夜会の準備と一通の手紙
その手紙がネアの元に届いたのは、間近に迫ったファンデルツの夜会の準備をしている日の事だった。
銀盤に乗せられた白い封筒は、どこか既視感のある佇まいで、封蝋の鮮やかな青さと細やかな光が宝石のようだ。
「タジクーシャの妖精からでしたので警戒しましたが、特に問題のない内容でしたよ」
「……………融資のご相談でも、押し売りでもありませんでした?」
「ええ。自己満足の気配はありますが、害のある内容ではないかと。ネア様は、旅行記はお好きですか?」
「書き手との相性もありますが、旅行記は好きだと思います。…………そのような内容なのですか?」
「ネア様が、会食の際に水晶山羊の討伐について質問をした事が嬉しかったようですね」
ネアは白い封筒を手に取り、かさりと音を立てて白い鈴蘭のエンボス加工がある便箋を開いた。
上質な便箋は滑らかな手触りで、よく見ると上の部分に透かしがある。
透かしには可愛らしい小鳥と木陰が表現されており、森向きの窓と鈴蘭の組み合わせは溜め息ものであった。
「……………この便箋の、入手経路を教えて欲しいです」
「おや、手紙の内容よりそちらが心を掴んだようですね」
「………むむ、しかも便箋からいい匂いもします」
「その香りは私も調べましたが、純粋な鈴蘭の香りのみですので、体に害などはありませんから安心して楽しんでいただけますよ」
ネアは手紙の内容を一文字も読まない内から、便箋に施された仕掛けに夢中になってしまった。
あらためて手紙そのものも読んでみれば、流麗な文字が絵のようだ。
ヒルドもそうであるし、一度見たことのあるイーザの文字もそうだったが、高位の妖精の文字はとても繊細で優美なのが特徴である。
“ご無沙汰しております。先日のご来訪は決して明るい側面ばかりではありませんでしたが、このようにして不躾な手紙をお送りする事をお許し下さい”
そのような書き出しで始まる手紙は、不安があれば誰かと共に読むようにとあり、ネアは、青玉の妖精からの手紙を読む伴侶の隣でふるふるしていたディノを椅子にして読む事にした。
「まぁ、今度のファンデルツの夜会にいらっしゃるようですよ。サフィールさんは、派生元になった武器が真夜中の系譜を持つ青玉なのだそうです」
「あんな妖精なんて…………」
「あの方は、タジクーシャが閉じた後も、お外に出られるのですねぇ。………タジクーシャからのご挨拶で伺うそうなので、パートナーの方はいないみたいです」
「あんな妖精なんて…………」
「もし良ければ、王が気にしていない素振りでとても気にしているので、ヒルド様のことを聞かせて下さいと書かれていました」
「……………ヒルドが気になるのかな?」
「かもしれませんね。………むむ、あの後に、石垣の魔物さんと宝石の双頭の鷲と戦ったようですよ!」
ネアは、サフィールからの手紙を夢中で読んだ。
この御仁はとても文才があるようで、長い手紙は双頭の鷲との戦いや、宝石の町の小さなお祭りのお菓子についてなどが書かれており、わくわくと読み進めてしまう。
“僕が武器だった頃には、そのようなものを嗜むのは贅沢でした。けれどもそんな生活が、なぜかずっと少しばかり不愉快でしたので、今の生活は幸福です”
かさりと紙が鳴る。
ネアは優美な文字を目で辿り、書かれた文章の響きを胸の中で響かせてゆく。
鈴蘭のベルが暮らす花の庭に、美味しいオレンジと蜂蜜のケーキ。
タジクーシャの外の国で訪れた美術館を、サフィールはたいそう気に入ったようだ。
「……………この方は、ディノに出会ってからの私のような心をもつ人なのかもしれません。不思議な事ですが、サフィールさんのお手紙を読むと、この世界に呼び落とされ、ディノと出会った幸福をあらためて噛み締めてしまうのです」
「そうなのかい……………?」
「ええ。美しいものを美しいと思い、大切なものをぎゅっとしたくなります。サフィールさんは、とても文才のある方ですね。このようなお手紙を集めて出版したら、人気作家さんになるのでは…………」
「ダリルもそう言っておりましたよ。この手紙を書いた妖精に興味があると、…………彼にしては珍しい事で、リーベルがかなり警戒していましたが」
「ふふ、書架妖精のダリルさんのお墨付きなら間違いありませんね」
「……………浮気?」
「あらあら、これは私がシシィさんのドレスをお気に入りにしているようなものです。それに、ディノのことを大好きだと実感させてくれる、とても美しいお手紙でした」
そう言われてしまった魔物は、目元を染めてびゃっとなると、一緒に読むことが前提であるが、この青玉の妖精とであれば文通をしてもいいと言ってくれた。
一通のご挨拶の手紙から突然の文通を望むのは強欲だが、ネアもサフィールからの手紙をまた欲しいと思ってしまう。
(またお手紙を貰えるのだとしたら、次はどんな便箋でくれるのだろう……………)
何の約束もないのにそんな風に考えている事を知られたら、サフィールには怯えられてしまうかもしれない。
けれど、青玉の妖精から貰う透かし便箋の素敵な手紙だなんて、おとぎ話の中の一場面のようで何て贅沢なのだろう。
あまりにも面白くて素敵な手紙なので、エーダリアにも読んで貰いたいくらいだ。
「ところでディノ、この素敵な手袋は何なのですか?」
「真夜中の座の精霊王から、真夜中の最央から紡いだ夜のレース糸を貰ったんだ。それで作られたものだから、夜会で君をしっかりと守護してくれるよ。その代わり、手袋の魔術に君の承認をさせないといけないから、一度手を通しておいてくれるかい?」
「……………ほわ、真夜中の座の精霊王さん。いきなり王様が出てきました」
ネアは、何も王様を通さなくてもいいのではと慄いたが、人外者においては系譜の王こそが最も資質そのものに近しくなるので、より確実なものをと思えば王こそなのだろう。
(でも、真夜中の座の王様からレース糸を貰うだなんて、王様も困惑しなかったのだろうか……………)
ふと、ミカのことを思い出した。
ネアの見立てでは、ミカはそれなりに高位の精霊なのだと思う。
だとすれば、ミカが仲立ちしてくれてこのような運びになったのだろうか。
「夜会では、ミカさんにも会えるでしょうか」
「うん。会えるのではないかな」
「ふふ、きっと素敵な夜会に違いありません。舞踏会としての側面もあると聞きましたので、一緒に沢山踊りましょうね」
「……………可愛い」
「そして、先日の捕り物の妖精さんは、どんな方だったのですか?秋楓の妖精さんがとても気になります」
「ネアが虐待する……………」
「解せぬ」
ずっと気になっていた事を、ここぞというどうでもいいタイミングで切り出してみた筈なのだが、魔物はとても敏感ですぐに荒ぶり出してしまった。
おやっと眉を持ち上げたのはヒルドで、僅かに首を傾げる仕草には、穏やかなのにひやりとするような気配が添うのはなぜなのだろう。
「おや、秋楓の妖精が気になりますか?」
「む、むむ、実は少しだけ気になっているのです。ディノがとても警戒するので、もしやもふもふなのではないかと…………」
「であれば、ご期待のものではありませんね。ディノ様の警戒の理由は、秋楓の妖精が赤羽の妖精だからでしょう。くれぐれもお一人で接触なされませんよう」
「…………言われてみれば、楓の妖精さんともなれば赤いに違いありません!それは気を付けないといけませんね」
「秋楓の妖精なんて……………」
ディノはまだ荒ぶっており、相当に秋楓の妖精を警戒していたようだ。
しかし、ネアとしては、もふもふでなければ興味は格段に下がるので、もういいかなという所存である。
「では、レースの手袋をはめてみますね」
「うん。……………ネア、……………」
「……………ディノ?」
すっかり興味はレースの手袋に移ってしまい、ネアはいそいそと上質な紙箱の中の手袋を取り出した。
しっとりとした柔らかな手袋は、安価なレースのように繊細だが肌にざらりとするような事はない。
ふんわりと軽くて吸い付くような肌触りは、これまでにない優しさだ。
ネアは男らしくぐいっと袖を捲り上げて準備したのだが、その途端、魔物の様子がおかしくなる。
もじもじそわそわし出した魔物に、首を傾げる。
「ディノ……………?」
ディノは水紺色の瞳を潤ませているので、まるで虐めているようではないか。
「ネアが大胆過ぎる……………」
「腕は、ぐいっと露出してもはしたなくない部位ですよ?」
「捲るなんて…………」
「一緒にプールにも行くのに、袖を捲ると恥じらってしまうのですか?」
「肘から上はやめようか」
「解せぬ。足ならともかく、腕くらいはいいのでは……………」
「ネア?!」
足を引き合いに出された事で、ディノはとても驚いたらしい。
慌ててネアの両手を捕まえて、スカートを捲り上げられないようにしてしまう。
然し乍ら、ネアは、こんな所でスカートを捲り上げるような痴女ではないのだ。
たいへんな疑惑に遺憾な面持ちの人間は、自由になる爪先をぱたぱたさせた。
「私を何だと思っているのでしょう。スカートを捲り上げるのは、海辺を歩く時くらいです」
「ネアが虐待する……………」
「そして、手袋はこれでいいのですか?」
「……………うん。魔術は馴染んだようだけれど、何もつけていないような感覚になったかい?」
「言われてみれば、そんな感じです。こうして馴染ませる事で守られるのでしょうか」
「これは、真夜中の座の精霊王から、夜を統べる者の承認を与えられたという印なんだ。それを持っていれば、真夜中の座の領域に立つ限り、君を損なえる者は誰もいなくなる。ファンデルツの夜会の参加者達は、真夜中の座の精霊王に伺いを立て、彼の治める夜の中で過ごす訳だからね」
聞けば随分と過分な扱いのような気がするが、先方がいいと言えばそれで良いのだろう。
滑らかなレースの手袋はふくよかな夜の色をしていて、ネアは、手を持ち上げて美しいレースをしげしげと眺めた。
「となると、ディノもなのですか?」
「いや、私は招待客だよ。さすがに、彼より階位の高い者に膝を折らせるのは難しい。私とウィリアムはそれにあたるね。アルテアは同階位かな」
「……………まぁ。その王様は、アルテアさんと同階位なのですね」
ここでネアは驚いてしまったが、階位は確かに様々なものの基準となるが、それが全てではない。
アルテアは階位では三席にあたり、その器用さからそれを凌駕する事もあると言われている魔物だ。
様々な人外者達を集めたら、他の種族の第三席相当の者達を圧倒するのは簡単かもしれない。
だが、階位上では同列とされる者達はそれなりにいるのだ。
「精霊の中でも、真夜中の座は複数第三席にあたる。魔物は司るものにつき一人しかいないけれど、精霊の多くは一族でその階位に適応されるんだ」
「…………確か、精霊さんという種の中の王族相当は、死の精霊さんなのですよね。となると、お仕事上の部下だというリシャ……ナインさんは、そのような場ではアルテアさんより階位が上になるのですか?」
「階位で判断するとそうなるね。ナインについては実際に、特定の場面ではアルテアと同等の力も持っているだろう。ただ、死というものは見慣れたものでありながら、とても極端なものだ。それが見当たらない場所では、大きく力を落とすこともあるかな」
ディノの説明によると、階位での線引きがある時には大まかにそれでだけを基準として区切ってしまうことが多いのだそうだ。
とは言え誰もが、それが順位ではない事を知っていて、階位が高い者が、その下の階位ではあるが実力は自分より高い者に頭を下げる事もあるらしい。
「……………む。エーダリア様が、いつの間にかこの講義に参加しています」
「初めて知る事なのだ。以前から、種族で区切る階位はそれでいいのだろうかと考えることもあったので、やっと答えを知る事が出来た…………」
気付けばヒルドの横に座っていたエーダリアは、鳶色の瞳をきらきらさせている。
聞けば、ネアが魔術承認を馴染ませている手袋を見に来たのだという。
ネアはさっそく手袋を見せてやり、エーダリアは、熱心にメモを取っている。
とても満足げなので、機会があって良かったとネアは胸を撫で下ろした。
流石に真夜中の座に影響を持ち過ぎてしまうという理由で、この手袋は、夜会の終わりと共に返却しなければいけないのだ。
この場合、手袋に仕立てたのはこちらなのにとは言ってはならない。
それを承知の上で預かったレースである。
「やれやれ、もういいでしょう。エーダリア様、この後に、博物館での儀式詠唱の式典があるのをお忘れになっていませんか?そろそろ、支度をしていただきませんと」
「……………そうだったな」
すっかり忘れていたのか、慌てて立ち上がったエーダリアは、祝祭などではない式典で、珍しく魔術詠唱をする予定がある。
博物館に新しく収められた竜の石像に、ウィーム所蔵の作品であるという着在の魔術添付を行うのだ。
それをしないと、他の作品から余所者めと仲間外れにされてしまうのでとても危険だと知り、ネアはとても驚いた。
四十年前、そうして仲間外れにされた収蔵品が思い余って脱走する騒ぎがあり、博物館はかなり大変な思いをしたらしい。
何がどうやって脱走したのかまでは聞いておらず、残念ながらネアには想像出来なかった。
「では、我々は出てきますね」
「はい。お留守の間のリーエンベルクは、私とディノに任せて下さいね。因みに、今夜の晩餐は、ちょびっと量で程よい感じが堪らないカスレと、牛肉のエシャロットチーズソースですよ!」
美味しい情報で二人を送り出し、ネアはそろそろいいだろうと言われて手袋を外した。
丁寧に畳んでもう一度箱に戻した手袋は、薄っすらと光を纏うような煌めきが微かに宿ったような気もする。
(綺麗……………)
このようなものをつけて夜会に向かう事は、女性としては幸福感を優しく育ててくれる。
本当は狩りの女王なネアの気分は、すっかり貴婦人だった。
「夜の座の夜会は初めてなので、わくわくしますね。夜の色を纏ったディノの盛装姿が楽しみなんです」
「君のドレスは、夜の光の色にしたのだろう?」
「ええ。シシィさんが、ディノの瞳の色にしようと話してくれてそうなりました。ウィリアムさんとアルテアさんは、黒い装いだと聞いています。黒を着る方が多いのだとか」
「夜の系譜の者達は黒い装いを好むので、それを真似る者が多いみたいだね」
「ノアから、夜のヴェールをかけた女性の方達がとても綺麗だと聞いて、その装いを見るのも密かに楽しみにしているのですが、夜の小枝を持った方にはあまり近付かない方がいいのでしょう?」
そう尋ねてみると、ディノは穏やかに頷いた。
ネアはサフィールからの手紙をしまっているので、ただ椅子になっているのが楽しいらしい。
ネアをきゅうと抱き締める拘束椅子方式だが、じんわりと肌に触れる体温が心地よくて、ネアはそのままでいた。
「小枝を持っているのは、障り払いの乙女達だ。私達が君から離れる事はないけれど、払った障りが残っていることもあるから、近付かないようにするんだよ」
「障りには触れたくないので、気を付けるようにしますね。なお、夜の管轄の夜会では、お酒とお食事はとびきり美味しいみたいです!」
そんな話をしていると、誰かがふらりと部屋に入って来た。
おやっと視線をそちらに向ければ、こちらも珍しくエーダリア達の公務に同行していないノアだ。
勿論、ノアにも用事があるので、毎回エーダリア達に同行している訳ではないのだが、何となく、いつも心配でついて行ってしまう印象がある。
今回は、グラスト達とゼベルに加えダリルも揃うので、ノアは安心してリーエンベルクでお留守番の予定であった。
「ネア……………。聞いてよ、また刺されそうになったんだけど」
「……………ノア、今回のお嬢さんには、何をしたのですか?」
「シル、僕の妹が甘やかしてくれない……………」
「また、狙われてしまったのかい……………?」
「気軽な関係だって事も含めて最初から約束しておいた筈なのに、自分に夢中になると思ったって言われても僕だって困るよね。何でだって怒られても、そればかりは諦めて貰うしかないかな」
「まったくもうという気もしますが、大切な義兄が切られたら困るのです。ノア、どこも怪我をしていません?」
そう尋ねたネアに、ノアはぱっと顔を輝かせた。
すぐにネア達の隣にやって来て座ると、切りつけられたという手の甲を見せてくれる。
勿論すぐに治してしまったようなので傷は跡形もないが、少し可愛そうなのでネアはしっかり撫でてやった。
「はぁ。やっぱり僕は家族が一番だなぁ………」
「むぅ。やはりそろそろ、アルテアさんから恋人さんとのお別れの仕方を学ぶべきでは…………」
「え、絶対に嫌かな。しかも、アルテアも完全に事故らない訳じゃなくない?」
「しかし、刺されたり燃やされたりはしていないような気がします。ノアは、それを回避するのが苦手なんですよね」
「……………どうしてノアベルトは、刺されてしまうのかな」
「…………何でだろう。僕のどこかが、堪らなく刺しやすく見えるのかな?」
ネアは、お相手の選び方ではないかなと少し思ったが、そうなるともう、この顛末は避けようもない。
さすがに、今後、付き合う女性のタイプを変えろと言うのも難しいだろう。
「……………ふむ。ある程度は諦めて、程よく刺されたりしつつ、大事がないように過ごして貰うしかないのでは」
「わーお、結論を出されたぞ…………」
「刺されたりはされてしまうのだね……………」
「……………でもまぁ、僕には家族がいるから何だってへっちゃらだけどね」
ノアは小さく苦笑すると、ごろんと長椅子に寝そべってしまう。
こうして一緒にいる時間は塩の魔物のお気に入りらしく、ただ何をするでもなく、側でごろごろするだけで幸せなのだという。
(一緒に夜会に行けたら良かったのだけれど、そうなるとノアは、リーエンベルクが心配で落ち着かないかしら……………)
夜の町の駅にある可愛らしい家で過ごした時間を思い出せば、ネアは、その家を整えたノアがどんな事を考えていたのかを思い胸が苦しくなった。
一人で軒先に竜の置物を置いた塩の魔物が、その後の統一戦争でどれだけ絶望したのかを思えば、訪れた孤独や絶望が想像出来てしまい、息が止まりそうになる。
「……………ノア。後で、ディノにドライフルーツのざくざくクッキーを焼くのですが、焼き立てを一緒に食べませんか?」
「…………いいのかい?」
「あら、家族なので勿論参加自由ですよ。それとも、刺されそうになってしょんぼりなら、部屋でお昼寝でもしてきますか?」
「クッキーはいつ焼くのかな?実はさ、半刻くらい後から一時間の予定が入ってるんだ。アメリアとミカエルに、ボールを投げて貰うんだよね。でも、クッキーは絶対に食べたいかな!」
「それなら、ちょうどいいくらいかもしれません。エーダリア様達が帰ってきてから始める予定なので、ちょうどそれくらいに厨房に入るつもりでした」
「ありゃ、運命だ」
エーダリア達の仕事は簡単な詠唱なので、長くても一時間程で帰ってくると言われていた。
丁寧な詠唱を好むエーダリアだが、博物館への新入りの納品は、場合によっては既存の所蔵品が荒ぶるので、このような場合は詠唱を終えたらささっと帰って来た方がいいのだ。
嬉しそうに微笑んだノアは少しごろごろすると、ぽふんと銀狐になった。
尻尾をぶりぶり振り回しながら騎士棟の方へ出かけて行き、それと入れ違いに、エーダリア達が少し早めにリーエンベルクに帰ってきた。
(ファンデルツの夜会は、どんなところなのかしら……………?)
箱に入ったレースの手袋は、ネアの衣装部屋ではなくてディノがどこかに保管してくれている。
魔術的な要素が大きく、特別な管理が必要になるものなのだ。
執務室や自室に持ち込むことのあるエーダリア所蔵の魔術書なども、普段は、古くからリーエンベルクにある特別な保管書棚で管理されているらしい。
これについては、ウィーム王家の誰かが作ったその書棚の魔術の調整をしたのがグレアムだと知り、ネアは絶大な信頼を寄せている。
「ディノ、狐さんが戻ってきましたよ」
「……………弾んでいるんだね」
「ふふ、ボール投げが余程楽しかったのでしょう。お顔がきらきらで、すっかり元気になったみたいです」
ボール遊びが終わる頃に設定した、クッキーを焼き始める時間の少し前になると、やっと天然物になった冬毛の銀狐がご機嫌の様子でこちらにやって来た。
(ノアはやっぱり、一人の伴侶を得て色々な不安を抱えながら狭量になるよりも、こうして大きなお家で沢山の人に大事にされていて、どこに行っても一人にならないのがいいのだと思う………)
ボールで沢山遊んで貰い、大事にされているという喜びに包まれたその姿を見ると、ネアはいつも思うのだ。
みんなに優しいけれど一つのものを唯一無二とするディノとは違い、ノアは、とびきり大切なものを複数持つ事が出来る人だ。
であれば、ネアやディノだけでなく、エーダリアとヒルド、更には沢山の騎士達が一つの集落のように暮らしているリーエンベルクは、塩の魔物にとって理想的な環境なのではないだろうか。
ムギムギと弾み歩く銀狐が、古くなった緑色のボールと交換して貰ったらしい新しい貢物ボールを持っているのを見て、ネアはくすりと笑った。
「リーエンベルクは、不思議なお家ですね。みんなの望むものが同じだけれど少しずつ違うのに、こうして幸せに輪になれるだなんて。…………さて、クッキーを焼きますので、狐さんは魔物なノアに戻って下さいね」
クッキー生地に毛が入ると嫌だと言われてけばけばになった銀狐に凛々しく頷きながら、ネアは、晩餐の後にでも、サフィールから貰った手紙をエーダリアやノアにも読んであげようと考えた。
もしかしたらその二人も、彩り豊かな旅行記風の文章に、今の幸せな暮らしを噛み締めるかもしれない。
そうなってしまえばいいのにと、狡猾な人間は密かに願ったのだった。