶石と、オリーブ色に瑠璃色の星を浮かべたようにも見える瞳。

星空を紡いだ様な銀髪に、契約の魔物の青紫色をした髪飾りがきらりと光る。



そして、素晴らしい詠唱が始まった。



肩を寄せ合って震える若い夫婦の腕には、黒布のおくるみに包まれた金髪の巻き毛の可愛らしい赤ん坊がしっかりと抱き締められている。


まだ生まれて二ヶ月程度だと思うと、髪の毛は早めにしっかりと生えたのか、或いは人外者達に愛される資質のある美しい子供とは最初からこんな風なのかもしれない。



(あ………!)



ステンドグラスの窓の向こうや、天井の隅、祭壇の下などからもわもわと黒い影が立ち上がりった。

息を詰めて目を瞠ったネアは、エーダリアの背後にゆらりと立った、孔雀色の髪の美しい妖精の姿にホッと胸を撫で下ろした。


その妖精のすらりと抜かれた剣の冴え冴えとした銀色の輝きと呼応するように、ばさりとケープの裾を揺らしたのは、助祭の位置に立った黒衣の騎士だ。



(ノアだわ………!)



こちらは青白く燃える本のようなものを持っており、影があちこちで立ち上がる度に、破り取った頁にふっと息を吐きかけている。

するとその紙片が灰になって散らばり、立ち上がった影がぎゃあっと悲鳴をあげて霧散してゆく。



周囲を見回すと、そこかしこで祟りもの達の襲撃が始まっていた。



最も激しい戦闘が行われているのは、儀式に参加する者達の席を囲むように立てられた銀水晶の柵の向こう側だ。


そこでは黒い影ではなく、実体化した黒い毛皮の熊のような獣達とザルツの騎士達が戦っている。

剣で切り裂かれた獣が悲鳴を上げ、鋭い爪で腕を傷付けられた騎士が後退する。


その中で一際鮮やかな剣技を見せている美麗な騎士は、後ろ姿しか見えないがリーナだろう。


ずしんと足踏みした途端にざあっと金色の術式陣が床に流れ、影達を粉々にしているのは光の粒子を纏うような神々しさの黄金の獅子だ。


よく見れば、ザルツの貴族達もそれぞれに影の撃退に手を貸し、あちこちで祟りものを退ける為の新しい魔術が幾つも目を覚ましてゆく。


注意深く観察していると、やはり祭壇のエーダリアを狙う者達の影が一際濃く、ヒルドとノアが排除している影達は他のものよりもずっと大きい。



ゴーンゴーンとまた鐘の音が鳴った。


じゃん、と音を揃えて鳴らし、それまで、騎士達に囲まれて青白い顔で待機していたオーケストラの楽団員達が演奏を始める。

すると、柵の外側にいた獣達の攻撃が目に見えて弱まった。



エーダリアはその中で一人、表情を崩すことなく淡々と詠唱を続けている。


どこか孤独で気高いその姿が、ふいに翳った。




「……………っ、」



ネアは鋭く息を吸い、もう一度ディノからぎゅっと抱き締めて貰う。


すっぽりと頭を突っ込んでザルツの聖堂を覗き込んでいるような不思議な感覚の中で、しっかりと後ろから抱き締めてくれているディノは近くに感じるが、ウィリアムはどこにいるのか分からない。


そして、そのザルツの大聖堂は今や、天井いっぱいに浮かび上がった巨大な獣がゆっくりと覆い被さり飲み込もうとしていた。



(エーダリア様達が………!)




「ディノ!」

「これは、貪食の祟りものというよりは、呪いの影だね。ノアベルトが対処するだろう」



そう言われて慌ててノアを見ると、エーダリアと同じ銀髪に擬態した黒衣の騎士は、唇の端を僅かに持ち上げ、天井を見上げてひどく冷ややかに微笑んでいた。


暗く暗く輝くような魔物らしい美貌は、かつて海竜の戦で見た表情に似ている。

自分の守護するべきものを脅かされた魔物は、見上げた天井の獣をぞっとする程美しい微笑みで見ていた。


ゆっくりと持ち上げられた指先は美しく、そこから見えない魔術が広がるかのように、天井から体を引き摺り出し聖堂に集まった人々に覆い被さろうとしていた獣がぐっと押し戻されてゆく。


苦悶の表情を浮かべて暴れる獣に対して、ノアの眼差しは冷たく静謐だ。


内側から光を孕むような銀色の髪は、時折本来の塩の魔物の髪の色を透かすような暗い眩しさで、髪に結んだリボンが、はたはたと魔術の風に揺れていた。



「す、凄いです!」

「呪いの軸になっているものを排除すれば、他の祟り者達も落ち着くだろう。………あれは恐らく、だいぶ壊れてしまっているけれど、欠落の精霊ではないかな。こうして現れたという事は、禁を犯した人間達の血筋に恨みがあったのだろう」

「もしかして、………あの天井の大きな影が今回の事を仕組んだのですか?」


そう尋ねたネアに、ディノは小さく頷く。


「顕現の様子からすると、あれは魔術の成就だ」

「…………成就」

「約束から生まれた獣だから、この代で大きな障りがある事は最初から予言されていたのではないかな。人間達が対策を講じていなかったのは、予言が受け継がれていなかったのか、その時の精霊の言葉を理解出来たものがいなかったのだろう」

「………そうだったのですね…………」

「ウィリアム、これは用意されていた報復のようだ。クロウウィンの魔術のあちこちに亀裂があるのも、長い月日をかけて根を張り育てられた呪いだったからだろう」



現れた黒い影とその出現状況だけでここまで読み解けてしまうのも凄いが、どうやら今回の一件は、問題になった子爵家にかけられた呪いが、長い年月をかけて結ばれたその顛末であったらしい。



欠落の精霊は、自身も多くのものが欠けているので大きな災いを及ぼすことはないが、愛情豊かで執念深く、慎重で頭のいい精霊なのだという。



「終わったようだね」

「……………ふぁ。………薔薇が………」



大聖堂の天井には罅が入ってしまったようだが、無事に呪いの根源を絶てた現場から顔を上げたネアは、いつものリーエンベルクの会食堂にいたことを思い出して目を瞬いた。


テーブルの上の薔薇はふっくらと美しく咲き誇っており、花びらのどこにも黒い影は見当たらない。



暗く鮮やかな夢を見ていたような不思議な酩酊感に、ネアは、まだどきどきしている胸に手を当てる。

大事な家族はみんな無事だったので、胸の中に残ったのは、うぉんと吠えた巨大な獣の姿と、ざわつくような高揚ばかりであった。



「まるでその場にいるように、向こう側が見えました………」

「先程、ノアベルトと場を繋いでおいたんだ。向こうでの襲撃がなかった場合は、こちらも用心しなければいけないからね」

「天井の精霊さんは、最後にきゅっと小さくなってしまいましたが、滅びてしまったのでしょうか?」



ネアがそう尋ねると、ディノは短く首を振った。

こんな話をしてくれる時のディノは、長くを生きた高位のものという感じがして、ネアはこっそり魔物らしい酷薄さの伴侶に見惚れてしまう。


膝の上から振り返って見上げる近さなので、目元に影を落とす真珠色の睫毛に、なぜだかとても触れてみたいような気がして慌てて指先を握り込んだ。



「あの精霊の本体は、ずいぶん昔に滅びてしまっている。自らの身を呪いに置き換えてあの血筋に残したようだから、呪いの全てを完全に壊してしまうのは難しいだろう。長い間、気付かれずに放置され過ぎてしまっているから、後は残された呪いの残滓を祭り上げて鎮めてゆくしかないね」



そう言われたネアはふと、いつだったかウィリアムから聞いた水仙の呪いで滅びた村のことを思い出した。


その場で噛み付くような呪いではなく、人知れず残っていた古い呪いが目を覚ますこともあるのだろう。

ネアが読んでいたお伽話の中でも、そうして訪れた古い災いと戦う主人公たちがいた。



「古いものは、そう簡単には取り除けないのですね………」

「根を深くまで下ろしているからね。ザルツ領として、あの精霊の呪いを一刻も早く完全に取り除きたいのであれば、あの一族を絶やすしかないのだろう」

「………むぐ」

「血に染み込んだ呪いや災いは、封じ難く蘇り易い。最もいいのはその呪いを生み出した者か、呪われた者が自ら封じることなのだけれど、人間についた呪いは呪われた当人が生き残っていることが少ないので、全てを引き剥がすのが難しいんだ」



多くの場合、かけられた呪いを正しく解けるのは、かけた者とかけられた者だけである。


当事者が解けなかった呪いは、解術をしたと言っても正式な手法ではなく、何らかの条件の下の管理であったり、散らした筈の霧が再び凝るように戻ってきてしまうこともあるのだ。



「やれやれ、欠落の精霊ということは、あの一族の女性の誰かが、精霊との誓いを破ったんだろうな」



その言葉に首を傾げたネアに、ウィリアムが欠落の精霊は男性しかいないのだと教えてくれた。


彼等は欠落に属する者ながらも一様に目を惹く美貌を持ち、女性達の前に現れると、自然に距離を詰めて苦悩に同調する。


美しいが決して完璧ではない男性にそんな風に寄り添われることで、心を傾けてしまう女性は多い。

女性が逃げ出さない限りは愛に尽くす精霊だが、共に過ごす限り、その女性達は多くを得ることも成功することも出来ないのだそうだ。


なので、稀に欠落の精霊であっても削り落とせない程の才能や自我を持つ女性が、心を寄せた男性が欠落の精霊だと知らずとも、この恋人との生活には星が見えないと、伴侶や恋人の誓いを破り、彼等から離れて行くことがある。


欠落を齎す恋人から逃れられれば問題はないが、逃げた先で追いつかれてしまい報復を受けると、今回のような事件になってしまうらしい。



「愛情ばかりは深い上に、精霊だからな。自分を裏切った恋人への報復は壮絶なものになる」

「…………むむぅ。何となく想像が出来てしまいました。さすが精霊さんです……………」

「特に、ザルツのような芸術に秀でた者達が多く育つ地で縁を結ばれると、破綻した時の根が深いんだ」

「まぁ、土地の影響も受けるのですか?」

「ああ。出会いの要因が才能への興味である確率が高く、そのようなものは、望まずとも残された呪いに栄養を与え続けてしまう。音楽や絵画は、与えようとして与えなくても、絵を見たり音楽を聴いたりして取り込めるだろう?」


言われてみればその通りだ。

芸を極める者達は、日々の研鑽を重ねる。

それを糧にしてしまうのだから、呪われる側は堪らないだろう。


「届けるつもりはなくても、注ぎ続けてしまうような事になるのですね……………。呪いに気付かないままに、自分達を苦しめるものに栄養を与えていたかもしれないのだと思うとぞくりとしました………」

「ザルツの貴族というからには、当人や親族の誰かに、音楽の心得は必ずあるだろう。音楽に憑く呪いであれば、魔術的な階位も高いからな……」



芸術の分野には魔術的な要素を持つものが多いが、その中でも最も魔術と相性がいいのが舞踏と音楽である。


そのどちらも、目か耳が生きていれば無尽蔵に恩恵を受けられるので、華やかで美しい様相の一方で、呪いが育ちやすい場所でもあるのだった。



なお、今回の事件がなぜ起きたのかは紐解けても、その影響は簡単には抜け落ちないのだそうだ。


ウィームという土地には今、欠落の精霊の恐らくは数百年に及ぶ呪いの成就の余波がさざ波を立てている。

同じ名前を持つ土地いっぱいにその波紋が広がり、呪いそのものが押さえ込まれた後も、波が静まるまで足元は不安定なままだ。


今以上の障りが出る事はないらしいが、引き続き注意が必要なのは間違いない。




「特別に階位の高い精霊ではなかったようだね」


無事に儀式を終えたノアと話をしたディノが、そう教えてくれる。


クロウウィンの儀式が終わり、物陰などに残っていた貪食の祟り者達も無事に全て駆除された。

後は、問題の子供が無事に祝福を得られればいいのだが、こちらもちらほらと妖精や精霊達が集まり始めているので、良い報告が聞けそうだという。



「階位が高くなくても、あんな事が出来てしまうのですか?」

「問題になった子爵家は、代々青銅のバイオリンという著名な音楽家を排出してきた一族だったようだ。彼等は自分の手で、長い時間をかけて呪いを育ててしまったのだろう」



著名な音楽家の一族だからこそ、子爵家の守護は分厚かった筈だった。


しかし、今回の呪いは、そんな守護の隙間を縫うようにして、クロウウィンの禁忌を犯すように誘導している。



「というより、その方法でしか崩せなかったのかもしれないな。子を成すような行為は、愛情からのものだ。どれだけ守護が頑強でも、その場に行為を諫めるような者達がいなければ防ぎようがない」



ウィリアムの声が冷ややかなのは、それを防げなかった人間達に向けた厳しさなのか、或いは望まない仕事を強いたかもしれない欠落の精霊へなのか。


ネアは、優しい終焉の魔物が心を痛めるような顛末にならなかったことに感謝し、きっと容易くはないであろう人生を送る子供が、少しでも良い祝福を得られればと思う。


それは、見知らぬ子供への声援ではなく、人間らしい身勝手さで、ウィリアムが望まない悲劇に巻き込まれないようにと願うからだ。



(……………あれ?)



ネアはふと、とても大切な事を忘れているような気がした。


それはまるで、視線の先の文字に焦点が合わず、あるべきものを正しい形で認識出来てないような、どこかむず痒い違和感がちくちくする。


ギリギリと眉を寄せていると、そんなネアの様子に気付いたディノが、ひょいと伴侶の体を持ち上げて横向きにし、顔を見合わせてお喋り出来るようにしてくれた。



「ネア、影響は残るにせよ、夕方からの外出は問題なさそうだよ」

「………ふぎゅ。楽しみにしていた美術館や、キャラメル林檎の屋台にも行けます?」



事態が鎮静化したようなので、ネアは、漸くそんな我が儘が言えるようになった。

微笑んで頷いてくれたディノに、ほうっと安堵の息を吐いたところで、窓の方を見たネアは目を丸くする。



「ネア?」

「ディノ、森の木に……………にゃわわしたものが………」

「え……………」



ふるふると指で示した方を見たディノも、これは予想外だったのかぴしりと固まっている。

同時に振り向いたウィリアムも、あまりの惨状に呆然と目を瞠っていた。



ネア達の視線の先で、禁足地の森の木々にはこれでもかと赤い紐のようなものが絡まっている。

木から木へと伸びている赤い紐には、曇天の照度でもきらきら光る、金水晶の鈴がぶら下がっているようだ。


しかし周囲には、その紐をかけたと思われる生き物の姿はなく、先程まで光っていた森の奥は、いつの間にか薄暗くなっていた。



「……………凄いな。何の系譜の仕業かも分からない」

「赤い紐なのだね………」

「森の木が大量ににゃわられています………」

「ウィリアムの言うように、クロウウィンの障りで土地の魔術が波打っているからか、あの紐からは系譜の魔術が感じられないね」



たいへん異様な光景であったが、ネア達は、森の異変を暫し静観することにした。



見たところ実害がなさそうであったのと、害があるとしても何だか分からずに触れる方が危ういと判断したからで、見なかった事にしたかった訳ではない。


騎士棟には連絡を入れて共有しておき、系譜の魔術も分からないくらいのものであるので、暫く様子を見ている間に消えてくれないかなと楽観視してみることにしたのだ。




「むぐぅ。消えません。寧ろ増えているのでは………」

「増えているようだね………」

「見ていた筈なのに、いつの間に増えたんだ………?」



しかし、残念ながら半刻程経っても赤い紐は消えなかった。


それどころか、逆に増えている。



幸い、エーダリア達からは無事にこちらに戻ったという一報が入り、安心したネアは昼食前なのに小さな栗のお菓子を食べてしまった。


本来なら、多少の影響は残るにせよもう憂いもなく過ごせる筈だというのに、ネア達の視線の先には赤い紐が絡まった不思議な光景が広がっている。


このまま静観し続けて昼食に入るか、それとも森に打って出るべきか、とても悩ましい局面であった。



「ディノ、あの絡まっている紐を鋏でちょきんとやってしまったら、まずいのでしょうか?」

「どうして現れたのか分からないから、切るのはやめようか」

「むぐ。得体が知れないのも気持ち悪いのですが、だんだん、あの絡まり方にむしゃくしゃしてきました」

「ネア、切らないようにしてくれ。縁の結びの系譜の糸だと取り返しのつかないことになる。後は、く…」

「みぎゃ!」


勘のいい人間は天敵の名前の気配に敏感に反応し、悲鳴を上げると、慌ててディノの影に隠れる。


背中にへばりつかれた魔物は目元を染めて恥じらっていたが、さすがにここで弱る訳にはいかないと思っているのか健気に耐えてくれた。



「………やはり、気になるな。シルハーン、近付いて様子を見てきます」

「うん。………ただ、クロウウィンの呪いの余波で魔術基盤が揺らいでいるのかもしれないが、やはり魔術の気配を感じないんだ。………奇妙だね」

「………………まさか、」



そのディノの言葉に、ウィリアムがはっと息を飲んだ。


隣の椅子の上に置いてあった軍帽を被り、ゆっくりと立ち上がる。

ひたりと窓の外を見据えた白金の瞳は、刃物のような鋭利な光を帯びていた。



「………シルハーン、あの異変は、クロウウィンのもうひと片かもしれません。エーダリア達に伝えて貰えますか?俺は外を見てきます」

「………成る程。武器の子供達ならそのような事もあるだろう。となると、ザルツの顛末も舵取りの内かもしれないね」



困惑して目を瞬くネアの横で、魔物達は何やらひやりとするようなやり取りを続けている。

その不穏さに、ネアは魔物の椅子に座って浮いている爪先をぎゅっと丸めた。



「ネア、少し出てくるが、ここでシルハーンと待っていてくれるか?」

「…………ふぁい。せっかく終わったと思っていたのに、まだ良くないものがいるのでしょうか?」

「クロウウィンの子供は、二翼なんだ。クロウウィンに育まれた子供と、クロウウィンに生まれた子供。より禁忌とされるのは前者だが、後者も禁忌には違いない。………収穫や豊穣に背く者としての資質を持ち、死を生み出す者として戦ごとや暗殺に長けた子供に育つことがある」

「あ、………!」



クロウウィンの障りを受けた魔術の痕跡と聞き、ネアは何か大切な事を忘れているような気がしていた。



「………私が最初に教えて貰ったのは、そちらのお子さんの事でした。確か、武勲を立てることを願って、家督を継がない子供を敢えてそのようにする人達もいるのですよね?」

「ああ。だが、それも禁忌だ。もし森の紐がクロウウィンに均された魔術なら、ネアが最初に懸念していたように、リーエンベルクやウィームを狙った計略である可能性も高い」



不安に胸がぎゅっとなってしまい眉を下げたネアに、柔らかく微笑んだウィリアムが大きな手をそっと頭の上にのせてくれる。



「心配しなくていい。こちらの相手であれば、俺の得意な分野だ。悪いものは壊してしまおうな」

「………怪我をしたら困るので、きりんさんを……ほわ、ウィリアムさんが逃げました……………」



ネアは、万が一の事があっては困るからと武器を渡そうとしただけなのに、終焉の魔物はばさりと翻ったケープの残像が残る程に素早く身を翻し、あっという間に部屋を出て行ってしまった。


ネアの提案に気付かなかったかのように部屋を出たが、ネアは、ウィリアムがしっかりとこちらの手元を見た瞬間を確認していた。



「ふぎゅ。危ないと困るので、持って行って欲しかったのです」

「………ご主人様」

「ディノは、私から離れないようにして下さいね。襲撃犯が来たら、きりんさんで一撃です!」

「ネア、危ないから私から離れないようにね。ノアベルトには伝えてあるから、エーダリア達も護衛を増やすだろう」

「むむ、いつの間にかノアともお話ししてくれたのですね。そしてなぜ、持ち上げられたのでしょう。これでは、悪者からディノを守れません」





それから暫くして、ウィリアムが部屋に戻ってきた。

案の定、森の異変は異能使いの襲撃者が構築しているものだったらしい。


ウィリアムが捕縛した人物は、あの赤い紐が見えていないと思って準備を重ねていたようで、土地の魔術基盤に罠を侵食させ、リーエンベルクにエーダリア達が帰るときに害を為す仕組みだった事が判明した。



「紐を隠すのを忘れてしまったのですか?」

「と言うより、ウィームの禁足地の森の力を見誤ったんだな。あの紐は、森が魔術侵食を嫌がって、かけられた魔術を紐状にして隔離していたんだ。森が無力化したものだからこそ、あまり魔術を感じなかったんだろう」

「森さんが、抵抗してくれていたのですね………」

「あのままでも、エーダリアに害を成す事は出来なかっただろうが、侵食を受け続けた森が荒れる可能性があったから、この段階で排除出来て良かった」

「まさかそれは、ハシバミの木的な………」




どちらにせよ、襲撃者はウィリアムが無力化してしまった。


ダリルに引き渡され、今後はどこから派遣された者なのかの調査が行われることになる。

とは言えまだ油断は出来ず、引き続きエーダリア達は警戒を強めるそうだ。



ネアは、異変を教えてくれていたらしい禁足地の森を窓から見たが、赤い紐はもう、どこにも見えなかった。







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