王子とグリムドール 1
災いの木と呼ばれる魔術書の木がある。
そんな災いの木が百年に一度落とす実から生まれるのが、白持ちの獣達だと言われている。
ネアはその中の二匹程を狩ったことがあるが、中でも最高位にあたる獣は知識を司る獣で、砂漠の下にある図書館の番人をしているらしい。
ネアが、その獣の中でも最長老にあたる獣について知ったのは、ダリルからのお使いにあたっての諸注意の中での事であった。
「ふむふむ。その方にお会いして、この迷路帳をお渡しすればいいのですね」
「ごめんね、ネアちゃん。またあの懲りない王子が何か企んでなければ、私が行くんだけれどねぇ」
「ジュリアン王子がこそこそしているのが、少し心配ですね……………」
「あれ本人は、解毒出来る程度の毒なんだけれどね。この国の膿出しも兼ねているから、良からぬものも集まるんだろうさ」
本来であれば、この迷路帳の配達は毎年ダリルが行なっている。
誰にも任せられない仕事と言うだけではなく、砂漠の下にある獣の住処には、定められた者しか立ち入れないのだ。
しかし今回は、第四王子が何かを画策しているという情報が入ったことで、そのダリルが動けなくなってしまった。
月の形と季節の魔術の系譜の定められた日にしか道が出来ないので、訪問が可能な時間が限られているのも問題である。
「ネア、……………毛が多い生き物に浮気しないかい?」
「ディノ、お仕事ですので浮気はしません。そして、その方は獣さんとは言え鳥類で、普段は人型なのだそうですよ」
「……………グリムドールなんて」
「そのお名前が、少し紛らわしいですよね。私が滅ぼしたのもグリムドールさんでしたが、まさかその方も同じ名前だなんて」
「本来は、あいつがグリムドールなんだよ。月の魔物の執着から逃れる為に、災いの木から生まれた後継者を育てて犠牲にした身勝手な男さ」
「まぁ、お名前を分けたのですか?」
「元々、その名前は質を表すものだ。ネアちゃんのディノでいうところの、シルハーンの部分だね。自由を確保する為には、それくらいは切り捨てようと思ったんだろう」
その本物のグリムドールは、美しい白孔雀なのだそうだ。
元々この世界にいる孔雀達は、美麗さを誇る美しい人型を取り、寵を競う事もある。
けれどもグリムドールは、白孔雀の姿で生み出されたまったく別の生き物というややこしい存在で、本が大好きで自堕落で、自由を奪われる事をとても嫌うのだ。
「あいつの存在を知る者達からは、気難しいと言われる事が多いが、好き嫌いが激しいだけだ。ネアちゃんは間違いなく好かれるから、安心して行くといい」
「グリムドールなんて……………」
「ディノ、ウィリアムさんも一緒なので、安心していて下さいね。そして、取引先の方に恋はしません」
「……………そうなのかい?」
「関係上、面倒な事になりますし、そもそも私にはディノという素敵な伴侶がいます。ディノより誰かを優先する事はないので、安心して下さいね」
「シルハーン、彼ならば大丈夫ですよ。誰かに気を許すとしても、せいぜい挨拶を返すくらいですから。変わり者ですね」
今回の仕事に同行してくれるウィリアムによると、本家グリムドールはかなりの変人なのだそうだ。
地下にある図書館と地底庭園をこよなく愛し、人型の生き物にはあまり心を許さない。
酷い時には、どれだけ声をかけても振り返りすらしない有様だそうで、ウィリアムの見立てだと、ネアに対してもせいぜい挨拶を返してくれるくらいであるらしい。
「十文字以上喋ったら、奇跡みたいなもんだね」
「ふむ。速やかに訪問し、ちょっぴり素敵な地下迷宮の中のお庭と図書館を拝見し、迷路帳を渡してさっと帰ってきますね。なお、近くにある砂牛サラミのお店で、お土産は買います」
「ご主人様…………」
かくして、ネアのお使いが始まった。
届け物である迷路帳は、毎年ダリルがグリムドールに渡している魔術符だ。
この迷路帳で、グリムドールは大切な図書館の増え過ぎた蔵書を併設空間に安全に保管する事が出来、その対価として、ダリルは希少な古代書物に関する知識を好きなだけグリムドールから得ることが出来る。
そんな関係について聞けば、やはりダリルはとても凄い妖精なのだとネアは思う。
なお、そのグリムドールとの魔術提携は、エーダリアには秘密なのだそうだ。
なぜと思うだろうが、隠者のように暮らしているグリムドールには、追っ手を警戒した認識の呪いがある。
ネアに影響が出ないのはディノの伴侶だからであり、エーダリアにはそれを回避する術がない。
なのでエーダリアは、ダリルの知り合いには、知るという事が災いになる砂漠の地下の住人がいるという事だけが知らされている。
「災いの木の最初の実から生まれた獣だ。ダリルは白孔雀だと話していたが、翼のある狼の姿も持っている。災いの木の双子の実から生まれているからな」
「……………もふもふしているのでしょうか?」
「ネア?駄目だからな」
「……………ふぁい。狼さん……………」
とは言えグリムドールは、災いの木そのものの子供ではない。
世界の様々なあわいや祝福が災いの木に宿り、その魔術を媒介にして生まれるのだという。
となると災いの木は経由地に過ぎず、実際の派生元はどこなのかは獣によって違うらしい。
ウィリアム曰く、最初のグリムドールは、知識の魔術から生まれたものなのだそうだ。
「ネアの知っている、グリムドールの鎖のグリムドールは、僅かに戦乱の質を帯びていた。俺の系譜に少し近いものだったが、因果の資質も少しあったかもしれないな」
「私のよく知る種族とは別に、雪食い鳥さんや雨降らしさん、更には孔雀さんもいて、グリムドールさん達もいるのですね…………」
「第六の種としては、統一性がないから大枠の分類は出来ていないままなんだ。今は精霊に分類されているが、エアリエルもそちら側だと言う者達もいる」
「まぁ、エアリエルさんも………」
さくさくと踏むのは砂漠の砂だ。
時折踏み締めると、きゅっと音を立てるが、砂漠の砂がこうして音を立てるのは夜だけであるらしい。
美しい、美しい砂漠の夜には、大きな月の影になった不思議な商隊の影が見える。
どこからか聞こえる物悲しげな歌声に惹かれてふらふらと迷い込むと、生きて帰る事は出来ないだろう。
ここに来る迄には経由地があった。
グリムドールが住処に選んだだけあって、この辺りの砂漠は魔術の特異点にあたる為に、転移が出来ないらしい。
ネア達は、クルツに乗って近くのオアシスまで来た後、残りの道のりは徒歩となっている。
砂漠に慣れていないネアの為に、ウィリアムが持ち運んでくれる手筈だったものの、夜の砂漠に昂ぶった人間がどうしても歩くと我が儘を言ったのだ。
(ウィリアムさんが、お届け先に仕事があってくれて良かった……………!)
今回の仕事は、ネアにしか出来ないものだ。
過分な祝福と守護があり、危険なグリムドールの住処に踏み込める者。
そして、ダリルの遣いとしての魔術的な証明の出来る、リーエンベルク所属の者。
その全ての条件を満たしているのはネアしかなく、残念ながらディノはそこには行けない事情がある。
そんな中、こうしてウィリアムが同行してくれているのはまさに僥倖であり、ウィリアムはと言えばその土地を見回るのが本日の仕事だというから驚きの幸運だった。
「ネア、疲れていないか?」
「はい!ウィリアムさんのお陰で、少し肌寒いくらいの気温で気持ちいいです。夜の砂漠は何て綺麗なのでしょう!」
「せっかく楽しんでいるところをすまないが、そろそろ、この辺りは気温がぐっと下がる。月影に入ると凍死しかねないからな。ネア、こちらに」
「むむ、凍死してしまうのです?」
黒髪に擬態をして砂漠の民のような装束のウィリアムに手を差し出され、ネアは自分の手を預けた。
色とりどりの黒の布を纏ったウィリアムは、砂漠に現れる高貴な亡霊のようでぞくりとする美しさがある。
「ああ。ネアの可動域だと、歩くのも危険なくらいに気温が下がる。魔術で防壁を作れない人間は、数秒で凍死するな」
「……………数秒で」
だからこそ、ここは不毛の地でありながらも賑やかなのだと、ウィリアムは言う。
遠い昔に砂に沈んだ都が今も呪われ続けており、秋から冬にかけての満月の夜にだけ、その地下への道が開くのだそうだ。
「ディノが来られなかったのは、その呪いのせいなのですよね?」
「ああ。シルハーンが来られなかったのは、この都が万象に呪われた土地だからだろう。万象の呪いを退ける為に、亡霊達が満月の夜の影絵に住み着いたままなんだ」
「ディノからも、自分から逃れる為に作られたあわいなのだと教えて貰いました。ウィリアムさんは、どうしてディノがこの都を呪ってしまったのかをご存知ですか?」
「シルハーンは、話さなかったんだな?」
「ええ。とても悲しそうに教えてくれたので、聞く事が出来ませんでした。ディノが辛い思いをした過去のことを話して貰うには、出発前であまりにも時間が足りなかったのです。本来なら、帰ってからディノに聞くべきなのですが、ディノの伴侶である私が都を訪れるにあたり、してはいけない事などがあれば教えて下さい」
ネアの言葉に、ウィリアムは短く頷いた。
こうして擬態していると人間に紛れることも多いウィリアムだが、この大きな満月のけぶるような青い光の下では、ひどく酷薄に見える。
いっそ、軍服姿の時にはない死神めいた仄暗さは、見慣れない異国の装束のせいなのだろうか。
「……………砂漠などの不毛の地になっている場所は、魔術的な災厄や障りで滅びた土地が多い」
そう呟いたウィリアムの横顔にも、月光が影を落とす。
はたはたと風に揺れる装束のウィリアムに抱き上げられ、ネアはその直後ぴしぴしと音を立てて凍りついた足元を見てぎくりとした。
(あ、……………月光が陰る……………)
それはどこか既視感のある光景で、見ていた風景にフィルターがかかるように、色相がざらりと入れ替わるかのような変化だった。
どこで見たのだろうと考えかけ、咎竜に出会ったあの場所も見慣れたアルバンの山とは空の色も空気の色も違った事を思い出す。
(ここは、青い……………。どこまでも、どこまでも、ひたすらに青い……………)
もう、向こうを歩いていた商隊は影も形もない。
凍りついた砂丘を歩けば、くおんと耳元の風が鳴り、ネア達はいつの間にか賑やかな町を歩いていた。
(あ、……………)
「サナアークとは違う趣きだろう。この辺りの文化はどちらかと言えば、ロクマリアやウィームに近い」
「ええ。サナアークは、カルウィなどの雰囲気があって、異国という感じがしました」
「同じ砂漠地帯だが、場所もかなり離れているからな」
賑やかな町並みは、見たことのない古い時代の町だとしても、教会や歌劇場などのあるような文化圏の意匠だった。
対するサナアークは、如何にもオアシスの町であり、その周囲に点在する過去の国々も砂漠の国のそれである。
砂漠の中にそんな町があるのは不思議な気がしたが、ウィリアムの説明を聞けば、元々砂地だった訳ではなく、障りを受けて草木も枯れ果てたが故の砂漠なのだ。
「この国は、万象を捕らえようとしたんだ。王女達をあてがい籠絡して、辻毒のようなもので縛り、手足を落として幽閉しようとした。……………シルハーンの祝福で荒地に花が咲いた光景を見て、祝福しか授けない魔物だと考えたんだろう」
「まぁ。…………そんな事をしでかしたのですね?お届け物が終わったら、それを考えた人達をもう一度滅ぼせますか?」
ネアがそう言えば、ウィリアムが喉を鳴らして小さく笑う。
その微笑みは少しも優しくないものだったが、ネアは怖いとは思わなかった。
「俺がもう滅ぼしたから安心していい。あわいの魔術に長けた国で、こうして影絵を作って自分達の魂を匿おうとしたが、それを永劫に閉ざしてここに置いているのも俺だ。多くの災厄の跡地と同じように、ここも、世界の終わりまでその災厄の日を繰り返し続ける事が義務付けられている」
「…………ここの方々は、隠れたつもりで檻に入ってしまったという事なのですね」
「ああ。そして彼等は、自分達がどのような状態にあるのかを常に知っている。満月の夜になると町が開き、様々な魔術特異地への通り道になるが、夜明け迄には滅びる事を繰り返すからな」
この季節のこの日にだけ、陽が落ちると古の町への道が開く。
そうして残されたのはここだけではなく、同じ国の別の町や王都への道は、また別の条件下で開くのだそうだ。
毎晩ではなく年に一度の定められた日にだけ悲劇を繰り返すのは、さすがにそれ以外の日々は眠らせておかないと監視が難しくなるからだと、ウィリアムが教えてくれた。
亡霊に近しくとも、決められた一日しか蘇らなくても、仮初めであれ生きている以上は、放置しておくと厄介なもの達が住み着いてしまうのだ。
「むむ、ウィリアムさんのお仕事が増えています……………」
「正直なところ手はかかる。だが、それでも残しておくべきものはある。俺達がこうして訪れているように、この地を訪れる者は他にもいる。誰かが知るという事で、戒めとしての役割を果たすからな」
町の人々の談笑が聞こえた。
まっとうな優しさを持つ人間であれば、それを憐れだと思うのかもしれないが、ネアは自分の大切なものを傷付けた人々が罰せられることにすかっとした。
(きっと、その罪を贖うべきなのは、ディノを捕らえようとした王族の人達こそなのだろうけれど……………)
だとしても、ネアはここに暮らす人達を憐れみはしないだろう。
所詮彼等は知らない人達でしかなく、ディノはネアの伴侶なのだ。
「ディノがここを呪い、ウィリアムさんが滅ぼしてくれたのですね」
「シルハーンは、生き物達を生きながら腐敗させ、この地に新しい物が何一つ育まれないようにした。それでも抗ったからな、俺が疫病と終焉を、そしてグレアムは、彼等の願いがその身を滅ぼすような仕掛けをした」
「…………ウィリアムさんやグレアムさんは、ディノの為に怒ってくれたのですね」
そう呟いたネアに、ウィリアムは、災いの足跡を広げられても不愉快だったからだと言いながらも、少しだけ微笑んだだろうか。
ネアはそんな魔物達が大切な魔物の側にいてくれた事が嬉しくて、持ち上げてくれているウィリアムの肩にぎゅっとしがみつく。
(…………何でも出来ると、そう思うのだろう)
人間は高位の魔物達をそうして侮り、磨耗する。
だからネアは見ず知らずの過去の人達に腹を立てているし、ウィリアムやグレアムが怒ってくれた事が嬉しかった。
「世界が万象や、終焉の在り方を知らなかった頃には、そのような事は度々起きた。ラエタ然り、ゴーモント然り。その証跡が残る事で、過ちを犯す者達が減ったな。…………だが、戦乱などは変わらずにあちこちで起きているが」
「…………こうして見ていると、町の人々に疲弊や絶望はないように思えてしまいますが………」
「その段階を超えたんだろう。どれだけ絶望するにせよ、毎年災厄はやってくる。であれば、その瞬間までは見ないふりをしようと思う事にしたらしい」
ネア達が歩き抜ける町は、夜の賑わいに満ちていた。
石造りの建物には魔術の火が灯り、店々は果物や料理などを並べて盛況ではないか。
人々は煙草をふかし、お喋りをしたり笑い合ったりしているが、言われてみれば確かに、町の時計塔を見る瞬間には、ぞっとするような壊れた無機質な目をしている。
観察していると、並木道の木には妖精や精霊はおらず、小さな獣達のような生き物の影もない。
残されたものの偏り方の異質さにも、その災いの気配は隠されているのだ。
(魔術で音を閉ざしていても、この中を歩くのは少しだけ怖いかも…………)
それはネアがディノの伴侶だからと言うだけではなく、この町に残る亡霊達は自分達とは違う生者を妬むのではないかという、亡霊への先入観のようなものからくる恐怖だろう。
もしかすると、彼等はそんな事にはもう興味がないかもしれないが、それでも異質な存在はとても恐ろしい。
怒りを抱くが同時に恐れもするという気持ちに、ネアはふすんと息を吐いた。
「ウィリアムさん、あのお店でしょうか?」
「ああ。赤い大屋根と蔓薔薇の店だ。通りの向こうにある庁舎に隣接して作られた、小さな舞台のある酒と食事の店になっている。店内には魔術の道はない。中は混み合っているから、俺から離れないようにしてくれ」
「はい」
今夜の仕事は、片道はほんの一刻ほどしかかからない筈なのに、ネアはずしりと心にのしかかる冒険をしているような気がしてきた。
往復で二刻。
届け先でどれだけ長くても半刻で、サラミを買っても更に半刻ほど。
それだけの時間で行って帰ってくる仕事の筈なのに、この土地に残る異様な空気に触れるだけで、ほんの少しの時間がとても長く感じられた。
赤い大屋根の店は、役人達と貴族達の御用達の店なのだそうだ。
この店の奥にある階段が、地下へと抜ける門代わりになっているらしいのだが、なぜそのような奥まった場所に設けられたのかは謎だ。
「……………ほわ」
「相変わらず混んでいるな」
ぎいっと大きな山柘植と蓮華水晶の扉を開けると、そこはとても不思議な空間だった。
酒と煙草の香りがぷんと漂うものの、下卑た酒場のような店ではなく、寧ろ高級店なのだろう。
貴族の男性達が優雅な夜を過ごすシガールームやカードルームを彷彿とさせるのは、天井から下がってる大きなシャンデリアのせいか、或いは床に敷かれた真紅の絨毯の印象かもしれない。
グラスを満たした酒を呷るいかにも放蕩貴族めいた青年達がいるかと思えば、店の最奥に作られた小さな舞台では、美しい亜麻色の髪の女性が歌っている。
ピアノの音に、熱心に政治について語る声。
葡萄酒の瓶をじゃりりと置く、氷のぶつかる音。
誰かの虚ろな笑い声に、グラスに葡萄酒を注ぐこぽこぽという音が重なる。
そして、店の中央の見事な薔薇大理石のテーブルには、明らかに高貴な身分だと思われる者達が陣取っていた。
「……………あれは、外の住人だな」
「ここの方ではないのですね………」
低く囁いたウィリアムに、ネアはぴしりと気持ちを引き締める。
こんな場所で酒盛りをする気がしれないが、このような所だからこそ得られる物もあるのかもしれない。
「それは、無情なことよ。あの女はなかなか美しかったものを」
「私は、早々に殺してしまうのに賛成かな。命を狙うようなご婦人は、とてもじゃないが怖くて。………あ!それは私の肉だったんじゃ」
「煩いな。肉を取られたくらいでめそめそしないでくれる?」
「残しておいたのに………」
「ちょっと、ソロモン、いい歳をした男が女々しく落ち込まないで頂戴!」
「アニル、それなら彼を叱っておくれよ。私の皿からご馳走を全部持っていってしまうんだ」
「ソロモンが、食べるのが遅いからでしょ!」
ネア達が通ったのは、そのテーブルの近くの通路ではなかったが、音の遮蔽をしていないものか、会話はしっかりと聞こえてきた。
寧ろ、映像のピントをぼかし一つのものに焦点を絞るかのように、賑やかな店内で、彼等の声ははっきりと聞こえる。
ネアがソロモンと呼ばれた男性にふと注意を向けたのは、生まれ育った世界でも聞いたことのある名前だったからだろうか。
ウィリアムに抱き抱えられたまま、視線を向けた先で、灰色の髪に滲むような金貨色の瞳がふっとこちらを見る。
そしてその男性は、こちらを見て微かに微笑んだような気がした。
「……………っ、」
ぎくりとしたネアの背中を、ウィリアムがしっかりと押さえてくれる。
敢えて宥める会話を持たないのは、このような場所で関係性を掴ませない為の工夫だろう。
ネアは、目の合ってしまった男性がこちらに来るのではないかとはらはらしていたが、幸いにも何事もないままに店を通り抜けることが出来た。
(外の人達だと言うし、目が合っただけで済んで良かった。…………届け物だけの仕事で騒ぎを起こしたくはないもの……………)
目立ちたくはないとは言え、ネアは過保護な終焉の魔物に子供抱っこされたままなので、きっと人目は引くだろう。
しかしそれは安全上どうしようもない事なので、兄と妹のような振る舞いを意識して誤魔化しつつも諦めるしかない。
見上げた天井も、先程のテーブルと同じ薔薇大理石だ。
それともこれはネアの知らない石材なのだろうかと考えながら、ぶら下がったシャンデリアの火に目を細める。
絵画の飾られた廊下を進み、また入り口と同じような扉を抜けると、そこは店の従業員用の区画らしい。
感嘆してしまう程に立派な螺旋階段を下り、ゆっくりと地下に向かう。
砂漠の中に忽然と現れた町というだけでも普通ではないが、それまでは普通の町で普通の店だったように見えた場所に、その階段はとても不似合いだった。
如何にも、ここから先は普通の場所ではないと主張するかのように、階段の先は深い闇に包まれている。
こつこつと靴音を立ててそこを下りながら、ウィリアムがそっと頭を撫でてくれ、ネアは、ふはっと止めてしまいそうだった息を吐いた。
「ここまでくればもういいだろう。ネア、さっきは大丈夫だったか?」
「……………は、はい。灰色の髪の方と、目が合ったような気がしたのですが、こちらを見ていたのかもしれません」
「ネアも擬態しているから、目に留まったとしても今後はないだろう。あれは、カルウィの、四十一番目の王子だ」
「……………四十………凄い数のお子さんが………」
「ネアがこれまでに見知ってきた王子達とは違い、順列からすると事実上継承権はない王子だが、この町を訪れるだけの伝手はあるらしいな」
「…………そして、あの方が人間だとは思いませんでした」
気弱そうな言動とは裏腹に、光を孕むような色と人間離れした美貌の男性を、ネアは、てっきり擬態している人外者だとばかり思っていた。
その種の勘は鋭いと自負していたが、見誤った事がまた少しだけ不安を上乗せする。
「あの目は、祝福の色だろう。星の系譜か月の系譜の加護持ちか、伴侶だろうな」
「むむぅ。カルウィには何やら面倒そうな王族が多過ぎます…………」
「はは、確かにそれは言えるな。とは言え、余程気に入られでもしない限りは、心配する必要はないだろう。言うならば、この町に入り込むだけの魔術の備えと知識があるからこそ、自分の身を危険に晒すような接触は持たない種の人間だ。俺は、どう見ても人外者に見えるからな」
「……………言われてみれば、そのような危機回避意識は高そうな方達でしたね。このような場所なのに、余裕があって伸びやかに過ごされていました」
(多分、音の遮蔽をしていなかったのも、その必要がないからなのだろう………)
ウィリアムの言葉を踏まえて考えれば、あれはただの、親しい者達で集まった宴席のようなものだったのではないかと思えた。
ここを選んだのは、グリムドールがそうであるように、災いの残る特異点を利用し、肩肘張らずに過ごせる空間として利用しているのかもしれない。
薄闇に包まれた階段をゆっくりと下りてゆけば、やがて壮麗な広間が現れた。




