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あわいの旅と雪白の館 4




「むぎゅわ。このお家にまた遊びにきたいです……………」

「…………こっちの都合もある。勝手には来るなよ。お前とシルハーンだけで来るつもりなら、穴熊の駅まで迎えに行く必要があるからな」

「寧ろ、アルテアさんが道中も一緒だとかりじゅわ駅で事故りそうな気しかしません…………」

「お前を野放しにしておくより余程安全だろうが」

「ええと、…………シル。一緒に事故るって思われ始めたから、それは怒った方がいいと思うよ」

「アルテアが来ると、一緒に事故ってしまうのかな…………」




たっぷりと穏やかな時間を過ごし、ネア達は、バンアーレンを発つことになった。



ネアはこの屋敷がすっかり気に入ってしまったので、今度はお泊まり会で来たいと言えば、アルテアは小さく考え込む仕草をすると、夜の景色も見ておいた方がいいだろうなと呟いていた。



(あ、……………)



帰り際に、ネアは、アプローチの柱の上に置かれた雪白の香炉の彫刻の台座のところに、小さな傷があることに気付いた。

まるで猫が爪を立てたような傷跡に、ネアは、かつてこの屋敷に猫が遊びに来たこともあるのかなと、砂糖の魔物がどのような日々を過ごしていたのかをまた少しだけ考えてしまう。



愛する人がいなくなった日々を過ごす魔物の事を、こうして漸く手に入れた大切な人達との時間から眺めるのは少し怖い。

けれども、人間はそんな怖さになぜか自ら触れてしまうこともあるのだった。



びゅおると、風が吹き抜ける。

舞い散る白薔薇の花びらが雨のようで、ネアは、大切な屋敷を思い出させるその庭をしっかりと瞼の裏側に焼き付けた。



次に来る時にはもう、薔薇の季節は終わっているかもしれない。

出来ることなら、ネアが育てきれなかった薔薇の咲かない庭ではなく、この美しい白薔薇で満開の庭を覚えておこう。


アルテア曰く、この屋敷の周囲の土壌は偏った魔術が潤沢で、赤い薔薇を植えても白薔薇が咲いてしまうのだそうだ。

明確な理由は三席の魔物にも謎であるのが面白かったが、雪白の館には白薔薇だけでいいような気がして、ネアはもう一度振り返る。



駅舎のステンドグラスの影を踏み、ゆっくりと白い息を吐けば、どこかこなれた旅人気分で心が凛々しく背筋を伸ばす。

可愛い革のトランクでも、軽やかに手に持ちたい気分ではないか。



「アルテアさんも付いてきてしまうのかなと思っていましたが、お客様が来ると話していましたね」

「アルテアのところに約束なしに押しかけられるんだから、僕達は早々に立ち去るのが利口だろうね。ろくな客じゃないと思うよ」

「……………おい、聞こえてるぞ」

「むむ、そう言えば、アルテアさんがいないと列車の扉が開かないので、お見送りまでして貰っていたのでした」

「シルハーン、くれぐれもこいつを野放しにするなよ。仮にもあわいの駅だからな」

「ネア、紐で繋ぐかい?」

「おのれ、私の魔物に、厄介な知恵を与えるのをやめるのだ!」



エーダリアはアルテアの薔薇園で、剪定して捨ててしまうつもりだったらしい蕾を幾つか貰い、それを大事そうに保存用の丸い水晶瓶に入れている。

蕾を押し込んだ瓶の中に、屋敷の裏手にあった湖の水を入れておけば、その中で綺麗に咲くらしい。


とっておきの一輪を咲かせる為に剪定されてしまうが、普通の土地では手に入らない、祝福が豊かな蕾である。

月光に当てて綺麗に咲かせるのだと、今から何だか楽しそうだ。



がたんごとんと音を立てて、線路の向こうから列車がやって来る。



魔術で動く列車は、車輪の噛み合う音はするものの、停車するととても静かだ。


溜め息のような音を立てて駅舎の横にぴたりと滑り込み、きん、と澄んだ音がして扉が開けば、列車に乗り込むネア達と入れ違いになる形で、一人のすらりとした男性が階段を降りてくる。



いそいそと乗り込もうとしてたネアは、まさか降りてくるお客がいるとは思わずにステップを登りかけてしまい、列車から降りた階段の途中で、そのお客とすれ違う形になってしまう。

降車客が優先なのにと、ネアは焦り過ぎた自分が恥ずかしくなったが、ステップを踏み体を持ち上げてしまった以上はどうしようもない。


ふわりと鼻腔に届いたのは、どこか懐かしい鈴蘭の香り。


漆黒の外套の襟を立てて帽子を深くかぶっていて表情までは見えなかったが、ちらりとこちらを見た際に、白紫色の髪が見えたような気がした。



(あ、……………)



思わずそちらに視線を向けてしまい、ネアはかつんと列車の階段に爪先を引っ掛けてしまう。



「……………っ、」

「……………おっと」


ひやりとした一瞬、ネアの腕を素早く掴んで体を支えたのは、その、見知らぬバンアーレンのお客だった。


そのまま持ち上げるのではなく、ネアの後ろに立ったディノに体を預けられるように手を離してくれたので、ネアはすっぽりとディノの腕の中に収容されて驚きに止まりそうだった息を整える。



「有り難うございます」


お礼の言葉にふっと微笑む気配があり、角度的にネアには見えないその眼差しは、どうやらディノに会釈をしたようだ。


こつこつと階段を踏む音がして、漆黒の外套の裾がひらりと揺れると、列車の扉が音もなく閉まった。


こちらを見て顔を顰めてみせたアルテアに手を振ると、乗り込んだ列車の扉のところに立ったまま、ネアは、ほうっと肩の力を抜く。



「…………ふぁ。危うく、見知らぬ方を巻き添えに、列車の階段で果てるところでした」

「ネア、足首を痛めてはいないかい?持ち上げていようか」

「いえ、あの方が素早く身体を支えてくれたので、嫌な感じに足首に負担をかけずに済みました。どうやらアルテアさんのお客はあの方のようですが、ディノも知り合いの方だったのですか?」

「うん。グラフィーツだったね」

「なぬ」

「……………ありゃ、まさかの、グラフィーツの訪問だったか。一色の服装って珍しくない?」

「まさかの話題の方を、この場所で偶然見てしまいましたね。久し振りに、かつての自分のお屋敷を訪れたくなったのでしょうか………」



砂糖の魔物は、片腕が義手の魔物である。

身体を支えられた時に、その腕がきりりと澄んだ音を立てた理由が分かり、ネアは不思議にも温度があったその感触を思う。


砂糖の魔物からは鈴蘭の香りがしたのに、あの腕からはなぜだか薔薇の香りがしたような気がしたのだ。



がたんごとんと、引き続き高地を走る列車が音を立てる。


森の衝立で雪白の館は見えなかったが、清廉な山々ときらりと光った湖とのバンアーレンの美しい景色は、あっという間に車窓の向こうに遠ざかっていった。



今度の列車は座席がボックス席ではなくなり、午後も少し遅い時間になったからか、ネア達の乗った車両はがらんとしていた。

これで進行方向の左右どちらの景色も満遍なく楽しめるぞと、ネアは、鋭い目で行き先表示板を見据え、次の停車駅を探る。



「次の駅は、……………ぽわり渓谷ですね」

「ご主人様……………」

「……………むぐ。私はなぜか、唐突にとても伴侶の腕の中にぎゅっとされたい気分です。ディノは、伴侶を甘やかしてくれる優しい魔物なのですよね?」

「ずるい。ネアが可愛い……………」

「え、僕もあんまり得意じゃないかも。ヒルドが手を握っていてくれるのかな」

「ネイ。落ち着いて座席に座るように。脱脂綿妖精の集落だとしても、危害を加えられる訳でもないでしょうに」

「いやいやいや、あの歌声が夢に出てくるよね。だから……………っ?!」


何かを言いかけたノアがぎょっとしたように黙り込み、ネアは目にしてしまった窓の向こうの景色に、びみゃっと飛び上がる。



深い深い渓谷には、きらきらと光る細い縄がかけられており、その上にみっしりと乗ったミントグリーンの脱脂綿妖精達が、らんららんと物悲しい歌声を響かせながら、小粋に腰かけた縄を揺すっている。


さながら悲しげな微笑みの似合うサーカスの空中ブランコ乗りのような様子だが、歌っているのは、ミントグリーン色のぽわぽわした脱脂綿なのだ。


そもそも、なぜ、こんなに自然溢れる場所に脱脂綿妖精が集まってしまったのだろう。

もはや生息圏ですらないのではと、ネアはふるふるする。


そんなネアを必死に抱き締めて守ってくれているディノは、悲しい恋の歌に聞こえなくもない歌声にとても怯えていた。



らんららん。

らんららん。



悲しげな歌声が聞こえ、大縄跳び状態の空中ブランコが揺れる。


それは一本ではなく何本もかけられ、みっしりと脱脂綿妖精達を乗せて、ぎしぎしと揺れた。

ネアはもう震えるばかりで、脱脂綿妖精が苦手ではないエーダリアやヒルドですら、凍りついたように動かない。



誰も何も言えないまま列車はゆっくりと駅舎に停まり、よりにもよって扉が開いた。



(は、入ってこないで欲しい!!)



ネアのそんな願いが届いたのかどうか、売り子が列車の中に入って来ることはなかった。

しかし、扉が開いたことで、脱脂綿妖精達の歌声はいっそうに大きくなる。


ゆらゆらと縄を揺すって歌うその姿に、ディノはネアを抱き締めて守りながらも震えているようだ。

ノアはヒルドの背中に隠れてしまい、エーダリアも茫然と立ち尽くしている。



永遠にも思えた時間の後に扉が閉まり、列車はぽわり渓谷をがたんごとんと通り過ぎて行った。

極度の緊張状態に置かれたネア達が、崩れ落ちるように椅子に座ったのは、脱脂綿妖精達が漸く見えなくなってからだ。



「ま、まさか、あのような生態もあるとは知らなかった…………」

「そりゃあわいにもなるよね。強烈過ぎるよ……………」

「ネイ、いつまでそこに隠れているんですか。もう渓谷は抜けましたよ」

「ぎゅ……………。あの歌声が耳から離れません……………」

「……………ご主人様」



すっかり弱ってしまったネア達を乗せた列車は、その次には青の草原に停車した。

もう脱脂綿妖精は無理だと戦々恐々とした空気でどのような駅かを待っていたのだが、青い花がどこまでも咲いた草原が広がる光景に、ネアはほっと胸を撫で下ろす。


その駅では売り子さんが列車の中に入ってきて、夏の系譜の花だというグムレの青い花で染めたハンカチなどを見せてくれた。

ネアは、綺麗な青い花の刺繍の美しいハンカチを一枚買い、ヒルドはハンカチとレース糸のようなものを買ったようだ。



「ダリルにか?」

「ええ。ララが派生してから、このようなものを喜びますからね。あなたが宝石を買っていましたので、何か他のものをと思っていたのですが、これならいいでしょう」



ララは、ダリルダレンの書架で派生した司書妖精だ。 以前の司書妖精が失われてから然程時間が空いておらず、あと百年は望めないだろうと言われていたところに現れたので、ダリルは愛娘のように慈しんでいる。


ネアも会ったことのあるララは、少し人見知りだが、可愛い小鳥姿の妖精だった。



「そう言えば、ダリルさんは剣を使われる妖精さんだったのですね」

「……………ネア様?」

「ヒルドさんのお誕生日の贈り物で、死の舞踏を紡いだとお聞きして、ダリルさんは剣を使う方だったのだなと知りました」


ネアがそう言えば、ヒルドは柔らかな苦笑を浮かべて首を振る。



「いえ、ダリルが使うのは弓ですよ。剣の腕はからきしのようです」

「まぁ。それなのに、死の舞踏を?」

「ダリルはな、その住み分けを持たない妖精なのだ。多くの妖精達は剣と弓に分かれるが、ダリルは本来、武器を持たない、賢者や隠者と呼ばれる妖精の系譜だからな。書架妖精は書の番人として武器を持つ者も少なくないが、知識に纏わるものから派生した妖精達は多くが武器を持たない妖精の区分で、ダリルのように迷路などを扱う事が多い」

「そうなのですね。第三勢力があるのは知りませんでした!」

「それなのに、死の舞踏も紡げるんだから、やっぱり彼は器用だよねぇ…………」

「ララの為に試行錯誤した試作品のようですよ。私の目から見ても質のいいものですので、生来、器用な方なのでしょう。階位としても、定められた領域の中においては、シー相当の力を持っておりますしね」



あくまでも書の番人として派生する書架妖精は、弓を持つ妖精達も多い。

これは、門番としての役割を持ち、派生するからなのだそうだ。


しかしダリルの場合は、派生した段階では書架妖精としてのみの資質であったが、ダリルダレンの書庫の主人として魔術の潤沢なウィームで育まれた。

その結果、派生した時より属性を大きく変え、巧みに扱うという弓も、書架妖精であれば弓だろうと鍛錬し身に付けたものでしかないのだという。



「だが、ダリルはあまり手の内を明かしたがらないからな。敢えて、弓を持つ、一般的な書架妖精として振舞っているのだ」

「ふむふむ。では私も、そのことは他所には漏らさないようにしますね」

「ええ。ですが、あのように振舞っておいて、特殊な資質を持つのではと疑われないこともないでしょう」

「そう言えば、兄上のところのエドラも、本来の資質にはない魔術を振るう妖精だと聞いているが、あまり多くの事は明かされていないな………」

「エドラは、妖精の子供ですからね。両親のそれぞれから、異なる資質を受け継いだと聞いております」


妖精の子供という、妖精達だけが使う言葉がある。

これは、特定の種族に自然派生する一族の子供ではなく、妖精が身籠った子供を指す言葉だ。

主に、違う一族同士の間に生まれた子供を示すようで、属性が安定せずに不安定な子供も生まれやすいものの、双方の資質を受け継ぐ優秀な子供も生まれるのだそうだ。


才能に恵まれず生まれた不安定な妖精がいても、弱いものを抱え込んで愛しむ事も好む妖精達は、どんな子供でも大事に育てるのだという。

このような場合はいい話だが、小さな人間の子供なども好きなので、気に入ると勝手に連れ去ってしまう事も多いのだから、なかなか厄介な資質でもあるのだ。



「……………むむ、次の停車駅は、夜の畔という駅なのですね。……………ほわ」



小さな森を抜けると、列車は夜の畔に向かう。

それはもう見事な夜の入りの美しさで、長閑な田園風景に息を呑むほどに鮮やかな夜の光が満ちていた。


感嘆の溜め息を吐き、ネアは青が滲むような空の縁を見つめると、椅子の上で小さく弾んでしまう。

バンアーレンの清廉な美しさとはまた違う、強く鮮やかな色の豊かさが美しい場所だ。


そんな夜の畔の駅では、夜の畔でだけ育つ香草があるそうで、停車した駅では香草が沢山売られていた。

エーダリア達は料理人へのお土産にしていたし、ネアは自分用のものと、アルテアへのお土産にも一袋購入しておいた。



「次が、ノアのお家のある駅なのですよね」

「うん。小さな町になっているんだけど、真夜中の座の系譜の土地で、ネアも気に入ると思うよ」

「それはもう大好きに違いないので、とても楽しみです!」

「ただ、巨人の系譜の酒も売られているから、ネアは買い物には注意するようにね」

「むむぅ。お酒のお土産は控えますね。……………もしかして、食べ物も売っているのですか?」

「飲食店もあるし、市場は悪くないね。特に問題なくここまで来られたからまだ時間もあるかな。寄ってみるかい?」

「はい!」



夜の畔から、列車は湖のある森林域を抜けて、その町に着いた。



ざらりとした黒曜石の看板の駅名は夜の町となっており、その名前の通り、この辺りはずっと夜なのだそうだ。


今はもう失われてしまった土地のあわいで、かつて王妃と王女を失い、国を夜だけで閉ざしてしまった王国があり、その中でも最後まで夜を守った町が夜の町だったらしい。



「でもまぁ、みんな夜に適応しているから、望まない変化だった訳じゃないみたいだよ。元々、夜の系譜の守護が強い土地だったんだろう。町外れに行くと、終焉の系譜も残っているから、夜を保ったのは、死者の門が近かったこともあるみたいだね」

「そうか。愛する者達が少しでも長く地上に居られるように、夜で固定したのかもしれないのだな…………」

「そうなんじゃないかな。いつでも夜なら、死者の日には朝から地上に上がれるからね」



駅舎は、夜煉瓦造りのしっかりとした建物で、濃紺の建物の上には淡い水色の艶々とした瓦屋根が乗っている。


天井から吊るされた篝火の魔術を入れたまあるい灯りに、蔓薔薇が壁を這い、真っ赤な花を咲かせているのが美しい。



「むむ、もさもさの生き物が!」

「ネアが浮気する……………」

「ミュモ?」


駅舎には珍しく駅員もおり、ふさふさした黒い毛皮の長毛犬のような生き物が、凛々しく駅長の帽子を被り切符をあらためてくれる。

ネア達はここで下車となるので、切符は全て回収され、その犬がもぐもぐと食べてしまった。



「なぬ。切符が食べられました」

「ミュン!」

「美味しいのかな………」

「ディノ、私は流石に切符までは食べないので、心配そうにこちらを見なくてもいいのですからね?」

「そうなのだね。良かった」

「本気で疑われていたようです……………」



町に出ると、気持ちのいい夜の空気が辺りを包んでいる。


夜にも様々な色の夜があるが、ここに満ちているのは幸福で穏やかな夜だ。

けれどその夜があまりにも穏やかで美しいので、ほんの少しだけ胸が痛むようなそんな場所なのかもしれない。


石造りの街並みは高い建物がなく、並木道があるので緑の多い印象だろうか。

街燈に灯るのは篝火の魔術で、橙色の優しい光で町を照らしている。


行き交う人々の表情も穏やかで、ここには普通の人間も多く暮らしているのでと、駅舎を出る際に髪色の擬態をしたとは言え、際立った美貌の魔物達が歩いていても特に気にかける様子はない。


ノアが言うように様々な商店もあり、建物の配置などがウィームの職人街の街並みに似てる。

小さな屋台ではソーセージを挟んだパンが売っていて、ネアは、いい匂いにくんくんした。


小さな雑貨屋には夜から紡いだ糸や毛糸が売っており、夜の様々な色を固めて作ったビーズも沢山揃えているようだ。

この店にはヒルドが興味を示したのでみんなで入ったところ、ネアは、いつの間にか、しっかりとした紙袋を抱えて店を出ていた。



「謎です。気付いたら、毛糸と刺繍糸、おまけにビーズまで買っています。何と恐ろしい店なのだ」

「ありゃ。エーダリアもこういう店で買い物するんだね」

「ああ。夜結晶の糸通しがあったのだ。これで夜の系譜の魔術書の綴じを修繕するときに、糸が逃げ出さずに済む」

「そっか。銀水晶や泉鉱石の針だと、糸が逃げるもんね」


探していた道具を見付けたエーダリアはほくほくしており、ヒルドも、夜鉱石を使った編み棒や夜を紡いだ毛糸などを幾つか手に入れたようだ。



「ディノも、素敵なお買い物をしたのですよ」

「わーお。シルもかい?」

「新月の夜で磨いた夜のあわいの結晶の鋏があったからね。以前に、妖精の呪いに触れた時に、このようなものがあればと思ったことがあったんだ」

「……………ああ、確かに。真夜中の座が第一席だから、他のあわいの系譜の魔術を切りやすいね」



五人はぶらぶらと町の中を歩き、他にも、古書店や植木屋さんなどで買い物を楽しんだ。


そして最後に訪れたのが、市場だ。


鮮やかな赤いテントの下に広がる市場は、どこか秘密めいた賑わいが夜市場に似ている。

買い物に来た住民に混ざって黒いローブを羽織った魔術師のようなお客もいて、柔らかな黒い毛皮の竜が一生懸命チーズを選んでいる。


真っ赤な林檎が山積みになった籠の隣に、杏が五個ずつ入った木箱が積み上げられており、これは特売品のようだ。

薔薇や百合などの切り花が売られ、オリーブに似た小枝も紙で包まれて売られていた。



ネアは、とにかくチーズが欲しいという体で綺麗な竜の隣に並んでしまい、慌てた魔物がしっかりと羽織ものになってくる。


そこかしこに溢れているのは杏なので、この町では杏の栽培が盛んなのかもしれない。

これはもうと心を決めて杏のクリームチーズの塊を購入したネアは、隣の竜の白檀のようないい匂いを堪能しつつ、商品を夜に浸したワックスペーパーに包んで貰い、幸せな気持ちになった。


エーダリアは瓶入りの夜の雫に目を瞠り、大きな瓶を何本か購入しているようだ。

あの買い方はきっと安いに違いないので、ネアもそちらにお邪魔させていただき、小海老サンドと同じくらいの値段で、葡萄酒の瓶にたっぷり蓄えられた夜の雫を自分の厨房用に購入することが出来た。


更には真夜中から抽出した染料で染めた便せんも手に入れ、ネアは、長らく死蔵していた月光のインクの使い道を見出した喜びに唇の端を持ち上げる。



(楽しい!サムフェルみたい………)



「ありゃ、何か食べてるぞ」

「むぐふ!星屑林檎飴ですよ。夜蝋の包み紙の中に、小さな星屑林檎が入っているのです。試食でいただいたもののあまりの美味しさに箱買いしたら、一人一つおまけで貰ったのでお口に入れました」


なお、このお店のチョコレートをエーダリアも買っていることが判明し、夜蝋を買って戻ってきたエーダリアも、おまけで貰ったチョコレートをもぐもぐしていた。


また明朝になれば、夜朝の市場が立つそうなので、ネアはひとまずこれで許してやろうぞという気持ちで買い物袋を金庫に入れると、張り切ってあちこちへ素早く動いたご主人様が可愛いと、目元を染めたディノの三つ編みを握り直す。



「むふぅ。大満足です!」

「ネアが可愛い……………」

「見たことがないものもあるが、ここは既存の品物の質が良く安価なものが多いのだな。つい、色々なものをまとめ買いしてしまった……………」

「やれやれ。あなたが、買った魔術書を一度に読まないように、私も注視していなければいけませんね……………」

「…………そ、そうだな」

「エーダリア様?」

「大丈夫だ。日を分けて読むようにする…………」


こちらを見たヒルドが、つい本音が漏れて曖昧な返事をしてしまったエーダリアに呆れつつも、満足げに艶やかに微笑む。

すっかり買い物を堪能した様子のエーダリアが楽しんでいる姿が嬉しいのだろうと、ネアもヒルドに頷き返した。


この様子なら、今だけはもう、忌み日であることも忘れているかもしれない。

今年はサムフェルがなかったが、ここで思う存分買い物が出来たようだ。




「さてと、そろそろ僕の家に向かおうかな。……………それと、ネア、羊は買って帰れないよ?」

「むぎゅう。ふかふか羊さん……………」


ネアは濃紺のリボンで繋がれた、手のひら大のふかふか黒羊をこっそり買って帰ろうかなと凝視していたが、目敏くノアに気付かれてしまい、すぐさま荒ぶる魔物達に遠ざけられてしまう。


しょんぼりしてふかふか羊に手を振ったが、羊達は、高位の魔物を連れた人間に買われるのは不安だったようで、ささっと目を逸らされてしまった。




「ここから、森の方に向かって一本道だよ」



すっかり大満足のネア達を連れて、どこか幸せそうな足取りでノアが道案内してくれる。

町外れにある森の向こうに、ラベンダー畑に囲まれた小さな家が見えた。







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