南瓜祭りと竜のおやつ
その日のネアは、ザルツの近くにある農業都市のツダリに、もはや恒例行事かなと思う南瓜祭りに来ていた。
他にも様々な季節の祝祭があるが、事件などに巻き込まれていて参加出来ないものも多い。
最も巡り合わせが悪いのは夏の野外演奏会で、オーケストラによる演奏会が実は大好きなネアは、これを運命の悲劇と呼んでいる。
一方でこの南瓜祭りは、さして執着がないのに妙にご縁のある謎のお祭りで、終わった後の南瓜料理は美味しいが、人々が拳で南瓜を粉々にするだけの荒々しく危険なお祭りなのだった。
「俺と二人きりでは不安もあるでしょうが、少しの間ご辛抱下さい」
そう微笑んだのは、氷竜の騎士団長であるベージだ。
朝晩になると空気がひんやりしてきたこの季節になると、夏の間は国を閉ざす氷竜達も外で過ごせるようになるのだが、訳あって後天的に魔術階位を上げたベージは、既に万全の状態なのだそうだ。
淡い水色の髪を風に揺らして微笑んだベージは、騎士らしい装いではあるものの、お祭りの行われている土地を訪れているからか、いつもよりは少しばかり身軽な服装になっている。
甲冑という程の物々しさではなかったものの、実戦にも出られるような騎士服から、儀礼用の騎士服に変えたような印象の違いに、ネアはあらためて騎士服の文化の偉大さを思った。
(黒一色の装いだと、ベージさんの優しい表情が、却って排他的な印象に見えるのが不思議だな………)
穏やかな微笑みで排他的に見え、おまけに竜の騎士など最高ではないか。
ついつい騎士服で心がいっぱいになりがちなネアは、申し訳なさそうに眉を下げたベージを見上げ、微笑んで首を振る。
今日のベージはリーエンベルクからの要請に応じて休日を返上して駆けつけてくれたのであって、謝らなければならないのはこちらの方なのだ。
「いえ、こちらこそ百年に一度のノウリスの開花時期に当たってしまって、ベージさんがいてくれなければもっと困った事になっていました。来て下さって有難うございます」
「ノウリスの香りは強烈ですからね…………。ディノ様の具合は如何ですか?」
「ディノは、影響を受けないムグリスになってここで休んでいるのですが、それでも、もうぐったりへなへなのままです。…………早く元気になってくれるといいのですが…………」
「……………キュ」
「……………っ、」
ネアが襟元をぐぐっと下げると、そのノウリスの花の開花の瞬間に遭遇してしまったディノは、力なく鳴いて悲しげに顔を埋めている。
ベージが合流するまでは頑張っていてくれたが、その後は力尽きたのかこてんとなってしまった。
人型の伴侶は持ち運べないので、ムグリスになって貰い胸元に収納してある。
大事な伴侶が弱っている姿が不憫でならず、指先で撫でてやっていたネアは、ベージがぴしりと固まっている事に気付かなかった。
「ベージさん……………?」
「い、いえ!………ノウリスの花は魔物には毒ですから、早く良くなられると良いですね」
「はい。この、そこかしこに満開になっている綺麗なお花が、まさか魔物さん達に強烈な二日酔いのような症状を出してしまうとは思いませんでした」
ノウリスは百年に一度咲く、可憐な野の花だ。
小さな水色の花がどこまでも咲く光景は美しく、じっくり見れば花弁の中心が檸檬色と瑠璃色になっている花からは、林檎ジャムのような甘い香りが漂う。
しかし、この花には幾つかの特殊な効能があり、中でも有名なのが、魔物達に強烈な二日酔いのような酷い影響を齎す事であった。
(まさか、そんな花が咲いているとは思わなかったから……………)
祭りの日のツダリで原因不明の異変が起きたという一報がリーエンベルクに入り、またしても南瓜祭りな調査に来たネア達は、予期せぬノウリスの開花にその影響を直接受けてしまった。
ノウリスは本来なら森の奥深くで咲く花なので、農村地帯でここまで群生しているのは珍しい。
誰かや何かが偶然種を運んでしまったままこの地に眠っていたらしく、花が咲いてからそれが判明したのだ。
一面が花畑というくらいに咲いているのは森の中の方なので、それがせめてもの幸いと言えるだろうか。
また、香りを抽出したり、意図的に種を移動させると枯れてしまうので、悪意を持って利用する事が出来ないのも幸いであった。
「俺にとっては良い匂いなんですが、ネア様は、影響はありませんか?」
「はい。私も、うっとりぽわんないい匂いというくらいでしょうか。竜さんにとっては、おやつになる香りだと聞きましたが、美味しいのですか?」
「上質な魔術の祝福に、身を浸すような感覚ですね。様々な快楽に少しずつ影響がありますが、味覚というよりは、…………例えようもない心地よさに近く、この香りを嗅ぐと充足感が得られます」
「ふむふむ、そのような感じなのですね。なお、精霊さんは少し痒くなってしまい、妖精さんは羽が重たくなるので近付かないのだとか。種族ごとに違うのがちょっと不思議なのです……………」
うっとりするようないい匂いだと感じる人間や竜にとっては、幸福感を高めるだけの安価な媚薬にもなるらしい。
しかし、予め好意がないと育たないくらいに効果はささやかであるし、人間と竜にしか効果がないので、あまり使われる事はないようだ。
わぁぁと、遠い歓声が聞こえて来た。
南瓜祭りは、収穫の早い南瓜から冬南瓜へ植え替える区切りとなる大切なお祭りだ。
ノウリスの影響が直接出ていない街の方では、がこんと響く轟音を上げて、今年も拳で南瓜を粉々にする祭りが行われている。
その代わり、ノウリスの花に引き寄せられていつもなら見かけないような竜達が集まりかねないので、見回りの街の騎士達の責任は重い。
(あ、南瓜が残してある……………)
畑やこの辺りに暮らす生き物達の為に、収穫の終わった畑に残された南瓜を見付けたネアは、唇の端を持ち上げる。
こうしてお裾分けをすれば、良く育った南瓜を貰える畑を守る為に、周辺の生き物達は畑を荒らさなくなるのだそうだ。
てけてけと走って行くのは小さな毛玉生物で、南瓜の魅力には勝てないと頑張ってやって来たのか、ノウリスの花を見付けると何度もくしゃみをしていた。
(くしゃみと言うことは、あの毛玉は精霊さんなのかしら…………)
ふは、と隣に立ったベージが息を吐く。
僅かに染めた目元に、瞳にはゆるゆるとした恍惚が滲む。
普段の柔和な印象と今日の漆黒の装いの組み合わせは禁欲的で、そんな表情を浮かべるベージはどきりとする程に色めいて見える。
とは言え、美味しい花の香りをたっぷりいただいているところなのだと思えば、ネアがローストビーフを頬張るようなものなのかもしれない。
じっと見ていると、こちらの視線に気付いたベージが、僅かに視線を彷徨わせながら照れたように微笑んだ。
「…………すみません、つい」
「ふふ、お休みの日にお呼び立てしてしまったので、ベージさんがノウリスのお花の香りを楽しんでくれていると、狡猾な人間はほっとしてしまうのです」
「畑のある土地に咲いたからでしょう。この辺りの花は多くはないですが、奥の森に咲いているノウリスよりも、香りが強いみたいです。ここまで濃密な香りを味わうのは、俺も初めてで」
「私もいい匂いでうっとりなのですが、この香りに呼び寄せられて良くないものも来てしまうのですよね…………」
森の方を見たが、まだ不穏な気配はないようだ。
とは言え、ノウリスの香りを避けてこの辺りから逃げ出してしまっているものたちも多いので、この静けさを一概に信じてもいいということでもないのだろう。
「ノウリスを好む竜は、良いものばかりではないですからね。……………ああ、向こうに倒れている樫の木が見えますか?恐らく、畑の周囲に巡らせた妖精の守護が弱まり、礫竜が現れたのでしょう。縄張り意識の強い竜なので、他の生き物が近付くことを許さないんですよ」
「れきりゅう、さん…………」
ネアが、どこかで聞いた響きだぞとこてんと首を傾げると、視線を戻したベージが淡く微笑んだ。
背中に当てられた手のひらの温度は、魔物達よりもやや高めだろうか。
良くないものが呼び集められるかもしれない土地なので、ベージはネアから手を離さないようにしてくれているのだ。
「ええ。瓦礫の礫で、礫竜と呼びます。ただしこれは氷竜の使う呼称ですので、他の竜種は、亡骸竜や亡霊竜、彷徨える竜と呼ぶこともありますね。戦や病で死んだ竜の亡骸から生まれる障りの竜です」
「……………その意味での、礫竜さんなのですね。むぅ。とても良くないもの感が出てきました」
「本来であれば、凄惨な戦場や疫病の跡地、手入れをされていない古い墓場などに暮らしている竜なので、出会う事はないでしょう。ただし、ノウリスがこれだけ咲いていると、他の竜種より鼻がいいので現れるのは時間の問題ですね」
静かな声で教えて貰った事に、ネアはひやりとしながら頷いた。
(派生環境的には、ホラー……………感がある生き物なのだろうか……………)
甲冑がないのでしっかりと触れられるベージの体にそろりと寄り添い、はたはたと揺れた騎士服のケープの内側に入れば、ベージがふっと微笑みを深める。
「………むぎゅ。少し不安になったので、くっついてしまいました」
「どうぞ、そうしていて下さい。俺は、氷竜の一件で終焉の系譜の祝福を貰いましたから、礫竜が現れても、安心していて下さい」
「はい!私達は暫くツダリから出られないので、ベージさんがいなかったら礫竜の餌食になるところでした…………」
実は、ディノが倒れてしまったのにネア達が帰れないのには理由があった。
ツダリなどの祝福の宿る作物を育てる農業地は、知識と道具を駆使して作物を盗む者達を退ける為に、橋や川などを駆使した特殊な隔離地となっている。
これは農作物の大規模な盗難を警戒して作られたもので、小さな農村などではなく、都市部からの一括購入のある大規模農地のみの措置だ。
このような場所で大きな被害が出ると、農地そのものが広大なので被害が大きくなる。
森の獣などの被害ではなく、組織的な犯罪を警戒しての仕掛けなので、想定される被害額を考えると予め隔離地を作っておく方が予算は少なくて済むらしい。
(牛乳商人さん達の事件のように、以前は、妖精さんや精霊さん達が組織的に農作物を盗む事もあったみたいだけれど、こうして隔離地にする事でなくなったのだとか…………)
ツダリは、普通に暮らしている分にはそんな仕掛けには気付かないような巧みさで、二つの橋によって隔離された土地なのだ。
「しかし、あの橋が使えないとなると、今日が祭りの日だったことがせめてもの救いですね」
「はい。エーダリア様もそう仰っていました。お祭りなのに外のお仕事から戻れない住民の方々はむしゃくしゃするでしょうが、普通の日であれば、農作物を他の都市に運ぶ沢山の馬車までも通れなくなってしまうので、もっと困った事になるところでした………」
現在、橋の番人である魔物達がノウリスの開花の影響で寝込んでしまい、ツダリを隔離地とする橋は使えなくなってしまっている。
盗賊団用の仕掛けなのだが、番人の体調不良でも橋の魔術が閉鎖されてしまうのだと、図らずも判明した次第であった。
「ノウリスは、丸一日で咲いた花が枯れます。花の香りの影響が抜けるのは、それから一時間後でしょうか。橋の回復に時間がかかったとしても、花を目当てに集まった生き物達が立ち去れば、森の道も使えるようになるでしょう」
「ええ。森の中を通る、秘密の抜け道があって良かったです。それがなければベージさんにも来て貰えませんでした…………」
勿論その道はネアにも使えるが、ノウリス目当てに礫竜も集まっているかもしれない森を、ディノの手助けがない状態で抜けるのはあまりにも無謀だ。
高位の竜であり、終焉の加護を持つベージだからこそ単騎で突破出来たものの、実質、ツダリは陸の孤島となっている。
「……………む。なにやつ」
「……………蛇、……………ではないようですね」
するすると畑を前進してゆく生き物を発見し、ネアはむむっと眉を顰めた。
動き方は蛇のようにも見えるのだが、何かがとても不自然に見える。
二人で凝視していると、その生き物ははっとしたように振り向き、すくっと立ち上がった。
にょろりと長い平べったい体に、ちょびりとした短い四本の足がある姿に、ネアは慌ててベージのケープの中に隠れる。
「ぎゃ!おかしな生き物です!」
「………っ、ネア様」
「……………む、虫っぽいですか?」
「虫、と言うよりは、胴体部分が細長い獣でしょうか。枝竜の一種かもしれませんね」
「枝竜さん……………」
その枝竜は、どうやら隠れて南瓜に近付く為に匍匐前進のような事をしていたらしい。
ネア達を見付けて、狙っている南瓜を取られてはならないと慌てて立ち上がったようだ。
虫っぽくないと知ったネアがそろりと顔を上げると、同時に同じ南瓜に飛びついた鼠型の精霊と威嚇してけばけばになっているのが見えた。
ふしゃーと威嚇の声が聞こえて来て、ネアは仲良く分け給えと優しい目で二匹を見守る。
けばけばした生き物達が、立派な南瓜を削り割って齧り、幸せそうに身震いしている姿を見ると、ほんわり優しい気持ちになってしまう。
ノウリスの花が咲いてしまったことを受け、ツダリの街の人々は、明後日にもこの畑の周りに南瓜を置くのだそうだ。
明日の内に森や川などに声をかけに行き、ノウリスの花の影響で南瓜を食べに来られなかった生き物達の為にも南瓜を分け与える機会を設けるのだとか。
南瓜の設置を明日にしなかったのは、まだ復調していない者達がいることを考慮してなのだそうだ。
食べられなかった事で荒ぶられても大変だからなのだが、そんな共生の仕方をネアは素敵だなと思う。
子供の頃に妖精の絵本を読んで貰い、牛乳を入れた小皿を窓辺に置いてみたことのあるネアが、ずっと素敵だなと思っていたものが、この世界には沢山あるのだ。
「……………は!ず、ずっとケープの中に隠れてしまっていました。出るのを忘れていただけで、住み着くつもりはなかったのです……………」
「どうか、お気になさらず。頼っていただけると嬉しいですよ」
ネアはここで、けばけば達の南瓜争奪戦を見守る間中、ベージにぴったりだった事に気付き、さあっと青ざめた。
ベージが優しい氷竜なので気にしていないだけで、場合によっては痴女扱いされかねない事案だ。
慌ててもぞもぞとケープの影から抜け出したネアは、ずしんと音を立てて森から現れたものを見た途端、ぴっとなってしまい、出てきたケープの中に再び帰宅する。
「出るのはもう少し後にします……………」
「……………椅子竜ですね。俺から離れないで下さい」
「は、はい!」
大きな木の影から姿を見せたのは、巨大な木の椅子としか言えないものだった。
しかし、肘置きの部分にはぎょろりとした緑の目があり、椅子の足の部分にはしっかりとした鱗がある。
椅子なのか竜なのかはっきりして欲しい生き物である以前に、ネアは、一目でこの生き物が苦手だと確信してしまった。
(リーエンベルクにも走る一輪挿しだとか、不思議な生き物は沢山いるけれど、大木のように大きな木の椅子がどくんどくんと脈打っているのは、ホラー感が強過ぎる……………!!)
生きた巨大椅子という語感だけでは、その恐ろしさは伝わらないだろう。
けれど実際に目にしてしまうと、道具であるべきものが息づき動いている様子が、その大きさのせいで妙に生々しく見えてしまう。
鱗がかさかさになって少しめくれた様子は、善良な生き物というよりは、どこか祟りもの染みて見えた。
「ここから先は人間の集落だ。忌みもののあなたが近付けば、集落の守護魔術でその身を損なうだろう。ノウリスの花が目当てであれば、森の方が多くの花が咲いている。森に帰った方がいい」
臆病な人間がケープの中に隠れていると、朗々としたベージの声が響き、ぎぎぎっと硬いものが軋む音がした。
「氷竜か。…………ふむ。確かにこの先は、人間の匂いばかりだな。……………何と悍ましい。確かに森に帰った方が良さそうだ。お主も、人間に捕まらぬ内にここを離れるといいだろう」
ひび割れたぶ厚い声がそう呟き、重たい溜め息が落ちる。
乾いた吐息は、冷たい木枯らしのような響きだ。
決して獰猛ではない穏やかな声だが、どこかが強烈に異形だという感じがして、ネアは、冷たい汗を背筋に感じながら息を殺していた。
この世界に来て何度も思う事だが、最高位とされる人型の生き物たちよりも、このような生き物の方がずっと怖い。
人ならざる者達と言えば、ディノやベージもそこに含まれてしまうが、確かに人間とは違う部分も多いそこには、嫌悪感や恐怖を覚えた事はないのだから、とても不思議な世界なのだと思う。
椅子竜が森に帰って行くずしんという音が遠くなると、ネアは安堵のあまりに崩れ落ちそうになった。
「ネア様、もう大丈夫ですよ」
「……………ふぁい。もういません?」
「…………っ、」
ネアとして限りなくホラー寄りの生き物の出現に、すっかり不安になってしまった人間はへなりと眉を下げる。
ベージのケープの内側からひょこんと顔を出してそう尋ねると、なぜかベージは目元を染めて口元を片手で覆ってしまった。
「ぎゅむ。ベージさん…………?」
「すみません。……………不意打ちでした。……………椅子竜は森に戻りましたよ。あの竜は、人間を忌避する森の生き物達が、人間が森に捨てた道具に取り憑いて擬態派生する生き物の一つです。人間を嫌うので人里に悪さをする事は稀ですが、森で遭遇すると危険な竜ですね」
生真面目な教師のように説明してくれるベージの横顔を見上げながら、ネアはこくりと頷いた。
椅子竜との遭遇はたいへん衝撃的だったので、素敵な騎士服姿のベージを沢山凝視して心を落ち着けよう。
「椅子竜さんとは、二度とお会いしたくないです」
「ご安心を。この規模の森であれば、二体は住めない筈ですからもう現れることはないでしょう」
「それを聞いてほっとしました…………。では、森の方を見ながらベージさんが警戒しているのは、また別の理由なのですか?」
ネアの問いかけに、ベージはおやっと眉を持ち上げると柔らかく微笑んだ。
「椅子竜が現れたという事は、礫竜もやって来る頃合いでしょう。…………そちらは遭遇したら交戦となります。………まだ顔色が悪いので、少し休めるといいんですが…………」
「ふぐ。今の竜さんですっかりしょんぼりですが、その時はきりりとしているので、大丈夫です!」
「…………もう少しだけ、ご辛抱下さい。そろそろですね」
「……………むぐ」
「これから現れる竜を退けるまでは、この中から出ませんよう」
そう呟いたベージに、ざあっと足元の土に魔術の術式陣が浮かび上がる。
ふわりと揺れた魔術の風に、ベージのケープも風を孕んで大きく揺れた。
しかし、次の瞬間、ネアの目に飛び込んで来たのは、思いもよらない生き物だった。
「り、竜版の黒つやもふもふ!!」
馬くらいの大きさの生き物が、森から姿を現した。
ふぁさりとした見事な黒い毛皮の生き物は、美しい漆黒の狼にも似ていて、優美で美しい。
しかし、長く筋肉質な尻尾と背中の大きな翼を見れば、それが竜である事は一目瞭然ではないか。
綺麗さと可愛さにネアは思わず弾んでしまい、ベージは慌てたようにこちらを見る。
「ネア様、礫竜は獰猛ですので、絶対にここから出ないとお約束していただけますか?」
「黒つやもふもふ……………。黒……………ふぁい」
「では、行って参ります」
「……………あの子は死んでしまうのですか?」
「いえ、追い払うだけですよ」
ネアの身勝手な不安にそう答えてくれたベージが、淡く微笑むとすらりと剣を抜いた。
人外の美麗な騎士の佇まいには見惚れてしまうほどの美しさがあり、礫竜もベージに気付いたようだ。
黒衣の騎士と黒い美しい獣が睨み合う。
(あ……………!!)
地面の蹴り方も、振るう剣の速さも、やはり竜と人間は違う。
ネアが何回か見たことのあるウィリアムの剣捌きは、陽炎が揺らめくようにふつりと消えて鋭く強く切り込むような魔物らしさだったが、肉体そのものの力で視線を振り切るベージの剣技はまさに竜らしい。
ずばんと大きな土煙が上がり、礫竜の咆哮が響いた。
ばらばらと飛んでくる地面の欠片に、ネアはベージが怪我をしていないかと息を詰める。
その時の事だった。
「ぎゃ?!」
何かひらりとしたものが飛んでくると、べしんと口元に張り付いた。
思わず悲鳴を上げたネアに、晴れてきた土煙の中からベージがはっとしたようにこちらを振り返る。
その澄んだ瞳が見開かれる愕然とした様子にぞっとしながら、ネアは慌てて口元に張り付いたものを手で引き剥がした。
(あ、…………)
幸いにもおかしなものではなく、手の中にあるのはひしゃげたノウリスの花だ。
ふわりと甘い香りが漂い、ぎりぎりと眉を寄せたネアは、くらりと揺れた視界に頭を押さえる。
けれども、よりにもよってくしゃみが出そうになってしまい、柔らかな畑周りの地面で踏み止まるには少しだけ遅かった。
「……………っ、くしゅん!」
「ネア様!」
駆け寄って来たベージに抱き止められ、しっかりとした胸にばすんと顔を埋めてしまったネアは、澄んだ水や清涼な氷のようなその香りをくんくんして、むふぅと息を吐いた。
「……………いい匂いれふ。くしゃみをしましたが、鼻水は出ていないので汚しませむ」
「………………まずいな、ノウリスの花粉か蜜に触れましたね?」
「むぐ。良き気分でふ。…………うぃっく」
「……………花酔いしましたね」
ネアはぎゅっと抱き締めてくれたベージのお腹をなでなですると、ぱたぱたちびふわだった筈なのに大きくなっているのは何故だろうと首を傾げた。
酔っ払いの人間に突然お腹をさすられたベージは、目元を染めて狼狽する。
「ネア様……………、っ、…………」
「むぅ。ぱたぱたちびふわなのに、お腹がむくむくしていません。筋肉で硬いのでふ。…………ういっく。……………むむ!竜みたいな黒つやもふもふ!!」
ノウリスの花の作用を顔面に直接塗布で受けてしまったネアの目に留まったことは、礫竜にとっては悲劇だったのかもしれない。
綺麗で可愛いという理想の小型竜を発見してしまった人間は、着ているものを脱がしてお腹を触ろうとしていた氷竜をぽいっと放り出し、獰猛にそちらに突進した。
脆弱そうな人間が突然向かって来た事に気付いた礫竜はぐるると唸ったが、理性の箍が外れて欲望に突き動かされた人間は思わぬ力を発揮したらしい。
ディノの手による恒常の守護結界が、飛びかかってきた礫竜の攻撃をばしんと弾くと、体勢を崩した黒い毛皮の生き物はあっという間に邪悪な人間に捕まってしまった。
「ギャン?!」
「ネア様!!」
足を掴まれてえいやっとひっくり返された礫竜は、無防備なお腹を晒してしまい、恐怖のあまりに悲鳴を上げる。
そこに容赦なく飛びかかっていったネアは、もふさらのお腹の柔らかな毛皮をもしゃもしゃと欲望のままに撫で回した。
突然人間に求婚相当のことをされて襲われた礫竜は、本能的な恐怖に駆られたものか、ギャワギャワと悲鳴を上げて暴れた。
狼のような耳はすっかりぺそりと寝てしまい、尻尾は恐怖のあまりにへなへなになっている。
しかし、欲望のままに荒ぶる人間はそんな様子にはまるで気付いていないのだ。
愛くるしさ万歳と、ひたすらに撫で回す。
「……………っ、いけません。噛まれでもしたら!」
「……………むが!黒つやもふもふ!!」
「ギャン!!」
何とかお腹撫での衝撃から立ち直り追いついたベージがネアを引き剥がす頃には、噛もうとしても守護結界に阻まれ抵抗も出来ずに人間の痴女に襲われていた礫竜はよれよれになっていた。
ネアが引き剥がされた途端にびゃっと逃げ出し、命からがら森に走り去って行く。
後には、素晴らしい手触りの毛皮を失って唸る人間と、ほうっと肩の力を抜いた氷竜の騎士が残った。
「ぐるる!私の黒つやもふもふに逃げられてしまいました!!」
「ノウリスの影響が、強く出てしまいましたね。……………ネア様、手を見せて下さい。お怪我などはありませんね。ディノ様も、妖精に擬態しているとは言え、先程のノウリスでより体調を崩されているのかもしれません。様子を見ていただいても?」
「……………む、ムグリスディノは、ここですやすやと眠っています。……………むぅ、もしくは気絶しているようです」
「やはり、花の影響ですね。……………失礼、抱き上げても宜しいですか?」
「なぬ!なぜ捕獲したのだ!!私を拘束するなど許しませんよ!!」
怒り狂った人間にばしばしと叩かれながらも、ベージは、何とか土だらけになってしまう畑周りから、大きな木の根元の地面がしっかりと踏み固められた場所に移したが、どこからか取り出したハンカチで顔を拭われようとした人間はまたしても荒れ狂った。
「むぐるるる!淑女の顔を、布きれでもしゃもしゃするのはやめるのだ!おのれ、鼻を塞ごうとするなどゆるすまじ!!」
「…………っ、前の時の隷属の魔術の繋ぎが、響くな。……………ネア様、ノウリスの花蜜か花粉を取りませんと、……………っ?!」
「あぐ!」
たいそう泥酔していても、ネアは、伸ばした手にあぐりと噛み付かれた氷竜が、水色の瞳を無防備に瞠り、目元を染めて呆然としていたことは覚えていた。
介抱しようとした人間に噛み付かれたのだから、さぞかし悲しかったのだろう。
酷い事をしてしまったと感じたからだろうか。
ネアはその後、とてもしゅんとしてしまい、懺悔の為にベージを撫でようと一生懸命だったらしい。
「……………む。ここはどこでしょう。なぜ薄着になっているのだ」
そして、意識の暗転の後にネアが目を覚ましたのは、ツダリにある宿屋の一室だった。
気付くと寝台に寝かされており、隣には疲れ果てた様子のベージが寄り添うように眠っている。
何となくだが、癇癪を起こした子供に添い寝して、全ての力を使い果たしたお父さんに見えなくもない。
窓の外は既に日が落ちていて、寝台の横に置かれたテーブルには小さな籠があり、タオルを敷き詰めた上にムグリスディノがすやすやと眠っている。
時折、ぎゅっと体を縮こまらせてぴくぴくしているので、まだ具合はあまり良くないのだろう。
(この様子は何だろう……………)
ネアは少しだけベージに乗り上げていたし、片手はなぜかベージの腹筋のあたりに添えられている。
つまり、不埒にも、服の内側に手を突っ込んでいるのだ。
「……………ぎゅわ」
俄かに不安になったネアは、慌ててその手を引っ込めると、明らかに襲われた様子のベージが目を覚まさないことが怖くなった。
(殺してしまっていたりは、……………)
ばくばく音を立てる胸を押さえ、そっとベージを揺さぶってみると、目元を微かに震わせてから、ゆっくりと水色の瞳が開いた。
「ああ、……………目が覚めましたね。気分が悪かったりはしませんか?…………ネア様?」
「……………き、気分はくしゃくしゃです。私はベージさんに何をしたのでしょう。……………ち、痴女ではありません……………」
悲しい声でそう訴えたネアに、ベージが優しく微笑み、伸ばした手でそっと髪を撫でてくれる。
寝台の上での事なので親密な光景に見えるかもしれないが、まず間違いなく、襲われたのはベージの方だ。
その証拠に、何があったのだろうとじっと見上げると、いけないことをされた乙女のように目元を染めるので、ネアは自分の行いに慄くしかない。
真っ青になってしまったネアに、ベージはまたくすりと微笑んだ。
「……………ノウリスの花が、口元についてしまったことは覚えていますか?」
「……………ふぁい」
「その時に、唇の上のあたりに花蜜がついてしまったようです。酩酊に近い効果が出てしまい、……………俺にムグリスの毛皮がないのはなぜだろうと、毛皮の部位を探そうとしたようですね」
「……………た、大変申し訳ありません」
「いえ、礫竜との交戦にあなたを巻き込んでしまったのは、俺の方です。浅はかな事ですが、まさか、ノウリスの花が魔術の風で千切れ飛ぶとは思ってもいませんでした」
なぜアンダードレス姿なのだろうかと思えば、ネアのドレスは、花粉などがついていると危ないという事で脱がされ、宿屋の洗濯妖精に預けられているそうだ。
ドレスにも守護結界などが添付されていた為に、本格的な洗浄はせずにいて貰い、服の表面の汚れだけを落とすように手配してくれたベージの心遣いに、ネアは恥じ入るばかりだ。
こうして一緒にいたのも、魔物の指輪を持ち荒れ狂うネアを押さえられるのが、ベージだけだったからであるらしい。
「礫竜さんは……………」
「……………幸いにも、あの個体が森に帰った後は、一体も出てきませんでしたよ」
それはまさか、恐ろしい人間に襲われた仲間を見て怯えて出てこなかったのではと思わないでもなかったが、ネアは自分には甘い人間らしさを発揮して、そのような事実とは向き合わない事にした。
(この記憶を消したい……………)
けれどもそれは叶わないので、加害者であるネアは、何度もベージに謝った。
その頃になるとムグリスディノも目を覚まし、ふらふらしながらもネアにすりすりしてくれる。
ネアがノウリス酔いで寝込んでしまったことは、ベージからリーエンベルクにも伝えられており、ネア達がノウリスの花も枯れていつもの穏やかさを取り戻したツダリの街から無事に出る事が出来たのは、夜半過ぎの事だった。
迷惑をかけてしまったベージには、別れ際にも丁重にお礼をしたが、その後ツダリには、ノウリスの花が咲くと人間の祟りものが現れるという噂が流れたようだ。
ネアが誰だか知らない人外者たちが流した噂であればまだいいのだが、泥酔して暴れるネアを宿屋まで運んだベージを見ていた街の人たちが囁いているのであれば、素性が割れているだけに例えようもない屈辱である。
ネアは、自分の心と記憶から、暫くの間ツダリという地名を消し去る事にしたのだが、人間の心はとても繊細なものなのでそれはどうか許して欲しい。
なお、沢山お腹を撫でられてしまったベージは、その後ネアに会うと少しだけ恥じらうようになった。
何なら、ディノに頼んでその間の記憶を消してもと申し出たものの、大切な記憶なのでこのままで構わないという回答であったので、生真面目な氷竜の騎士隊長は、交戦の経験値を減らさない為に、邪悪な人間に襲われて撫でられてしまった記憶を持ち続けることにしたようだ。
どうかその記憶を捨てて欲しいとも言えず、ネアは日々、己の振る舞いをとても恥じている。
明日10/8の通常更新はお休みです。
こちらで、二千文字くらいの短いSSを書かせていただきますね。