王子とグリムドール 3
思いがけない突然の後妻にならないか発言に、ネアは思わずウィリアムと顔を見合わせてしまった。
「お断りいたします」
「つれないなぁ。これでも私は王子だし、私の妻になれば、好きなだけ贅沢が出来るよ?」
「初対面の方である以前に、私は既婚者です。なお、贅沢は結婚を決める上での初期段階の物差しにはなりません」
「はは、私の国は重婚が許されているんだ。ご主人ともども面倒を見てあげよう。……………その指輪は魔物の指輪かな?」
ネアはこの男性は随分と軽薄なのだなと考えていたのだが、最後の一言で風向きが変わった。
魔術で色は擬態してあるものの、ネアの指輪を見て魔物からのものだと理解した上で求婚したのであれば、相当な曲者という感じがする。
ウィリアムもそう感じたのだろう。
すっと瞳を細めた姿は、擬態していても高位の人外者には見える筈なのだ。
(ん……………?)
ざわざわと、遠くで風のさざめきのように笑うのは誰だろう。
ネアはなぜか、この場所にいるのが自分達だけではないような奇妙な不安に囚われたが、慌てて周囲を見回してもやはり誰もいない。
どこかで嗅いだ事のあるような乾いた空気の欠片がこぼれ落ち、笑い声に聞こえていたさざめきは、ふとした隙に今度は啜り泣きに聞こえるようになっていて、ネアは背筋を冷たい汗が伝うのを感じた。
(でも、この距離で見ると、何て美しい人なのだろう……………)
先程、店の中で目が合った彼は、目を奪われるような美しい人だっただろうか。
ゆらりと陽炎の向こうに本物の姿が覗くように、今のソロモン王子は明らかに人間の領域を踏み外した美貌を覗かせている。
こんな容貌が、ウィリアムから見れば人間の領域で収まっているという事が、ネアは不思議でならなかった。
先程、素晴らしく綺麗な青年だと思ったグリムドールより、このカルウィの王子の方が遥かに美しいではないか。
(この世界には美しいものは沢山あるけれど、………この人がぞっとする程に美しいと感じるのは、人間の領域の美貌から程遠いものだからという気がするのに…………)
冬夜のパレードやテルナグアのような、人知を超え得体の知れないまま息づく異形としての美しさには、時として、どれだけ恐ろしく悍ましくても魅入られてしまう。
ソロモン王子の、ただ目に留めただけでは認識出来ない不可思議な美貌には、そのような異質さがあるのだ。
「それが分かっていて、彼女に求婚したのか?であれば、どのような報復をされても文句は言えなくなるぞ」
「指輪に宿る気配とは違うから、あなたがご主人という訳ではないようだね。さしずめ兄妹か守護者という感じだけれど、恋愛は本人の自由だ。つまり、私が彼女を口説くのも自由なので、どうか見逃して欲しい」
「その言い分が通ると本気で思っているのなら、そうではないと知るべきかもしれないな」
「おっと、礼儀正しく求婚した私に、剣を向けるなんて酷いなぁ。暴力は反対だよ、魔物君」
怜悧な美貌に似合わずにこにこと締まりのない微笑みを浮かべた男性に、ネアはふと、階段に落ちる影に目を留めた。
(……………あ、)
そこにあったのは、明らかに目の前の男性の形ではない異形のものだ。
血の気が引いて冷たくなってゆく思考の端で、ネアは、やっとここに、ソロモン王子の美貌に相応しい悍ましさを見付けた気がした。
そうか、この人は本当はこういう形のものなのだと考える。
ゆらゆらと揺れている影の輪郭は、見てはいけないのに目を逸らせない怖い絵本のよう。
触手のようにぞわりと揺れた長いものに指先が震えそうになったが、視線を剥がせずにいた短い時間の間で、ネアは、それが長い尾羽の影であることに気付いた。
そうして一つの造形を理解すると、悍ましく見えていた形状が何の影なのかが、それぞれの部位の意味を得てくっきりと組み合わされて浮かび上がる。
(尾羽、羽先の絡まったようなもしゃもしゃとした大きな翼……………冠羽、……………これは、)
「……………鳥?」
思わずそう呟いてしまったネアに、誰かのふっと微笑みを深める気配が落ちはしなかっただろうか。
そちらを見ていなくても、迂闊な事を呟いてしまったと察したネアは、顔を上げてソロモンの目を見る危険は冒さず、敢えてウィリアムの瞳を覗き込んだ。
この時ほど、背中をしっかりと抱き寄せて抱えていてくれる魔物達の過保護さを、頼もしく思ったことはないだろう。
ネアが怯えている事に気付いたウィリアムが、しっかりと抱き締めてくれている。
じりりっと音を立てて光を揺らしたのは、壁に設置された魔術灯だ。
台座を設けて小さなシャンデリアのようなものが吊るされており、泉水晶の中では魔術の火が燃えている。
(鳥の影だと分かっても、あの影の落ちている階段を踏みたくない……………)
微かな吐き気と、くらりとした目眩。
ネアは多分、視覚的に障りを得るような、見てはいけないものを見たのだ。
「……………ほら。君はやっぱり特別な女の子だ。私の本当の姿を見付ける人間なんて、どれだけ珍しいことか。いいなぁ。是非に奥さんに欲しい」
「彼女が魔物の伴侶だと知るのなら、伴侶を得た魔物が狭量な事は知っているだろう。もう一度聞くが、その上での主張であれば、不安要因としての刈り取りも必要なのかもしれないな」
「それは困るなぁ。帰りにお気に入りの店に寄っていかなきゃだし、この服はとても気に入っている」
ほわんと微笑んだソロモンの瞳には、やはり人外者のような鮮やかな色が落ちる。
金貨色の瞳はふくよかな黄金のスープのようで、けれども、陽光などの系譜の色ではないような気がした。
(深い深い夜に灯る、金色の月の光や星の光。……………さっきの門の中に満ちていた、シャンデリアの灯りのような……………)
その色は、静かな夜に過ごす部屋の灯りに似ている。
そう思うと、書架に囲まれた部屋で本を読む人の姿が見えたようだ。
その光景はとても穏やかで、ずっと思い浮かべているとなぜか心を侵食されてしまうような気がして、ネアは必死に、長い尾羽を持つ鳥にはどんな種類のものがいたのだろうかと考える。
考えないようにするという事がもはや難しくなっていたので、思考をそちらに上書きしたのだった。
(……………鳥、鳥だとすると、…………極楽鳥、雉、……………孔雀。……………まさか、ね)
思い浮かべてしまった言葉にぎくりとしたら、なぜだか覚悟が決まった。
ゆっくりと顔を上げて目の前の男性の瞳を見つめると、ネアが自分を見たのが意外だったのか、カルウィの王子は微かに瞳を瞠る。
ネアも所有している月の魔物の捕縛用の鎖は、その獣に良く似合うようにと月光を錬成して作られた黄金の鎖だ。
きっとその鎖は、階下で出会ったグリムドールよりも、ネアが踏み滅ぼしてしまった獣よりも、目の前の男性にこそ映えるだろう。
健やかに森を駆ける生き物や、書庫でお気に入りの資料本に噛り付いていそうな誰かよりも、この悍ましく美しい生き物こそを、月の魔物は欲したのではないだろうか。
(……………でも、私が考えていることを、本人に告げる必要なんてないのだ。余計な発言で注意を引くよりも、この場は、これ以上接触を深めずに離れた方がいいような気がする)
ウィリアムが階下の青年をグリムドールとしたのなら、ネアが今考えていることは、一つの生き物の大前提を崩してしまうかもしれない。
であるならば、知ったという事を知られるよりも、頼もしい人たちを集めてその可能性を議論して貰った方がいいのは間違いなかった。
さすがに、ネア一人の判断でそれを告げ、行き当たりばったりな幼い推理を本人に知られるのは避けたい。
「……………何やらとても面倒臭そうな人なので、ここはもう、ぽいっと放っておいて帰りませんか?このような方とは、真剣に会話をするだけ無駄だと聞いたことがあります」
なのでネアは、ウィリアムにそう提案してみた。
言いながら、ウィリアムの肩を掴む指先に力を入れ、ここでは言えない事があるのだと気付いてくれるだろうかと願う。
ソロモンがわざとらしく悲し気な目をしてみせているが、ここは、不審者に絡まれた際の対応を駆使して何とか躱してしまうしかない。
すると、ウィリアムの白金色の瞳が、僅かに揺れたような気がした。
そう感じた時にはもう、終焉の魔物の表情は凪いでいて、感情を映さない微笑みこそが冷ややかになる美貌をこちらに向ける。
「すまない、怖がらせたな。帰ろうか」
「はい。様子のおかしな人は、相手をしないのが一番の対策なのです。上のお店でも食事姿をお見かけしたので、恐らく酔っ払いさんなのでしょう」
そう頷き合ったネア達に、ソロモンは小さく笑ったようだ。
その笑いは侮蔑や失笑を含んだ冷たいものではなく、心から愉快そうに笑いを零している気がした。
「そんな風に言われちゃ敵わないなぁ。真剣に求婚した私は悲しいけれど、確かに、少し時間を置いた方が良さそうだね」
「時間差をつけても何も効いてこないので、永遠にお引き取り下さい」
きっぱりとそう言ってのけたネアに、ソロモンは小さく声を上げて笑った。
すっと、手を広げ優雅なお辞儀をしたソロモンに、ネアは目を丸くした。
軽薄そうな物言いから推し量れない程、その仕草が美しかったのだ。
「ねぇ、お嬢さん。私はカルウィの王子でね。きっともう知っているだろうけれど、名をソロモンという。カルウィの十二地区を治めているから、私に会いたくなったらいつでもそこを訪ねておいで。国境や城門では、私と災いの町で出会った者だと名乗るといい。これでも身内を宥めるのは得意だから、カルウィの王族に困らされた場合も力を貸してあげるよ。……………ただし、その場合はたっぷりと対価を貰うけれどね」
けれども、にっこり微笑んだソロモンの言葉を聞き終えたネアは、淡い砂色に擬態されている筈の瞳を冷ややかに細める。
「問題は身内で片付ける主義ですので、お伺いする事はないと思います。ごきげんよう」
「はは、氷のように冷やしておいた辛口の蒸留酒のような挨拶だね。私は、残しておいた好物を他人に取られるのは我慢ならないのだけれど、君みたいに男をあしらう女の子は好きだなぁ」
その言葉は、敢えてネアに聞かせたものに違いない。
店でのことを折り込んだ会話で、あの店でこちらを見て、その深淵を覗き込みはしなかったかと暗に問いかけているのだ。
(初めて会った日のノアに、少しだけ似ている……………)
でもノアは魔物で、優しくて、この男性のように異形の気配はしなかった。
そちら側の要素である、外見はとても整っているのにどこかが僅かに真っ当ではない魔術の気配は、ネアが以前に出会った星闇の竜や、後からそのようなものだと聞かされ認識をしたフェルフィーズ、或いは思い出したくもないがリンジンにも似ている。
彼がカルウィの王子である事も踏まえれば、けっして安易に踏み込んではいけない人物だったのだが、幸いにも、諦めればその撤収は早かった。
じゃあねと、ひらひら手を振って、ソロモンは身軽に階段を下りてゆく。
今になって、その墨色の装束が砂漠の民らしい布を巻き付け重ねた装いだったと気付き、鮮やかな織り模様の腰帯の美しさに目を瞠った。
林檎のような赤い実のなる木を組み合わせた模様の中には、孔雀の絵柄も織り込まれていたが、同時に見たこともない派手な鳥の模様もある。
謎かけだけを残した意地悪な模様に、ネアはむぐぐっと眉を寄せた。
「……………っ、」
けれども、そんな美しい腰帯に向けていた視線がソロモンの後ろ姿に流れると、続いた影に小さく息を飲んだ。
ソロモンの靴底と繋がった先程見た尾の長い鳥のような影だけではなく、その後ろに様々な生き物の影が続いていたのだ。
槍のようなもので串刺しにされた四つ足の獣に、光竜や咎竜に似たにょろりと長い竜のようなもの、大きな箱を背負った苦しげな人間の影に、鎖をかけられた得体の知れない巨大な魚のようなもの。
そんな影がどこか一点で繋がる切り絵の影のようにして、ソロモンに引き摺られている。
ソロモンの動きに合わせて軽やかに階段を下りてゆく影たちは、けれども無理やり陽気な動きを強要されているかのような不自然さでぎくしゃくと弾み、ネアを心からぞっとさせた。
冷水を浴びせられたような悍ましさに、ネアは小さく体を震わせてウィリアムに体を寄せる。
「……………ぎゅむ」
「……………古い魔術だ。命を捏ね回した錬成の残り香があるな」
そんなネアの耳元に唇を寄せて呟かれた言葉に、はっとしてウィリアムの目を見れば、安心させるように頷きかけられて、ネアはやっと胸を撫で下ろした。
(良かった。私だけが、あの人の異様さに気付いた訳ではなかったんだ………)
幽霊などもそうだが、怖いものが見えているたった一人になるという状況こそが、一番怖い。
せめて一緒にいる誰かと同じものを認識していれば、ひたひたと満たされる恐怖は、随分と容量を下げてくれる。
ネアは、何か怖いものが階下から上がってきてしまわぬように、ウィリアムにぎゅっと掴まってその肩口に顔を埋めてしまうと、ぽんぽんと背中を叩いてくれた優しい手のひらの温度に甘えて、階段を登り切るまでは顔を上げずにいた。
ウィリアムは多分、先程よりは急いで階段を上がってくれたのだろう。
ほどなくして肌に触れる空気が変わって顔を上げれば、先程の店の従業員区画に戻って来ている。
ここから再び店の中を抜けて外に出れば、後はもう帰るだけだ。
(でも、真ん中の薔薇大理石のテーブルには、あの人の仲間たちがいるのだろう……………)
そう思って気を張り詰めさせていたネアだったが、店を通り抜ける時にはもう、彼らの姿はなかった。
ほっとしたネアに対し、ウィリアムはなぜか空っぽのテーブルを鋭い目で一瞥すると、ネアをしっかりと抱え直す。
「……………ウィリアムさん?」
「………思っていたよりも、厄介な相手だったらしいな」
その対応を訝しく思って魔術の道に入ってから名前を呼べば、ネアは不意にウィリアムから口づけられた。
「むぐ?!……………んぅ!」
「………ネア、与えた吐息をそのまま持っていてくれ」
「……………っ、ぷは。こ、呼吸はどうすれば………」
「ああ、呼吸は普通にしていて構わない。魔術的な呼気だから、その程度では剥がれ落ちないからな。……………ただし、ネアであっても保持出来るのは数日程度だろう。魔術の削ぎ落としが未だだから、敢えて名前は呼ばないが、………まさか、あの王子に入れ替えられていたとはな……………」
「……………では、やっぱりあの方が」
「あちらが本物だ。だが、王子として過ごしているのも確かだろう。肉体を服のように着替えるあの魔術手法は、………多分、アルテアのものだ。………アルテアが噛んでいるのなら安心とも言えるのかもしれないが、……………危険は冒せない。早くここを出よう」
しかし、どれだけ急いでいたとしても、ウィリアムがこの町を訪れていたのには理由がある。
災いの町に良からぬものが紛れ込んでいないか、そして町の理を歪める術式などを仕掛けていないか、毎年丁寧に手入れをしているのだ。
(それなのに、こんな風に早足で歩いたら、お手入れにならないのでは………)
ネアは、自分があの場にいた事で迷惑をかけてしまったとしゅんとしたが、ウィリアムは抱き抱えたネアが悄然としている事に気付くと、小さく微笑む。
「心配しなくてもいい。ここを出たら、すぐに表層を剥いでしまおう。ノアベルトの万全の備えのお陰だな」
「………こんなに早足で、お仕事は出来ていますか?」
「ああ、それを心配していたのか」
くすりと笑ったウィリアムに、ネアは、このような土地の監視方法を教えて貰った。
その説明によると、一つ一つ丹念に調べてゆくような手法ではなく、調査の為に必要な魔術要所を踏むだけで完了するのだそうだ。
終焉の管理下において、終焉から成り立つものでもあるこの町は、万象の障りから逃れた人々が作り上げた影絵ではあるものの、その中の生き物たちの全てが滅ぼされた今はもう、万象の障りを残した終焉の管理地のようなものであるらしい。
「死者の国の飛び地に近いと考えてくれ。あの螺旋階段からは、そこに併設された魔術特異点になるが、それでも俺の影響を強く受けている」
「……………そこに、あの方の姿をしたひとが住んでいるのですね」
「仮面の魔術を使っているのなら、付け替えた相手が必要になる。あちらが本来はカルウィの王子だったんだろう。……………突然人が変わったと思っていたが、最初に俺が会っていたのが、本物だったんだろうな」
「むむ、……………と言うことは、お友達だった事もある方なのですね………。もしかしなくても、ウィリアムさんの事を、よくご存知なのでは………?」
「うーん、その点については、内容のない程度の会話しかしていなかったからな。会話から俺をどうこうするようなものは得られていない範囲だろう。シルハーンやダリルとも話してみるが、彼らがどちらを主として認識しているかにもよるな。彼等も認識していないようであれば、アルテアの細工だとしてもやはり排除しておいた方がいい」
相変わらず賑やかだが、じわじわと恐怖や狂気の翳りが出始めている町を抜けると、さぁっと清涼な夜の砂漠の風が吹いた。
ネアは、与えられた呼気とやらが本当に逃げていないのかを確かめるように、人差し指で唇に触れたが、残念ながらその変化は分からないようだ。
先程の口づけは、伴侶の口づけのような深さだったが、感じたのは熱ではなく冷たい冬の空気のようなものであった。
しかし、それを与えられてから、じわじわと胸の中が熱を帯びるような、不思議な感覚がある。
今はお風呂に浸かっているような心地良さだが、これ以上熱くなると、熱すぎるお湯でのぼせるような、困った事になりそうだ。
(多分、この影響の強さが、長い間ウィリアムさんの呼気を借りていられない理由なのだろう………)
ふと、その授け方について考える。
先程は突然だったので驚いてしまったが、こちらの世界では口づけは守護の手法でもあるし、多少過度だったとしても、守護の段階を上げたものだとすれば、気恥ずかしいものではない。
そんなあれこれに慣れたネアは、吐息を授けるとなると他にやり方もなさそうだし、まぁいいかと頷いた。
要するに、こちらの世界の手法にはいい加減慣れたのである。
どこか遠くで砂漠を往く誰かの持つ鈴の音が聞こえた。
魔術の障りの影響が現れて凍えるような砂漠を、ウィリアムは舗装された道をゆくかのように淡々と歩いた。
今夜はずっとネアを抱えたままだが、今はウィリアムの手の疲労よりも、こうして守られているべきだということくらいはネアにも理解出来る。
(恐らく、……………あのソロモン王子こそが、……………本物のグリムドールなのだ…………)
地下で出会ったグリムドールに対しては、いきなり嫌われてもみくしゃにされていたネアが、それは本物なのだろうかと考える隙はなかった。
寧ろ、ダリルから聞いていた容姿通りで、背中の羽もあった彼をグリムドール以外の何者だと思うだろう。
しかし、ソロモン王子の足元に鳥の影を見た時に、グリムドールであればこちらではないのかと、ネアはそう思ってしまったのだ。
(会話の内容的に、ウィリアムさんもそう思ってくれたみたいだから、その認識でいいのだろうけれど………)
もしこれが、誰も知らない戦慄するべき事実とやらであれば、今回の訪問で得た情報は一気にきな臭くなる。
勿論ネアとしては、そんなおまけは欲しくなかった。
「………よし、この辺りでいいな。ネア、一度下ろすから、少しだけ我慢して動かないように立っていてくれ。………ネア?もしかして、引き剥がしの処置が怖いのか?」
「……………ノアのかけてくれた魔術的な擬態の上着を、べりっと剥がすのですね?ガーウィンでもやったものなので、怖くはありません」
「ああ。今回は簡易的なものだが、それでもこれがあって良かった。ここまでの備えを与えたからには、……………やはり、シルハーンは本物の方を知っている気がするな」
「……………ふぁい。それを聞いて少しほっとしましたし、これからの処置は怖くないのですが、先程の方がとても苦手だったので、…………攫われた事が何度かある私は、どうしてもウィリアムさんから手が離せないのです」
ウィリアムが処置そのものを怖がっていると誤解したのは、ネアがウィリアムの服を掴んで離さないからだろう。
すっかり怖気付いてしまった自分を恥じながらその理由を説明すると、ウィリアムはネアの頭を優しく撫でてくれる。
「その心配はない。ネアは今、俺の呼気を持っているからな。誰が近付いても、俺の肉体の一部としてそれを損なうことも、ましてや奪う事は出来ない。その為にあの場所で呼気を預けたんだ」
「……………ぎゅ、本当ですか?」
「…………っ、しがみつきながらその顔は反則だぞ」
「………む?」
呼気を持っている限りは安心だと聞いたネアは、またあの男性が現れたらどうしようと、ウィリアムの服を掴んだまま離せなかった手を、漸く解くことが出来た。
「始めるぞ」
「はい」
ざあっと足元で光った魔術陣に、ネアの上から被せられていた擬態の膜が引き剥がされて崩れてゆく。
今回ネアに施されていたものは、ガーウィンの潜入調査で使われた魔術の簡易版だ。
上に一層かけておくことで、そこに添付されたあらゆる魔術を捨てられるだけではなく、今回新たに添付された仕様として、認知なども含めて引き剥がせることになった、とても便利なものであった。
引き剥がした膜はその場で崩れて塵になってしまい、全てが剥がされてしまうと、ウィリアムは素早くネアを抱き上げる。
不安にさせないようにしてくれたその手厚さに、ネアはまた不安になった。
「これで、あの男との縁も綺麗さっぱりだ。さて、ネアの楽しみにしていた店に寄ろうか。サラミを買うんだろう?」
「……………ふぁい。お買い物に寄っている時間があれば、サラミを買いたいです。沢山買い占めると決めているので、あまり時間はかかりません。ですが………」
「ん?その店がある辺りからは、グレアムの統括地だから、ゆっくり買い物をしていて構わないんだぞ?」
「…………むぐ。ウィリアムさんにぎゅっと持ち上げられているのは、まだ危険が残っているからではないのですか?」
へにゃりと眉を下げてネアが尋ねると、ウィリアムはなぜかひどく魔物らしい目をして微笑んだ。
こちらは変わらず砂漠の民のような装いだが、おやっと目を瞠れば、いつの間にかお色直し済みであるらしい。
黒布だけを重ねた装束は、砂漠でよく見かける色とりどりの布を重ねたものになっていた。
変わらず黒が基調となってはいるものの、先程とは随分と受ける印象が違う。
これもまた、あの獣から身を隠す為だとしたら。
「俺がネアから手を離せないのは、今の君が俺の呼気を持っているからだ。この身の魔術に閉じ込めるような状態だからか、………そうだな。…………つい手が離せなくなるんだ」
「………むむ、魔術的なことはさっぱりですが、磁石的な効果だと考えました。まだ危ないからではないのですね?」
「ああ。俺までどちらが本物なのかを誤認していたこと自体は厄介だが、魔術証跡に触れておけば、いざという時には壊せばいいだけだからな。それに、グリムドールのような獣は、万象の魔術だけには逆らえない。だからこそ、万象の障りで生まれた町を最上の防壁として隠れ家にするくらいには」
そんな話を聞いて安心したネアは、ウィリアムに連れられ、クルツを借りたオアシスに戻ると、その町の転移門を使って中継地に飛び、そこから淡い転移を二度踏んで目的の町を訪れた。
災いの町からの帰りに立ち寄る予定だったので、てっきり近くにあると思っていたサラミ専門店だが、ネアが思っていた以上に遠い場所だったらしい。
あの町のあった砂漠から、幾つかの山脈を越えた違う国だと知れば、物理的な距離の開きにも安堵する。
とは言え、ここは事実上カルウィの属国にあたる隣国なので、訪れた町にはカルウィ風の装束の人々の姿があって、そちらを見てしまうと少しだけひやりとした。
ふと、真横に誰かの影が落ち、灰色の髪を目にしたネアは一瞬ぎくりとする。
けれども、その姿を認めてぱっと笑顔になった。
「……………ウィリアム。ネアに呼気を与えたのか?」
「グレアムさんです!」
「ああ。君なら彼を知っているかもしれないが、ソロモンという王子に遭遇してな。念の為の措置だから、帰りには取り戻すつもりだ」
「やれやれ、一瞬、どんな理由で箍が外れたのかとひやひやした。まぁ、シルハーンの介入がない以上は、彼も承知の上だろうが」
そう苦笑して肩を竦めたグレアムは、どうやらネアの身を損なう過度さかも知れない呼気について、真っ先に心配してくれたようだ。
「ああ。有事の際にはここまではと許された線引きの内側だからな。流石に俺も、許されない線を超えはしないさ」
「それを聞いて安心した。ネア、すまない待たせてしまったな。ソロモンに会ったのなら、絡まれなかったか?」
「………むぐ。求婚されました。たいへん不本意な上に、私はあの方が生理的に苦手です」
「……………成る程。それでウィリアムがその様子なのか」
理由が腑に落ちたものか、白灰色の髪を揺らしたグレアムも頷いている。
伸ばされた手が、ウィリアムに抱き上げられているネアの頭をそっと撫でてくれた。
「懸念が残るようであれば、俺が対処しよう。あの王子は中身が魔術のあわいから生まれた獣なんだ。人間が相対するには、悍ましい魔術の気配かもしれないな」
「……………君も、彼がグリムドールだと気付いていたのか」
「ウィリアム?」
怪訝そうな目をしたグレアムに、目眩しをかけられていたのは俺だけかもしれないなと、ウィリアムは苦笑している。
事の経緯を説明すれば、グレアムは妙だなと考え込む素振りを見せた。
「寧ろ、なぜウィリアムが識別出来なかったのかを調べた方が良さそうだ。ネア、アルテアとは会えているか?」
「アルテアさんは森に帰りました。魔術酔いでディノに服を着せて貰った羞恥心が癒えれば、きっと戻ってきてくれるでしょう」
「…………その癖も、そろそろどうにかしないとだな」
そう苦笑したグレアムは、やはりここがカルウィに近しい国であることを軽く考えなかったウィリアムが、わざわざ呼んでくれたらしい。
お土産を買う為だけに同行してくれるグレアムに、ネアは慌ててお礼を言った。
(多分、ソロモン王子の事を聞いておく為でもあったのだと思うけれど、そちらは大丈夫みたいで良かった………)
みんなが知っていたのであれば、そこに派遣された以上はさしたる脅威ではないのかもしれないと、やっと心から安堵する事が出来たネアは、本来の目的に向けて武者震いする。
(となると、残るはサラミの大人買いをするばかりなのだ!!)
やっと、未知の土地で過ごすわくわくとした思いが戻ってきて、ネアはウィリアムの腕の中で小さく弾む。
我が儘な人間は、不安がなくなった途端、一刻も早くサラミの専門店に行きたくなってしまったのだ。
そんなネアに、グリムドール問題はアルテアに何か仕掛けられたのだろうかとどこか遠い目をしていたウィリアムも、唇の端を持ち上げて優しく微笑んでくれる。
「沢山買うんだったな?」
「はい!林檎の香りのサラミと、杏のお酒を使った噛み締めサラミは必須なのですよ」
「それなら、急いで店に向かおう。グレアム、すまないが買い物の間だけ付き合ってくれ」
「勿論だ。ネア、俺とウィリアムがいるから、背後の心配はしなくていい」
「はい!」
かくしてネアは、念願のサラミ専門店への一歩を、乗りものな魔物の持ち上げのまま、踏み出したのだった。




