あわいの旅と雪白の館 5
森の入り口にその家はあった。
淡い水色の漆喰壁に綺麗な瑠璃色の瓦の乗った家は、確かに魔物達の基準からすれば可愛らしいものなのだろう。
けれどもその家の右手にはラベンダー畑が広がっていて、森の木々の枝影から月の光が差し込んでいる。
白緑色のふくふくとした葉が繊細な印象の月明かりの木が茂り、その下にはふくよかな紫色の薔薇が咲いている。
家の手前には柔らかな下草が茂っていて、小さな白い小花がそこかしこに咲いているのだから、何とも詩的で優しい風景ではないか。
(ああ、これがノアなんだわ………)
あのチェスカのラベンダー畑で出会った酷薄な魔物は、こんな家で心を休める繊細な魔物だったのだと、今のネアであればよく分かる。
このような家を持つひとが、何を求めているかなんて、一目瞭然ではないか。
「……………大好きなお家です」
「うん。ネアに気に入られる自信はあったんだよね。ほら、ラベンダー畑もあるよ」
「リ、リズモはいます?」
「祝福が豊かな畑だからね。時々見かけるけど、最近は来ていなかったからどうかな。あ、これは竜の置物だよ。僕と初めて会った日に、君が飼ってみたいって話していたから」
「まぁ!何て愛くるしい置物でしょう。背中の苔がまたいい感じですね」
「…………竜」
「あら、ディノ。これは可愛い置物なのでいいでしょう?こんな素敵な置物があれば後はもう、大切な伴侶と、家族や家族のような人たちで満腹ですね」
くすんだ色の森結晶で作られた竜の置物が、軒先にことんと置かれている。
雨ざらしで置かれていたことで、雨の祝福が滲んだ水色がかった風合いになっているが素晴らしく、背中の苔にはピンク色の花が咲いていた。
ノアなら、鮮やかな深緑色の森結晶も買えるだろう。
それなのに、この屑森結晶と呼ばれるくすんだ色の森結晶の置物を選んだ義兄に、ネアは、ますますノアが好きになった。
「ずっと昔に、君とラベンダー畑で出会った後に手入れをした家なんだ。小さな家だけど、あちこちに魔術の仕掛けがあるから、エーダリアも好きだと思うなぁ」
「……………私は、このような家に泊まったことはないのだ。以前に視察で訪れた町で、その町の彫金師の家を見せて貰ったことはあるのだが…………、ずっと、このような家で過ごしてみたいと思っていた」
ネア以上に目をきらきらさせているのはエーダリアで、驚いた事に、このような小さな家にずっと憧れがあったらしい。
普段の住まいはリーエンベルクであるし、ウィーム領主として誰かの屋敷を訪れても、そこもそれなりに立派な屋敷である事が多いエーダリアにとって、この森の外れの小さな家は未知の場所なのだろう。
(ああ、ここにも憧れの幸せの形があるのだわ………)
それは多分、ノアがこの家を気に入ったのと同じ理由だろう。
見知らぬ幸せや平穏の形を、二人はこんな家こそを象徴として見たのではないだろうか。
「そう言えばあなたは、以前からこのようなものに憧れがありましたね」
「私がまだ子供の頃に、ヒルドが読んでくれた絵本に、このような家が出てきたのだ。確かその家も、森の近くにあったような気がする…………」
エーダリアにとってのその小さな家は、当たり前のような幸福を手に過ごす家族の持ち物という印象だったらしい。
ディノが手を繋ぐ事を知らず憧れたように、エーダリアは、小さな家でごく普通の家族が過ごすような経験を誰かとしてみたかったのだろう。
そんなところが、リーエンベルクの食卓を優しい料理ばかりにしてしまうウィーム領主の気質なのだと、ネアは誇らしい気持ちでいっぱいになる。
これはもう、今夜はここで沢山家族のように過ごすしかない。
「風で飛んでしまわないのかい?」
「あらあら、ディノもこのようなお家は初めてなのですね?」
「…………うん。海辺のあわいの家も、とても小さかったけれどね」
「ここも、そのイブさんのお家に共通するものがあるのかもしれません。本当に必要なものだけのある、小さいけれどとても贅沢なお家なのですよ。ディノの毛布の巣も、寝台より狭いけれどとても落ち着くでしょう?」
「…………うん」
「多分このようなお家は、自分に本当に必要なものを知っている方のものなのでしょう。今の私達にぴったりではありませんか」
そう言われたディノは、水紺色の瞳をきらきらさせて頷き、こちらも初めましての喜びにひたひたと満ちている。
ノアはどこからか取り出した銀色の鍵束の中から、青みがかった銀色の鍵で家の扉を開けてくれた。
五人で入ればぎゅうぎゅうの玄関だが、ラベンダーのリースがかけられた靴箱が何とも可愛い。
「……………ふぁ。もしかして今日は、住みたいお家を内見出来る日なのでしょうか。既にもうこの家が大好きで、わくわくしてきました」
「そんな僕の大事な女の子に、特別に教えてあげるよ。この家は、あまり部屋数は多くないんだ。でも、浴槽は雪結晶の最高級品でゆったり浸かれるし、屋根裏部屋の書斎からは、ラベンダー畑が一望出来るからね」
「ず、ずるいです!私にも早く、屋根裏部屋を見せて下さい!」
書斎の窓からラベンダー畑が見たくて荒ぶる人間の横で、もう一人の人間は、家の中を見たことですっかり感動してしまって、お行儀良く佇んでいる。
ネアが屋根裏部屋観覧ツアーから帰ってきても、エーダリアは胸がいっぱいなのか、幸せそうに食卓の椅子に腰掛けていた。
「エーダリア様、屋根裏部屋の書斎も見るべきですよ!」
「ああ、そちらも見てみたい。…………食器棚のある食堂は、ぬくもりがあっていいものだな」
「むむ、すっかりノアのお家の良さに浸ってしまっています」
「ノアベルト、これは何だい?」
「洗濯部屋らしいよ。僕もここは使った事がないなぁ…………」
「洗濯妖精は住んでいないのだね………」
「ありゃ、確かにそうだね」
「まぁ、二人とも何を言っているのでしょう。勿論、住人が自分で洗濯するのですよ?」
「ネア……………」
「わーお、そうなのか……………」
ここで失礼な魔物たちは、この場合、可動域が低くて洗濯が出来ないネアはどうするのだろうとおろおろしてしまい、荒ぶった人間がいつか洗濯が出来るようになる祝福を手に入れてみせると宣言する場面があった。
ことんことんと、階段を下りる音が聞こえてくる。
家族の立てる音が聞こえるのがこのような家の特徴で、ネアは、かつて失ったその優しさに胸をほろりと緩ませた。
「お帰りなさい、エーダリア様、ヒルドさん。屋根裏部屋は如何でした?」
「あのような場所は、不思議と心が落ち着きますね」
「屋根裏部屋については、本で読んだ事があったのだ。リーエンベルクやガレンの塔にも屋根裏部屋はあるのだが、それは本物の屋根裏部屋ではないと、ガレンの魔術師に言われてしまって、一度訪れてみたいと思っていた。…………良い場所だな。落ち着いて魔術書を読みたくなる」
「おっと、今日はみんなでわいわいやるから、魔術書は禁止だよ!その代わり、またここに、魔術書を読む為だけに来ればいいんじゃないかな」
「……………いいのだろうか」
「勿論だよ。でもその時は、僕も一緒だからね」
「……………ああ」
そんなやり取りがあったので、またエーダリア達がもにょもにょしてしまい、くすりと笑ったネアは勇ましく腕捲りする。
「では、晩餐の準備をしますよ!今晩のお食事は、祝福おかずパンケーキです!!」
その宣言を受け、エーダリアは目をぱちくりさせた。
小さな家でお泊まりをするとなり、ネア達はその日の夜の食事についてあれこれ議論したものだ。
しかし、抜け道リーエンベルクのお祝い料理を昼食会でいただくとなると、それ以外のご馳走を用意してもやはり見劣りしてしまう。
となると、特別感のある家族料理がいいのではないかと言い出したのは、なんとヒルドだった。
エーダリアと共に過ごす時間が一番長く、誰よりも古くからエーダリアを知るヒルド曰く、ネア達に出会う前のエーダリアが一番興奮していた料理と言えば、リーエンベルクで暮らし始めた最初の日の料理と、ガレンの仲間達と共に野営で食べた料理なのだそうだ。
なのでヒルドは、そのようなものの中で何かないだろうかと提案し、ネアとノアもその案に賛成した。
(この家に来てからのはしゃぎっぷりを見ていると、それで正解だったのだと思う…………)
「パンケーキを、焼くのだな」
「ふふふ、それも、食事をするテーブルで焼くのです!」
「テーブルで…………?」
「ノアが魔術であつあつの鉄板………夜鉱石のプレートを用意してくれますので、焼きながら食べる方式なのですよ。ちょっぴり、バルバや海遊びの食事にも似ていますが、このパンケーキを皆で囲んで焼くのは、ウィームの風習としてもあるのだとか」
「……………安息日の祝い日か!」
はっと息を呑み、エーダリアがそう呟く。
安息日の祝い日とは、ウィーム全体が休眠モードに入ってしまう安息日の、その中でも徹底的に人々が家から出なくなる新年の安息日などにお祝いごとを迎える人達の為にある言葉だ。
勿論、前日などからしっかりと準備をしておき、安息日とは言えしっかりお祝いをする人達もいる。
だが、安息日によっては前日の祝祭に過酷な戦いがあり、くたくたになるからこその安息日も多い。
そのような場合は、この安息日の祝い日のパンケーキが登場するのだ。
こちらで鉄板代わりに使う魔術鉱石や、夜鉱石などをテーブルの上に置き、そこで家族みんなでパンケーキを焼いて、あつあつはふはふで食べるのがお作法である。
なお、パンケーキを焼く際には簡易術式を描くようにくるりと生地を流し入れ、お祝いパンケーキを焼いてしまう。
そこで使われる術式や祝福は、パンケーキそのものに向けられるので、誕生日封じなどにも使えると知り、ネア達は狂喜乱舞した。
やんちゃをしてあちこちで呪われてきてしまう、ウィームの子供達が必ず一度は食べたことのあるこのパンケーキを焼けるのは、その子供の保護者だけだというから面白い。
裏を返せば、保護者や保護者相当の存在を持たない孤独な人は、欲しても得られない御馳走でもある。
「つまりさ、契約の魔物である僕や、エーダリアの師だったヒルドはそれが出来るんだ。ヒルドには、年長の友達の僕が焼けるし、領主であるエーダリアも焼けるよね。ネアには全員が焼けて、シルにはネアが契約の相手として焼けるし、ネアの上司のエーダリアも焼けるかな。僕には王であるシルや妹のネア、契約者であるエーダリアも焼けるんだ。これって最高の組み合わせだと思わないかい?」
「おかずは、ウィーム市場の最高級のハムとチーズ達を、私が独断と偏見で集めております。ソーセージとベーコンはヒルドさんがリーエンベルクから、ノアが祝福の夜蜜と花蜜を揃えております。なお、デザートパンケーキに備え、さっきの市場で果物も買いましたし、ディノが、私のお気に入りのお店でぷちぷち花蜜の入ったアイスクリームを買ってきてくれました!」
エーダリアは、圧倒されてしまったのかこくりと頷き、少しだけ目元を震わせた。
そうして、ご機嫌な晩餐が始まった。
まずは楓の一枚板のテーブルに、熱でテーブルを損なわないようにノアが魔術を敷き、艶やかな夜鉱石がずしんと置かれて魔術の火で温められる。
ネアの指導でパンケーキの生地を混ぜているのは、三つ編みを後ろの一本縛りに変えた本気のディノだ。
ネアは、溺愛するソーセージとベーコンの担当にさせていただき、夏休みのアルテアを真似て、香草ブーケと一緒にしておいた卵をとろとろじゅわっとのバターたっぷりスクランブルエッグにした。
「よーし、焼くぞ!」
「ノアベルトから焼くのか…………」
「大丈夫、大丈夫。これでも僕、かなり練習したからね」
「……………練習?」
小さな声で聞き返したエーダリアに、擬態を解いて白い髪を黒いリボンで一本に結んだノアが、ふわりと微笑みを深める。
「僕とヒルドで、こっそり特訓したんだよね」
そして、その一言でエーダリアを呆然とさせている間に、ノアは、小さめのパンケーキを手際よく綺麗に焼いてしまった。
「ええと、まずは僕が、シル以外の全員分を焼くよ。後は、ネアがシルのパンケーキを焼けば完璧だよね」
「はい。おかずも出来上がりましたし、市販ですがお祝い向きの、異様に祝福の詰まったアレクシスさんのスープも用意出来たので、まずは最初の一枚をいただきましょう」
このパンケーキを焼くのに欠かせないのは、ウィームの木で作られた木製のおたまだ。
繊細な職人技で作られた木製のおたまは、じゅわっと夜鉱石の上に術式を描きながらパンケーキの生地を流し入れるのに最適である。
手首を返して鮮やかにパンケーキを焼くノアを満足げに見つめ、ネアは、特訓がこうも見事に実を結んだ事を喜ばしく思った。
ふんわりと甘い香りが漂い、そこにソーセージやベーコンの食欲をそそる匂いが重なる。
「よーし、これで完璧かな」
「では、私がディノのものを焼きますね」
「……………ずるい」
「またずるいの使い方が、行方不明に………」
五枚のパンケーキはすぐに焼き上がり、ネア達の旅の夜の晩餐が始まった。
最初のパンケーキは、それぞれ、ハムステーキやベーコンとスクランブルエッグ、或いはソーセージという温かなおかずといただくのだが、ネアの渾身の作品は、塩味の強いベーコンととろりと溶かしたチーズに、花蜜をかけたパンケーキの組み合わせだ。
「むぐ!……………ノアのパンケーキは、最高の焼き加減です!」
「え、もしかして僕、天才なのかな…………」
「ああ。…………美味しいパンケーキだな。…………食べるのが勿体ないくらいだ」
「………おっと。隙あらばエーダリアが泣かそうとしてくるのって何でだと思う?」
「あら、それはもう、ノアとエーダリア様が仲良しだからではありませんか?」
「…………ネアのパンケーキが美味しい」
「ふふ、ディノの為に心を込めて焼きましたからね」
「ネイ、最初は、シュタルトのものにしますか?」
「うん。やっぱりこんな夜は、シュタルトの湖水メゾンのものにしなきゃだからね」
きりりと冷えた白葡萄酒がグラスに注がれ、ネアは次のパンケーキを焼いてくれるヒルドの優雅な手つきを、惚れ惚れと眺める。
初めて安息日の祝い日なパンケーキを食べるエーダリアも勿論だが、食べ物を振る舞うことを愛情のやり取りとするだけあって、魔物達やヒルドにとっても、この夜は特別なものになるのではないだろうか。
(バルバや海遊びの時と違って、誰も、魔術の繋ぎは切っていないもの…………)
避暑地での料理も似たようなものだが、こうして、どうぞ召し上がれと作りたてのパンケーキをお皿に乗せて貰うのは、やはり特別な感覚に違いない。
一口ずつ味わうようにパンケーキを食べているエーダリアに、それぞれの焼き手はひどく優しい目をしている。
「…………ヒルドも、焼き方を学んでくれたのだな」
「良い経験でした。簡単に焼けるようになりましたので、これからの安息日では、少なくともパンケーキは焼いて差し上げられますよ」
「いや、お前は、元々幾つかの料理が作れただろう」
「ええ。ですがこれは、殆ど普通のパンケーキのままとは言え、古くからウィームに伝わる伝統料理の一つですからね。執務が夜通し行われることもありますので、このようなものをお出し出来ればと思っておりました」
「ヒルド……………」
そんなヒルドの焼いてくれたパンケーキを、エーダリアは花蜜とハムでいただいたようだ。
ネアもたくさんのホットケーキを焼き、エーダリアやディノも慣れない仕草でホットケーキ焼きに挑戦する。
二人とも慎重に挑戦していたものの、多少は歪になりながらも器用に形にしてみせていた。
美味しいスープはチーズと牛乳を使った優しい味のもので、おかずパンケーキが終わると、ネアはアイスクリームパンケーキに突入し、最後は、氷雪の魔術で冷やしておいた新鮮な果物をたくさんいただいた。
食後の温かな紅茶はヒルドが淹れてくれて、この食べ方だとなかなかの量を食べてしまった全員でへにゃりと椅子に潰れる。
「ぷは!お腹いっぱいです」
「ネアのパンケーキを沢山食べた…………」
「ふふ、ディノはエーダリア様のパンケーキも食べたのでしょう?」
「シルまで、パンケーキが焼けるようになるとは思わなかったなぁ……………」
「エーダリア様も、すぐに綺麗に焼けるようになりましたものね」
「もう少し、手早く焼けるようになればと思うのだが…………」
食事の後は、庭のラベンダー畑をみんなでお散歩した。
夜はふくふくと満ちて溜め息を吐きたくなるような美しさで佇み、月明かりの下で咲くラベンダーの畑は清しい香りに包まれた至福の場所だ。
ぺかぺかと光るものを見付けたネアが駆け寄って拾い上げると、夜に育まれたラベンダーの祝福結晶は、まるでノアの瞳のような色をしている。
「ノアのラベンダー畑から、素敵な収穫がありましたよ」
「それは君にあげるよ。というか、君に持っていて貰いたいな」
「まぁ、いいのですか?では、これもとっておきの宝物に加えておきますね。素敵な夜にこの祝福結晶を見ると、その度にこのラベンダー畑を思い出すに違いありません」
「うん。そうしてくれると嬉しいよ。……………って、その手に持っているのは何かな?!」
「む。鳥さんを捕まえました。ノアのペットでなければ、何かの祝福を貰いたいと思います」
「野生のものだから好きにしていいけれど、いつの間にそんな大きな鳥を捕まえたんだろう…………」
「ネア、その鳥を離したら手を拭こうか」
「ディノが最近、アルテアさんの影響でほかほか濡れタオルを持ち歩くようになりました……………」
ネアは、捕まえた鷺のような鳥に向かって、解放して欲しければ何らかの祝福を寄越すのだと残酷に告げる。
すると、高位の魔物たちに囲まれてすっかり怯えていた鳥は、クケーと一声鳴くと、どこかで見た事のある箒をぺっと吐き出して飛び去っていった。
「……………ネア、それは戸外の箒なのではないか?」
「奇遇ですね、エーダリア様。捕まえた鳥さんは宝吐き鳥ではなかったのですが、私もそれかなと思っていました。そして、ずっともう一本欲しいと思っていたのです!」
「わーお。僕の妹は、何ですぐに秘宝を集めちゃうのかな……………」
「狩りの女王たる所以ですね。そして、エーダリア様も何か見付けましたよ」
「……………これは、祝福結晶だろうか」
「夜の祝福結晶のようですね。持ち帰られては如何ですか?」
「……………ああ。美しいものだな」
「夜に少しだけラベンダーが混ざっているかな。エーダリアにも祝福結晶を用意するなんて、僕のラベンダー畑もなかなかいい仕事をするなぁ」
「は!リズモ!!」
「ネア!」
ここでネアは、リズモを発見して思わず駆け出してしまい、慌てたディノが追いかけてくる。
ラベンダー畑の中を駆け抜けると、冴え冴えとしたラベンダーの香りに胸の奥まで包まれるようだ。
捕まえたリズモから祝福を捥ぎ取って振り返れば、そこには、黒いコートに白いシャツ姿の美しい塩の魔物が、契約の人間や友人の妖精と談笑している姿があった。
さらさらと、風に揺れる髪を耳にかけ、ネアは立ち止まってそんな光景を眺めていた。
「……………ディノ、私は、こんな風にチェスカのラベンダー畑でノアに出会ったんです。その時のノアは、綺麗な女性の方と別れ話をしていて、髪の毛はまだ短くて前髪を後ろに撫でつけていました。今のように穏やかな目で笑うことはなくて、その後の人間嫌いになってしまうノアではなくても、ちょっぴり皮肉屋だったような気もします」
「……………このラベンダー畑は、君に出会った後で作ったもののようだね。ノアベルトにとって、それだけ大事な思い出だったのだろう」
「出会ったその日は人生最悪の日だと思っていましたが、今の私にとってのあの日は、ノアに出会えた特別な日です。あの夜はまだ一人ぼっちだったノアが、今はあんな風に幸せそうに微笑んでいるのが、堪らなく幸せな事に思えてなりません」
ネアは、見知らぬ世界に呼び落とされたと知った時、友達が出来るかもしれないとは思っても、伴侶や兄が出来るとは思ってもいなかった。
生まれた世界で色々と仕損じたことをやり直す機会を得ても、きっと自分は自分のままだろうとどこかで諦めていたのだ。
でもここには、思っていた以上に大切なものが沢山ある。
「ディノ、とても幸せな夜なので、ぎゅっとして下さい」
「……………ずるい」
「ここなら、ノアのラベンダー畑なので安心ですよね?」
「ネアが大胆過ぎる……………」
たいそう恥じらいながらではあるが、ディノは、ネアをぎゅっと抱き締めてくれたので、ネアはそんなディノの手をしっかりと掴んだ。
空いている方の片手で、こちらを見たノア達に手を振れば、ノアも手を振り返してくれる。
そうして訪れたのは、待ちに待った贈り物の時間だ。
家に戻ると、ちらりと時計を見たヒルドの手で、ごとんと机の上に置かれたオリーブ色の箱がある。
香り豊かな香木で作られているその箱は、外側を樹氷結晶で覆う徹底ぶりで、内側に収められた外套をしっかりと守っているらしい。
「エーダリア様、皆からの贈り物です。日付も変わりましたし、この場所であれば忌み日の魔術の残滓にも触れないでしょう」
対価として差し出したものを取り返す事は出来ないが、日付が変わってあわいの中のノアの領域となれば、こうして誕生日の贈り物だと謳わない贈り物を渡す事も出来る。
そう微笑んだ森と湖のシーにそろりと頷き、エーダリアは、両手を伸ばして贈り物の箱を開けた。
きしりと氷が触れ合うような音がして開けられた箱には、一枚の黒い外套が収められている。
竜革の柔らかな手触りのもので、裾と袖口、そして襟元にはアーヘムの手による見事な刺繍が見えた。
縫いつけられた祝福石が上品に光る様は、美しい夜と星空を切り取ったようだ。
どれだけ特別なものなのかを思い、けれどもまだ隠された秘密があることに、ネアはわくわくとその様子を見守った。
「外套を仕立ててくれたのだな………」
「あら、もっといいものなのですよ。ねぇ、ノア?」
「うん。これはね、バーレンの持っていた竜の外套に近いものなんだ。擬態をする為の外套だよ。僕の渾身の作品だから性能もかなりのものになっているからね」
「竜の外套……………。魔術の至宝ではないか……………!」
「それと、外套の下に入っているのが、秋のグンドラディアっていう、魔物の古書市の招待状だ。僕とダリルが一緒に行くのが条件だけど、そこに君を連れて行くための外套でもあるんだ」
「……………魔物の、古書市」
ここで、既に涙目だったエーダリアはぜいぜいと荒い息になってしまい、ネア達はそんな家族を微笑ましく見守った。
鳶色の瞳を潤ませてヒルドを見たエーダリアに、いつもは優しくも厳しい妖精も微笑んで頷く。
「この外套があり、ネイとダリルが一緒であればこそですが、その訪問も含めてが贈り物ですからね」
「古書市の招待状は、ディノが手に入れてくれたので、開始と同時に入れるような特等仕様になっているのですよ」
「そうなのだな……………」
エーダリアはとうとう声を詰まらせてしまい、両手で持ち上げた外套を抱き締めるようにして、ぐぐっと呼吸を整えている。
「……………有難う」
万感の思いを込めてそう呟いたエーダリアに、ネア達はわっと笑顔になった。
これはもう飲むしかないぞと、ノアもご機嫌で夜の町の酒として有名な杏のお酒の栓を開ける。
その夜、ネア達はたっぷり夜更かしをして、美しい夜をしっかりと堪能した。
真夜中に飲んだとろりとした甘い杏のお酒が美味しくて、ネアは幸せな気持ちで眠りにつく。
寝室は、二人で一つの寝台でいいネアとディノが、銀狐なノアと一緒に主寝室を使わせて貰い、エーダリアとヒルドが客間で眠った。
(みんなの気配を、すごく近くに感じる……………)
初めての場所での就寝に心は昂っているが、ネアはすとんと眠ってしまった。
眠りの中で安らかさにうっとりと溺れ、心の端がきらきらと光るような夜に、眠っていても微笑んでしまう。
翌朝は少し朝寝坊めで良かったのだが、ネア達は早朝に目覚め、えもいわれぬ美しさの霧がかった夜のラベンダー畑を見ながら交代で顔を洗った。
ずっと夜のままの町というのも奇妙な感覚だが、不思議と空気は爽やかだ。
ふかふかのタオルで顔を拭きながら、エーダリアの心は早くも朝市に飛んでいるらしい。
「夜に開かれる朝市というのは、どのようなものになるのだろう………」
「夜の朝露とか、面白いものがあると思うよ。夜苺の朝霞蜜がけとか、かなり祝福が潤沢でいい味なんだよね。………ありゃ、朝食は市場で食べる予定だから、ネアは落ち着こうか!」
思いがけない美味しい説明にネアは弾んでしまい、お口の中はすっかり苺な気分で瞳をきらきらさせる。
結論から言えば、新鮮な苺は瑞々しく、口の中でしゅわりと溶けてなくなる朝霞の蜜は例えようもない美味しさだった。
肝心のエーダリアは、夜朝の祈祷書という魔術書を見付けたあたりで燃え尽きてしまったが、夜朝鱒をふんわり白葡萄酒で蒸し焼きにした朝定食を皆で食べ、デザートの苺で大満足の朝食だったと言っておこう。
一度家に戻って支度をし、満ち足りた気持ちで駅に向かう頃には、夜だけが続く町を歩くのもこなれてきた。
「絶対にまた、このお家に来ましょうね」
「うん。いつだって大歓迎だよ。ぽわり渓谷を通る時だけ、目を覆っておけばいいんだからね」
「むぐぅ。あの駅では、耳も塞ぐべきなのでは……………」
「ありゃ、確かにそうだ」
夜の町の駅からの迂回路はないので、往路と復路は同じ経路だ。
夜の畔駅で夜を抜けると、バンアーレンの美しい山々を眺め、タムログレンで連結車両を外し、元来た道を戻る旅路となる。
ノアは帰りに木馬の駅に寄るのを楽しみにしていたようだが、そこで悲しい事件が起きた。
「ぎゃ!駅が空っぽです!!」
「え、……………本日は定休日って何?」
「駅にも定休日があるのだね…………」
何と、あの巨大な丸太木馬が闊歩していた駅は、がらんどうの抜け殻のようになっていた。
巨大な木馬が姿を消しているだけでなく、斜めに生えていた木の一本もないのだから、かなり徹底された定休日なのだろう。
ノアは悲し気に呻き声を上げ、定休日という紙がこれでもかと沢山貼られた駅で、虚しく開いていた扉が静かに閉じる。
そうして列車はまた、がたんごとんと走り出した。
「…………ノア?元気を出して下さいね。最初の駅で、鉱石のお花がもっとないか探してみます?」
「ここが定休日なら、タムログレンで宝石をもっと買えば良かったかなぁ………」
「どうやって、生えていた木まで片付けてしまったのだろう。魔術で可能なものなのだろうか……………」
「どうやら、あの駅の様子は仕事の一環だったようですね」
「ほわ、悲しい気持ちになりました。お仕事上での演出だったのですね……………」
少しだけ悲しい気持ちになったので、ネア達は最初の駅で森の散策と収穫をしてからリーエンベルクに帰った。
リーエンベルクを守っていてくれたダリルにお土産を渡して見送り、荷解きもして一息ついたところで、午後のお茶の時間となる。
お茶と一緒に出されたのは手の込んだチョコレートケーキで、お帰りなさいというメッセージが添えられていた。
そのケーキを見たエーダリアがちょっぴり涙もろくなったのも、お誕生日小旅行のいい幕引きだったように思う。
明日10/3の更新は、お休みになります。
ツイッターでSSを書かせていただきますので、もし宜しければご覧下さい!