夜陰の書庫と妖精の暦
誰もいない真っ暗な書庫に、ぼうっと明かりが灯る。
青白い鉱石の明かりに、魔術の火の色を重ねるとえもいわれぬ穏やかな光が生まれた。
こつこつと床を踏む靴音に、ドレスの裾を揺らす衣摺れの音が重なる。
成人した男性でもひと抱えになるような大きな書物を軽々と小脇に抱え、栗色の髪を靡かせて歩く妖精は、古い書庫の最奥にある会議室を目指していた。
「すまないね、最後の客が手間取った。まったく、ジュリアン王子もある種の災いの星を持って生まれたんだろうねぇ。王や第一王子が脆弱なら、この国はあの愚かな王子のせいでとうに自壊しているところだ」
「まぁ、そうなるだろうね。小物の悪党が国を滅ぼさないという事もないからさ。それで、妖精の暦はその本かな」
そう尋ねたのは、今夜は瑠璃紺のリボンで髪を結んだ塩の魔物だ。
少しだけ眠そうな目をしているが、それは彼の大切な義妹の所持品の確認が長引いたせいかもしれない。
「ダリル、グリムドールにあの子を会わせて、変わった事はあったかい?」
「お陰様で、カルウィの第九王子とソロモン王子が共闘する流れは潰えたね。あの二人に手を組まれると、恐らくどちらもネアちゃんに目をつけた筈だ。同じ嗜好の王子同士で組ませる事になる上に、どちらも古い魔術を抱え過ぎている」
「それなら良かった。ネアには怖い思いをさせてしまったから、もう二度とグリムドールには会わせたくないかな」
そう呟いたのは、白に虹持ちというとんでもない美貌の魔物の王である。
それどころか、この世界の万象を司るこの魔物を、リーエンベルクに暮らす一人の少女はよく懐いた大型犬のようによく躾けていた。
伴侶になってからもこの魔物の王が彼女をご主人様と呼んでしまい、それをネアが本気で厭わないのだから、生来の資質のようなものはあるのだろう。
(そっか、ディノはソロモンではなく、あくまでもグリムドールと呼ぶんだねぇ………)
「……………武器狩りについて、まさかここ迄話が来ていたとはな」
「ありゃ。不満そうだけれど、アルテアは森に帰っていたから、話を通すのが遅れたんだけれどね」
「その森の設定をやめろ……」
「うちにはリーベルがいるんだよ。ガーウィンのここだけの秘密の話とやらは、どこよりも早く手に入る。だが、カルウィの情報が手に入ったのは僥倖だ。最も多くの魔術的に名の知れた武器を所有しているのは、やはりあの国だからね」
ダリルが持ってきたのは、妖精の暦と呼ばれる稀覯本の中の、武器の書と呼ばれる託宣の書である。
幾つもの名前を預けなければならないが、この本に記した名前に纏わる武器の記録を暦として表記するのが、妖精の暦と呼ばれる本の特徴だ。
残念ながら、戦役の書と病の書は随分昔に失われてしまったが、手紙の書とこの武器の書はダリルの管理する書庫に保管されている。
「俺としても、この話し合いに加えて貰えて良かった。統轄地はカルウィ一帯だが、心を砕くという意味ではウィームを守りたいからな」
そう微笑んだ男は、上等な白灰色の髪を持つ犠牲の魔物だ。
万象の魔物へ向ける眼差しは、これ迄に見たどの魔物よりも臣下としての慕わしさが窺える。
(第一席から続く、最上位の公爵達。犠牲の魔物はもう少し階位が低いかもしれないね。…………やれやれ、このまま穏やかに話し合いが続いて、この会議室が内圧に耐えられるといいんだけれど………)
これ程迄に高位の魔物達が揃い踏みする事は想定外であったが、同時にそこまでの存在を揃い得たウィームには感慨深くもなる。
統一戦争の時にこれ程迄の頑強さがあれば、ここはまだ国のままだっただろう。
だが、力を得れば得る程に、その国は婚姻などの結びや外交的な圧力は増すようになる。
遠からず、ウィーム王家の気質では国が滅びるのは明白で、となればやはり、豊かな国には、この国の王や宰相、そしてあの正妃とその精霊達のような存在は必要なのだ。
(例えば、あの国のように完全に高位の人外者に統治を任せてしまえば、また話は違うのだけれどね…………)
実は、そんな国が生まれたばかりだ。
その国を治めるのは、夜の祝福を色濃く受けた国の庇護を続けてきた真夜中の座の精霊の王族の一人で、その国の貴族達に虐げられていた人間の女性を伴侶としたらしい。
精霊達の祝福を忘れ、精霊に捧げた森を切り拓いた事で国は奪われ、最後までその森を守ろうとして取り潰された一族の最後の一人が、きちんと守られたという構図だ。
精霊と人間の伴侶の治める国は過去にも例がなく、今後、新しい国の形としてその国は注目されるだろう。
とは言え、その精霊には臣下も多く、実質真夜中の座の統轄地と言えなくもない。
森結晶の産地だった事もあり、恐らくアルテアやアイザックは更なる注視を重ねてゆく筈だ。
「ニケ王子は参加するのかい?」
カルウィ王家については、秘匿された情報を入手するまでの確かなパイプは未だなく、だからこそ、そう尋ねたのはダリルだった。
答えたのは犠牲の魔物で、淡白な気配と整った美貌は身に持つ白灰色そのものの品の良さだ。
「何とも言えないな。彼は名のある武器は持っていない筈だが、参戦して得られるものを考えると、武器狩りに参加する可能性もある。これからの季節ならリュツィフェールも使えるだろう」
「……………あの純白を出されると、戦況がおかしな事になるからやめて欲しいねぇ」
「うーん、悪食は厄介なんだよね。下手したら武器も食べるでしょ」
そう呻いたノアベルトに、それまで黙って座っていたアルテアが、小さく息を吐く。
「こちらにある銘持ちの武器は、三本か?」
「そうさね。今のところ、ネアちゃんの夜紡ぎの剣と、うちの馬鹿王子が借りている風の系譜の剣。ただ、これについては名前は消されているんだったね?」
「ああ。名前で探されるのも厄介だったからな。名を剥いだのは俺だが、その後の管理は知らんぞ」
「……………後は、ヒルドの森と月光の剣だね。あれは史実上は失われたものとされているから、奪いにくる者はいないだろうけれど、含めて用心しておこう」
ちらりと見た先で、夜明け前の最も暗い時間の闇の中で、深い赤紫色の瞳が鋭く細められる。
つい先程まで、どうにも祝福や守護を増やす傾向にある人間の添付魔術の再確認を行なっていたらしい。
(まぁ。謎だっていうハムの祝福は、……………あの討伐対象になった、ハムの祟りものだろうね…………)
そのハムの祟りものの顕現時、落ちていても外側を洗って表面を削げば食べられたのではと呟いた一人の歌乞いに、ハムの祟りものは一瞬動きを止めていたという報告がある。
「アルテアは、武器の所蔵も多いだろう?そちらは大丈夫なのか?魔物の階位は安定しているが、今年は妖精が武器狩りに積極的だと聞く」
「………俺は、商品としての管理もあるからな。だが、武器の所蔵ならお前もかなりなんじゃないのか?」
質問を返すようにしてそう問われた犠牲の魔物は、ひっそり微笑んだので、この魔物は見た目によらぬ趣味を持ち合わせているらしい。
(ふうん、面白いじゃないか…………)
かなりの深度でウィームに食い込んでいるこの魔物を、ダリルはそこまで良く知らなかった。
ノアベルトから、ネアを見守る会の会長に繋ぎを取ればこの魔物へ連絡する事が出来ると言われていたが、それは特に意外ではない。
あの会には、面白半分商売半分の欲望の魔物を始め、真夜中の座の精霊王や、妖精ではなく精霊の座を継ぐとは言え次代の霧雨の王の座が内定していると言ってもいい霧雨のシー、夜海の竜の王子、雪竜の祝い子、山猫商会の代表など、世界的な組織均衡を崩しかねないだけの人材が揃っている。
それだけの会員の誰かが、個人的に犠牲の魔物を知っていても不思議はないし、アルテアについても後援という形で会にかかわっているので、アルテアからも繋ぎは取れるだろう。
一応、雪の魔物もいるのだが、そちらは機能しているというよりも、あの会で監視しているという状態に近い。
(とは言え、ガーウィンとの間の橋を落とした時には、なかなか使えると思ったけれどね…………)
「昔のようには持ってはいないが、幾つかは持っている。俺の系譜の魔術を敷いた武器は多いからな。その中の一つのものは、……………と言ってもあれはかなりの複数の資質持ちだが、タジクーシャの妖精になった上に、ネアと親交があるようだが」
「増やすなと言っておいた筈なんだがな………。シルハーン、あの妖精は、武器狩りには参戦するつもりなのか?」
「タジクーシャは銘ありの武器が多くて標的になり易いからこそ、この時期は町を閉じていると聞いているよ。ただ、あの妖精は個人で扉を抜ける権限を持ってるようだね」
そう答えたディノに、焦燥や憂鬱さはない。
どうやら万象の魔物は、己の伴侶が青玉の宝石妖精と文通を続けることを、本気で許しているようだ。
(あの手紙の文才といい、ファンデルツの夜会で実際に会っても、その評価を維持するだけの手腕はあるってことだね。姉の方よりも、そっちと繋ぎを付けた方が良さそうだ…………)
姉の青玉の宝石妖精も、ウィームとの交渉では、それなりにどころか充分な才覚を見せた。
しかし、腹を探り合う関係ではなくこちらに有利に進められる交渉ならば、その相手はより狡猾でより聡明な者がいい。
得てして、自分の足元に余裕のある交渉相手の方が、こちらにも益を齎す事が出来る。
ダリルが欲しいのは、その余分な一雫なのだ。
「ダリル、武器の書の記載はどうなのかな。エーダリアの持つ剣は無銘だけれど、ウィーム近くに有名な武器はありそうかい?」
ノアベルトの質問に開いた本を、しかし、妖精以外の者が読むことは出来ない。
そうして守られてきた武器の書だが、近年は読める者達が随分と減ったらしい。
いずれ人型の妖精に育ったなら、ララにも読み方を教えなければと考えたら、不思議と胸の奥があたたかくなった。
「シュタルトに一つ、国富の盾があるね。後は、サナハムの槍、ザルツの伯爵のところにバイオリンの暗器がある。あれは楽器としての価値も高いから有名だろう」
「楽器としての価値から、それは守られるだろうね。音楽の系譜は音を損なうものには苛烈だから」
「ディノの言う通り、そちらの心配はないだろう。そもそも、本来の武器狩りならウィームは安全だと言っても差支えがないくらいの筈なんだけれどねぇ」
武器狩りは、この世界の表側に現存する全ての武器の銘を記した魔術書が世に出た年にだけ行われる、名前の通りの武器を奪い合う儀式だ。
国に属する者も属さない者も、そして全ての種族が貴賎なく争うのだから、儀式などではなく戦そのものなのだが、魔術の印としては儀式にあたるらしい。
また、魔術の系譜は夏夜の宴が理に属するのなら、今回の武器狩りは因果の系譜に属する。
よって、因果の系譜の者達は参加出来ないのだが、彼等は元々、銘のある武器などを使う必要のない精霊達だ。
(前回は、魔物が勝った……………)
より多くの新しい武器を奪取した種族は、優先的に銘を記した魔術書を手に入れると言われている。
よって今年は魔物が手にしている筈なのだが、ここにいる者達はその在処を知らないらしい。
武器狩りは最初の一人が武器を狩りにゆけば始まるが、魔術書を手にした者がひと月の間行動を起こさなくても自動的に始まる。
その際、最初の者が手にした魔術書は姿を隠してしまうと言われていた。
「混沌の年にならなければいいのだが………」
「魔術書に隠れられると、銘を探り合ったまま武器を狩る者達が増えるだろうな。真っ先に狙われるのは、銘ある武器を持つ大国だ」
「ヴェルクレアなら、ヴェルリアとガーウィンだね。今回はその魔術書を、ガーウィンの関係者が入手している可能性が高い。となると、国内での削り合いがあるとすれば、オズヴァルト王子が正式に継承権を放棄した後で良かったにせよ、ヴェルリアが危ういか。まったく。国の均衡を崩すのはやめて欲しいんだけどねぇ」
ウィームの魔術師や騎士達、そして人ならざる者達は、あまり銘を持つような武器は扱わない。
それは、魔術そのものの扱いに長けた者が多く、武器を得るとしても誰かの作った銘持ちではなく、自分達の一族や自分自身で錬成出来るからだ。
「まぁ、デジレの魔術を展開した以上、ウィームそのものが脅かされるような問題はないと思うよ。でも、武器狩りを避けてウィームに長期滞在するような連中の中に、目障りなのものが混ざっている可能性はあるかなぁ………」
「武器狩りから離れていると安心しているウィームこそを、狙う奴らもいるだろうな。武器がない訳じゃない。……………シルハーン、夜紡ぎの剣はどうするつもりだ?」
アルテアの問いかけに、ディノは淡く微笑んだ。
多くの場合、主人が大好きで堪らない獣のように無防備なこの魔物だが、ネアがいない時にはその無垢さにもぞくりとするような魔物らしい酷薄さの覆いがかかる。
万象の資質としての無垢さや愚かさが前面に出たとしても、最愛の伴侶のいない時の万象は扱いやすい魔物ではない。
(でもまぁ、随分と丸くなったけれどね…………)
それもまた、不思議な感慨だった。
この魔物は、塩の魔物や選択の魔物、そして犠牲の魔物をとても信頼しているし、言動においても随分と真っ当な生き物らしくなって来た。
最初に対面した頃の万象は、口数を増やすことすら億劫だった時代の面影を感じさせる男で、どれだけ歩み寄り柔和にしていても、自身の歌乞いに対してすら、会話が巧みだとは思えなかった。
話し方や伝え方を学び、それは万象というものの在り方すらを変えたのだと思う。
学び得て豊かさを増したディノに対し、伴侶であるネアは、無駄なものや肌に合わなかったものを切り落として身軽になってみせた。
互いに似合わぬがそうなのだろうと宛てがったものを捨て、今の二人は目を瞠る程に穏やかで自然に笑う。
「夜紡ぎの剣については、狙われた際に持っていない事も危うい。持たせておいて、そのような接触があれば渡してしまうように言っておくよ」
「わーお、夜紡ぎの剣だけどいいのかい?あの子の気質で拾ってくる呪いや障りは、時間経過を操作する道具はかなり有用だよ」
「剣そのものには印をつけておくよ。武器狩りが終わったら、私が回収して来よう」
事もなげにそう言ったディノに、思わず浅く息を飲んでしまった。
出来ない事は出来ないと言う魔物なので、こうも簡単に言うからには容易いのだろう。
だが、それが可能だからと言って、武器狩りの襲撃から常に伴侶を守れるとも限らないのも、またこの魔物だからこそだ。
「俺はよく知らないのだが、リーエンベルクの騎士筆頭の剣は問題ないのか?見たところ、銘があってもいいようなものに思えたが」
「あれはいいのさ。一族に代々継承される剣であるけれどね、あそこまで階位を上げたのは最近だし、因果の成就の祝福を得た道具は、どうあっても持ち主を離れない。常々、あの人間は魔術的な場が強いったらありゃしないよ。……………その代わりに周囲を取られる、典型的な人間だけどね」
グラストという騎士は、本人は運が強く、守護や祝福にも恵まれるものの、その身に強く光を受けるが故に足元に弾かれた災いが集まり濃い影が出来るという、典型的な魔術の偏りを持って生まれた人間だ。
本人の資質は周囲にも及ぶのだが、強い光に呼ばれた災いの残滓はどうしても彼の足元に落ちる。
一族そのものの資質なのかあの家は失われなかったが、その結果、彼の細君は命を落とし、娘も幼くして病に連れ去られた。
ゼノーシュという魔物を得なければ、これからも同じような事が起きたかもしれない。
幸運なだけでも幸福ではないからこそ、本人は決して気付かないだろう歪んだ輪については、ガレンエンガディンとしてそれを見抜いてしまったエーダリアにとっては堪らないものだったようだ。
(だが、お前が幸運だからこそ、それを避けた災いが周囲を食らうのだと、面と向かって本人に言える筈もなかった)
告げられる見込みもなかったその言葉は、グラストが幸運を幸福と変える魔物を手にしたことで、伝える必要もなくなった。
あの目のいい魔物は、自身の契約者を損なうものは決して寄り付かせないに違いない。
「歌乞いの魔物との契約は、魔物にとっては恩寵とされるが、人間にとっては古くは災厄であったようだ。そこで彼の血族が得ている資質が均衡を取るから、グラストの周囲に今後障りが出る事はないだろう」
「ディノからそう聞いて一安心だよ。ネアちゃんとは違う意味で、あれも欠く事の出来ない柱だからね。剣や盾ばかり集まっても、支柱がなければ意味がない」
ウィームの支柱は明確だ。
領主として、そしてウィームの民の守るべきものとしてエーダリアがおり、各地に散らばる騎士たちの要としてグラストがいる。
ダリル自身は政治を担い、新しく、リーエンベルクやウィームに大いなる守護を招き入れる存在としてのネアがいる。
例えどれだけ強靭でも偉大でも、魔物達やヒルドは、その支柱に寄り添う要素だ。
柱が失われたなら、この地を離れる者は多いだろう。
「厄介なのは国崩しだ。武器狩りは、武器を得る為という大義名分を掲げて、国や種族の境界を越えた殺戮が許される免罪符だからな。これを機に、武器狩りの名を騙った国崩しが始まるぞ」
「まったくだよ。私もそれが一番の頭痛の種になると考えている。ヴェルクレアとカルウィでは、表向きは他国間との武器狩りを禁じているが、体裁を整える為の物で殆ど機能していないからね」
「そりゃそうだろうね。ダリルは、カルウィが仕掛けてくると思うのかい?」
「私の読みでは、カルウィの主だった王族達は、こちらには来ないだろう。来るとしたら、一発逆転を狙う中階位の奴らか、力のある王族の手駒になった者達だろう。王族が多いのは良し悪しだが、武器狩りにおいてはカルウィに軍配が上がる」
武器狩りを宣言し挑まれた戦いは、因果の魔術によって保証される。
それがある事で、公にはどのような綺麗事を並べようと、宣戦布告された戦いは避けられないのだ。
国が他国間の武器狩りを禁じながらも国崩しが行われるのはその為で、宣戦布告を受けるような距離に敵を近付けなければ問題ない。
しかし、武器を持たない者に宣戦布告をすると、自身の武器を損なう可能性があり、ある程度の慎重さは求められる。
また、宣戦布告された者は銘のある武器でしか戦えない。
自分の武器だけを使わずとも構わないが、銘のある武器しかその場では扱えないのだ。
「……………統括とは言え、あの広大なカルウィを、俺の立場で押さえ切るのは不可能だが、幾つか目ぼしい武器を隣国に流してある。アルテア、父殺しの槍の行方は掴めているのか?」
「そちらは問題ない。呪い掛けをしてヴェルクレアには流れないようにしてあるからな」
「そう言えば、アルテアのところの武器担当は出てきたのかな?」
ふいに成された塩の魔物からの質問に、選択の魔物は静かに瞳を細めた。
魔物が魔物を見据える時の精神圧はそれなりのもので、びりりと空気が震える。
「お前がなぜ、それを知っている?」
「そりゃ、ウィームでの事には目を凝らしているからかなぁ。それと、妹のお喋りを真剣に聞いているからだと思うよ」
「………まさか、あいつが原因じゃないだろうな」
「それはないけれど、僕の妹は今日、とても興味深い事を話していたよ。ロビシャが友人の人間から紹介された男の伴侶候補は、前々からロビシャの事を憎からず思っていた青年だったらしいよ。レヴァンという名前ですげなく断られたらしいけれど、思い当たる相手はいないかい?」
「……………っ、それでか」
低く呻いて、片手で顔を覆った選択の魔物とは珍しい。
愉快そうな話題に、ダリルは目を輝かせる。
「何、アルテアのところの武器担当が、イチイの木の魔物に失恋して引き篭もってるの?」
「……………くそ、まさかそんな下らない理由か」
「おや、ノキオンは、まだロビシャが気に入っているのだね。前にそのような話を聞いたけれど、随分と前の事だった筈だよ」
「ええ。俺がシルハーンにその話を伝えたのは随分と昔のことでした。………まさか、まだ狙っていたとは思いませんでしたが。……………ん?アルテアは知らなかったのか?」
不思議そうに片眉を持ち上げた犠牲の魔物に、アルテアはますます顔を顰める。
これはどうやら知らなかったなと、にんまり微笑めばますます表情を険しくした。
(この反応となると、アルテアの事業の中で武器部門は中枢業務の一つってことだね。ノキオンという名前も聞いたことがある。…………確か、武器庫の魔物だった筈だ……………)
「そういや、魔物固有の武器もあるだろう。そっちは問題ないかい?妖精の弓と違って、魔物には自身の魂から切り出した武器を持つ者がいる。司るものの名前を銘として、それは銘ありの武器として成り立つんだろう?」
「ウィリアムの剣と、グレアムの剣くらいだね。私とノアベルト、そしてアルテアは、魂を削った道具が武器の形を持たない」
「へぇ。ディノにもそんな道具があるんだね。ウィリアムは武器を奪われる事はなさそうだけれど、グレアムは守れそうかい?」
書架妖精は、招き入れて訪れた者に対してのみだが、その名前を知っているのであれば、呼ぶ事は躊躇わない。
それは書庫というものに、記録と選別の資質があるからで、犠牲の魔物についても、初対面のその時から遠慮なく名前を呼ばせて貰っている。
かつて、派生したばかりのダリルの頭を撫でたあの人間の女が、かつて王宮で世話になったのだと、どこか大事そうに呟いた事を僅かに思い出しながら。
「俺も、自分の武器を奪われるような失態は、流石にないだろうと信じたいところだな」
そう微笑んだグレアムは、アルテアに、期間中はネアの為にも森に帰らないでやってくれと言い重ね、ますます選択の魔物の眼差しを険しくさせている。
「そういや、ウィリアムは仕事なのかい?」
「ありゃ、ダリルには話してなかったかな。ネアにこっそりかけられた守護とは名ばかりの印付けに、死の精霊のものがあってさ。影響が出るようなものではなく、本当にただの守護の欠片なんだけど、やっぱり不愉快だから、そっちの制裁に行ってるよ」
「……………やれやれ、ネアちゃんも妙なものには妙な程に気に入られるねぇ」
「終焉の子供だ。ナインの気に入り方は異常だが、アンセルムの場合は順当な執着だろう。精霊は、一度手元に置いた者には長らく執着するからな」
「へぇ、そっちの精霊のものなのかい」
アルテアの言葉に、ディノは少しだけ憂鬱そうな冷ややかさを眼差しに浮かべたが、ふと、どこかを見るように視線を持ち上げ小さく微笑んだ。
「……………ノアベルト、ここは任せて構わないかい?あの子が目を覚ましそうだ」
「ありゃ、勿論だけど珍しいね。ネアって、この時間は眠りが深いでしょ」
「以前の生活の名残りで、遅くに眠ると、夜明け前に寝過ごしたかと思って起きてしまうようなんだ。それではないかな。グレアム、もしそちらで動きがあれば、教えて欲しい。……………ネアの資質では、やはりカルウィは相性が悪い。グリムドールへの対処が済んだのは幸いだけれどね」
「ええ。お任せ下さい」
ゆっくりと立ち上がり、白くけぶるような陽炎を残してその場から消えた万象を見送り、周辺諸国の武器の話に話題を戻した。
幸いにも、まだ武器の書の今年の年号の欄には、開戦の文字は現れていない。
とは言え、始まりはそう遠くはないに違いなく、今年も穏やかな冬の入りとは言えなさそうであった。




