あわいの旅と雪白の館 3
仄暗い曇天の下の切り立った山々を背景に佇む駅舎は、古びた教会のような造りであった。
雪を沿わせた山々は悪夢の中で見た情景を思わせ、ネアは小さく息を飲んでその美しさに心を震わせる。
最初にあわいの列車に乗った後や、イブの海辺の家に泊まった後の暫くは、淡い色の穏やかな海が見たくて堪らなかったのだが、あの悪夢からはずっと、こんな景色が見たくて堪らなかったのだ。
感嘆のあまりにふうっと強張った息を吐き出し、ネアは片手で胸を押さえた。
「ネア、……………はぐれないようにね」
「……………ディノ?」
差し出された手は少しだけふるふるしていたが、ネアは、まだどこか彷徨いがちな意識をこちらに引き戻し、その手のひらに指先を預けた。
ふっと安堵に押し殺したような息を吐いたのは、ディノだったのだろうか。
おやっと思いその表情を覗き込めば、美しい魔物が魔物らしい凄艶さで薄く微笑む。
「君は、思っていたよりも夜告げ草に魅せられていたようだね。アルテアが、君をここに招待してくれて良かった」
「…………そうなのですか?…………あまり惹かれるのは良くないと聞いてはいましたが、どちらかと言えば、夜告げ草そのものよりも、この山間の景色にぐぐっと来ていたような気がするのです」
「君が見たものは、呼び寄せる為の餌だからね。呼び声を待つものだからこそその場所は耳聡く、例え欠片であっても心の中で求めるのは良い事ではないんだ。君自身が抑制出来るものでないのなら、尚更にその蓄積は危うい」
そう語られると、ネアも何となく理解出来た。
小さな憧れだとしても、その場所に向ける欲求が降り積もればどこかが不用心に決壊するかもしれない。
願い事ですら力になるこの世界では、それすらも危うい事なのだろう。
「ごめんなさい、ディノ。あの場所そのものを訪れたいと思う程でないからと、一目見た美しい場所への憧れくらいのものだと考えていました……………」
「君に触れたものは、財や権力への渇望のようなものでなく、冷たく清らかな水をどうしても飲みたいと思うようなものだったのだろう。その種のものを欲するという事を断つのは難しい事だから、君が謝る必要はないよ。…………ここは気に入ったかい?」
「はい!あの、青灰色の山肌と雪の対比がそれはもう綺麗で、とても気に入りました」
ネアがほわりと微笑んで頷けば、ディノは優しく頷いてくれた。
ふうっと誰かが体の力を抜き、ネアは、それがアルテアだったような気がしてそちらを見たが、感情を伺わせない横顔からは何も読み取れなかった。
エーダリアが山々を眺め、美しいなと呟く。
「……………魔術師達は昔から、祈りや願いの場が壊れて発生する魔術異変には、用心するようにと言われている。そのようなものは得てして美しく、あるいはひたむきで無垢なものなのだそうだ」
「そう教えていただくと、確かにそのように育てられた場所は美しいに違いないという気がしますね。エーダリア様のお陰で、バンアーレンに来られて良かったです。…………きっと、自分の為だけであれば、もう少し先延ばしにしていたと思いますから」
ネアがそう言えば、エーダリアは微笑んで頷いてくれた。
僅かな風に揺れるのは、タムログレンで羽織った濃灰色のケープで、しっとりとした上質な生地の色合いがエーダリアの瞳と髪の色によく映える。
列車を降りたばかりなので空気は少しひやっとするが、すぐにコートとマフラーがどうしても欲しいという寒さでもない。
ずっとここに座っているならコートが必要だが、歩くのであればいらないかもしれないという程度だ。
寧ろ、この風の冷たさこそが心の奥に根を張りかけていた夜告げ草の情景を洗い流してくれるような気がする。
「うん。それなら、やっぱりここを昼食会の場所にして良かったね。ネア、どれだけ綺麗で心を動かされてもそこには僕達はいないんだから、どうせならここで上書きしてゆくといいよ」
「はい、そうしますね。そして、私が心奪われかけたあの景色そっくりの、そして大切な人たちがいるだけより素敵な景色を、皆さんにも楽しんで欲しいです」
「良い土地ですね。魔術の祝福が潤沢で、それなのに静謐さを保っている。恐らくここは、古の聖地の一つなのでしょう」
ヒルドの言葉に、アルテアが頷く。
バンアーレンは、元々は巡礼地だったのだそうだ。
どうしてその地への信仰が失われたのかと言えば、土地を統括する魔物が変わり、嗜好の変化から高位の者の寵愛の在り処が変化したからなのだそうだ。
新しい統括の魔物はこのバンアーレンではなく、平地から海辺の過ごしやすい気候と土地を好み、自身の選んだ土地こそが栄える事を望んだ。
そうしてバンアーレンへの信仰は廃れ、それに目を付けた選択の魔物が、この土地を上手くあわいに落とし込み隔離地としたらしい。
こつこつと靴音の響くステンドグラスの窓が美しい駅舎は、魔術で切符の確認をするらしく、足元に敷かれた魔術陣を踏むと切符がぼうっと光る。
かつては巡礼地だったのだという空気の清らかさは独特で、あわいの列車の路線では無人駅は珍しくはないが、この駅は、人影はなくともどこか堅牢な雰囲気もあった。
さくりと降り立ったのは、深い森の入り口に思えたが、その入り口の暗がりから森の奥を望めば、透けて見える光にさしたる深みはないのだろう。
となれば意図的な配置のものだ。
ネアは、背後の駅と線路を思い、この森の役割を推理する。
「ここからは暫し歩きだ。転移は使えないからな」
「駅から不特定多数の方々の視線に晒されないよう、森で目隠しをしているのですね。……………なぬ。なぜに訝しげに見るのでしょう?」
「お前から、食べ物以外の話題が出る事は珍しいからな」
「あら、私に同性のお友達を紹介してくれることと、ふかふかもふもふの生き物を撫でる事についても積極的にお話ししたいと思っていますよ?次の白けものさんの訪問について、後でご相談させて下さいね」
「相談するまでもないな。全て却下だ」
「むぐぅ」
アルテアは顔を顰めてそう告げると、素っ気なくネアの視線を振り切ってしまう。
とても野生の魔物らしい反応だが、ここにいる人間はとても獰猛で身勝手なので、アルテアからその提案がないのであれば、首飾りの金庫の中のちびふわ符が唸るだけなのである。
さくさくぱりぱらと落ち葉を踏み、緩やかな曲線を描く森の中の小道を抜ければ、まるで舞台演出のように景色が晴れた。
(……………ああ、)
ネアは息を呑み、目を瞠る。
切り立った山々を背景に佇むのは、絵のように美しい白い屋敷であった。
屋敷の周りには薔薇園があり、かなり綿密な計算の元に手入れされているに違いない、これまた絵のような木々がその屋敷を額縁のように飾っている。
林檎の木なのだろうか。
立派な枝に赤い実が鮮やかで、風に枝葉が揺れるとしゃりんという水晶のベルを鳴らしたような音がする。
屋敷の奥には澄み渡った湖があるようで、標高が高いからか、雲の影がくっきりと落ちていた。
もし今日が晴天であれば、この詩的な美しさは出せなかったかもしれない。
曇天の空の下を切り取るように白い、雪と建物の白と、薔薇園の白薔薇が、はっとするほどに胸を打つのだ。
(……………私の生まれた家の、家族が生きていた頃の庭にどこか似ているわ……………)
そこにあったのは、ネアにとって夜告げ草よりも遥かに忘れがたい景色によく似たものだった。
勿論こちらの屋敷の方が大きく立派だが、薔薇園から庭のガゼボに続く薔薇の配置の仕方などが、どこかあの屋敷を思わせたのだ。
そんなネアの家を見た事のあるディノが気付かないのは、庭の見事な薔薇は、ネアが一人で残された頃にはもう失われつつあったからだ。
月に一度通いで来ていた庭師との契約は破棄しなければならなかったし、薔薇の維持にはいつだってとても手がかかる。
ネアの体とお財布では、ちっとも花を咲かせられなかった。
「……………こちらで上書きします。何て素敵な場所なのでしょう。ましてや、あのお屋敷の中には美味しいお料理が待っていて、林檎のタルトまであるのですよね?」
「わーお、後半は全部食べ物だぞ」
「…………まぁ、お前の感性ならそこまでだろうな」
「なぜ貶される風なのだ。解せぬ」
そんなアルテアの屋敷については、ネアだけでなく、エーダリアの目も奪ったようだ。
しかしこちらはその美しさに魅入られたというだけではなく、どうやらこの建物を元より知っていたらしい。
「アルテア、これは、雪白の館なのではないか?」
「ああ。一昨年まではグラフィーツの持ち物だったが、死者の国にあった目当ての屋敷を手に入れたからと、あいつが手放したからな。昨年にこちらに移したばかりだ」
「なぬ。まさかの移設したてのお屋敷でした」
「…………という事は、雪白の館はその者の物だったのだろうか」
どこか興奮気味なエーダリアの様子にこてんと首を傾げたネアに、ノアが、雪白の館というものがどのようなものなのかを説明してくれる。
お喋りをしながらネア達は溢れんばかりに薔薇が咲き乱れる薔薇園を抜け、その雪白の館のエントランスに辿り着いたところだ。
ネアは、こぼれんばかりに薔薇の咲き乱れるアーチを抜けると、ふくよかな薔薇の香りを贅沢に胸いっぱいに吸い込んだ。
それだけで笑顔になってしまうと、ディノも嬉しそうに微笑んでくれる。
「統一戦争後のウィームに、一晩だけ姿を現した白薔薇の屋敷があってね。それが、雪白の館と呼ばれているんだ。リーエンベルク寄りの街の一画に、焚書台なんかがあった空き地があって、そこにある朝突然現れて翌朝には消えていたらしいよ。あちこちで僕の仕業だと言われているけど、まさか、グラフィーツの持ち物だとは思わなかったなぁ」
「むむ、白薔薇の館ではなく、雪白と名付けられたのはなぜなのでしょう?」
「…………そう名付けたかったのかもしれないね。ネア、雪白の香炉の舞踏会を覚えているかい?」
小さく微笑んでそう尋ねたディノに、ネアは勿論であると頷く。
雪白の香炉に導かれる雲の上の舞踏会会場は、大好きな場所であり、ディノとの大切な思い出の場所でもあるので、今年も二人で行く予定なのだ。
「あの舞踏会は、愛する者を得た者達しか訪れられない場所だ。…………ほら、ここをご覧。香炉の意匠が記されているだろう?この形は、雪白の香炉だね」
ディノがそう示したのは、玄関前のアプローチを登ったところにある支柱の飾りだ。
見事な雪結晶の彫刻は、ネアが見たことのある雪白の香炉そのもである。
「まぁ、確かにあの香炉です!」
「雪白の香炉を置き、そう名付けたのであれば、…………これは、愛するものの為に造られた屋敷だったのだろう。グラフィーツには、かつてそのような者がいたのかもしれないね」
(……………では、このお屋敷を手放したのであれば、お相手の方はいなくなってしまったのかしら……………)
知らずとも察せる事はある。
ディノはそう考えているのであろうし、ネアも、執着の強い魔物達がかつて愛した者の気配の残る場所を手放すのだとしたら、そのような理由しかないような気がした。
しかし、グラフィーツの姿を思い出してみたが、どうしても山盛りのお砂糖を食べている様子しか浮かばず、切ない恋の物語を脳裏で思い描く事は難しそうだ。
「ありゃ。アルテアはそれで良かったのかい?」
「おおよそ、そんなところだろうな。だが、白持ちの守護を残した建物が売りに出される事は少ない。作業と商談用の屋敷だ。特に問題はないな」
扉の魔術施錠を開き屋敷の中に入ると、ふわりと漂うのは爽やかな薔薇の香りだ。
この屋敷の周辺の薔薇園では花らしい芳香の強い品種ではなく、ネアの好きな爽やかな香りのものが多いらしく、外に咲いていたのと同じ白薔薇がエントランスの大きな花瓶にふんだんに生けられている。
この屋敷には移植された風景はなく、遠くの突き当たりにある大窓から見える湖と山の見える景色が、とっておきの一枚の絵のようであった。
「この土地そのものがそうでもあるが、屋敷内は全て更に階位を上げた隔離地扱いだ。忌み日の魔術は届かないだろうよ」
「アルテア、今日は世話になる」
「アルテアさん、ぐーぺこです!……………む、なぜそのような目で見るのだ」
「ったく……………」
ちょうどエーダリアが挨拶した直後だったからか、ネアは、自分でも少しタイミングが悪かったなと気付いていたが、とは言え使い魔のものはご主人様のものであると開き直った。
呆れ顔のアルテアに案内されたのは、大きく窓を取られた広間の一つで、白と水色を基調とした内装が素晴らしい。
床石は硝子質でざらりとした青灰色の結晶石のようだが、ネアの初めて見るものだ。
霧のような白いカーテンには、よく見れば蔓薔薇の織り模様が何とも美しい。
シャンデリアの淡い白金色に、大きなテーブルに敷かれたクロスのはっとするような青色が鮮やかで、この部屋にも沢山の薔薇が飾られていた。
「……………ふぁ。窓からの景色の中に立っているようです」
「この床石は新月の夜の湖水水晶かぁ。外の湖から魔術を引いてあるね」
「幾つか、他の魔術との繋がりがあるからな」
ここでヒルドが手土産をアルテアに渡しており、渡されたシュプリのラベルを見たアルテアが満更でもなさそうに片眉を持ち上げている。
これは気に入った時の表情だなと思ったネアは、その銘柄を選んだノアと顔を見合わせて微笑む。
「さて、エーダリアの誕生日だし、持ってきた料理を出そうかな!」
「………っ、まさかリーエンベルクのものを持って来たのか?!」
「うん、その方が料理人達も喜ぶからね。勿論、忌み日の魔術が反映されないように僕が万全の手を打ってあるから大丈夫だよ」
「数日前から、時折、晩餐の料理が一品少なかった事にお気付きでしたか?」
「…………まさか、その時からなのか?」
驚いているエーダリアの前に、ノアが高位の魔物らしく、どこにあるのか分からない金庫から、状態保存をかけた丸鶏の詰め物焼きを取り出した。
飴色にこんがりと焼き目のついた皮が美味しそうで、立ち昇る湯気からぷわりといい匂いがする。
その他にも、フェンネルを効かせた燻製の鮭と揚げたジャガイモのミルフィーユ状の前菜や、ウィームらしい料理である、クネルの入った牛コンソメの琥珀色のスープに、新鮮なアルバンのチーズと細かく切った風味豊かなサラミの包まれたパラチンケンも。
「……………こ、これは?」
「ふふ。ヒルドさんが釣ってきてくれた水棲棘牛のステーキは、アルテアさんにお願いしたのですよ。普段の食卓にあってもおかしくないものでなければ、確保出来ませんでしたから!」
「料理人達も、エーダリア様のお好きなものを集められず、鶏の詰め物が精一杯だと残念がっておりました」
「……………いや、充分だ。このように準備をしてくれただけで……………」
エーダリアの今年の誕生日に用意されたケーキは、普段のリーエンベルクのデザートで出る事もある、紅茶味のシフォンケーキに花蜜のクリームがたっぷりと乗せられたものだった。
梨や林檎のコンポートが添えられ、如何様にも味が変えられるようになっている。
食後のお茶の時の為にと用意された真夜中の果実のジャムを乗せたとっておきの焼き菓子も、甘い香りで幸福感を募らせてくれた。
(例えばここで、アルテアさんにこちらで特別なケーキを作って欲しいと願うのだとしても……………)
ネアはその可能性も思案したのだが、ディノやノアから、使い魔な魔物に願えるものは決して多くないのだと事前に言われていた。
これが例えば人間の友人であれば、エーダリアの為に隔離地でケーキを作ってくれないだろうかとお願い出来たのだとしても、アルテアは決して寛容な魔物ではないし、食べ物を作って与えるという事はやはり、人外者にとってそれなりの意味を持つ。
ネアとの間にあるやり取りに、エーダリア達が加われるのは、アルテアがネアの使い魔だからこそだ。
(だからアルテアさんに、エーダリア様の為のケーキを作ってとは言えなかったけれど、水棲棘牛のお肉を貰ったので、美味しく焼いて下さいとは言えたのだ……………)
目的を分かっていて屋敷を解放してくれたのだから、勿論アルテアもエーダリアの事はかなり気に入っているのだろう。
その上で、やはり魔物の矜持や資質を損なわない為の境界線はある。
なので今回は出来る事に上限はあったのだが、ネアはそつなく林檎のタルトも並べていただくようお願いしておいた。
「それと、僕からはこれだね。お祝い用のシュプリだよ。ほら、僕がここで取り出す分には自由だからさ」
「……………ノアベルト」
「えっ、そんな顔されると僕が泣くんだけど!」
「ふふ、仲良しですねぇ」
こうして美味しそうな料理が並び、きゅぽんと雪と祝祭の夜明けのシュプリが開けられると、エーダリアのお誕生日会が始まった。
グラスに注がれるこぽこぽという音に、カトラリーの触れ合う音。
何種類かの前菜の盛り合わせは、昨晩の晩餐から確保されたもので、その代わりに昨晩はスープが盛りだくさんに変更されていた。
「エーダリア様、誕生日おめでとうございます」
「……………有り難う」
「ありゃ、ヒルドがエーダリアを泣かせたぞ」
「おや、ここからですと、先が思いやられますね」
「……………っ、そ、そうだな」
「ささ、エーダリア様、今日は鶏皮食べ放題ですよ!」
「……………ああ」
じわりと濡れた鳶色の瞳は、ネアが出会った頃よりも随分と柔らかくなった。
今は幸せそうに微笑み、シュプリ用の薄いグラスに唇をつけている。
「それにしても、このお屋敷がウィームにあったものだというのが、何だか不思議で面白いですね」
「ああ。私も、まさか自分が、あの幻の館を訪れる日が来るとは思わなかった」
「ふふ。あの夜告げ草の風景に思っていたより惹き込まれていたらしい私だからこそ、エーダリア様もきっと気に入ってくれると信じていた場所で、そんな私を守ってくれる場所がウィームに由縁のある建物で、尚且つ今日がエーダリア様のお誕生日だと思うとちょっぴり得した気分になります」
「うーん、それがグラフィーツの屋敷ってのも巡り合わせかなぁ……………」
「む?そうなのですか?」
「ほら、どうしてか知らないけどさ、ネアを見ながら砂糖を食べるの大好きでしょ」
「……………わたしはなにもしりません」
「あの執着は、お前がヴェルクレアの歌乞いだからだろうな。おまけに契約の相手はシルハーンだ。あいつからしてみれば、最高の砂糖候補だが、手は出せない。それもまた気に入っているようだがな」
「お、お砂糖にはなりません!」
「……………もしかすると、彼もかつて、歌乞いを得た魔物だったから、君を気にかけるのかもしれないね」
「……………まぁ、あの方も契約の魔物さんだったことがあるのですか?」
「彼から直接聞いたことはないけれど、恐らくはそうだろう。歌乞いを得たことのある魔物は、……………何というか、少しだけ気配が変わるんだよ」
グラフィーツが契約の魔物だったということは、ノアやアルテアも意外だったようで、二人とも驚きに目を瞠っている。
ネアは、誰も知らない砂糖の魔物の歌乞いこそが、この雪白の屋敷を造った理由で、恐らくはもう故人なのではないかなと考えた。
「……………もしかすると、このお屋敷はその方の為に造ったものなのではないでしょうか?お砂糖の魔物さんに、伴侶の方やご家族風の方はいないのですよね?」
「どうだろうね。そうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない」
「……………あいつが契約の魔物だったとはな」
「わーお、全く想像がつかないんだけど。でも、そう言えば、グラフィーツはいつからかピアノを弾くようにはなったんだよね。歌乞いがいたなら、伴奏だったのかもしれないのかぁ……………」
「まぁ、普通はそうして歌うからな」
「……………なぜそんな目で私を見るのだ。私だって、ピアノを伴奏に歌えますよ!」
「ほお、奏者を生かしたまま歌い終えられるのか?」
「むぐるる!」
(……………いつか、グラフィーツさんと話をしてみたいな)
そんな事を考えながら、ネアは、アルテアが切り分けてくれた丸鶏の詰め物を美味しく頬張った。
ネアの寿命が少しばかり延びたとて、どう考えてもネアの方がディノより早く寿命が来るのだろうから、歌乞いを亡くした魔物の話を聞いてみたいと思ったのだ。
しかし、本人が歌乞いを得ていたことを誰にも話していないのであれば、場合によっては誰にも触れられたくないことなのかもしれない。
(それはきっと、とても大切すぎて自分の内側だけに隠しておきたい思い出なのかもしれない……………)
となると、死者の国から入手した建物というのも、その歌乞いに由縁のある建物なのだろうか。
「むふぅ。棘牛のステーキは一瞬で消え失せましたが、少し肌寒い気温の中を歩いたお陰で、牛コンソメのスープが体に染みますねぇ……………」
「美味しいね…………」
「こうして温かなスープを飲むと、私はやはり、秋から冬にかけての季節が好きなのだなぁと思うのです。ディノが私を呼んでくれたのが、ウィームで良かったです」
「そっか、そこから始まったんだったよね」
「ええ。最初に出会ったのが、エーダリア様でした」
切り分けたパラチンケンのチーズをくるりとフォークで巻き取り、優雅に口に入れたノアも感慨深く頷く。
ディノは、褒めて貰えたのかと思ったものか、目元を染めて少しだけもじもじしていた。
「いつの間にか、リーエンベルクが賑やかになったな…………」
「そう言えばエーダリア様は、以前のお休みの日は、どのように過ごしていたのですか?」
「着任直後は、休みの日でもウィームの各所を巡っていたが、落ち着いた後は部屋で魔術書などの解読を進めていることが多かっただろうか。後は、気詰まりになると一人で抜け出して、古書市に……………」
「……………おや、古書市に?」
「ヒルド……………」
うっかり悪事をばらしてしまい、エーダリアは悲しく項垂れた。
ヒルドはにっこり微笑んでいるが、これはもう後でお説教が入るのは間違いない。
迂闊な質問をしてしまったネアも少し慄き、慌ててノアに視線で助けを求める。
「まぁ、これからは僕を誘うといいよ。何しろ僕は魔術の根源を司る訳だし、君の契約の魔物で友達だからね」
その言葉は嬉しかったのだろう。
いつもより食事のペースが早いエーダリアは、鳶色の瞳を揺らしてこくりと頷くと、ぱくりと香り高いシフォンケーキを頬張った。
( このシフォンケーキも……………)
リーエンベルクの料理人達が、誕生日の為にシフォンケーキを選んだのには理由がある。
もう少し手の込んだケーキもデザートで出ることがあるのだが、敢えて一番庶民的なシフォンケーキを選ぶことで、夜の雫や祝福の花蜜などがたっぷり入った上等なコンポートを添えるようにしたのだ。
より手の込んだもので料理人の腕を示すことも出来たのに、彼等は、大事なウィーム領主が少しでも多くの祝福を受け取れるような選択をしている。
そして、そんな心遣いにエーダリアもきちんと気付くのだから、そこにはどれだけの積み重ねてきた日々と信頼があるのだろう。
「エーダリア様、贈り物は持って帰れなくなってしまうので、日付が変わってから渡しますね。今年はちょっと凄いですよ!」
「…………それは、心の準備をしておかないとだな」
「ありゃ、僕とヒルドも負けないんだけど」
隔離地を出ると忌み日に触れてしまう贈り物は、ここではまだ宣言だけだ。
宣言も控えておき、後で渡してもいいのだが、やはり少しでも誕生日の祝福を動かしておきたいというのが、全員の願いでもある。
「なお、素敵な会場を貸して下さったアルテアさんには、私からもお礼の品物があるのですが…」
「いらん。その術符の束をしまえ」
「ぐぬぅ。まだ何を差し出すのかも言っていないではないですか!」
「お前が何を取り出すのかくらい、想像がつく。先程のシュプリで充分だ」
「アルテア、これは受け取っておいた方がいいかもしれないよ」
頑なに受け取りを拒否する使い魔にネアが眉を下げると、小さく微笑んだディノがそう説得してくれた。
ディノの言葉に瞳を細め、アルテアはかなり疑わし気にではあるが、ネアの差し出した一枚の紙片を慎重な仕草で受け取ってくれる。
術符ではないと分かったからか、そこに記された文字を読む様子は警戒心の強い野生の獣を思わせ、ネアは少しだけ微笑んでしまった。
「…………砂風呂コテージ貸し切り券、同伴者用?」
「はい!先日、ドレスの打ち合わせに来たシシィさんから、新しく出来たコテージのお得意様貸し切りチケットを貰ったのです。十人まで楽しめるので、アルテアさんも一緒に如何ですか?」
「どうせお前が事故るんだろ」
「おのれ、事故りません!のんびり砂風呂でほかほかするだけですよ!」
少しだけ意地悪な顔をしてみせたものの、砂風呂となれば吝かではないのか、アルテアはそのチケットを受け取ってくれた。
みんなで行くので日程を合わせる必要があるが、ネアは、森に帰りたい期にさえかからなければ来てくれると信じている。
「……………む、エーダリア様?」
ここでネアは、エーダリアが最後のシフォンケーキを一口だけ食べあぐねていることに気付いた。
お腹が一杯になってしまったのかなと首を傾げたが、どうやら違うらしい。
ネアの視線に気付いたエーダリアは淡く苦笑して、リーエンベルクに来たばかりの頃のことを思い出していたのだと教えてくれる。
「あれは、ヒルドが、初めてリーエンベルクを訪れた日のことだったか」
「………よく覚えておりますよ。料理人達が、焼き立てのケーキを食べてゆくようにと、林檎のシフォンケーキを出してくれましたね」
「ああ。……………私とヒルドが、焼き立てのケーキなどを食べてこなかったと知っていたのだろう。王宮でも温かなままで出されるものではなく、家庭料理に近い焼き立てのケーキをと用意してくれたのだ。他のケーキも考えたらしいが、甘いものが苦手だといけないと、甘さ控えめのシフォンケーキにしたらしい」
「…………林檎のシフォンケーキにして下さったのは、夏至祭の林檎のケーキのように、ずっと一緒にとの願い事も込められていたのかもしれませんね」
胸がほかほかしてしまい、思わずそう重ねたネアに、エーダリアとヒルドが目を瞠る。
エーダリアがお皿の上のシフォンケーキを見つめ、ほろりと微笑んだ。
「……………そうか。そうだったのかもしれないな。彼等であれば、そのような願いを込めてくれていたのかもしれない」
「であれば、そこでかけられた願いは叶ったのでしょう。私も、今はリーエンベルクで暮らしている訳ですからね」
「……………ああ」
頷いたエーダリアの声は、少しだけ掠れていた。
そして照れ隠しのように慌てて最後のシフォンケーキを一口で食べ、少しだけ潤んだ瞳で微笑んだのであった。