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あわいの旅と雪白の館 1




その日、リーエンベルクは朝からそわそわとした空気に包まれていた。



本来ならエーダリアにとっての忌み日にあたる今日は、もっと陰鬱な気分に包まれていてもいいのだが、あわいの小旅行に出かけると知っているウィーム領主はすっかりご機嫌でうろうろしている。



あわいの列車で小旅行に出かけると告げられ、スプーンを取り落とした昨晩から続く、出発が待てずに歩き回ってしまう喜びように、ヒルドとノアは顔を見合わせて微笑んでいた。


ネア達が不在にする間このリーエンベルクを守るのはダリルで、今回のエーダリアのお誕生日会の代案小旅行は、残念ながらグラストとゼノーシュは欠席である。


そこが忌み日の難しさで、業務を誰かに代わって貰って同行するという特別さが、魔術的な誓約に引っかかってしまう恐れがあったのだ。

エーダリアやヒルドを連れだす為にあれこれと苦心したノアも、自分の領域ではないグラストとゼノーシュを一緒に連れ出すことまでは難しかったらしい。


ネア達はと言えば、元々薬作りの仕事はどのようにでも早められる。


日付が変わったところでむくりと起き出し、本日分の薬を手早く作ってしまい夜明けに納品すれば、今日は一日自由時間なのだった。


つまり、同行しても何ら不思議はないのである。



(ダリルさんやグラストさん、騎士さん達とは、後日慰労会という無難な感じの名目でのお祝い代用日があるみたいだから、その時に贈り物を貰うのかな……………)



それは、忌み日のある年用のお祝いのようなのもので、ウィームには十年に一度、領民の代表者も含めて集まる、領主の慰労会がある。


殆ど誕生日会の代理日なのだが、これについては、ダリルが入念に魔術の道筋や影響を計算して配置したもので、予め定められた領内の行事として運用するのだとか。


現在より遥かに守り手が少なかったかつてのウィームでは、この誕生日の代理日での祝福も欠かせないものだったのだ。



「今年は、ウィリアムさんはご一緒ではないのですね」

「うん。南方の島で、大規模な疫病の広がりがあったらしい。今日明日はそちらにかかりきりのようだね」

「お忙しそうなので、ランチョンマットを使ってくれるといいのですが……………」

「使うのではないかな。この前、スープを飲んだら疲れが消えたと驚いていたよ」

「ふふ。アレクシスさんのスープは無敵ですものね!」



あわいの駅に出れば、そこからは初めてではない穴熊達によるわっしょい運びだ。


今年はもうヒルドも剣を抜こうとはせずにいてくれて、どこか達観の面持ちで穴熊たちに運ばれてゆく。


ネアは、ホームで本日の売り子さんを探したのだが、よりにもよって本日の取り扱いが酒類だけだったのでしょんぼりと諦める。

何やら珍しいお酒が並んでいるようだったが、さすがにへべれけで小旅行をする危険は冒せない。



今日の隠された命題は、エーダリアのお誕生日なのだ。



「そう言えば、今回は一泊なのですよね?宿泊先は、ノアの別宅だと聞いたのですが………」

「うん。小さくて驚くかもだけど、僕の自慢の家だよ。しんどい時に籠ることが多かった場所だけど、いつか、家族や友達が出来たらそこにも呼ぼうと思ってたんだよね。………でもさ、もうリーエンベルクが僕の家って感じだけど」



そう教えてくれたノアは、僅かに青紫色の瞳を揺らして微笑んだ。

だからネアも、そんなノアにぴたりと寄り添い、同じ気持ちであると告げてみる。



「うん。何しろ僕達は兄妹だからね」

「ふふ。いつかノアが弟になってもいいのですよ?」

「わーお。まだ狙ってるぞ………」



その小さな家のあるあわいの駅に向けて、バンアーレンのアルテアの屋敷を中継地として向かうのが、今回の行程となる。


朝一番の列車に乗るので、途中駅で下車したりしながらのんびりと向かい、最大二本までは列車を見送っても構わないらしい。

宿泊する駅にも秘密があるらしいが、それは到着するまでの秘密なのだとか。



今回乗る列車は、前回のものとは目的地が違うので車体の色は上品な紫色だ。


単線の駅舎なのでそれぞれの列車の停車時間が充分に計算されているのかなと思ったところ、魔術併設があるので列車の到着が重なっても問題はないらしい。

ただしその場合は、併設された駅舎に到着したお客が迷子になりやすいという弊害もあるのだそうだ。


二両編成の後ろ側に乗ったからか、貸し切り状態の車両のふかふかの座席に座れば、期待のあまり鳶色の瞳をきらきらさせているエーダリアと同じように、ネアも興奮にはぁはぁしてしまう。


慌てた魔物がさっと膝の上に三つ編みを献上してくれたので、それをにぎにぎしながら発車のベルを待った。


やがて、ジリリとベルが鳴り、がこんがこんと列車が動き始める。


二両目の車両には先頭車両が後続車両を引っ張るがっこんという振動があるのがご愛敬で、山間部を走る際には後ろから車両を押し上げる車体を停車駅で連結するらしい。



かくして、エーダリアのお誕生日忌み日なんか吹き飛ばせな小旅行は幕を開けた。



さっそく前回とはコースが違うものか、暗いトンネルの壁一面に光る花が咲いている素晴らしい景観に出会い、目を丸くしたネアは、椅子の上で小さく弾んでしまう。



「ふぁ、とっても綺麗な洞窟ですね………」

「可愛い、弾んでる……………」

「これは、青銅苔の花ではないのか……………?」

「まぁ、エーダリア様が早くも窓に齧り付きです」

「エーダリア様……………」

「うん、青銅苔の花だね。時々混ざる赤い花が、地底林檎の芽が咲かせた花だと思うよ」

「ち、地底林檎……………!」



エーダリアは既にもう途中下車をしたいという顔になってしまっていたが、残念ながらここは途中駅でもなくただのトンネルの中なのだ。

無情にも青銅苔や地底林檎の花は遠ざかっていってしまい、徐々に速度を上げてゆく列車はやがてトンネルを抜けた。




「まぁ!」


トンネルを抜けた先に広がっていたのは、白樺に似た木の生い茂る深い森だった。


見事な紅葉の鮮やかさと、敷き詰められた落ち葉の美しさにネアは目を瞠り、エーダリアはなぜか呆然としたまま無言になってしまう。



「これは、黎明白樺ではないのだろうか……………」

「ありゃ、凄く凝視してるけれど、そうだと思うよ。奥に茂っているのが鉱山楓だね。この土地のものは紫水晶が入り込んでいるのかな…………。おっと、少しだけ金鉱脈も入り込んでいるみたいだぞ…………」

「金鉱脈様?!」

「ネア、落ち着いて。窓からは出られないし、鉱山楓は枯れると吸い上げた鉱山の資質も抜け落ちてしまうから持ち帰れないからね」

「ふぎゅう……………私の金鉱脈が…………」

「エーダリア、次の駅は停車時間があるみたいだから、降りてみるかい?」

「ああ。降りよう」

「わーお、早くも立ち上がったぞ…………」



エーダリアはもう謎にきりりとしてしまっているし、ネアはネアで、森になっているのだからきっといい獲物がいるに違いないと仄暗い微笑みを浮かべているので、列車の中は俄かに慌ただしくなった。


やがて列車はゆっくりと森の中の駅舎に停まり、魔術師らしい素早さでしゃっと扉を抜けたエーダリアを先頭に、ネア達は美しい秋の森に降り立つ。


駅舎は、壁のない屋根だけの造りになっていて、綺麗な緑色の屋根が森の景色に素晴らしく似合う。

絵本の中に出てきそうな駅舎に、ネアは堪らず足踏みした。



しゃわりと、髪を揺らす柔らかな風が吹いた。

思っている程に寒くはなかったが、頬に触れる風は少しだけひんやりとしている。


そして、森特有の木々の匂いが、ウィームよりも力強いような気がした。



「こうして列車を降りると、木々の枝葉が天蓋のようになっていて気持ちがいいですね。一足先に、秋いっぱいの気持ちになります」

「おっと。実はこれ、秋の系譜の色じゃないんだよね。黎明と鉱山の色なんだ」

「なぬ。紅葉ではなく、元々の色なのですか?」

「うん。黎明の系譜は、青系統と赤から金色の系統で色が分かれるからね。落ち葉が多いのは、鉱山の毒素を排出する為に葉の入れ替わりが早いからなんだよ。ヴェルクレアの近くにこういう森は少ないけれど、迷い込んだ際に、季節の系譜なのか属性の系譜なのかを判断するのが難しいから、よく遭難者が出るんだ。こんな森もあるって覚えておくといいよ」



ここは決して安全なばかりの森ではないからこそ、あわいの駅になっているのだろうと、ノアはその成り立ちまで教えてくれる。


美しく穏やかな森に思えても、どこまでも続く深い森で迷った時には、その森で夜を明かす為に使う魔術が遭難者の命取りにもなるのだと知り、ネアは新しい思いで色付いた白樺の森を見回した。


例えば、この森では、季節の属性を持つ方位盤は狂ってしまうし、宝石を使った転移門も使えなくなる。

迷った森で夜を越そうと、その系譜や資質を知らずに安易に落ち葉を燃やせば、毒の煙で倒れてしまう事もあるのだ。



(知れば知るほど、この世界には色々な場所があるのだわ……………)




エーダリアは、今日の為に昨晩大慌てで用意した泉結晶の小箱を取り出し、綺麗な落ち葉を何枚か採取している。


ネアは、白樺の木の幹に生えた肉厚なキノコをじーっと見ていたところ、慌てたディノから食べられないものだと注意されてしまった。



「奥の、鉱山楓の落ち葉も採取出来るだろうか。…………ヒルド、走って奥まで行っても構わないか?」

「エーダリア様?!」



断りは入れたものの既に夢中なので、エーダリアは、言うなりいきなり走り出してしまい、ヒルドを動揺させたようだ。


走るエーダリアをヒルドとノアが追いかけてゆき、とは言え無事に鉱山楓の落ち葉も手に入れられたらしい。



「そして私は、不思議な鉱石のお花を見付けたので、環境への配慮も、控えめの美学もなく、欲望のままにお持ち帰りします」

「ご主人様……………」



ネアの見付けた鉱石の花は、降り積もった黎明白樺の葉が腐葉土になり、そこから育ったものであるらしい。


毒消しの祝福などがあるそうなので、ネアは鋭い目で周囲を見回し、更に三輪の花を見付けて手に入れた。



そこに、見た目より体力のあるチームが息を切らす事なく走って戻ってくる。



「エーダリア様が、早くも大満足のお顔になっています……………」

「ああ。鉱山楓を見るのは初めてではないのだが、この土地の木々は見たことがない程に大きいのだ。それに加えて、見事な小枝が落ちていてな。ヒルドが見付けてくれたのだ」

「やっぱりヒルドは、そういうものを見付けるのが早いよね……………って、僕の妹は何を採取したのかな?!」

「………む。こちらは、鉱石のお花です。五つも採取したので、エーダリア様にも一輪差し上げますね。毒消しにいいそうですよ」



ネアが収穫用の手籠に入れていたものを渡せば、エーダリアは無言でこくりと頷いた。

受け取る手がふるふるしているので、とても喜んでくれているようだ。


ノア曰く、これは物語に出てくる秘宝のようなものであるらしい。


どのようなものかを指定せず、煎じて飲めば全ての毒を一度だけ無効化する。

祝福の粋としてある種の奇跡に近しいものだが、鉱石の花を煎じて飲むという技に、若干の難易度が付随するようだ。



(……………粉がざらざらして、喉が痛くなりそう………)




駅舎に戻って列車に乗り込めば、ネア達は、一駅目にして、すっかり質のいい冒険をしてきたような気分で座席に腰を下ろした。


エーダリアが、座るなり収穫物の収納に真剣に取り掛かったのは、再び列車が走り始めれば、車窓からの景色を一つも見逃せないと焦っているからだ。

動き出す前にきちんと仕舞ってしまい、また窓に齧り付くつもりなのだろう。


荷物の管理が大雑把なネアの仕分けはとても簡単で、籠から出した鉱石の花を腕輪の金庫の棚に移し、次なる収穫に備えて籠を空っぽにしておくだけだ。


なお、その際に狩ったものの売り忘れていたカワセミを見付けてしまい、苦い思いでアクス商会に品物を卸しにゆく日程を思案する。



この白樺の森の駅での停車時間が長めなのは、森での遭難者が列車を見付けて走ってきても間に合うように設定されているのだとか。


そんな裏話も教えて貰い、ネアはまた暫く、動き出した列車の窓の向こうに流れてゆく美しい森を眺めた。



ごとんごとんと心地よい振動があり、車内の温度も森の散策で火照った肌に丁度いいものだ。

森の中を横切る小川があったり、遠くに木々の間から見える湖があったりと、森の情景には飽きることがない。



しかし、小さな石造りの橋を渡ると風景が一変した。



「むむ!大きな湖が現れました。水車のある小さなお家が沢山並んでいて、なんて可愛らしいのでしょう!」

「おや、ここはアイリスの妖精達の集落のようだね。沢山のアイリスが咲いているだろう?」

「ええ。鮮やかなお花の色が、ここから見てもとっても綺麗です」

「アイリスは、中堅どころのシーの系譜が滅びたばかりで、まだ幼い妖精達がこのアイリスのあわいに移住したらしいよ。人型に育つまでは変な形なんだよね……………」



ノアの言葉に目を凝らして窓の外を見ていると、もにゃんとした不思議な生き物達が井戸端会議をしている姿が見えた。


ネアも何と言えばいいのか分からないが、形状としては草臥れた手袋である。

そんな奇妙な生き物達がちょこまかしている様子に呆然としている間に、そのアイリスの妖精たちの集落も通り過ぎてゆく。



湖や渓流などの土地を暫く走り現れた次の土地は、見たこともない斜めに生える木が並んだ奇妙な土地で、ずしんずしんと音を立てて、武骨な丸太を組み合わせただけの木馬のようなものが行き交っている。


ネア達が困惑に顔を見合わせる中、列車はゆっくりと駅舎に停まり、開いた扉からもわもわとした棒状のぬいぐるみのようなものがとてとてと入って来た。


首も肩もないはずの直線ボディにどのような魔術が働いているものか、品物を乗せた籠を革紐で斜め掛けにしている。


息を飲んでその動きを見守っているネア達の前にちょこちょこ歩いてくると、ぴょこんとお辞儀をして、籠の中に入った商品を見せてくれた。



「まぁ、硝子玉のような綺麗なものですね。内側が、マーブル色の液体が入っているようにゆらゆらしています」

「……………これ、複数属性の祝福の雫だ。氷結晶の容器に入れて栓をしてあるのかな?」



魔物達の目線でも珍しいものなのか、ノアがそう呟けば、エーダリアはおもむろにお財布を取り出した。

鳶色の瞳はとても真剣だが、そんなエーダリアより購入意欲を示した人物がいた。



「全部買うよ」

「…………っ?!ノアベルト?!」

「とりあえず、僕が全部買うからさ、後で欲しいものを持っていっていいよ。これは出物だから一個も逃せないよね」

「むむむ、ディノ、これは綺麗なだけでなく、そんなに凄いものなのですか?」

「見た限り植物の系譜のもののようだけれど、祝福の雫は、どのような系譜のものであれ抽出だけでも時間のかかるものなんだ。複数属性の雫となると、かなり貴重なのではないかな」

「まぁ…………」

「つまりさ、本来なら組み合わせの出来ない魔術を、一つの術式で展開出来るようになるんだ。複雑な術式程、この祝福の雫の一滴が生きてくるんだよね」

「一滴で効果があるのですね………」



そう呟いたネアは、いきなり商品が全部売れてしまい、嬉しそうに祝福の雫を布袋に入れてくれているぬいぐるみ棒の籠の中を凝視した。


一滴で有用だと言うが、一つの硝子玉が人差し指と親指で作る輪っかくらいの大きさなので、一つだけでもかなり使えそうではないか。

それが、少なくとも二十個はある。


となると、買い占めた総量で言えば、どれだけ使い出があるのだろう。

一方で、ノアは籠ごとどかんと買ってしまったが、お値段もかなり張るに違いない。



「……………え、それでいいのかい?」



しかし、お支払いになると、更なる驚きが待っていた。


どうやらこの祝福の雫の代金は、ノアの想定してた金額の十分の一程の値段だったようなのだ。



「え、嘘でしょ?!この駅で降りて、あるだけ買い占めるんだけど!!」



ノアですらそんな風に荒ぶるのだから、エーダリアはもう、取り出したお財布を握り締めたまま無言でわななくばかりだ。


しかしここで、無情にも発車のベルが鳴ってしまい、ぬいぐるみ棒はぺこりとお辞儀をすると、スケート靴でも履いているのかなという素早さで列車を降りていってしまった。


あっと叫んだノアがそちらに向かって手を伸ばしたまま、悲しく扉が閉まる。



「…………ありゃ。もっと早く値段を聞けばよかった」

「帰りにもう一度寄ればいいでしょう。見たところ居住区ですから、客が来れば売りに来るのでは?」

「ヒルド………。…………うん。そうだよね。………はぁ。こんなに質が良くて複数属性だよ?この値段はありえないよね。……………一桁間違ってるのかなと思ったけれど、籠にも値札がかかっていたしね…………」



遠ざかってゆく木馬と斜めの木の駅を悲しく見つめる義兄の横顔を見ながら、ネアは、先程のぬいぐるみ棒は木馬とどのような関係なのかが気になって仕方なかった。


種族的にも素材が違い過ぎるし、そもそもあの木馬が住人なのかどうかも怪しい。


木馬が見えなくなるとやっと落ち着いたので、巨大な丸太木馬が動き回る様子は、少しばかり心臓にも悪かったようだ。

ほうっと溜め息を吐くと、隣に座ったディノが気遣わし気にこちらを見る。



「食べ物を売っている駅がないけれど、お腹は空いていないかい?」

「確かに、今回は素材ものが続いていますね。ですが、次の次の駅は美味しそうな駅名なので、密かに期待しているんですよ」

「かりかりじゅわじゅわ駅……………」

「はい。これはもう、何か、かりかりで、じゅわっとじゅーしーなものが食べられる駅に違いありません!今度こそは私のお財布が唸りますよ!!」



しかし、そんなネアの期待も虚しく、その駅には美味しいものの気配は微塵もなかった。



地平線まで続く焼け爛れた地面に、じゅわじゅわとお湯が沸いているだけの温泉地だったのだ。


温泉はとても素敵なものだが、景観としてはあまりにも荒廃していると言わざるをえないし、温泉に無表情で浸かっている葉っぱ生物の群れがとても気になる。


心を無にしなければ浸かれない程にお湯が熱いのか、それとも葉っぱ達は元々そのような顔なのか考えている内に、列車の扉が閉まった。



「今回の列車は、下車の意思を見せなくても、停車すると扉が開くのだな」

「扉が開かない駅もあるので、どのような線引きなのか不思議ですね」

「……………今の駅は開かなくても良かったかな」

「……………ふぁい。そして、次はもももけの駅と書かれていますね。もももけが何なのかさっぱり分かりませんが、ディノは知っていますか?」

「もももけ…………?」



ネアに尋ねられたディノも、もももけが何なのか知らないようで、首を傾げてしまう。

残酷な伴侶に、もう一度駅名を言って欲しいと言われて困惑しているが、ネアは、ディノがたどたどしく呟くその語感がすっかり気に入ってしまった。



「次こそ、可愛いか美味しいかのどちらかを期待します!」

「心当たりのある響きがないんだよなぁ…………。何だろうそこ」

「最後の一文字が古代用語なのが気になるのだが、遺跡か何かではないだろうか?」

「なぬ。遺跡では美味しいものがないのでは………」

「駅があるということは、魔術的な場としては確立されているようですね」



ヒルドもそう首を捻っているが、ネア達が呑気に次の駅予想をしているのも、列車が荒野の中を走っているからだった。


正直なところ、この辺りはさしたる見どころはない。


しかし、やがてぽつぽつと植物の姿などが見え始めると、エーダリアはさっと窓の方に体を向けた。

ネアも見惚れてしまったヒースに似た植物が生い茂る荒野を抜ければ、列車はトンネルに入る。




「ぎゃ!」



トンネルに入ってすぐ、ネアは窓いっぱいに広がった巨大毛玉と目が合ってしまい、慌ててディノにへばりついた。


列車よりも遥かに大きく、どこか荘厳な気配を纏う灰色の毛玉の前を、列車はなぜか徐行運転で通り過ぎてゆく。



「これは、古い水晶の精霊だろうか………」

「洞窟水晶の精霊だろうね。穏やかで物知りの精霊だけれど、高温多湿の洞窟にしか生息していないから、人間は生身で遭遇するのは難しいんじゃないかな」

「珍しい精霊さんなので、ゆっくり運転になったのですね。最初は驚きましたが、慣れてくるとけばけばが結晶化している毛並みが宝石のようで、とても綺麗な生き物でした」

「水晶の精霊なんて…………」

「なぬ。なぜに荒ぶり出したのだ…………」



そんな洞窟水晶の精霊が列車を凝視しているのは、中に乗った驚きの白さの魔物に釘付けだからのようだ。

小さな目を真ん丸にして呆然としているのだと、その表情を見ている内に読み取れるようになった。


列車は、洞窟水晶の精霊の周囲をゆっくりと半円で回り、あちこちに大きな水晶の結晶が出来ている洞窟を抜けた。




トンネルを抜けると、列車は海辺に出た。




(わ……………、綺麗……………)



どこまでも続く曇り空の下に穏やかに寄せては返すのは、はっとする程に淡く澄んだ色彩の海だ。

ネアは、大好きだったモナの古い海辺の景色を思い出して息を飲む。



「…………美しい場所ですね。胸の奥がすんとするような優しさでいっぱいになります」


そう呟いたネアの隣で、エーダリアは美しい海を無言で見つめていた。

そこに滲む静かな歓喜と憧れに、ノアとヒルドが顔を見合わせる。



「……………次の駅で少し降りてみましょうか。最初の駅では森も見たのですから、海辺を歩くのも良いでしょう」

「はい。私もこの駅は降りてみたいです。砂浜での収穫には自信がありますよ!」

「ご主人様……………」

「……………ああ。このような色の海は、初めて見た。ヴェルリアの海は紺碧に近い色の事が多く、兄上の持つ島の海は、水色から緑がかった鮮やかな青色だからな」

「………不思議な色ですね。透明な透明な、瑠璃色のインクを澄んだ水に混ぜたようです。深く鮮やかな青なのに、こんなにも澄んでいるなんて。少しだけ色相が違いますが、ディノの瞳の色にも似ていますね」

「……………ずるい」

「なぞめいた反応が……………」



扉が開くと、そこには白く塗られた塗料が掠れたようになっている簡素な駅舎があった。

大きく捻れたオリーブの木が生えていて、そこに寄り添うように佇む古い建物だ。


ホームは白みがかった砂色の煉瓦造りで、風で吹き込んだらしい砂がかかり、小さな檸檬色の巻貝が落ちている。



ざざんと、穏やかな波音が聞こえてきて、ネアはゆるゆると柔らかくなってゆく心に、微笑んでディノを見上げる。



「穏やかで優しい場所ですね。イヴさんのお家を思い出しました」

「あの場所によく似ているね。けれど、敷かれた魔術から見ると、ここはまるで違う国の海辺のようだ」

「砂浜に咲いている淡いピンク色の朝顔のような花は、初めて見ました。内側がほんの少し檸檬色なのがとても可愛いです」

「…………追憶の系譜の花だよ。沢山摘んでしまうと、心が脆くなるから注意した方がいいね」

「むむ、心が脆くなったら困るので、眺めるだけにしますね」



さくさくと砂を踏み、エーダリアは、上着の裾をはたはたと風に揺らしながら、魅せられたように曇天の下の海を眺めていた。



隣に立ったヒルドがこの場所を気に入ったのか聞けば、エーダリアは無言で、けれどもしっかりと頷いている。


小さく笑ったノアが、それならまた来ようよと話しかければ、鳶色の瞳を無防備に瞠って頷いた。



「…………この風景だけでも、今日という一日は素晴らしい日だと心から言える。………ああ。是非にまたここに共に来てくれ」

「ええ。あなたがそのように願う場所は、これからは増えるばかりでしょう」

「……………お前にも、そのような場所が増えただろうか?」

「おや、私はリーエンベルクで暮らす日々だけでも、充分に。ですが、まだその安寧と喜びを得たばかりですので、これからも多くのものを増やしてゆかなければなりませんね」

「僕と、ネアとシルもこれからだから、みんなで少しずつ増やしていけばいいんじゃないかな。ほら、欲張ると受け止めきれないで溢れそうだからね」

「であれば、あなたは少しボールを控えた方が良さそうですね」

「ありゃ。エーダリア、ヒルドが虐めるんだけど……………」

「ノアベルト……………」



そんな、ネア達もにこにこしてしまう優しい会話をしているエーダリア達の後ろで、ネアは手を伸ばすと、えいっとディノの腕を掴んだ。


ご主人様からの突然の攻撃にふうっと倒れそうになったディノだったが、ざざんと波が来ると、澄明な水紺の瞳を呆然と瞠る。




「……………そういえば、ここは、もももけ駅なのでした」



美しい景色にすっかり失念していたが、特殊な駅名には、何らかの意味があった筈なのだ。


静かな声でそう呟いたネアに、エーダリアもこくりと頷く。



そこには、どこから流れ着いたものか、ふさふさとした見事な毛皮の巨大な桃が波に揺れていた。



どうやらそれが、駅名の由来であるらしい。







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