カッタランの氷酒と砂糖花の氷菓子
カッタランの氷酒は、四年に一度しか飲めない嵐の日の酒だ。
雷の鳴る嵐の日にしか飲めないのは、この酒を仕込む際に使われる夜楓の樽の呪いが、雷を恐れるからだと言われている。
雷が一度でも鳴った嵐の夜であれば飲む事が出来、その作法を軽んじた者は翌朝になると姿を消してしまうのだから、なかなかに徹底している仕様だ。
エーダリアの治めるガレンの魔術師の一人は、その言いつけを破ってみたらどうなるのかを確かめようとしたところ、数か月後に壁の中からばらばらで発見されたのだとか。
そんなカッタランの氷酒が開けられたのは、とある嵐の日のリーエンベルクだった。
昼前まではいいお天気だったものが、午後から天候は下り坂になる一方の今日、とは言えこの急変は数日前から予測されており、午前中の見回りでは、ネア達も嵐に備える街を見て来たばかりである。
(お祝い嵐があるのは知らなかったな……………)
本日の嵐は、南風の精霊王と雷雨の妖精の恋から派生したものなのだそうだ。
収穫前の畑にも影響があるので、嵐の経路に当たる土地の人々からすればやめてくれ給えという感じではあるが、祝福の嵐が通る土地には豊穣の魔術が降る。
今回は雷雨が主体なので雨量はさして多くならず、しっかり防風と雷雨の対策だけしておけば、問題のない荒天であった。
「だが、収穫の近い麦畑もあり、祝い嵐では、機嫌を良くした妖精達が騒ぎを起こすことも多い。それさえなければ、歓迎しても良いくらいのものなのだが……………」
「麦畑については、遮蔽結界がどれだけ機能するかにもよりますね。土壌の系譜の者達が祝い嵐の祝福を望めば、内側から結界を破るという事もあり得ます。今回は、渡りを終えたばかりのムグリス達の力も借りておりますので、大丈夫だとは思いますが……………」
「まぁ、ムグリスさん達も働いてくれるのですか?」
「ええ。粒の揃わない麦を五袋、報酬として渡すことになっています」
そうするとムグリス達は、分け前を少しでも減らしてはなるものかと頑張って土壌の系譜の者達を見張るのだそうだ。
これは、畑の賢者でも現れない限りは、ムグリスの階位の方が上だからこそ出来る事である。
実際に土壌の系譜の者達と交渉や戦闘が発生したムグリスには、労いを込めて美味しい麦酒も配られる。
多少なりとも出費になるが、人間だけの力では細かなところまで管理しきれないので、祝い嵐ではこのような措置が取られるらしい。
そうして午後も少し回ったこの時間、全ての手配を終えたリーエンベルクでは、お疲れ様飲み会も兼ねた、二刻程の休憩が始まろうとしていた。
「今年のカッタランの氷酒は、兄上からの返礼品だ。お前がファンデルツの夜会で貰ってきた蜜飴に、とても感謝していた」
「まさか、ヴェンツェル様の憧れのお菓子だとは思いませんでしたので、ヒルドさんがすぐに思い出してくれたお陰で、まだ二個残っていて良かったです」
「あの方らしくないことですが、幼少期に絵本に出て来た飴を、ずっと覚えていたようですからね」
ヒルドは、夜苺の蜜飴をもし手に入れる機会があればこちらで買い上げたいと、ドリーから頼まれていたのだそうだ。
純正品の夜苺の蜜飴は夜の系譜の精霊達の大好物で、品質を保つ為に定められた菓子職人の手で、それも限られた数しか作れないものであるらしい。
勿論、よく似たお菓子を作ることは可能なので、同じ名前の夜苺の蜜飴風なお菓子はそこかしこに溢れているが、夜の系譜以外の者達が本物に出会える機会は限られている。
幼いヴェンツェルが読んだという絵本はヴェルリアでは有名な児童文学書で、葬儀の日に一人ぼっちだった男の子に、夜苺の蜜飴をくれる優しい夜の精霊が現れるのだそうだ。
小さなヴェンツェルが、その飴をどんな経緯で望んだのかは分からないが、夜苺の蜜飴は穏やかで美しい夜を与えてくれる甘露とされる。
どぉんと遠くで雷の音が響き、リーエンベルクの会食堂に集まったネア達は、重々しく頷き合う。
これこそが、待ち侘びていた飲み会の開始の合図なのだ。
「わーお。無色透明なカッタランの氷酒は、かなり高価なんだよね。さすが大国の王子だ」
「カッタランの氷酒の輸入経路は、兄上が開拓した外交ルートから得られたものだからな。一年に一度、五十瓶だけヴェルクレアに仕入れられる。政治的な交渉にも使われるものなので、こうしてウィームに入ってくることはあまりないのだ」
「瓶の中に詰め込まれた氷砂糖のようなものがきらきら光って、とても綺麗ですね……………」
「砂糖の系譜の祝福結晶で出来た氷砂糖だね。樽で熟成させたカッタランを、氷砂糖を入れた氷結晶の瓶に詰めて更に熟成させるんだ。無色透明ってことは、その氷砂糖の純度はかなり高いんだろう。場合によってはグラフィーツの酒かもしれないなぁ………」
カッタランの酒は、かつてはロクマリア領であった北方の島国で作られている。
その中でも希少なのがこの氷酒で、瓶の中に入っている氷砂糖の質によって五段階のグレードがあるらしい。
今回ヴェンツェルがお礼の品として贈ってくれたのは、どう見ても一級品で間違いなかった。
このグレードになってくると、砂糖妖精達ではなく砂糖の魔物が作った氷砂糖が使われている可能性もあるのだが、砂糖の魔物がヴェルリア王と懇意にしているところを見ると、そんな品物が紛れ込んでいても不思議はなかった。
「……………ネア、どうだ?」
エーダリアがそう尋ねたのは、カッタランの氷酒は夜苺の蜜飴との交換で贈られたようなものなのだからと、ネアに最初の一口を飲ませてくれたからである。
細長いグラスに入った無色透明のお酒を、ネアは恐る恐る一口飲んだ。
(……………!!)
「……………こ、これは……………美味しいです。……………もう一度言いますが、凄く美味しいです」
「ネアが可愛い……………」
「わーお、相当な気に入りようだぞ」
「………なぜなのだ。なぜ私が世界一美味しいと思うお酒はいつも、生産数の少ないものなのだ……………。くすん、美味しいれふ」
「……………ネアが……………凄く可愛い」
「ありゃ、気に入り過ぎて悪酔いし始めたぞ」
「………気に入ったようなら良かったが、そこまでか……………」
「であれば来年も、この酒を取り寄せさせましょう。あの方の弱味は意外に分かりやすいですからね」
「ヒルド……………」
またこのお酒を飲ませてくれると約束してくれるヒルドに、ネアは、涙を溜めた瞳を瞠ってこくりと頷いた。
あまりの美味しさにたったひと瓶ぽっちしかないと思い出して絶望したが、目の前のテーブルに置かれたお酒はみんなで楽しく飲むと決めていた。
つまり、優秀な人間の頭で素早く弾き出した計算によると、一人二杯も飲めばなくなってしまう事になる。
「私は、何年か前にも飲んだ事がある。そこまで気に入ったのなら、一人で飲んでもいいのだぞ?」
「……………ぇっく。みんなで飲むと決めたので、その楽しみは奪わせません。然し乍ら、なぜこの瓶は、プールくらいの大きさではないのでしょう」
「ありゃ。そんなに飲んだら危ないよ。……………シル、カッタランの氷酒って、中毒性があったっけ?」
「ないのではないかな………。それにネアは、アレクシスの店のスープでも、同じような反応をした事があるからね」
「そう言えば僕の妹は、気にいるとそればかり嗜む系の女の子だったね」
なぜか慄きながらそう呟いたノアに、ネアは涙目のまま、もう一口、美味しいお酒を飲んだ。
(氷河のお酒も大好きだけれど、あのお酒よりこちらの方が弱いお酒なのだと思う…………)
その結果、カッタランの氷酒はとても飲みやすい。
そんな、ごくごくぷはっと飲みたい美味しい飲み物を、細長いシュプリグラスでちびりと飲むのは責め苦以外の何物でもなかった。
「……………むぎゅ。美味しいです」
「ネア、私の分もあげるのに」
「現在の気持ちは、美味しいが百で、なくならないでが百万です。そこに、みんなで飲むと楽しいが五十で、私のお勧めのこのお酒を大切な伴侶にも飲ませてあげたいが百なので、ディノも美味しく飲んで下さいね」
「……………可愛い」
ネアが涙目でふるふるしているのが可愛くてならないらしい魔物は、そっと手を伸ばして一杯のお酒をちびちび飲むという、見た目はかなりの酔いどれ風の危険な飲み方をしている伴侶の頭をそっと撫でた。
そして、堪えきれずまた一口ちび飲みしたネアが涙目でじっと見上げると、なぜか両手で顔を覆ってしまった。
「ネアが凄く虐待する……………」
「……………シルの目線に合わせてみたら、僕にもちょっと分かった。酒席で涙目で見上げられるってわざとらしくて好きじゃなかったけど、ネアは例外かぁ………」
「ネイ……………」
「ヒルドもこっち側に来てみると、僕の事を叱れなくなるからね。ネアは普段の表情が凛としているから、余計にね」
「……………ぎゅ。また一口が止まらなくなり、気付けばグラスの残りが半分になっています。解せぬ」
ノアが何かを推奨したらしく、なぜかネアの席の近くに来たヒルドが無言で帰っていくという場面があったが、ネアはただひたすらに、グラスの中の愛すべきお酒を見つめていた。
(冷やして飲まなくても、氷砂糖の入ったカッタランの氷酒はとても冷たい。……………ミントの飴を食べた後に飲む水のようにひやりとして、僅かなプラムの香りと、雪の日の夜風の匂い。……………最後に、ほろりと甘い果実水の後味……………)
今日ばかりは詩人めいた評論家になるネアは、グラスの中の無色透明なお酒を、窓の向こうの木漏れ日に翳し、宝石を愛でるかのような甘い溜め息を吐いた。
グラスの中の愛おしい飲み物は、もはや残り僅かだ。
「……………おい、何でこの時間から酔わせた」
「アルテア、突然聞くけど、カッタランの氷酒って手持ちにあるかい?これ飲むと、僕の妹が最高に可愛いんだけど」
「…………は?」
そこにやって来たのは、砂糖花の氷菓子というカッタランにとても合うお菓子を持って来てくれた本日の使い魔である。
珍しく灰色がかった琥珀色のスリーピースを着ていて、少し着崩すように後ろ髪をちび結びにしている。
そこに眼鏡までかけたお洒落の上級者らしい雰囲気の変え方に、ネアは内心はおおっと思いながらも、視線はグラスに釘付けであった。
構って欲しいのかぼさりと頭の上に乗せられたアルテアの手に低く唸りながらも、ネアはグラスから目を逸らす事など出来ずにいる。
因みにこの眼鏡は、直前までカルウィの魔術回廊で魔術書の模写をしていたからなのだそうだ。
「……………ぷは。また一口飲んだ事により、まだある感よりも、そろそろなくなる感優勢となってしまいました。恐ろしい現実に打ちのめされてしまったので、アルテアさんの持ってきてくれたお菓子を、貪り食べるしかありません」
「……………ったく、酔ったな」
「むぐ。なぜはにゃを摘むのだ。酔ってませふ!」
「ほらみろ、言えてないだろうが。何杯飲んだんだ?」
「……………ぎゅむ。グラスの四分の三です」
「……………巨人の系譜の余地はない筈だがな。おい、その一杯でやめておけよ?」
呆れ顔のアルテアにそう言われ、ネアはぎぎっと首を軋ませて顔を上げた。
こちらを見たアルテアが、その表情にどんな憎悪を見たものか、小さく息を飲む。
「……………いいですか?私からこのお酒を取り上げる者は、何人たりとも許しません。いつぞやの、ファルトティーなる草木染めの染料的なやつを飲ませます。そして絶交れふ!」
「ご主人様……………」
「……………二杯までは許可してやる」
「わーお、アルテアが折れたぞ」
「カッタランの氷酒は決して強いものではないが、酩酊の祝福を持っているのが長年不思議だったのだ。このように、祝福として酩酊が授けられる事もあるのだな」
「エーダリア様……………?」
「す、すまない!つい……………」
「むぐ。エーダリア様が私を被験者にしまふ。……………もう二口でおしまいだなんて……………」
しょんぼりしたネアは、とは言えお菓子が来たのでと残りの二口はお菓子と共に美味しくいただく決意を固め、給仕妖精が予め用意してくれていたお皿に砂糖花の氷菓子を出してくれているアルテアの手元を、目をきらきらさせながら眺める。
「……………ほわ。何て綺麗なお菓子なのでしょう!」
この砂糖花の氷菓子は、実際には氷菓子ではないものの、まるで氷菓子のように見えるのでこの呼び名になったものだ。
小花を砂糖蜜に漬け込むと、生花のような瑞々しさを保ったまま中身は砂糖に置換される。
花の香りも残っているので菓子類の装飾によく使われるのだが、そんな砂糖花をふんだんに乗せて、ほろりとした甘さを氷に見立てたクラッシュゼリーと共に食べるのがこの砂糖花の氷菓子だ。
シンプルなお菓子だが、見た目が綺麗で美味しいので、菓子店などには必ずあるゼリーである。
「今回の砂糖花は、星薔薇と朝露菫だ。ゼリー部分は水蜜檸檬だが、少しだけ湖水メゾンのシュプリの香りもある」
「……………むぐ。……………むむ!檸檬の爽やかな酸味にシュプリとお花の香りがして、砂糖花がシャリらと甘いのが堪りません!」
「……………それと、味が偏るならこれだな」
「さくさくチーズクッキー!!」
よく出来た使い魔は、甘いものだけではと、チーズたっぷりの香ばしく焼いたクッキーも持ってきていた。
ぴりりとした黒胡椒が効いていて、永久運動の出来る組み合わせになる。
すっかり大喜びのネアの隣の席に座り、アルテアはなぜかノアの方を向いた。
「……………え、何?僕、まだ話がしたいだなんて言ってないよね?話を詰めるなら、冬毛が揃うまでは待って欲しいな……………」
「…………冬毛?あの狐の世話についてなら後にしろ。話があるのは俺の方だ。……………あの魔物の夜会に、まさかこいつを連れて行っていないだろうな?」
「……………おっと、そっちか。それについては、僕が同行した上で連れて行ったよ」
「ほお、この事故しか足元に敷き詰められていないような奴を、か?」
「うーん、確かにアルテアは心配するだろうけれどね、僕といると、僕しか事故らないから大丈夫かな。それも、昔に付き合っていた女の子に僕が絡まれるくらいだしね。ずっと僕が一緒にいたし、すぐにシルが攫って行ったけど、ネアがいたって事は誰から聞いたんだい?」
「ジョーイだ。シルハーンの対応からして、恐らくこいつだろうと考えたらしい」
「ありゃ。そういう当たりのつけ方もあるのかぁ………」
ネアは砂糖花の氷菓子とチーズクッキーとカッタランの氷酒を黄金のバランスで嗜む事に全力を傾けていたが、魔物達は僅かに考え込む姿勢を見せた。
どうやら白百合の魔物はあの夜会でネアを見かけ、これは誰だろうと、ほんの少しだけ興味を惹かれたらしい。
アルテアは、連れて行くにせよ、どうして自分を呼ばないのかと話しているが、選択の魔物が混ざると事故率が不可解な上昇を見せるので、ネアとしては、二人で出かけると決めたノアの判断は賢明だったと思う。
とぷとぷとくん。
グラスに二杯目のお酒が注がれ、微笑んだヒルドが、こっそり少しだけ多めにしてくれた。
エーダリアとヒルドも、カッタランの氷酒を美味しそうに飲んでいるし、魔物達にも行き渡っている。
ネアは、ふわふわとした幸せな意識の隅っこで、このお酒を作っている島を制圧すれば飲み放題になるのだろうかと考えていた。
「……………むみゅ。最後の一杯の一口目を飲んでしまいました」
「……………何だその手は」
「む。悲しいを共有せんと、アルテアさんのお袖を掴んだだけなのですよ?」
「アルテアなんて……………」
「伴侶が荒ぶり始めたので、ディノを椅子にします?」
「…………ずるい」
一杯目の最後の二口で氷菓子を制覇していたネアは、後はもうチーズクッキーとお酒でちびちびやるのでと、同じように氷菓子を食べてしまったディノの膝によいしょと座った。
しかし、腰に手を回されてしっかりとした拘束椅子が出来上がったところで、ネアは、鋭い視線をノアとアルテアの方に向ける。
どうやらそこでは、アルテアにカッタランの氷酒の所蔵があるという会話がなされているらしい。
ノアが買い取ると話していたが、アルテアは首を横に振ったようだ。
「ディノ、至急の案件が発生したので、ご主人様はこの椅子を放棄しますね」
「……………ネアが虐待する」
「っ?!おい!!」
「時々縛られてもくれる魔物さんなので、椅子にされるのも満更ではない筈れふ」
「勝手に膝に座るな」
「え、僕には座ってくれないのにどうして?!」
「……………ぎゅ。ノアは、カッタランのお酒を隠し持っていません」
「わーお、残酷だなぁ。直接懐柔しに来たみたいだぞ」
「アルテアさん、使い魔のものはご主人様のものなのですが、それを取り置いた功績に免じて、折半で許してあげますね」
「何でお前が飲む前提なんだよ。っ、…………この上で動くな」
「人間とは動くものでふ。何と我が儘なのだ」
膝の上に乗ってしまったネアが、大事なお酒の入ったグラスを持ったままじいっと見上げていると、アルテアは苦虫を嚙み潰したような顔をした。
向かいの席のエーダリアは、ネアがどうしてこれっぽっちで酔ってしまったのかを魔術解析しているようだ。
いそいそと研究セットのようなものを取り出して真剣に調べているので、テーブルにあまり広げてはならないと、ヒルドに注意されている。
「……………ひと瓶だけだぞ。それと、お前のこの状態に問題がないと判明してからだ。悪影響があるなら飲ませる訳にはいかないからな。覚えておけ」
「使い魔様!」
「納得したならさっさと下りろ。おい、何で寄りかかってきた」
「むぐ。椅子から椅子への移動に疲れました。魔物さんな椅子には、這い上がるという作業があってなかなか大変なのです」
「アルテアなんて……………」
「よーし、次はお兄ちゃんが椅子になってあげるよ。僕の膝の上なら、好きなだけ動いても構わないからね」
「ネイ……………?」
「ごめんなさい……………」
(おや……………?)
ネアは、今回の椅子はいつもの椅子とは違うようだぞと、横向きに座ったまま椅子の背もたれをくんくんした。
するとなぜか、首筋をくんくんしかけたところで、べりっと体を引き剥がされ、なぜかお口にチーズクッキーが放り込まれる。
「うむ。この椅子は、自動給餌機能がついていまふ。なかなか悪くありません」
「食ったら下りろ。それとも、ここに居座るだけの対価を払う覚悟でもあるのか?」
「……………ういっく。このお酒をくれるのなら、対価の一つや二つ、差し上げましょう!」
「ネア、こちらにおいで。少し酔いが深まったようだね。……………エーダリア、何か見付かりそうかい?敷かれた魔術があるにせよ、私には気配が薄過ぎて捉えられないようだ」
「この魔術経路を見るに、酩酊の祝福は願いに紐づくのではないだろうか。この酒を好めば好むほど、見合っただけの酩酊の祝福が与えられているのかもしれない……………」
「どれどれ、……………おっと。等価値交換の祝福魔術か。我を望むものには最上級の祝福をってやつだね。愛情や執着に応える、無対価の上級祝福だけど、こんな影響が出るとは思わなかったなぁ……………」
ネアはここで、ぽわぽわとした意識の中で、自分の置かれた状況と経緯を説明して貰った。
どうやらカッタランの氷酒には、お酒を気に入ってくれた人たちに上質な酩酊を授ける祝福があるらしい。
今回は、ネアがあまりにもこのお酒を気に入ってしまった結果、その効果がとびきり強く出てしまったのだ。
「多分だけどさ、あまり強い酒じゃないから飲んだ感じがないって思われないように、味で選んだ愛好家を気分良く酔わせるための一工夫をしたんだろうね」
「あぐ。これはチーズクッキーではありませむ」
「おい、指を噛むな!」
「ずるい、アルテアを噛むだなんて………」
「むぐ。チーズクッキーを噛もうとしたのでふ。ディノが隠しているのですか?」
「………食べるかい?」
「チーズクッキー!」
ネアは、そんな一言でどうしてディノが嬉しそうに微笑むのか分からなかった。
あまり口の中をチーズクッキーにしてしまうと、最後のお酒を楽しめなくなるので、お口に入れて貰った一枚を大事に食べる。
テーブルの上にはいつの間にか他のお酒の瓶も出ていて、夕刻にはまた嵐対策の執務のあるエーダリアは、他のお酒も飲むのであればと、ヒルドに酔い覚ましの薬の準備があるのかを聞かれていた。
(……………穏やかな一日だわ)
魔物達は、ネアが魔物のふりをして出たばかりの夜会での話をしているようだ。
自分を椅子にしているネアをじっと見たアルテアの眼差しの、どこか探るような平淡さが肌を滑る。
ディノの静かな声は、ネアがその夜会では食べ物に一切興味を示さなかったのだと話していた。
窓の向こうの空には、ずしりと重い灰色の雲がある。
時折雲影をくっきりと濃くするのは、どこかに雷が落ちたからだろう。
耳を澄ましていると、微かな落雷の音が聞こえた。
ほろ酔いなので全ての会話が理解出来る訳ではないのだが、耳に残るのは家族の声ばかり。
何でもない午後にこうして集まり、珍しいお酒と美味しいお菓子をいただく束の間の休息は、心をしっとりと潤してくれる。
ネアはそんな仲間たちを視覚のおかずにしながら、最後の一口を味わって飲んだ。
すると、喉がひんやりして甘さがほろりと残り、舌先に何かがしゃりんと転がるではないか。
「……………む?氷砂糖の塊が、グラスに入っていたのでしょうか?」
「ネア様……………?」
「何か硬いものが舌の上に残ったのですが…………」
ヒルドに紙ナプキンを取って貰って口の中のものを出してみると、そこには、とろりとした金色の小さな石があった。
明らかにグラスの中にはなかった異物であるし、こちらの世界で練り直されたネアには、取れてしまう歯の詰め物もない。
これは何だろうと摘まみ上げたネアに、ディノが酒精の祝福石だねと教えてくれる。
「本来は、浴びるように酒を飲む者が得るものだけれど、君の飲み方を気に入ったのだろう。薬だと思って飲み込んでおくといい。酒類に混ぜられた毒物を無効化する効果が、半年程は貰える筈だ」
「まぁ、そんな素敵なものが貰えるのですね!」
「久し振りに見るな。兄上が一度、この酒精の祝福石を得る為に、ウィームに滞在したことがあった。一晩飲み続けて漸く得られていたが、飲み方によっては二杯でも得られるものなのか……………」
王族には、常に毒殺などの危険がつきまとう。
自分で得たものしか使えないので、防御面で手堅いリーエンベルクを極秘訪問し、ヴェンツェルは酒精の祝福石を得る為に沢山のお酒を飲んだらしい。
付き添いのドリーは、大事な契約の子供がへべれけになり倒れそうだとかなり心配していたようだが、酒精の祝福石が生まれやすい祝福豊かな上等なお酒を浴びるように飲んで、何とか目的を達成した際にはたいそう喜んだのだとか。
ネアは、指先で摘まんだ黄金の祝福石をぱくりと口に入れ、えいっとそのまま飲み込んでしまう。
水もなしでご主人様が石を飲み込んだと魔物が慌てていたが、元の世界で毎日のように薬を沢山飲んでいたネアは、小さな錠剤サイズであれば液体がなくても飲み込めるのだ。
そう話したネアに、ディノが水紺色の瞳を揺らす。
「……………けれども、もう君がそのようなものを飲むことはないのだから、これからは水で飲もうか。喉に詰まらせてしまうといけないからね」
「ふむ。確かにこの体では慣れていませんでしたものね。今度からはそうします!」
窓硝子が風にかたかたと鳴る。
カッタランの氷酒がなくなってしまうと、ネアの心地よい酩酊は徐々に醒めてきた。
いつの間にか使い魔を椅子にしていたことに首を傾げながら、もそもそと自分の椅子に戻る。
「ネア、アルテアが、ファンデルツの夜会で出たタルトの試作品を持っているようだよ。一口貰ったらどうだい?」
「むむ、いいのですか?」
「…………コモンデの葡萄酒を出したところだからな、一つだけだぞ」
「やっぱり、僕の妹は食いしん坊じゃなきゃね」
「……………なぜか皆さんが、沢山お食べという感じになっています。この隙を逃さず食べる所存ですが、なぜなのだ……………」
ネアは首を傾げながらも、出された赤い実とフォアグラのタルトの試作品に喜び弾み、初めましてのコモンデの白葡萄酒も一杯いただいた。
ふと、先日の夜会の会場にも、見たことのないような美しい料理が並んだテーブルがあったことを思い出す。
けれどもなぜか、あのテーブルの上の料理には少しも心が動かなかった。
「後はもう、とろふわ竜かちびふわがいれば完璧なのですが……………」
「やめろ……………」
欲望のままにそう呟いたネアにアルテアは顔を顰めていたが、なぜかその日はとても伴侶に甘い魔物が、選択の魔物にちびふわ符を貼り付けてくれたので、素敵なふわふわを沢山撫でられたのだった。




