氷狼の障りと氷竜の騎士 1
ウィームでは、冬になるとザルツにまで続く大きな川が、素晴らしいスケート場になる。
大きな川ではあるがこの時期はしっかりと厚い氷が張るので、周辺住人達には通勤路としても利用されており、またラベンダー蜂蜜のホットミルクや、ネアはまだ出会えていないザハのクリーム珈琲など、スケート場限定の美味しい飲み物が売られていることから、観光客にも人気の冬の遊びとなっている。
かく言うネアも、ノアから貰ったお気に入りのスケート靴を持ち、魔術の火の灯されたカンテラが川岸に並ぶ夜間のスケート場でびゅんと飛ばせば、気分は氷の女王そのものだ。
(やっぱり、夜のウィームは気持ちいいな…………)
氷の張った川の両岸には雪の森が広がり、雪明りの夜の森の美しさに加えて、時々、森の生き物達の営みなのかちらちらと美しい光が揺れるのがまた楽しい。
スケート場で凍死者が出ないように、気温を安定させる為の魔術が敷かれているので、夜の間の暖を求めた鳥達が川岸に集まり羽を休めている。
王都にあるガレンから来た鳥好きな魔術師は、そんな鳥達の観察をする為に、冬の間だけウィームの川沿いに部屋を借りているそうだ。
(あ、猟銃屋さんだわ…………)
勿論、こちらの世界らしく、スケートを楽しむ人々を襲って食べてしまうような悪い生き物もいるにはいるのだが、特別な魔術の弾丸を込めた猟銃のようなものも貸し出されており、みんなそれぞれに自衛しながらスケートを楽しんでいた。
半数以上のスケート客が手にしている猟銃は、滑り始めの時に借りたお店の店員がいればどこでも返せる仕組みになっており、中の銃弾を使うと返却時に追加料金が発生する。
川から上がる為の階段があるところには必ず店員がいるので、スケートを楽しむお客達は安心して遠くまで滑ってゆけるのだ。
その時、どこからともなく、ずがぁんという鈍い音が聞こえてきた。
隣を滑る魔物が、遠くを見て微かに眉を顰める。
「…………ネア、雪熊が出たようだから注意しようか。私から離れないようにするんだよ」
「まぁ、今の銃声はやはり熊さんだったのですね。引き続きの注意が必要となると、逃してしまったのでしょうか?」
「熊が逃げて行くのが見えたから、弾丸は当たらなかったようだ。反撃されたことで、気が立っている可能性もあるからね」
そうディノが心配してくれたのは、このスケート場によく現れ、時にはお客を食べてしまう雪熊だ。
雪熊には様々な種族の様々な種がいるというが、このスケート場に現れるものは、ネアの二倍くらいもの大きさになる、クリーム色の熊である。
凍った川を通勤路代わりにふらふらと滑る疲労困憊した魔術師などは、雪熊達の獲物にされてしまうことも多いので、領主であるエーダリアは、領内に労働後における、夜間のスケート中の注意喚起の文書を出していた。
普通にスケート遊びを楽しむお客達は、川岸で借りられる猟銃を持っていることが多いが、その一方で自分の腕に自信のある魔術師達は丸腰でいる確率が高いらしい。
しかし、どれだけ魔術に長けていても、突然の襲撃に対応出来なければ意味がないのだ。
「………む。左に寄りますね。前から無灯火の方が滑ってきました」
「…………全身黒いのに、カンテラを持たないのだね」
「おのれ、ぶつかったら避けられなかったこちらが悪いのだと言わんばかりの滑り方です……………」
そして、こちらもスケート場の問題の一つである無灯火の滑走者だ。
スピードを出すくせに黒い服を着てカンテラも持たない悪者が、時折、暗闇の向こうから出現する。
慌てて避ける羽目になってしまったネアは、こちらをひやりとさせた報いとして、冷たくなった耳がとても痛くなる呪いを心の中でかけておいた。
(まったくもう。カンテラの貸し出しは無料なのに、あんな風に危ない滑り方をするだなんて…………)
ネアやディノであればまだ、しゃっと躱せる自信もあるのだが、先程、家族連れを何組か見かけたばかりなので、無灯火滑走でどうか周囲の人達を危ない目には遭わせないで欲しい。
今夜は休日の前夜なので、夕食後に家族でスケートに来ている子供達も多いのだ。
けれども、ネアの呪いが効き過ぎてしまったものか、はたまた運が悪かったのか、無灯火スケーターの滑っていった後方から、すぐさま、ぎゃあと悲鳴が聞こえた。
「…………む?!」
「おや、…………」
実は仕事で夜のスケート場に来ていたネアは、捜索していた精霊の出現だろうかと、すぐさま滑り止まると、後ろを振り返った。
すると、先程の黒衣のスケーターが、にゅっと氷の上に立ち上がった白っぽい大きな熊に齧られてしまっているではないか。
気付いたディノが慌ててネアの目を塞いでくれたが、振り返った時にはもう腰までが雪熊のお口に入ってしまっていたので、そこまで残酷な光景でもなかったのが幸いだ。
「…………ほわ、雪熊さんは、丸呑みなのですね」
「…………ごめんね、見えてしまっただろう。…………怖くなかったかい?」
「…………はい。がぶりというよりは、ぱくりで良かったです。もし齧られてしまっているのを見ていたら、たいへん危険な映像になりますので心がやられていたかもしれません…………。そして、スケート靴は美味しくないのか、ぽいしましたね………」
目元を覆ってくれたディノの手の隙間から、ぺっと捨てられたスケート靴が氷の上に転がるのが見え、ネアは悲しくなった。
悲鳴が上がったことで、川沿いの警備を受け持っている街付きの騎士達が気付いたものか、リーエンベルクの騎士達とは違う騎士服の騎士達が、雪熊用の猟銃で捕縛に入ったので、ネア達の出番はなさそうだ。
捕獲された雪熊は自然の摂理の中で雪熊鍋などになってしまうのだが、こうして、直前の晩餐を見てしまうと何やら複雑なものがある。
とは言え、雪熊鍋は脂が乗った旨味の強いお肉が美味しいと評判なので、ネアは、いつか試してみたいとは考えていた。
「………無灯火暴走の悪い方でしたが、食べられてしまうとなるとお気の毒ですね…………」
そう呟いたネアの言葉には同意するべきところが見当たらなかったのか、ディノは首を傾げている。
今回は若干距離があったのでそもそもどうしようもなかったが、一度雪熊の口に入ってしまうと、助けに行った者達が被害者を引っ張り出しても、その部分は戻ってこないのだそうだ。
物理的に欠けてしまうというよりは、その部位の命を食べられてしまっているということのようで、雪熊は、せっかく捕まえた獲物が誰かに奪われないようにすぐさま吸収する手段を進化の過程で身に付けたらしい。
そんな悲しい事件を見てしまったものの、ネア達は引き続き、追っている精霊の捜索にあたった。
じゃーっと、氷を滑り抜けてゆくスケート靴の刃が小気味の良い音を立てる。
ネアは、気温調整で全ての外的要因を排除したくない派であるので、スケート場の気温がある程度保たれているとは言え、こうして風を切って滑れば頬が冷たくなったが、それもまた気持ちよかった。
美しい夜だ。
夜はこっくりとした黒紫色に紫紺が滲み、夜空には星が煌めき三日月が鋭く光っている。
川岸の森はウィームらしい賑やかさで、氷の下にもちらほらと光るものがあった。
その後、更にずっと先まで滑ったが、ネア達の標的である生き物の姿は見当たらないようだ。
このような害獣の捜索は、本来なら騎士達の仕事なのだが、今回は、きりん札という恐ろしい兵器を扱えるネアに白羽の矢が立ち、依頼が舞い込んだ。
「…………氷狼さんは見当たりませんね」
ウィームでは、先週から氷狼の出現が確認されており、被害者も報告されていた。
こちらも雪熊同様に、様々な種族の中に氷狼と呼ばれる生き物達がいて、今回の被害を出している氷狼は悪変した精霊であるらしい。
とても獰猛でおまけに賢く、悪変という状態故に属性も安定していないことから、討伐についても慎重な対応が求められていた。
しゃわりと、隣を滑るディノの三つ編みが揺れる。
こんな夜の中でも内側から光を放つような美しい色彩だが、この青灰色は擬態なのだ。
実際のディノの髪は驚きの白さなので隠すしかないが、それでも擬態をしても尚こんなにも美しい。
今夜は白灰色のコートを着ていて、襟元がかっちりしたデザインのコートは、白っぽい軍服のようにも見える。
昨年末からお目見えした、ネアが喜ぶのでディノが張り切って着てくれるコートの一つだ。
「隠れてしまったのかな。…………犠牲になったのは五人ということだけれど、本来の氷狼は満腹になると狩り場を変えるそうだから、もうどこかへ行ってしまった可能性がある」
「南側の捜索にあたってくれているゼベルさんからも、連絡がありませんね…………」
「エアリエルの加護があっても見付からないのであれば、そちら側にはいないと思ってもいいだろう」
リーエンベルクの第二席の騎士であるゼベルは、空気の精霊であるエアリエルの加護を受けた騎士である。
狼姿のエアリエル達は、ゼベルのことが大好きで、夜狼の奥さんとも仲良しなのだとか。
そんな彼も、ネア達と一緒に問題の氷狼を捜索している。
「……………となると、こちら側にもいなかった場合は、どこかへ移動してしまった可能性が高いのですね…………」
見付けられれば討伐は容易いが、逃げてしまうとなると発見までの間に被害が拡大する恐れがある。
ネアが、困ったことになってしまったと眉を下げた時のことだった。
「……………む?」
ネアは、川岸の森の方で、きらりと何かが光るのを見たような気がして、目を凝らした。
人ならざる生き物達や、魔術で光る鉱石や花の煌めきではなく、金属がぎらりと光ったように思えたのだ。
直後、がおんと大きな音がした。
森の入り口のところで大きな翼を広げた水色の竜が見え、その竜に黒い影のようものが飛びかかる。
そして、両者とも組み合ったまま、森の中に姿を消した。
(今のは……………!)
どちらも見えたのは一瞬のことであったが、あまり穏やかではない何かが起きているのは間違いない。
「ディノ…………!」
「氷狼のようだ。戦っているのは、氷竜だね」
「か、駆けつけます!竜さんが穢れてしまったら大変ですから!!」
ここでネアが慌てたのは、氷狼が悪変を続けていることによる。
きりん札を見せるだけで退治出来るネア達や、エアリエルの力を借りられるゼベルとは違い、あの竜は、直接氷狼に触れてしまっていたではないか。
悪変の原因が穢れであった場合は、触れたところから相手の悪変を貰うことも少なくはない。
竜のような高位の生き物が悪変したら、広がる被害は今回の事件の比ではなくなる上に、ウィームとの関係の深い氷竜を討伐するとなったら大変なことだ。
ネアは、そのままひょいと持ち上げてくれたディノに掴まり、大事な魔物をスケート靴で傷付けてしまわないように足首をきっちりと交差した。
そのまま淡い転移の薄闇を踏んで降り立ったのは、川岸を少しだけ進んだところにある森の入り口だ。
「…………っ?!」
激しい打撃音に続き、黒い影のような生き物が近くにあった太い木に叩きつけられる。
ぎょっとしたネア達の横を、その影は素早く駆け抜け、川岸に向かって逃げて行こうとしていた。
すると、鋭い咆哮を上げて飛びかかってきた一匹の竜が、鋭い爪のある前足で黒い影を抑えつけ、投げ飛ばすようにして森の奥に引き摺り戻した。
激しくぶつかり合う獣達は、あっという間にネア達から離れていってしまい、辺りには踏み荒らされた雪や、折れた枝などが散乱している。
「…………氷狼は川に逃げようとしているのかな?あの竜は、それを止めているようだけれど、なぜ、自身に有利になる開けた場所に出してしまわないのだろう…………」
「……………だ、大迫力でした」
「………ネア、戦いの妨げにならないよう、こちらの姿は見えないようにしてあるが、…………あの竜は恐らく……」
ディノが何かを言おうとした時、ネア達のすぐ近くで小さな呻き声が聞こえた。
ディノと顔を見合わせて慌ててその声の主を探せば、木の幹に寄りかかるようにして一人の少年が地面に蹲っているではないか。
「大丈夫ですか?!……助けに来ましたからね。しっかりして下さい!!」
スケート靴を履いたままなので、ディノに持ち上げられたままそう声をかけたネアに、こちらの声だけが聞こえたものか、少年はびくりと体を揺らした。
深い藍色の髪に淡い水色の瞳をしており、薄く目を開いてぜいぜいと息をしているものの、顔色は真っ青で腹部の辺りのコートがずっぷりと濡れている。
それを見たネアは、小さく息を飲んだ。
「………酷い怪我を……………」
「成る程、竜にしては妙な戦い方だと思ったけれど、怪我人を庇いながら氷狼を追い払おうとしていたのか…………」
「ディノ、この方の応急手当てをさせて下さい!」
「うん。人間のようだね。氷狼にやられたのだろう」
氷狼達は少し離れたところで激しい戦いを繰り広げており、幸いにも、こちらに戻ってくる様子はない。
とは言え念の為に森側に向けて防壁代わりになる頑強な結界を立ち上げて貰い、ネア達は大怪我を負っている少年に駆け寄ったところで、ディノの隔離結界を解いて姿を見せた。
「リーエンベルクの者です。もう安心ですから、…………その手の力を緩めて下さいね」
ぷんと血臭が漂い、ネアは怯みそうになりながらも微笑んでそう告げる。
少年は、片手に小さなナイフを握り締めており、それで戦おうとしながらも、大きな傷を負って動けなくなったようだ。
既に意識が朦朧としているものか、視点の定まらないような瞳でこちらを見上げようとしたが、思うように顔が上がらないのだろう。
履き替える余裕もないまま、不安定なスケート靴で下ろして貰ったネアは地面に膝を突き、ポケットに備えてあった効果を少しだけ弱めた傷薬を取り出す。
その間にディノは、森の奥で戦っている竜に向けて、怪我人を保護したことを伝えようとしてくれていたのだが、どうも、魔術の呼びかけに応じられないくらいに激しく交戦しているようだ。
そちらはディノに任せ、ネアは、まずは治療の為に怪我人のコートを脱がせようとしていた。
こちらも様子を見る限りは一刻を争う。
襟元のピンブローチからエーダリアに通信をかけてはいたが、返された応答を受ける余裕もない。
「痛むかもしれませんが、我慢していて下さいね。コートを……………」
「………ネア。私が浸透を手助けしてあげるから、服の上からかけて構わないよ。氷狼に深く噛まれているようだから、その血には触れないように」
「……………はい。では、かけますね」
不意に、背後から覆い被さるようにして伸ばした手を掴まれ、ネアはぎくりとした。
ディノはそのまままた、ネアを抱え込んでしまう。
治療がし難いので眉を寄せて振り返ったのだが、魔物の深刻そうな眼差しに、ネアは、この怪我人があまり良くない状態なのだと理解する。
(ディノは、この人が悪変して私を襲うことを警戒しているみたい…………?)
ぐっと奥歯を噛み締め、ネアは、ディノの腕の隙間から手を伸ばして、蓋を開けた傷薬を少年が大きな傷を負っていると思われる腹部に注いだ。
しゃばしゃばと注がれた魔物の薬は、たぷんと音を立てて服地に波紋が浮かび上がるのと同時に青白く光る。
そしてそのまま、吸い込まれるようにして消えてしまった。
「……………これでいいのでしょうか?」
「浸透させてあるから、助かりはするだろう。…………けれど、障りを受けてしまっていた場合は、魔術師達の仕事になる」
「……………はい」
少年は、ふうっと安堵の息を吐き、そのままかくりと頭を落として眠ってしまったようだ。
「…………うん。落ち着いたようだね。この血の様子では、残念ながら障りを受けたと見て間違いはない筈だ。暫く寝かせておくよ。森の方は私が見ていてあげるから、靴を履き換えながら、エーダリアに報告するといい。私からもノアベルトには連絡をしておこう」
「…………では、お願いしてもいいですか?…………この方の居場所を伝えたら、急いで先程の竜さんを助けに行かないといけませんから………」
ディノが魔術で足場を作ってくれたので、ネアは、大急ぎでスケート靴を脱ぎながらエーダリアとの通信の魔術を開き、先程の呼びかけで待機していてくれた上司に一報を入れる。
普通のスケート靴ならディノに手伝って貰って魔術でぽいっと出来るのだが、このスケート靴はノアから貰った特別なものなので、しっかりとした守護がかけられており、その分着脱には通常通りの手間がかかるのだ。
スケート場に現れるとされていた獲物が森の方にいた為、思わぬ手間がかかってしまった。
ネアの連絡を受けたエーダリアは、すぐにこちらにゼベルを向かわせるのと同時に、医療と解術に長けた魔術師を手配してくれた。
被害者に障りが現れてしまうと、封印と治療が必要になる上に、ディノが懸念を示したようにその血に触れることから穢れが移ることもある。
悪変や狂乱などには魔術の理が敷かれているので、一概にディノならば治せるということもなく、こればかりは専門の魔術師が必要な分野なのだ。
報告時にエーダリアに現在地を魔術で確認して貰えば、後はもう後続に任せてこの場を離れても問題はない。
そちらも終えて、ネアは素早く立ち上がった。
「…………終わりました!こちらには、すぐにゼベルさんが来てくれるそうですので、この方の周囲を結界で覆っていてあげてくれますか?私達は、氷狼を追いかけましょう!」
「では、ゼベルにだけ解けるような魔術の封印をかけて覆っておこう」
いつもの戦闘靴に履き替えたネアは、伸ばしてくれたディノの腕に掴まる。
背中に回されたディノの手のひらの温度を感じながら展開される二度目の転移は、淡く翳っただけの短い薄闇を経たのみで、次の一歩はすぐに、先程いた場所から少し森の奥に入ったところの雪を踏んだ。
おおお、と声がした。
それは川沿いに帯のように広がる森の中で、ほんの少しだけ開けたところに立つ黒い影が発した声であり、ネアにはまるで啜り泣きのように聞こえた。
夜空を見上げるように立っている細長い影は、狼というよりは首を伸ばした白鳥のようにも見えた。
(……………ううん、人にも見える)
けれどもすぐに、白鳥に見えていた影の形は揺らぎ、今度は、異様に首と手の長い背の高い女性にも見えてくる。
ネア達には気付いていないのか、頭を反らせて空を見上げ、また先程と同じような啜り泣きめいた声を上げた。
(竜のようにも見えるし、翼のある馬のようにも見える。でもどの姿もとても曖昧で、すぐに印象が変わってしまう…………)
そんな不確かさに息を飲み、輪郭をけぶらせる黒い靄を見れば、この生き物がひどく良くないものだという確信は容易く得られるものだった。
「……………あ、」
その黒い影を挟んだ森の奥で、一匹の大きな竜がずしゃりと崩れ落ちて雪の上に倒れた。
その瞬間を見てしまったネアは胸が潰れそうになり、悲鳴を噛み殺してぎゅっと手を握る。
倒れた竜の体の下にひたひたと広がったのは、血ではなくてタールのような黒いものだ。
見れば、力なく投げ出された竜の前足や翼には、黒い影を纏う氷狼と交戦した際につけられたものか、べったりとした黒い汚れがあって、ネアはわあっと声を上げたくなる。
「ディノ、竜さんが…………!」
「…………いけないよ。氷狼が、崩壊するようだ。私の結界で覆うから、今は動かないように」
「……………崩壊?」
「あの竜も、氷狼に致命傷を負わせたのだろう。悪変した高位精霊の崩壊は、魔物のそれのように周囲を巻き添えにする。結界で何重にも蓋をして隔離するから、その間はここを動かない方がいい」
「……………はい」
ネアは、森の奥に倒れている竜を見ると涙が溢れそうになった。
負傷者を見付けてエーダリア達に連絡を入れている間、あの竜は一匹でこんな悍ましい生き物と戦ってくれていたのだ。
「……………やはり、この精霊は終焉の系譜のようだね。人為的に作り出された獣であれば、…」
そう呟くディノの声が聞こえ、ネアがその冷ややかさにぞくりとした時、背後にまた新しい声が落ちた。
「シルハーン、覆いは俺がかけましょう。負傷者の救出があるのなら、一刻も早く魔術洗浄をかけた方がいい」
「…………ウィリアム、」
「ウィリアムさん?!」
驚いて振り返ったネア達の背後に、いつの間に現れたものか、終焉の魔物が淡く微笑んだ。
雪明りがあるとは言え、夜の森の中で見る純白の軍服姿のウィリアムは、目の前の影にはない美貌と怜悧さで、こちらもまた不穏な生き物であると知らしめるよう。
頼もしい味方の出現にほっとしたものの、多くを語っている時間はなかったので、ネア達は氷狼の崩壊はウィリアムに預け、森の奥で倒れている竜のところへ駆け付けた。
「まずは、この周辺を浄化してしまおう」
そう言ったディノが爪先を置いた雪がざあっと白く輝き、そこから雪が結晶化してゆくように育った、雪白の鉱石の花が咲き乱れる。
土地そのものであれば、生き物に取り込まれた穢れではないので、こうしてディノが干渉することが出来るのだそうだ。
「…………竜さん」
竜の体の表面を覆っていた黒い汚れも鉱石の花に姿を変えてしまい、満開の花を咲かせるとさあっと塵になって崩れて消えた。
穢れが落ちて少しだけ体が動かせるようになったものか、緩慢な仕草で頭を上げた竜が、弱々しい眼差しでこちらを見たような気がする。
意識があることに安堵したネアは、ディノから飛び降りて駆け寄ろうとしたのだが、ディノはしっかりとネアを押さえていて、そうさせてはくれなかった。
「ディノ、竜さんにはまだ意識があります!早く助けて差し上げないと!!」
「どこに穢れが残っているのか分からないから、まだ触ってはいけないよ。…………人型になれるかい?その姿のままで運ぶには、こちらにも危険がある。君は竜の姿で戦っていたから、人型になれば問題ないだろう」
そう話しかけたディノに、竜は力なく瞼を下ろしてしまい、美しい水色の瞳が閉じた。
意識がなくなってしまったのかと思ってどきりとしたネアだったが、その直後、しゅわりと柔らかな魔術の光が弾けると、倒れている竜が水色の髪の男性に変化したので、了承の意味であったようだ。
けれども、人型になれたのだと安堵する余裕はなかった。
そこに倒れている男性は、ネアのよく知っている人物だったのだ。
髪を乱し雪の上に倒れたままであるし、目は閉じてしまっている。
けれども、一緒にスケートをしたことだってあるその姿は、見間違えようもない。
「ベージさん?!」
蒼白になってそう叫んだネアの声に、雪の上に投げ出されたままの手が、微かに動いたような気がした。




