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歓迎の食卓と窓辺のお化け



すっかり葉の落ちてしまった並木道と、これからの季節こそ青白い葉を美しく艶めかせる針葉樹の並び。

しゃらしゃらと流れる水音は噴水に繋がっていて、石畳の間にはピンク色の花をつけた下草が茂る。



(あ、団栗だわ…………)



どこかの妖精の落し物を見付けて目を止めると、物陰からしゅばっと走ってきたもわもわの毛玉兎が、慌ててその団栗を拾い上げた。

持ち手を首にかけたちびこい籠の中には、同じような団栗が沢山詰め込まれている。


しかし、背中側にかけてしまった籠に団栗を戻そうとした毛玉兎は、手が届かなくてじたばたしているので、ネアはしゃがみこむとそっと手を差し出してみた。



「お手伝いしましょうか?勿論、対価を取ったりはしないので、安心して下さいね」

「ムキュル」

「はい。この団栗を、背中の籠に入れれば良いのですね?」

「ムキュ」

「入りましたよ。きゅっと嵌りましたので、もう落ちないと思います」

「ムキュル!!」



ちびこい手でおずおずと団栗を差し出した毛玉兎は、籠に団栗を戻して貰って嬉しかったようだ。

お尻付近にあった尻尾とおぼしきもわもわをふりふりして、またしゅばっと物陰に消えてしまう。



「愛くるしさに幸せを貰いました」

「…………毛が多い生き物なんて」

「ディノ、あの兎さんもウィームの住人なのでしょう。ご主人様は、年に一回くらいは無償で善意を振り撒き、素晴らしい人間度を維持したいのです」

「それは、維持しなければならないのかい?」

「あら、年に一度の奉仕で維持出来る、とても善良な仕組みなのですよ?でも、もう一つくらい重ねておいてもいいので、後でディノに体当たりしてしまうかもしれません」

「ご主人様!」




死者の日を控えたウィームでは、街のそこかしこで死者の日用の歓迎セットが売られている。


玄関口に焚く香や蝋燭、死者用の味付けの薄い食事の為の調味料や、家の者達や死者が戸口で靴底の汚れを落とすためのブラシなど。


特に死者を初めて迎える家庭などでは、伝え聞いて備えておいても意外に忘れてしまうものが多く、このセットは領民達にとても重宝されていた。


親の代では家に死者を迎えていても、いざ自分が主導するとなると思い出せない小さな道具などはかなりあり、禁則事項を犯してしまうと死者は早々に死者の国に帰る羽目になってしまう。


死者の日のしきたりは、形骸的な儀式ではなく必要不可欠な作法が多い。

仕損じればやっと再会出来た家族と共に過ごせなくなるのだから、生者達も必死なのだった。



(死者になった人と、死者の日にずっと会える訳ではないから)



死者達は死者の国で少しずつ魂を漂白してゆき、転生の為の準備をする。

ごく稀に欠け残りの記憶を持つ者も存在するが、ゆっくりと生前の色を薄めてゆく過程で、死者達は地上に出てこなくなり、やがて新しい命に転じるのだ。



エーダリアは最近、死者の国の友人からのカードの返事が途切れがちになって来たと、寂しそうに微笑んでいた。


決して幸福とは言えない顛末を迎えたその歌乞いが、新しい誕生に向かうのは喜ばしいことだと理解しているのに、それでも別れを惜しんでしまうものなのだなと呟いたエーダリアは、死者の日に何を思うのだろう。



ネアはいつも、その日になると、瞼の裏の暗闇に現れる、死者達が並ぶ劇場を思う。

真っ黒な車の影と、一人きりになってから、名前の由来となった女神の森を訪れた日のことも。


あの黒い車を恋しいとは思わないが、全くその影を見なくなってしまうと、劇場にいた人達や、車に乗っていた人達はどこへ行ってしまったのだろうと考える事がある。



(…………あれは、不安が見せるただの夢だった)



そうに違いないけれど、だとしてもそこには、ネアの家族と言える人達がいたのだから。


だからもし、ネアが見た最後の夢の中で、黒い車をダナエがぺしゃんこにしてくれたのなら、そこに閉じ込められていた人達はこの世界の死者の国に行けたりはしないだろうか。



(死者の国には妖精で光る森はないけれど、優しい墓犬さんがいて、この世界の不思議も少しは煌めいている筈だから…………)



ネアの世界の、神様に見守られていると言われながらもどこにも行けない無機質な死の向こう側などではなく、こちらの世界のどこかで命の輪の中に取り込まれてくれれば、きっといつかは人ならざる者に溢れた美しい世界を見られるだろう。



(私だけが幸せになるのではなく、……………みんなもそうしてこちら側に入れたらいいのに……………)



そんな都合のいい事を考えてしまう人間は、死者の日に姿を見せる死者達の向こう側に、時々目を凝らしてしまう。



あの日から。

あの日から、ずっと。



ネアにとってのこちらの世界の死者の在り方は、羨望であるだけでなく、そんな都合のいい願いが叶う筈もないのだけれど、無残に失われた願いをどこかでこっそり抱き締めてくれているかもしれない、御伽噺のようなものなのだ。




「ネア、」


ふつりと落ちた温度が頬に触れて、ネアは目を瞬いた。


見上げると、ネアの考えている事など全て見透かしたような美しい魔物が、はっとする程に優しい目をしてこちらを見ている。


頬に落ちた口づけの温度に指先で触れ、ネアは、とっておきの宝物な魔物にそっと寄り添う。



「考え事かい?」

「……………ええ。私が、………以前はよく見ていた黒い車の怖い夢の話を覚えていますか?」

「うん。………また見てしまったのかい?」

「いえ、あの日から見なくなったからこそ、あの夢の中に囚われていた私の家族が、ぱちんと檻が弾けて自由になるようにして、こちらの世界の魂の輪に混ざってくれればいいのにと考えていたんです」

「………そうすれば、また会えるからかな」



その声はとても静かで、だからネアは沢山の事を考える。



(もう一度、家族に会いたい……………)



会いたくて会いたくて、死にたくて堪らなくなる。

けれどもその寂しさや愛おしさはもう、この寂しがりやな魔物が埋めてくれたのだ。


であるのなら、ネアの孤独を癒す為だけに、とうに失われた場所に大切な人達を引き摺り戻すのではなく、もっと真っさらに生まれ直してこの世界を見て貰うのもいいのかもしれない。



「また会いたいとずっと思ってきましたが………、ネアハーレイの人生がこの世界の入り口までの区切りとするのなら、私の家族にも、私のように新しい幸せを得て欲しいと思います。…………もう会えなくてもいいので、この世界で生まれ直して、私の大好きな美しい世界で幸せになってくれればいいのにと、………そんな事を考えてしまうんです」

「会えなくても、いいのかい?」

「………上手に言葉に出来ませんが、会う必要がないと考えている訳ではないのですよ?………でも、もうそれでいいのだと思います。私はリーエンベルクで暮らしているディノの伴侶で、こうして大切な魔物が一緒にいてくれるので、もう寂しくはありませんから」

「ネア………」

「寂しくなくなった私はとても優しくなれるので、無残に壊れてしまったところに大切な人達を呼び戻す必要もなくなりました。だって、ディノはずっと私の側にいてくれるのでしょう?」



そう微笑んだネアに、魔物はすりりっと頬を寄せた。

甘えるようで慈しむようなその仕草には、狭量さを常とする、魔物らしい男性的な満足を燻らせた老獪さもひたりと滲む。



「勿論、ずっと君の側にいるよ」

「それなら、私の大事な伴侶に、今夜は紅茶のシフォンケーキを焼いてもいいですか?」

「ずるい…………」

「焼きたてのほかほかのものに、クリームを添えていただきましょうね。約束ですよ?」

「可愛い…………。約束してくる……………」




死者の日について考えると、そこにはきっと、過去や未来が沢山散らばっているのだろう。



ネアは、目元を染めて恥じらっている魔物を連れて、ウィームの市場に入った。


すると、市場の中もまた、そこかしこに死者の日に備える為の品物が並んでいる。

商店主達の装いも、ちらほらと黒い服装が目立ち始めていた。



「ディノ、美味しいお迎えお料理セットが売られていますよ」

「美味しいお迎え………」



市場の特設コーナーに並ぶのは、見た目はとても美味しそうなお惣菜セットだが、美味しそうに盛り付けられた料理には味が殆どないことを、ネアは身をもって知っている。


体験済みの為に何となく親近感を覚えてしまうのだが、味を思い出すと身震いしてしまうくらいで、決してもう一度食べたいとは思わない。



「…………む、むぐ。あの海鮮なおまんじゅう的な物体は、いただいた経験があります。スポンジゴムゴムでしたので、生きている限りは二度と手を出そうとは思いません………」

「ずっと食べなくていいんじゃないかな」

「ディノ、帰ったらお夜食で、マロンクリームのおまんじゅうを半分こして食べましょうね。いつもこの時期にこそ、あの日の喜びを思い出して食べたくなるので、今年は取っておいたのですよ」

「うん。今年は残しておいたのだね。シフォンケーキと両方食べてしまうのかい?」

「…………むぐぅ。で、では、晩餐のパンを控えめにします。そしておまんじゅうは、四等分でもいいかもしれません……………」



ネアが死者の国に落とされてしまった時、迎えに来てくれたディノが持っていたマロンクリームのおまんじゅうの美味しさは、今でも鮮明に思い出す事が出来る。


そんな思い出の味のおまんじゅうも今夜食べたいので、大事なものを大事に出来る喜びに浸る為に既に焼くと決めてしまった紅茶のシフォンケーキとは同じ甘いものだが、今夜ばかりは共存して貰うしかあるまい。



(不思議な程に暗くて、けれども奇妙な静けさのある場所だったな……………)




蝕を経験してからは一番恐ろしい事件ではなくなったが、今でも、死者の国の家で過ごした時間を夢に見ることはある。


そんな時に必ず思うのは、片目を損なっても駆け付けてくれた大事な伴侶の姿で、マロンクリームのおまんじゅうへの思いは、その時の安堵とも結び付いているらしい。


なお、一緒にいてくれたウィリアムもとても頼もしかったが、恐怖の地下室の封印を解いてしまったことで若干の減点がある。




「どうですか?………武器狩りが始まりそうな気配はあります?」

「ウィームが起点になる事はないだろうけれど、まだのようだね。この様子だと、開戦は収穫祭の後になるかもしれないよ」

「クロウウィンは、死者さん達が折角帰ってくる日なので、出来ればそれ以降が望ましいですよね。当日には、美味しい食べ物の屋台や飲み物も売られていますし………」

「ご主人様…………」




本日、ネア達がこうして街に出ているのは、武器狩りという魔術儀式に備えての見回りも兼ねてのことであった。



力のないものは名前を呼ぶ事も出来ないとある魔術書の出現と共に始まる、銘ある武器を奪い合う荒々しい儀式は、武器狩りと呼ばれるのだそうだ。



武器狩りが始まってからの一週間は、夜紡ぎの剣を持っているネアはあまり外出をしない方が良いらしく、そんな自宅待機期間に備えての買い物なども、出来れば今日中にしてしまおうという算段でもあった。


近く迫った死者の日、今年は特別な儀式に参加するエーダリア達を含め、リーエンベルクは朝から忙しくなるので、その直後に武器狩りが始まってしまうと買い物に行っている余裕はなくなる。



折角ここで、見回り兼買い物で自由に街を歩ける時間を貰えたのだ。

決して無駄にするまいと、ネアは、鋭い目で市場を見回した。



(死者の日のお掃除セットに、死者の日クッキー、墓犬さんのキーホルダー…………)



この時期のウィームの市場には、そんな観光客用のお土産も沢山売られており、本物の死者に再会出来るこの世界の死者の日は賑やかだ。


ただし、帰って来て欲しくない死者に投げつける為の南瓜なども売られているあたりが、優しいばかりではない世界という感じもする。



「ディノ、今年は黒南瓜もあるようですよ」

「……………より硬いのだね」

「しつこい死者をこれで撃退と書かれていますが、そこまでして撃退されてしまう死者さんも少しお気の毒な気がしますね………」



そんな黒南瓜の売り場には、どこか厳しい眼差しをした老齢の白髪混じりなご婦人がおり、黒南瓜をなんと三個も買ってゆくようだ。


ネア達がふるふるしながら見ていると、売り場の女性と、今年もあの浮気夫を撃退してやると話しているので、どうしても死者の国に追い返したい事情がやはり生者にもあるのだろう。



「…………ご主人の退職後にのんびり夫婦で過ごそうと思っていたところ、退職金を持って若い浮気相手のお嬢さんと逃げたそのご主人を、奥様は南瓜で追い返すようですね」

「浮気をしてしまったのだね………」

「あら、じっとりした目でこちらを見ていますが、私は浮気をしてディノを置いていってしまったりはしませんよ?老後は、ディノとあの素敵なお家とリーエンベルクを行き来しながらのんびり暮らしたいです」

「ネアはこのままでいいかな…………」



少し頑固な目をしてそう呟いた魔物に、ネアは微笑んだ。


長い時間を生きる魔物にとって、伴侶の時間が斜陽の後半に差し掛かるという想像は怖いものなのだろう。

持たされた三つ編みをにぎにぎしてやれば、甘えるように体を寄せた魔物に軽く体当たりしてやる。



(ディノ本人やノアから、ディノの伴侶になって寿命が延びたような事を聞いてはいるけれど、それでも私の寿命はきっと、魔物にとってはとても短い時間なのだろう)



ネアは、こんな風に死者の日を思う時だからこそ、今度は未来の事を考えた。



いつかこの魔物が一人きりにならないようにと思って家族の輪を広げてきたが、輪が広がる前よりもずっと、ネア自身の寂しさはぐっと増してしまった。


あまり長くを生きない人間という種族の身勝手さで、エーダリア達がいなくなってからも生きてゆくのは怖いと思うのに、大事な伴侶を残してゆくくらいならその何倍も生きていてあげたいと考えてしまうのはなぜだろう。


しかし、残された魔物について考え始めると胸が苦しくなってきたので、ネアは小さく首を振り、その先の問題については実体験のあるグレアムにいつか相談してみようと先送りにした。



きっと、そんなことを悩むのは二十年後くらいでも構わない筈だ。

今はまだ、この胸の痛みとは向き合いたくない。




「むむ!ハムの切り落としがタイムセールです!!」

「たいむせーる………」



晩秋らしい物思いの切なさに浸っていたネアだったが、からんと店先の小さな鐘を鳴らした売り子さんを発見し飛び上がると、全ての憂鬱さをぽいと投げ捨て、ハムの専門店に走る。


幸い、先日発覚したばかりの、ハムの端っこを沢山得られる祝福も立派に作用しているようで、ネアは、素早くお目当ての品を購入する事が出来た。


ネアがお会計を終えたあたりで、売り場が沢山の人で揉みくちゃになったので、ぎりぎりだったのだろう。

手の甲で額の汗を拭い、ネアはふうっと戦士の溜め息を吐く。


買い物袋はずしりと重く、お気に入りのハムの包みも見えるので満足度は高い。



「高価な熟成ハム入りの大袋を一つ買えましたので、これで、塩気のあるおつまみ兼おやつは当分心配なさそうです!」

「可愛い、弾んでる………」

「今度のお休みには、このハムを使ってハム入りチーズオムレツを作りますね」

「うん…………」



少しだけもじもじした魔物は、自炊な朝食だった日にオムレツにケチャップでハートを書いて貰ったことで、オムレツと聞くと少し恥じらうようになってしまった。


なお、ソースがかかっていたり、何もかけない方が美味しいオムレツもあるので、ケチャップ運用は限られた場合のみだと指導済である。



「後は、………しっとり果物系の焼き菓子と、贈答品の買い足しもしておきましょうね。クッキー専門店にも寄りたいです」

「カードはいいのかい?」

「は!忘れていました。イブメリアのカードがもう売り出しているので、いつも早めに売り切れてしまうカード工房のものを買いたいです。そして、帰りに博物館前広場で出始めのホットワインを飲んで帰りましょうね」

「アクス商会はいいのかい?」

「………すっかり忘れていました。あの古くなったカワセミだけでも、絶対に売ってしまわなければです………」

「金庫に残しておくものは、分けておいたのだよね」

「はい。もし事件などに巻き込まれた場合に物品売買も出来るよう、王様カワセミなどは暫く残しておきますね」



ネアは、頭の中で素早く所要時間を計算した。


気持ちのいい天気だったのでお気に入りの服を着ており、アクス商会に行くのに恥ずかしいという事はない。


だが、この一日であれこれ片付け、尚且つ出来るだけ街のあちこちを見回る予定だったので、獲物の査定などの時間を取られるのは少々痛いところだ。



「ディノ、ぎゅっと予定を詰め込むので、少し早歩きをしてもいいですか?」

「うん。贈答品はいつもの焼き菓子かい?」

「ええ。その他大勢用のお菓子なので、市場の裏にある緑の屋根のお菓子屋さんにしましょう。とっておき贈答用のものは、まだ在庫があった筈ですから」

「その店に寄るのなら、オレンジの皮のものはいいのかい?」

「むぐ……………」



伴侶をよく知る魔物が挙げたお菓子は、甘さ控えめのオレンジピールのチョコレートがけという、とても罪なお菓子だ。


そのお店のものはオレンジピール部分に苦みがなく果実感が強いので、いつも、チョコレートよりもドライフルーツ寄りな気持ちになってぱくぱく食べてしまい、箱が空になってから我に返る罪深い一品である。


前の世界では、苦心してひと箱手に入れて一日に一本の三分の一を味わって食べるという嗜み方をしていたネアには、一般人による一日の普通摂取量が分からないのも敗因だった。



「む、むぐぐ。ひと箱買うかもしれません。……………買います」

「買ってあげるから、好きなだけ食べていいんだよ?」

「き、危険です!あやつは、箱に入っているだけもぐもぐ齧ってしまうので、ひと箱ずつ買い、じわじわ食べる訓練をしなければいけない魅惑のお菓子なのですよ…………」

「訓練をしなければいけないのだね………」

「ふぁい。私の中に、あのお菓子を貪り食べたいという抑圧された願望があるようなので、どうにかそれを鎮めなければいけません。より美味しく、理性を保って食べられるようになったら、保存用に一度に何箱か買っておけるのですが………」



悲し気にそう呟いたネアの頭を、ディノはそっと撫でてくれた。


好きなものを好きなだけ食べて欲しいと思う魔物なのだが、最近は、美味しく食べる為の訓練という言葉を使うと、食べ控えにも理解を示してくれるようになった。



街中のいたるところでは、麦穂を使ったリースをかける為の準備が始まっている。


ウィーム領の予算で計上されるこのリースは、エーダリアの前の領主の時代は用意されなかったものであるらしい。


こうした飾りつけが、見栄えの為だけではなく魔術的にも重要なものだと知る領主がウィームを治めていることは、領民達の誇りであった。



祝祭の季節になると聞こえてくる、現領主への評価の高さにネアはにんまりしながら街を歩く。


細い路地には水路を渡る小さな橋がかかり、橋の上で悪さをしようとしていた小さな魔物が、ディノを見た途端慌てて逃げて行った。


近くにある家の窓辺のプランターに隠れているが、そこを住処としていた小鳥姿の妖精にげしげしと蹴られている姿はどこかくすりと笑えてしまう。


蹴落とされてぽとりと橋のたもとに落ちた魔物は、ちび黒ハリネズミのような姿をしている。



「まぁ、ここにはもう、大きな麦穂のリースが飾られていますよ。今年のリボンはこっくりとした上品な橙色で、ますます私の生まれた世界のサーウィンを思い出します」

「その祝祭では、南瓜が沢山並ぶのだよね?」

「ええ。南瓜のお菓子も沢山売られていて、子供たちにお菓子をあげたりする風習もありましたが、そちらの風習については他の国から入ってきたものだったようですね」

「浮気……………」

「ディノ、子供達にお菓子をあげるのは、儀式に近い季節の行事ですし、残念ながら私は、ご近所さんにお菓子を配る財政的な余裕はありませんでした。でも、近くの大学で通行人に飴を配っていたので、ずる賢く偶然敷地前を通ったりはしていましたね……」

「ネア、飴を買ってあげようか?」

「ふふ、ディノはこれから、もっと素敵なチョコレートの箱を買ってくれるのでしょう?」



三つ編みを離して手を伸ばすと、魔物はそろりと指先を伸ばしてちび手繋ぎをしてくれたが、恥ずかしかったのかすぐに三つ編みに戻されてしまった。



(あ、……………)



ふと、薄曇りの日の路地裏らしい照度の道に、誰かが窓辺で焚いた魔術の炎の影が落ちる。


窓枠の影の中に浮かび上がった男性の輪郭に、ネアはふと、小さな頃のことを思い出した。



(あれは確か……………、)




「………私の生まれた世界には、魔法はなく神様もいませんでしたが、………小さな子供だった頃に一度だけ、窓の外にお化け、…………人間ではないようなものを見た事があったのを思い出しました」

「おばけ、かい?」

「ええ。ディノにも話した子供の頃の劇場での事故の後で、母が数日間体調を崩していた日の夜のことだったような気がします。………その日はサーウィンの夜で、……」



星の綺麗な夜だったので、ネアは流れ星に母親の体調の回復を願おうと思った。

よじよじと窓辺に上がって窓を開け、星を探そうとして体勢を崩しかけたのだ。



「けれどもその時、外開きの窓がばしんと閉じて、私は子供部屋の中に転げ落ちて無事だったのです。………しかし、自分が危うく窓から落ちかけたことよりも、窓の端に霧が凝ったような人影が見えた気がして驚いてしまって、慌てて両親の部屋に逃げ込んでしまいました」



勿論、ネアは危ない事をしてはならないと、とても叱られた。


けれども、その日を境にネアの母親の体調は良くなったので、小さなネアは、あれは良いお化けが家に来てくれた日だったのだろうと考えた。


そんなネアに、父は、形を取れず霧のようだったものの、良い隣人が訪ねてきてくれたのかもしれないとどこか真剣な眼差しで教えてくれて、ネアは、子供の目線に立ちそんな風に世界を見てくれる父が大好きだった。



『せめて彼も、ドアをノックしてくれれば良かったのに、霧のような姿では、それはもう出来なくなってしまったのかもしれないね』



そう呟いた父の横顔を、ネアは、久し振りに思い出した。




「……………こちらの世界では、収穫祭に家を訪ねて来るのは死者さんだけなのですか?」

「ウィンプターと呼ばれる、沼地の精霊はいるかな。美しい男性や女性の姿をしているが、あまり良いものではないね」

「沼系のものはお断りします………」

「帰る場所のない死者を食べるのだけれど、獲物になる死者がいないと、生きている人間を攫いにくるようだよ」


ウィンプターはべたべたドロドロした足跡を残すと聞き、ネアは慌てて周囲の地面を確認してしまった。

逃げ沼体験のせいかもしれないが、どれだけ美しい輪郭をしていても沼系はあまり得意ではない。


「そやつが来たら、追い返してくれます………?」

「うん。君は、毛が沢山あってもウィンプターは苦手なのだね」

「綺麗な人型で毛が多いとなると、もしや毛深い方々なのですか?」

「灰色の毛皮のコートを着ているらしいね。その毛皮は、住んでいる沼の色をしているものなのだそうだ」

「むぅ。そんな沼感強めの毛皮のコートは、あまり好ましくありません………」


とても苦手そうな生き物を一つ知ったところで、ネアは目的の菓子店に着いた。

お菓子の甘い香りに、伸び上がってくんくんしてしまう。



「さて、お買い物しましょう!」

「うん。………弾んでる」



その日は結局、予定を詰め込み過ぎて目が回るような忙しさになったが、ネアは何とか晩餐前にリーエンベルクに戻る事が出来た。


アクス商会での獲物の引き取り額が思っていたよりも良かったことと、なぜかレモンピールのチョコレートがけの箱が手元に二つあることだけが、本日の想定外である。









明日 10/30の更新はお休みとなります。

TwitterにてSSを上げさせていただきますので、もし宜しければそちらをご覧下さい。

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