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白い闇と灰色の悪女




それは、数年に一度開かれる小さな夜会だった。

例えば、ファンデルツの夜会などとは比べようもない小さなもの。


そう説明されて、アディは比較に出された夜会についても考えた。

知っているような、知らないような、ぼんやりとした記憶の中で馥郁たる夜の香りが僅かに揺れる。



だが、リスメルの夜会は魔物達の夜会なのだ。

その分、悪辣で狡猾な者達が鎬を削る。



足元の床石には銀白の魔術の魚が泳ぎ、濃密過ぎる魔術を凝らせた黒い鳥達が羽ばたく。

がらんがらんと音を立てて鳴る鐘の音に、廃墟となったロクマリアの王宮に魔術の火が灯った。


崩れた壁と、真っ白なテーブルクロスのかけられたテーブルの上の銀の燭台の対比には不思議な美しさがあり、半分しか残っておらず夜空を覗かせた天井から吊るされたシャンデリアには、祝福石や月光や星屑の結晶石ではなく、ゆらゆらと揺れる魔術の火こそが相応しい。



なんて美しい夜だろう。


壊れていて残忍で、背筋の寒くなるような空々しい賑わいに満ちている。




「おや、君も来ていたのか。ハトムの階段は潰してしまったよ」

「はは、それは手厳しい。あれは良い遊び場でしたのに」



集まった魔物達の中でも取り分け美しい男がそう告げると、薄茶色の髪の男は苦笑いして肩を竦めた。

この男性は梯子の魔物であるらしい。


そう教えてくれたのは今夜の同伴者で、アディの義理の兄である。



「私の目に触れるところに、下賎な遊び場を設けたものだ」

「まさかあなた様が、そのような事を不愉快と感じるとは思いますまい。人間がざらざらと落ち、最下層まで落ちたものが獣に食われるくらいでしょうに」

「おや、私とて不愉快だと感じることもあるのだと、君は知らなかったようだね」

「そのようですな。そのお姿からすると、あなた様は私にも分からない私が誰なのかご存知に違いない。珍しいお声がけをいただいたのだと、それを成果として引き下がりましょう。今後は階段の場所を選びます故、どうかご容赦を」



優雅に一礼してその男性は去って行き、後方で、声がけの順番待ちを待っていた一団に会釈をする。

暗がりにぼうっと浮かび上がるような星々の中の恒星に惹かれ、小さな星が集まるようだとアディは思う。


そうするとそこに、星雲が生まれるのだ。




「今夜はお一人ですの?」



声にはならない牽制を抜け出し、誰よりも先に声をかけたのは、淡い水色の髪と瞳の美しい女性だった。


敢えてドレスを水色にする事で一粒の美しい宝石のような存在感を持つのだから、全てが計算尽くの装いなのだろう。


小首を傾げた姿は美しい一羽の小鳥のようで、アディは何と可憐なのだろうと感嘆した。



「そうだね」

「不躾なご挨拶で申し訳ありません。どうしてもお話ししたくて気が急いてしまったのです。こんなわたくしをお許しいただけますか?」

「ふうん。では、どんな話をしてくれるのかな」

「まずは、お飲み物でもいただきませんか?わたくしも、飲み物もなしにそのお時間を取るような無作法者ではありませんわ」



その会話がこちらまで聞こえてくると、アディの義兄が小さく笑った。



「愚かな子だね。偶然揃ったのではなくどちらかに合わせた揃いのものを飲むというのは、浅からぬ仲だと示す事だっていうのは、僕達の常識だっていうのに」

「あの方はそれを狙っていらっしゃると?」



だろうねと笑った義兄に頷き、その美しい男が、そんな夜会の作法を気にかけず狼の頭を持つ給仕から華奢なグラスを受け取るのを見ていた。


確かに義兄の予想通り、水色の令嬢は同じ飲み物を頼んだようだ。

得意げに微笑んだ女性に対し、周囲を囲んだ令嬢達がぎりりと音を立てそうに眦を吊り上げるのが分かり、棘だらけだが可愛らしい事だとアディは思う。



(誰が誰なのかすら分からないこの場所で、それでも恋をしようと思うのだから、彼女達は可愛らしい女性なのだろう)



何しろ相手の男性は、彼女の思惑を歯牙にもかけずに同じ飲み物を飲んでいる。

あれは、一人の女性からの想いを受け取ったという証ではなく、そんな企みすら無意味な事だと粉々にするメッセージだ。


それでも水色のご令嬢は頬を染めているのだから、アディはその生き物の無垢さと無防備さにはらはらさえしてしまう。



(私は、到底そんな風に夢見がちにはなれないな。……………けれど、そうなれたなら、どんな別の人生があったのだろう……………)



何しろこの夜会は、夜会というものの形を取る魔術より階位が高くない者達は、この場に集う者達の本来の姿や名前が認識出来なくなるという障りの夜会なのだ。


だから夜会を訪れた殆どの者達は、自分が話している相手が誰なのか、そして自分という存在がどのような者なのかすらを把握出来ないままにここにいる。



それは、アディも変わらない。



(自分がどのような気質で、どのようなものなのかは何となく分かる。記憶を失っている訳ではなく、分からないということは不愉快ではない。魔術的な覆いのかけられた仮面舞踏会のようなものというのは、まさに言い得て妙という感じなのだ……………)



夜会の会場の入り口には、大きな闇夜の祝福結晶を磨いた大鏡がある。


艶やかな湖水結晶の台座に飾られたその鏡を覗き込み、参加者達は自分の姿形を知り、その資質や素材を把握する。



(そして、それだけの武器を手に夜会に挑むの だ……………)



勿論、自分が望んで参加した夜会だということは、誰もがその段階で理解している。

誰かとお喋りしている間には自分を自分だと朧げに認識しているので、自分を認識している者から会話を振られたなら、問題なく応対する事も可能だ。


しかし、酩酊の中にいるかのように、そこから離れると多くのことが曖昧になってしまう。




「ここは不思議なところですね。悪い夢のよう」

「そうだね。そんな悪夢の曖昧さも、僕達の好むところだ。君は、この悪趣味さが愉快だとは思わないのかい?」

「自分を奪われるということは、あまり好きではありませんね。ですが、確かに悪夢にも悪夢なりの美しさがあるとは思います」



アディの言葉に、義兄はまた少し笑った。


今夜のアディは鮮やかな瑠璃紺色のドレスを着ていて、くるりと巻いた黒髪を、毛先をこぼすようにして緩く結い上げている。

ドレスの裾はけぶるような灰色で、美しい黒い靴が甘やかに床の影を切り取っていた。




「あら、ごめんなさい」



そんな声がこちらまで聞こえ、背後でふつりと重たい気配が動いた。

おやっと思って振り返ると、先程の美しい男を巡ってまた新しい展開があったようだ。


アディは、義兄が栗色の髪の女性に意味ありげに言い寄られている姿にくすりと笑い、心置きなくあの美しい男を巡る星々の集いの観察に精を出す。



(こうしてあの男性が気になってしまうというところは、私もあの女性達と同じなのだろう……………)




アディ達が立っているのは廃墟と化した王宮の片隅で、壁際に茂った大きな椿の木の真下だった。

なので、多少義兄の視線が逸れたとしても、もしくは、アディが鑑賞に夢中になっていたとしてもさしたる危険はない。



寧ろ、この自分すら曖昧になる邪で残忍な夜会で社交に精を出すよりも、ここで人々のやり取りを眺めている方が面白いではないか。



(私は、他人があまり好きではないから)



孤独は冷たくひりつくようで、ふと目を覚ました真夜中に一人ぼっちの恐ろしさに胸が潰れそうになる事もある。


けれどもアディは多分、他人を愛する事が出来ないのだ。


真摯に他人を愛する誠実さが足りずに自分の時間を優先させてしまうし、誰かに自分を委ねて疲弊する事に耐えられず、大抵の場合は逃げ出してしまう。


そんな事を繰り返してゆく内に、こんな身勝手で冷たい自分は、誰かを愛する事には向いていないのだと、アディは渋々ながらも理解した。


愛せないから愛されないのか、そもそもこれぞという愛に恵まれないからこそ愛せないのかははっきりとしなかったが、どちらにせよ得られないのだから仕方ない。


どんなに欲しくても、得られないという事は受け止めなければならなかった。

だからこそアディは、視線の先の美しい白い闇のような男を巡る女達の競り合いを可愛らしいと思う。


それは、自分には得られなかった情熱と素直さだった。



(例えようもなく一人で過ごす時間の安らかさを愛しているのだから、その上で誰かを愛する時間も欲しいと考える私が身勝手なのかもしれない……………)



きっと多分、世の中の殆どの人々は、一人上手だと主張していても誰かと過ごす時間の方がほんの少し好きなのだ。

そう思って自分を慰めるしかない。

でなければ、大多数の人々があんなにも上手くやってゆける筈がないではないか。




「あら……………」


そんな事をつらつらと考えかけ、アディは苦笑した。

自覚するなり淡く崩れて曖昧になってしまう記憶だが、そんな事を考えている間だけは自分が何者なのかを知っていたようだ。



(そうか、私はあまり他者と上手くかかわれないのか……………)



残念な事にと考え、ふうっと溜め息を吐く。

そうして、先程の美しい男と新たな女性とのやり取りの観察に意識を戻した。




「…………今は、わたくしとお話しされていますのよ?」

「まぁ、嫌だ。誰かを自分の物のように言うだなんて、身勝手にも程があるわ。誰と話すのだとしても、それはこの方の自由でしょうに」

「それなら、彼に選んでいただきますわ。こんな無作法な女性など、追い払って下さいまし」

「私が追い払うのかな?」

「…………っ、では、私がお断りしますわ。それで宜しいでしょう?」

「ねぇ、美しい方。伴侶気取りの女より、こちらで皆で話しましょうよ。甲高い声で鳴くばかりの小娘の相手なんて、つまらないでしょう?」

「何ですって?!」



(こんな戦いを、その場で見るのは久し振りだな……………)



かつて、そんな社交の場に出ていた事があった。

女達は着飾って並び立ち、高貴なカナリアのように囀って歌声を競っていた。


愛や恋の鞘当てをする彼女達を眺め、深い海の底から優雅な船上の貴婦人を眺める魚のような気持ちで、彼女達とは違う執着でやはり恒星の一つだった男を見ていたあの頃。



けれどもそれは、いつの事だっただろうか。



(……………本当に)



アディはいつも、心のどこかで彼女達を羨んでいる。


執着でも虚栄心でも、そうして誰かを欲する心の動きは、心が生きている証だ。

それはとても恵まれたことで、アディには得られなかった幸福がそこにあった。



視線の先の戦いは、どうやら後から来た黄昏色の髪の女性が勝利したらしい。

一人で戦った水色の女性より、何人かの仲間達の代表でこちらの輪に加わらないかという声のかけ方をした女性の方が上手であったようだ。


社交というものは、相手の気分を見定めないと簡単に蹴落とされてしまう戦で、白い闇のような美しい男性は、積極的に恋人を探しているようには見えない。



冷たい冷たい夜の瞳で、この夜会を退屈したように見つめている。



(うんざりしていて、せめて少しくらい愉快な事はないだろうかと考えているようで、けれども全てがどうでもいいようで……………)




だからこそ、その酷薄な美貌は白い炎のように鮮やかなのだろうか。



孤高だからこそ輝く王座のように、その人は誰とも違う美しさでアディの目を奪う。



(……………とは言え、間違いなく観賞用だ)



興味本位で手を出すには厄介過ぎるし、幸いにもアディは、あんな特等の魔物に目をかけられるような優れた女ではない。




「やれやれ、酷い目にあったよ」

「あの女性は?」

「一晩の恋のお誘いだね。なぜだか僕は、賢い女性からは本物の恋の相手にはされないらしい」

「それはきっと、どこかで何かの対応がまずかったのでしょう。男性がそのような空気感を出していかない限り、賢い女性は一晩とは言え遊びでいいとあからさまには主張しませんよ」



アディがそう言えば、今夜は君がいるからいいかなと義兄は笑った。


ほんの少しだけ、この男性は本当に自分の義兄なのだろうかとアディは疑っている。

けれど、こうして話していると不思議と馴染んだ感覚があるので、見ず知らずの他人という訳でもないのだろう。



「……………あなたは、この会場よりも階位が上なのですか?」

「そうかもしれないね」

「そのようにして、ここで自分が誰なのかを知っている人達はどれくらいいるのでしょう?」

「この夜会は魔術の理で派生する、……………そうだね、言うならば、場面の転換の為にカードを切るような役回りのある舞台だ。即ち、世界そのものの理に属するから、かなり階位が高い。ここで自分を保てるのは、せいぜい王族。或いは、ぎりぎり王族に準じる者くらいかな」

「……………どうやらあなたは、暗に自分の階位がかなり高いと伝えているようです」

「だからこそ、君はここにいれば安心だよと伝えているのかもね。……………彼が気になるかい?」

「観賞用としてはとても。ですが、お喋りをしたいとは思いませんが」



アディのその言葉に、義兄はくすりと笑う。


アディにアディという名前を教えてくれたのは彼で、本来ならこの夜会の場では名前など誰も持ち込めない。


ただし、アディはアディという名前を与えられたので、その名前を認識している。

君はとてもか弱いから、名前で形を作らないと危ないからねと、義兄は教えてくれた。



アディはとても弱い、今夜だけの魔物なので、名前がないと危ないのだそうだ。

そう伝えられた時、アディはふと考えた。



自分は本当に魔物なのだろうかと。




「それは残念、紹介してあげるのに」

「結構です。それより私は、こうして静かに過ごすのが好きです」

「壁の花になってかい?」

「ええ。ですが、あなたは好きなように楽しんで来て下さい。そんなに綺麗なのですから、きっと沢山の星を集められるでしょう。ただ、この場所は独特の美しさがあるので、私はそれを見ている方がずっと楽しい」

「はは、まさに君らしい返答だね。でも僕は、星集めよりも君とお喋りする方が楽しいかな。……………ありゃ」



こつこつと靴音が響き、すぐ近くに白い闇が立った。

アディの義兄は優雅に臣下のお辞儀をすると、物言いたげな男性の横をすり抜けてどこかへ行ってしまう。



(まぁ、……………)



紹介してあげるよと言っていたくせに、この場にアディを置き去りにするのかと呆れたが、この男性との間にはそれだけの超え難い階位の隔たりがあるのだろうか。




ふっと、こちらを見たのは澄明な夜の瞳だった。

清廉な水に一滴の特上の紺色の宝石インクを落としたような色合いには、肌をざらりと擦るような不可思議な熱が浮かぶ。



「……………君とここで会うのは初めてだね」

「あなたがそう仰るのなら、そうなのかもしれません。今夜は沢山の事が分からないままなのですが、初めましてとご挨拶するべきでしょうか?」

「……………いや、挨拶などいらないよ」



見上げた先で瞳が凍りつきそうな美貌だ。

アディは背筋が冷えるのを感じながら、けれども胸元を焦がすような不可解な熱に眉を顰める。



「……………申し訳ありません。あなたの気配は、弱い魔物である私には強過ぎるようです。失礼させていただいても?」

「君は魔物なのかな?」

「恐らくは。でなければ、ここには入れませんから」



少し離れた位置で、じっとこちらを伺う先程の一団の眼差しを感じた。

目立ちたくないアディは、これはひと時の戯れのようなもので、すぐにそちらにお返しするからと声高に言いたいくらいだが、静かな夜を奪った目の前の男の前でそれを言うのは不敬だろう。



(困ったな。視線に気付かれてしまったのかもしれない。見ていただけで、話をしたかった訳ではないのに)




「私が嫌いかい?」

「……………っ、率直に尋ねられるのですね」

「言葉を飾っても、仕方のない問いかけだろう。私は君に興味があるからね」

「嫌いと言うことはありませんが、厄介だなと感じてはいます。あなたは多分、すぐに退屈になるでしょうから」

「おや、それを決めるのは君ではないよ」



その通りなのだ。

だが、この男に興味があると言われたら頷くしかないアディからしてみても、こんな興味を向けられるのはあまりにも一方的な仕打ちだと言わざるを得ない。



「……………っ、」



ぞくりと肌が震えた。

いつの間にか隣に立っていた男が、アディの背中に片手を当てている。



(これではまるで、……………)



これではまるで、彼の同伴者がアディのようではないか。



それを嬉しいと思うよりは困惑と辟易が強く、アディは、どうやってここから抜け出そうかとばかり考えている。



「何も飲んでいないのだね」

「あまり飲み物を知らないのです。向こうで、どのようなものがあるのかを聞いてきてもいいかもしれませんね」

「そうして逃げ出すつもりなら、その必要はないよ。これを飲むといい」



そう言われて差し出されたのは、彼が呼び止めた訳ではなく、恐らく、事前に彼が給仕に頼んでいた飲み物のグラスだ。



(厄介な事になった……………)



シュプリや葡萄酒には使われない小さめのグラスは二つあり、まず間違いなく同じ酒だろう。

先程は綺麗に無視してのけた作法を使うのなら、この男は、アディを今晩の引き摺って歩く玩具に決めたらしい。


唸りたいような思いで差し出されたグラスを受け取り、アディは背中に触れている温度に気を散らされそうになるのを何とか堪える。


するりと滑らされた指先には危うい温度が宿り、けれどもそれは睦言ではなく、突きつけられたナイフのような鋭さなのだ。



「いけない子だね。瞳を揺らがせもせずに微笑みながら、君は私から逃げる事ばかり考えている」

「誤解ですとは申しません。やはり、私にはいささか荷が重いのです」

「そう言えば、私は、君を解放しなければならないと思うかい?」

「……………いいえ。残念ながら」

「それなら逃げようとはしない方がいい。このような夜は、何かと足元が危うい」



飲み干したグラスをふいっと消してしまい、アディの首元に触れた指先はとても冷たかった。

長身を屈めて耳元で囁かれた言葉に、光を孕むような瞳を吐息の触れそうな距離で見ていた。



くらりと翳ったのは、アディの意識だろうか。

その僅かな暗転は、眠気に負けてお気に入りの本を閉じてしまいそうな時の無力さに似ている。



暗い奔流に飲み込まれてしまって、体を投げ出して目を閉じたいという欲求のあまりの強さに、アディは敢えて持たされていたグラスの中の酒を呷った。

これを飲まない方がいいような気もしたが、何とか意識を酩酊から持ち上げたかったのだ。



喉を滑り落ちてゆくのは、芳醇な香りの甘い酒だったが、思っていた予測の最良よりは喉を焼いた。

とても美味しいが、こんな飲み方をするとなると、お酒にはかなり強い筈のアディにも重い。



「……………それならば、義兄の元に戻るべきかもしれませんね」

「やっと捕まえた話し相手を、どうして逃がさなければいけないんだい?」

「それはもう、本人が心よりそう願うからでしょう」

「ふうん。……………そこに立って会場を見回していた君には、何か特別に気になるものがあるのかな?」



静かな問いかけにはしかし、指先が震えてしまいそうな暗さがあった。


それでも白い闇は震える程に美しく、アディはその美しさに震えているのか、問いかけに込められた暗さに震えているのか分からなくなる。



ふつりと微笑んだのはきっと、自分が欲しいものを欲しいだけ奪える人だ。

それなのにこの瞳にははっとする程の孤独も滲んでいて、アディは呆然としながらその瞳を見上げる。



(その孤独に惑わされるのは、やめておいた方がいい……………)



孤独だからと言ってこの男が良いものに転じる訳ではないし、アディが丁重にもてなされるという保証にもなりはしない。



(あ、……………)



ここで漸く、アディは目の前の白い闇の形をした男が、ゆるやかな巻き髪を一本の三つ編みにしている事に気付いた。

こんな時だというのになぜか、その三つ編みをわしりと掴みたくなる。




「心を惹かれるものがあるかどうかは分かりませんが、先程まではあなたを巡る人々の駆け引きを見ていました。それと、崩れた天井画やあの燭台立てのような、この会場のあちこちの美しいものを」

「……………それなら、もう少し近くで見るといい」

「充分近いと思いますが」

「気付いていないのかな?君は少しずつ、私から逃げているんだよ。……………逃げてはならないと、言わなかったかい?」



そう言われてぎくりとすると、確かにアディは、無意識に何歩か後退してしまっていたようだ。

この白い闇を刺激しないようにしていたつもりなのに本能的に後退りしていた自分に、アディは天を仰ぎたくなる。



「……………っ、」

「困ったね」



こちらを見た男が、暗く暗く酷薄に微笑む。

頬に触れた指先にびくりと体を竦め、そんな自分の愚かさにアディは溜め息を吐いた。




「……………この夜会がお気に召しませんか?」

「そうかもしれないね。けれども、一定の階位を満たした者の参加は義務なんだ。このような場所から歪むものもある。監視の役割もあるんだよ」

「だから今回は、あなたが出席しなければならなかった?」

「とても不愉快な事にね。君はなぜ、ここに?」

「さぁ。……………この夜会の特性に飲まれてそれも忘れてしまいましたが、私は不都合な事はしない主義ですので、自分で行くと決めたのでしょう」

「それならば、この結末は君自身が受け止めるべきだろう」



弄う声音で眉と眉の間を指でなぞられ、アディは眉間に皺を寄せていたのだなと意識して表情を整える。



(でも、この人の言う通りなのだ……………)



自分でここに来て、ずっとこの男を見ていた。

それは言い逃れしようもない己の振る舞いで、こんな状況を招いている。



「…………何か食べるかい?」

「いえ。あまり興味がないので結構です」

「そうか。君はこのような場所では、そのように振る舞うのだね」

「このような場では……………?」



その呟きは独り言のようで、アディは、この男が、本来の自分を知っているのだろうかとまた眉を顰めてしまった。




「では、違う事をしようか」

「……………あなたと?」

「勿論、私とだ」

「……………例えばですが、遠慮させていただきますとお答えすると、あなたはどう返されるのでしょうか?」

「君はそう思うのだねと答えるだろう。私の行いには関係のない事だが」

「……………もしかして、あなたは私に怒っているのですか?」



ふと、アディはそう尋ねてみた。

返ってきたのは静かな静かな微笑みばかりだが、それで正解だというような気がする。



「不躾に観察したことを、怒っていらっしゃるのなら…」

「その程度のことで、不愉快になりはしない。……………そうだね。君がそこに立ち、微笑みながらも自分の先の一切を切り捨てるような諦観の目をして、……………愚かな程に無防備にとても疲れたようにしていたからかもしれないね」

「……………疲れていたつもりはありませんが」

「ここは、胸の底に溜まった砂を吐き出すような場所だ。誰もが自分ではなくなる夜会で、そんな目をしている事がどれだけ無防備なことか」

「あなただけでなく、どなたも誘ったつもりもありません。私は、一人向きの生き物なのです」

「では私の答えは、君がそう考えて、私に向かって初めましてと言うからだという事にしておこうか」



顎先を持ち上げられ、あっと思った時にはもう、淡い口付けが落とされていた。



本来なら抵抗出来た筈なのにそれが遅れたのは、どうしてもこの男から目が逸らせなかったからか、本当はとても怯えているからかもしれない。


きっと心は怖くはないけれど体は竦んでしまうのだと尤もらしい理由をぶら下げて、アディは、こちらの動揺を悟られぬように唇を引き結ぶ。



そして、落とされた口付けの甘さを思い出しかけ、小さく息を飲んだ。




「……………あ、」

「……………そのままにしておいで。やれやれ、ノアベルトにも困ったものだ。私が辟易としている事に気付き、よりにもよって君をここに連れてくるとはね」

「ディ…」

「今はその名前を呼ばない方がいい。私は夜会の間はここを出られないし、私自身もこの有様だ。おまけに、全てが曖昧になるこの夜会では、君は私の伴侶としても認識されない」

「そう、なのですね……………」

「向こうの部屋に行こうか。ここはとても忙しないし、ノアベルトは私の役割をある程度引き継ぐつもりなのだろう」

「……………向こうの部屋?」



アディという仮初めの名前を与えられた偽物の魔物がそう反芻すれば、こちらを覗き込んだ魔物は艶やかに微笑む。



「このような夜会では、広間で社交に勤しむことばかりが娯楽ではない。共に過ごす相手がいるのなら、もう少し密やかで愉快な夜の過ごし方もあるのだろう」

「……………っ、ち、ちょっと待って下さい!」

「私から逃げないようにと、言わなかったかい?…………君を見付けて私が救われたのだとしても、それが君を脅かさない何の理由になるだろう。ましてや、ここを訪れることは私にも秘密だったのだからね」



もう一度、今度は深く口付けられ、アディは堪らずに目を閉じた。


隠されていない残忍さと、人ならざるものの優雅さとしたたかさには、やはりどうしても太刀打ち出来ない。



「ここが、とてもあなたを削る場所だからと聞いて……」

「だから彼は、君を連れて来た。それは、私がそう思わずとも正しいのだとしても、君が危険に晒された事に変わりはない」

「……………ええ。そのようなことも、勿論私は承知の上でここに来ました。私の魔物が、この場所で義務の為に食い物にされるのを見過ごせないと考えたのです」

「…………であるならば、尚更だね」



そう微笑んだ魔物に、仕方なくアディは頷く。


夜会が続く限り、万象である伴侶は影響を受け、このような温度を保つのだろう。

ここでは、定められた枠組みを外してカードをシャッフルするという魔術の理の思惑通り、誰もが誰でもないものになり、魔物達の魔物らしさもまた剥き出しになる。


万象であるからこそ影響を受けやすいこの魔物は滅多に出席せず、大抵の場合は終焉の魔物が参加している夜会だが、今回は大規模な鳥籠が敷かれており、その終焉はこちらに足を運べない。



だから、ここに来たのだ。



アディの義兄は、どんな場面でも選択肢を与えてくれる魔物である。

彼は喜ばないだろうけれど、安全は保障するから出かけてみるかいと尋ねられ、アディは、冷ややかな怒りを向けられる覚悟で、それでも傍にいようと決めたのだった。



(ああ、そうか。私はもう、アディでなくてもいいのだ……………)



伴侶の名前の音を少し貰い、義兄が考えてくれた安全な偽名だった。

指輪の魔術を借りて魔物に擬態する為に、どうしても必要だったもの。



(そして私が、この夜に大事な魔物を一人にしない為に、どうしても必要だったものだけれど……………)



先程の口付けで、ディノはそれを剥がして、自分の伴侶を取り戻したのだろう。

こちらを見る魔物の眼差しは相変わらず凄艶であったが、ネアをどこかよからぬ部屋にエスコートする手には、いつもの魔物と同じ優しさもある。



誰もが誰でもないこの夜だからこそ。

名前や階位を忘れた無垢な魔物達は、今夜ばかりは特等の影にも触れることが出来る。


この世界が出会う筈のないものを交わらせて何を生み出そうとしているのかは、ネアには理解の及ばないところだが、目の前の魔物は既に強欲な人間のものなのだ。


だからネアは、愚かな伴侶を逃がさぬようにしっかり絡められた腕にぎゅっと掴まり、隙あらば白い闇のような美しい魔物を奪わんとする魔物達を冷ややかに威嚇した。


そうすると、肌に触れる視線がいっそうに鋭くなったが、ディノの気配はふっと柔らかくなる。


けれども満足気に微笑んだ魔物は、見慣れた魔物とはまた違うとても美しく邪悪なものであった。





「昨日の事は僕も怒られたけれど、多少の身内で揉めるくらいで、起きるかもしれない事故や摩耗を避けられる方がよっぽどいいよね。僕だって過保護でありたいけれど、こっそりシルが欠けていたら、僕の大事な女の子はきっと怒るだろうし」



どんな夜を過ごしたものか、翌日のお昼にリーエンベルクに戻ったノアによれば、あの後、会場に残された女性達は灰色の目の悪女の話ばかりをしていたそうだ。



他にも魅惑的な魔物はいた筈なのだが、それでもネアの攫った魔物は、あの夜の特等であったのは確かだ。


特別な夜が明ければ、万象の魔物の気配を纏って擬態をしていたネアの記憶は朧げになるように魔術を組んである。

ネアは、意地悪な義兄が、あの後は二人でどんな夜を過ごしたのかとしつこく尋ねてくるので、頬を染めて栗のソースをかけた夜霧草豚の塩釜焼に夢中なふりをした。



ちょっぴり魔物だったばかりのネアが、とても伴侶に何をされてしまったのかは、二人だけの秘密なのである。








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― 新着の感想 ―
[良い点] このお話、初めて読んだ時にまるで覚醒近くに見る夢のようなお話だと思って、 いつか読み返したいと思っていた回でした。 いつもの無垢さを廃して大型犬要素ゼロ(三つ編みで0.5%くらいあるかな)…
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