バリャドリーの杖と自重の木
バリャドリーの杖は、グラムドの祝福を受けた特等の魔術師の持ち物だった。
かの魔術師は真紅のローブを纏い、バリャドリーの杖を振るって多くの者達を葬ってきた。
グラムドの魔物はその魔術の構築を助け、魔術師の良き理解者として、幾度も知恵を授け彼を助けたと伝えられている。
そう語るのは、黒髪に薄緑の瞳の男で、淡白だが鋭い面立ちはその鋭利さから美しく見えない事もない。
背中の真ん中までの長さの髪は結びもせず、色づいた落ち葉を落とす風に揺らしていた。
この男は、どのような階位の人物で、どこの国から来たのだろう。
同じ風の中でそう考えかけ、それは知らなくてもいいのだと小さく首を振る。
問題なのは、この人物がひたひたと爪先を濡らすような悪意を秘め、その手に持ったバリャドリーの杖をこちらに向けようとしている事だ。
(そのようなものがあるのだと、初めて知った。やはり、魔術というものは知り得るよりも遥かに無尽蔵で、誰も想像出来ないような厄介な道具を、人知れずあちこちで作り出しているのだろう………)
その杖で呪いをかけられた者は、辻毒の呪いより重い呪いの中で、自らの魔術の持つ自重で魂を崩壊させるのだそうだ。
その効果を見たければ、自重の木を見ればいい。
バリャドリーの魔術で損なわれたその木は、魔術の壁の中で永遠に滅び、けれどもどこにも行けずに彷徨い続けているのだと語る黒髪の男は、どうやらタンという名前であるらしい。
「あの方を殺した愚かな人間に、これ以上の報復などあるまい。我々の主人の尊厳を取り戻し、自らの魔術の重さに滅びる時に浮かべるであろう愚か者の絶望の顔を、せいぜい見物させて貰うとしよう」
「しかし、宜しいのですか?あの者は、我が国にとって有用な存在であるのかもしれません。殺してしまうよりも連れ帰り、餌を与えながら生かし、最後まで利用するという手もありますが。或いは、今回の事は決して公にせぬよう、何らかの約定を結ぶ事も出来ましょう」
そう提案したのは、長い髪を複雑に結い上げた女性騎士だった。
女性らしい装いではなくとも、凛々しい面立ちは上品な美しさで、人を従える事にも慣れた高貴な身分の女性だと感じさせる佇まいは磨き抜かれた剣のよう。
黒髪の男性よりも明らかに年嵩の女性だが、騎士の装いを取る事で不思議な瑞々しさを感じさせるのはなぜだろう。
ぱっと花が咲くような華美さではないが、とても魅力的な女性だ。
「己の階位を弁えずに、あの方を手にかけるような人間が、約定ごときで口を噤むと思うか?充分すぎる程の申し出を蹴ったような捻くれ者が、黙って我々に利用されるとでも?……………そんなことはあるまい。であればやはり、余計な事を嗅ぎ回られる前に口を封じておくべきだろう」
「ですが、どのようにして誘き出すというのです?あの方が接触した以上は、我々の存在に気付いている筈です。高貴な客人を手にかけた以上、一人で誘い出されるような無謀な真似はしないでしょう」
(明らかに爵位を持つ騎士を仕えさせながら、この男性の装いは従僕のものなのだと思う。であれば、このタンという人物が仕えていた主人は、とても階位が高いのではないだろうか。……………例えば、王族であるとか……………)
特等の階位の者の側近ともなれば、その高貴な主人の代理人として、他の爵位を持つ者達を従わせる事もある。
そして、そのような条件で考えると思い当たる人物が一人いた。
(そうか。………彼等がそうなのだ)
情報を受け、皆が探していたのはやはり彼等だったのだと思い、まさかこのような所で遭遇してしまう巡り合わせについて考える。
偶然に見付け出したという高揚感よりも、このような会話を聞くぐらいなら会いたくはなかったと考えてしまうのは身勝手だろうか。
「であるなら、和解案を示して招聘すればいい。領主館で暮らしているとは言え、技量と才を買って登用されただけの庶民なのだろう?」
「……………となりますと、正式な書状を送るのですか?あの方の事もありますので、これ以上こちらの情報を公にされるのはどうかと思われますが………」
「なに、そのような事は濁すさ。我々には接触を図るだけの理由がある。こちらの身分を考えれば、敢えて名前を書かない書状の理由くらい分かるというものだ」
そんなやり取りを聞きながら、手に持っていたカップから香り高い紅茶を一口飲む。
彼らの密談の願うものは、足跡を消すための工作なのか、それとも復讐のようなものなのか。
どちらにせよ、大きな木の影になった席に座り、恋人同士のように顔を寄せた男女が、一度出した結論を変えないであろうことは間違いない。
(この人達は、私を殺そうとしているのか…………)
口を噤みはするまいと警戒しながら、名前を記していない書状で呼び出されると考えたのはなぜだろう。
随分と都合のいい思い込みだと考えたが、推察したような立場にいる人間なのだから、受け取った相手を巧妙に躍らせるような書状の書き方に自信があるのかもしれない。
想像もつかない事だが、政治の場というのは薄氷を踏むような危うさの上で成り立つ駆け引きの場なのだろう。
そんな氷の上をこれまで歩いて来た者達の手腕を、それを知らない者が侮る事は出来ない。
それでも少しの皮肉さが思考に滲むのは、遠い日の記憶がきりりと軋むからなのかもしれない。
その時も、こんな感じだったのだろうか。
(……………こんな風にあの人たちは話し、そして、私の家族を殺すと決めたのだろうか)
あの美麗な面持ちにどんな表情を浮かべ、その決断を下したのだろう。
屋敷への訪問を受け入れるふりをして、二度と元通りにはならないものを無慈悲に葬り去った人は、その結果、残された最後の一人が自分を殺すとは思いもしなかったに違いない。
真っ白な病院のリノリウムの床と、忘れた筈の様々な匂いが不意に記憶に蘇った。
安置室の匂いと、手続きをした役所の匂い。
葬儀の日の匂いに、一人きりで帰ってきたがらんどうの家の見知らぬ場所のような匂い。
小さく音を立てた胸を何気ない仕草で押さえ、けれども、何食わぬ顔で彼等から死角になる場所に座っている。
秋告げの舞踏会が終わったからだろう。
色付き始め、空気の温度を如実に変えたウィームは美しかった。
森には秋の系譜の鹿達の姿が見えるようになり、鮮やかな落ち葉を踏んで歩く人々の装いも、やがてやって来る冬を予感させる。
焼き栗の屋台に、温かな飲み物の店。
香ばしく甘い香辛料の香りは紅茶なのか、ホットワインなのか。
街角には秋の夕べを彩る歌劇場の演目が知らされ、死者の日に備えて様々な飾りが店で売られ始める。
気の早い店ではもう、イブメリアのカードも置かれているようだ。
窓から見える街の様子は心躍る美しさであるのに、聞こえてくる会話の陰鬱さはどうだろう。
退けてしまうのはきっと容易いのに、そうして育てられる悪意があるということが、ただただ憂鬱なのだ。
(その刃はこちらに届かないと知っているのに、それでも体が重くなるものなのだ……………)
悪意はそんな風にあっさりと人を傷付けるのだろうかと考え、すっかり俯いてしまった心に、やはりそうなのだと小さく頷く。
例え、慕う人から向けられる拒絶ではなくても、くっきりと鮮やかな殺意のその鋭さは、心に深く刺さるのだった。
(でもまずは……………、)
小さく息を吐き、向かいの席に座った人の顔を見る。
擬態し、淡い金髪に柔らかな水色の瞳でいるその人は、柱の向こうのテーブルの二人組があの方と呼んでいた人が、同じような水色の瞳をしていたことを知らない。
とは言え、どちらにせよこのままにしてはおけないのだから、事情を話して状況を説明する必要がある。
せっかくの穏やかな午後なのに、そんなことに巻き込んでしまった情けなさに、また心がずしりと重たくなった。
「ウィリアムさん…………」
「よりにもよって、俺の系譜の魔術を使って遮蔽したせいで、こちらに会話が筒抜けだな。……………すまない。嫌な思いをさせただろう」
ネアが全てを言うよりも早く、こちらを見たウィリアムが淡く微笑む。
ノアやアルテアのような人物を警戒していると時々忘れてしまうが、ウィリアムも、高位の魔物らしくちっぽけな人間の表情を読むことに長けている。
そんな事を今更思い出したネアは、ひやりとしながら頭を下げた。
「いえ、こちらこそ、せっかくのお休みにおかしなことに巻き込んでしまいました……………」
「自分達の会話は遮蔽しているつもりで、こちらの魔術遮蔽には気付いていないんだろうな」
そう呟くと、ウィリアムは手を伸ばしてネアの頬にそっと触れる。
血が下がるような不快感で詰めていた息が、その温度にふわりと解けた。
(……………そうか、私は……………)
自分で思っている以上に平静ではなく、もしかしたら酷い顔をしていたのかもしれない。
そう考えるとますます申し訳なくなり、眉を下げてこちらを見た美しい男性の瞳を見返した。
本日、ウィームでは密やかな捕り物が行われている。
先日、一人の異国人がネアに杜撰な求婚をした。
駆けつけてくれたアルテアが捕縛して箱詰めにしてしまったその異国の王子と護衛の騎士達には、別働部隊の仲間がいたらしい。
残存部隊の捕縛、或いは殲滅が急務となっているのだ。
思いがけない形で、不法入国を可能とした異国の王子に出会ったネアだったが、その後の調査の結果、あの王子の国では現在継承争いが行われている事が判明した。
そして、そこもまた妖精の影響を受けているのかもしれないが、その国の王子達は、様々な側妃を迎えることによって己の手札を増やすらしい。
大国ではないのだ。
だからこそ、決して大きくはない自国内の主だった貴族達を表面的には派閥で分けずに、まずは各王子達が側妃によって己の手札を整え、それぞれの力量と指針を明らかにする。
臣下達のご令嬢である正妃候補は敢えて外し、あくまで側妃でそれぞれの王子が自分の派閥の色を作る方策は、或いは国を守る為に始まったものかもしれない。
王子たちの色が出揃った段階で、国内の有力貴族達がどの王子に着くかを決めるのだから、なかなかに効率的かつ、王家というものの在り方としては変わった仕組みなのだった。
(勿論、特定の王子を支援して、その王子が有能な側妃を迎えられるように手を貸す貴族達もいるとは思うけれど……………)
外遊なども含め、一年かけて手札を揃える側妃探しは、どことなく闇の妖精達の伴侶探しにも似ている。
とは言えそれは秘された継承の儀式であり、今回ヴェルクレアにその内情が暴露されたのは、側妃探しの王子の捕縛が叶ったからだった。
なお、その王子については、アルテアが引き渡しには応じなかったようで、一時的に王都に貸し出されてはいるものの、最終的にはアルテアが引き取り、処理するのだそうだ。
その結果、まだ魔物の怒りに触れていない残党を第一王子派が確保しようとしているのは、主に政治的な側面からだろう。
であれば、この二人は政治のパズルをしている者達に引き渡すのが間違いないのだが、彼らが、王子を殺したと信じ矛先を向けたのはネアなのだ。
だからネアは、人間らしい身勝手さと残忍さで、少しだけ考える。
ここにいる二人連れの存在を把握しているのがまだ自分達だけならば、手の中にある幸せを脅かす可能性をほんのひと匙でも持っている者達など、人知れず葬ってしまうべきではないのだろうかと。
何しろ、妖精の持つ魔術はとても厄介だと言うのだし、その国の人間は妖精の資質を過分に備えている。
ここにいるネアは、ネアハーレイとしての道筋を歩ききった人間なのだ。
大切な人達を、存在ごと根こそぎ奪う悪意を知らなかった頃とは違う。
奪われて無くした経験を生かすのであれば、やはり何も始まらない内にこそ、排除してしまうべきなのではないだろうか。
(でも、それは出来ないんだ)
立場上、政治上、建前上。
どれをとっても本音とは別の着地点だが、そちらを優先しなければならない事もある。
しかし、自分だけなら受け流せたかもしれない悪意だが、それが大切なものを傷付けるかもしれないと分かっていて手の内から逃すのは、やはり不安も伴う。
その杖は、例えば、ネアの大切な魔物を傷付けたりはしないのだろうか。
「バリャドリーの杖か。あの杖を使うのであれば、もう少し慎重であるべきだったな」
「ウィリアムさん……………?」
「バリャドリーの杖は、試練の魔術に近しいものだ。自重の木の逸話も、本来のものとは違う話が残ったらしい。扱い方が難しいんだ」
「……………そうなのですか?」
「ネア、」
ふつりと微笑んだのは、時々とても不器用で、無防備で傷深いウィリアムだが、けれども彼は、冷酷で老獪な終焉の魔物でもある。
「君が自分でそれを断つ必要はないし、であればと俺に望む必要もない。アルテアもそうだったように、俺もまた魔物だからな。………ここばかりは、人間の倫理観や思惑には重ならないだろうが、諦めてくれ」
「…………けれどそれは、私が理由なのではありませんか?もし、」
「したいかしたくないかで言えば、俺はしたいんだろうな。君はシルハーンの伴侶だが、俺の領域のものでもある。…………望ましくない顛末だとしても、我慢してくれるな?」
そう微笑んだ魔物は、擬態のまま本来の姿ではなくても、例えようもなく美しかった。
ネアは少しだけ、この魔物を詰り、憎み罵る人達が見たのは、こんな終焉そのものの苛烈さこそなのではないかと思う。
それは当然の事だけれど、ウィリアムとて、優しいだけの魔物ではないのだ。
(でも、だからといってウィリアムさんが、繊細で優しいひとではないという事でもないのだ……………)
それを望んだからといって、心を揺らさないということではない。
ネアが素直に頷くばかりでいられないのは、そのような理由もある。
「……………私は、そもそも通り魔に遭ったかのような出会いだったのにとばっちりで逆恨みされ、たいへんむしゃくしゃしたので、報復をしたいと思うのです」
「ああ。人間の模範解答がどうであれ、俺はそれでいいと思う」
「あの方達がまだ何もしていないのだとしても、或いは、あの方達を政治的に必要とする動きがあるのだとしても、………それでも、心が狭く身勝手な私は、自分の焦燥感や不安を優先してしまいたくなる弱い人間なのかもしれません」
ネアの言いたい事が見えたのだろう。
ウィリアムは、魔物らしい優しい眼差しをこちらに向け、小さく首を振った。
「だとしても、それは彼等を君に譲る理由にはならないな。言っただろう?これは、俺が欲して成すことだ。………多分君は、自分が狙われた事で俺が手を汚すのではとそれを回避しようと思うのだろうが、有り体に言えばその通りだとしても、魔物はそういうものだからな」
ゆっくりと立ち上がったウィリアムが、すっと体を屈め、ネアの目元に口付けを落とす。
冷たい口付けの酷薄さに、与えられたのは祝福でもなければ愛情でもなく、飲み込みの悪い子供を窘めるような傲慢さだと知る。
(本当に……………)
ネアの大切な魔物達は、何て残忍で身勝手で、そしてネアの心にぴったりなのだろう。
ネアがウィリアムでも、きっとそうする。
力と手段があるのなら、何よりも自分の為だけにその憂いを払うだろう。
「…………むぐ。魔物さんなので、それで構わないのです。ですが、いいぞやってしまえと言うには、私はまだ善良さを捨てきれておりません。それに、ウィリアムさんにゆっくりして貰おうと思っていた計画を、あんな人達に挫かれる事にもなるので、それも悔しいのです」
ネアが身も蓋もないそんな本音を零せば、ウィリアムは僅かに瞳を瞠ったようだ。
それでも美しい微笑みは冷ややかで鋭いままで、静かに持ち上げた視線は、ネアの口封じをする方策を話し合う二人の人間を見たのだろうか。
ウィームの街並みに合わせ、擬態を馴染ませる為にと貴族めいた優雅な装いのウィリアムは、淡い金色の髪と水色の瞳のせいで、見知らぬ人のようにも見える。
いつもの軍服はあのような装いだからこそ人間的な一面が際立って見えるのであって、整えられた優美さで装った今のウィリアムの方が、遥かに冷酷に見えた。
ざっと、風に砂を撒くような音がした。
それはほんの一瞬のことで、悲鳴の一つも上がることはなかったように思う。
ウィリアムの手に杖のような物が見えた気がしたが、それはどこかにしまってしまったようだ。
「…………終わりだ。本人は、バリャドリーの杖を使う時間もなかったな」
「まぁ……………、もういなくなってしまったのですか?」
「バリャドリーの杖を持っていたのが、災いしたな。あれはアルテアが作り、人間に持たせた道具の一つだ。大きな力に触れる事を許しているが、その魔術の障りは持ち手にも跳ね返る。滅ぼす為に用いるつもりなら、滅ぼされる者にも運命を預けるように作られた選択の杖なんだ」
「…………今回のように、持ち主の方が破滅してしまう事もあるのですか?」
「細かな魔術の条件付けは知らないが、常に選択を揃えるらしいな。杖の動作説明として、一本の木を滅ぼすことを選んだのは、さすがに相手が木であれば、杖の使い手が負けることはないと見越してだろう」
「使わせる為に、なのですね」
「ああ。その杖は、自重で滅ぼす魔術を錬成するという説明も、敢えてどちらにも取れるような説明になっているだろう?」
だからその杖はいつも、使い手を天秤にかける。
自分の選択に相応しい報いを受けるか、受けないか。
一度は正しいカードを引いても、その次も同じとは限らない。
「ネア、…………少しうんざりしたか?」
「むむ、貰い事故にですか?」
「……………いや、俺がした事にだ」
「人間らしい弱さで私が成し得なかったことをやってくれたウィリアムさんに、どうしてうんざりしてしまうのでしょう?ウィリアムさんのお陰で、もし、その刃が私の大切な人を傷付けたらと思い、もやもやする事は無くなりました」
ネアがそう微笑めば、ウィリアムはそれならいいんだと穏やかに微笑む。
カップを取り上げ少し冷めてしまった紅茶を飲み、擬態したままの金色の髪を揺らす美しい男性に、なぜお客が砂になってしまったのだろうと慌ててやって来た店員がぼうっと見惚れている。
貴族らしい装いをしたウィリアムは、お忍びの王族のような美麗さで、僅かな瞳の影が冬の夜明けの色のように美しい。
「……………俺は多分、君がそう言ってくれるのが分かっていたんだろうな」
「まぁ、そうなのですか?」
「そうでなければ、俺も自分の不利益を考えるさ」
「私が、むしゃくしゃしながらも、自分の立場の為にあの方々を引き渡すしかないと思ったように?」
「はは、それを聞いてますますほっとした。…………こんな言い方をすると誤解されそうだが、俺は今日はいい日だと思っているんだ」
こちらを見たウィリアムは、はっとするほどに鮮やかに微笑む。
すいと手を伸ばして、風でネアの頬にかかった髪の毛を直してくれると、艶やかな微笑みを深めた。
「いい日、なのですか?」
「ああ。俺の守るべきものを損なうものを排除して、君がそれを厭わない。自分がとても恵まれた男だと感じるからだろうな」
「……………少しだけ、分かるような気がします。私も、ディノを虐めた王様カワセミを滅ぼした時、そうして自分の手で守れる宝物があることが、とても誇らしかったんですよ。………むむ、この言い方だと、私がウィリアムさんの宝物になりたがっているようですが、ずっと仲良しではいて欲しいのです」
「…………そうだな、君は俺の宝だ。だから、時々はこんな事を許してくれると嬉しい」
ネアは勿論と頷き、ウィリアムと微笑み合った。
今日はとてもいい日なので、ウィリアムはレーズンバターパイを奢ってくれるようだ。
レーズンたっぷりのパイ生地をくるりと巻いてお砂糖をかけて焼いたこのパイは、ネア達が入っているパンと紅茶のお店の看板メニューである。
ふんわりとしたバターの香りに胸が踊れば、先ほどの憂鬱が吹き飛ぶようだ。
「むむ、ウィリアムさんがいい日だと言ってくれたので、私にとってもいい日になってしまったようです。レーズンパイが食べられるからではないのですよ?」
「……………参ったな。幾らでも食べさせたくなる」
「レーズンパイを…………」
ネアは一瞬、目をきらきらさせてしまったが、既にかりかりチーズパンを食べた後なので、これ以上はやめておくべきだ。
ディノと分け合ったカードに、王子様の従者達は、ウィリアムと遭遇していなくなってしまったと書いておき、むふんと運ばれてきたパイに向き合う。
はらりと黄色の落ち葉がテーブルに舞い落ち、ローズウッドのような木の上に鮮やかなコントラストを付けた。
ふわりと空気が動き、黒革の靴先と、艶やかな濃紺の生地が目に入る。
「……………ったく。俺の獲物だぞ」
「アルテア、今回ばかりは早い者勝ちですよ」
どこから来たのか、勝手に相席してしまった選択の魔物は、楓蜜の風味のある秋の夕べの紅茶を頼むようだ。
「おまえは、ここでこいつとのんびりと待つだけの仕事だ。充分な取り分だっただろうが」
「だからこそですよ。シルハーンも、見付けたものを排除してはならないとは言いませんでしたからね。それと、俺とネアはもう少しのんびりしていくので、何も付き合って貰う必要はないんですが」
「お前だけだと、こいつに何個のパイを食わせるつもりか分からないからな。放っておけるか」
「む、むぐぅ。…………ディノはまだ現場に残っているのですか?」
「騎士達は捕縛済みだ。残ったのは、楓の妖精達と、菩提樹の妖精だな。そうなると、ヒルドやリーエンベルクの騎士達がいても、シルハーンの力は必要だろう。言っておくが、ウィリアムが従者を消したせいで、そっちを残す羽目になったんだからな」
「やれやれ、どっちの妖精を残すのか悩ましいですね」
「なぜかディノは、私にどうしても楓の妖精さんを会わせたくないようなのです。となると、残るのは菩提樹の妖精さんでしょうか……………」
ウィームの西部にある運河の街。
前回の王子の一件が余程不愉快だったものか、残存部隊の捕縛と制圧に今回はとても協力的だったディノは、街外れの貸別荘に秋楓の妖精がいると知るととても荒ぶり、呼び出したウィリアムにネアを預けた。
(楓の妖精さんは、もふもふだったのかしら………)
仕事が終われば、この街で美味しい葡萄酒の新酒を飲んでゆく予定の出張仕事である。
ヒルドやリーエンベルクの騎士達も現地解散なので、王都から来ている第一王子の代理妖精のエルゼとエドラが、残された騎士達と妖精を参考人として連れて帰るのだろう。
こちらに来ているリーナとアメリアは、森の近くにある運河エールのお店に寄って帰るのだそうだ。
ウィームでは珍しいエールの専門店である。
「ウィリアムさん、ディノのお仕事が終わったら美味しい新酒を飲んでゆくのですが、もう少しゆっくり出来るようなら、ご一緒しませんか?」
「それはいいな」
「おい、誰があの貸し別荘を教えてやったと思っているんだ」
「なぬ。アルテアさんは、夕方から用事があるのでは……………」
ゆっくりと翳ってゆく秋の陽を眺め、ネアは大事な魔物がこちらに戻るのをゆっくり待つことにした。
どうやら新酒のお店は、ヒルドを含めた五人で行く事になりそうだ。
こんな風にみんなで過ごせるのだから、多分今日はとてもいい日なのだろう。