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84. 真夜中の夜会を訪れます(本編)



ひたひたと夜が満ち、美しい彩りでその艶やかさを誇る。


迎えの夜馬車を降りてふくよかな夜の香りを吸い込めば、艶やかで豊かな夜の森と果樹園の香りがした。



ファンデルツの夜会が行われるのは、真夜中の座の精霊の管理する夜の回廊の一つだ。

その入り口でぽかんと天井を見上げたネアは、竜が空中格闘出来るくらいに天井の高い大聖堂であるという認識で落ち着く。



壮麗な石造りの建物の天井は見えない程高いが、素晴らしい天井画があるのがぼんやり見える。

夜結晶の菫色がかった青い壁には精緻さのあまり今にも動き出しそうな彫刻があり、吊るされたシャンデリアは、三日月の淡い月光と星の光を宿した祝福石で作られているらしい。


シーグラスのようなざらりとした質感の壁を覗き込めば、夜結晶の複雑な色合いが滲むようで、時折砂金が星空のように煌めく。

ふんだんに飾られた白薔薇に、整っただけの豪華さを敢えて崩した薄紫のライラックの枝や野の花。


高い位置にあるステンドグラスから落ちる光は万華鏡を覗くようで、その光の中には星雲が住んでいたり、ダイヤモンドダストが降っていたりする。



「ほわ……………」

「ネア、柱の向こうに夜が広がっているのが見えるかい?あの夜は、祝福の厚い真夜中だけを集めたものなんだ」

「深呼吸をすると堪らなく気持ちいいのは、素敵な夜が集められているからなのでしょうか……………」



すっかり興奮してしまい、目をきらきらさせたネアが壁に施された彫刻を見に行こうとすると、さっと捕まえてくる意地悪な手がある。

むぐぐっと眉を寄せたネアに、アルテアは赤紫色の瞳を鋭く細めた。



「いいか、妙なものを手懐けるなよ。踏むのも駄目だ。食べ物に釣られて騒ぎを起こすなよ?」

「……………素晴らしい夜の回廊を鑑賞していた気分が台無しなのだ。お母さんです」

「やめろ」

「はは、アルテアは意地悪だな」

「ディノ、この壁をもう少し近くで見てもいいですか?」

「うん。私から手を離さないようにするんだよ」

「はい!」



今夜の二席と三席の装いは、漆黒の盛装姿だ。


尤も普段の印象から外れないアルテアの服装は、天鵞絨のような素材に合わせた真っ白なクラヴァットに、瞳と同じ色の宝石のブローチが艶やかな、優雅で貴族らしいデザインで、ウィリアムは、艶消しの柔らかな黒革を使った軍服のような装いである。


ただの黒革の軍服だと夜会では浮いてしまいそうだが、シシィの弟の仕立てたという今夜の装いは、同じ黒一色の中に結晶石をふんだんに使った刺繍があったりと、敢えて装飾を華美にしていることで夜会らしい優雅さが添えられていた。


前髪を全部上げてしまうと、瞳の印象の強いウィリアムは、とても冷酷そうな雰囲気になる。

それがまた良いのだと、ネアは重々しく頷いた。



「……………ネア?」

「ふふ、今日のディノは、きりりとした雰囲気で素敵ですね」



そう言えば恥じらって目元を染めてしまうのだが、万象として招かれた夜会だからか、ディノはいつもとは違う装いに身を包んでいる。



(今日のディノは、とても恰好いいのだ………!)



そう考えて自慢のあまりにふんすと胸を張ってしまうネアに、魔物は、きらきらの目で憧れの視線を向けられる事に慣れないのか、どうしてももじもじしてしまうようだ。


とは言え、ネアが荒ぶるのも致し方ない。

ディノの今夜の装いは、とろりとした艶やかな、けれどもぺらりとしていないしっかりとした生地で、光の角度によって紫がかった濃紺にも灰色がかった紫色にも見えるという素晴らしい色合いである。


デザインの雰囲気は、アルテアとウィリアムの中間という感じだろうか。

肩の片側だけに流したケープは、その足元までのドレープの陰影だけでも溜め息がこぼれそうな美しさで、細やかな刺繍に縫い込まれた夜の系譜の結晶石が星空のよう。


純白に夜の影を落としたような僅かにラベンダー色がかったクラヴァットに、いつもの三つ編みではなく、長い髪はそのまま下ろしている。


そうすると、ウィリアムとアルテアとで並んで、それぞれに雰囲気が違う装いながらも、きちんとディノが王様に見えるのだ。



「ふふ、今日は何て贅沢なのでしょう。いつもとは違う雰囲気の素敵な伴侶だけでなく、ウィリアムさんもアルテアさんも一緒なので、何だかわくわくします」

「……………ネアが可愛い」

「このドレスは、シシィさんが私を復讐の道具にしていないドレスなのですが、とっても素敵ですよね」


相変わらず、仕立て妖精のシシィは、どんな目的を秘めたドレスであれ、ネアを夢中にしてしまう魔法のドレスを作ってくれるようだ。



今夜の黒菫色のドレスは、しゃりんと心が弾むような可憐で繊細な美しさで、ネアはもう見た瞬間から恋に落ちてしまった。


ファンデルツの夜会の為に作られたドレスは、上半身部分には特別な装飾はない。


胸元で布地が交差するように深くくれているが、丁寧に体の輪郭を出すように仕立て、余分な装飾を省くことで女性らしい体の柔らかさを出すものなのだろう。


手触りの良い薄い天鵞絨生地に見えるが、薔薇布と呼ばれる花びらから紡がれた新しく開発された生地らしい。


菫色がかった漆黒のドレスは、特殊な生地に仕掛けがあり、触れると生地の流れが変わり色合いが絶妙に変化する。

シシィ曰く、触れた跡が残ることが、エスコートの魔物達を喜ばせるのだそうだ。


スカート部分は兎に角圧巻で、透けるような薄い霧夜のレースをこれでもかと花びらのように重ねてあるのだが、ヴェールのように軽やかなレースは少し動くだけでもひらりと揺れる。


安っぽくなるからと、しっかり段をつけてレースの重なりを見せる事はせず、裾あたりで少しの段差がつくくらい。

ネアの面立ちには似合わないふりふり地獄を避けてくれるあたりが、上品なドレスが得意なシシィらしい仕掛けだ。


重なり方を変えたスカートは複雑にしゃわりと揺れ、流行りのドレスより少しだけ裾を短くすることで、裾の部分でレースの重なりと、靴から足首までの輪郭を優美に強調する巧みさに、ネアは何度も鏡の前でくるりと回ってしまった。


レースの模様に合わせて縫い付けられた夜の祝福石が煌めき、真夜中の座の精霊王からの贈り物で作った手袋は、このドレスの為に誂えられたようだ。



「シシィさん曰く、本日のドレスは曲線に触れたくなり、更には淡布に内側を覗き込みたくなるような、けれども、私の面立ちに似合わせる為に、余計な冒険しない端正な淑女のドレスなのだそうです」

「…………虐待」

「いいか、お前はあいつの仕立てを少しは疑え。装飾や露出の多いドレスじゃなければいいという訳でもないんだぞ」

「解せぬ」

「うーん、俺は可愛いと思いますけどね。薔薇布を見るのは初めてだが、触りたくなるようなドレスだな」

「むむ、触ってみますか?色が変わってとても素敵なのですよ」

「おい……………」




王から三席までの魔物が揃って入場する事は稀なのだろう。


夜の座の大階段を登ったネア達が招待状を手に受付に向かえば、入場待ちのお客達に密やかな騒めきが揺れた。


受付と思われる場所には、何人もの真夜中の座の乙女達が控えており、高貴なお客様は、彼女たちが会場まで案内してくれるらしい。

ネアは、こんなところで美しい女性との出会いがあったのだと、密かにほくそ笑んでいた。



(会場までのお喋りが弾めば、後でお友達になれるかもしれない…………!)



しかし、得てして邪な願望というものは挫かれるらしく、ネアのそんな野望はあっさり突き崩されてしまう。


ネア達の時だけ、真夜中の座の乙女ではなく、背の高い男性が現れたのだ。



「お待ちしておりました。今宵は、私が皆様をご案内させていただきます」

「おや、君に会うのは久し振りだね」

「万象の君。覚えていていただきましたこと、光栄でございます。また、ご伴侶様を得られましたこと、このような場ではありますがお祝い申し上げます」


ディノが渡そうとした招待状を恭しく受け取ったのは、受付をしている真夜中の座の乙女達ではなく、銀髪の髪の美麗な男性であった。


少しだけ気難しそうな涼やかな目元と男性らしい美貌が、漆黒の盛装姿にとてもよく映える。

ネアと目が合うと、はっとしたように瞳を瞠り、穏やかに微笑みかけてくれた。



(わ……………)



鋭い印象が、微笑むだけで雰囲気をがらりと変え、グラストやドリーなどを彷彿とさせる穏やかな眼差しになる。

綺麗なお嬢さんとお近付きになれなかったネアも、その微笑みには魅せられてしまった。

儀礼的な挨拶の微笑みではなく唇の端を持ち上げると、リイカと名乗った男性はもう一度お辞儀をしてくれた。



真夜中の座の精霊であるらしい男性は、やはり漆黒の装いである。

ネアのちょっぴり心許ない語彙力で言えば、王様の下に仕える宰相のような服装という感じだろうか。



「本日は、ファンデルツの夜会にお越しいただき、有難うございます。一族の者より、こちらを皆様にと。勿論、魔術の繋ぎは切っております」


そう差し出されたのは、透明な鉱石の箱に入った結晶石のようなものだった。

この手の鉱石の箱は、薄く薄く切り出した鉱石で作られるので、決して重たくはない。



「食べ物だろうか。…………ああ、雪菓子だね」

「ええ。真夜中の最奥に育ったものは、夜苺のような香りがするそうです。なお、あちらで女性のみに配られている夜苺の蜜飴などもございますので、併せてお楽しみ下さい」

「……………夜苺の香りの雪菓子……………」



ネアが思わず小さく弾んでしまえば、アルテアが呆れたような目をする。


皆さまでと渡してくれたお菓子だが、リイカはそれをディノに渡してからこちらを見て微笑んだので、恐らく、女性のお客用のお持たせを、ディノの伴侶だということで格上げしてくれたのだろう。


その辺りの心遣いはこちらにも分かるもので、ネアはディノが手渡してくれた水晶の小箱の中で煌めく甘味に、むふんと頬を緩めてしまう。


一人一粒の夜苺の蜜飴も、ネアには、飴玉が五個程入った小さな袋で渡してくれたりと、入り口でもう心をいっぱいにしてくるとは、何とも心憎いファンデルツの夜会である。


ネアは、お菓子を沢山くれるこの精霊がすっかり気に入ってしまい、実は真夜中の座の乙女の案内が良かったなと思っていた気持ちをあらためた。



前に立ち案内をしてくれるリイカの服裾が翻り、夜の色の中でも漆黒の軌跡が残る。


こつこつと床を踏む音がして、夜の中を歩いてゆく。

あわいの列車で訪れた夜の町もその中にあったが、日常を彩る夜の深さと、真夜中の座の特別な場所に満ちる夜はやはり違うのだ。


会場は、普通の夜会であれば暗すぎる程の明かりしかないのだが、だからこそ、人ならざる者達の輝きが星々のように光る。



すうっと芳しい夜の香りを吸い込み、それだけで胸がいっぱいになった。


壁を這う蔓薔薇にはぼうっと祝福の光が宿り、ちらちらと不思議な煌めきを宿した水が流れている。

足元には夜の光ごしに大きな木の影が落ちているのに、どこにも大木が見当たらないのも不思議な美しさだ。



(奥に大きな木が一本あるけれど、もっと大きな木がなければこんな影は出来ない筈なのに……………)




「ディノ、あの奥にロサさんがいます」

「白薔薇は夜との相性が良いからね。…………ヨシュアもいるようだよ」

「……………あちらに立っている女の人は、何て綺麗な髪色なのでしょう」

「ネア、あれは夜誘いの妖精だから、近付かないようにな」

「むぅ。少し残念ですが、見るだけで満足しますね」



会場には様々な人外者達が溢れていた。

高い天井から下がるシャンデリアに、その間を縫うように垂れ下がる薔薇蔓の美しさ。

床石の結晶石は、人々の影を映して湖の底を見渡すかのような奥行きがある。


多くの人々が漆黒の装いであるのは、こんなにも夜の色に映えるのだとネアは目を瞬いた。

人外者達の髪や瞳の色が煌めき、ドレスの裾がきらきらと光っている。



「もう少ししましたら、我等の王よりご挨拶させて下さい。本来であれば先に伺うべきなのですが、ファンデルツの魔術が踏み固められるまでは、真夜中の座から動けないのです」

「うん。構わないよ」



鷹揚に頷いたディノにリイカは頭を下げた。

そうすると、会場にいた何人かの人外者達が同じようにこちらに一礼する。

恐らく彼等も、真夜中の座の精霊なのだろう。


騎士姫のような黒髪の美しい女性や、妖艶な藍色の髪のドレス姿の美女。

儚げな雰囲気の黒髪の男性や、ゆるやかに波打つ青銀色の髪の美しい青年など、真夜中の座の精霊達はネアがうっとり見惚れてしまうような美貌揃いだ。



(ミカさんはいないのかしら……………)



ネアは、お気に入りの精霊の一人であるミカの、コロールの水路の町で見た美貌を思い浮かべる。

見る限りは姿がないようだが、会場のどこかにいてくれるだろうか。


ネアが今夜の夜会に僅かな親近感のようなものを覚えるのは、そのミカを知っているからだ。

是非に挨拶したいので、どこかで会えるといいなと考えている。




「これはこれは、万象の君」

「……………やあ、また久し振りになってしまいましたね、レイノ」


そこにやって来たのは死の精霊の二人組みで、女性を同伴している様子はない。

二人ともやはり漆黒の装いで、その色が素晴らしく似合っていた。



「ナイン、系譜以外での仕事はいいのか?」

「……………ウィリアム。さりげなく帰そうとしなくても、そちらは問題ない。…………ダンスカードが空いていれば、私の名前を加えておくといい。鼻歌くらいは歓迎するぞ」

「ぐるる、あなたとは踊りません!」

「ナイン、悪いがこいつのダンスカードは既に埋まっている。同伴者がいないなら他を当たれ」

「まったく、才能の独占は良くないぞ」

「う、歌いませんからね!」



しかし、どういう訳かネアは、リシャードと踊る事になった。


何てことを決めてくれたのだと、悲しい目でディノを見上げると、困ったように微笑んだ伴侶の魔物はその理由を教えてくれた。



「この夜会に、黎明の座の精霊達が来ているらしいんだ。彼女達は死の精霊を嫌がるから、一度だけ踊っておくといい」

「……………むぐ。それなら、まだもう一人の方の方がいいのです」

「はは、レイノは可愛いなぁ。という事ですので、…」

「ネア、すまないがナインの司るものの方が、牽制になる。アンセルムが司るのは死の静謐だからな」

「……………むぎゅう」

「いやいや、より彼女と相性の悪い相手を充てがおうとしているだけですよね?!」



そんなアンセルムの言葉に魔物達を見ると、ささっと視線を逸らされるので、その理由で間違いないようだ。

ネアは裏切られた思いで足踏みしたが、すぐに浮気を心配したり、グラタン侵食を気にするような魔物達なので致し方ないのかもしれない。


思わず、隣で歓談が終わるのを待ってくれているリイカを見てしまったが、こちらは死の精霊達と魔物達の関係を興味深く見守っているようだ。


とは言え優しいこの精霊は、眉を下げたネアを不憫に思ったものか、通りがかった他の真夜中の座の精霊に何かを言うと、その女性がどこからか取り出した夜苺の蜜飴をくれる。

これで飴が十個になったので、ネアは少しだけ心が穏やかになった。



死の精霊達とは一旦そこで別れ、まず最初に向かったのは会場の左側の区画だ。


淡く微笑んだリイカが、こちらはご案内しておきませんとねと連れて行ってくれたのは、ネアがぱっと顔を輝かせてしまうほどの料理が並んだテーブルで、途中で呼び止めた給仕は、お盆の上に今夜提供される全ての飲み物を揃えていた。



「まずは、こちらで味を見ていただくと良いでしょう。シュプリは三種、グラスの数に限りがありますが、今は氷河の酒もあります」

「まぁ、であれば氷河のお酒をいただいてもいいですか?大好きなお酒なのです」

「……………ネアと同じでいいかな」

「タンタベルと夜陰の葡萄酒を」


ウィリアムが選んだのは、淡い藍色の液体の入ったグラスで、じっと見つめたネアにも一口くれるらしい。

アルテアが選んだのは、こっくりとした赤葡萄酒の入ったグラスだった。


「真夜中の葡萄酒だ。真夜中の系譜で作られるもので、あまり外には出ないものだな」

「なぬ。次はそれにしてみますね」

「赤はかなり強い。お前が飲むなら甘口の白にしておけ。甘口だが後味はさっぱりしているからな」

「とても美味しそうなので、こちらにある、薔薇のようにくるりと巻いた素晴らしいローストビーフに合いそうです。…………これは、デザートですか?」

「そちらは、夜の雫を使った前菜ですよ。甘く煮た赤い秋の果実を乗せたフォアグラのタルトですね」

「……………二個食べてもいいですか?」

「ええ、何個でもどうぞ」



艶々とした赤い実が乗せられた一口タルトは、フォアグラと合わせて甘塩っぱい味わいが堪らないものであるらしい。


そのようなものがお好きならと、リイカは幾つかの料理を教えてくれると、優雅に一礼して去っていった。



「むふぅ!このタルトは何て美味しいのでしょう。見た目がお菓子のように可愛いのも、とっても素敵です。箱詰めにして沢山持ち帰りたいくらいですが、まだまだ未知のお料理があるなんて…………」

「会場に着いた早々に料理のテーブルに案内されるなんぞ、お前くらいだぞ」

「……………むぐ。そのお陰で、私はまだ誰にも荒らされておらず、全てのお料理が並んだテーブルに出会えたのです。それに、元々この夜会は美食の夜会と言われているのですよね?」


こてんと首を傾げながらも、ネアは、リイカのお勧めの新鮮なチーズをお皿に取った。

むちむちとしたチーズの内側はとろりとしていて、燻製した香りのいい生ハムが巻かれている。

薄っぺらくない濃厚な味わいの削り生ハムは、薫香が素晴らしくとても美味しい。


手が込んでいるものと、シンプルだからこそ美味しいものの組み合わせが秀逸で、ネアは小さく弾んでしまう。



「ネア、一口飲んでみるか?」

「はい。いただきます!……………むむ、きりりとした味わいでとっても美味しいです。かなり冷やしてあるのに、香りがふわりと残るのが素敵ですね」

「夜の系譜は、酒類の収集にも熱心だからな。初めてのものは、巨人達の系譜の関わりがないかをアルテアに尋ねた方がいいが、色々と試してみるといい」

「はい!」




ファンデルツの夜会は、晩餐会と音楽会、そして舞踏会の良いところ取りをしたものだ。


これは、享楽と音楽、そして美食が夜の座の質だからこそなのだが、一つの系譜が開催するものなので、特別に規模が大きくはないものの、最も楽しみに満ちた夜会として名高い。


参加者は数の上限があり、招待状が入手出来なくて荒ぶる者達も多いのだとか。


まずは歓談の時間となるので、本来なら今は挨拶回りの時間なのだが、ディノ達は階位的に自ら動く必要はない。


ネアはその優位性を有り難く利用させていただき、人影のまばらな料理テーブルを占領しようと思っていたのだが、さすが美食の夜会と言われるだけあって、社交などは投げ出し、この時間を利用せんとする人々もいる。



「ほぇ、ネアだ」

「まぁ、ヨシュアさん。いつもとは雰囲気が違って凛々しい感じですね」

「今夜は真夜中の座の夜会だからね。僕は今迄はあまり来なかったんだけど、イーザの知り合いから呼ばれたんだよ」


こちらにやって来たヨシュアに声をかけられ、ネアは意地汚く、実は二個目ではなく三個目の赤い木の実とフォアグラのタルトをお皿に乗せたまま振り返った。

一緒にいるイーザも黒衣がよく似合っており、どこか怜悧な印象が際立っている。



「ご挨拶に伺うのが遅くなりました。これはお美しい」

「ふふ、褒めていただいて有り難うございます。イーザさんもとても素敵ですね」



ネアがそう言えば、微笑んだイーザの羽が僅かに開く。

霧雨のような銀色の筋が入った羽が漆黒の服を鮮やかに浮かび上がらせ、そこに落ちるのは夜の光だ。



「シルハーンは、この後の演奏ではどこに座るんだい?」

「真夜中の座のあたりかな。このあたりにいてもいいけれどね」

「それなら、音が正面から届く真夜中の木陰の辺りがいいと思うよ。イーザの…」

「ヨシュア!」

「……………ふぇ。きっとそこがいいんだよ」

「では、その辺りにしようかな。ネア、向こうに大きな木が見えるだろう。演奏の間はあの辺りが良いみたいだよ」



ディノが視線で示したのは、屋内に生えた立派な木だった。



「大きな木が生えているのを不思議に思っていたのですが、あの木陰の椅子に座ったらとても素敵でしょうね。それまでに沢山食べておきます!」

「お前はまずそこなのか…………」

「アルテアさんは、このタルトの構造を覚えておいて下さいね。再現していただけるなら、予約を入れておきます」

「お前は、俺が何でも作ると思うなよ」

「むむぅ。では、このお料理を作った料理人さんを押さえておくべきなのでしょうか…………」

「ネアが料理人に浮気する……………」



悲しげに呟いたディノがどこからか取り出したのは、自作の砂糖菓子だ。

これはほろりと口の中で溶けてしまうので、お腹に響かない。

ネアは、伴侶を鎮めるべくこれもぱくりと食べてしまい、ディノを恥じらわせた。



ヨシュアとイーザとお喋りしていると、どこからともなくゴーンゴーンと鐘の音が響いた。


ファンデルツの夜会は人ならざる者達の為のものなので、お城の夜会のように号令の合図で声を張る者はいない。

時間の座のものなので、時報のような鐘の音が鳴らされるのだそうだ。



(演奏会が始まるのだわ……………)



わくわくしたネアが唇の端を持ち上げていると、ウィリアムがそつなく片手を上げて給仕を呼んでくれた。

ネアが空っぽにしたお皿を片付けてくれた給仕と入れ違いに、別の給仕がやって来て、飲み物の注文を取ってくれる。


他の来場者達にここまで手厚い様子はないので、やはりディノと一緒にいることで優遇されている部分も多いのだろう。



美味しそうなものはひととおり食べてしまい、ネアは演奏会の間の口内環境を思案し、夜苺のムースのグラスを取ると素早く食べた。

これで演奏会の間は、苺とシュプリな気分で優雅にやれるだろう。



「………ったく。もう充分だろうが」

「なぬ。これはまだ前編なので、ダンスの後にまたこちらに立ち寄るつもりです」

「ほお、そのドレスを着たままでか?」

「むぐる……………」

「ほぇ、僕はまだあんまり食べてないよ」

「ヨシュア、演奏会の後にしましょう」

「イーザが意地悪だ。僕は好きなように過ごすんだよ」

「では、そこで大人しくしていて下さい」

「……………ほぇ、僕を置いていくのかい?……………ふぇ」

「ヨシュアさんも、あちらで一緒に演奏を聴きませんか?お食事は、幾つかささっとお口に入れてしまえばいいのです」



一人で置いていかれると知り悲しげに立ち尽くしたヨシュアは、ネアの提案にこくりと頷いた。

ネアが唇の端をアルテアに指先で拭われている間に、ぱくりぱくりと食べてしまうと、慌てたようにイーザの隣に寄り添っているので、やはりこの魔物はイーザが大好きなのだ。



見上げれば、ほうっと溜め息を吐きたくなる夜が満ちている。

ひらりひらりと翻る黒いドレスの波間は、夜の揺らぎのようだ。


本格的な演奏の前に流れ始めた柔らかな音楽に、ネアは、何度でも心が浮き足立つのを感じた。

どこかで散った薔薇の花がはらはらと舞い、ふと、真夜中の座の王座の方に鮮やかな葡萄酒色が揺れたような気がした。




(真夜中の座の精霊王は、どんな人なのだろう……………)



ネアの予想では、漆黒の髪かリイカのような銀髪なのかなと思っているが、こちらの世界では夜もとても色鮮やかだ。

きっと綺麗な人なのだろうと思えば、ディノに挨拶に来るというその時に、素晴らしいレースのお礼を言うのを楽しみにしていた。



他にも知り合いはいるだろうかと会場を見回せば、ひそひそと興奮気味に囁き合っている一団が、狼狽えたように視線を逸らす。

優雅な夜会のそこかしこでそんな囁きが聞こえてくるが、これはもう仕方のない事だと割り切っている。

何しろこの辺りだけ、あまりにも白いと言わざるを得ない。



(あ、…………グレアムさんとベージさん。それに、リドワーンさんとワイアートさんも!)




ちりりと、誰かの鋭い視線が肌に触れたような気がした。

けれども、振り返ってみるとそこにはもう、誰もいないのだった。







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― 新着の感想 ―
[気になる点] >むふぅ!このタルトは何て美味しいのでしょう。見た目がお菓子のように可愛いのも、とっても素敵です。  お菓子のように可愛い に違和感があります。タルトはお菓子、ですよね?
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